ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
『――JAPAN!』
そのアナウンスで、白いナショナルジャージに着替えた私達は横一線で手を繋ぎ、同時に表彰台の最も高い場所に足をかけた。向かって右側の一段低い場所にはソビエト代表が。そして私達の左側のやはり一段低い場所には、カナダ代表とフランス代表がずらっと勢ぞろいしている。1位から3位までの4か国の選手達が横一列に並ぶ表彰台だ。とんでもなく横に長い表彰台になっている。
右を向けば、一足早くソビエト代表として表彰台に上がっている、テレシコワとフルシチョワが、試合中とは打って変わって笑顔で私達を迎えてくれている。左側にはナディアやクリスティン、ジョディ達がやはり笑顔で私達が最も高い場所に登るのを待ってくれていた。
最も高い場所と言っても、隣との高さに1mも2mも違いがあるわけでは無い。せいぜい数十cmといったところだ。下手をすれば、いや、下手をしなくも、一段低い場所に立つテレシコワやジョディの方が、私の目線より高い位置にあったりもする。
それでも、それでもだ。この場所から見る景色は、今日一の景色と断言できる。
……やったよ、皆。私、とうとう、団体戦の表彰台で一番高い場所に立てたよ。うん、個人戦ではこの場所に立った経験はあったけれど、いつも一人だった。当たり前よね。
でも、団体戦なら別。この場に立つために共に戦った仲間達がいて、こうして今、一番高い場所に共に立っていられる。本当は皆と一緒にこの場所に立ちたかったけれど、今私の隣にいる仲間も皆に負けないぐらい最高でしょ?
もう会う事は出来ない、少なくとも一緒に戦う事は出来ないかつての仲間達の事を思い天井を見上げていると、私の感傷を吹き飛ばすような会話が漏れ聞こえてくる。
「ちょっと、藤堂さんっ! 押さないで下さいませ! 落ちるではありませんかっ!」
「お前が場所を取りすぎているんだよっ! だいたいお前は前に出過ぎだっ!」
「私が主役なのですから、前に出るのは当然ではありませんかっ!」
「誰が主役だ、誰がっ!?」
……。全く、こんな場所でもやりあっているよ。しょうがない奴らね。既に整然と並んでいるソビエトやカナダ、フランスの選手達がびっくりした顔でこっちを見ているというのに。日本の恥ね。よくこんなメンバーで金メダルが獲れたものだわ。
「ちょっと藤堂。それに、本阿弥。周りがびっくりしているし、これ、世界に生放送で配信中だからね。ほら、高辺。あなたも遠慮してそんな端っこに立ってないの。落ちちゃうわよ」
「で、でも、私1回戦しか出場していない上に、負けちゃってるから、端っこで良いですよ……」
「駄目よ、あなたもちゃんと胸を張りなさい。ほら、こっちに来て。本阿弥、少し右に寄って」
おっ、頼れる姉さんの山口が皆を仕切り始めた。ふむ、会場内の空調は効いているけど、狭い場所に皆が密集したせいか、少しばかり暑くなってきた。早くメダルの贈呈式が始まらないかな。今は、私達の隣で、メダルを手渡してくれるらしいよく分からない偉い人の紹介が行われている。式が始まるまでもう少し時間がかかりそうだ。
やばい、ちょっと汗ばんできた。このナショナルジャージ、ベースとなる白地に赤の流水文がワンポイントで組み込まれていてデザインは悪くないけど、通気性が良くないんだよな。うん、一枚脱いじゃうか。脱いじゃって腰に撒いておいたら良いだろう。
そう考えた私が、いそいそとジャージのチャックを下げて上着を脱ごうとし始めると、右隣の三上が「何してるの、桐生さんっ!?」と目を向いて大声を上げる。
「いや、ちょっと暑くなってきたから、1枚脱ごうかと思って……」
「脱ごうかって……、ちょっと、桐生さん、さすがに舐め猫Tでメダルを受けちゃ駄目だって! あ、何か落ちたよ、桐生さんっ!」
「あ、ごめんなさい。お腹が空いた時のためにポッケに大福を入れてたんだった」
「大福持って金メダルの授与を受ける人なんて、いないからっ!」
私が三上とそんなやり取りをしていると(上着は頑として脱がさせてくれなかった上に、大福はスタッフの人が回収してしまった……)、左の方から呆れたような声が聞こえてくる。
「……全く、日本の恥ですわね、あの赤毛猿は」
「お前と話が合う事は滅多に無いけど、そこだけは同意するよ」
「桐生先輩は、本当に何処に行っても桐生先輩ですね……。尊敬します」
「駄目だよ、高辺。目標にするのなら三上にしておけ。ていうか、三上以外は皆駄目だ。こんな奴らが増えたら監督の胃に今度こそ穴が開くよ」
「「「一緒にしないでくれ(ます/ください)!!」」」
「わっ、重たい。桐生さん、金メダルってこんなに重たいんだ。知らなかった」
私が今しがた首に掛けて貰った金メダルに視線を落としていると、隣の三上が感極まった様子で、そっと話しかけて来た。
「ですね。ね、三上さん、あそこに三上さんのご両親がいますよ。手を振って上げたらどうですか?」
「本当だ。桐生さんのご両親もいるじゃない。ふふふ、桐生さんのお父さん、あんなに大きな旗を振り回してるわね」
三上は、両親のいる観客席に向かって、金メダルを見える様に掲げながら胸の前で控えめに手を振る。私も両親に向かって右手を大きくぶんぶんと振ると、父がそれに応える様に『必勝』と書かれた大きな旗を更に左右に振った。全く、試合中もずっと振っていたでしょうに、後で肩を痛めても知らないんだから。
私が密かにそんな心配をしていると、三上がくすくすくすと含み笑いをして、私に顔を向ける。
「ねえ、桐生さん。私、このチームで最後まで戦えて本当に良かったわ。藤堂さんに山口さん、桐生さんに本阿弥さんに高辺さん。皆がいたから……、皆だったからここに来れた。もう満足。両親に金メダルを首に掛けた姿を見せる事も出来たし、……私はここから見た景色を一生忘れないわ」
「……もう一度この景色を一緒に見ませんか?」
この大会を最後に柔道選手として引退する事を表明している三上の気持ちは尊重しているものの、私は淡い期待を抱いて確認せずにはいられなかった。この人は、私が世界に出た時からずっと私のフォローをしてくれていた。私と個人戦で対戦する事になった時ですら、私の事を常に気にかけてくれて……。
「……次は、外からこの景色を見せて貰うわ。見せてくれるでしょ、桐生さん?」
駄目か……。でも、それも三上の決断だ。現代に本当の意味で幻の技『山嵐』を復活させた彼女は、もう次のステージに足を踏み入れようとしているんだ。だったら私が出来る事は彼女の背中を押して、彼女の希望に沿ってあげる事だけだ。
「もちろんです。何度でも見せて上げますよ。だから、見ていてくださいね。私の、私達のこれからを。見ないなんて言ったら、引きずってでも連れてきますからね」
「ふふふ、分かってるわ。桐生さんの大好きなお団子をいっぱい持って会場に行くわね」
私達はオリンピックの表彰台の上で互いに顔を見合わせて微笑んだ。どういうわけか、三上の顔の輪郭が少しぼやけて見えた。
「君―がー代―はー」
最も高い位置にセットされた日の丸の国旗がゆっくりと上昇していく様子をじっと見つめながら、私は歌詞を口ずさむ。
「千―代にー八―千―代にー」
観客席、特に日本の応援団からも君が代を歌う声が聞こえてくる。観客席には、私達をここまで導いて指導してくれた監督、コーチ達の姿も。その一角には、柔ちゃんの姿もあった。
私達同様、ゆっくりと上昇していく国旗を見つめながら口ずさむ柔ちゃんの右手には、彼女には似つかわしくないくすんだ緑色のベレー帽が握られている。それを遠目に確認した私は、思わずくすっと笑みを零した。どうやら柔ちゃんは無事虎滋郎さんに会えたようだ。
彼は、つい先ほどまで行われていた決勝戦を、会場隅の柱の陰で松田さんと一緒に観戦していた。
決勝戦の舞台となった試合会場は皆の視線が集中する設計になっている分、逆にその畳の上からは観客席が隅々まで見渡せる。決勝戦の試合の最中、彼の存在に気づいた私は、試合後に柔ちゃんにその事を伝えておいた。
色々複雑に絡み合った猪熊家の呪縛だけど、それを解きほぐすには結局のところ、顔をしっかりつき合わせて話し合うのが一番だ。この表彰式が終われば、どのような話し合いに終わったのか柔ちゃんに確認してみよう。
「さーざーれー石のー」
そうだ、松田さんだ。彼との進展も気になるところだ。昨日の晩、松田さんを通じて柔ちゃんに渡したカセットレコーダーには、先日TV局で彼に逆取材した際のやり取りが録音されていた。ソウルでの戦いが終わってから、柔ちゃんがどう松田さんに接するのかが、本当に気になる。
どういう訳か風祭がいない(何故いない?)今が、二人が急接近する絶好の好機なんだ。差し当たってこの後ホテルで予定されている報道陣を交えた祝勝会で二人の仲が近づくよう、頑張るとしよう。
「巌ーとーなーりてー」
そんでもって、日本に帰ったらまた富士子ちゃんを交えて練習再開だ。4年後なんてあっという間だ。いや、その前に私達には就職活動という大きな転機が控えている。あれ、柔ちゃんは原作通り鶴亀トラベルに入社するのだろうか? 確認してみないと分からないが、お父さんを無事掴まえたのなら、父親探しの目的が大半だった旅行会社に就職する必要は無いはず。
でも、もし原作通り柔ちゃんが鶴亀トラベルに入社するのなら、私も付いて行くか? うーん、ガイドか。出来なくもない……かな。手作りのお菓子を旅行客に振舞って、名所を案内する。うん、それも悪くない。
あるいは、富士子ちゃんのように西海大学に編入すると言う選択肢もある。祐天寺監督に私は悪印象は抱いていないし、高校時代にはわざわざ秋田まで足を運んでスカウトしてくれた。もう柔ちゃんは自分から柔道をやめるなんて言い出しそうも無いし、私達は柔道で繋がっている。ここらでそれぞれの道を歩んでみても良いのかもしれない。
「苔―のーむーすーまーでー」
そうだ、真田だ。真田に相談してみよう。あいつ、スイスに行ったきり何の音沙汰も無いのよね。ちゃんと私の試合見てたのかな? さすがに会場に来いなんて無茶は言わないけれど、どこかで見ている事ぐらいは期待して良いよね? 仮にも私の副キャプテンだよ。……腕時計、壊れたって嘘ついてあいつに会いに行ってみようかな。うーん、嫌がられるかな? そうだ、オリンピックも終わった事だし、手作りのお菓子を持って一度スイスに遊びに行ってみよう。ちょっと遅い夏休みだ。きっと喜んでもらえると思う。
そんなこんなを考えながら国歌を口ずさんでいると、いつの間にか国旗は
こうして、二度と訪れる事のない私の18歳の灼熱の夏は過去へと過ぎ去り、私は更なる猛りを求めて、未来へ続く扉を勢いよく開くのだった。
~~~~1年後~~~~
「山上さん、4分間では決着がつきませんでしたね」
「ええ、互いに技有一つと有効二つを取り合う白熱した戦いでした」
山上が、開始線の上で膝に手を付き息を整えている二人、猪熊柔と桐生茜に視線を投げかけながら応える。
「この大会から、4分間で決着がつかなかった場合は判定ではなく、サドンデスで決着がつく方式に変わりましたが、まさか決勝という舞台でそのサドンデスが行われるとは思いませんでしたね」
「いや、この二人のカードが実現した時から私は十分にあり得る事だと思っていました。なにせ、彼女達が初めて対戦した際も、このサドンデスに突入したと聞いていましたから」
「ああ、確かにそうでしたね。しかし、あの時は何もかかっていない練習試合。今日は、3か月後に迫った世界柔道選手権の無差別級の日本代表選手を決める大会の決勝戦です。両者とも、気合の入りようが違うんじゃないですか? 山上さんはどちらが有利と思われますか?」
その問いに山上は手で顎を撫でて、考える素振りをする。
「そうですね。桐生は準決勝で本阿弥を相手に3分を超える試合をしています。反対に猪熊は準決勝で伊東を相手に開始早々に一本勝ちです。この大会は、試合間隔が短いですから、試合が長引けば長引くほど体力に余裕のある猪熊の方が有利と言えなくも無いですが……」
そこで山上は言葉を切るが、直ぐにふるふると首を振った。
「いや、やはり、それはないですね。というより、思いたくありません。体力うんぬんより、強い方が勝つ。それだけです」
「なるほど。おっ、試合が再開されそうですよ。さあ、日本が世界に誇る
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「――はっ!」
組み合った瞬間、私は柔ちゃんを巴投げに捉える。姉さん仕込みの特別製だ。
「――くっ!」
柔ちゃんが一つ目の巴を堪える。だけど、御存じのとおりこの巴は二度咲く。堪えて動きの止まった所を二つ目の巴が襲う。だが、さすがは天才 猪熊柔。彼女は宙で私の姿勢制御下から抜け出し、背中からではなく腹から畳に着く。
ちっ。やはり手の内を知られているのはやりにくいわね。ソウルオリンピックでこの技を披露してから今日まで、短大の部活動や猪熊邸での稽古で何度も柔ちゃん相手に使っている。
今度は柔ちゃんが先手を取ってくる。小内刈りで足を刈られてできた隙に、柔ちゃんが一本背負いの構えで飛び込んで来た。さっきはこの一本背負いを、捨て身技の横車で返す事で有効を取った。今回も同じように横車を仕掛けるが、さすがに二度はかからなかった。かからなかったが、こちらもポイントは取られていないから、この攻防は互いに痛み分けだ。
このサドンデスは、前世のルールと同じく、たとえ僅かでもポイントを取られれば、その時点で決着がつく。それゆえに、今日サドンデスに突入した他の試合は、リスクを恐れて大技を仕掛ける選手がほとんどいなかった。
だけど、私と柔ちゃんの試合は違う。リスクも何も、私達はしょぼいポイントを拾って優勢勝ちを狙うような試合ではなく、一本を狙う試合をこのサドンデスでも実践しているのだから。
38秒が過ぎた。最初から数えると4分38秒だ。
開始線に戻った私達は、主審の再開の合図で再び組み合う。互いに疲労困憊とは言え、そこは軽量級と軽中量級の戦い。重量級同士の戦いでは見られないような高速の足さばきと手技の応酬。
ドンっと私が腰から柔ちゃんにぶつかる。狙うは浮き腰。腰を相手にぶつけると同時に、釣り手を相手の後ろ帯に廻して腰の回転で投げる講道館柔道 腰技11本の内の一つ。ただ、柔ちゃんは私の引き手を切って、浮き腰の始動から逃れる。
構わない。これで最後まで行ければよかったけれど、それが無理ならこの浮き腰は、次の技に繋げるためだけの繋ぎ技にするつもりだった。強めにぶつかった事で柔ちゃんの体幹が崩れている。ほんの少し柔ちゃんより体重が重いという私の有利な点を活かしたこの攻め口。
次が本命。ばっと身体を翻した私は、柔ちゃんが体勢を戻す前に一足飛びに飛び込む。仕掛けるは、桐生スペシャル。もちろん昨年テレシコワ戦で見せたSPEC2の方だ。先に行った4分間の試合では、この技で私は柔ちゃんから技有を奪っていた。
「――柔さん、来るぞっ! 躱せぇっ!」
試合会場袖から見知った声が届く。だけどもう遅いっ!
私は、柔ちゃんの左腕を吊り上げると同時に、彼女の左足をぐわしっと掴む。
――行くよっ!
柔ちゃん相手に油断などとんでもない話だが、この時私は半ば勝利を確信していた。実際ここまで完璧に捕らえて仕留めきれなかった事は、ソウルオリンピック以降一度も無かったからだ。
「――ふっ!」
「――!」
柔ちゃんの身体越しにはっきりと畳に接触した感触が伝わる。
だが、そんな状態だと言うのに、審判の手は天井を指していなかった。もちろん、『一本』の宣告も無い。代わりに彼が取ったジャスチャーは場外を示すものだった。
場外だってっ!? ハッとした私は両膝をつけたまま足元の畳に視線を投げかける。そこは、赤い線の引かれた畳の外だった。次に目にしたのは、まだ畳の上で横たわる柔ちゃんの双眸。
彼女は何も言っていない。だけど私は悟った。彼女は、私の桐生スペシャルをあえて受けたのだと。もちろん一切のポイントを奪われないよう細心の注意を払って。どうりで、その前段階の浮き腰での攻めが上手く行き過ぎたわけだ。
桐生スペシャルSPEC2はソウルオリンピック以降、何度も稽古や練習試合で柔ちゃん相手に放っている。しかし、公式戦の場で彼女が受けたのは、先の1回のみ。彼女はその違いを理解し、自身に有利な場でもう一度SPEC2を受けようと考えたのだ。もちろん見切るために。
……同じ攻めではもうこの子にSPEC2は通じないかもしれない。それは、私の確信めいた予感だった。昨年私は肩車を克服するのに、テレシコワのそれを3回受けた。つまり柔ちゃんなら、3回以内に克服する事も不可能ではないという事だ。
上手く乗せられた事が悔しかった私は、一足先に立ち上がり、上半身を起こしただけの柔ちゃんにそっと手を差し出す。私達が同じ学校の親しい同級生である事を知っている周囲の人達は、その行為にパチパチと手を叩く。
もちろん柔ちゃんも、先ほどまでの厳しい視線から一転、微かに笑みを浮かべて私の手を取り立ち上がる。そして私は彼女と交錯する間際、一言こう耳元で囁いた。
「松田さんってば、かわいい妹分の応援を差し置いて、彼女の方ばかり応援するのはどうかと思うんだけど」
途端に、疲労でうっすらと赤らんでいた柔ちゃんの頬が、疲労成分以外の要素で更に赤く染まる。直ぐに柔ちゃんは「――茜さんっ!」ときっと鋭い目で私を見返したので、私は下手な口笛を吹きながら、そそくさと彼女から離れる。
意趣返しはした。これ以上は止しておこう。こんなことが彼女のこれからの柔道に影響するとは思えないけれど、万が一影響したとしたら興ざめだ。初めての公式戦での柔ちゃんとの対戦。互いにとって、悔いの無いものにしたい。
私は開始線に戻りながら、会場袖の松田さんに向けてべーと舌を突き出す。彼は、何故私がそんな事をしたのか分からないようで、ポカーンとしたままだ。もういい。あの朴念仁の教育は柔ちゃんに任せた。
そして私達は試合を再開した。
「桐生さん、猪熊さん頑張ってっ!」
今の声は富士子ちゃんね。さすがは富士子ちゃん。松田のように自分の恋人だけを応援するような薄情者では無い。ちゃんと私達二人を応援してくれる富士子ちゃんの声が耳に届く中、私達の技の応酬は続く。
柔ちゃんの背負い投げ、いや、そうと見せかけた小内刈りを躱す。事ここに至っても、とんでもない切れ味だ。フェイントの背負い投げ一つとっても、相手が私じゃ無かったら国内は楽に制しているだろうと思えるほどの鋭さ。
私も反撃する。内股から大内刈り、そこから更に内股に戻る”前”、”後”、”前”の3段構え。どれをとっても一本を狙える程の完成度で放っているはずなのに、柔ちゃんは危なげなくそれら全てを躱す。一つのミスが敗北に繋がるサドンデスに突入して、この天才の集中力はなお磨き上げられているかのようだ。
駄目だ。やはりこの子は一筋縄ではいかない。新しい事をしないと勝てない。桐生スペシャルSPEC2は恐らく看破されている。彼女にとっては、公式戦の場であれを2度受ければ十分なのだろう。私は、天才 猪熊柔を誰よりも理解しているがゆえに、それが分かる。よほどタイミングよく、よほど意表をついて攻めない限り、有効程度なら奪えても到底一本は奪えない。
有効なんていらない。あくまで一本を狙う。そこから逆算すると、あれしかない。
私の纏う気配が変化した事に気づいたのか、至近の距離にいる柔ちゃんが私を伺う様に見つめる。その双眸は、受けて立つわ、と言っている。彼女は、こと恋愛に関してはとことん奥手だが、柔道に関しては実に積極的だ。
だから好きなんだが。
行こうっ! サドンデスに突入して1分47秒で私は決心した。
柔ちゃんの踏み出した足を軽く刈る。ぐらり、と彼女の身体が傾く。今だっ!
ぴくっ!
しかし、踏み出しかけた足を私は咄嗟に引っ込める。私が飛び込まなかった事で、柔ちゃんはバレたかと、私にだけ分かる表情(おそらく松田にも分からない。分かってたまるか)で残念がった。
良い表情だ。本気で私を罠にはめて、私に勝とうとしている。あの『YAWARA!』の主人公でありミラクルガールである猪熊柔からこんなにも想われるなんて、震えが来るほど感動する。
見せかけだけで崩れた状態では突っ込まない。仕掛けるのは、間違いなく崩してからだ。勝つためなら、ほんの少しでも勝算を上げてから仕掛ける。それが私だ。
なかなか隙を見出せない。激しく左右に動きながら足を小刻みに飛ばすが、まだ十分ではない。そんな時、互いに仕掛けようとした技が偶然タイミングよく衝突する。前掛かりになっていた私と柔ちゃんの額同士がゴツン、とぶつかった。
ぐらっと柔ちゃんの身体が揺れた瞬間、その衝撃にいち早く立ち直った私が足を飛ばす。
深く決まった。たたらを踏んだ柔ちゃんが大きく腰を引いた。これは罠ではない。
――今だ。
それを千載一遇の好機と判断した私は、残った体力を全てこの一撃で使い果たすつもりで、柔ちゃんを強襲した。
繰り出す技は、もっとも私が習熟していてもっとも信頼しているこの技。
桐生スペシャルSPEC2で勝負っ!
「――はっ!」
「――!?」
腰を引いていた柔ちゃんが驚きの表情で私を迎え撃つ。仕掛けた技に驚いた? 違う、彼女が驚いているのは、私の回転が常とは異なっているためだ。
いつもの反時計回りではない。これは、そう時計回りだ。
釣り手で取っている左腕ではない。引き手で取っている柔ちゃんの右腕を大きく吊り上げる。もちろんこれは、左右反転しているものの間違いなく桐生スペシャルSPEC2だ。私はハリケーンのように高速で回転しながら右手で柔ちゃんの右足を掴みに行く。左右が異なるが、桐生スペシャルSPEC2の精度、速さ、完成度には寸分の違いもない。
これを掴めば、私の勝ちだ!
「――!」
しかし、私の伸ばした右手は空を切る。私が回転するほんの一瞬で、柔ちゃんは軸をずらして足を引いていたのだ。すかされた私は、それでも片手のまま桐生スペシャルを発動させようとする。SPEC2がSPEC1になっただけだっ! 残った体力の全てを投げ打ってきたんだ。今更引き返せるかっ!
しかし、柔ちゃんは私が担いだ腰からするりと逃げた。あまりに自然な所作で逃げられたものだから、一瞬私は頭が混乱する。結局、それこそが天才猪熊柔の柔道センスが具現化したものだったのだろうが、この時の私にはそこまで理解が及ばなかった。
気づいたら、柔ちゃんの背が私の視界いっぱいに広がっていた。まずい、まずい、まずい!
絶対に一本背負いだ。
ほら、一本背負い。
当たった。ちっとも嬉しくないっ!
「――くはっ!」
まるで象さんが下から私を蹴りあげたような衝撃が私を襲う。必死で私はその衝撃に抗おうと、足を延ばして柔ちゃんの足にからめる。このままケンケンしながら場外に逃げる。
それがこの時の私のなりふり構わない脱出方策だったが、天才 猪熊柔はそれを許してくれなかった。
彼女は一本背負いの最中に自身の引き手を私の袖から放し、そのまま引き手を私が彼女の足に食らいついている左足目がけて、打ちつける様にして払った。
「――やあっ!」
「――!」
くさびを失った後は一瞬だった。天地が逆さまになった状態で、人間ってこんなに飛ぶんだ、と考えながら私は綺麗に宙を舞った。
「大丈夫、茜さん?」
「いっつー、うん、大丈夫。ありがとう」
先ほどとは逆。柔ちゃんから差し出された手を握り締めた私は、その手を頼りに起き上がった。既に勝負はついている。後は互いに開始線に戻って礼をするだけだ。だけど、私はどうしても、一刻も早く確認したい事があって、柔ちゃんに尋ねた。
「ねえ、私が左の袖釣り込み腰を使えるって、どうして知ってたの? 一度も見た事ないよね?」
私はこれまで一度も左の袖釣り込み腰を、いや、もっと言えば左で仕掛ける技は一度も、誰に対しても放っていない。公式戦はもちろん練習試合でも、稽古の間でもだ。それは徹底していたから間違いない。
かつて初めて柔ちゃんと対戦した時の事を思い出す。
『右の一本背負いが出来るからと言って、同じレベルで左の一本背負いが出来る選手はまれだ。それは野球選手で言う所のスイッチヒッターが出来るという事と同義と言っても良いだろう。誰も、彼女がそんな事ができるなどと考えもしないはずだ』
なのに、何故。あの動きは私が左で出来ると知っていなければ、到底できない動きだった。しかもそのタイミングは、明らかに私が右で仕掛けた時と同じタイミングで待ち構えていた。柔ちゃんは、私のその問いかけに、何でもないような表情で首を傾げて応えた。
「うーん、見た事は無かったけれど、私、茜さんなら絶対出来るだろうなって前から思っていたから」
――! なんだ、それは。見た事があるわけでもない。かつての私のように知っていたわけでもない。ただ、彼女は“私ならそれができる”と、勝手に思っていたのだ。
どう捉えれば良いんだ、これは。では、私は、柔ちゃんの過剰な私への信頼のために敗れたという事になるのか? 喜んでいいのか、それは? 信じてくれてありがとうって?
では、信じてくれていなければ、私は勝っていたのか? その場合は、私への評価の低さに私は嘆く事になったのか?
分からない。悩みすぎて頭がまた混乱してきた。
「……茜さん? 大丈夫、本当に頭を打ったりしていない?」
柔ちゃんが心配そうに私の目を覗き込む。
はー、もういいや。この先柔ちゃんとは幾度となく戦うんだ。いつか私が柔道を引退する時に、酒でも飲みながら柔ちゃんと語りつくそう。それができるだけの歴史をこれからも紡いでいこう、彼女と一緒に。
「打ってない。大丈夫。それより、世界選手権の無差別級代表、任せたからね。私以外の人に負けたら承知しないから」
私に指摘されるまで彼女はその事実を認識していなかったのか(もしかして、私に勝つ事しか頭に無かったとか言わないよね?)、少しだけ目を泳がせて応えた。
「ええ……、頑張るわ」
少し不安になった私は更に続ける。
「本当に頼むわよ。無条件に団体戦の大将は柔ちゃんなんだから、猪熊JAPANの初出航だよ?」
そうなのだ。昨年のソウルオリンピックでの団体戦の盛り上がりを肌で実感したタマちゃんが、世界柔道選手権でも男女国別団体戦を導入する事を決定していたのだ。
「い、猪熊JAPAN……。いやよ、それは桐生JAPANにしてよ。私じゃ、主将なんて務まらないわよ」
「大丈夫よ。松田さんだって現地で応援してくれるって」
「こ、耕作さんは関係ないでしょっ!?」
「関係大ありでしょうよ。今日だって松田さんの姿をこっそり探していたの知ってるよ」
「あ、茜さんだって、昨日の晩真田さんと随分長電話を――」
「両者、開始線に戻りなさいっ! 私語は慎む様にっ!」
「「はい、ごめんなさいっ!」」
私達の試合を息をつめて見守っていた報道陣、観客席から一転して爆笑の渦が発生する。
そうだった。まだ礼もしていなかった。審判に雷を落とされた私達は、肩を竦めて(茜さんのせいよ)、(柔ちゃんが認めないからよ)と無言の言い合いをしながら開始線に戻って行くのだった。
本エピローグで主人公が敗北しました。主人公を勝たせる事も考えはしたのですが、『知っていたから勝った』と『知らなかったけれど分かっていたから勝った』の描写が個人的に気に入ったのと、二人の最初の練習試合との繋がりも感じられて、この二人の結末(あくまでこの時点です)はこれがベストだなと考えた次第です。
多分この二人の友情がここまで深まっていなかったら、桐生さん自身が想像していたように桐生さんが勝っていた気がします。皆さんの考えを聞かせて貰えると嬉しいです。
後、桐生JAPANになるか、猪熊JAPANになるかも気になるところです。個人的には、キャプテンシーは桐生さんが柔ちゃんより頭二つ以上抜けている(頭のネジはそれ以上に抜けている)と思うので、桐生JAPANになるのかなと思っています。この辺も皆さんのお考えを聞かせて貰えると、望外の幸せです。
もう1話投稿して完結です。おまけのつもりでしたが、ある意味これもエピローグかなと言えるかもしれません。初めての試みもしていますので、ご笑読いただければ幸いです。ではでは。