ちょっと待って! 私の下の階級に猪熊柔がいるんだけど……! 作:怪盗218
~~~~3月某日 桐生家 ~~~~
「茜ー、電話よー。松田さんって言ってらっしゃるわよ」
「はーい」
パタパタパタ。2階の自室でくつろいでいた私は、母さんのその言葉に、1階の廊下に置かれてある受話器の元へ足早に向かう。
「……はい、茜です。本当に電話してくれるとは思いませんでした、松田さん」
「ああ、いや、こんな時間にごめんよ、茜さん」
こんな時間……。腕時計に視線を投げた私は時間を確認する。午後8時26分。まだ常識外れと言われるような時間ではない。そんな事より、この間インタビューを受けた際に自宅の電話番号を伝えていたが、本当に電話してくるとは思わなかった。
「いえいえ、良いんですよ。それより、どうかしたんですか……?」
「ん……いや……」
電話口の松田記者は、言葉を濁す。どうしたんだろう……。来月の12日に猪熊柔が藤堂由貴と試合するというのは、定期購読している日刊エブリ―スポーツの今日の朝刊記事で把握していた。猪熊柔を取り巻く情勢は原作通り進行中、とほくそ笑んでいた私だったが、ここで松田さんが私に連絡を取ってくるなんて……。
もしかして松田さんって、ロリコン? でも、柔ちゃんなら分かるけれど、私に執着するはずもないしな……。ちょっとこちらから水を向けてみようかな。
「もしかして、今日の朝刊の記事について……ですか? 猪熊柔、とうとうこちら側に来るんですよね?」
「――! ……ああ。藤堂由貴、72kg超級の彼女を倒せば、猪熊柔は一躍スターだ」
「なら、良いじゃないですか。松田さんがずっと追いかけていた彼女がスーパースターとして柔道界にさっそうとデビューするのなら、私も大歓迎です。……松田さん? どうかしたんですか?」
この時の松田さんが抱いている悩みを察していた私は、それをおくびにも出さずにそう問いかける。松田さんの悩みは分かっている。
猪熊柔はスーパースターとして華々しく柔道界にデビューするどころか、この試合でいきなり負けようと、つまり引退しようとしているのだ。負けて、普通の人間に戻りたい、と言う希望の通りに。
そして、マスコミの一人としてではなく、彼女の内面に惹かれ始めている松田さんは、内心の葛藤を隠してその彼女の決意を後押ししようとしている。
そう、誰も知らないことだが、来月12日に行われる藤堂由貴と猪熊柔の試合は、猪熊柔と松田耕作が共謀した八百長だ。……負けるための。
……つらいよね、松田さん。せっかくスーパースターになれる素質を持った少女に出会ったのに、それを隠蔽するような企てに協力せざるを得ないなんて……。これがただの記者なら猪熊柔を懐柔するか、騙すなりして逆にスーパースターとして押し上げるだろう。
だが、松田耕作は違う。彼は確かに自身の夢を猪熊柔に託している。だけど、同時に彼は、猪熊柔の意思を無視して自身の夢を押し付けるという事が出来ない。そのような身勝手な人間ではないのだ。だから彼は、自身の優しさゆえに、今苦しんでいる。
……でも、大丈夫だよ、松田さん。原作では、猪熊柔はこの試合中に急に会場に現れた母親に驚き、負けるはずだった藤堂由貴に一本勝ちするんだから。猪熊柔伝説はここで終わらない。いや、むしろ伝説はここから始まったとすら言える。
……そんな事、今の松田さんに言えるはずもないけれど、ね。
「桐生さん……。君は、柔道を心の底から好きだよね。それは、君のこれまでの柔道への取り組み方を見ていれば分かる。……教えてくれないだろうか? 君は柔道のどこにそれほど惹きつけられているのか」
その松田さんからの問いかけに、私は察した。松田さん、あれほど柔道の才能に恵まれた柔ちゃんが、その柔道を好きでない事が理解できないんだろうな。柔ちゃんの柔道に対する思いは、お父さんの事とかがあって複雑に屈折しているからなぁ。そりゃあ、一筋縄ではいかないよね。
そんな事を考えていると、一つ私に名案が浮かんだ。いや、だけど、それをしても良いものか? このまま放っておいても、彼女が柔道の世界に足を踏み入れるのは間違いないんだ。私が余計な事をする必要は無いはずだ。
「私が柔道に惹きつけられてる理由ですか? それは、自分より大きな相手を投げ飛ばしたり、強い相手と戦う事がこの上なく楽しいから、ですよ。それがどうかしましたか……?」
私のその答えが松田さんの求めていたものかどうか分からないけれど、松田さんは「そうか……。ごめんね、こんな事で電話してしまって。どうか許してほしい」と告げた後、電話を切った。
~~~~3月24日 終業式~~~~
終業式の日、通勤・通学ラッシュのサラリーマンと学生に押されながら秋田駅の改札口を出た私は、学校に続く大通りを一人俯き加減に歩いていた。私の周囲を歩く生徒達は、明日からの春休みの過ごし方を友人と楽しそうに口にしているが、私はそんな彼らの輪の中に入る事無く、1人思考に耽っていた。
3日前の、松田さんからの電話が私の頭の中でずっと引っかかっている。松田さんは悩んでいた。このままでいいのか、と。大丈夫、4月12日になれば全部解決するから、と言うのは易しい。でも、言えない。それは言えない。
猪熊柔伝説は、まだ終わっていない。いや、始まってもいないし、それは4月12日から始まるのだ。何もしなくていい。何もしない事が正解のはず……。それが正解のはずなのに、私は何故か胃に重い鉛を飲み込んだように、気が晴れない。
だって、だったら私はどうしてこの世界にいるの? 私の存在意義は? 私は、猪熊柔と松田耕作の甘酸っぱい恋模様を近くで見ていたい。それは心の底からの私の願いだ。でも、それだけで良いの? 結果がどうなるか分からないけれど、私は、私の思いのままやってみたらいけないのかな?
「おい……」
猪熊柔を倒してみたいのではなかったの? 猪熊柔だけじゃない。ジョディーやテレシコワとも戦うと決めたんじゃなかったの? せっかくの機会を生かさずここで躊躇しているようでは、この先世界の強敵と戦う資格は無いのではないの?
「おい……」
一時は彼女達と戦う事を決意していたはずなのに、いざ猪熊柔と接触できる機会を得た途端、尻込みをしている私。ダサいな、私。
「おいっ、桐生茜!!」
「――! は、はいっ! ……? って、真田じゃない。何よ、いきなり大声を出して? びっくりするじゃない」
1人思考に耽っていた私は、突然私の名を耳元で叫んだ同級生であり柔道部の頼れる副キャプテンでもある真田に、不満の声を上げる。いつからいたのか、気が付いたら真田は私の隣に立っていた。周囲を歩く学生達が、道の真ん中で立ち止まった私達に遠巻きに視線を投げかけながら、通り過ぎていく。
「いきなりじゃない。ずっと前からお前に声をかけていた。お前が気付かなかっただけだ」
そう言ってトレードマークの眼鏡をくいっと跳ね上げる真田。
「そう……? ごめん、ごめん。ちょっと考え事をしていて……ね」
「ふむ……。その考え事というのは、一昨日からお前の様子がおかしい事と関係しているのか?」
――! 気づいていたの?
「ん……。まあ、そうね……」
それだけを応えて、私は再び学校までの道を歩き出す。真田は、私の隣を静かに歩くだけ。そうだ、ちょっと聞いてみようかな。
「ねえ、真田?」
「……なんだ?」
「私ってさぁ、どんな人間かな……?」
私のその漠然とした質問に、真田は「どんな……? そうだな……」と首を傾げた後、口を開いた。
「とてもではないが、一言では言い表せないな。後先を考えずにただひたすら突き進む姿は鉄砲娘と言って良いし、誰に対しても裏表のない性格は天衣無縫とも言えるし、周囲を引っ掻き回すその行動力は天災のようでもあるし、過剰なスキンシップで
「わ、分かった、分かった! もういいっ、もういいからっ!」
想像以上だった私に対する罵詈雑言をこれ以上聞きたくなくて、『裏料理界の刺客』、『秋田の爆弾娘』などと続ける真田の口を閉ざそうと、ピョンピョンと飛び跳ねる私。あー、もう! あんたってば、その無駄に背の高い所、どうにかしなさいよ!
そんな風に、半ば八つ当たりに近いいら立ちを感じていた私だったが、真田は口を閉ざそうとする私の右手を邪魔そうに払いのけ、「……最後に」と続けた。
「最後に、……お前は、自分の人生は自分で切り開いていく事の出来る人間だ」
「自分の人生を自分で切り開く……? 私、そんな事していたっけ?」
真田の口から、罵詈雑言の最後に傾聴に値する言葉が出て来た事に気づいた私は、ピョンピョンと飛び跳ねていた身体を整え、続きを促す。
「はー……。自分では分からないものなのかな……。お前は、自分の人生を他人に委ねていないだろう? 柔道を始めたのも、どんな風に弱点を克服するかも、どこを目標としているかも、全て自分の責任において、自分が決めてきたじゃないか」
……自分で決めてきた。そう……なのかな。でも、言われてみれば? サッカーを始めたのも、やめようと決めたのも私だ。一時期は東京の強豪校からサッカー留学の話もあったが、辞去する事を決めたのも私だ。柔道を始めたのも、世界のパワー柔道への対抗として力も体格も上の男子と練習する事を決めたのも私だ。
そうか、そうだよね。私、どうしてそんな簡単な事に気づかなかったんだろう。私って、私が思っている以上に、わがままじゃない。どうして、変化を嫌って動かないって言う選択を私はしたの?
変化して良いじゃない! 変化させるつもりだったじゃない! だって、私は猪熊柔不敗神話を破るんだから!!
胃の底にずっしりと横たわっていた鉛がいつの間にか消えていた事に気づいた私は、それを溶かしてくれた友人に礼を言う。
「ありがとう、真田! 私、私らしくなかったかもしれない! 気づかせてくれてありがとう!」
そして私は真田の手を取ってその手をぶんぶんと上下に上げ下げする。どうせなら罵詈雑言の前に言って欲しかったけれど、秋田東工業高等学校の慈母神とも言われている私は(*誰も言っていない)心が寛大だから許してしんぜよう。
「お、おい、何を――。待て、桐生! どこへ行くつもりだ!」
「ちょっと駅前にある電話ボックスに戻るよ! 真田は先に行ってて!」
私はそう言って真田に手を振った後、駆け足で駅の方に戻っていった。
~~~~東京 日刊エブリ―スポーツ 本社~~~~
「もしもし? お電話代わりました、松田です」
「あっ、松田さん? 私、桐生茜です!」
「えっ!? ああ、桐生さん。先日は大変失礼しました。……それで、今日はどうされました?」
私は駅前にある電話ボックス内から日刊エブリ―スポーツ本社に電話して、松田さんを呼び出していた。こういう時は本当にもどかしいわね。スマホが恋しいったら無いわ。
「あの……松田さん。この間の問いかけですけど、もしかして猪熊柔さんって今度の試合でわざと負けようとしていませんか?」
「――!? ど、どうしてそう思うんだい……?」
「んー、この間松田さん、私に柔道が好きな理由を聞かれましたよね。あれからずっと考えていたんですけど、今松田さんが一番執着しているのって猪熊柔さんじゃないですか。それを考えたら、もしかしたら猪熊柔さんに、私から聞いた柔道の素晴らしい所を伝えたかったのかなって思って……。私の考え、間違ってますか?」
「……」
受話器の向こう側で沈黙する松田さんの背後から、記者達の発する喧噪が聞こえてくる。
「……松田さん?」
その問いかけに、ようやく松田さんは「……その通りだよ」と返事をする。そして彼は、今度の試合が猪熊柔と自身が共謀した負けるための戦いだと白状する。
「そうだったんですね。ねえ、松田さん。そういう事なら、私も協力してあげますよ」
「協力……? 何を言っているんだい、桐生さん?」
「だから、協力です。猪熊さん、負けたいんでしょ? だったら、私が彼女に負けをプレゼントしてあげますよ」
「い、いや、だからそれは藤堂選手に……」
「藤堂選手は、猪熊柔から勝利をプレゼントされるんでしょう? 私が言っているのは、私が猪熊柔に負けをプレゼントしてあげるって話です」
「……」
私の言葉の意味を咀嚼して理解しようとしているのか、受話器の向こうからは何も言葉が返ってこない。
「ねえ、松田さん。『負けたくて負ける』のと、『勝ちたくて負ける』のって同じだと思いますか?」
「負けたくて負ける……。勝ちたくて負ける……。――! そうか! 桐生さんが言っているのって……!」
「そうです。まあ、偉そうなことを言っていても、私が松田さんの推しの子をそこまで追い込めるかは分かりませんが……」
「いや、いや、桐生さんならあるいは……! でも、良いのかい? 桐生さんには何もメリットのない試合になるだろうに」
くすっ。メリットがない? 何を言っているんですか、松田さん。狭い電話BOXの中で思わず笑みをこぼす私。
「良いんですよ。強い選手とは私も戦ってみたいですし。後は、そうですね。松田さんに貸し一つという事にしておきますよ」
「桐生さん……。……? ん、いや、待てよ。貸し一つと言うなら、俺と鴨田、この間桐生さんから貰ったチョコでひどい目にあったんだけど、あれは――ブツッ。プー、プー」
「プー、プー」
ちょうどテレフォンカードの残額が切れた私は、手に持った受話器を見つめていた。……話の途中で切れちゃったけど、まあ、良いでしょう。要件は伝えられたし、細かい事は日が近づいたら松田さんが教えてくれるでしょうし。
さあ、もう後戻りはできないわよ。
あれだけ松田さんに担架を切ったんだ。猪熊柔に、『負けたくて負けさせるか』、それとも『勝ちたくて負けさせるか』、そのどちらを経験させるかは私の力にかかっているわ。
『YAWARA!』の世界で無敗神話を築いた猪熊柔。相手にとって不足は無いわ。
パン、パン! 電話BOXの中で頬を思いっきり両手で叩いた私は、意気揚々と扉を開いて外に飛び出した。
本日も2話投稿しますね。