メスガキちゃんを命がけで助けたら右腕がなくなった   作:崖の上のジェントルメン

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22.嘲笑と尊敬

 

 

 

……ガリガリ、ガリガリガリ

 

朝の4時50分。

 

ボク、牧平 林檎は、自室にてスケッチブックに絵を描いていた。

 

机に備え付けられた電気スタンドが、スケッチブックを明るく照らしている。

 

今回描いているのは、次の美術展に出展する作品のラフスケッチで、テーマや構図などを大まかに決める過程だった。

 

今度の作品は、「恋に狂う人間の浅ましさ」をテーマに描こうと考えている。

 

美術部の先生からは、「あなたはもっと高校生らしい作品を描いてほしい」と要望されたけど、“高校生らしい”という言葉を使う時点で、先生に才能がないことが容易に分かる。

 

高校生らしさとかいう、曖昧な言葉で茶を濁すことが、どれだけナンセンスか分かっていない。

 

無論、どんなものを望まれているかは分かる。素直で、爽やかで、未来は希望に溢れている的な、そういうものを描けと言っているのだ。

 

死ねばいい、そんなもの。

 

見てくれだけ美しくて、ふわふわした中身のない駄作を描くなんて、ボクには到底できない。

 

なぜなら、そんな爽やかで前向きな気持ちなど、ボクの中にはないからだ。

 

母への憎悪と、恋愛への嫌悪、そして人生への激しい怒り。そうした青黒い炎が、腹の奥で燃えている。

 

この炎を消さない限り、前向きなものなど描けない。

 

芸術家として最もやってはならないことは、自分に嘘をつくことだ。

 

表現者は、どんな時も自分をさらけ出す。自分を偽らず、そのままを描く。

 

そこに少しでも嘘を交えたら、表現者としてのボクは死ぬことになる。真水に一滴でも汚水を混ぜたら、飲めなくなるのと同じように。

 

だから、あってはならないのだ。ボクの中にない感情を、絵にすることなど。

 

「ふー……」

 

一通り描き終えたボクは、一旦鉛筆を置いた。

 

そして、裏面から紙を透かしながら、デッサンが崩れていないか確認する。

 

「……よし、これでいこう」

 

スケッチブックをぱたりと閉じ、それを学校用の鞄へと入れ込む。

 

気がつくと、もう時刻は6時30分になっていた。ボクは自分の部屋を出て、食卓へと向かう。

 

誰もいないその食卓で、ボクは独り、バターを塗ったトーストを頬張る。

 

そして、テレビをつけてニュースを観る。これがいつもの、ボクの朝のルーティンだった。

 

『人気女優の星風 寧々の不倫報道を受けて、サーントリーはCM起用を取り止めると公表しました』

 

(はあ……また芸能人が不倫した話か。しょうもない)

 

ボクは心底辟易しながら、そのニュースを眺めていた。

 

不倫をして大切な人を裏切った芸能人もバカだし、当事者でもないのにあれやこれやと必要以上に騒ぐ外野たちも嫌い。

 

こういう報道を見る度に、ボクは絶対、恋愛なんてしないと固く誓う。

 

恋愛などという可愛い子ぶった性欲に振り回される人生なんて、もう真っ平ごめんなんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おはよー」

 

「おっす、おはよー」

 

朝8時20分。教室の中で、クラスメイトたちが挨拶を交わしている。

 

そんな中、ボクは一人で自分の席へと向かい、そこに鞄を下ろす。

 

「むっ?」

 

ふと見ると、あのナカムラくんも同時に席についていた。

 

鞄を机へ下ろし、左手でたとたどしく、教科書を机の中に仕舞っている。

 

(この前は美術部へ来てくれたし、一言礼でも述べに行こうか)

 

そう考えたボクは、一旦自分の席を離れ、彼の元へと向かった。

 

「やあ、ナカムラくん。おはよう」

 

「ああ、牧平さん。おはよう」

 

「この前は美術部へ来てくれてありがとう。君の新しい絵を観れて、ボクも大変有意義だったよ」

 

「ははは、恐縮だな」

 

「催促してしまうようで申し訳ないが、どうだろう?美術部へ興味は持ってもらえたかな?」

 

「うん、俺もとても楽しかったし、よかったら入部させてもらえないかな?」

 

「本当かい!?いやあ、君が来てくれるなら、ボクも張り合いがあるよ!」

 

これは先日、他のクラスメイトから聞いた話なのだが、ナカムラくんがあのおぞましい似顔絵を描いた時、例に漏れず美術の先生は「もっと綺麗な絵を描きましょう?」と言ったらしい。

 

それに対して、ナカムラくんは「描き直しません。それは、俺そのものですから」ときっぱり断ったとのこと。

 

いやはや、さすがすぎる。そうだよ、描き直せなんて言語道断。人の心が美しくないといけないなんて、そんな考えは糞喰らえだ。

 

それを、ナカムラくんはしっかり分かっている。芸術の経験は浅いのに、そんじょそこらの美術の先生よりも、芸術を理解している。

 

しっかりと勉強していけば、間違いなく彼は化ける。これからその才能を加速させていくところを間近で見られると思うと、興奮が止まらない。

 

「ふふふ、ああ、楽しみだ。君と一緒に絵が描けるなんて」

 

「ははは、ありがとう。そこまで言われるなんて、ちょっと照れ臭いや」

 

ナカムラくんははずかしそうにはにかみながら、後頭部を掻いていた。

 

「それじゃあ、今日あたりどうだい?早速部室に来るかい?」

 

「あ、えっと、ごめん牧平さん。今日は、また別の部活の見学に行く予定なんだ」

 

「別の部活?」

 

「うん。うちの学校って、二つまで兼部オッケーだから、ちょっと二つチャレンジしてみようと思って」

 

「ほほー、随分とやる気満々だね」

 

「だからごめん、美術部もたまに行けない日があると思う。でも、ちゃんとどっちも頑張るからさ」

 

「ふふふ、いいよいいよ。気にせず自由にしてくれ。君が楽しそうにしているのは、ボクも嬉しいから」

 

「は、ははは、ありがとう」

 

ナカムラくんはまた照れ臭そうにしながら、ボクに笑いかけていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

……その日の四時間目は、体育の授業だった。ボクらの二組と、隣の三組の合同で行われた。

 

今回の授業は、1600mリレーの記録だった。

 

このリレーで成績が良い者が、秋に開催される体育祭のリレー選手に選抜される。

 

「いいか!決して足の速い奴が選ばれるわけじゃない!やる気に満ち溢れてる奴が選ばれるんだ!」

 

熱血でお馴染みの角田先生は、ボクたち生徒に熱い視線を送りながら、拡声器を使っているかの如く大きな声で叫んだ。

 

「一生懸命に、高校生らしく!がむしゃらに走れ!ここぞという場面で頑張れる人間が、社会に出ても評価されるんだ!いいな!」

 

「「うーすっ」」

だが、先生の熱さとは対照的に、ボクたち生徒の態度は冷めていた。

 

正直に言って、今の思春期真っ盛りなボクたちにとって、熱血は鬱陶しがられるものでしかなかった。むしろ「マジだりぃ」と言って斜に構えている方がカッコいいと思っている奴の方が多い。

 

こういった態度は、隣のクラスの三組の方が顕著だった。

 

「マジ角田うぜえわ」

 

「それな。昭和生まれってあんなんばっかで、ダセエよな」

 

先生への陰口が、三組の方からひそひそと聞こえてくる。

 

ボクら二組の方からはそういった声は聞こえてこないので、まだマシな方かも知れない。

 

(まあ、ボクも見てくれだけの青春ごっこは嫌いだから、面倒な気持ちは共感できるけど)

 

この角田先生も、あの美術の先生と同じだ。高校生らしくなどという、曖昧な幻想を抱いてる。

 

しかも、その先生が求める『高校生らしさ』がない人間は、評価しないと暗に伝えている。

 

こういう先生のせいで、生徒はやる気のあるフリだけが上手くなるんだ。

 

卒業式で泣かないと、『お前は薄情だ!』と言って泣くのを強制してくるようなタイプ。薄っぺらい感動を押し付けてくる、典型的な三流役者。

 

結局、それじゃ誰一人として心に響かないし、本当の意味での教育はできていない。

 

斜に構えてダウナーを気取る人間もいけ好かないが、こういう張りぼての感動に酔ってる先生も嫌いだ。

 

(ふふふ、我ながら嫌いなものの多いこと。ひねくれ者もここまできたか)

 

「よし!それじゃあ、記録を測るぞ!呼ばれた順に位置につけ!」

 

そうして、先生の指示通りに、記録をつけていくこととなった。

 

走ってる者以外は、みんなグラウンドの隅に生えている木々の下にいて、涼んでいた。むしろここ以外は、暑くてとても立っていられない。

 

(はあ……。まだ4月だっていうのに、この暑さはおかしい。異常気象だよまったく)

 

ボクは額の汗を腕で拭いながら、みんなが測定しているところを眺めていた。

 

 

 

 

「……ん?」

 

授業が始まってから、20分ほどが経過した頃。ふと見ると、次はナカムラくんが測定する番になっていた。

 

彼は緊張した顔つきで、アキレス腱を伸ばしていた。

 

(腕を振る動作が速いと、走る速さも加速するという話は聞いたことあるが、右腕がないと逆に走りにくかったりするのかな?)

 

好奇心、というと聞こえが悪いかも知れないが、右腕がない代償がどのように走りに及ぼすのか、とても気になるところだった。

 

「牧平さん」

 

その時、ボクの真横から声をかけてくる者がいた。それは、クラサキさんだった。

 

彼女はボク以上に汗をかいていて、顎先からぽたりと、地面に一滴落ちていた。

 

「やあクラサキさん、君はもう走り終わったのかい?」

 

「うん、やっと終わったところ。牧平さんはまだ?」

 

「そうなんだよ。さっさと終わらせて、快適な空調の待つ教室へ帰りたいところさ」

 

「ふふふ、そうだね」

 

クラサキさんは少し微笑みながら、 ボクの横に立った。

 

そして、ボクと同じ方向に視線を向けていた。

 

「そうだ、この前はすまなかったね、クラサキさん。せっかく映画に誘ってもらったのに、断ってしまって」

 

「ううん、気にしないで。誰にでも好き嫌いはあるものね」

 

「またの機会があったら、懲りずに誘ってくれると嬉しいよ」

 

「うん、もちろん」

 

そうして、クラサキさんはにこりと微笑んだ。

 

うん、なるほど。クラサキさんは学年で一番可愛い女子だと噂されているらしいが、それも頷ける可愛さだ。

 

顔立ちが整っているのは言うまでもないが、朗らかで近寄りやすい空気感がある。それが余計に、彼女の可愛さを引き立てているのだろう。

 

 

パンッ!!

 

 

クラサキさんと話している内に、1600mのリレーがスタートされた。

 

ナカムラくんを含む5人のランナーたちが、グラウンドを駆け抜けていく。

 

(おお、ナカムラくん、速いじゃないか)

 

5人いる中で、2位をずっとキープしている。1位が確か陸上部のアサイくんなので、帰宅部なのに陸上部と肉薄するレベルに走れるのは、なかなか凄いことだと思う。

 

(ふーん、どうやら彼は、芸術以外の才能もありそうだなあ)

 

顎に手を当てて、彼のことをニヤニヤと見つめていた、その時だった。

 

「牧平さんは、誰のこと見てるの?」

 

隣にいるクラサキさんから、そう話しかけられた。

 

「うん?誰って……そりゃあ」

 

「中村くん?」

 

「……まあ、そうだよ?それが何か?」

 

「………………」

 

「ほら、見てごらんよ。彼、結構凄いじゃないか。いやはや、あんなに速いとは思わなかったなあ」

 

もしかすると、右腕分の重さがないことで、体重が軽くなっているのかも知れない。

 

いや、あるいは中学生の頃に、陸上部だった経験があるのかも?

 

「牧平さんは、中村くんのこと、好き?」

 

「え?」

 

あまりにも唐突にそんなことを尋ねられたので、さすがのボクもクラサキさんの方へ目を向けた。

 

彼女は、じっとボクを射貫くような眼差しを送っていた。その目を見れば、この質問が真剣な内容であることは間違いなかった。

 

「……好き、ていうのは、恋愛的な話かい?」

 

「………………」

 

「生憎だけど、ボクにはそういう感情はないよ。これは、ナカムラくんだからとかじゃない。誰に対しても、ボクは恋愛感情を抱かないって決めてるんだ」

 

「恋愛感情を……抱かない?」

 

「昔、ちょっしたゴタゴタがあってね。恋愛には嫌悪感しかないのさ」

 

「………………」

 

「そういう君こそ、ナカムラくんのことが好きなのかい?まあ、こんな質問を投げかけてくるくらいだから、おそらくそうなんだろうけど」

 

「!」

 

クラサキさんは頬を赤らめて、ぷいっと顔を横に切った。

 

そして、グラウンドで一生懸命に走るナカムラくんのことを見つめていた。

 

「……ごめんなさい、牧平さん。変な質問しちゃって……」

 

「ははは。いいよ、ボクは気にしてない」

 

「最近、どうにも心が……暴走しそうなの」

 

「暴走?」

 

「うん」

 

クラサキさんは顔をうつむかせて、苦しそうに眼をすっと伏せた。

 

「中村くんには、長谷川ちゃんがいる」

 

「………………」

 

「その焦りが、どうしても拭えなくて。それで……」

 

「……なるほど、確かにそれは深刻だね」

 

「………………」

 

「そういうものがあるから、ボクは恋愛を捨てたんだよ。自分の感情をコントロールできなくなるなんて、怖くて仕方ない。自分の理性が飛んでしまうような状況に、自ら足を踏み入れる合理的な理由がない」

 

「………………」

 

「もちろん、君の恋を否定する気はない。ただ、ボクは絶対にやらないがね」

 

「……牧平さん」

 

「うん?」

 

「ちょっとだけ、反論させてくれない?」

 

「反論?」

 

クラサキさんは、静かに眼を開いた。そして、しっとりと潤んだ瞳で……ボクをじっと見つめた。

 

 

 

「理屈でどうにもならないから、みんな恋が好きなんだと思う」

 

 

 

「………………」

 

「私も、気がついたら恋をしていた。それを止めることはできなかった。ただただ、彼のことが好きになってた」

 

「………………」

 

「牧平さんも、もしかしたら……例え意識的に恋愛を避けていたとしても……」

 

「……恋をするかもって?」

 

「………………」

 

「……そうか。まあ、可能性は限りなく低いだろうけど、そういうこともあるかなと、頭の片隅に置いておくよ」

 

ボクがそう答えると、彼女は少しだけ寂しそうに微笑んだ。

 

「おい!大丈夫か!?」

 

その時、グラウンドの方で先生の叫ぶ声が聞こえた。ボクとクラサキさんは、同じタイミングでグラウンドに目を向けた。

 

「「!」」

 

ボクも彼女も、声こそ出さなかったけれど、お互いに驚いていることは伝わった。

 

ナカムラくんが、地面にうつ伏せに倒れていたのだ。

 

しかも片腕しかないから、起き上がるのに苦労しているらしく、身体中砂まみれになりながら、苦悶の表情を浮かべていた。

 

「中村くん!」

 

いの一番に彼の元へ駆けつけたのは、クラサキさんだった。

 

「大丈夫!?立てる!?」

 

彼女は中村くんの左脇に肩を入れて、立ち上がる補助に徹していた。

 

「う、うぐぐ……」

 

膝を震わせながら、ナカムラくんは立ち上がった。

 

転んだ拍子に擦りむいたのだろう。遠目から見ても分かるほどに、彼の左足の膝小僧から血が垂れていた。

 

「中村くん!すぐに保健室に行こう!私、支えるから!」

 

「ま、待って、倉崎さん……。俺、もう少しでゴールするから……」

 

「え!?」

 

「ゴ、ゴールまで、走らせて……」

 

「そ、そんな、何言ってるの!こんなの、別にゴールまで拘ることじゃ……」

 

「お願い、倉崎さん。俺の自己満足なのは重々分かってる……。だけど……」

 

「………………」

 

クラサキさんはしばらく困惑していたけれど、最終的には、彼の望む通りにさせてあげることにした。

 

「ふっ、ふっ、ふっ……」

 

よたよたと怪我をした左足を庇いながら、彼は苦痛に顔を歪めて走った。

 

その場にいる全員が、彼のことを見つめていた。

 

「はあ、はあ、はあ……!」

 

そして、無事にゴールへとたどり着くと、彼はようやく足を止めた。

 

全身が、土と汗で汚れていた。

 

「うーむ!素晴らしい!!いい走りだったぞ中村!」

 

角田先生は、彼の背中をぱんっ!と叩いて、嬉しそうに笑っていた。

 

「体育祭のリレーは、お前が出ろ!お前みたいにガッツのある奴ことが出るべきだ!」

 

「ど、どうも、ありがとうございます……」

 

ナカムラくんはお礼もほどほどに、足を引きずりながら、保健室へと向かって行った。

 

「中村くん!」

 

すかさず彼の補助に戻ったクラサキさんは、ナカムラくんと共に校舎の中へと消えていった。

 

「………………」

 

グラウンドにいるほとんどの人間が、今の出来事を上手く処理できなかった。

 

「いやいや!あいつは大したもんだ!ああいう根性のある奴は、最近じゃ珍しい!」

 

唯一彼のことを評価していたのは、先生だけだった。腕を組んで、うんうんと満足げに頷いていた。

 

その様子を見た三組の女子たちが、ぼそぼそと内緒話をしていた。

 

「今の……なんだったの?」

 

「さあ、よく分かんない」

 

「あれじゃない?先生からの点数稼ぎじゃない?」

 

「ああ、そうかもね。角田先生って、ああいうの好きだし」

 

「なんかさ、ちょっとキモくなかった?」

 

「分かる分かる。俺頑張ってますアピールが強くて、見てらんなかったよね」

 

「そうそう。腕がなくても頑張る俺カッケーみたいな、そういうやつよね」

 

「ぷっ、ほんと、マジ寒いわ」

 

「………………」

 

彼女たちの嘲笑を耳にしながら、ボクも校舎の中へと入っていった。

 

保健室へと続く廊下を、ボクは一人で歩いている。

 

「………………」

 

正直に言うと、あの陰口をしていた女子たちの言葉は、正論だと思った。

 

なぜナカムラくんがあんなにゴールすることに拘ったのか、ボクもイマイチ共感できなかった。

 

これがマラソン大会のクライマックスなら、感動もののゴールだっただろう。「よくぞゴールした!」という声援が飛び交ったに違いない。

 

しかし、今回はただの授業。怪我した足を引きずってまでゴールする意義なんて、欠片もない。だからナカムラくんの熱量とは裏腹に、周りの人間たちはみんな微妙に白けていた。

 

(ナカムラくんを知らない人間が見たら、先生への点数稼ぎだと思われても仕方ない。だけど……)

 

 

 

『描き直しません。それは、俺そのものですから』

 

 

 

(彼は、美術の先生からの評価を蹴って、自分の作品を出す胆力がある。だから、おそらく点数稼ぎではないのだろう)

 

かと言って、他に彼がわざわざあんな行動に出る意味が分からなかった。

 

よっぽどリレーの選手に選ばれたかったのか?それとも、何か別の理由が?

 

それを理解するには、直接尋ねるしかない。

 

 

カラカラカラッ

 

 

保健室の扉を開いて、中に入った。

 

ナカムラくんはベッドに腰かけて、頬を赤く染めていた。

 

クラサキさんが床に膝をついて、消毒液を持ち、彼の膝を手当てしていたのだ。

 

「く、倉崎さん、いいよ、大丈夫だって。俺一人でできるよ」

 

「お願い、何かさせて、中村くん」

 

「………………」

 

「よし、これで湿布を貼って……はい、できた」

 

「ありがとう倉崎さん、ここまでしてくれるなんて」

 

「ううん、いいの」

 

「………………」

 

その様子を遠巻きに見ていると、ナカムラくんたちはボクが保健室に入ってきたことに気がついた。

 

「ああ、牧平さん」

 

「やあナカムラくん。さっきはやたらと頑張っていたね」

 

「は、ははは、まあね」

 

「足の具合はどうだい?」

 

「そ、そうだね、ちょっと擦りむいただけだから、見かけより大したことないよ」

 

「………………」

 

「うっ、いつつ……」

 

「ナカムラくん、ひとつ訊いてもいいかい?」

 

「うん?」

 

「なぜ、あそこまでゴールに拘ったんだい?」

 

「ゴールに?」

 

「そう。ストレートに言わせてもらうと、あそこまで頑張る意図が、ボクには分からなかった」

 

「………………」

 

「何らかの大会のゴールなら、足を引きずってでも……という気持ちになるのも、理解できる。でも、たかが授業の記録だけで、そこまで本気になる必要があったのか?それがボクには疑問なんだ。事実、周りのみんなも反応に困っていたし、白けている人もいた」

 

「………………」

 

「観ていた人の中には、『先生に気に入られたいから、ああいうアピールをしたんだ』と話す者もいたよ」

 

「ちょっと!牧平さん!」

 

クラサキさんはその場で立ち上がり、ボクのことをキッと睨んだ。

 

「頑張った人に対して、そんな言い方ないんじゃないの!?」

 

「でも、そう感じたのは事実だ。そのことに嘘はつけない」

 

「だからって、言っていいことと悪いことがあるじゃない!」

 

「い、いいよ倉崎さん、大丈夫だ」

 

「でも中村くん!」

 

「どう感じるかなんて、その人の自由だ。俺は、気にしてないよ」

 

「………………」

 

クラサキさんは苦虫を噛み潰したような顔をして、顔をうつむかせた。

 

「えーと、そうだね……俺がゴールに拘ったのは……」

 

「………………」

 

「ただ、俺が走りたかっただけだよ」

 

「走りたかっただけ?」

 

「うん」

 

「……ちょっと、よく分からないな」

 

「……俺はさ、昔から意外と足が速くて、陸上部に誘われることもあったんだ」

 

「………………」

 

「でもほら、運動部って面倒臭いし、ちょっと敬遠してたんだよね」

 

「……うん、その気持ちは、理解できなくもない」

 

「だけどさ、俺……この前の事故に遭ってから、思うことがあって」

 

ナカムラくんは、左手で右腕の裾を掴んだ。

 

「もっと……もっとさ、右腕を使ってあげたらよかったって、そう思ったんだ」

 

「右腕を?」

 

「うん」

 

「………………」

 

「変な話だけど、右腕がなくなった時、凄く仲のいい友達が死んでしまったかのような……そんな喪失感があったんだ」

 

「友達……」

 

「そう。もっとたくさん、文字を書けばよかった。もっといろいろ、右腕を大切にしておけばよかったって、そんな想いが……ぐるぐるぐるぐる、頭の中を巡るんだよ」

 

「………………」

 

「何かを突然失うことは、いつでも起こりうる。もしかしたら、明日また事故に遭って、足がなくなるかも知れない。走りたい時に、走れない身体になるかも知れない。それを考えたら……今日、ここで1600mを全力で走れるんなら、とことん走りたい。一生懸命、足を使いたい。そう思ったんだ」

 

「……たかが授業で、あったとしても?」

 

「ふふふ、うん、そうだね」

 

「………………」

 

「たかが授業でさえ、一生懸命になれたなら、きっと俺は……どんなことにも一生懸命になれる」

 

「!」

 

 

 

「幸せに生きるって、そういうことじゃないかな?」

 

 

 

「………………」

 

ナカムラくんの微笑みは、優しかった。

 

同じ年の高校生だと言うのに、自分よりも10歳以上……歳を取っているように見えた。

 

「と、まあ……なんかごめんね、いろいろ蘊蓄たれちゃって」

 

ナカムラくんは照れ臭そうに頭を掻きながら、ベッドから腰を上げた。

 

「そろそろ授業も終わるし、俺、体操服を着替えてくるよ」

 

「………………」

「倉崎さん、手当てしてくれてありがとう」

 

「う、ううん、私は全然……」

 

「牧平さんも、心配してくれてありがとう」

 

「あ、ああ……」

 

「それじゃあ、二人ともまたね」

 

そうして、ナカムラくんは保健室から出て、男子更衣室へと向かって歩いて行った。

 

ボクとクラサキさんは廊下に出て、遠くへと去っていく彼の背中を、ずっと見続けていた。

 

「………………」

 

「………………」

 

「……私ね、牧平さん」

 

「………………」

 

「中村くんの、ああいうところが……どうしようもなく、好きなの」

 

「………………」

 

……その時、ボクは思わず、『分かるよ』と言いそうになった。

 

彼は、ボクが思っている以上に、真っ直ぐだった。

 

透明に輝く水晶を見ているかのような、そんな純粋さ。

 

お高くとまった美術の先生にも、嘘臭い熱血の角田先生にも、斜に構えてダウナーを気取る同級生にも、あの純粋さは出せない。

 

あの走りは、やはり先生への点数稼ぎじゃなかった。そして、リレーの選手に選ばれたいなんていうものでもなかった。

 

 

 

ただただ、日々を大切に生きようとする、彼の覚悟の現れだったんだ。

 

 

 

きっと、何かを失った人間にしか、あの領域は到達できない。

 

薄っぺらい感動を人に押し付けることはしない。ただ、自分が今日を熱く生きられたか?……それを自分に問いかけているだけなんだ。

 

だから、彼の言葉は、美しい。

 

「………………」

 

ボクは、ひねくれ者だ。

 

他人を尊敬するなんて、滅多にない。嫌いな人は数えきれないほどいるけど、敬意を表したいと思う人間なんて、ほとんどいない。

 

……でも。

 

ナカムラくんは。

 

ナカムラくんは、こんなボクでも、敬意を表したいと思った。

 

彼のことを、もっと知りたい。もっとたくさん、話してみたい。

 

もっと、彼の近くにいてみたい。

 

それは、芸術家としての好奇心じゃない。

 

ただ一人の人間として、そう思ったんだ。

 

 

 

おかしい。

 

おかしい。

 

どうしよう。

 

 

 

 

こんな気持ち……初めてだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人は尊敬なしに、誰かを愛することはできないわ。

 

──エリザベス・テイラーより

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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