ハクアは走っていた――
柔らかい土を踏みしめ、その度に泥が跳ねて体を汚すことすら気にしない。
なりふり構わず、全てを捨てて、あの戦場から逃げ出していた。
息を荒げて、恐怖を顔に貼り付けて、救いを求めるように全速力で走り続ける。
全身に絡みつく恐怖を振り払うように走るが、決してそれからは逃げられない。
何千何万の亡霊が、その背後から追ってくるような気がした。
『お前が殺した』『お前のせいだ』『絶対に許さない』『大罪人が』
いくつもの声が聞こえてきて、ハクアの罪を責め立てる。
一瞬にして大量殺人を行った結果ハクアの心は完全におかしくなり、その罪悪感に押しつぶされて今にも倒れそうになっていた。
それでも最後に残った欠片のような精神で、ハクアは走り続ける。
森を駆け、山を駆け、川を渡り、救いを求めた。
その過程で立ち止まることはなく、食うことも飲むこともしない。
一瞬でも立ち止まったら、亡霊達がもう逃がしてくれない気がしたから。
「はぁ、はぁっ! いや、もう、助けてっ。なんで、こんなこと、しちゃったの」
大粒の涙をボロボロと零し、嗚咽混じりの独白をする。走り続けていてもその苦しみはなくならなかった。
しかし何時間と、何日と走っていればいくらハクアだって限界が来る。
それはあまりに唐突にやってきた。
「あっ――」
森の中の荒れ道だったから、そのボコボコとした大地に足を取られてハクアは転倒する。
泥だらけの地面に顔から突っ込み、走り続けていたハクアはそこで足を止めることとなった。
「うぅ……痛い」
体は痛みを訴える。心はすでにボロボロで、泥にまみれたハクアはあまりにも惨めだ。
「はぁ、はぁ……行かないと」
それでもハクアはゴシゴシと顔についた泥を落としながら顔を上げる。
救いを求めるようにまた足を踏みしめ――目を見開いて硬直した。
「あ、いやっ。ひっ――」
ハクアの視線の先には何もない。
だけどハクアにだけは見えているらしい。
「ご、ごめん、なさい。ごめんなさい、ごめんなさい。私のせいで、私の手で、あなた達を、殺、した……」
亡霊がハクアを取り囲んでいた。
アザール人の兵士達の亡霊が、責め立てるようにハクアを取り囲んでいる。
立ち止まったから捕まってしまったのだ。そしたらもう逃げることはできない。
ハクアは知っている。アザール人の軍隊は徴兵された民間人が多数いることを。
最大の人口を誇るアザール帝国は、兵の数に物をいわせて戦争を進めていた。だから兵士達は、無理矢理連れてこられた国民が大半を占める。
彼らが罪人だったら幾分かマシだったろう。実際貧民街掃討作戦の時はそう思い込むことで任務を進めることができた。
でも、ハクアは彼らに罪なんてないことを知っている。
誰かが決めた戦争に勝手に連れてこられて、無理矢理戦わされている民間人だ。大半の者達が戦う覚悟すらできていない。
彼らには大切な友人がいて、家族がいて、帰る場所があったはずなのに――全部ハクアが皆殺しにして奪い取った。
ハクア・G・クリスタは罪人である。
「ごめんなさい」
英雄とは、この罪に耐えられる者をいうのだ。
人を殺すことに耐えられず、その罪に押しつぶされるならばそれは英雄足り得ない。
ただの罪人と言うしかないだろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
ハクアは耐えられなかったから、英雄ではないのだ。
いや、そもそも英雄になどなりたくなかった。
父がそう言ったからなったにすぎない。
「ごめんなさい。許してください。私が……全部、悪いんです」
暗い森はハクアを攻め立てる。
孤独は心を腐らせて、冷たい土は体温を奪っていった。
ハクアは地面に
もう立ち上がることはできなかった。
その心は完全に死んでしまったから。
ここでハクアは終わりを迎える。
もしこの地獄から救い出せる者がいるとしたら、それは──
「──ハクア!!」
ハクアにとっての太陽だけなのだろう。
◇
冷たい体がとても暖かいものに包まれて、ハクアの意識は急速に浮上していく。
その体温に触れると同時に、恐怖が氷解するように消えていった。
「大丈夫か! しっかりしろ! ハクア!」
声が聞こえてくる。
ハクアの大好きな人の声だ。この人に会いたくて、ハクアは戦場から逃げ出したのだろう。
ハクアにとって唯一の救いが、ここにあるのだ。
「グレイ……」
「ハクア。大丈夫か? 体が冷たいぞ。今すぐ医者に。婆さんの所へ行くぞ」
「グレイっ!!!」
「うおっ!!」
急に動き出したハクアは、グレイに飛び掛かるとその胸の中に飛び込んだ。
とても強い力でグレイを抱きしめ、その胸板に頬擦りする。ハクアの全身を安堵が包み、決して放すまいとグレイを抱きしめ続けた。
「私ね、頑張ったよ。みんなが、望む、姫騎士になった。でもね、無理だった。嫌だ。もう嫌。助けて。もう、取り返し、つかない。たくさん、死んだの。私が、一万人、ころ、殺した、の……」
「ハクア……」
グレイはハクアに何が起こったのかはわからない。
だからただ、ハクアを落ち着かせるように強く抱き返してその頭を優しく撫でた。
そうすればハクアの震えや緊張が和らぎ、全身をグレイへと預けてくる。
「大丈夫だ。辛かったな」
「うん」
「ごめんな、助けてやれなくて」
「ううん」
グリグリとグレイの胸に頬ずりして、ハクアの力が抜けていく。
グレイの愛に心は温かくなり、大きな手が髪を撫でてくれるたびに恐怖がどこかへ消えていく。
先ほどまでハクアを取り囲んでいた亡霊の姿はどこにもいなかった。
「私の力が、人を殺すの。沢山、殺したのっ! なんで、こうなっちゃったのかな……。嫌だったのに。したく、なかったのに。グレイ、助けてよ……」
「大丈夫だ。もう戦わなくて良い。俺が守る。絶対にハクアをこれ以上戦わせない」
「グレイっ……。グレイ、グレイ、グレイ」
その温もりとその言葉に、ハクアは涙を流しながら安堵する。
そうしてようやく体の力を抜くことができた。
「もう大丈夫だ。安心しろ。俺が全部、全部守るから」
グレイもまた強くハクアを抱きしめて、グレイは彼女を元気づけるようにそう言い聞かせる。
そして同時に、気付かれぬように顔を歪ませていた。
ハクアの心はもう折れていた。やはりこの戦争で、懸念していた通りに折れて壊れてしまったのだ。
こうなるってわかっていたはずだ。なのにハクアを救えなかった。
グレイは己の弱さを自覚して、本当にそれが嫌になる。だからもう、取りこぼさない。
ハクアは二度と姫騎士にはなれない。すでにそんな心理状態だ。
だからグレイが、守るしかなかった。
「グレイ、好き。好きだよ。もう、絶対に離れない。ここが、私の、居場所なんだ」
幸せは薬だ。
恐怖から目を逸らし、傷ついた心を癒してくれる。
ハクアにはこの薬が必要だった。
故にもう二度と、手放すことは許されない。
ハクアは最初から、これが欲しかったのだろう。
誰かを愛して、誰かに愛されて、そして幸せになる。
英雄になんてなりたくない。誰かを傷つけることは大嫌いだ。
だというのにとても遠回りをしてしまった。取り返しのつかないこともしてしまった。
でもハクアは漸くたどり着いたのだ。
この幸せは、全てを捨ててでも手に入れるべきものだったのだ。
グレイの胸の中で、ハクアはそう確信する。
だから二度と手放さない。
ハクアは心の底から、その愛を求め続けた。
──姫騎士殺し・前編[完]