「グレ、イ……?」
目覚めたとき、ハクアが大切にしている温もりはどこにもなかった。
まるで心に大きな穴が空いたような感覚に襲われて、そんなはずがないと温もりの痕跡を探し出す。
でも、ないのだ。
どこにもいないのだ。
ハクアですら忽然と消えた痕跡を追うことは出来ず、最愛の人グレイはどこかへ行ってしまった。
「……なんで。なんでなんでなんでなんでなんでなんでっ!!!」
それを理解し、本当に消えたのだと認識した瞬間、ハクアはパニックに陥った。
嘘だと心が叫んでいるが、現実は痕跡すら残さず消えたグレイをまざまざと突きつけてくる。
全身が震え、動悸は激しくなり、呼吸は荒く息ができない。
悪い夢であって欲しかった。しかしどれだけ自傷行為をしようと、夢が覚めることはない。
これは、現実だ。
「いやあああああああっ!!」
「ハクア!?」
その悲鳴に、人々は駆け寄ってくる。
レインクルトは真っ先にハクアへ駆け寄り、その身をただただ案じていた。
「ハクア、大丈夫かい?」
「兄様……グレイ、グレイどこ」
「えっ?」
「グレイどこ!! グレイいない!! 捜して! グレイ、捜して!!」
「あ、ああ。す、すぐに手配する」
狂乱するハクアをなだめながら、レインクルトはすぐ部下に指示を出す。
そして人払いを命じ、今のハクアが人目にさらされぬよう手配した。
何が起こったかなんてレインクルトもわからない。
しかし断片的な情報から、グレイが忽然と姿を消してそれによりハクアが取り乱しているということだけは理解できた。
ならば最優先はグレイの捜索。
グレイがいなければ、ハクアはこのまま完全に壊れる。
今すぐ見つけなければならない。
「大丈夫だハクア。王国軍が勢力を上げてグレイ君を探し出すよ」
「うっ、グ、グレイ。どこ。どこ、いったの。いや、私、グレイ、いないと……」
ハクアはただただ泣いていた。
恐怖に震えるように泣いていた。
レインクルトでは、そんなハクアを救うことはできない。
妹を助けたかったのに、兄では何もできなかった。
◇
パチパチと焚き火の燃える音がする。木々のざわめき、獣の鳴き声。いろいろな音が聞こえてきて、グレイの覚醒を促してきた。
グレイはゆっくりと目を開け、視界に入る焔を見る。
そして周囲に視線をやって、朦朧とする頭で現状を確かめようとした。
「っ――俺は、たしか」
数秒ボーッとして、ハッと起き上がるとグレイは頭を抱える。
確かグレイは、ハクアと共に寝ていたはずだ。そして物音が聞こえてきて、それを確かめようとして――
「やあ、グレイ。おはよう」
「……師匠」
グレイは師匠に気絶させられたのだった。
そして目覚めれば、ここにいる。
多分深い森の中。少し拓けた場所で、師匠は野営をしているらしい。
世界に夜がやってきて、獣の世界たる森で燃え上がる焚き火が唯一の灯火。
「……師匠、どういうことだよ。何が起きてんだよ。教えてくれ」
「そうだね。ちゃんと説明しないといけないね」
そこで言葉を切り、師匠は焚き火に薪を焼べ、その揺れる炎を見つめていた。
「お腹減ってない? 肉でも焼こうか」
「い、いや。そんな気分じゃねえよ」
「まあ、そうだよね」
恐らくグレイを落ち着かせるために言った言葉であろうが、グレイは早く理由をしりたがる。
だから師匠は苦笑して、焚き火からグレイへ視線を移した。
「グレイを導くためには何から話そうか……僕のことからかな」
そう言ながら、師匠は深く被っていたフードを取り外した。
フードが取り払われた師匠の顔は、とてもしわくちゃでボロボロだ。火に照らされた顔は、死人と見紛うほどだった。
「……醜い顔だろう。死の淵から生き返った結果だ」
「あ、ああ。それが、どうしたんだ?」
確かに師匠の顔はボロボロだ。
傷だらけで皺だらけ。生気はなく、体は枯れ木のように痩せ細っている。しかしグレイはそれを特別視しない。
人の外見より、中身の方が重要と認識するからだ。
「最初から。本当に最初から話そうか。僕のこと。そしてハクアのこと、君のこと。君が最強へ至らねばならない理由。全部話すよ。だから、たどり着いてくれよ。僕が見えなかった頂にさ」
師匠はとても真剣な眼差しで、グレイの目を真っ直ぐ見ていた。
思えばグレイは、この師匠のことを何も知らない。
とても強いマヌル人。ただ、それだけだ。
しかしそれでは駄目なのだろう。全ての鍵を握るのは、この不思議な師匠なのだから。
「まずは自己紹介をしよう。僕は英雄。朽ちた英雄だ」
「英雄?」
「それは断言できる。己の銅像なんて見れば、誰だってそうとしか言えないだろう」
「っ――」
グレイはその言葉に息を呑み、一気に師の正体にたどり着く。
「僕の名前はグレンザー。三十年前にポックリ死んだことになっている、マヌルの英雄さ」
師匠グレンザーは、自嘲するようにそう言った。
今宵語られるのは、英雄グレンザーの物語。ハクアとグレイの物語の前に語られる前日譚。
下らない人生を歩んだ英雄が、真の英雄を見いだすまでの話だ。
◇
三十年前――クリスタ王国。
もしその景色を見れば、現在のマヌル人達は大きく顔を歪ませるかもしれない。
それはマヌル人とマヌル人を戦わせる見世物。剣闘奴隷の姿だからだ。
「おお。やはり最強はグレンザーか」
「奴の牙城を崩す者は現れないな。これじゃあ賭けになんねえぞ」
人が殺し合う姿を見世物にし、金を掛ける遊びにする。
そんな醜い人の業が煮詰まった場所が、この闘技場だ。
英雄グレンザーは、かつてこの闘技場の最強だった。
並ぶ者なき最強の剣士。どれほどの多勢であろうと、どれほど強大な敵だろうと、全てを粉砕して勝利した二百連勝のマヌル人。
それが英雄グレンザーだ。
しかしそれはグレンザーの本意ではない。
(くそっ。絶対に、抜け出してやる)
グレンザーは自由を求めていた。
今は奴隷に甘んじながらも、抜け出す日々を虎視眈々と狙い続ける。
気付けばグレンザーは、一つの勢力を密かに築いていた。
それは闘術を操る剣闘奴隷の集団だ。
グレンザーが偶然たどり着いた闘術を仲間に広め、作り出したそれはすでに無視できない勢力となっている。
しかし徹底した情報統制と、連携によってクリスタ人は誰もそれに気付いていなかった。
グレンザーが計画するのは反乱だ。マヌル人を立ち上がらせて、この支配から脱却する。
そのために、牙を研ぎ続ける。
確実に上手くいくという機会を狙っていた。
王国が混乱し、国家機関が一時的に麻痺した時が一番良い。
待って、待って、待ち続けて、そしてようやく一つの吉報がグレンザーの下に訪れる。
「グレンザー。どうやら王が死んだらしい」
「へえ。……チャンスかもしれないね」
国王が突然の崩御。それは奴隷たるマヌル人にも広がる一大ニュース。
そして反乱を起こせる絶好の機会だ。
「闘術を使える奴も増えてきた。奥義にたどり着いたやつも数名いる」
「そうか。しかし少数精鋭が僕らの欠点。急ぎすぎず冷静にね」
「ああ。わかっている」
グレンザーは慌てない。剣闘奴隷という仲間同士で戦う仕組み上、味方を増やすのは非常に難しい。
強力な勢力は築けたが、少数精鋭という弱点を抱えていた。
やはり数は力であり、反乱の成功は今一歩足りない。
「どうにか奴隷達を立ち上がらせるしかない。僕らの言葉で立ち上がってくれるか」
「俺達が闘術でクリスタ人をボコボコにしたら、他の奴らも目覚めるかもしれない。そしたら、反乱も成功する!」
「そうだと……良いが――」
グレンザーが思案した瞬間だった。
仲間の一人が部屋に駆け込んでくる。
「――グレンザー! やばい客人だ!」
「えっ?」
それは一つの大きな切っ掛けだ。
「第三王子の、バルカン・G・クリスタが来た!」
その来訪を切っ掛けに、クリスタ王国の内戦及びマヌル人達の奴隷解放は始まる――