久しぶりに訪れたクリスタ王国は、酷く変わり果てていた。
奴隷という存在は確かにいない。だがマヌル人達は貧民街という場所で暮らし、そこは地獄と言うしかなかった。
ギャング達が支配し、薬と暴力が蔓延する世界だ。
人々は貧困と恐怖に喘ぎ、死人ような顔で日々を生きていた。
「なんと酷いことに……でも、大丈夫だ。神に贖罪を果たせば、必ず幸せになれるはずだ」
グレンザーは同族の現状に涙を流し、神への贖罪を完遂することを決意する。
神へ許しを請えば、全ての不幸がなくなるはずだとグレンザーは信じ切っていた。
故にまずは神の子と噂のハクアへ会いに行くことが先決だろう。
そう思って王都へ足を進め――
「――ん?」
一人の少年が目に入った。
それは灰色の髪に、黒い瞳の少年だった。ボロボロの服と錆びだらけの剣を携えた、ここではありふれた子供の姿だ。
しかし、グレンザーは驚愕する。
「君、なに?」
「……誰だお前。何のようだ」
その少年が秘めた力は、明らかに普通ではなかった。
今はまだ可能性でしかないが、グレンザーはいとも簡単にそれを見抜く。
天才と自負するグレンザーよりも、今まで見てきたどの強者よりも少年の才は優れていた。
そして同時に、理解する。
「……神の子が生まれた理由を見つけた! つまり、この子か。この子が特異点なのか。この子がハクアの生まれた目的なのか」
この少年が、切っ掛けだ。
神はこの子が己に届くと恐怖して、神の子を下界に送り込んだのだろう。
姫騎士ハクアは、この少年を殺す運命を持っている。
そうグレンザーは推察した。
◇
「……つまり、どういうことだよ師匠」
バチバチと焚き火が燃え上がる。
それに照らされたグレイは、その話を聞いてただただ困惑していた。
非常に難しい話である。頑張ってついていったが、わからぬことも多かった。
しかし一つ理解できるのは、グレンザーが神というものに固執しているということだ。
「俺を殺すのか? それが目的なのか」
「そうだね」
「ならなんで、俺の師匠なんかやってるんだよ」
グレイは意味がわからないと首を振る。
そしてグレンザーは目を伏せていた。
「僕はね、最初はそのつもりだった。でもその前にハクアに会いに行ったんだ。そして彼女の話を聞いて、止めた」
「なぜ?」
「彼女はそれを望んでいなかった。ハクアが望むのは誰かを殺すとか戦うとか、そういうものじゃない。愛して、愛されて、そういう小さな幸せだよ」
グレンザーは自嘲するようにそう言った。
神から使命を受けてこの世に舞い降りたと推察したが、当の本人はその使命なんて知ってすらいなかった。
力は確かに神の子と言えるが、その内面は普通の少女と相違ない。
それが姫騎士ハクアだ。
「だから、わからなくなった。どうすれば良いのか。そもそも神への贖罪を果たせば幸せになれるのかもわからなくなった」
「そうだろ。その神とかいう奴に謝ったところで、何が変わるんだ? 世界はそんな単純じゃないだろ!」
グレイはまだ若造であるが、この世界というものを少しは知っている。
神がどういう存在かなんてわからないが、それに謝罪したところで、何が変わるというのだろう。
そもそも神を追い出したから不幸が始まった?
そんなはずがない。人と人が存在するかぎり、必ず生まれる歪みこそが不幸である。
そこに神だの何だのは関係ない。
「……僕は理由が欲しかったんだよ。こんな人生になった理由がね」
「まあ、それはわかる。マクガフ司教と同じだろ」
「そうだよ。彼と僕はよく似ている。だから教義を教えたら、あっという間に宗教を生み出した」
そうグレンザーは懐かしむように告げた。
マクガフ司教が言っていたあるお方とは、英雄グレンザーのことだったのだろう。
だから二人はよく似ている。不幸に理由が欲しくて、神を信仰する者達だ。
「僕はね、その理由に縋るしかなかったんだよ。だから、ハクアの望みを叶えようとした。神の子を助けることで、僕が助かろうとしたんだ」
「……だから、俺を鍛えたのか?」
「そう。僕はあの子を真に救えない。救えるとしたら、同じく規格外の化け物である君だけだ」
グレンザーは英雄たりえない。
全てを失い、不幸の理由を探して神なるものに縋り、己自身で立ち上がれなくなった時、英雄でなくなってしまったのだ。
故にハクアを救うため、真の英雄を育てようとした。
「そうやって僕は生きてきた。本当にこれで良いのかと迷いながらね」
「……そうか」
「でも今は、あまり迷いはないよ。ずっと考えた。考えて考えて、己の弱さを自覚したからね」
一呼吸置いて、グレンザーはたどり着いた結論を口に出す。
「神に贖罪を果たしたとしても、何も変わらない。そんなもの、僕の逃げが生み出した妄想だ」
「ああ……」
「つまり世界は、元々こういうふうに出来ていたんだ。神がいなくなる前から、何も変わっていないよ」
グレンザーは燃え上がる炎越しに、グレイの目を見つめていた。
その目には、神に縋った弱いグレンザーは存在しない。
グレンザーが奴隷として生き、仲間達を殺される人生をたどったのは、そういうものだからだ。
世界が最初から、そういうふうにできているのだ。
神を世界から追い出したからとか、そういうものではなかった。
それを今のグレンザーは理解している。
「じゃあ師匠は、今何を思って生きてるんだ? なんで俺をこんなところに連れてきたんだ?」
「僕が神に逃げたせいで、果たせなかったことをするんだよ。仲間達の無念を晴らすんだ。彼らの望みを叶えるんだ」
グレンザーの中には迷いがなかった。
逃げ続けたことを後悔し、それを取り返すという決意がある。
その目は熱く燃え上がるような光を放っていた。
「仲間達を殺した奴らへ復讐」
「っ――」
その言葉で、グレイは察する。
バルカン・G・クリスタを暗殺したのが、誰なのかを。
「そして――」
そこで言葉を切られ、夜の静寂がゆっくりと場を支配した。
すると聞こえてくる、炎がはぜる規則的な焚き火の音や遠くに響く低い獣の声。
グレイは次の言葉を待ち、耐えきれず問いかけようとしたところでグレンザーは口を開いた。
「僕が見えなかった景色を、弟子に見せる。最強へ至るんだ。それが僕らが目指した景色へ繋がっていく」
「師匠……?」
「〝姫騎士殺し〟だ。君にしかできない」
それが師匠グレンザーの目的だった。