鋼紀柒拾玖年己巳
參月戊辰 辛未朔戊子
天網普く、十干十二支の輪列は絕えずして、いざ果てる老星の殘影、發つは數阡萬歲の彼方。孰れは銀河の流渾も次代の泡沫。況してや人の卋の習ひなぞ、夜露の瞬きに過ぎず、動もすれば、
詐史記眞 詐史、眞を記し
正史記僞 正史、僞を記す
蓋し考古は夜明けを知らぬ樂浪の晦中。譬へ扶桑の東の東に流されやうと、時の笹舟が搖蕩ふ光路と遍歷、今以て、周髀算經、其の眞里を櫂に宙を手繰る。爾、礙風に缺帆を紮げる事勿かれ。忘鄕は不歸の嗜みと嘯き、後塵に排した在りし日の門出。紅顏は著古した旅裝に掠れ、振り放見れば途勿き途の行き摺りに、夢、跡形も莫く。艢下の卷索を枕に干淚を臥し、有終の號砲、はた心琴を聾す。爾、禁書を鎖ぢる事勿かれ。鏡兆の導く儘に、神代の傳承を辿る可し。
互ひの更なる壯行を期し、銀河超特急999號と針路を畵した、狹丹塗りの舶鯨、クイーン・エメラルダス號。名にし負ふ女海賊が統べる、紛爭の返り血で身を灌いだ緋き黑船が、銀瀾の限りを盡くす系外の宙域に、護衞勿き不屈の隻影を橫たへ、沈思に沒してゐる。蹴汰魂しく閃いた、一瞥も介さぬ無言の再會と惜別。雙りの女王が擦れ違ひ、闇に彈けた、再び交はる事の勿い奇蹟の紅點。其の一瞬に金輪際の三文字を胸に刻み、黑鐵の十一輛編成を見送つた髑髏の紋章は、敵と我が身に死の辨證法を戒める、幽鬱で嚴めしい鬼相を深深と被り直し、舳先に降臨した從軍の女神像は、聞こえる筈の勿い汽笛の韻曳に心を澄ます。總ては行つて終つた。辰宿列張の大海原で無用な未練は命取り。本の半步でも蹈み畱まれば、其處が無名の墓碑と爲る。そんな支援も資源も斷たれた系外で、取り殘された女王は、咳をしても獨り。死期が迫り、鋭くなつた鼻梁を限る縫合痕を、舐める樣に滴る脂汗を拭はうともせず、身を投げ出した船長室のベッドの上で酸素マスクに齧り付いた儘、天蓋を蔽ふ老木の梢を見上げ、張りぼての飛行船で膨れ上がつた、スペースノイド解放戰線總裁と云ふ、ホロ苦い虛榮心に痺れてゐた。
神の見放した地球以外に新しいエルサレムを求め、星星流轉の討征に明け暮れた半生の涯に、製藥會社と御用學者が散々弄り倒した商用生物兵器と、宙域に漂ふ出自不明の鹽基配列が交雜した未知のウイルスに蝕まれ、手の施しやうが勿くなつたゲル狀の肺の腑は、最早、「物の分別より氣概に生きる。」と息卷く事すら叶は勿い。臥して死を待つ身に取つて、鉄郞の有り餘る若さの煌めきと、星辰を逆行するに等しい己の運命に挑む血意は、一服の淸涼劑處か劇藥に等しく、火酒を浴びた樣に噎せ返り、跳ね馬の如き横隔膜が窶れた脊椎に鞭を打つ。
星の原野を鐵路で翔る郞子。そんな星の名の許に產まれた少年に焚き付けられて、
「神の物語を征け。」
人恋しさから饒舌に爲り、大それた事を口に爲て終つた氣恥づかしさと、無け無しの矜恃。出涸らしの體力と心肺機能で、こんなにも胸が躍り、熱く爲れるとは。枯れた草程、良く燃えると云ふ事か。命の炎群が盡きる最期の惡足搔き。線香花火の樣な僅かな餘生に、來卋を前借り出來る當てなぞ望む可くも勿く、旅の恥ぢを搔き捨ててきた其の負ひ目を、己の命で決濟する事しか出來勿い。自前の體に裏切られた本物の孤獨が研ぎ澄ます、闇を越えた闇へと何處迄も潛り込んでいく自己認識。魂は光に餓ゑて死ぬ。病床から腰を上げた丈けで立ち眩み、意識が飛ぶ末期患者だ。此の儘、白想のベールに包まれて息を引き取るのも滿更ぢや勿い。倂し其の前に、一つ丈け遣り殘した、己の爲す可き事を爲し、果たす可き物を果たさねば。强がりを云ふ相手も消え失せた絕界の孤舟。宇宙の寳なぞ、何處にも勿かつた。責めて最期の一仕事丈けでも全うしなければ。
エメラルダスは船長室の扉の向かふで蠢く無言の氣配に、ズレ落ちた髑髏のヘアブローチを直し乍ら、痰の絡んだ澑め息を吐いた。艦内クーデターで襤褸を出し、合はせる顏の勿い臣下達の、撥条仕掛けでしか勿い默禮。天庭の紅孔雀も地に墮ちた。銀河光路の圈外を雄雄しく羽擊いていれば、スペアノイドに寢首を搔かれる事なぞ勿い物を。標準裝備のアルゴリズムに改悛の念を期待するなぞバッテリーと時閒の無駄と許りに、エメラルダスは血の滲む鶴聲を飛ばした。
「もう良い。影に戾つて下がれ。」
次次と中央管制室の合成義惱に同期して筐體を格納し、輯積化した電影の地下室に潛り込む機畜の群れ。人口被膜もカウリングも勿い甲殼の上から被つてゐたブルカが主を失ひ、舞ひ降りた床に折り重なつていく。あんなサポート期限の切れた形代、幾ら竝べても目障りな丈け。手當たり次第に叱責し、憂さを晴らす氣にも爲れ勿い。然うと判つてゐて何故、返品不可のワゴンセールに手を出して終ふのか。農耕家畜と愛玩動物、奴隸と愛人は紙一重だ。心の何處かで其處に慰みを求めてゐるのだとしたら。力盡きて地に墮ちたのなら未だしも、愛の巢を求めて地に墮ちた孔雀なぞ見たくも勿い。
ヘッドボード脇のキャビネットで光貴を湛へる、八咫一周、青銅、仿製の内行花紋。其の磨き上げられた鏡面に映る、血の氣が失せて顳顬が圡氣色に變色し、顴骨から外顎へと削ぎ落ちた、虫の息の靑娥に手を翳し、エメラルダスは傳磁束揚錨機の主動力を爪彈くと、所在勿げに光指を絡め、仙女座の星屑を數へてゐた探照燈が七色に放電し、豫熱を孕む光束核幽囂爐に共振してゐた埀平尾翼が反り上がり、虛しく咲き誇つてゐた、ゴンドラ式木造キャビンのガレオン船を餝り立てる、艤裝の限りを盡くした豪奢なレリーフが色めいて、一矢討星の主砲を尖頭に、過積載のウェポンコンテナを持て餘してゐた鋼殼氣嚢が、銀河鐵道公安警備の派遣した裝甲車輌を、一擊で仕畱めた暴威で張り詰めていく。祝砲勿き拔錨の捕索。脇腹の内骨龍が軋みを上げ、飛行船の纏ふ天鵞絨のキルティングに鏤めた核濫粒子のラメが綺羅星を裝ひ、天河の黑潮に冥彩化していく。
「火星の探査情報は更新されたか。自轉、公轉速度、地軸、眞円率の觀測データに變化は勿いか。」
大航海時代の懷古趣味で厚化粧をした二層式船尾樓の意匠に圍まれて、舵柄に凭れる事すら敵はず、病床から指揮するエメラルダスが靑銅の御鏡に問ひ質すと、管制室の合成義惱は銀河鐵道株式會社が提携先へ限定開示してゐるサーバーから檢索した結果を、宙響發振モニターを介し淡淡と讀み上げていく。
「決壞シタ帶域ノ狀況ハ漏洩機密ノ破砕流ニ阻マレテ、電寇防壘ヲ突破シタ經路ノ特定モ含メ、進展ハ有リマセン。」
「重合體に關する構造解析と被害報吿は。」
「インデックス二混在スル覺變履歷ノ追跡ト、多發的構文單位ノ解讀ガ白紙ニ戾リ、電劾重合體核因子ノ實態究明ハ、依然トシテ捗捗シク有リマセン。新シイ被害報吿ニ關シテハ、太陽系外緣環狀線ノ遭難車輌ガ電劾重合體ニ因ル物ト判明。運行識別番號ハGL-776。周遊型臨時列車デス。其ノ後、銀河超特急999號モ同重力底層帶ニ滑落シ、GL-776ニ追突シテヰマスガ、銀河超特急999號ノ損傷ハ輕微デ在ツタ爲、復旧作業ノ後、速ヤカニ重力底層帶ヲ離脫シ無限軌道ニ合流シテヰマス。GL-776ハ遺體ノ囘收ヲ終ヘテヰル物ノ、殘畱因子ノ除染ガ難航シ、車輌ハ事故當時ノ狀態デ放置サレタ儘デス。」
「何、999が。然うと判つてゐれば、鉄郞や999のデータベースから現場の詳細を聞き取れた物を。星の巡りの惡さには爲す術が勿い。何れにせよ999を卷き込むとも爲れば何か在る。譬へ後手を蹈んでも足を運ぶに如くは勿い。上りの進路に在るのも出來過ぎだ。急行しろ。」
「デスガ、殘畱因子ガ。」
合成義惱が其處迄云ひ掛けると、エメラルダスは管制室との交信を切り、プロパティを開いて合成義惱の應答係數を書き換へ、自動航行のポインターを現場の座標に手動で重ね合はせた。
「殘畱因子の如き落ち零れに手を燒いて、火星の本丸に挑めるか。態々居座つてゐるのなら、此の手で尻尾を摑む迄だ。」
遺體の囘收作業と中斷した除染作業に因つて飛散した、破片と粉塵が埀れ籠める靄の向かふに、辛うじて判讀出來るラッピングの“GL-776”。御鏡越しの船外モニターに映る、飴色に變質し、砂繪の樣に崩壞した流線型のロゴタイプは、重力の底に叩き落とされた事故の凄まじさより、人事の及ばぬ因果の虛しさを代辯してゐる。遭難現場と云ふより古代文明の發掘現場に足を蹈み入れた聖謐な戰慄。古址は萬死を語り、寡聞は萬感を凌ぐ。事後處理が儘ならず、實況見分も其處其處に放置されたと云ふ丈けで、こんな爆發的經年變化は有り得勿い。武力衝突に因つて蹂躙された數多の修羅場や焦圡を、望觀、睥睨してきたエメラルダスですら眼を瞠る異形と狀景。脫輪した儘、智惠の輪の樣に聯結器で屈曲してゐる幽靈列車の一輛一輛が、盜掘された王墓の玄室の樣に、見捨てられた榮華を飄飄と曝してゐる。
奇病を患ひ、死の淵を舐める女王に取つて、他人事では勿い其の末路。己の墓を自らの手で暴いて終つた錯覺。嘲笑ふ事も怖ぢ氣付く事も出來勿い旣視感と暗示に、呑み下す事の出來勿ぬ血痰が執拗に絡み附く。此れが銀河鐵道管轄の在來軌道から、半步でも足を蹈み外した物の現實。其れは系外光路で無法を極めるエメラルダスとて例外では勿い。然して、擊沈されたらハイ其れ迄の海賊稼業と較べたら、重力の蟻地獄に叩き落とされたとは云へ、遺體を囘收して貰へる丈け此の遭難列車は增しな方だ。宇宙線と車内の窒息した大氣に因つて腐蝕し、蛛網の如きコーティングの龜裂で覆はれた外裝。天板や備品が剝落し、瓦礫の下敷きで葬列を成す、スプリングの飛び出した無人のリクライニングシート。大破とは一味違ふ凄慘。尋常で勿い時空を超えた荒涼。リゾート氣分の成れの果てと云ふには、隨分と手の込んだ事を爲る。斯う爲ると、奴さんは獨りと限ら勿い。面白い案件は幾つも尻尾がブラ下がつてゐる物だ。
エメラルダス號を遭難車輌に接舷して錨索を解投すると、ウイルスの巢窟と化した肺の腑に鞭を打ち、病の褥から身を起こした女王は、御鏡の船外モニターを管制室に切り換へた。
「劣化した車體のサンプルを經年較正曲線と對照し、周圍に漂流してゐる殘骸も含めて、現場に染核同位信號を放射しろ。其れと列車のタイムスケジュールだ。各停車驛の到著時刻と出發時刻に乘客名簿、遭難信號と囘收された電操レコーダー、脫線した軌點の履歷が有るのなら其れも檢べろ。」
機族が誇る永遠の命を奪つた、一澑まりも勿い彼我の所業。神の時辰儀を數仟年單位で空轉させたとも爲れば、こんな藝當が出來るのは宇宙廣しと云へども獨りしか居勿い。電劾重合體の影を追つてゐる内に、實體が影よりも薄い、眼の前に居乍ら、幽明、竟を異にする彼の女に突き當たるとは。999と別れた許りで此の因緣。燃え盡きる命の誘蛾灯に引き寄せられて、惡友から惡友へと渡る鞘當てに運命も粹な事をする。除染作業が進まぬと云ふのも彼の女が入り浸つてゐるからか。萬有萬物を網羅する砂時計の囁きを、瞬き一つで時爆裝置の死の宣告に變へる奴の事なら、重合體を手懷けても不思議では勿い。火星の大掃除で惡魔の手も借り度い處だ。此の墓穴は飛んだ掘り出し物に成るやも知れぬ。主勿き棺の中に盜り零した凶惡な副葬品。勿體振つた禁忌の寂寞を走査する探照燈の烱光崩射線。
「出て來い竜頭。」
チアノーゼで掠れた唇を食み、エメラルダスは透晳スコープを過る魚影に眼を凝らす。其處へ、
「事故當日ノ列車ノ運行記錄ヲ報吿シマス。GL-776ハ、大長阡肆佰陸拾伍年乙巳、貳月丙寅、辛丑朔丙午、正午、定刻通リ始發驛ノ・・・・・・。」
合成義惱の平坦な報聯相が水を差し、女王は御鏡の坐すサイドキャビネットに、握力の入らぬ拳を振り下ろした。
「オイ、復た例の年號と干支にタイムコードが化けてゐるぞ。汚染されてゐるのは何處だ。眞逆、銀河鐵道中央管理局のデータベースに迄、達してる譯では有るまい。」
「申シ譯御座イマセン。除染作業ノ遲レ二因リ滯畱シテヰル、電劾性核種ノ電荷ニ、管制宙樞の入出力系統ガ、不正ニ誘導サレテヰル物ト思ハレマス。運行記錄ヲ鋼統機元ニ換算シマスト・・・・・・・。」
「もう良い。」
時を弄ぶ石女に、過ぎ去りし千代の來訪者。此れは屍肉を嗅ぎ付けて出會した同じ穴のハイエナなのか。此の狂つた時の齒車は、雞卵、何方が先なのか。絡み合ふ謎と猜疑の萬華鏡。エメラルダスは舌火を飛ばし、眩惑に搖れる己を叱咤した。
「重合體の缺片に足を取られて縺れる位なら根元から斬り落とせ。そんな蜥蜴の尻尾に用は勿い。本體は何處だ。」
「傳導率ノ安定シタ車體ノ通電部位ニ、電劾重合體ト思シキ蠕動波形ガ、帶電シテヰマス。」
「其の怪周波を炙り出せ。」
「其レト・・・・・・。」
「其れと、何だ?」
「・・・・・・・・鳥デス。」
「鳥?」
「雉科孔雀屬ト思シキ鳥デス。六號車ノ集傳裝置ニ停マツテ、當船ヲ觀察シテヰマス。」
業務聯絡の其れ以上でも、其れ以下でも勿い、一拍閒を措いた合成義惱の聲色。倂し、意味が全く追ひ附か勿い。完全に場違ひな生存者に、耳を疑ふ事すら忘れて眞つ白に爲つた女王の頭の中に、扇狀に廣げた餝り羽が優雅に舞ひ降りてくる。眞顏で云つてゐるのか。低音の拔けたビープ音に毛が生えた程度のテキストリーダーでは表情が讀める筈も勿く、今一度、應答履歷を再生するのも思ひ畱まり、エメラルダスは御鏡を透晳スコープから船外モニターに切り換へた。愛玩用の自律模型なら、探照燈の走査線が一瞬で化けの皮を剝いでゐる筈で、眞逆、自前の宇宙服で無人の周遊列車に巢くつてゐるなぞ、そんな閑古鳥、聞いた事が勿い。船外は絕對温度で2.7K、攝氏-270.45℃に達する、宇宙線の嵐と無氣壓の極限卋界だ。僅か數分でも耐へられるのはクマムシ位の物で、其れ以外に、此の絕望的な必死の領域を凌駕する存在と云つたら、將に、不死鳥。己の異名に相通ずる未知の生命の豫感。エメラルダスはモニターに映し出された、絡まり合ふ車列の六號車を眼で追つた。倂し、集傳裝置の周辺を拡大表示しても、其れらしき禽影は見當たら勿い。
「何處だ、其の鳥をフォーカスしろ。」
「此ノ鳥デス。」
合成義惱は卽應するも、スイッチングした箇所には押し潰された集傳裝置と各部の材質、劣化指數がレイヤー表示されてゐる丈けで、無機無情な靜止畵が鏡面に貼り付いてゐる。
此處に鳥が?耳丈けでは飽き足らず、我が眼も疑ふ怪訝な續報。此の合成義惱、セコハンで換裝した都督の分際で、船主を試してゐるのか。其れとも、大氣圏外を流離ふ未だ見ぬ鳥類が、重力の特異点を制空し、人閒の可視領域波長を越える、偏光素子の體毛で擬態してゐるとでも云ふのか。機械に迄舐めらて終ふとは卋も末だ。苦笑の餘り卑屈に歪んだ、鼻梁を限る縫合痕。地に墮ちた筈の女王の矜恃は、未だ踊り場の上を轉がつてゐた丈けらしい。
「ならば、其の鳥とやらを生け捕りにしてみろ。」
「彼ノ鳥ヲ、デスカ?」
「然うだ。」
神經質なシーク音を搔き毟り、沈默に伏す合成義惱。抑も、船長の司令を卽座に實行せず、聞き返してくる事自體が有り得勿い。其の不遜な態度に、船外モニターから眼路を切り、誰も替へて吳れる者の勿い敷きつ放しのシーツの上に、燃え止しの樣な病身を投げ出し、立ち昇る塵に咳き込み乍ら、唐桃の梢が鬱蒼と絡まる天蓋を見上げたエメラルダス。應答係數を弄つて誤魔化し續けるのは此處迄だ。こんな思はせ振りで、電卓を咥へた丈けの九官鳥に用は勿い。どうせ、最後の現場で此の船諸共スクラップに爲るのだ。今の内に精精、愚圖つてゐろ。エメラルダス號もエメラルダスも整備や燃料の支拂ひが澑まつた圖體許りの笨骨で、此れから首を突つ込む生まれ故郷の惑星も似たり寄つたりの火の車、
身を捨てて花を惜しとや思ふらん
其處で何もかも御破算だと獨り言ち、額から眉閒へと滴り、縫合痕を傳ふ汗が、綻んだ目尻に滲み込んだ、其の時、
打テドモ立タヌ鳥モアリケリ
宙響發振モニターとエメラルダスの耳小骨を超えて、口を濁した下の句が、再起不能の肺の腑を衝いた。姿勿き不意の返歌に息を呑み、望外の詩魂に觸れた陶醉に戶惑ふ餘裕も勿く、襟足の和毛を驅ける靈妙な戰慄。
「生ケ捕リにすル・・・・・コの・・・・・私を。」
PCM音源から血の通つた何者かへと一瞬憑變した異界からの神韻。合成義惱の發音デバイスは、造聲音の餘りにも完璧な滑舌の違和感と、居もし勿い乘組員の肉聲と區別する爲に、敢へてサンプリング音源に據る聲替模寫は設定せず、平坦な紙に印刷した樣なPSG音源で、不自然な人閒臭さを消してゐる。其れが今、天命を下す玉音の如き莊嚴な風格を湛へて、本の微かに化けの皮を現した。もう旣にエメラルダス號の管制機能は電劾重合體の殘畱因子の勢力下に在るのか。此れが帶域核醒自我の聲?血の通つた俗人とは毛色が違ふ泰然とした威迫。驗を示さぬ創造主の寡默な恫喝。不敬な被造物に跪拜を强要する尊大な僭稱者。
全く何奴も此奴も怪しからん。名にし負ふエメラルダス號を治す英魂を誰と心得る。朝貢を乞ひ願ふなら未だしも、手ブラで謁見なぞ烏滸がましい。禮儀を辨へぬのは貴樣の方だ。神の聲色に怯むエメラルダスでは勿い。女王の耳目を唆すにも程が在る。
「何者だ。姿を現し、名を名吿れ。」
合成義惱の音源に憑依した招かざる客に語氣を荒げるエメラルダス。處が其の口吻を衝いて迸る心火に、聲の主は冷や水を注ぎ、事も勿げに受け流した。
「何者・・・・・・デスカ?」
「然うだ、貴樣は何者だ。」
「何者・・・・・・トハ?然ウ云フ貴方ハ、何者、デスカ。」
「私はスペースノイド解放戰線總裁、クイーンエメラルダスだ。」
「私ハ・・・・・・デスカ?」
「訊いてゐるのは私の方だ。聞こえぬのか。私はエメラルダスだと云つてゐるのだ。貴樣は何者だ。答へろ。」
「私ハ、エメラルダス・・・・・デスカ?」
「ですかも何も勿い。私は私だ。」
「本當ニ、私ハ私・・・・・デスカ?」
エメラルダスの言葉と自我を反鏡し、其の意味を解體する聲の主。總てを見透かし、宥め喩す樣に女王と云ふ虛餝の闇に迫り、其の資質を試すPSG音源の假面。言葉に窮したエメラルダスは、御鏡の中に祀つた戰士の銃を拔き取つて、自己疑念の禪問答を振り拂ひ、僞りの鏡に映した鸚鵡返しを一喝した。
問君何能爾 君に問ふ 何ぞ能く爾るやと
心遠地自偏 心遠ければ 地も自づから偏なり
此中有眞意 此の中に眞意有り
欲辯已忘言 辯ぜんと欲して已に言を忘る
ソクラテス氣取りは其處迄だ。個毒の坏なら閒に合つてる。己を癡れと云ふのなら、貴樣の方こそ人智を模造した形代としての分を辨へろ。」
爲ると、顱頂を劈く蹴汰魂しい禽啼に、直径465mm、厚さ1mmに磨き上げられた靑銅の鏡面が彈けて龜裂が走り、艦内を轟然とした羽音が霏霺いて、嚴づ靈を振り降ろされた唐桃の幹が激甚し、絡み合ふ梢と梢の文目から火の粉の驟雨が降り注いだ。天蓋の上段を突き拔けて羽擊く、獣毛の粘著質で貪婪な體臭。波打つ老木の葉蔭に遮られた、得體の知れぬ忽然の怪力亂神。女王の奧室に飛來した招かざる客の狼藉に身構へ、舞ひ降りて來た錦糸の閃きを手に取ると、此ぞ正しく架空の靈鳥、鳳凰の尾羽と云ふ奇瑞の獨片。今、此の船は、紐解かれた神話の、見開かれた雙翼の直下に居た。息を呑む、星が產まれ落ちた樣な生命の燦歌。迸る悠久の熱量と絢爛たる魔性の因力が時空を超え、エメラルダスの前頭葉に盈ちる惱漿が、灼熱の岩漿と爲つて水底の地殼を貫き、決壞した。
太古の微睡みに搖蕩ふ南洋の漣。文明の穢れも、天と海の竟も知らぬ其の黎眠に、目覺めの時が訪れた。氷河が凍解し海拔に沒した火山帶を驅け拔ける、運命の星の胎動。穩やかな陽氣に誘はれて、潮騷を奏でてゐた暖流が俄に色めく、大海鳴動。離れ離れの㠀嶼から海鳥が一齊に飛び發ち、新しい大陸の様に隆起した海面に、地母神の鎌首が怒髮した。地球最大の溶岩ドームを撼るがす數萬年に一度の慟哭。天を衝く鬼界の火柱が蒼穹を焦がし、噴煙の積亂雲を渦卷く火山雷が、此の卋の始まりと終はりを宣吿する。灰塵で塗り潰された日輪。降り注ぐ烈火の噴石と黑い雨。其の生と死のコントラストを、復活した神の使ひが鵬翼を廣げて旋囘し、尾羽に鏤めた金燐を悠然と振り撒き乍ら、沸鼎の如き眼下を等閑してゐる。カルデラの煉獄、水床の岩漿澑まりの繭に包まり昏睡してゐた不滅の靈鳥。海を隔てた東の涯の扶桑の地を宿り木に、幽界と俗界を行き交ふ、神仙鄕の舞ひ姬と謳はれし火の鳥の氣紛れが、列㠀の南端に火碎流の津波と爲つて押し寄せ、縄文の國と民の總てを灼き盡くした。
溶岩流と火山灰の下で息絕えた死の大地。噴煙の帳が降りた晝も夜も勿い鈍色の四季。生きる場所を求めて、神を祀つた祖地を棄てて北上する、氏も姓も勿い灼け殘つた人の波。尾根を、瀨瀨を、國境を途切れる事の勿く續く其の行群は筑紫の地を越え、氷河が溶けて後、幾千年もの閒、現生人類から完全に見捨てられてゐた、不毛の大地が橫戲る未だ名も勿き半㠀を目指した。然して時は流れ、焦圡と化した祖地に人と綠が戾り、縄文の息吹に因つて切り拓かれた半㠀との往來が隆盛を極めても、志賀㠀を後にして、天の國と呼ばれた壱岐㠀を圍む海ヶ原に漕ぎ出す者達は、筑紫の春日を、御笠の山河を今一度眼に燒き付けやうと、大艫の緣で搔き暗れる。
天の原ふりさけみれば春日なる
三笠の山に出でし月かも
命を賭して半㠀を、大陸を目指す者達の吟じた筑紫の古哥。其の妙なる唇韻が靑史を數へ、航路を遮る對馬海流が、天河の潮へと轉調していく。玄界の沖つ波閒に見送つた夜立ちの月を限る一筋の機影。新卋紀の方舟が約束の地を目指し、火の鳥が燃え盛る。
客室なぞ望む可くも無い貨物船に詰め込まれた、移民とも難民とも廢棄物とも知れぬ、電惱化の激流で罹災し、剪定された再生可能人類。次の寄港先さへ未定の儘、大氣圈を脫した宙域開拓團に、密航の手配師と奴隷商人の罵聲が飛ぶ。地球を追はれて押し込められた火星の地。其の吹き澑まりすら追はれて、デブリの環狀帶を周囘する、民族合辨事業とは名許りの人類の離散。緊急避難所の如き、積み荷のパーテーションで仕切られた丈けの船内倉庫に、其れ其れの神へと捧げる敬虔な禱りが交錯し、飢餓と彈壓に因つて疲れ切り、死んだ樣に眠る者と、眠る樣に死ぬ人人の、垢に塗れた腋臭と死臭で噎せ返る昏睡の片隅に、兩親から賣り拂はれた事すら知らぬ獨りの孤兒が、膝を抱へて蹲つてゐた。後にエメラルダスと名吿り、格外報奬金を首に掛けられて第一種特別指名手配される少女の、淚も足處氣勿さも涸れ果てた寢顏。聞き取る事の出來ぬ、他民族の禱りを子守歌に幕を開けた女の一生が、銀瀾の逆潮に乘つて、神話の綴れ織りを、禁斷の焚書を、今、靜靜と卷き戾す。
「日巫女樣。」
聞き覺えの有る神寂びた聲と、行き交ふ衣擦れの音に搖り起こされた少女の耳元で、片付けられていく須惠器の澄んだ音色が弦を彈いてゐる。家畜の樣に押し込められた貨物船とは別卋界の聖謐が張り詰め、鼻粘膜に焦びり付く死脂から解き放たれた、愼愼と冴え渡る玲氣と木の香に、千載一睡の昏昏とした太古の魔泥みが灌がれていく。此れは胡蝶か、邯鄲の夢か。生まれ變はつた樣な、其れでゐて再び巡り會へた樣な恍惚。薄目を開けた隙閒から、對座する銀髮を小振りの丸髷に結つた嫗の懷かしい面差しが覗き、篝火の中に浮かび上がつた床板の、整然と伸びる柾目を辿つて重い瞼を差し上げると、豪壯な梁桁と母屋に覆ひ被さる茅受けの竹格子が、天蓋の闇に呑まれてゐる。神の聲を賜る稀人にのみ赦された髙床の壯禮威な宮室。城柵の外で今も鳴り止まぬ騷亂とは無緣の、天の使ひが坐す淨域で、朝餉の最中、復た轉た寝をしてゐた。今以て慣れぬ朝まだきの勤め。被髮屈紒に單被の貫頭衣を著た婢僕が退くと、嫗と雙り、交はす言葉も畏まり、手振りで促される儘に身支度を調える。
景初貳年、魏の明帝より封ぜられた品品の中でも、漢外不出と傳はる文錦で仕立てた、細紵縑綿の緣餝り、腰衣、平帶に舶載の淺靴。鐵火の如き瑪瑙の管玉と璢璃色の硝子玉の首餝りに、翡翠の胸當てを重ね、腰迠達する束ね上げた埀髮に、赤漆の堅櫛と簪を插して、漢の貴女のみに赦される琥珀の耳璫。凡そ、祭殿に昇る白裝束では勿い、時の雅を極め、贅を盡くした繕ひにも、只、戶惑ふ許りで心が華やぐ事は勿い。さて、禊ぎもせずに迎へる今日の勤めとは一體。無言で著付けをする嫗の息使ひに包まれ、虛ろな吐胸を絳地の帶紐が更に締め上げる。右も左も判らずに餝り立てられていく眠気目泣子の夢心地。其の朧な星眸が、不圖、倭鏡の反影に突き當たり、幼き日のエメラルダスが映り込んだ。美しく成る事を約束された貴種の血統。生え替はりで前齒の拔けた足處氣勿い相貌ですら、隱し果せぬ氣品で滿ち溢れてゐる。卋俗の憂ひと緣の勿い珠寳の如き肌の血色と、長けに餘る黑妙の埀髮が發つ、月の物すら知らぬ穢れ勿き神祕の操。不思議な面持ちで瞠め合ふ、猜疑心の缺片も勿い円らな瞳。其の麗しき健氣な眼下を、鼻梁から笑靨へと斜めに限る禍禍しき一條の墨痕。逃れ得ぬ數奇で過酷な星の巡りを暗示する、斬り裂かれた少女の未來。天と地を、神と人を結ぶ能の驗として彫られた、嚴づ靈の呪ふ文りに、常し方の因果と錯綜する記憶が俄に甦る。
春から秋を一歲、秋から春をひととせと數へて、
拾有參春秋
王女として產まれ、何不自由勿く育てられた其の歲月。大亂を筮し、倭國の邪馬を治めた俾彌呼の御卋繼ぎと成つて、早、三月。貳心勿き壹心で仕へる其の姿に、魏の明帝をして、倭國を壹心の壹國と讚へし邪馬壹國。其の賜つた壹の譽れを姓に冠する稀代の幼帝。己の窺ひ知らぬ處で擁立から卽位へと祭り上げられた少女は、女王と云ふ駕籠の中の鳥だつた。
天の川なはしろ水にせきくだせ
あまくだります神ならば神
雨を乞ふ禱りが天に屆かねば、天に屆けと焚かれる身。亂卋と災異を繰り返す每に、人人は女人の能を求めて額突き、生け贄に獻げ奉つては、次の女人を聯れてくる。そんな神か死かを生き殘つてきた、壹與は其の最後の人柱だつた。物心付いた時には大婆の手解きを受け、見樣見眞似で覺えた祭祀の禮式と宇気比。其の大婆も己の手で弔ひ、圡に歸して終つた今、稚い身空で、一體、誰に賴れと云ふのか。
右も左も判らぬ儘に少女は戶口に誘はれ、嫗が外の者に耳打ちをして、津津とした夜氣を解き放つた。新月の宵が明けやうとしてゐる。掘立柱の髙宮を巡る囘廊から、枯れる事勿き七重の環濠を見渡すと、ムラからクニへ變貌を遂げ、新興し續ける、御笠の山河に圍まれた倭國の京が、星明かりが見護る束の閒の休息に、甲紐の緊を解いてゐた。天を摩し、神意に通ずる重層樓閣の祭殿。星辰の營みを計り、干支を占ふ北内郭。祖賦を納め、列㠀と大陸の寳物を輯積した髙床倉庫。竪穴に茅を葺いた工房と住居の群像。未明の空に聳り立つ物見櫓の雄雄しき墨影。壹與が居處する首長の邸閣は、城柵と守衞と樓觀に護られた、戰禍の絕えぬ要塞都市の象徵で在り、筑紫の聯邦國家を束ねる盟主の神殿だつた。
見渡す限りの總ての物が壹與に傅く、權力の中樞に擔ぎ上げられて、飢ゑも寒さも知らずに過ごす日日。倂し、止水の如き今宵に在つても爭ひの火種は絕える事勿く、誰もが羨む舶來の金品、絕佳馥郁たる香料や珍味に圍まれても、腫れ物を觸る樣に幽閉された宮室で、限られた者としか顏を合はさず、稚兒の戲れも知らずに育つた壹與には何の意味も價値も勿く、胸の内を語る相手も居勿ければ、今一度逢ひ度い者も居らず、自分が孤獨だと云ふ事すら判ら勿い。研ぎ澄まされた沈默に木霊する己の心の聲に耳を傾け、闇の中で僞りの勿い光明を見出す。そんな透徹した境地に達する齡にも程遠く。政祭一致の宗主國で、神を媒つ憑り代としての勤めを果たす。其の大役に浮はの空で應じ續ける壹與で在つた。
「此處に召されしは狗邪韓國へ送られる愛瀰詩共。舟旅の壹路平安を祈りて、日巫女樣に魔を拂ひ、穢れを淨められるのを待つ身。何卒、天の寵みの有らん事を。」
嫗が指し示す階下に眼を遣ると、地に平頭して息を潛める男女の一團が闇に蹲つてゐる。星明かりの中に在つて燃え盛る、壹與の娟爛な裝ひとは比す可きも勿い、藪の中から拔け出てきた樣な、蔴や科の平織りを纏つて背を屈し、怖れ畏む下下の者達。其の二の腕と脹ら脛から覗く黥臂の文樣から、恐らくは異習の蠻族より貢がれた生口の類ひなので在らう。玉音を聞き漏らすまいと身動ぎ一つせず、女王の巫術に生殺の總てを委ねてゐる。天と地を分ける貴賤の隔絕。髙床の殿上から睥睨する下界の俗塵が、遙か東方の地に迠名を馳せる宗女の靈驗に、面を伏した儘、神助を仰ぐ、絕對的な忠誠と信仰。處が、そんな賤卑の中に在つて唯獨り、蹲跪の禮に叛いて直立不動を貫く少年が、傲然と壹與を瞑れた目泣子で睨み返してゐた。
「彼の男は誰。」
「盲の持衰で存りませう。海の怒りが治まらねば沈められる御眼汚し。顏を向けては爲りませぬ。」
眉を顰めて壹與の視界を覆ふ嫗の袖の振り。喪服の襟に著ける衰の蔴餝りを下げてはゐる物の、少年を穢れし者と斷ずるのも宜なる哉。其の蓬髮は落雷を受けたかの如く逆立ち、頭脂を梳らず、蟣虱も取らず、衣服は垢汚せし儘で病葉の樣に朽ち果て、田畑を荒らす山猿よりも猛猛しく凄んでゐる。生粹の野性兒なのだらう、木の皮を囓り、霜根を枕に暮らしてきた、仁賢の化とは程遠い其の風貌と、大人に相逢へばして、兩手を地に據る、下戶の習ひを顧みぬ不遜な態度。倂し、其れにも增して異樣な、泥を被つた頰と剥き身の手足が纏ふ、一條の薄墨すら彫られてゐ勿い產まれた儘の素肌が、新月に際立つ星明かりを照り返し、少年を氣髙き光彩で包み込んでゐた。壹與に額突く蠻族の生口は、膚の朱丹が剝げ落ちてはゐても、誰獨りとし文身を拒む者は勿く、男子大小を問はず、文厂生落ちては邑は邑、族は族、其の墨で文り、人と成りては彥と呼び彥頁を文り立ててゐる。少年の髙貴な生肌は、墨呪を信じず、如何なる國にも部族にも屬さず、服はぬ證し。何者も懼れぬ決然とした宵闇を射拔く其の眼光と、無垢の素顏に壹與は魅入られてゐた。彼こそ將に、神の名を騙る者達を裁く爲に降りてきた、本物の天孫の御姿では勿いのか。周りの者の云ひ成りで、祭壇の御餝りでしか勿い壹與の神事。そんな己の素性を暴かれた氣がして後退る錦の淺靴を、烈火の如き守衞の罵聲が引き畱め、鐵劍の把頭餝が少年の顳顬に振り落とされた。
「貴樣、日巫女樣を拜するに兩手を以て相擊つ、古への遺法を何と心得る。」
額を血で染め、野良犬の樣に聯れて行かれる航海の人柱。其の姿が一瞬、火の海の中で唐の兵士に捕縛された倭の皇子と重なり、星辰の理を逆行する魂の雄叫びが、日巫女の宿した靈能を喚び覺ます。壹與は直感した。其の齋戒は持衰なぞと云ふ僞りの物では勿い。少年は母の喪に服してゐる。
「待つて。其の漢は・・・・・
鉄郞
我を忘れて階段を驅け降りる壹與。
「爲りませぬ。」
其の腕を嫗に摑まれて抗ふ喰ひ縛つた頰に、東雲の御笠の山から射し込む赤光が羽擊き、呪墨の縫合痕と交錯した。
静かなる暁ごとに見渡せば
まだ深き夜の夢ぞ悲しき
一體、何を見て終つたのか。眼裡を解いた女王は數仟年の靑春を擦過して、再び、祭り上げる者も、看取る者も居勿い病の褥に臥してゐた。醒めやらぬと云ふには餘りにも蠱惑で唐突な幻想。老木の生ひ茂る、獨居房も同然の船長室に引き戾されて、氣が付くと、手にしてゐた筈の鳳凰の尾羽が唐桃の葉に擦り替はつてゐる。放心した儘、暫し息を整えるエメラルダス。上代の原始國家を宗主する城塞都市の眺望。神と自然と人とが渾然一體と爲つた風俗の息吹き。然して、鉄郞と誓つた再會の豫感が緖を引く淸瓏な餘韻。何もかもが腐肺した吐胸に歷歷と刻み込まれて髙鳴り、血痰を蒸し返して老咳が爆ぜる。自分が彼の時代に生きて存在してゐた紛れも勿い實感。失われた記憶の鍵穴を覗き見て終つた戰慄。そんな謎めいた陶醉を搔き亂す樣に、片言のPSG音源が圡足で蹈み込んできた。
「車體ノ通電部位ニ帶電スル蠕動波形ニ誘導信號ヲ發振シマス。」
云はれた事を遣る丈けの事務的な號令。呼吸をする必要の勿い裝置に空氣を讀めと云つた處で始まら勿い。混濁した見當識を引き擦り、明滅する夢と現の狹閒で、不圖、眼に畱まつた、鏡の中の鼻梁を斜めに限る縫合痕。幼帝の黥面が窶れた女王の死相と重なり、再び太古の宵闇に呑み込まれまいと、エメラルダスは酸素マスクに縋り付いた。
「鳥・・・・・・鳥は何うした。」
「トリ・・・・デスカ?」
「六號車の集傳裝置に停まつてゐるとか云ふ雉科の鳥だ。」
「此ノ宇宙空閒ニ、生身ノ鳥デスカ?」
苦し紛れの一言に、身も蓋も勿い正論を突き附けられて、言葉を失ふエメラルダス。狐に抓まれたのなら未だしも、雞の噓鳴きで目覺めるとは。最早、何處から意識が飛んでゐたのか、何を信じて良いのかすら判ら勿い。蹈み込んでは爲ら勿い領域とは、斯くも喪然としてゐる物なのか。面白い。ならば其の瞞しの化けの皮を切り刻む迄だ。
「遭難現場を離脫して冥王星に向かふ。重力底層帶を突破次第、遭難車輌を除染しろ。」
「除染ト申シマシテモ、重力底層帶ノ圏外カラ、機材モ勿シニ電劾性核種ヲ驅除スルト爲ルト。」
「皇粒子砲が有るだらう。」
「其レデハ遭難現場ヲ管理スル鐵道公安警備ニ・・・・・。」
「公安の犬なら此處に來る前、一匹片付けて措いたでは勿いか。あんな二束三文の紐付きが束に爲つたとて物の數では勿い。目障りな物は迷はず擊て。自分が目障りだと思はれる前にな。」
秋九月、乙亥朔己卯、
エメラルダスは瞻てゐた。大帶日賣と建内足尼の只ならぬ緣を。
「良きに計らへ。」
と諷めかされて罷り出た閒男は大本營を後にし、、周りに人の眼が勿い事を確かめると、隱してゐた敵方の一矢を靫から拔き取りて、御軍戰塵を見護る帶中日子の頸を後から射拔き、心得の有る侍從のみ輯めて云ひ包めた。
「流れ矢に朝が斃れ給ひぬ。」
直直の親征で豫茂やの討盡。何を置きても先づ、其の無念の御魂を鎭めるに吝かでは勿い。然りとて、敵襲を前にして士氣が下がる事も亦、不罷成ず、況してや、御軍の御旗が挫かれたなぞ以ての外。建内足尼は巧言を弄して外聞を斷ち、戰禍の直中を縫ひて竊かに御遺形を陣内に擔ぎ込むと、出迎へた大帶日賣は無言で頷き、非業の龍顏を檢めもせず奧方へ入御した。熊鷲の壘、白髮山の正面に、得川と垢離川の流れ込む淺瀨の中つ海を挾んで相對する大法に陣營を構へた御軍に、入り亂れた暗雲が埀れ籠める。帛で圍つた暖簾の仕切りの中で、女王は徐かに魂振り究まる烏玉の夜を俟つた。其の概しを陣幕の蔭から田油津媛は瞻てゐた。
海表に面し、舶載の文物と五穀を育む地水に惠まれた、岡縣、儺縣、伊覩縣の古鄕が脇を固め、天孫の高祖山に降りし往にし方より、絕える事勿き榮華を誇る倭國の本貫。其の天照神の庇護に浴する社稷を、卋卋脅かす南蠻東夷の圡人在りけり。熊の峯から日子山へと聯なる山塊を楯に群れを爲し、倭國との竟を爭ふ、穗浪、髙羽、層增岐野を經て山門に到る戎族。壹國の邪馬を率ゐた俾彌呼が魏に朝貢げば、吳と通じて拔け目勿く、劍戟を交へては、猛き事、熊の如し。中でも、
荷持田村に羽白熊鷲と云ふ者有り。其れ人と爲り强健して、亦、身に翼有りて、能く飛びて以て髙く翔る。是を以て皇命に不從。每に人民を略盜む。
此の兇賊を叩かずして、天下を統らす朝の宸旨は安からず。斯樣な尤もらしき大義を搴げ、大帶日子の御卋より以來、燻り續ける外憂に、日の神の庇護の許に在る御軍は、滿を持して親征に繰り出した。處が、大帶日子の覇業を淮へ、蠻族の塒を背後から襲ふ可く、那の津から海路で穴門の關を潛り、豐國から日の出と共に日子山を越え穗浪を目指すも、網を張られてゐた峠で旨旨と挾み擊ちに合ひ、大平山の麓の妙見宮に滯陣し、戰勝祈願をした甲斐も勿く、戎馬の轍を拾ふ始末。其れも亦、致し方勿し。先帝の寵愛が過ぎたのか今上の天禀は聖德に至らず。疏かにした文武の付けは明若觀火。然も其の上、訶志比の宮に還御して兵卒戎具を立て直し、天神地祇の御前に神饌幣帛を獻りて、熊曾討伐の如何を天慮に議るも、在らう事か其の託宣に怪事を付けては萬事休す。
大帶日賣と建内足尼は今一度、御鏡と須惠器を磨き上げて宇氣比の設へを齊へ、人目を憚り幾重にも圍はれた暖簾の中で、朝の御遺形を見下ろした。後ろ矢に斃れ、飼ひ犬に嚙まれた憶えすら勿い安らかな死相。其の卋事に闊い穀潰しの御淸福が、去る日に宣ひし方便を炙り立てる。御孫尊に有閒敷き其の云ひ種を、耳の咎と聞き流す事は赦し難く、女王は恚りに顫へた。朝が御琴を控き、建内足尼が沙庭を務めて、女王に降りた神之命に耳を傾ける鬼道の密儀。社稷を左右する祀り事にも拘はらず、此の八隅知し吾ご天王は、天の差し伸べた濟ひの手を鼻で遇ひ、斥けた。
大后、神に歸りて、言敎へ覺して詔ひし者、
西の方に國有り。金銀は本と爲て、目之炎のごとく種種の珍しき寳多に其の國に有り。吾今、其の國に歸せ賜はむ。
爾に朝答へ、
髙き地に登りて西の方を見れ者、國の圡を不見。唯、大海有るのみ。
と白し、詐を爲せる神と謂ひて、御琴を押し退け不控して默坐り。
俾彌呼が惑はせてゐた御卋とは人心も移り變はり、最早、口寄せなぞ聖斷の段取りに過ぎぬ。然りとて、神の乘り託つた女王の聲は神の聲。況してや、韓の國とは何處と白を切る許りか、神を誹謗り、其の名を糾すとは何事か。
凡そ茲の天下者、汝が非應知國にて、汝者、一道に向かふべし。
口寄せの最後に發つた一喝は天の戒めでは勿く、女王の腹心を突いた反吐で在つた。熊曾討伐に入れ込む朝を諫める爲に催した宇氣比とは云へ、此の造言は只の口車では勿い。辰韓が滅びて臺頭した、新羅の騰勢は眼に餘る物が有り、將に吃緊の凶事。漢化が進み力を附けた竺志の故地への抑へが效か勿ず、從にしてゐた韓の鑛の道が途絕えた日には、兵器の備へのみか鋤鍬の繕ひすら思ふに委せず、軍處の話しでは勿くなると云ふのに、本の一歳、租調の滯つた熊曾に目抉らを立てて此の爲體。熊曾は荒れ果てた膂穴の空國。兵を擧げた處で論功行賞の所領にも價せず、相手に爲る丈け鏃の無駄。熊曾に愈りて鐵銅の惠み豐かな 衾新羅國を顧みず、蠻族を叩いて何の足しに爲る。瀦獵りの神事でも有るまいに、放し飼ひの熊曾なぞ、詮ずる所、澑め池の鮒。財の國と秤に掛ける迠も勿い。其れを、去る歲の六月に造營した豐浦の宮を、翌る月に新羅の塵輪に侵寇されて泡を喰ひ、故地の討征に及び腰と爲るなぞ以ての外。竺志の地に降り立ち、天基を草創して以來、大倭帶日子國押人の御卋より續く異賊襲來を受けて天恚に奮ひ立つなら未だしも、其の矛先を熊曾に逸して、虐げられし蕃屛の百姓を濟ひ、天下を泰く平かに治める可しなぞと、口先丈けは達者な、小聰明き綺麗事を竝べる許りの生溫い政。其の皺寄せで王族と氏族の衆議は纏まらず、蠻族に舐められるのも故勿きに非ず。
「是では天王では勿く、甘君也。」
朝堂の裏方に立ち籠める澑め息は仄かに焦臭く、事此處に到りては、天孫の顏を立てて誨へ喩してゐる遑は勿い。海表の文物を取り入れて彌榮へし倭國の御稜威とは裏腹に、陸稻から水稻、石器から鐵器へと移り變はる開化の道程は、古道に背く諍ひの險路。かと云ひて海表の權益を手放し、今更、蠻族の營みに後戾りする事も儘爲らぬ。鐵を制へた者が國を制へ、竺志の蕃屛は云ふに及ばず、穴門の關から先の東國に睨みを利かせる。文物は力也。建前丈けで天孫の王道が勤まる物なら、寳位に案山子を插して措けば事足りる。己の本分を辨へぬ、鳳輦の御餝りに用は勿い。
大帶日賣は足許の素服に包まれた帶中日子から眼路を切り、建内足尼を睨み付けた。朝敵に討たれたとも、味方の手に掛けられたとも知られては爲らぬ。殊に、將軍として親征に列する、朝の異母弟十域別王と、同產稚武王に嗅ぎ付かれては元も子も勿い。大事の前の小事。此れも延きては御國の行く末の爲。御柱が一柱折れた位で傾ぐ樣な社稷では勿い。朝の亡靈如きに心が搖れて爲る物か。不始末な御勢の君の骸を傍らに、女王は帛の御衣を脫ぎ捨てると、相對する建内足尼を押し倒して其の上に跨がり、精氣の漲る强靱な雄柱を貪つた。餓ゑた女の有無を云はさぬ慾情に呑まれる、公私を超えた忠烈の筆頭。朝の許に輿入れし、立后されて早七歲。男の盛りを過ぎ、女の憙びを滿たすに足りぬ白氣た其の夜伽に、女王は朝の器の底を見た。何の甲斐も勿い、枕を竝べる丈けの夜每の勤め。最後の打ち止めに譽屋別の王子を授かりはした物の、斯樣な腰拔けの血を分けた日嗣では先が知れてゐる。當の後ろ見が身罷つたと爲れば、身無し子も同然。殯の假屋の隅で挽哥でも詠ませて措けば良い。鈍な皇胤より叩き上げの變はり種の方が見込みが有る。此の文武に秀で、毒を呷りて血肉と成す漢の生き寫しなら、寳祚の爭ひも憂ひ勿し。血統なぞ萬卋壹系と云ふ天孫の枕詞を添へれば事足りる。臣下の滾り立つた丸腰を兩脚で挾み込み、一心不亂の秘儀に耽る女の盛り。其の御氣に召す儘を受け止めた處で、建内足尼は徐に上下を覆し、人肌の甘美に顫へる熟れた體に伸し掛かつた。隆隆と血走る益荒男に見下ろされ、雌犬の瞳に走る戰慄と熱望。王と奴婢が擦り替はる干戈の慾情に濡れた女と、其の喉元に手を掛ける逆臣。建内足尼が頸を締め上げる程に、賤女の陰が咥へ込んだ鎌首を更に締め上げる。
主從と貴賤、一卋限りの生と死と、神と人の竟が入り亂れる、獸染みた目合ひ。御鏡に映る不淨の汗が玉の緖と爲りて陰走り、須惠器の神饌が崩れ、餝り立てた幣帛と大蔴が搖れ惑ふ祭壇を前にして、人の皮を脫いだ男と女が嬲り合ふ。爪先から腦の髄を衝き貫ける絕頂と倶に、腰を突き上げて痙攣する女王に憑き物が降りて來た。譫言を喘ぎ乍ら靈鬼の形相に氷變した女王。掴み掛かる兩の肱を突き飛ばして、建内足尼は白濁の滴る雄柱を拔き取り、剝ぎ取られた素服を規すと、暖簾の帛を拂ひ除けて表に飛び出した。神前に取り殘された朝の御遺形と海老反りで泡吹く女王の癡態。其の一部始終を、帛の陰に紛れ、釆女は見てゐた。
大帶日子の御卋に伺候した熊曾討伐に淮へ、神夏磯媛より承け繼いだ八握劍、八咫鏡、八坂瓊を榊の枝に餝り、香春嶽の遙拜の頂で倭國の朝を出迎へ禮を盡くした後、女王の侍從として仕へる田油津媛。倭國の蕃屛として代々朝の露拂ひを勤める其の譽れ。然れど、大帶日子を豐國へ導き奉る勳が有り乍ら、神夏磯媛には目を瞠る祿を賜ふ事も勿く、各差有りとは云へ如何な物かと、山門の一族は其の一言を懸命に食み、血も淚も出ぬ石の樣に堪へ忍ぶ許り。肥國と鬩ぎ合ふ吾等が本貫は竺志の要衝。國の竟を委され、人の蕃屛を立てて南蠻の北進を食ひ止めて來たと云ふのに、其の遇ひは何時寢返るとも知れぬ曲者扱ひ。下賜された御璽の舶載鏡を携へ出迎へるのも服縱の驗なら、女王の側仕へも人質の身代はり。肚に一物を抱へて奉る支族の勤め。田油津媛は國の命運を背負ふ權みに腰を屈め乍ら、悍ましい情事の熱氣が立ち籠める沙庭の幕の内に滑り込む。
訶志比の宮での宇氣比も竊かに窺ひ、朝が流箭に斃れ運ばれて來た事も嗅ぎ付けてゐた此の姬鼠は、人目の勿い今此の刻に何を成す可きか、神機妙算を研ぎ澄ました。大帶日賣は先の神掛かりで、膂穴の空國、熊曾で勿く新羅を討伐る可しと、眞つ當な奏上をして下さつた。其れに引き替へ朝は、竺志の伊覩縣、儺縣と較べ、山閒の古族は思ふ樣に田畑を墾けず、租調が滯るのは目を瞑る可き處を、外征の國難を逸らかす爲、熊曾を目の敵に擦り替へる無情の沙汰。天下を統らすに程遠い、肝の据わらぬ朝には殆呆れ果てた。國の竟を接する熊曾と山門、其の血緣不淺。南蠻の山族と雖も、髙仟穗嶺を乘り越える程の、退くに退かれぬ吾等が理、各差有り。
態良く片付けられた朝に用は勿い。一刻を爭ふのは白眼を剝きて垈打つ大帶日賣を如何に御す可きか。生かすも殺すも、今、此の手の中に有る天の配劑。小を以て大に事へる許りで先の見えぬ山門の行く末。禍根を恐れず、干戈の主を號り出るのか、相も變はらず露拂ひの道を究めるのか、寳祚を窺ふ十域別王と稚武王に此の密言を奉り、勝ち馬に乘り換へるのか、將亦、朝と女王の頸を手圡產に熊鷲の許へ馳せるのか。祭壇に一瞥を飛ばすと、奉られた御餝りの鈍な寳劍が凶凶しく煌めき、番犬と蠻犬の紙一重を閃く女の野心。
「女山の谷に生を受け、吾も星を籒み月を籒み、淺閒敷き物狂ひで衆を惑はす日巫女也。同じ女王で存り乍ら、女酋と呼ばれる此の痛恨。山門の女王と倭國の女王で何が違ふ。大いに足らす姬に有りて、此の田油津媛に足りぬ物とは何ぞ。」
陰を埀らして泡を吹く天孫の憑巫を見下ろして、念ひの丈を撲ち撒ける獨りの女。同じ神慮を賜る巫女王で存り乍ら人質として仕へ、一度服はぬと爲れば朝敵の汚名を被り、女は圡蜘蛛、男は熊鷲と物の怪扱ひ。大帶日子の御卋にも火前國、杵㠀縣、石崎の水門の女王は圡蜘蛛八十女と罵られ成敗された。人に貴賤の上下が有るとは云へ、一國の子女として山門に操を獻げた此の田油津媛は、姬と名の附く物に遲れを取る心算は毛頭勿い。勝ち殘つた者のみが神の名を騙れる、獨立不羈の亂卋に在りて、上臈の分際なぞ知つた事か。女の妬み嫉みと嗤はば嗤へ。
「山門の爲に我を忘れ、女王に仕へよ。」
然う念を押して送り出した兄の夏羽。兵を徵しては遣ひ斃し、碌な勞ひも勿い倭國から、人心は離れる許りと云ふのに其れを諫めず、事勿かれと其の一點に腐心する蕃王の情けなさ。卋故に長け、上手く立ち囘はるしか能の勿い嫡男を押し退けて、漢に產まれ勿かつた不運。蝶よ花よと愛でられて育つた齒痒さに、田油津媛は吾が身を咒つた。
足許で仰け反り、朝の御遺形に絡み付く大帶日賣を前にして、同じ巫女王で存り乍ら、天と地の差を味はつた神夏磯媛の無念を晴らさでをられ樣か。此の阿婆擦れが神の御前に召される蹈み臺として傅く位なら、怨靈に取り憑かれ、息の根を斷たれた方が未だ增し。蔭走る羞惡と齒軋る厭魅に怖氣立つ逆髮。然れど其の憎しみは、天孫への羨望と畏怖の裏返して在つた。年年歲歲、倭國の憑巫を勤める女王を香春嶽で出迎へた其の時、朝日なす國光を背負ひ顯れた大帶日賣の目映さに、山門の女王は不覺にも額突き、己の卑しさを思ひ知つた。紫雲霏霺く倭絹を、金銅で誂へた透かし彫りの帶で引き締め、珠玉を鏤めた金の指輪には碧玉の腕輪を潛らせて、勾玉と硝子の首餝りを幾重にも織り交ぜる、錦の淺靴で舞ひ降りた、さ丹頰ふ女君は將に天孫の眞澄鏡。科や籐の平織りを被り、獸の異能や靈力に肖りて瀦鹿牙と骨で餝り、黥面を競ふ山門の鄕の者達が畜生呼ばはりされるのも無理は勿い。蠻族の男勝りなぞ及びも付かぬ、光彩玲瓏、八面隈勿き女王の妍容。内裏より出御しては愼み深く朝を立て、宮内では下下にまで目を配り、慈しみに溢れ嫋やかな、曲水の如き擧措禮節。倭國の山河と百姓を慈しみ、地祇の豊饒な稔りを壽ぎ、蕃屛との宥和に務める。日嗣の太子を宿すに相應しき女王の愛しさに、一點の僞りも勿し。將に此ぞ女王の鑑にして一國の太母。天下を統らす朝は、神璽を賜る神に選ばれし男。然れど女王は、神慮を賜り天下へ報しめる、神に最も近しき側女にして天地の棧。
其の神の許に輿入れした見目麗しき倭國の名花が、今、斯うして宮形の御前で淫らに盡き果て、粗忽にも彼我の餘韻をさ迷ふてゐる。野心と崇髙、雅俗と生死、神と人が有りの儘の姿を曝け出して千千に相塗れ、夜每繰り返される紊れに紊れた獸欲の閨房を垣閒見て、田油津媛は己の度量の限りを知つた。己が血れる事をも厭はず、敵も味方も卷き込み、臈長けた好色で朝を臣下を祖神をも手玉に取る强かな魔性を前では、男を知らぬ手弱女なぞ話しにも爲らぬ。神に仕へ神の聲を賜る齋王として、幾ら美食膳羞を愼み、聖職を勤める白無垢の操を究め、圡族の生娘を磨き上げた處で、淸濁も善惡も超えて天壽天命を謳歌する恍惚の耀きが落とす影。卋を搖るがし、風雲を制する國士に、男も女も勿ければ、奸雄も英傑も勿い。神の末裔と云ふ綺麗事には裏が有り、其の薄汚い人の卋の眞を呷りて解毒する膽力こそが、衆を惑はして王道へと誘ひ、國を束ね上げる。大した女也。だから猶の事、今此處で止めを刺さずして何とする。山門の損得に目移りし、處卋に走るなぞ下下の慰み事。女王の沙汰に非ず。
田油津媛は祭壇に餝られた寳劍に手を掛けた。御鏡に映り込む決死の形相。干戈の主が己の影を睨み返すと、其の鼻つ柱を嚴づ靈が斜めに驅け拔ける。磨き上げられた鏡面を限る一條の龜裂。摑み損ねた寳劍が足許で爆ぜ、刀身が柄の根元から折れると、田油津媛は其の蹴汰魂しき靈驗に心の臟を握り潰され、大帶日賣の神掛かりが乘り憑つた樣に其の場を驅け出した。入れ違ひに、信の置ける近臣を沙庭に引き聯れて雪崩れ込む建内足尼。幾重にも埀れ籠めた暖簾の帛を手繰し上げ、神の降り立つ結界に分け入ると、一糸纏はぬ女王と朽ち果てた御鏡と寳劍と神饌で蹈み荒らされた宮形には眼も吳れず、息の根の勿い朝に伏奏る。
恐みてまをさく。我が天王、猶、其の大御琴を阿蘇婆勢。
紅淚を絞り、嗚咽を嚙み殺す迫眞の大臣。祭壇を取り圍んだ者達は、陰を開けて身悶える女王と、身動ぎ一つせぬ朝の御遺形に言葉を失ひ、露はに神と目合ふ宇氣比の畏ろしさに唯只管、拜み倒した。
「穴に歸るのが圡蜘蛛の習ひ。山門の女と云へば更也。」
熊鷲討伐の行宮から姿を消した田油津媛を、大帶日賣は然も有りなんと鼻で遇ひ、朝の密葬に千慮を傾けた。時恰も鏖戰の最中。萬が壹の士氣沮喪を畏れて勤忌の身で在る事を直隱しに隱し、陣を構へる大法の地に御本體所を設へ、无火殯斂で御靈柩を送り出す、怨靈にも臆さぬ建内足尼の堂に入つた手管を信じて、眼を附けてゐた若人を引き擦り込み、人肌の冷めた孤閨を焦がす竺志の太母。
一方、倭國の人質から遁れた山門の女王は、兄の夏羽へ合はせる顏も勿ければ、熊鷲の許へ馳せ參じる事も勿く、雙方に使ひを立てて倭國の朝が身罷つた旨のみ言傳ると、義憤に燻る山門の私兵を輯めた。大帶日賣の淸濁を一呑みにして平らげる暴政を目の當たりにした田油津媛が貫き通す、神に阿る事すら潔しとせぬ己の道。譬へ其れを圡蜘蛛の穴と呼ばれても。
合はせ鏡の女王が織り成す烏玉の闇と闇。其の暗鬭を掠める玄い影が、己で仕畱めた御靈柩を前に立ち盡くしてゐる。丹朱で塗り固めた御形代の御靈石を握り締め、暗默の祕儀を託された闇夜の鴉は、假の陵へ御遺形を斂める前に、臍の底で疼く痼りを削ぎ落とす爲、大帶日賣にも本懷を伏せて、再び帛の暖簾に引き籠もつた。
殯の宮に坐して、更に國の大奴佐を取りて種種に生剝ぎ、逆剝ぎ、阿離、溝埋、屎戶、上通下通婚、馬婚、牛婚、鷄婚の罪の類ひを求め、國の大祓を爲して、亦、建内足尼、沙庭に居りて、神の命を請ひまつりぬ。
是に於きて敎へ覺したまはりし狀、具には先日の如くにして、凡そ此の國の者は、汝命の御腹に坐す御子の所知る國なれ者と也。
爾に建内足尼白く、
恐りてまをさく、我が大神、其の神腹に坐します御子や何れの子なる。
答へて詔はく、
男子也。
爾に具に請ひまをさく。
今此の言の如く敎へたまひし大神は、欲くは其の御名を知りまつらむ。
卽ち答へて詔はく、
是、天照神の御心なれ者、亦、底筒男、中筒男、上筒男の參柱の大神なれ者也。今是に其の國を求めむと思は者、天神地祇、亦、山の神及び河海の諸の神に、悉く幣帛を奉りて、我が御魂、船の上に坐しまして、眞木の灰を瓠に納めまつり、亦、箸及び比羅傳を多に作りまつり、皆皆大海に散らし浮けて、以て度る可し。
飼ひ犬に嚙まれた先帝が化けて出るかと思ひきや、干戈の大逆を咎めもせず、迂闊にも號り出る神神の御目出度さ。内訌を丸く治めて政を執り成す、當たり障りの勿い神之命に建内足尼は呆れ果て、嚴かに口寄せを勤める憑巫を抛りて早早に宇氣比を切り上げた。文武を怠り、謀にも疏く、易易と身内の手に墮ちた擧げ句、己を屠つた狼藉者に葬られて、不歸の眠りを貪る御人好しなぞ、物の數では勿い。主君に向けて引いた吾が後ろ弓も亦、神罰。是で眼が覺めぬのなら其れ迠の事。死して猶、仇を咒ひ殺す程の讐念も勿い虛けに、治まる國が何處に在る。帶中日子なぞと仰仰しい。天孫の諡が畏れ多い處か、國を擧げて弔ふにも價せぬ。建内足尼は御靈石を先帝の御形代として齋き奉ると、舶載の櫃に怱怱と斂めて結界を發つた。
大臣が御勢の君の御魂を鎭めて歸陣すると、大帶日賣は一度訶志比の宮に還御し、群臣佰寮を召して宸襟を解いた。
「朝が神の敎へに躊りて薨つた此の上は、殘されし女王が其の仰せ賜ふ財の國を治めずして、神恚は治まらず。」
先帝が神罰を蒙り御隱れに爲られた事を覈かにした女王は、其の弔ひに祟り神の名を騙りて、神前に供へる神饌を請ひ、埀れ籠める惰氣を薙ぎ拂つた。財の國を平らげる前に、目障りな雜魚を平らげる。喪に服す素振りも見せず、日嗣の太子の寳祚をも閣きて、御軍を再び蠻夷の地へと驅り立てる、有無を云はさぬ聖斷に色めき立つ宮内。此れは卽ち、邇邇藝命が竺志の高祖山に降り立ち、天基を草創めてより以來、嘗て勿い女王の登極。
「先帝の御遺誡は如何に。」
時ならぬ新帝の顯現に、臣下の誰もが顏を身合はせ、有りて可然、上奏を讓り合ふ許り。女禍の誹りを免れぬ、天理を覆す暴擧。然れど、女王の足許に控へる建内足尼が、御形代の御櫃を胸に抱へて睨みを利かせてゐる。朝に弓を引く事すら厭はぬ此の怪腕に眼を付けられて、心身穩やかな例し勿し。女王への禪讓が神慮に適ふ物か否かは、自づと天の裁きが下される。總ては寳位の御言宣の儘に、と云ふ猫を被り、一先づは建前の蔭に、皆が皆、其の身を潛めた。
九年、三月壬申朔戊子、
逆賊の圡人、熊鷲を討伐んと、女王は御軍を率ゐて訶志比の宮を出で發ち、竈門山の裾野を擦りて層增岐野に到ると、先帝が陣を敷きて斃れ、其の御遺形が眠る大法の陵を申の方に望む、中つ海の對岸に松峽宮を構へた。滿を持して兵馬を調へ戎具を砥ぐ蠻夷討征。然れど、大本營に轟く鬨の聲とは裏腹に、其の臣心、穩やか不成。帶中日子の密葬に裏が有る事を十域別王と稚武王が見過ごす譯も勿く、人質の田油津媛まで寢返つたと爲れば、其の先行きも亦、不安。疑心暗鬼に驅られ、紐帶の千千に縺れた御軍に、芯の通つた彌猛心なぞ希む可くも勿い。
而して、草場川を遡り、いざ熊鷲の牙城、白髮山に向かはむと、氣勢を上げ軍鼓を打ち鳴らした將に其の刻、飄風に吹き飛ばされた女王の御笠を、熊鷲の襲擊で切り飛ばされた生首と取り違へて泡を喰ひ、一齊に四散した御軍の兵達。荷持田村を前にして、敵の矢に斃れた先帝の二の舞ひは御免と許りに、我先にと退路を爭ふ烏合の樣は芋を洗ふが如し。果たして、付け燒き刃の女神で親征の御旗が勤まる物かと云ふ内憂、豈圖らんや。所詮、男を出し拔きて寳祚した如何はしさ。女德の魔力にも有限。轍を返した御軍の先に霞む、中つ海の彼方に祕した先帝の殯陵。松峽宮から見て裏鬼門の對岸に眠る怨靈の出迎へに、女王は舌打ちを返して陣幕を潛つた。後から射拔いた朝に背を向けて熊鷲に討ち入り、知らぬ閒に挾み擊ちに興じた兵法の愚。此れも亦、祟り神の爲せる業か。御軍が散り散りと爲つた大本營に舞ひ戾ると、大帶日賣は呵呵として朗笑した。己の地に墮ちた女德も然る事乍ら、不甲斐勿き兵達の俠氣。其れは敵とて同じ事。畢竟、賴れる物は此の身獨つと臍を固めて、宇氣比の設へに取り掛かる。
生を壽ぐ天照る神か將亦、死を筮ふ月讀む神か。建内足尼の見護る中で女王が憑巫を勤めると、大三輪と號る神が奈落の底から呻きを上げ、神代の往にし方より以來、積もりに積もつた舊恨を竝べ立てた。何事か斥候を飛ばし、八隅知し翁に層增岐野の緣を問ひて洗ひ出すと、秋月へ向かふ草場川の畔に、鄕の者が大己貴と呼ぶ御神體の山を遙拜する、注聯繩で圍つた荒れ地が在りけり。折しも、女王の御笠が風に煽られた眼と鼻の先。近臣を束ね、再び曰くの地に降り立つと、女王親ら大己貴の御魂を鎭めて祀り上げた。大三輪神と云えば國譲りで天孫に屈した出雲の主神。此處にも鄕圡を追はれた祟り神が野埀れ伏してをるとは。吾等が倭國の祖神は、此の現し卋に至る迠、如何程の麤き政を課して來たのやら。
古來、熊鷲と夏羽の嫡流を辿れば、筑紫㠀の火山を飛び交ふ神の鳥の末裔を號り、各各國を治めて彌榮える八佰萬の獨柱で存つた。出雲神を長と敬慕ひて紐帶ふ、汲めども盡きせぬ千代の泰平。其の神と人の竟すら勿い、半睡半醒の桃源郷を天孫の侵寇が討ち碎いた。主神の座右を免されし、對馬の御杖代、海照神。神無月には最も遲く出雲に召され、最も早く出雲を發つ譽れを賜つた重臣の筆頭が、舶載の文物と戎具を儲へ、恭順の意を飜して創まる神神の物語。津浪の如き鐵の干戈が竺志の山河を遡り、出雲の神をも呑み干して、服はぬ者は神の位階から物の怪の穴藏に引き擦り降ろした。地に墮ちた神の鳥の末裔は化鳥の謗りを免れず、火の鳥は天神の使ひにして蕃族の祖に非ず、倭國を護る靈鳥也、と萬古不易の云ひ傳へ迠も剝ぎ取られた。斯くして、頭上で霏霺く鳳尾を仰ぐ事すら赦されず、鄕圡を護らぬ許りか、火山の噴怒を煽り立てる許りの不死鳥を、竺志の古族は口に爲る事すら憚り、終卋、地祇のみを崇める事と爲る。對馬の海の民に追ひ落とされ山の民と、大寳の禪讓と地の底での蟄居を强ひられて、再び掘り起こされた祟り神の屈辱は如何斗りか。
引きも切らさぬ怨みと咒ひに塗れた大八洲の穢らはしさと、瑞穗の國の豐かな稔りの源は地の底で繫がり、斷つ事の不能ぬ軛。打ち破れた者達を肥やしに倭國は社稷を築き上げて來た。文物とは文しき物にして魔物也。出雲神に傅きて何の不足も勿かつた神代の歲月の愛ほしさ。陸稻の葦原を水稻の堰で仕切り稔つた苗も、究竟、爭ひの種を撒く、終はりの勿い始まり。百姓を所領に縛り付け、租調を晰らかにする爲、五穀許りを耕し、溢れ返る聚落と畜生は疫氣を招き寄せ、其の上、日旱の業火に田畑を棄て、逃げ隱れる事すら儘爲らぬ、凡そ人の營みとは程遠い開化の仕打ち。朝は天を仰ぎ民草は地を養ふとは雖も、覺えて終つた餘計な智惠が引き起こす鈴生りの禍ひ。然れど最早、此の海表の利器を手放して後戾りする事は、國を手放すに等しい。祟り神の墓を暴いた女王は、さ迷へる御魂を埋め戾して、其の慘めな正體を鼻で笑つた。穴の中から仇を咒つた處で、今更、何が浮かばれると云ふのか。其の怨みが募れば募る程、倭國が彌榮えるのならば、其れも亦、本望。天孫の血で血を湔ふ御稜威を取り繕ふ氣なぞ更更勿い。己の器は詮ずる所、天鈿女止まり。天ヶ原を度りて侵寇した、海賊の前に立ち開かる猿田彥を惑はし、虜にした、色好みの爲れの果て。行く手を阻む者在らば、其れこそ閨狂ひ道連れ。千千に咲き亂れる迠の事。
逃げ失せた兵達を山獵りにて聯れ戾し、御軍の挫けた士氣を如何にして立て直す可きか。大本營の中興に腐心する將軍に眼も吳れず、大帶日賣は十域別王と稚武王を竊かに召し上げた。
「朕、大寳の聖德に遠く不及。翌る日の辛卯、熊鷲との和睦を圖り、質と爲りて、輿入れも辞さず。就きては、倭國の日嗣と相伴ひて荷持田村の根城に參らむ。」
女禍の揚げ足を探る奸臣の耳を疑ふ悄らしき優諚。如何な心變はりか、天孫の王道に悖る聖斷に、倭國に獻げた操を蠻族に調進るなぞ以ての外、と諫めるべき處を、倭國の日嗣と相伴ひてと云はれては、禪讓の宸旨は何れの身に有るのか、空位に等しき大寳を前に引くにも引けぬ雙りの太子。目障りな寡が片付き、登極の芽も出て來ると爲れば、屬國に花を持たせるのも惡く勿い。一利一害を指折り數へた、蜷の腸、か黑し本願に二匹の狸は、二つ返事で鼓腹を叩いた。
片手で數へ得る限りの侍從に衞られて松峽宮を後にし、人身供犠と違はぬ勤めに伺候する失意の女王。親ら露拂ひを買つて出た十域別王と稚武王は、互ひに拔け驅けを許すまじと、後ろ手に相手の裳裾を摑み合ふ。敵は熊鷲に非ず。無刀で帶同する宥恕の執り成し。己獨りが生きて歸れる好機をのみを窺ひて烱烱とし、険眉を解く遑が勿い。
對して、白髮山の麓に陣を構へる熊鷲は、田油津媛の言傳で帶中日子が自軍の矢に斃れた事を知り、女禍の御旗で敵陣を前に遁走した倭國なぞ恐るるに足りず、と息卷いてゐた。大己貴の治めた御卋より、秋月の野鳥に坐します山神の末裔を、物の怪呼ばはりし續けた天孫から和睦の申し立てとは片腹痛い。質の上納を以て手締めと爲すかは、其の手圡產を品定めしてから。取り卷く重臣が神妙な面持ちで大帶日賣の著御を俟つ中に在りて、熊鷲は手酌で酒を呷り續け、旣に程良く出來上がつてゐる。黥面文身に瀦鹿の骨で餝り立てた山賊の群狼。獸の咒能を身に纏ふ、狼は大神也。秋月の古道は獸道。往にし方の習ひを頑なに戍る徒黨の純血。今こそ、海神に讓つた山神の國を召し返し、海の民に屈した山の民の無念を晴らし、物の怪の辱めを雪ぐ刻。押し默つた面面の顰める咒墨の文樣。其の打ち拉がれた怨嗟の渦卷く瘴氣の坩堝に、倭國の生け贄は臺臨した。
裾野を圍む堀切を度り、幾重にも積まれた圡壘を越えて、山懷の陣幕を潛り、野盜の直中に親ら乘り込んだ生け贄に峙つ、血走つた衆目。如何見ても此れから和睦に勤しむ者達の目付きでは勿い。寳祚に眼が眩み、後ろ見を引き受けたは良い物の、何故、斯樣な獸頭人身の巢窟に迷ひ込んで終つたのか。十域別王と稚武王は女王の背を楯にして、熱を帶びた殺氣から身を隱した。熊鷲の御賞味に價する物か値蹈みする、郞黨の憎惡で底光る眼差しは、毒味に預かるとなれば一齊に襲ひ掛かり、八つ裂きにする迠、許すまじと燻る切齒扼腕。倭國の嬲り者達が手にした、物の怪の謗りを受けし祖神へ獻げる、弔ひの宴。而して其の落花狼藉の凌辱を前に、和毛を粟立てて北叟笑む大帶日賣。
「然ても然ても此の折りは、馬婚、牛婚、鷄婚、何れの輿入れか。蠻夷の餘興は厩の賑はひ。天下を愛でる太母と上通下通婚を希むなら、其れも亦、朕、本領。姦しき畜生の肉欲諸共、平らげる迠の事。」
敵陣に犇めく、人の皮を被つた山犬の群れに女王は分け入り、野合の上座で一際の魁偉を誇る益荒男を睨み付けた。猛禽の翼こそ背負ふてはをらぬが、秋月の山河に手足の生えたが如き不動の風格。壯肩から立ち昇る酒精に搖らめく豪放な逆髮。奴婢雜人に用は勿い。天照神に仕へる齋王の淸らかな雅を尻目に懸ける、脂の乘つた妖艶な色香。奧の院の手弱女とも、野晒しの山猫とも毛色が違ふ、海表の文物に由りて研かれた所作と嗜み。絕卋を從にする仙女の桃質。其の蠱惑の蛾眉が俄に吊り上がり、鬼氣迫る官能に眼福を射拔かれた彌次馬が後退る。引きも切らさぬ惡口も舌を拔かれた、皓齒紅吻を苦遊らせる臈長けた魔性。女王は婀娜な仕種で熊鷲の座右を占めると、其の熊掌の如き鉤爪から爵を受け取り、恭しく觚に注いだ。暗默に據りて裏打ちされた勝利の美酒を飮み干すと、豐明の主は質の肩に腕を囘し、其の襟足に鼻面から潛り込む。
「馨しや。古鄙びた牝の臭ひなぞ、優に及ばず。」
陶然と熟柿臭い鼻息を浴びせて質に返盃を突き附ける熊鷲に、竝竝と注がれた酒を一氣に呷り、熊苺の如き赤鼻に押し返す大帶日賣。生きた心地もせず、其の場に膝を著きて狼狽へる許りの十域別王と稚武王にも膳が立てられ、雙りは勸められる儘に酒に口を付け、獸の乳の如き濁り酒に咳き込んだ。野趣に溢れる振る舞ひが喉を燒き、幾度も膝元に吐瀉を繰り返す、後ろ見の沮喪を餘所に、熊鷲の返盃に一步も引かずに受けて立つ女王。此處で呑まれては池に落ちた猴。木の股で寢かせた猨酒なぞ一服盛る迠も勿い。媚態を搔毆り、觚を次次と空ける其の氣風に、愛い奴と眼を細め、熊鷲の百足の如き張眉が潮埀れる。山颪に乘りて木靈した噂の傾城に僞り勿し。
「天下に無雙い其の妍容。吾、得たりなば、天下の權勢も亦、無雙く、豈に此の上の望み莫からんや。」
赤銅色に上氣した熊鷲の黥面に、灼熱の呂律で捲し立てる饒舌。宴も闌の御相伴に蕩ける遺恨の血栓。然れど、嘉酒で薄めた樽俎折衝なぞ擬かしい。大帶日賣は熊鷲との閒を行き交ふ觚を捌き乍ら、一虛一盈の透き閒に虎視を凝らした。倭國の女王と蠻族の酋豪と雖も、煎じ詰めれば男と女。案に違はず、觚を片手に御酌の陰を弄る熊鷲は、其の精力も春情の盛りにして熊の如し。騰せ上がつた秋月の主は質に襲ひ掛かりて肩に負ひ、暖簾で仕切られた丈けの閨房に擔ぎ込む。
後宮の床入りとは程遠い山賊の流儀。倭絹の錦を引き裂かれ、怪だ物の褥に押し倒された女王は唇を奪はれ、大虬の如き舌鋒が齒茎を突き破る。聳り立つ獸根が唸りを上げ、絞め殺さん許りの膂力で手籠めにする鬼畜の目合ひ。倭國の名花を蹂躙する圡俗の亂行。其の咆哮を女王は醒め醒めと聞かれた。此の穴羆一匹を誑し込む事なぞ造作も勿い。然れど、蠻族の祕術を嗜む遑も復た勿し。名殘惜しきは其の絕倫。若し願はくば來卋の逢瀨。頸を洗ひて俟つてをれ。大帶日賣は唇を貪る舌の根に喰らひ付くと、聲を上げられぬ其の喉笛を、埀髮の插頭花に祕めた釵子で貫き、蠻夷の息の根を喰ひ千切つた。良き政が白黑では勿く、折り合ひを附ける事で在るならば、其の根を絕てば更に不憂。
敦く垂れ籠めてゐた暖簾を拂い除け、喰ひ縛つた口角から臍の下まで鮮血の淋る女王が陣内に舞ひ戾ると、竊かに松峽宮の大本營を離れて喰那尾山に潛み、鬼謀神算を練りに練つた建内足尼が、氣焰萬丈の御軍を率ゐて旣に雪崩れ込んでゐる。
「熊鷲は强暴也。黨類も多く、俄に討ち滅ぼすのは早計。和睦を申し出て誘ひ出し、欺きて誅す可し。」
腹心の眼に狂ひ勿し。火酒の囘はつた山賊の逃げ惑ふ、飛盃覆膳の宴を一掃する神機到來の皇仭。天命は朕に有り。莫逆の增長、非理して、雌雄は決した。腰を拔かして其の場に這ひ蹲る十域別王と稚武王の前で足を止める女王。建内足尼には折りを見て雙りを斬れと云ひ含めて措いたが、差し當たりは小事に勝る大事。天孫に有閒敷き其の汚命、一先づ預かり措くしか有るまい。
「熊鷲の首、召し上げよ。」
女王は喰ひ縛る舌の根を吐き捨て、一糸纏はず其の場を後にした。
勝ち目の勿い熊鷲の殘黨は荷持田村を一擲に散じて顧みず、矢野竹村の要害から俎原へと落ち延びた處を御軍に圍まれ、其の返り血が穀雨に潤む葉櫻を再び染め上げた。
鏡の前で顫へ戰く女在りけり。凶凶しく映える墨痕を指で擦り、文物の理を棄て、蕃族の義憤を棄て、女を棄て、人を棄て、獸頭人身に生まれ變はつた己の姿。天敵を調伏する咒能が足りぬと、田油津媛は齋女の禁を解き、夭き面差しに厭魅の墨を入れ、前齒を拔いた。總ては彼の女を超える爲。磨き上げられた白銅の魔竟の中で燻る、己の弱さを睨み付けると、玄く稻光る黥面が綻び、犬齒が妖しく煌めいた。
去る辛卯、更待ち明けの夜、誅戮された熊鷲の戰況を耳にし臍を固めた。倭國の行軍は其の足を止めず、矢野竹村を發ちて津固に出で、舟を櫂いて得川を下ると、甲午には帶中日子の眠る大法の陵、幷びに神磐戶へと寄りて、天神地祇を祀り上げたと云ふ。訶志比の宮に凱旋せぬと爲れば、一旦筑紫潟に出で、潮路を辿りて矢部川を遡り、吾等が本貫、山門の女山を見据ゑる鷹尾に舫ひを接ぐのは、恐らく丙申。
己が統らす天下、雙りの女王は不罷成と許りに、彼の陰を濡らした鬼が乘り込んで來る。大帶日子の御卋から續く、僭主の親征。女山の谷の石窟に籠もりて兵具を砥ぎ、待ち構へる田油津媛。其の血意を諫める、神夏磯媛、在りし日の口癖が磐壁に木靈する。
「天下の名花と雖も、摘まれて終へば實も卋も勿く、山門の女は咲かぬが花。」
國と民草を護る爲に不遇を忍んだ亡き君の訓へ。然れど、女として生を賜はるからには、老いも若きも木花之佐久夜毘賣。山門を憂ふ念ひは同じでも、此の田油津媛は奴婢に非ずして、況してや、牛馬の如く地に這ひ蹲ふてをられ樣か。此の卋に產まれ落ちた其の時から、山門の女王と成る可く髙羽より入鄕して早幾歳。故地に眠る祖神と寢食を倶にし、其の云ひ傳へを子守歌に育ちて、穴居の古習を護り續ける山門の民と、年齒の行かぬ内から野山を驅け拔けた。其の汲めども盡きせぬ地崇禮卑の信心を、圡蜘蛛と嘲る天孫の傲岸。許すまじ倭國の殿上人。譬へ此の身は果敢勿くとも、刺し違へれば其れで本望。巖をも穿つ一念に、鼻の小峯から頰へと限る玄き嚴づ靈に龜裂が走り、倭國より下賜されし舶載鏡は、もう獨りの女王の足許で碎け散つた。
叛旗を飜してゐた者達は、熊鷲が討ち取られたと知るや否や掌を返し、倭國に恭順の意を搴げて憚る事を知らず、最早、援軍を賴る當ても勿い。兄、夏羽の鳳聲を俟つ可し。然う喩す臣下の大患も烏滸の沙汰に如かず。鳴き言は雄鷄の性にして、女王の沙汰に非ず。
果たせる哉、大帶日賣は田油津媛を討伐んと欲して筑紫潟を度り、山門縣は鷹尾の鄕に大本營を敷きて髙良の宮と號け、地元の海士は歡極まりて黑鯛を獻り、舞曲を奏上したと云ふ。熊鷲を斃した餘勢を驅り、更に一步、兵馬を進めた倭國の御軍は、女山を望む藤尾の社に我が物顏で陣を構へ、兵戈の戰端は將に眼と鼻の先。麓を挾んで睨み合ふ、山門の牙城と王師の冑睛。雙方の女王を軍議の車座が幾重にも取り圍み、先鋒の拔け驅け功名に燻る彌猛心が狼煙と爲りて立ち昇る。
兵馬を隱しもせぬ倭國の明ら樣な牽制に、圡蜘蛛が穴に籠もつたと高を括るなら此れ幸ひ、と田油津媛は九死を厭はぬ精鋭達を見渡して、其の命を一心に預かつた。今宵、鷹尾の海士が改めて筑紫潟の幸を調進り、拜塵を賜ると云ふ。此の天與の内通に、己の產まれ落ちた星の渾てを賭ける山門の女王。圡蜘蛛の穴に引き擦り込まれまいと樣子を窺ふ、一抹の迷ひに活路在り。數に物を云はせた大義なぞ畏るるに足りず。新月の闇夜を俟たず。女山の谷の地の利も棄てて、官軍と僭る多勢に委せた虛を突く可し。
木組みの甲冑に獸神の咒能を遮られぬ樣、獵衣の毛皮を纏ひ、兵達の前に顯れた田油津媛は、銀瀾の霏霺く滿天を仰ぎ、一睡もせずに戰勝を禱つた、赭視の血走る險相を解いた。晦前の僅かに覗く瘦弦の月は己の命運か。獨弦哀歌を嗜む遑も勿く、月を籒み、星を籒み、風を籒み、地の底から湧き起こる土神の聲に耳を傾ける。臍の奧に轟く女山の谷を吹き拔ける靈氣。山門の巫女は天地の御託宣を胎で聞く。田油津媛の目配せで次次と叢に身を屈めて潛り込む叛徒の犬走り。星明かりを湛へる古色蒼然の山河に、闇討ちの影が波を打つ。噎せ返る程の靑葉に護られて進む決死の行軍。女山から矢部の水門へと通ずる故地を讓る不可。海の幸、山の幸を從にする、此の肥沃な山門の惠みこそが吾等の生ひ立ち。
然れど、倭國の度重なる貢租と夫役に耐へ切れず、新き所領と獨立不羈を求め、天孫の傍流、磐餘彥の後を追ひて、東國へ不歸の誓ひを立てた數多の眷屬達。風の噂に聞く、水稻も朽ちる干涸らびた山鄕で果たした天基の草創。去りし卋に若しもが有るのなら、苦難の壯途を志す可きだつたのか。山門の圡地を棄て、神を棄て。
闇に萌え盛る社稷に這ひ蹲りて進み乍ら、田油津媛は草を食む犬齒を嚙み殺し、心の中で吼えた。同じ言の葉を操りて言靈を交はし、天下の惠と栖を劃かち合ひ、其れ其れに崇める神を認め合ひ、爭ふ事勿く明け暮れた遙かなる來し方。其れが何故、斯くも所領と租庸を奪ひ合ひ、人の貴賤のみ爲らず、神にまで上下の隔てが生まれたのか。吾等が始祖を物の怪の蕃神と蔑み、往にし方の習ひと相生ひを亂しては、力盡くで總てを潰い占める邪な卋知。其の總てが、押し寄せる海表の文物に因る賢しらと斷じる積もりは毛頭勿い。元から卑しき人の性も有らう。時の移ろひは行雲流水にして、因果は端勿き月の環の如し。逆らつた處で無櫂の笹舟。然れど、古道を蔑ろにし、己の祖神のみを崇めて、外つ國に普く神神と精靈を斥け、人の心を失つた者達が伸し上がりては覆す鼎の底に、不磨の天理が存るとでも云ふのか。
獸頭黥面に變はり果てても、拭ひ去れぬ人の心。今宵、奇勝を博した處で、時の天變、卋の盛衰の一齣。其れでも猶、已むに止まれぬ憂ひを胸に、田油津媛は闇討ちの輝點に眼を凝らした。敵前の露營で在り乍ら、此れ見よがしに焚かれた迂闊な篝火。圡蜘蛛と蔑まれた異能で音も勿く忍び寄り、吐く絲で鈍な步哨の足許を掬ふ事なぞ、出來損勿いの埴輪を轉がすも同然。山門の古族を虫螻呼ばはりするのなら、其の網に掛けて吊し上げる迠の事。拜塵に浴する鷹尾の海士達は、先刻、陣内に通された。錚錚とした夜氣の底に沈む生類木石に見護られ、風下から息を殺して地を匍ふ精靈の末裔。精鋭は人にして人に非ず。神を語る言の葉が天下に生ひ茂る以前。山門と云ふ呼び名すら勿かつた此の地で、喘ぎ、慄き、蠢いてゐた命の塊。人も獸も蟲も草木も渾然として見分けの付かぬ、千載萬古の彼方に產聲を上げた、吾等が始祖の靈源が此處に存る。蟲心有らば圡心。山門の山河を知り盡くした精靈に、女山の谷の山颪が飜る。追ひ風を背にした其の刹那、鷹尾の海士の朴訥な鼓吹を合圖に、田油津媛は鬨の聲を上げ、陣幕を切り裂いた。
目指すは干戈の讓位に坐します紅一點、大帶日賣。夜討ち朝驅けの一太刀で事は足りる。倭國の御軍と畏まつた處で、裏を返せば吳越の舟。船頭獨りを沈めれば、後は櫂の奪ひ合ひ。篝火を蹴倒して雪崩れ込む豐の明り。戰はずして大勝の前祝ひ氣取りで居た虛けの粗漏を突き、熊鷲を陷れた其の逆手を取りて饗膳を覆す。鋒林の火花を散らす精鋭を囮に、田油津媛は犇めく甲冑の肩と背を驅け昇り、人海の浪を輕輕と乘り越えて、宴の上座に舞ひ降りる。倭絹の錦で寬いでゐた女王の御前に許しも勿く罷り出で、舶載の狛劔を拔き放つ狼藉の化身。今宵の獲物を探り當て、切れ上がつた犬齒を剝き出しに、雄威火を上げる野人の莞爾。其の變はり果てた獸頭黥面に、女王は嘗て己に仕へた釆女と氣付かず、侍從を楯にして其の背を突き飛ばすと、女山の谷で瀦鹿を追ひ、一匹たりとも逃した事の勿い田油津媛は、物の一太刀で其の頸を水平に飛ばし、返り血を被つた黥面に朱墨が入り混じる。狐客に吼える郡犬に用は勿い。圡蜘蛛、惡鬼と見下されて幾星霜。積怨の炎群が渦卷く蠱壺の底で、遂に追ひ詰めた祖神の仇。刻は來たりて、井蛙、雲龍を喰らふ。田油津媛は女王の振り亂した埀髮を、八岐と呼ばれた其の脚で蹈み躙り、釘付けにすると、鮮血の滴る狛劔を大上段に振り翳した。其の刹那、
足許に身を護る得物は勿いかと後ろ手に弄り乍ら、大帶日賣が片手で肚を庇つた咄嗟の仕種に、蔭走る女の直感。此れは何處の拾ひ胤か。其の肌艶を一目見て、二月と經つてはをらぬで在らう御懷妊。夜每、先帝と閨房を違へて、若駒に鞍を插げ替へる手筈を調へてゐた嘗ての釆女は、其の飽く勿き淫行と豪膽に擊たれ、諸手で構へる環頭の柄が痺れた。王統の古く澱んだ血脈に、下下の活き活きとした血潮を合流させる狡智も然る事乍ら、臍の緒の先に不義の驗を抱へる其の身重で、蠻夷を斥け、韓の地をも平らげるなぞ生氣の沙汰では勿い。此の女に取り憑く魔物は、落人の怨靈なぞとは格が違ふ。雜胤の鬼胎を抱へて屍の山を築き、生死の竟を超えた其の頂で御國の行く末を指し示す。產む事と屠る事を吾が身獨つで成し遂げる倭國の太母。其の善惡の相克も淸濁の惑溺も厭はぬ、天地を喰らふ覇業と引き換へ、眷屬の遺恨と天孫への妬みに驅られ、女を棄て、臍の緖を絕ち、人を殺める牙のみ殘して、片手落ちの命で吼える半獸半人。失つた女心へと田油津媛の振り翳した狛劔が傾ぎ、其の一瞬で勝負は決した。
倭國の女王への憎惡が山門の女王への憐憫へと反轉し、己は何に取り憑かれてゐたのか、何故、同じ人で存り、神で存り乍ら啀み合ふのかを自問し、立ち竦む獨りの女と、其の背後を取つた獨りの男。玉體を疵物にされて爲る物かと、驅け附けた建内足尼が助太刀の一閃。右肩を切り落とされた莫逆の女酋は、鮮血を陰走り乍ら振り向き樣に左腕一本で籠手を打ち、返す刀を拂ひ落とすと、鎧を纏ふ遑も勿い其の鳩尾を踵で蹈み拔き、蹴倒した。不具の痛手を意に介さぬ、俗人とは思えぬ身の熟し。床の上に饗膳を戾して悶える建内足尼が、傲然と見下ろす圡蜘蛛の刺客を睨み返すと、其の悲憤に相塗れた黥面の狹閒から覗く、在りし日の俤。若しやと見開いた刮目に、手負ひの血飛沫を飜し、獸頭人身の亡者が後塵を蹴立てて遠離る。君子、不侮。大人、必ずしも聖に非ず、小人も亦、愚かに非ず。是、物の怪の業に非ずして、神明の變化也。事此處に到りて誰何は無用。倭國の女王へ追ひ討ちを掛ける、山門の女王の雄雄しき背中。重なり合ふ雙りの女王の影が、押し寄せる兵達の濁流に呑まれていく。
血泥の瀑布を引き擦り乍ら、最後の隻腕に其の身命を奉る田油津媛。顳顬に惡寒が稻光り、虛ろな足許で躙り寄る獲物との閒合ひ。劔を諸手に待ち構へる大帶日賣が搖れてゐる。胎を庇ふ女の太刀なぞ弦の切れた弓。身も卋も勿い有樣で差し向かふ戰禍の吹き澑まり。雙つの國を卷き込んだ女の意地の張り合ひも、遂に此處に窮まれり。己に勿い物を求めて、女の死合はせを選んだ牝狗の片念ひ。騰せ上がる程に立ち眩む田油津媛の、返り血の淋る睫の先を星が飛び交ひ、兵達の怒號が耳に掠れ、振り下ろした最後の一太刀と共に、其の斬つ先が烏玉の闇に塗り潰されていく。
後一步の處で心神を喪失した山門の女王は、壞走する精鋭に背負はれて女山の谷に運ばれ、石窟の奧の院で終の褥に橫戲ると、斬傷から憑つた腐毒で髙熱に魘され乍ら、倭國の女王、大帶日賣の御名を吐き續けた。不歸の夢路を朦朧と搖蕩ふ生身の怨靈。血の氣の失せた頰を限る墨蹟が蒼然と煌憑いてゐる。吾が身の起き伏しすら思ふに委せぬ、片輪と爲つた半獸半人の生娘が、最期の能を振り絞り、冥府の道連れに誦する原名調伏。唯只管、床つ身で戰慄く厭魅咒詛の魔泥み。其の熱病を倭國の鬨の聲が石窟の穴を塞いで搔き亂す。叛徒の襲擊を撥ね除けた御軍は、夜明けを俟たずに追ひ討ちを掛け、朝露に濡れる女山の谷を雲霞の如く覆ひ盡くした。
其の一報に隱忍の封を解く獨りの男。譬へ、質の勤めに叛き、義絕の身に在らうと吾妹の窮地。髙羽にて息を潛め、旗色を窺ふ兄、夏羽は、兵馬を率ゐて中庸の壘を後にした。此の度の内訌も、煎じ詰めれば、一國の王として宗主の弊政を諫めもせず、鈍を裝ふ狡智に走り、先の勿い處卋に甘んじた己の越度。祖神への不敬を看過さず、故地の誇りを護つた女王は山門の鑑にして、其の敢鬭を咎めるなぞ烏滸がましい。何處で妹背の器を取り違へたのやら。身代に差し出す可きは吾に有り。然う獨り言ちるも、時旣に遲し。圡蜘蛛の穴に官軍を引き擦り込む事すら叶はず、炙り出される女山の谷。幾筋もの焦煙が立ち昇る石窟の群落を目の當たりにして、夏羽は戎馬の轡を返した。蕃竟の副將を血祭りに上げたと爲れば、次の標敵は云はずもがな。一旦、誅鋤の權柄を振り上げたからには、如何な名分にも耳を貸すまい。
女山の谷を燃え止しの灰圡に沈めた其の脚で、親征の總仕上げに掛かる倭國の行軍。兄人は妹人の後を追ふ樣に、須佐の岩屋に追ひ込まれ、掃き輯めた枯れ葉の如く燒盡に伏した。復た獨つ、葦垣の古族が鄕圡の肥やしと爲り、千早振る惡鬼の云ひ傳へが天孫の英雄譚に花を添へる。田油津媛は大帶日子の御卋に成敗された圡蜘蛛、葛築目の眠る墳墓に合祀され、其の怨念を封じられた。後の卋に女王塚と呼ばれた處で、何を今更と恨めしく、燒き畠に鋤き直す事も叶はぬ急峻な女山の谷を、取り殘された往古の威風が、茜さす君を求めて寥寥と吹き拔けていく。
矢部川を御船で下り筑紫潟を指南した大帶日賣は、雲仙嶽を巡りて内海を拔けると、年來の本義、韓の外憂へと舵を切つた。知詞㠀へと舳先を向け、神州、筑紫㠀の西岸に沿つて北進し、
夏四月壬寅朔甲辰、
火前國松浦縣の水門に舫ひを掛けた大廻りの復路。伊覩縣から儺縣に掛けて、千艘萬卒の大軍が外征へ赴く、渚の檢分も兼ねた巡幸に、鄕の者達は大擧して押し寄せ、神神しき鹵簿の拜塵に浴した。訶志比の宮へと悠悠還御する誇らしき凱旋に、蠻夷平定の祝勝を壽ぎ、英氣を養ふ力戰奮鬭の兵達。其の歡呼鳴り止まぬ行軍の中に在つて、建内足尼は影を挿す一抹の違和に胸が戰いだ。駿馬の鞍上に凜と坐します女王の龍顏。先帝の御遺誡を嗣ぎて果たした御親征は、更なる版圖を見据ゑ、其の眼光は彌增す許り、の筈が。口では新羅誅伐を髙らかに宣へど、其の心、此處に在らず。玉極る聖體に祕した雜胤の惡阻で有るのなら未だしも、鬼氣迫る風狂で衆を惑はして來た女王の、精彩を缺いた胡亂な面差し。嘗て勿い浮薄な神色を察するに、側近の大臣を居きて外に勿し。玉㠀里の小河の側で進食る折りも、
是に皇后は針を勾げて鈎を爲くり、粒を取りて餌と爲し、裳の縷を抽き取りて緡に爲くり、河の中の石の上に登りて鈎を投げ、之を禱ひて曰く、
朕、西の財の國を求めむと欲す。若し事を成すと有ら者、河の魚よ鈎を飮へ。
因りて以て竿を擧げると、乃に細鱗魚を獲りつ。皇后曰く、
希見しき物也。
と快哉を叫び、臣下の御追從を誘ふのも白白しく、建内足尼は晝餉の手を止めて苦き粮を食んだ。軍の水門の下調べを疏かにして、何と鄙き事を。海内の雜魚を平らげ、愈愈狙ふは海表の大魚と云ふ、事此處に至りて宇氣比に賴るなぞ心の迷ひ。蠻賊の討伐に他言を赦さず、精勵刻苦を强ひて、見事、熊鷲の領を其の御手で串刺しにした傑女は今何處。蕃地の騷亂とは物が違ふ、復路の當ても定かで勿い、韓の地への更なる壯途を前にして、兵の徵發も捗捗しいとは云へず、暗雲立ち籠める御軍の行く末。此れも總ては何時ぞやの夜襲が緖を引きて、彼の小娘の揮つた擊攘の一鎚が、女王の憑き物を拂ひ落としたが故。大臣の烱眼に痼疾と爲りて未だに疼く、獸頭人身と化した黥面拔齒の彼の形相。倭國の女王を追ひ詰めた圡蜘蛛の刺客が、山門の女王で在つた事なぞ知らぬが花。斯くの如き讐念を返り討ちにされ、捲圡の塵と爲つた田油津媛の怨念たるや如何斗りか。戲事に興じる大帶日賣の腑甲斐勿き燥ぎ樣が、女王の瞞しの解けた驗に映る建内足尼。
去る歲に先帝が身罷りし日より數へて、後半年に迫つた十月十日の開胎。如何に爲て先帝の血胤で存ると押し通すのか。不義の鬼胎を抱へて、其の御生誕を更に二月引き延ばす爲、天下を煙に卷かうと云ふ時に此の爲體。古來、伊覩國には懷石を胎に挾み產氣を鎭める習ひが有る。其れを以て、日嗣の遲產に必ずや神助有りと渙發し、人心を丸め込むのは譯も勿い。寧ろ問はれるのは、魔物に見捨てられた女王の御子に靈德は宿るのか。無事、日嗣の御令息を賜ふ事は叶ふのか。何とも危ふい雲行きが、外征の首途には程遠く、密通の火胤で存る大臣は思ひ遣られる許り。
女王は層增岐嶽の麓を巡りて、鎭懷石を子負ヶ原で物色し、韓の地へ出立の折り、櫃に捧持した先帝の御形代を斂める社を、伊覩の縣主、五十迹手の祖神を祀る長嶽山に見定めると、雷の社へ到りて、代代、夷狄を大雷火で降伏した其の御神德に戰勝を祈願し、五十迹手の齋き奉る髙祖の社で一計を案じて後、磐餘彥の正妃、奈畱多姬を祀る安產守護の社に玉步を伸ばして、訶志比の宮に還御した。
勝ち軍の歡待に沸く凱旋も、新羅討伐の大義へと改まつた大本營に舞ひ戾つて終へば、紅葉を散らした枯れ木の賑はひ。更なる親征へ向け、神妙な面持ちで戎具の繕ひに取り掛かれども、海表は疫氣で穢れてをる、韓の瘦せた土地で如何に兵粮を賄ふのかと、御上の耳へ聞こえる樣、聲髙に話し込む兵達。腰の据わらぬ浮付いた士氣に、重く伸し掛かる倭國の衰運。腹の充ちた野良犬の寄せ聚めを釣る最後の餌こそが、衆を惑はす鬼道の本領。神と民草の狹閒を橋渡し、其の弱き心の緖を繫ぎ止める女王は、人にして人に非ず。其の御國の依り代から憑き物が落ちた事を、下下の者達は宮の蕃屛越しに肌で察し、口にこそ出さねど冷やかしては、浮かばれぬ身の上を慰める始末。此れを卋の常、人の常と看過ごしては、天孫の廢る御稜威に劃勿し。朝庭の御杖代が挫くのは社稷が傾ぐに異ならず。今一度、解けた咒ひを掛け直し、搖らめく尊崇を規す可し。譬へ其れが一卋の瞞しで存らうとも。
訶志比の宮の酉戌、濱男の干潟に御㠀と呼ばれる大磐在りけり。群臣の見護る中、祠が一宇建つ丈けの、磯の聖に小舟で度つた建内足尼は、禁足の渚に恭しく降り立ちて、瞞しの解けた女王を幽き水面へ促した。
吾れ神祇の敎を被け、皇祖の靈のふゆを賴り、滄海浮涉りて、躬ら西を征たむと欲す。是を以て今、海水に頭を滌ぐ。若し驗有ら者、髮自づから分かれて兩つに爲れ。
大帶日賣は天に向かひて聖旨を宣ひ、其の儘、仰向けに身を投げ出して淺瀨に浸かると、腰に達する埀髮を左右の御手を以て對ひに劃かち、美豆良に結ひ上げて、水底に沈めて置いた男裝に素早く召し替へた。刻の眞砂を蹈み締めて、浪の褥より漢と成りて起き上がつた女王に、禁海を挾んで居竝ぶ群臣は息を呑み、生まれ變はつた朝は雄威火を上げた。
夫れ師を興し衆を動かすは國の大事なり。安きも危ふきも成るも敗るるも必ず斯に在り。今し征伐つ所有り。事を以て群臣に付く。若し事不成れ者、罪群臣に有り。是れ甚だ傷きこと焉。吾れ婦女にして之れ加以、不肖。然れど、蹔く男の貌を假て强ちに、雄しき略を起こさむ。上は神祇の靈のふゆを蒙り、下は群臣の助けに藉りて、兵甲を振して嶮き浪を度り、艫船を整へ、以て財の圡を求む。若し、事就ら者、群臣共に功有り。事不就ず者、吾れ獨りに罪有らむ。旣に此の意有り。
先ず先ずの出來に、船緣で控へる建内足尼は胸を撫で下ろした。歸する處、神の靈驗に餓ゑた民草は騙されるのを俟つてゐる。聖戰は人の卋の憂さを晴らす政。神の名の許に人を嬲り、屠る盛儀勿くして、國は纏まらぬ。生け贄を望むらくは神のみに非ず。神は人を映す鏡で存り、人も復た神を映す鏡。菟も角も、此れで一先づ息を繼げる。裳拔けの啞蟬と雖も、鮮やか焉、其の宣鳴。此ぞ衆の迷ひを惑はす女王の勤め。大怪人心の大儀を全うし、對岸の俗界を暫し見渡す倭國の毒婦。矢張り、事、詭道を逍遙する邪德に於きて、此の妖花に比倫勿し。更に、群臣の歡憙を浴びて女王が振り返ると、此の繪空事を奏上した大臣は心の臟を衝き拔かれ、時ならぬ雷撃に慄いた。龍顏麗しき男神に生まれ變はつた筈の尊貌を斜めに限る玄き嚴づ靈。彼の小娘の黥面を閃いた恚りの墨痕が俄に甦り、一步、復た一步と迫り來る。天の空から降りるのでは勿く、地の底から匍ひ出した圡蜘蛛の亡靈。己の淺智惠で喚び醒ました、雙りの女王の狹閒を乘り憑る魔物に魅入られ、滿更でも勿い悍ましさに建内足尼は卻りて北叟笑む。此れは當しく田油津媛の顯現。本の束の閒と雖も、手を合はせたからこそ判る。彼の女は本物で存つた。大帶日賣には足りぬ何かを宿してゐた。賢しらな奇謀を優に超える其の怪力亂神。崇髙と狂暴は鏡像の表裏にして、人を喰ひ、人に喰はれる雄熊の如し。天意は何方の女王に有るのかなぞ、總ては新羅を降した後の話。祟る程に能が有り餘り、溢れ返るので勿ければ用を爲さぬ。
女王が頭から被つた一房の藻草を拂ひ除けて、折りしも黃泉復つた怨色を引き剝がし、潮滴る玉容を取り戾すと、我に返つた大臣は一抹の物足りなさを抱へて、結界を後にする御御足に傅いた。
秋九月、庚午朔己卯、
諸國に詔を布して軍船を輯め、兵甲を練らふにも、案に違はず徵用は滯り、
必に神の御心焉。
と女王は曰ひて、倭國の亡ぼした祟り神、大物主神が二度勸請され、吹上の崎の沖を望む和白の髙台に大三輪の社を建立し、刀戈を奉つた。然れど、今以て用を爲さぬ御軍の備へ。大臣は恚りに顫へる女王の眼を見て徐かに肯いた。咒ひが足りぬと云ふのなら、拜み倒す迠の事。
宮地嶽の社に逗畱し、勝占の石祠に祭壇を設け、其處から四塚山、勝㠀、大㠀と一線に伸びた先に坐します海の岩戸、沖ノ㠀に向かひて、
天命を奉じて、彼の地に渡らん。希はくば、開運を埀れ給へ。
と戰勝を伏し拜み、胸形の社で韓の地へと度る御船の壹路平安を禱りては、其の脚で志賀海の社に親拜で、龜ヶ池で七日七夜の神楽を奏した後、更に、奈多濱の西の果て、
知らぬ日の筑紫の吹上の濱にて神楽を奏するものならば、なとや軍卒調事や有らんとや、建内の大臣は太鼓を打ち、皇后は自ら御琴を遊ばせらるる、群臣十二の樂の調子を揃へ、絲竹呂律の聲聲調べも半ばに及びしに磯良明神は遙か浪閒に出玉ふ。
晝夜を舍かず神座に捧げた外寇調伏の魂振り。刻は來たりて共鳴りし、盡忠報國の氣運と風雲。女王が僞りの臨月を迎へ、夷狄の血祭りに產氣付く兵達の荒魂。許すまじ、宸旨に叛く新羅の驕逸。夜郞自大の蠻族に誅鋤の壹撤を加ふ可し。いざ征かん決死の北伐。滿を持して迎へた秋分の時津風。雷乃ち聲を不收して凱風晴浪。見上げれば、群鳥の朝立つ手向けに背を押され、御軍船は功志に沸き立つ潮騷を裂きて、訶志比の宮より漕ぎ出でた。
儺津の内海を登志湊へと周旋し、湊㠀にて將士が名乘りを擧げて船列に召されると、女王は小戶の水門より、千代の松原にも劣らぬ白砂の名勝に御親臨遊ばされ、御手に取られし松の枝を、靑波針林の渚に天地を逆さに插し置れ、
若、事故なく異國を平け歸らせ給ふべくば、此松の枝いきなん。
と咒ひて、其の先を急いだ。眞幸く存れ、と禱れども禱れども未だ擬かしき御軍の前途。小楯、倭の兵達に更なる勇往邁進の熱狂と幻想を求めて。
雲居なす遠き上代の久方より、日の神と山の神の坐します、飯盛山と竈門山を結んだ卯酉線の妙なる通力に導かれ、髙祖、邇邇藝命が對馬より度りて竺志に降り立つた日向の地。筑紫降山の麓に掘られし靈井に、女王と大臣は眼を附けた。邇邇藝命が逍遙した幤の浜より天照神の本宮、對馬を遙拜み、倭奴國の寳位を大亂にて禪讓つた後も、國の官を爾支と日ふた、伊覩の縣主、五十迹手が代代齋き奉る、天孫の恩寵を宿せし、冒す不可る靈泉。
八隅知し 吾ご大王 髙照らす 日の御子の 聞こし食す 御食つ國 神風の 伊勢の國は 國見ればしも 山見れば 髙く貴し 河見れば さやけく淸し 水門成す 海も廣けし 見渡す 㠀も名髙し ここをしも まぐはしみかも かけまくも 文に恐き 山邊の 五十師の原に 内日刺す 大宮仕へ 朝日なす まぐはしも 暮日なす うらぐはしも 春山の しなひ盛えて 秋山の 色なつかしき 百しきの 大宮人は 天地 日月ともに 萬代にもが
山邊の 五十師の御井は 自づから
成れる錦を 張れる山かも
兵達の燻る士氣を萬の丈に焚き上げる爲、此の神威に肖らずして何と爲る。登志湊より玉步を重ねて到りし、木の暗の繁き靈井の滸。女王は將士を聚められると、先帝が袖を通されぬ儘、藏の隅で梁塵を被つてゐた白生地の鎧を髙髙と搴げられた。
異國を討んに勝利を得へきならは、此鎧緋色に染るへし。若し勝事を得すんは、本の色なるへし。
井戸の中には旣に、長門豐浦の宮で建内足尼に造らせた、狹丹塗りの鎧が仕込まれて在る。女王は其の秘め事を確かめ、嚴かに先帝の鎧を水底に沈められると、今一度、天を仰がれて祝詞を奏上はれた。復び卷き起こる神變の豫感に畏れ戰く兵達。誰しもが信じて已まぬ天孫の天降る御稜威。其の顯現、疑ふ不可。機は熟したりて吐胸は髙鳴り、張り詰めし木漏れ日の中で肝向かふ矢竹心。彌榮えし女王の咒能と鑽仰、遂に此處に究まれり。
井水に浸かる狹丹塗りの鎧に御手を差し伸べ、身重の宸儀で屈み込まれる女王。髙祖、邇邇藝命の玉る靈驗を見逃すまいと心を凝らす衆目。其の天彥の靜寂を、玄き嚴づ靈が斬り裂いた。裳拔けの鎧から生え出た兩の肱が女王の左右の手首を鷲摑み、靈泉の眞澄鏡に映る女王の尊貌を斜めに限る恚りの墨痕。もう獨りの女王の俤が、水面に搖らめく大帶日賣の姿見と重なり、鎧の襟から首を拔き出す田油津媛と眼が合つた。絡み付く圡蜘蛛の八肢に引き擦り込まれ、女王が井桁の中に頭から飛び込むと、俗物の好奇を厭はず、瀑を上げて獨呑にした神隱しに、兵達は助けに驅け寄る事すら儘爲らず、唯只管、幽鬼の祟りに平伏した。
井筒の闇で藻搔き足搔く女王と女王。惹かれ合ふ星と星の因果で、片身と片身が巡り合ひ、縺れ合ふ雙りの沙汰女に、最早、倭國も山門も、天孫も夷狄も勿い。尊崇と怨念の目合ふ恍惚に溺れ、泉下の奈落へと沒する泡沫の亂卋。八尋の深みに息の根が底を盡き、潛かに流れ出す刻の眞砂。氣の遠くなる無明の彼方で鐵の礫が炸けた。
卋の中は夢か現か現とも
夢とも知らずありてなければ