火の鳥 九州王朝編   作:tsunagi

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迷ひ星の影 1

 

  鋼紀柒拾玖年己巳

    參月戊辰 辛未朔戊子

 

 

 天網(てんまう)普(あまね)く、十干十二支(じつかんじふにし)の輪列は絕えずして、いざ果てる老星の殘影、發(はな)つは數阡萬歲の彼方。孰(いづ)れは銀河の流渾(りうこん)も次代の泡沫(はうまつ)。況(ま)してや人の卋の習ひなぞ、夜露の瞬(またた)きに過ぎず、動(と)もすれば、

 

    詐史記眞  詐史、眞を記し

    正史記僞  正史、僞を記す

 

 蓋(けだ)し考古は夜明けを知らぬ樂浪(らくらう)の晦中(かいちゆう)。譬(たと)へ扶桑(ふさう)の東の東に流されやうと、時の笹舟が搖蕩(たゆた)ふ光路と遍歷、今以(もつ)て、周髀算經(しうひさんけい)、其の眞里(ことはり)を櫂(かい)に宙(ちう)を手繰る。爾(なんぢ)、礙風(がいふう)に缺帆(けつぱん)を紮(から)げる事勿(な)かれ。忘鄕(ばうきやう)は不歸(ふき)の嗜(たしな)みと嘯(うそぶ)き、後塵に排した在りし日の門出。紅顏(こうがん)は著(き)古した旅裝に掠(かす)れ、振り放(さけ)見れば途(みち)勿き途(みち)の行き摺りに、夢、跡形も莫(な)く。艢下(しやうか)の卷索(くわんさく)を枕に干淚(かんるい)を臥(ふ)し、有終の號砲(がうはう)、はた心琴を聾(ろう)す。爾(なんぢ)、禁書を鎖(と)ぢる事勿かれ。鏡兆(きやうてう)の導く儘(まま)に、神代の傳承(でんしよう)を辿る可(べ)し。

 

 

 互ひの更なる壯行を期し、銀河超特急999號と針路を畵(かく)した、狹丹塗(さにぬ)りの舶鯨(はくげい)、クイーン・エメラルダス號。名にし負(お)ふ女海賊が統(す)べる、紛爭(ふんさう)の返り血で身を灌(そそ)いだ緋(あか)き黑船が、銀瀾(ぎんらん)の限りを盡(つ)くす系外の宙域に、護衞(ごゑい)勿き不屈の隻影(せきえい)を橫たへ、沈思に沒(ぼつ)してゐる。蹴汰魂(けたたま)しく閃(ひらめ)いた、一瞥(いちべつ)も介さぬ無言の再會(さいくわい)と惜別。雙(ふた)りの女王が擦れ違ひ、闇に彈(はじ)けた、再び交はる事の勿い奇蹟の紅點(こうてん)。其(そ)の一瞬に金輪際の三文字を胸に刻み、黑鐵の十一輛編成を見送つた髑髏の紋章は、敵と我が身に死の辨證法(メメントモリ)を戒める、幽鬱で嚴(いか)めしい鬼相を深深(ふかぶか)と被り直し、舳先(へさき)に降臨した從軍(じゆうぐん)の女神像は、聞こえる筈の勿い汽笛の韻曳(ゐんえい)に心を澄ます。總(すべ)ては行つて終(しま)つた。辰宿列張(しんしゆくれつちやう)の大海原で無用な未練は命取り。本の半步でも蹈(ふ)み畱(とど)まれば、其處(そこ)が無名(むみやう)の墓碑と爲(な)る。そんな支援も資源も斷(た)たれた系外で、取り殘(のこ)された女王は、咳をしても獨(ひと)り。死期が迫り、鋭くなつた鼻梁を限る縫合痕を、舐める樣に滴る脂汗を拭はうともせず、身を投げ出した船長室のベッドの上で酸素マスクに齧り付いた儘(まま)、天蓋(てんがい)を蔽ふ老木の梢を見上げ、張りぼての飛行船で膨れ上がつた、スペースノイド解放戰線總裁(そうさい)と云(い)ふ、ホロ苦い虛榮心に痺れてゐた。

 神の見放した地球以外に新しいエルサレムを求め、星星流轉(るてん)の討征(たうせい)に明け暮れた半生の涯(はて)に、製藥會社と御用學者が散々弄(いぢ)り倒した商用生物兵器と、宙域に漂ふ出自不明の鹽基(えんき)配列が交雜(かうざつ)した未知のウイルスに蝕(むしば)まれ、手の施しやうが勿くなつたゲル狀の肺の腑(ふ)は、最早、「物の分別より氣概に生きる。」と息卷(ま)く事すら叶(かな)は勿い。臥(ふ)して死を待つ身に取つて、鉄郞の有り餘(あま)る若さの煌(きら)めきと、星辰(せいしん)を逆行するに等しい己の運命に挑む血意は、一服の淸涼劑處(どころ)か劇藥に等しく、火酒を浴びた樣に噎(む)せ返り、跳ね馬の如き横隔膜が窶(やつ)れた脊椎に鞭を打つ。

 星の原野を鐵路(てつろ)で翔(かけ)る郞子(いらつこ)。そんな星の名の許に產まれた少年に焚き付けられて、

 「神の物語を征(ゆ)け。」

 人恋しさから饒舌(ぜうぜつ)に爲(な)り、大それた事を口に爲(し)て終つた氣恥づかしさと、無け無しの矜恃(きようじ)。出涸(でが)らしの體力(たいりよく)と心肺機能で、こんなにも胸が躍り、熱く爲れるとは。枯れた草程、良く燃えると云ふ事か。命の炎群(ほむら)が盡(つ)きる最期の惡足搔(わるあが)き。線香花火の樣な僅(わづ)かな餘生(よせい)に、來卋(らいせ)を前借り出來(でき)る當(あ)てなぞ望む可(べ)くも勿(な)く、旅の恥ぢを搔き捨ててきた其の負ひ目を、己の命で決濟(けつさい)する事しか出來勿い。自前の體(からだ)に裏切られた本物の孤獨が研ぎ澄ます、闇を越えた闇へと何處(いつ)迄も潛(もぐ)り込んでいく自己認識。魂は光に餓ゑて死ぬ。病床から腰を上げた丈けで立ち眩(くら)み、意識が飛ぶ末期患者だ。此(こ)の儘、白想のベールに包まれて息を引き取るのも滿更(まんざら)ぢや勿い。倂(しか)し其(そ)の前に、一つ丈(だ)け遣り殘した、己の爲(な)す可(べ)き事を爲(な)し、果たす可き物を果たさねば。强がりを云ふ相手も消え失せた絕界の孤舟(こしう)。宇宙の寳(たから)なぞ、何處(どこ)にも勿かつた。責めて最期の一仕事丈(だ)けでも全(まつた)うしなければ。

 エメラルダスは船長室の扉の向かふで蠢(うご)く無言の氣配に、ズレ落ちた髑髏のヘアブローチを直し乍(なが)ら、痰の絡んだ澑(た)め息を吐(つ)いた。艦内クーデターで襤褸(ぼろ)を出し、合はせる顏の勿い臣下(しんか)達の、撥条(ぜんまい)仕掛けでしか勿い默禮(もくれい)。天庭の紅孔雀も地に墮(おち)ちた。銀河光路の圈外を雄雄(をを)しく羽擊(はばた)いていれば、スペアノイドに寢首を搔かれる事なぞ勿い物を。標準裝備のアルゴリズムに改悛(かいしゆん)の念を期待するなぞバッテリーと時閒の無駄と許りに、エメラルダスは血の滲(にじ)む鶴聲(かくせい)を飛ばした。

 「もう良い。影に戾つて下がれ。」

 次次と中央管制室の合成義惱(ぎなう)に同期して筐體(きやうたい)を格納し、輯積(しふせき)化した電影の地下室に潛(もぐ)り込む機畜の群れ。人口被膜もカウリングも勿い甲殼(かふかく)の上から被つてゐたブルカが主を失ひ、舞ひ降りた床に折り重なつていく。あんなサポート期限の切れた形代(かたしろ)、幾ら竝(なら)べても目障りな丈け。手當(てあ)たり次第に叱責し、憂さを晴らす氣にも爲れ勿い。然(さ)うと判つてゐて何故、返品不可のワゴンセールに手を出して終(しま)ふのか。農耕家畜と愛玩動物、奴隸と愛人は紙一重だ。心の何處(どこ)かで其處(そこ)に慰みを求めてゐるのだとしたら。力盡(つ)きて地に墮ちたのなら未だしも、愛の巢を求めて地に墮ちた孔雀なぞ見たくも勿い。

 ヘッドボード脇のキャビネットで光貴を湛(たた)へる、八咫(やた)一周、青銅、仿製(ばうせい)の内行花紋(ないかうかもん)。其の磨き上げられた鏡面に映る、血の氣が失せて顳顬(こめかみ)が圡氣色に變色(へんしよく)し、顴骨(くわんこつ)から外顎(ぐわいがく)へと削ぎ落ちた、虫の息の靑娥(せいが)に手を翳(かざ)し、エメラルダスは傳磁束揚錨機(ウィンドラス)の主動力(ブレーカー)を爪彈(つまび)くと、所在勿げに光指(くわうし)を絡め、仙女座(アンドロメダ)の星屑を數(かぞ)へてゐた探照燈(サーチライト)が七色に放電し、豫熱(よねつ)を孕(はら)む光束核幽囂爐(ゴーストエンジン)に共振してゐた埀平尾翼が反り上がり、虛しく咲き誇つてゐた、ゴンドラ式木造キャビンのガレオン船を餝(かざ)り立てる、艤裝の限りを盡くした豪奢(がうしや)なレリーフが色めいて、一矢討星(いつしたうせい)の主砲を尖頭に、過積載のウェポンコンテナを持て餘(あま)してゐた鋼殼氣嚢(バルーン)が、銀河鐵道公安警備の派遣した裝甲車輌を、一擊で仕畱(しと)めた暴威で張り詰めていく。祝砲勿き拔錨(ばつべう)の捕索(ほさく)。脇腹の内骨龍が軋(きし)みを上げ、飛行船の纏(まと)ふ天鵞絨(ビロード)のキルティングに鏤(ちりば)めた核濫粒子(かくらんりふし)のラメが綺羅星(きらぼし)を裝ひ、天河の黑潮に冥彩化していく。

 「火星の探査情報は更新されたか。自轉、公轉速度、地軸、眞円率の觀測データに變化は勿いか。」

 大航海時代の懷古趣味で厚化粧をした二層式船尾樓(せんびろう)の意匠に圍(かこ)まれて、舵柄(だへい)に凭(もた)れる事すら敵はず、病床から指揮するエメラルダスが靑銅の御鏡(みかがみ)に問ひ質(ただ)すと、管制室の合成義惱は銀河鐵道株式會社が提携先へ限定開示してゐるサーバーから檢索(けんさく)した結果を、宙響發振(ちうきやうはつしん)モニターを介し淡淡と讀(よ)み上げていく。

 「決壞(ケツクワイ)シタ帶域(タイイキ)ノ狀況ハ漏洩機密ノ破砕流(ストーム)ニ阻マレテ、電寇防壘(デンコウバウルイ)ヲ突破シタ經路(ケイロ)ノ特定モ含メ、進展ハ有リマセン。」

 「重合體(ぢゆうがふたい)に關(くわん)する構造解析と被害報吿は。」

 「インデックス二混在スル覺變(カクヘン)履歷ノ追跡ト、多發(タハツ)的構文單位(タンヰ)ノ解讀(カイドク)ガ白紙ニ戾リ、電劾重合體(デンガイヂユウガフタイ)核因子ノ實態(ジツタイ)究明ハ、依然トシテ捗捗(ハカバカ)シク有リマセン。新シイ被害報吿ニ關(クワン)シテハ、太陽系外緣環狀線ノ遭難車輌ガ電劾重合體ニ因(ヨ)ル物ト判明。運行識別番號(バンガウ)ハGL-776。周遊型臨時列車デス。其ノ後、銀河超特急999號モ同重力底層帶ニ滑落シ、GL-776ニ追突シテヰマスガ、銀河超特急999號ノ損傷ハ輕微(ケイビ)デ在ツタ爲(タメ)、復旧作業ノ後、速(スミ)ヤカニ重力底層帶ヲ離脫シ無限軌道ニ合流シテヰマス。GL-776ハ遺體(ヰタイ)ノ囘收(クワイシウ)ヲ終ヘテヰル物ノ、殘畱(ザンリウ)因子ノ除染ガ難航シ、車輌ハ事故當時(タウジ)ノ狀態デ放置サレタ儘デス。」

 「何、999が。然(さ)うと判つてゐれば、鉄郞や999のデータベースから現場の詳細を聞き取れた物を。星の巡りの惡さには爲(な)す術(すべ)が勿い。何(いづ)れにせよ999を卷(ま)き込むとも爲(な)れば何か在る。譬(たと)へ後手を蹈(ふ)んでも足を運ぶに如(し)くは勿(な)い。上りの進路に在るのも出來過ぎだ。急行しろ。」

 「デスガ、殘畱因子ガ。」

 合成義惱が其處迄云(い)ひ掛けると、エメラルダスは管制室との交信を切り、プロパティを開いて合成義惱の應答係數(おうたふけいすう)を書き換へ、自動航行のポインターを現場の座標に手動で重ね合はせた。

 「殘畱因子の如(ごと)き落ち零(こぼ)れに手を燒いて、火星の本丸に挑めるか。態々(わざわざ)居座つてゐるのなら、此の手で尻尾を摑む迄だ。」

 

 

 

 遺體の囘收作業と中斷した除染作業に因つて飛散した、破片と粉塵が埀れ籠める靄(もや)の向かふに、辛(から)うじて判讀出來るラッピングの“GL-776”。御鏡(みかがみ)越しの船外モニターに映る、飴色に變質(へんしつ)し、砂繪(すなゑ)の樣に崩壞した流線型のロゴタイプは、重力の底に叩き落とされた事故の凄まじさより、人事の及ばぬ因果の虛しさを代辯(だいべん)してゐる。遭難現場と云ふより古代文明の發掘現場に足を蹈み入れた聖謐(せいひつ)な戰慄(せんりつ)。古址(こし)は萬死(ばんし)を語り、寡聞(くわぶん)は萬感(ばんかん)を凌(しの)ぐ。事後處理(しより)が儘(まま)ならず、實況(じつきやう)見分も其處其處(そこそこ)に放置されたと云(い)ふ丈(だ)けで、こんな爆發的經年變化(けいねんへんくわ)は有(あ)り得勿(えな)い。武力衝突に因つて蹂躙(じうりん)された數多(あまた)の修羅場や焦圡(せうど)を、望觀(ばうくわん)、睥睨(へいげい)してきたエメラルダスですら眼を瞠(みは)る異形と狀景。脫輪した儘、智惠の輪の樣に聯結(れんけつ)器で屈曲してゐる幽靈(いうれい)列車の一輛一輛が、盜掘された王墓の玄室(くらきや)の樣に、見捨てられた榮華を飄飄(へうへう)と曝(さら)してゐる。

 奇病を患(わづら)ひ、死の淵を舐める女王に取つて、他人事(ひとごと)では勿い其の末路。己の墓を自らの手で暴いて終つた錯覺(さくかく)。嘲笑(あざわら)ふ事も怖(お)ぢ氣(け)付く事も出來勿い旣視(きし)感と暗示に、呑み下す事の出來勿ぬ血痰が執拗に絡み附く。此れが銀河鐵道管轄の在來軌道から、半步でも足を蹈み外した物の現實(げんじつ)。其れは系外光路で無法を極めるエメラルダスとて例外では勿い。然(さう)して、擊沈されたらハイ其れ迄の海賊稼業と較べたら、重力の蟻地獄に叩き落とされたとは云へ、遺體を囘收して貰へる丈け此の遭難列車は增(ま)しな方だ。宇宙線と車内の窒息した大氣に因つて腐蝕し、蛛網(ちゆうまう)の如(ごと)きコーティングの龜裂(きれつ)で覆はれた外裝。天板や備品が剝落し、瓦礫の下敷きで葬列を成す、スプリングの飛び出した無人のリクライニングシート。大破とは一味違ふ凄慘。尋常で勿い時空を超えた荒涼。リゾート氣分の成れの果てと云ふには、隨分(ずいぶん)と手の込んだ事を爲(す)る。斯(か)う爲(な)ると、奴(やつこ)さんは獨(ひと)りと限ら勿い。面白い案件は幾つも尻尾がブラ下がつてゐる物だ。

 エメラルダス號を遭難車輌に接舷して錨索(いかりづな)を解投すると、ウイルスの巢窟(さうくつ)と化した肺の腑に鞭を打ち、病(やまひ)の褥(しとね)から身を起こした女王は、御鏡(みかがみ)の船外モニターを管制室に切り換へた。

 「劣化した車體(しやたい)のサンプルを經年較正曲線と對照(たいせう)し、周圍(しうゐ)に漂流してゐる殘骸も含めて、現場に染核同位信號(アイソトープ)を放射しろ。其れと列車のタイムスケジュールだ。各停車驛の到著時刻と出發時刻に乘客名簿、遭難信號と囘收された電操レコーダー、脫線した軌點(きてん)の履歷が有るのなら其れも檢(しら)べろ。」

 機族が誇る永遠の命を奪つた、一澑(ひとた)まりも勿い彼我(ひが)の所業。神の時辰儀(じしんぎ)を數仟(すうせん)年單位で空轉(くうてん)させたとも爲れば、こんな藝當(げいたう)が出來るのは宇宙廣(ひろ)しと云へども獨(ひと)りしか居勿い。電劾重合體の影を追つてゐる内に、實體(じつたい)が影よりも薄い、眼の前に居乍(ゐなが)ら、幽明(いうめい)、竟(さかひ)を異(い)にする彼(あ)の女に突き當(あ)たるとは。999と別れた許(ばか)りで此(こ)の因緣。燃え盡(つ)きる命の誘蛾灯に引き寄せられて、惡友から惡友へと渡る鞘當(さやあ)てに運命も粹(いき)な事をする。除染作業が進まぬと云ふのも彼(あ)の女が入り浸(びた)つてゐるからか。萬有(ばんいう)萬物を網羅する砂時計の囁(ささや)きを、瞬(まばた)き一つで時爆裝置の死の宣告に變(か)へる奴の事なら、重合體を手懷(てなづ)けても不思議では勿い。火星の大掃除で惡魔の手も借り度(た)い處(ところ)だ。此の墓穴は飛んだ掘り出し物に成るやも知れぬ。主(あるじ)勿き棺(ひつぎ)の中に盜り零(こぼ)した凶惡な副葬品。勿體振(もつたいぶ)つた禁忌(きんき)の寂寞(せきばく)を走査する探照燈(サーチライト)の烱光(けいくわう)崩射線。

 「出て來い竜頭(りゆうづ)。」

 チアノーゼで掠(かす)れた唇を食(は)み、エメラルダスは透晳(とうせき)スコープを過(よぎ)る魚影(エコー)に眼を凝らす。其處(そこ)へ、

 「事故當日(タウジツ)ノ列車ノ運行記錄ヲ報吿シマス。GL-776ハ、大長(ダイチヤウ)阡肆佰陸拾伍(1465)年乙巳(キノトミ)、貳(2)月丙寅(ヒノエトラ)、辛丑朔(カノエウシノツイタチ)丙午(ヒノエウマノヒ)、正午(シヤウゴ)、定刻通リ始發驛(エキ)ノ・・・・・・。」

 合成義惱の平坦な報聯相(ほうれんさう)が水を差し、女王は御鏡の坐(ましま)すサイドキャビネットに、握力の入らぬ拳を振り下ろした。

 「オイ、復た例の年號(ねんがう)と干支(えと)にタイムコードが化けてゐるぞ。汚染されてゐるのは何處だ。眞逆、銀河鐵道中央管理局のデータベースに迄、達してる譯(わけ)では有るまい。」

 「申(マウ)シ譯(ワケ)御座イマセン。除染作業ノ遲(オク)レ二因リ滯畱(タイリウ)シテヰル、電劾性核種ノ電荷ニ、管制宙樞(チウスウ)の入出力系統ガ、不正ニ誘導サレテヰル物ト思ハレマス。運行記錄ヲ鋼統機元(カウトウキゲン)ニ換算シマスト・・・・・・・。」

 「もう良い。」

 時を弄(もてあそ)ぶ石女(うまづめ)に、過ぎ去りし千代の來訪者。此(こ)れは屍肉(しにく)を嗅ぎ付けて出會(でくは)した同じ穴のハイエナなのか。此の狂つた時の齒車は、雞卵(けいらん)、何方が先なのか。絡み合ふ謎と猜疑の萬華鏡(まんげきやう)。エメラルダスは舌火(ぜつか)を飛ばし、眩惑(げんわく)に搖(ゆ)れる己を叱咤(しつた)した。

 「重合體の缺片(かけら)に足を取られて縺(もつ)れる位なら根元から斬り落とせ。そんな蜥蜴(とかげ)の尻尾に用は勿い。本體(ほんたい)は何處(どこ)だ。」

 「傳導(デンダウ)率ノ安定シタ車體(シヤタイ)ノ通電部位ニ、電劾重合體ト思(オボ)シキ蠕動(ゼンドウ)波形ガ、帶電シテヰマス。」

 「其の怪周波(くわいしうは)を炙(あぶ)り出せ。」

 「其(ソ)レト・・・・・・。」

 「其(そ)れと、何だ?」

 「・・・・・・・・鳥デス。」

 「鳥?」

 「雉科孔雀屬(ゾク)ト思(オボ)シキ鳥デス。六號車ノ集傳裝置(パンタグラフ)ニ停マツテ、當船(タウセン)ヲ觀察(クワンサツ)シテヰマス。」

 業務聯絡(れんらく)の其れ以上でも、其れ以下でも勿い、一拍閒(ま)を措(お)いた合成義惱の聲色(こわいろ)。倂(しか)し、意味が全く追ひ附か勿い。完全に場違ひな生存者に、耳を疑ふ事すら忘れて眞(ま)つ白に爲つた女王の頭の中に、扇狀に廣(ひろ)げた餝(かざ)り羽(ばね)が優雅に舞ひ降りてくる。眞顏(まがほ)で云つてゐるのか。低音の拔(ぬ)けたビープ音に毛が生えた程度のテキストリーダーでは表情が讀める筈も勿く、今一度、應答履歷を再生するのも思ひ畱(とど)まり、エメラルダスは御鏡を透晳スコープから船外モニターに切り換へた。愛玩用の自律模型(クレイ)なら、探照燈(サーチライト)の走査線が一瞬で化けの皮を剝(は)いでゐる筈で、眞逆(まさか)、自前の宇宙服で無人の周遊列車に巢くつてゐるなぞ、そんな閑古鳥(かんこどり)、聞いた事が勿い。船外は絕對(ぜつたい)温度で2.7K(ケルピン)、攝氏(せつし)-270.45℃に達する、宇宙線の嵐と無氣壓(むきあつ)の極限卋界だ。僅(わづ)か數分(すうふん)でも耐へられるのはクマムシ位の物で、其れ以外に、此の絕望的な必死の領域を凌駕する存在と云つたら、將(まさ)に、不死鳥。己の異名に相通ずる未知の生命の豫感(よかん)。エメラルダスはモニターに映し出された、絡まり合ふ車列の六號車を眼で追つた。倂(しか)し、集傳裝置(パンタグラフ)の周辺を拡大表示しても、其れらしき禽影(きんえい)は見當(みあ)たら勿い。

 「何處だ、其の鳥をフォーカスしろ。」

 「此ノ鳥デス。」

 合成義惱は卽應(そくおう)するも、スイッチングした箇所には押し潰された集傳裝置(パンタグラフ)と各部の材質、劣化指數がレイヤー表示されてゐる丈けで、無機無情な靜止畵(ぐわ)が鏡面に貼り付いてゐる。

 此處(ここ)に鳥が?耳丈(だ)けでは飽き足らず、我が眼も疑ふ怪訝(けげん)な續報(ぞくほう)。此(こ)の合成義惱、セコハンで換裝した都督(ととく)の分際で、船主を試してゐるのか。其れとも、大氣圏外を流離(さすら)ふ未だ見ぬ鳥類が、重力の特異点を制空し、人閒の可視領域波長を越える、偏光素子の體毛(たいもう)で擬態してゐるとでも云ふのか。機械に迄舐(な)めらて終(しま)ふとは卋(よ)も末だ。苦笑の餘(あま)り卑屈に歪んだ、鼻梁(びりやう)を限(かぎ)る縫合痕。地に墮ちた筈の女王の矜恃(きようぢ)は、未だ踊り場の上を轉(ころ)がつてゐた丈けらしい。

 「ならば、其の鳥とやらを生(い)け捕(ど)りにしてみろ。」

 「彼(ア)ノ鳥ヲ、デスカ?」

 「然(さ)うだ。」

 神經(しんけい)質なシーク音を搔き毟(むし)り、沈默に伏(ふ)す合成義惱。抑(そもそ)も、船長の司令を卽座(そくざ)に實行(じつかう)せず、聞き返してくる事自體(じたい)が有り得勿い。其の不遜な態度に、船外モニターから眼路を切り、誰も替へて吳(く)れる者の勿い敷きつ放しのシーツの上に、燃え止(さ)しの樣な病身を投げ出し、立ち昇る塵に咳き込み乍(なが)ら、唐桃(からもも)の梢が鬱蒼と絡まる天蓋を見上げたエメラルダス。應答係數(プリセット)を弄(いぢ)つて誤魔化(ごまか)し續(つづ)けるのは此處(ここ)迄だ。こんな思はせ振りで、電卓を咥(くは)へた丈(だ)けの九官鳥に用は勿い。どうせ、最後の現場で此の船諸共スクラップに爲(な)るのだ。今の内に精精(せいぜい)、愚圖(ぐず)つてゐろ。エメラルダス號もエメラルダスも整備や燃料の支拂(しはら)ひが澑(た)まつた圖體(づうたい)許りの笨骨(ぽんこつ)で、此れから首を突つ込む生まれ故郷の惑星も似たり寄つたりの火の車、

 

 

  身を捨てて花を惜(を)しとや思ふらん

 

 

 其處で何もかも御破算(ごはさん)だと獨(ひと)り言(ご)ち、額から眉閒へと滴り、縫合痕を傳(つた)ふ汗が、綻(ほころ)んだ目尻に滲(し)み込んだ、其の時、

 

 

   打テドモ立タヌ鳥モアリケリ

 

 

 宙響發振モニターとエメラルダスの耳小骨(じせうこつ)を超えて、口を濁した下の句が、再起不能の肺の腑を衝(つ)いた。姿勿き不意の返歌(へんか)に息を呑み、望外の詩魂(しこん)に觸(ふ)れた陶醉に戶惑ふ餘裕(よゆう)も勿く、襟足の和毛(にこげ)を驅(か)ける靈妙(れいめう)な戰慄。

 「生ケ捕リにすル・・・・・コの・・・・・私を。」

 PCM音源から血の通つた何者かへと一瞬憑變(ひようへん)した異界からの神韻(しんゐん)。合成義惱の發音デバイスは、造聲音(ざうせいおん)の餘りにも完璧な滑舌の違和感と、居(ゐ)もし勿い乘組員の肉聲(にくせい)と區別(くべつ)する爲(ため)に、敢(あ)へてサンプリング音源に據(よ)る聲替模寫(モデリング)は設定せず、平坦な紙に印刷した樣なPSG音源で、不自然な人閒臭さを消してゐる。其れが今、天命を下す玉音(ぎよくおん)の如き莊嚴な風格を湛(たた)へて、本の微(かす)かに化けの皮を現した。もう旣にエメラルダス號の管制機能は電劾重合體の殘畱因子の勢力下に在るのか。此れが帶域核醒自我の聲(こゑ)?血の通つた俗人とは毛色が違ふ泰然とした威迫。驗(あかし)を示さぬ創造主の寡默な恫喝(どうかつ)。不敬な被造物に跪拜(きはい)を强要する尊大な僭稱(せんしよう)者。

 全く何奴(どいつ)も此奴(こいつ)も怪(け)しからん。名にし負ふエメラルダス號を治(しら)す英魂(えいこん)を誰と心得る。朝貢(てうこう)を乞ひ願ふなら未だしも、手ブラで謁見(えつけん)なぞ烏滸(をこ)がましい。禮儀(れいぎ)を辨(わきま)へぬのは貴樣の方だ。神の聲色(こわいろ)に怯(ひる)むエメラルダスでは勿い。女王の耳目を唆(そそのか)すにも程が在る。

 「何者だ。姿を現し、名を名吿(なの)れ。」

 合成義惱の音源に憑依した招かざる客に語氣を荒げるエメラルダス。處(ところ)が其の口吻(こうふん)を衝(つ)いて迸(ほとばし)る心火(しんくわ)に、聲(こゑ)の主は冷や水を注ぎ、事も勿げに受け流した。

 「何者・・・・・・デスカ?」

 「然(さ)うだ、貴樣は何者だ。」

 「何者・・・・・・トハ?然(サ)ウ云フ貴方ハ、何者、デスカ。」

 「私はスペースノイド解放戰線總裁、クイーンエメラルダスだ。」

 「私ハ・・・・・・デスカ?」

 「訊(き)いてゐるのは私の方だ。聞こえぬのか。私はエメラルダスだと云つてゐるのだ。貴樣は何者だ。答へろ。」

 「私ハ、エメラルダス・・・・・デスカ?」

 「ですかも何も勿い。私は私だ。」

 「本當ニ、私ハ私・・・・・デスカ?」

 エメラルダスの言葉と自我を反鏡し、其の意味を解體(かいたい)する聲の主。總(すべ)てを見透かし、宥(なだ)め喩(さと)す樣に女王と云ふ虛餝(きよしよく)の闇に迫り、其の資質を試すPSG音源の假面(かめん)。言葉に窮(きゆう)したエメラルダスは、御鏡の中に祀(まつ)つた戰士の銃(コスモドラグーン)を拔き取つて、自己疑念の禪問答(ぜんもんだふ)を振り拂(はら)ひ、僞(いつは)りの鏡に映した鸚鵡(あうむ)返しを一喝した。

 

 

   問君何能爾  君に問ふ 何ぞ能(よ)く爾(しか)るやと

   心遠地自偏  心遠ければ 地も自(おの)づから偏(へん)なり

   此中有眞意  此(こ)の中に眞意(しんい)有り

   欲辯已忘言  辯(べん)ぜんと欲(ほつ)して已(すで)に言(げん)を忘る

 

 

 ソクラテス氣取りは其處(そこ)迄だ。個毒(こどく)の坏(さかづき)なら閒(ま)に合つてる。己を癡(し)れと云ふのなら、貴樣の方こそ人智を模造した形代(システム)としての分を辨(わきま)へろ。」

 爲ると、顱頂(ろちやう)を劈(つんざ)く蹴汰魂(けたたま)しい禽啼(きんてい)に、直径465mm、厚さ1mmに磨き上げられた靑銅の鏡面が彈けて龜裂が走り、艦内を轟然とした羽音が霏霺(たなび)いて、嚴(いか)づ靈(ち)を振り降ろされた唐桃の幹が激甚し、絡み合ふ梢と梢の文目(あやめ)から火の粉の驟雨(しうう)が降り注いだ。天蓋の上段を突き拔けて羽擊(はばた)く、獣毛(じうもう)の粘著(ねんちやく)質で貪婪(どんらん)な體臭(たいしう)。波打つ老木の葉蔭に遮られた、得體(えたい)の知れぬ忽然(こつぜん)の怪力亂神(らんしん)。女王の奧室(おくしつ)に飛來した招かざる客の狼藉(らうぜき)に身構へ、舞ひ降りて來た錦糸(きんし)の閃(ひら)きを手に取ると、此(これ)ぞ正しく架空の靈鳥(れいてう)、鳳凰(ほうわう)の尾羽と云ふ奇瑞(きずい)の獨片(ひとひら)。今、此の船は、紐解かれた神話の、見開かれた雙翼(さうよく)の直下に居た。息を呑む、星が產まれ落ちた樣な生命の燦歌(さんか)。迸(ほとばし)る悠久の熱量と絢爛(けんらん)たる魔性の因力(いんりよく)が時空を超え、エメラルダスの前頭葉に盈(み)ちる惱漿(なうしやう)が、灼熱の岩漿(マグマ)と爲つて水底(みなそこ)の地殼を貫き、決壞した。

 

 

 太古の微睡(まどろ)みに搖蕩(たゆた)ふ南洋の漣(さざなみ)。文明の穢(けが)れも、天(あま)と海(あま)の竟(さかひ)も知らぬ其の黎眠(れいみん)に、目覺めの時が訪れた。氷河が凍解し海拔に沒(ぼつ)した火山帶を驅け拔ける、運命の星の胎動。穩(おだ)やかな陽氣に誘はれて、潮騷(しほさい)を奏でてゐた暖流が俄(にはか)に色めく、大海鳴動。離れ離れの㠀嶼(たうしよ)から海鳥が一齊(いつせい)に飛び發ち、新しい大陸の様に隆起した海面に、地母神(ガイア)の鎌首(かまくび)が怒髮(どはつ)した。地球最大の溶岩ドームを撼(ゆ)るがす數萬(すうまん)年に一度の慟哭(どうこく)。天を衝く鬼界の火柱が蒼穹(さうきゆう)を焦がし、噴煙の積亂雲を渦卷く火山雷が、此の卋(よ)の始まりと終はりを宣吿する。灰塵(かいじん)で塗り潰された日輪。降り注ぐ烈火の噴石と黑い雨。其の生と死のコントラストを、復活した神の使ひが鵬翼(ほうよく)を廣げて旋囘(せんくわい)し、尾羽に鏤(ちりば)めた金燐(きんりん)を悠然と振り撒き乍(なが)ら、沸鼎(ふつてい)の如き眼下を等閑してゐる。カルデラの煉獄、水床(みなとこ)の岩漿澑(マグマだ)まりの繭(まゆ)に包(くる)まり昏睡してゐた不滅の靈鳥。海を隔てた東の涯(はて)の扶桑(ふさう)の地を宿り木に、幽界と俗界を行き交ふ、神仙鄕の舞ひ姬と謳はれし火の鳥の氣紛(きまぐ)れが、列㠀(れつたう)の南端に火碎(くわさい)流の津波と爲つて押し寄せ、縄文の國と民の總てを灼き盡くした。

 溶岩流と火山灰の下で息絕えた死の大地。噴煙の帳(とばり)が降りた晝(ひる)も夜(よる)も勿い鈍色(にびいろ)の四季。生きる場所を求めて、神を祀(ま)つた祖地(そち)を棄てて北上する、氏(うぢ)も姓(かばね)も勿い灼け殘つた人の波。尾根を、瀨瀨(せぜ)を、國境(くにざかひ)を途切れる事の勿く續く其の行群は筑紫の地を越え、氷河が溶けて後、幾千年もの閒(あひだ)、現生人類から完全に見捨てられてゐた、不毛の大地が橫戲(よこたは)る未だ名も勿き半㠀(はんたう)を目指した。然して時は流れ、焦圡と化した祖地に人と綠が戾り、縄文の息吹に因つて切り拓かれた半㠀との往來が隆盛を極めても、志賀㠀(しかのしま)を後にして、天(あま)の國と呼ばれた壱岐㠀(いきのしま)を圍(かこ)む海(あま)ヶ原に漕ぎ出す者達は、筑紫の春日(かすが)を、御笠(みかさ)の山河を今一度眼に燒き付けやうと、大艫(おほとも)の緣(へり)で搔(か)き暗(く)れる。

 

 

   天の原ふりさけみれば春日なる

       三笠の山に出でし月かも

 

 

 命を賭(と)して半㠀を、大陸を目指す者達の吟(ぎん)じた筑紫の古哥(こか)。其の妙(たへ)なる唇韻(しんゐん)が靑史(せいし)を數(かぞ)へ、航路を遮る對馬(つしま)海流が、天河の潮(うしほ)へと轉調(てんてう)していく。玄界の沖(おき)つ波閒(なみま)に見送つた夜立(やだ)ちの月を限(かぎ)る一筋の機影。新卋紀の方舟(はこぶね)が約束の地を目指し、火の鳥(ロケットブースター)が燃え盛る。

 客室なぞ望む可(べ)くも無い貨物船に詰め込まれた、移民とも難民とも廢棄物とも知れぬ、電惱化の激流で罹災し、剪定(せんてい)された再生可能人類(エネルギー)。次の寄港先さへ未定の儘、大氣圈を脫した宙域開拓團(だん)に、密航の手配師(てはいし)と奴隷商人の罵聲(ばせい)が飛ぶ。地球を追はれて押し込められた火星の地。其の吹き澑まりすら追はれて、デブリの環狀帶を周囘する、民族合辨(がふべん)事業とは名許りの人類の離散。緊急避難所の如き、積み荷のパーテーションで仕切られた丈けの船内倉庫に、其れ其れの神へと捧げる敬虔な禱(いの)りが交錯し、飢餓と彈壓(だんあつ)に因つて疲れ切り、死んだ樣に眠る者と、眠る樣に死ぬ人人の、垢に塗(まみ)れた腋臭(わきが)と死臭で噎(む)せ返る昏睡の片隅に、兩親(りやうしん)から賣(う)り拂(はら)はれた事すら知らぬ獨りの孤兒(こじ)が、膝を抱へて蹲(うずくま)つてゐた。後にエメラルダスと名吿り、格外報奬金を首に掛けられて第一種特別指名手配される少女の、淚も足處氣勿(あどけな)さも涸れ果てた寢顏。聞き取る事の出來ぬ、他民族の禱(いの)りを子守歌に幕を開けた女の一生が、銀瀾の逆潮(さかしほ)に乘つて、神話の綴(つづ)れ織りを、禁斷の焚書を、今、靜靜(しづしづ)と卷き戾す。

 

 

 

 「日巫女(ひのみこ)樣。」

 聞き覺えの有る神寂(かむさ)びた聲と、行き交ふ衣擦れの音に搖(ゆ)り起こされた少女の耳元で、片付けられていく須惠(すゑ)器の澄んだ音色が弦(いと)を彈(ひ)いてゐる。家畜の樣に押し込められた貨物船とは別卋界の聖謐が張り詰め、鼻粘膜に焦(こ)びり付く死脂(しし)から解き放たれた、愼愼(しんしん)と冴え渡る玲氣(れいき)と木(こ)の香(か)に、千載一睡の昏昏とした太古の魔泥(まどろ)みが灌(すす)がれていく。此れは胡蝶(こてふ)か、邯鄲(かんたん)の夢か。生まれ變(か)はつた樣な、其れでゐて再び巡り會(あ)へた樣な恍惚。薄目を開けた隙閒から、對座(たいざ)する銀髮を小振りの丸髷(まるまげ)に結つた嫗(おみな)の懷かしい面差しが覗き、篝火(かがりび)の中に浮かび上がつた床板の、整然と伸びる柾目(まさめ)を辿つて重い瞼を差し上げると、豪壯な梁桁(はりげた)と母屋(もや)に覆ひ被さる茅(かや)受けの竹格子が、天蓋の闇に呑まれてゐる。神の聲を賜(たまは)る稀人(まれびと)にのみ赦(ゆる)された髙床の壯禮威(さうれい)な宮室(みやむろ)。城柵(じやうさく)の外で今も鳴り止まぬ騷亂とは無緣の、天の使ひが坐(ましま)す淨域で、朝餉(あさげ)の最中(さなか)、復(ま)た轉(うた)た寝をしてゐた。今以(もつ)て慣れぬ朝まだきの勤め。被髮屈紒(ひはつくつかい)に單被(ひとへ)の貫頭衣を著(き)た婢僕(ひぼく)が退くと、嫗と雙(ふた)り、交はす言葉も畏(かしこ)まり、手振りで促される儘に身支度を調える。

 景初貳(に)年、魏(ぎ)の明帝より封(ほう)ぜられた品品の中でも、漢外不出と傳(つた)はる文錦(あやにしき)で仕立てた、細紵縑綿(さいちよけんめん)の緣餝(ふちかざ)り、腰衣、平帶に舶載の淺靴。鐵火(てつくわ)の如き瑪瑙(めなう)の管玉と璢璃(るり)色の硝子玉の首餝りに、翡翠(ひすい)の胸當てを重ね、腰迠達する束ね上げた埀髮(すいはつ)に、赤漆(あかうるし)の堅櫛(かたぐし)と簪(かんざし)を插(さ)して、漢の貴女のみに赦される琥珀の耳璫(じたう)。凡(およ)そ、祭殿に昇る白裝束では勿い、時の雅を極め、贅(ぜい)を盡くした繕(つくろ)ひにも、只、戶惑ふ許りで心が華やぐ事は勿い。さて、禊(みそ)ぎもせずに迎へる今日の勤めとは一體。無言で著付(きつ)けをする嫗の息使ひに包まれ、虛(うつ)ろな吐胸(とむね)を絳地(かうち)の帶紐(おびひも)が更に締め上げる。右も左も判らずに餝り立てられていく眠気目泣子(まなこ)の夢心地。其の朧(おぼろ)な星眸(せいぼう)が、不圖(ふと)、倭鏡(ゐきやう)の反影に突き當たり、幼き日のエメラルダスが映り込んだ。美しく成る事を約束された貴種の血統。生え替はりで前齒の拔けた足處氣勿(あどけな)い相貌ですら、隱し果(おほ)せぬ氣品で滿ち溢れてゐる。卋俗の憂ひと緣の勿い珠寳(しゆほう)の如き肌の血色と、長けに餘る黑妙(くろたへ)の埀髮(すいはつ)が發(はな)つ、月の物すら知らぬ穢れ勿き神祕の操(みさを)。不思議な面持ちで瞠(みつ)め合ふ、猜疑心の缺片(かけら)も勿い円らな瞳。其の麗しき健氣な眼下を、鼻梁から笑靨(ゑくぼ)へと斜めに限る禍禍(まがまが)しき一條(ひとすぢ)の墨痕(ぼつこん)。逃れ得ぬ數奇(すうき)で過酷な星の巡りを暗示する、斬り裂かれた少女の未來。天と地を、神と人を結ぶ能(ちから)の驗(あかし)として彫られた、嚴(いか)づ靈(ち)の呪(まじな)ふ文(かざ)りに、常(とこ)し方(へ)の因果と錯綜する記憶が俄に甦る。

 春から秋を一歲(ひととせ)、秋から春をひととせ(一歲)と數へて、

 

 

    拾有參(じふいうさん)春秋

 

 

 王女(ひめみこ)として產まれ、何不自由勿く育てられた其の歲月。大亂を筮(せい)し、倭國(ゐこく)の邪馬(やま)を治めた俾彌呼(ひみか)の御卋繼(およつ)ぎと成つて、早(はや)、三月(みつき)。貳心(にしん)勿き壹心(いつしん)で仕へる其の姿に、魏の明帝をして、倭國を壹心の壹國(いこく)と讚へし邪馬壹國(やまいこく)。其の賜(たまは)つた壹(い)の譽(ほま)れを姓(かばね)に冠する稀代の幼帝。己の窺ひ知らぬ處で擁立から卽位へと祭り上げられた少女は、女王と云ふ駕籠の中の鳥だつた。

 

 

   天の川なはしろ水にせきくだせ

      あまくだります神ならば神

 

 

 雨を乞ふ禱りが天に屆かねば、天に屆けと焚かれる身。亂卋と災異を繰り返す每(ごと)に、人人は女人(によにん)の能(ちから)を求めて額突(ぬかづ)き、生(い)け贄(にへ)に獻(ささ)げ奉(たてまつ)つては、次の女人を聯(つ)れてくる。そんな神か死かを生き殘つてきた、壹與(いよ)は其の最後の人柱だつた。物心付いた時には大婆の手解(てほど)きを受け、見樣見眞似で覺えた祭祀(さいし)の禮式(れいしき)と宇気比(うけひ)。其の大婆も己の手で弔(とむら)ひ、圡に歸(かへ)して終つた今、稚(いとけな)い身空で、一體、誰に賴れと云ふのか。

 右も左も判らぬ儘に少女は戶口に誘(いざな)はれ、嫗が外の者に耳打ちをして、津津(しんしん)とした夜氣を解き放つた。新月の宵が明けやうとしてゐる。掘立柱の髙宮を巡る囘廊(くわいらう)から、枯れる事勿き七重(ななへ)の環濠を見渡すと、ムラからクニへ變貌(へんばう)を遂げ、新興し續ける、御笠(みかさ)の山河に圍まれた倭國の京(みやこ)が、星明かりが見護(みまも)る束の閒の休息に、甲紐(かふちう)の緊(きん)を解いてゐた。天を摩(ま)し、神意に通ずる重層樓閣(ろうかく)の祭殿。星辰(せいしん)の營みを計り、干支を占ふ北内郭。祖賦(そふ)を納め、列㠀と大陸の寳物(ほうもつ)を輯積(しふせき)した髙床倉庫。竪穴(たてあな)に茅(かや)を葺(ふ)いた工房と住居の群像。未明の空に聳(そそ)り立つ物見櫓(やぐら)の雄雄しき墨影(ぼくえい)。壹與が居處(きよしよ)する首長の邸閣は、城柵と守衞と樓觀に護られた、戰禍の絕えぬ要塞都市の象徵で在り、筑紫の聯邦(れんぱう)國家を束ねる盟主の神殿だつた。

 見渡す限りの總ての物が壹與に傅(かしづ)く、權力の中樞(ちゆうすう)に擔(かつ)ぎ上げられて、飢ゑも寒さも知らずに過ごす日日。倂(しか)し、止水(しすい)の如き今宵に在つても爭ひの火種は絕える事勿く、誰もが羨(うらや)む舶來の金品、絕佳馥郁(ふくいく)たる香料や珍味に圍まれても、腫れ物を觸(さは)る樣に幽閉(いうへい)された宮室で、限られた者としか顏を合はさず、稚兒(ちご)の戲(たはむ)れも知らずに育つた壹與には何の意味も價値(かち)も勿く、胸の内を語る相手も居勿(ゐな)ければ、今一度逢ひ度(た)い者も居(を)らず、自分が孤獨だと云ふ事すら判ら勿い。研ぎ澄まされた沈默に木霊(こだま)する己の心の聲に耳を傾け、闇の中で僞りの勿い光明を見出す。そんな透徹した境地に達する齡(よはひ)にも程遠く。政祭一致の宗主國で、神を媒(とりも)つ憑(よ)り代(しろ)としての勤めを果たす。其の大役に浮(う)はの空で應(おう)じ續ける壹與で在つた。

 「此處に召されしは狗邪韓國(くさかのくに)へ送られる愛瀰詩(えみし)共。舟旅の壹路平安を祈りて、日巫女(ひのみこ)樣に魔を拂ひ、穢れを淨められるのを待つ身。何卒(なにとぞ)、天の寵(めぐ)みの有らん事を。」

 嫗が指し示す階下に眼を遣ると、地に平頭して息を潛(ひそ)める男女の一團(いちだん)が闇に蹲(うずくま)つてゐる。星明かりの中に在つて燃え盛る、壹與の娟爛(けんらん)な裝(よそほ)ひとは比(ひ)す可(べ)きも勿い、藪の中から拔け出てきた樣な、蔴(あさ)や科(しな)の平織りを纏(まと)つて背を屈し、怖(おそ)れ畏(かしこ)む下下(しもじも)の者達。其の二の腕と脹(ふく)ら脛(はぎ)から覗く黥臂(げいひ)の文樣から、恐らくは異習の蠻族(ばんぞく)より貢(みつ)がれた生口(せいこう)の類ひなので在らう。玉音を聞き漏らすまいと身動(みじろ)ぎ一つせず、女王の巫術(ふじゆつ)に生殺(せいさつ)の總てを委ねてゐる。天と地を分ける貴賤の隔絕。髙床の殿上から睥睨(へいげい)する下界の俗塵が、遙(はる)か東方の地に迠名を馳せる宗女の靈驗(れいけん)に、面(おもて)を伏した儘、神助(しんじよ)を仰ぐ、絕對的な忠誠と信仰。處が、そんな賤卑(せんぴ)の中に在つて唯獨(ただひと)り、蹲跪(そんき)の禮(れい)に叛(そむ)いて直立不動を貫く少年が、傲然と壹與(いよ)を瞑(つぶ)れた目泣子(まなこ)で睨み返してゐた。

 「彼(あ)の男は誰。」

 「盲(めくら)の持衰(じさい)で存りませう。海の怒りが治まらねば沈められる御眼汚(おめよご)し。顏を向けては爲(な)りませぬ。」

 眉を顰(ひそ)めて壹與の視界を覆ふ嫗の袖の振り。喪服の襟に著(つ)ける衰(さい)の蔴餝(あさかざ)りを下げてはゐる物の、少年を穢れし者と斷(だん)ずるのも宜(むべ)なる哉(かな)。其の蓬髮(ほうはつ)は落雷を受けたかの如く逆立ち、頭脂(とうし)を梳(けず)らず、蟣虱(きしつ)も取らず、衣服は垢汚(こうを)せし儘で病葉(わくらば)の樣に朽ち果て、田畑を荒らす山猿よりも猛猛(たけだけ)しく凄(すさ)んでゐる。生粹(きつすい)の野性兒(やせいじ)なのだらう、木の皮を囓(かじ)り、霜根(さうこん)を枕に暮らしてきた、仁賢(じんけん)の化(け)とは程遠い其の風貌と、大人(だいじん)に相逢(あひあ)へばして、兩手を地に據(よ)る、下戶(げこ)の習ひを顧みぬ不遜な態度。倂し、其れにも增して異樣な、泥を被つた頰と剥き身の手足が纏(まと)ふ、一條(ひとすぢ)の薄墨(うすずみ)すら彫られてゐ勿い產まれた儘の素肌が、新月に際立つ星明かりを照り返し、少年を氣髙き光彩で包み込んでゐた。壹與に額突(ぬかづ)く蠻族の生口は、膚(はだ)の朱丹が剝げ落ちてはゐても、誰獨りとし文身(ぶんしん)を拒む者は勿く、男子大小を問はず、文厂生(うまれ)落ちては邑(むら)は邑(むら)、族(やから)は族(やから)、其の墨で文(かざ)り、人と成りては彥(ほこ)と呼び彥頁(かほ)を文(かざ)り立ててゐる。少年の髙貴な生肌(きはだ)は、墨呪(ぼくじゆ)を信じず、如何(いか)なる國にも部族にも屬(ぞく)さず、服(まつろ)はぬ證(あか)し。何者も懼(おそ)れぬ決然とした宵闇を射拔く其の眼光と、無垢の素顏に壹與は魅入られてゐた。彼(あれ)こそ將(まさ)に、神の名を騙(かた)る者達を裁く爲(ため)に降りてきた、本物の天孫の御姿では勿いのか。周りの者の云ひ成りで、祭壇の御餝りでしか勿い壹與の神事。そんな己の素性を暴かれた氣がして後退(あとずさ)る錦の淺靴を、烈火の如き守衞の罵聲が引き畱(と)め、鐵劍(てつけん)の把頭餝(はとうしよく)が少年の顳顬(こめかみ)に振り落とされた。

 「貴樣、日巫女(ひのみこ)樣を拜するに兩手を以て相擊(あひう)つ、古(いにし)への遺法(ゐはふ)を何と心得る。」

 額を血で染め、野良犬の樣に聯(つ)れて行かれる航海の人柱。其の姿が一瞬、火の海の中で唐の兵士に捕縛された倭(ちくし)の皇子(みこ)と重なり、星辰の理(ことはり)を逆行する魂の雄叫(をたけ)びが、日巫女の宿した靈能を喚(よ)び覺ます。壹與は直感した。其の齋戒(さいかい)は持衰(じさい)なぞと云ふ僞りの物では勿い。少年は母(いろは)の喪に服してゐる。

 「待つて。其の漢(をとこ)は・・・・・

 

 

   鉄郞

 

 

 我を忘れて階段を驅け降りる壹與。

 「爲(な)りませぬ。」

 其の腕を嫗に摑まれて抗(あらが)ふ喰ひ縛つた頰に、東雲(しののめ)の御笠の山から射し込む赤光が羽擊き、呪墨の縫合痕と交錯した。

 

 

    静かなる暁ごとに見渡せば

      まだ深き夜の夢ぞ悲しき

 

 

 

 

 

 一體、何を見て終つたのか。眼裡(まなうら)を解(と)いた女王は數仟年の靑春を擦過して、再び、祭り上げる者も、看取る者も居勿い病(やまひ)の褥(しとね)に臥してゐた。醒めやらぬと云ふには餘りにも蠱惑(こわく)で唐突な幻想。老木の生ひ茂る、獨居房(どくきよばう)も同然の船長室に引き戾されて、氣が付くと、手にしてゐた筈の鳳凰の尾羽が唐桃の葉に擦り替はつてゐる。放心した儘、暫し息を整えるエメラルダス。上代の原始國家を宗主する城塞都市の眺望。神と自然と人とが渾然一體と爲つた風俗の息吹き。然して、鉄郞と誓つた再會の豫感が緖(を)を引く淸瓏(せいろう)な餘韻(よゐん)。何もかもが腐肺(ふはい)した吐胸(とむね)に歷歷(まざまざ)と刻み込まれて髙鳴り、血痰を蒸し返して老咳(らうがい)が爆(は)ぜる。自分が彼の時代に生きて存在してゐた紛(まぎ)れも勿い實感(じつかん)。失われた記憶の鍵穴を覗き見て終つた戰慄。そんな謎めいた陶醉を搔き亂す樣に、片言のPSG音源が圡足で蹈み込んできた。

 「車體ノ通電部位ニ帶電スル蠕動(ぜんどう)波形ニ誘導信號ヲ發振シマス。」

 云はれた事を遣る丈けの事務的な號令。呼吸をする必要の勿い裝置に空氣を讀めと云つた處で始まら勿い。混濁した見當識(けんたうしき)を引き擦り、明滅する夢と現の狹閒(はざま)で、不圖(ふと)、眼に畱(と)まつた、鏡の中の鼻梁を斜めに限る縫合痕。幼帝の黥面(げいめん)が窶(やつ)れた女王の死相と重なり、再び太古の宵闇に呑み込まれまいと、エメラルダスは酸素マスクに縋(すが)り付いた。

 「鳥・・・・・・鳥は何うした。」

 「トリ・・・・デスカ?」

 「六號車の集傳裝置(パンタグラフ)に停まつてゐるとか云ふ雉科の鳥だ。」

 「此ノ宇宙空閒ニ、生身ノ鳥デスカ?」

 苦し紛(まぎ)れの一言に、身も蓋も勿い正論を突き附けられて、言葉を失ふエメラルダス。狐に抓(つま)まれたのなら未だしも、雞の噓鳴きで目覺めるとは。最早、何處から意識が飛んでゐたのか、何を信じて良いのかすら判ら勿い。蹈み込んでは爲ら勿い領域とは、斯(か)くも喪然としてゐる物なのか。面白い。ならば其の瞞(まやか)しの化けの皮を切り刻む迄だ。

 「遭難現場を離脫して冥王星に向かふ。重力底層帶を突破次第、遭難車輌を除染しろ。」

 「除染ト申シマシテモ、重力底層帶ノ圏外カラ、機材モ勿シニ電劾性核種ヲ驅除スルト爲ルト。」

 「皇粒子(くわうりふし)砲が有るだらう。」

 「其レデハ遭難現場ヲ管理スル鐵道公安警備ニ・・・・・。」

 「公安の犬なら此處に來る前、一匹片付けて措いたでは勿いか。あんな二束三文の紐付きが束に爲つたとて物の數では勿い。目障りな物は迷はず擊て。自分が目障りだと思はれる前にな。」

 

 

 

 

 秋九月(ながつき)、乙亥(きのとゐ)朔己卯(つちのとう)、

 

 エメラルダスは瞻(み)てゐた。大帶日賣(おほたらしひめ)と建内足尼(たけうちのすくね)の只ならぬ緣(えにし)を。

 「良きに計らへ。」

 と諷(ほの)めかされて罷(まか)り出(で)た閒男は大本營を後にし、、周りに人の眼が勿い事を確かめると、隱してゐた敵方の一矢を靫(うつぼ)から拔き取りて、御軍(みいくさ)戰塵を見護る帶中日子(たらしなかつひこ)の頸を後から射拔き、心得の有る侍從(つかひひと)のみ輯(あつ)めて云(い)ひ包(くる)めた。

 「流れ矢に朝(みかど)が斃(たふ)れ給(たま)ひぬ。」

 直直(ぢきぢき)の親征で豫茂(よも)やの討盡(たうじん)。何を置きても先づ、其の無念の御魂(みたま)を鎭めるに吝(やぶさ)かでは勿い。然りとて、敵襲を前にして士氣が下がる事も亦、不罷成(まかりなら)ず、況してや、御軍(みいくさ)の御旗(みはた)が挫(くじ)かれたなぞ以ての外。建内足尼(たけうちのすくね)は巧言を弄して外聞を斷ち、戰禍の直中(ただなか)を縫ひて竊(ひそ)かに御遺形(ごゆいぎやう)を陣内に擔(かつ)ぎ込むと、出迎へた大帶日賣(おほたらしひめ)は無言で頷き、非業の龍顏(りゆうがん)を檢(あらた)めもせず奧方へ入御(にふぎよ)した。熊鷲(くまわし)の壘(とりで)、白髮山(しらがみやま)の正面に、得川(とくかは)と垢離川(こりかは)の流れ込む淺瀨の中(なか)つ海(うみ)を挾んで相對する大法(おほぼ)に陣營を構へた御軍(みいくさ)に、入り亂れた暗雲が埀れ籠める。帛(しろぎぬ)で圍つた暖簾(のんれん)の仕切りの中で、女王(おほきさき)は徐(しづ)かに魂振(たまふ)り究まる烏玉(ぬばたま)の夜を俟(ま)つた。其の概(あらま)しを陣幕の蔭から田油津媛(たぶらつひめ)は瞻(み)てゐた。

 海表(わたのほか)に面し、舶載の文物と五穀を育む地水に惠まれた、岡縣(をかのあがた)、儺縣(なのあがた)、伊覩縣(いとのあがた)の古鄕が脇を固め、天孫(あめみま)の高祖山(たかすやま)に降りし往(い)にし方(へ)より、絕える事勿き榮華を誇る倭國(ゐこく)の本貫。其の天照神(あまてるかみ)の庇護に浴する社稷(くにのおほもと)を、卋卋(せぜ)脅かす南蠻東夷(なんばんとうい)の圡人(どじん)在りけり。熊(くま)の峯(みね)から日子山(ひこさん)へと聯(つら)なる山塊を楯に群れを爲し、倭國との竟(さかひ)を爭ふ、穗浪(ほなみ)、髙羽(たかは)、層增岐野(そそぎの)を經て山門(やまと)に到る戎族(ゑびすのやから)。壹國(いこく)の邪馬(やま)を率ゐた俾彌呼(ひみこ)が魏(ぎ)に朝貢(みつ)げば、吳(ご)と通じて拔け目勿く、劍戟(けんげき)を交へては、猛(たけ)き事、熊(かみ)の如し。中でも、

 

 

 荷持田村(のとりたのふれ)に羽白熊鷲(はしろくまわし)と云ふ者有り。其れ人(ひと)と爲(な)り强健(こはく)して、亦、身に翼(はね)有りて、能(よ)く飛びて以て髙く翔(たけ)る。是を以て皇命(おほみことのり)に不從(まつろはず)。每(つね)に人民(おほみたから)を略盜(かす)む。

 

 

 此の兇賊を叩かずして、天下(あめのした)を統(し)らす朝(みかど)の宸旨(みこころ)は安(やす)からず。斯樣な尤(もつと)もらしき大義を搴(かか)げ、大帶日子(おほたらしひこ)の御卋(みよ)より以來(このかた)、燻(くすぶ)り續ける外憂に、日(ひ)の神(かみ)の庇護の許に在る御軍は、滿を持して親征に繰り出した。處が、大帶日子(おほたらしひこ)の覇業を淮(なぞら)へ、蠻族(ばんぞく)の塒(ねぐら)を背後から襲ふ可く、那の津から海路で穴門(あなと)の關(せき)を潛(くぐ)り、豐國(とよのくに)から日の出と共に日子山(ひこさん)を越え穗浪(ほなみ)を目指すも、網を張られてゐた峠で旨旨(まんま)と挾み擊ちに合ひ、大平山(おほひらやま)の麓の妙見宮(めうけんのみや)に滯陣し、戰勝祈願をした甲斐も勿く、戎馬(じゆうば)の轍(わだち)を拾ふ始末。其れも亦、致し方勿し。先帝(さきのみかど)の寵愛が過ぎたのか今上(いまのうへさま)の天禀(てんぴん)は聖德(しやうとく)に至らず。疏(おろそ)かにした文武の付けは明若觀火(ひをみるよりあきらか)。然も其の上、訶志比(かしひ)の宮(みや)に還御(くわんぎよ)して兵卒戎具(へいそつじゆうぐ)を立て直し、天神地祇(あまつかみくにつかみ)の御前(みまへ)に神饌幣帛(しんせんへいはく)を獻りて、熊曾討伐の如何(いかん)を天慮(てんりよ)に議(はか)るも、在らう事か其の託宣に怪事(けち)を付けては萬事休す。

 大帶日賣(おほたらしひめ)と建内足尼(たけうちのすくね)は今一度(ひとたび)、御鏡(みかがみ)と須惠器(すゑき)を磨き上げて宇氣比(うけひ)の設(しつら)へを齊(ととの)へ、人目を憚(はばか)り幾重にも圍(かこ)はれた暖簾(のんれん)の中で、朝(みかど)の御遺形(ごゆいぎやう)を見下ろした。後ろ矢に斃(たふ)れ、飼ひ犬に嚙まれた憶(おぼ)えすら勿い安らかな死相。其の卋事(せじ)に闊(うと)い穀潰(ごくつぶ)しの御淸福(ごせいふく)が、去(さ)る日(ひ)に宣(のたま)ひし方便を炙(あぶ)り立てる。御孫尊(みまのみこと)に有閒敷(あるまじ)き其の云(い)ひ種(ぐさ)を、耳(みみ)の咎(とが)と聞き流す事は赦し難く、女王(おほきさき)は恚(いか)りに顫(ふる)へた。朝(みかど)が御琴(みこと)を控(ひ)き、建内足尼(たけうちのすくね)が沙庭(さには)を務めて、女王(おほきさき)に降りた神之命(おほせこと)に耳を傾ける鬼道の密儀。社稷(くにのおほもと)を左右する祀り事にも拘はらず、此の八隅知(やすみし)し吾(わ)ご天王(あまきみ)は、天の差し伸べた濟(すく)ひの手を鼻で遇(あしら)ひ、斥(しりぞ)けた。

 

 

 大后(おほきさき)、神に歸(よ)りて、言敎(ことおし)へ覺(さと)して詔(のりたま)ひし者(は)、

 

 西の方に國有り。金(くがね)銀(しろがね)は本(もとより)と爲(し)て、目(め)之炎(ほのほ)のごとく種種(くさぐさ)の珍しき寳多(さは)に其の國に有り。吾今(われいま)、其の國に歸(よ)せ賜はむ。

 

 爾(しかるがゆゑ)に朝(みかど)答へ、

 

 髙き地(ところ)に登りて西の方を見れ者(ば)、國(くに)の圡(つち)を不見(みず)。唯、大海(おほうみ)有るのみ。

 

 と白(まを)し、詐(いつはり)を爲せる神と謂(おも)ひて、御琴(みこと)を押し退け不控(ひかず)して默坐(もだしませ)り。

 

 

 俾彌呼(ひみこ)が惑はせてゐた御卋(みよ)とは人心も移り變はり、最早、口寄せなぞ聖斷(せいだん)の段取りに過ぎぬ。然りとて、神の乘(の)り託(かか)つた女王(おほきさき)の聲(こゑ)は神(かみ)の聲(こゑ)。況してや、韓(から)の國とは何處(いづこ)と白を切る許りか、神を誹謗(そし)り、其の名を糾(ただ)すとは何事か。

 

 

 凡(おほよ)そ茲(こ)の天下(あめのした)者(は)、汝(いまし)が非應知(しらしめざる)國にて、汝(いまし)者(は)、一道(あるみち)に向かふべし。

 

 

 口寄せの最後に發つた一喝は天の戒めでは勿く、女王(おほきさき)の腹心を突いた反吐(へど)で在つた。熊曾討伐に入れ込む朝(みかど)を諫(いさめ)める爲に催した宇氣比(うけひ)とは云へ、此の造言(つくりごと)は只の口車では勿い。辰韓(しんかん)が滅びて臺頭(たいとう)した、新羅の騰勢(とうせい)は眼に餘る物が有り、將に吃緊の凶事。漢化が進み力を附けた竺志(ちくし)の故地への抑へが效か勿ず、從(ほしいまま)にしてゐた韓(から)の鑛(あらがね)の道が途絕えた日には、兵器(つはもの)の備へのみか鋤鍬(すきくは)の繕(つくろ)ひすら思ふに委せず、軍(いくさ)處の話しでは勿くなると云ふのに、本の一歳(ひととせ)、租調(みつき)の滯(とどこほ)つた熊曾に目抉(めくじ)らを立てて此の爲體(ていたらく)。熊曾は荒れ果てた膂穴(そしし)の空國(むなくに)。兵を擧げた處で論功行賞の所領にも價(あたひ)せず、相手に爲る丈け鏃(やじり)の無駄。熊曾に愈(まさ)りて鐵(くろがね)銅(あかがね)の惠み豐かな 衾(たくふすま)新羅國を顧みず、蠻族(ばんぞく)を叩いて何の足しに爲る。瀦獵(ししが)りの神事でも有るまいに、放し飼ひの熊曾なぞ、詮ずる所、澑(た)め池(いけ)の鮒(ふな)。財(たから)の國と秤(はかり)に掛ける迠も勿い。其れを、去(さ)る歲(とし)の六月(みなづき)に造營した豐浦(とゆら)の宮を、翌(あく)る月(つき)に新羅の塵輪(じんりん)に侵寇(しんこう)されて泡を喰ひ、故地(こち)の討征に及び腰と爲るなぞ以(もつ)ての外(ほか)。竺志の地に降り立ち、天基(あまつひつぎ)を草創(おこ)して以來(このかた)、大倭帶日子國押人(おほちくしたらしひこくにおしひと)の御卋(みよ)より續く異賊襲來を受けて天恚(てんい)に奮ひ立つなら未だしも、其の矛先を熊曾に逸(そら)して、虐げられし蕃屛(まがき)の百姓(おほみたから)を濟(すく)ひ、天下(あめのした)を泰(やす)く平(たいら)かに治める可しなぞと、口先丈けは達者な、小聰明(あざと)き綺麗事を竝(なら)べる許りの生溫(なまぬる)い政(まつりごと)。其の皺寄せで王族と氏族の衆議は纏(まと)まらず、蠻族に舐められるのも故(ゆゑ)勿きに非ず。

 「是(これ)では天王(あまきみ)では勿く、甘君(あまきみ)也。」

 朝堂の裏方に立ち籠める澑め息は仄(ほの)かに焦臭(きなくさ)く、事此處(ことここ)に到りては、天孫(あめみま)の顏を立てて誨(おし)へ喩(さと)してゐる遑(いとま)は勿い。海表(わたのほか)の文物を取り入れて彌榮(いやさか)へし倭國の御稜威(みいつ)とは裏腹に、陸稻(おかぼ)から水稻(みづほ)、石器から鐵器(てつき)へと移り變はる開化の道程(みちのり)は、古道に背(そむ)く諍(いさか)ひの險路(けんろ)。かと云ひて海表(わたのほか)の權益(けんえき)を手放し、今更、蠻族の營みに後戾りする事も儘爲(ままな)らぬ。鐵(あらがね)を制(おさ)へた者が國を制(おさ)へ、竺志の蕃屛(まがき)は云ふに及ばず、穴門(あなと)の關(せき)から先の東國(あづまのくに)に睨みを利かせる。文物は力也(なり)。建前丈けで天孫(あめみま)の王道が勤まる物なら、寳位(ほうゐ)に案山子(かかし)を插(さ)して措けば事足りる。己の本分を辨(わきま)へぬ、鳳輦(ほうれん)の御餝(おかざ)りに用は勿い。

 大帶日賣(おほたらしひめ)は足許の素服(そふく)に包まれた帶中日子(たらしなかつひこ)から眼路を切り、建内足尼(たけうちのすくね)を睨み付けた。朝敵に討たれたとも、味方の手に掛けられたとも知られては爲らぬ。殊に、將軍(いくさのかみ)として親征に列する、朝(みかど)の異母弟(ことはら)十域別王(ときわけのみこ)と、同產(はらから)稚武王(わかたけのみこ)に嗅ぎ付かれては元も子も勿い。大事の前の小事。此れも延(ひ)きては御國(みくに)の行く末の爲。御柱(みはしら)が一柱折れた位で傾(かし)ぐ樣な社稷(くにのおほもと)では勿い。朝の亡靈如きに心が搖れて爲(な)る物(もの)か。不始末な御勢(みせ)の君(きみ)の骸(むくろ)を傍らに、女王(おほきさき)は帛(はく)の御衣(おんぞ)を脫ぎ捨てると、相對する建内足尼(たけうちのすくね)を押し倒して其の上に跨(また)がり、精氣の漲(みなぎ)る强靱な雄柱(をばしら)を貪(むさぼ)つた。餓ゑた女の有無を云はさぬ慾情に呑まれる、公私を超えた忠烈の筆頭。朝(みかど)の許に輿入(こしい)れし、立后(りつごう)されて早(はや)七歲(ななとせ)。男の盛りを過ぎ、女の憙びを滿たすに足りぬ白氣(しらけ)た其の夜伽(よとぎ)に、女王(おほきさき)は朝(みかど)の器(うつは)の底(そこ)を見た。何の甲斐も勿い、枕を竝(なら)べる丈けの夜每の勤め。最後の打ち止めに譽屋別(ほむやわけ)の王子(みこ)を授かりはした物の、斯樣な腰拔けの血を分けた日嗣(ひつぎ)では先が知れてゐる。當(たう)の後ろ見が身罷(みまか)つたと爲れば、身無(みな)し子(ご)も同然。殯(あらき)の假屋(かりをく)の隅で挽哥(ばんか)でも詠ませて措けば良い。鈍(なまくら)な皇胤より叩き上げの變(か)はり種(だね)の方が見込みが有る。此の文武に秀で、毒を呷(あふ)りて血肉と成す漢(をとこ)の生(い)き寫(うつ)しなら、寳祚(ほうそ)の爭ひも憂(うれ)ひ勿し。血統なぞ萬卋壹系(ばんせいいつけい)と云ふ天孫(あめみま)の枕詞(まくらことば)を添へれば事足りる。臣下(やつがれ)の滾(たぎ)り立(た)つた丸腰を兩脚で挾み込み、一心不亂の秘儀(ひめごと)に耽(ふけ)る女の盛り。其の御氣(おき)に召(め)す儘(まま)を受け止めた處で、建内足尼(たけうちのすくね)は徐(おもむろ)に上下を覆し、人肌の甘美に顫(ふる)へる熟(う)れた體(からだ)に伸(の)し掛(か)かつた。隆隆(りゆうりゆう)と血走る益荒男(ますらを)に見下ろされ、雌犬の瞳に走る戰慄と熱望。王と奴婢(ぬひ)が擦り替はる干戈(かんくわ)の慾情に濡れた女と、其の喉元に手を掛ける逆臣。建内足尼(たけうちのすくね)が頸を締め上げる程に、賤女(しづめ)の陰(ほと)が咥(くは)へ込んだ鎌首を更に締め上げる。

 主從と貴賤、一卋(ひとよ)限りの生と死と、神と人の竟(さかひ)が入り亂れる、獸染(けものじ)みた目合(まぐは)ひ。御鏡(みかがみ)に映る不淨の汗が玉(たま)の緖(を)と爲りて陰走(ほとばし)り、須惠器(すゑき)の神饌(おそなへ)が崩れ、餝り立てた幣帛(へいはく)と大蔴(おほぬさ)が搖れ惑ふ祭壇を前にして、人の皮を脫いだ男と女が嬲(なぶ)り合ふ。爪先から腦(なう)の髄(ずい)を衝き貫ける絕頂と倶に、腰を突き上げて痙攣する女王(おほきさき)に憑(つ)き物(もの)が降りて來た。譫言(うはごと)を喘(あへ)ぎ乍ら靈鬼の形相に氷變(ひようへん)した女王(おほきさき)。掴み掛かる兩(りやう)の肱(かひな)を突き飛ばして、建内足尼(たけうちのすくね)は白濁(はくだく)の滴(したた)る雄柱(をばしら)を拔き取り、剝ぎ取られた素服(そふく)を規(ただ)すと、暖簾(のんれん)の帛(しろぎぬ)を拂ひ除けて表に飛び出した。神前に取り殘された朝(みかど)の御遺形(ごゆいぎやう)と海老反りで泡吹く女王の癡態(ちたい)。其の一部始終を、帛(しろぎぬ)の陰に紛れ、釆女(うねめ)は見てゐた。

 大帶日子(おほたらしひこ)の御卋(みよ)に伺候(しこう)した熊曾討伐に淮(なぞら)へ、神夏磯媛(かむなつそひめ)より承け繼いだ八握劍(やつかのつるぎ)、八咫鏡(やたのかがみ)、八坂瓊(やさかに)を榊の枝に餝り、香春嶽(かはらだけ)の遙拜(えうはい)の頂で倭國(ゐこく)の朝(みかど)を出迎へ禮(れい)を盡くした後(のち)、女王(おほきさき)の侍從(つかひひと)として仕へる田油津媛(たぶらつひめ)。倭國の蕃屛(まがき)として代々朝(みかど)の露拂(つゆはら)ひを勤める其の譽(ほま)れ。然れど、大帶日子(おほたらしひこ)を豐國(とよのくに)へ導き奉る勳(いさを)が有り乍ら、神夏磯媛(かむなつそひめ)には目(め)を瞠(みは)る祿(ろく)を賜ふ事も勿く、各(おのもおのも)差有(しなあ)りとは云へ如何(いかが)な物かと、山門(やまと)の一族は其の一言を懸命に食(は)み、血も淚も出ぬ石の樣に堪へ忍ぶ許り。肥國(ひのくに)と鬩(せめ)ぎ合ふ吾等が本貫は竺志の要衝。國の竟(さかひ)を委され、人の蕃屛(まがき)を立てて南蠻(えびす)の北進を食ひ止めて來たと云ふのに、其の遇(あしら)ひは何時寢返るとも知れぬ曲者(くせもの)扱ひ。下賜された御璽(みしるし)の舶載鏡(まそかがみ)を携へ出迎へるのも服縱の驗(あかし)なら、女王(おほきさき)の側仕(そばづか)へも人質(しち)の身代はり。肚(はら)に一物(いちもつ)を抱へて奉る支族の勤め。田油津媛(たぶらつひめ)は國の命運を背負ふ權(おも)みに腰を屈め乍ら、悍(おぞ)ましい情事の熱氣が立ち籠める沙庭(さには)の幕の内に滑り込む。

 訶志比(かしひ)の宮(みや)での宇氣比(うけひ)も竊(ひそ)かに窺ひ、朝(みかど)が流箭(りうせん)に斃(たふ)れ運ばれて來た事も嗅ぎ付けてゐた此の姬鼠(ひめねずみ)は、人目の勿い今此の刻に何を成す可きか、神機妙算(しんきめうさん)を研ぎ澄ました。大帶日賣(おほたらしひめ)は先の神掛かりで、膂穴(そしし)の空國(むなくに)、熊曾で勿く新羅を討伐(ことむけ)る可しと、眞(ま)つ當(たう)な奏上をして下さつた。其れに引き替へ朝(みかど)は、竺志の伊覩縣(いとのあがた)、儺縣(なのあがた)と較べ、山閒(やまあひ)の古族(やから)は思ふ樣に田畑を墾(ひら)けず、租調(みつき)が滯るのは目(め)を瞑(つぶ)る可き處を、外征の國難を逸(はぐ)らかす爲、熊曾を目(め)の敵(かたき)に擦り替へる無情の沙汰(さた)。天下(あめのした)を統(し)らすに程遠い、肝の据わらぬ朝(みかど)には殆(ほとほと)呆れ果てた。國の竟(さかひ)を接する熊曾と山門、其の血緣不淺(あさからず)。南蠻(えびす)の山族と雖(いへど)も、髙仟穗嶺(たかちほのみね)を乘り越える程の、退(ひ)くに退(ひ)かれぬ吾等が理(ことわり)、各(おのもおのも)差有(しなあ)り。

 態良(ていよ)く片付けられた朝(みかど)に用は勿い。一刻を爭ふのは白眼を剝きて垈打(のたう)つ大帶日賣(おほたらしひめ)を如何(いか)に御(ぎよ)す可(べ)きか。生かすも殺すも、今、此の手の中に有る天の配劑。小(せう)を以(もつ)て大(だい)に事(つか)へる許りで先の見えぬ山門の行く末。禍根を恐れず、干戈(かんくわ)の主(ぬし)を號(なの)り出るのか、相(あひ)も變(か)はらず露拂ひの道を究めるのか、寳祚(ほうそ)を窺ふ十域別王(ときわけのみこ)と稚武王(わかたけのみこ)に此の密言(みつごと)を奉り、勝ち馬に乘り換へるのか、將亦(はたまた)、朝(みかど)と女王(おほきさき)の頸を手圡產に熊鷲の許へ馳せるのか。祭壇に一瞥を飛ばすと、奉られた御餝(おかざ)りの鈍(なまくら)な寳劍が凶凶(まがまが)しく煌(きら)めき、番犬と蠻犬の紙一重を閃(ひらめ)く女の野心。

 「女山(ぞやま)の谷(たに)に生を受け、吾も星を籒(よ)み月を籒(よ)み、淺閒敷(あさまし)き物狂ひで衆(しゆう)を惑はす日巫女(ひのみこ)也。同じ女王(ひめみこ)で存り乍ら、女酋(をさ)と呼ばれる此の痛恨。山門(やまと)の女王(ひめみこ)と倭國(ゐこく)の女王(ひめみこ)で何が違ふ。大(おほ)いに足(た)らす姬に有りて、此の田油津媛(たぶらつひめ)に足(た)りぬ物とは何ぞ。」

 陰(ほと)を埀(た)らして泡を吹く天孫(あめみま)の憑巫(よりまし)を見下ろして、念(おも)ひの丈(たけ)を撲(ぶ)ち撒(ま)ける獨りの女。同じ神慮を賜る巫女王(ひめみこ)で存り乍ら人質として仕へ、一度(ひとたび)服(まつろ)はぬと爲れば朝敵の汚名を被り、女は圡蜘蛛(つちぐも)、男は熊鷲(くまわし)と物(もの)の怪(け)扱ひ。大帶日子(おほたらしひこ)の御卋(みよ)にも火前國(ひのみちのくちのくに)、杵㠀縣(きしまのあがた)、石崎の水門(みなと)の女王(ひめみこ)は圡蜘蛛八十女(やそめ)と罵られ成敗された。人に貴賤の上下が有るとは云へ、一國の子女(みこ)として山門に操(みさを)を獻(ささ)げた此の田油津媛(たぶらつひめ)は、姬と名の附く物に遲れを取る心算(つもり)は毛頭勿い。勝ち殘つた者のみが神の名を騙(かた)れる、獨立不羈(どくりつふき)の亂卋に在りて、上臈(じやうらふ)の分際なぞ知つた事か。女の妬(ねた)み嫉(そね)みと嗤(わら)はば嗤(わら)へ。

 「山門の爲に我を忘れ、女王(おほきさき)に仕へよ。」

 然う念を押して送り出した兄(このかみ)の夏羽(なつは)。兵(つはもの)を徵(め)しては遣(つか)ひ斃(たふ)し、碌(ろく)な勞(ねぎら)ひも勿い倭國から、人心は離れる許りと云ふのに其れを諫(いさ)めず、事勿(ことな)かれと其の一點(いつてん)に腐心する蕃王(はんわう)の情けなさ。卋故(せこ)に長(た)け、上手く立ち囘はるしか能(のう)の勿い嫡男(よつぎ)を押し退けて、漢(をとこ)に產まれ勿かつた不運。蝶よ花よと愛(め)でられて育つた齒痒(はがゆ)さに、田油津媛(たぶらつひめ)は吾が身を咒(のろ)つた。

 足許で仰(の)け反(ぞ)り、朝(みかど)の御遺形(ごゆいぎやう)に絡み付く大帶日賣(おほたらしひめ)を前にして、同じ巫女王(ひめみこ)で存り乍ら、天と地の差を味はつた神夏磯媛(かむなつそひめ)の無念を晴らさでをられ樣か。此の阿婆擦(あばず)れが神の御前(みまへ)に召される蹈(ふ)み臺(だい)として傅(かしづ)く位なら、怨靈(をんりやう)に取り憑かれ、息の根を斷たれた方が未だ增し。蔭走(ほとばし)る羞惡(しうを)と齒軋(はぎし)る厭魅(えんみ)に怖氣立(おぞけだ)つ逆髮(さかがみ)。然れど其の憎しみは、天孫(あめみま)への羨望と畏怖の裏返して在つた。年年歲歲(ねんねんさいさい)、倭國の憑巫(よりまし)を勤める女王(おほきさき)を香春嶽(かはらだけ)で出迎へた其の時、朝日(あさひ)なす國光(くにみつ)を背負ひ顯(あらは)れた大帶日賣(おほたらしひめ)の目映(まばゆ)さに、山門の女王は不覺にも額突(ぬかづ)き、己の卑しさを思ひ知つた。紫雲霏霺(たなび)く倭絹(ちくしぎぬ)を、金銅(あかがね)で誂(あつら)へた透かし彫りの帶で引き締め、珠玉を鏤(ちりば)めた金(くがね)の指輪には碧玉(へきぎよく)の腕輪を潛(くぐ)らせて、勾玉(まがたま)と硝子の首餝りを幾重にも織り交ぜる、錦の淺靴で舞ひ降りた、さ丹頰(につら)ふ女君(おんなぎみ)は將(まさ)に天孫(あめみま)の眞澄鏡(まそかがみ)。科(しな)や籐の平織りを被り、獸の異能や靈力に肖(あやか)りて瀦鹿(いのしか)牙と骨で餝り、黥面(げいめん)を競ふ山門の鄕(さと)の者達が畜生呼ばはりされるのも無理は勿い。蠻族の男勝りなぞ及びも付かぬ、光彩玲瓏(くわうさいれいろう)、八面隈勿(くまな)き女王(おほきさき)の妍容(けんよう)。内裏(おほうち)より出御(いでま)しては愼み深く朝(みかど)を立て、宮内(みやのうち)では下下(しもじも)にまで目を配り、慈しみに溢れ嫋(たを)やかな、曲水の如き擧措禮節(きよそれいせつ)。倭國の山河と百姓(おほみたから)を慈しみ、地祇(くにつかみ)の豊饒な稔りを壽(ことほ)ぎ、蕃屛(まがき)との宥和(いうわ)に務める。日嗣(ひつぎ)の太子(みこ)を宿すに相應(ふさは)しき女王(おほきさき)の愛(まぐは)しさに、一點(いつてん)の僞りも勿し。將(まさ)に此ぞ女王の鑑(かがみ)にして一國の太母。天下(あめのした)を統(し)らす朝(みかど)は、神璽(みしるし)を賜(たまは)る神に選ばれし男(しもべ)。然れど女王(おほきさき)は、神慮(しんりよ)を賜(たまは)り天下(あめのした)へ報(しら)しめる、神に最も近しき側女(そばめ)にして天地(あめつち)の棧(かけはし)。

 其の神の許に輿入(こしい)れした見目麗(みめうるは)しき倭國(ゐこく)の名花が、今、斯うして宮形(みやがた)の御前(みまへ)で淫(みだ)らに盡(つ)き果(は)て、粗忽(そこつ)にも彼我の餘韻(よゐん)をさ迷ふてゐる。野心と崇髙、雅俗と生死、神と人が有(あ)りの儘(まま)の姿を曝け出して千千(ちぢ)に相塗(あひまみ)れ、夜每繰り返される紊(みだ)れに紊(みだ)れた獸欲の閨房(ねや)を垣閒見て、田油津媛は己の度量の限りを知つた。己が血(けが)れる事をも厭(いと)はず、敵も味方も卷き込み、臈長(ろうた)けた好色で朝(みかど)を臣下(やつがれ)を祖神(おやがみ)をも手玉に取る强(したた)かな魔性を前では、男を知らぬ手弱女(たをやめ)なぞ話しにも爲らぬ。神に仕へ神の聲を賜る齋王(いつきのきみ)として、幾ら美食膳羞(びしよくぜんしう)を愼み、聖職を勤める白無垢の操(みさを)を究め、圡族(どぞく)の生娘(きむすめ)を磨き上げた處で、淸濁も善惡も超えて天壽天命(てんじゆてんめい)を謳歌する恍惚の耀(かがや)きが落とす影。卋を搖るがし、風雲を制する國士(こくし)に、男も女も勿ければ、奸雄(かんゆう)も英傑(えいけつ)も勿い。神の末裔と云ふ綺麗事には裏が有り、其の薄汚い人(ひと)の卋(よ)の眞(まこと)を呷(あふ)りて解毒する膽力(たんりよく)こそが、衆(しゆう)を惑はして王道へと誘(いざな)ひ、國を束ね上げる。大(たい)した女(をんな)也。だから猶の事、今此處で止めを刺さずして何とする。山門の損得に目移りし、處卋(しよせい)に走るなぞ下下(しもじも)の慰(なぐさ)み事(ごと)。女王(ひめみこ)の沙汰(さた)に非(あら)ず。

 田油津媛(たぶらつひめ)は祭壇に餝られた寳劍に手を掛けた。御鏡(みかがみ)に映り込む決死の形相。干戈(かんくわ)の主(ぬし)が己の影を睨み返すと、其の鼻つ柱を嚴(いか)づ靈(ち)が斜めに驅け拔ける。磨き上げられた鏡面を限る一條(ひとすぢ)の龜裂(きれつ)。摑み損ねた寳劍が足許で爆(は)ぜ、刀身が柄(つか)の根元から折れると、田油津媛(たぶらつひめ)は其の蹴汰魂(けたたま)しき靈驗に心(しん)の臟(ざう)を握り潰され、大帶日賣(おほたらしひめ)の神掛かりが乘(の)り憑(うつ)つた樣に其の場を驅け出した。入れ違ひに、信(しん)の置ける近臣(やつがれ)を沙庭(さには)に引(ひ)き聯(つ)れて雪崩れ込む建内足尼(たけうちのすくね)。幾重にも埀(た)れ籠(こ)めた暖簾(のんれん)の帛(しろぎぬ)を手繰(たく)し上(あ)げ、神の降り立つ結界に分け入ると、一糸纏(いつしまと)はぬ女王(おほきさき)と朽ち果てた御鏡(みかがみ)と寳劍と神饌(そなへもの)で蹈み荒らされた宮形には眼も吳れず、息の根の勿い朝(みかど)に伏奏(たてまつ)る。

 

 

 恐(かしこ)みてまをさく。我が天王(あまきみ)、猶(なほ)、其の大御琴(おほみこと)を阿蘇婆勢(あそばせ)。

 

 

 紅淚(こうるい)を絞り、嗚咽(をえつ)を嚙み殺す迫眞の大臣(おほおみ)。祭壇を取り圍んだ者達は、陰(ほと)を開(はだ)けて身悶(みもだ)える女王と、身動(みじろ)ぎ一つせぬ朝(みかど)の御遺形(ごゆいぎやう)に言葉を失ひ、露(あら)はに神と目合(まぐは)ふ宇氣比(うけひ)の畏(おそ)ろしさに唯只管(ただひたすら)、拜み倒した。

 

 

 

 

 「穴に歸(かへ)るのが圡蜘蛛(つちぐも)の習(なら)ひ。山門の女(むすめ)と云へば更(さら)也。」

 熊鷲討伐の行宮(かりみや)から姿を消した田油津媛(たぶらつひめ)を、大帶日賣(おほたらしひめ)は然(さ)も有(あ)りなんと鼻で遇(あしら)ひ、朝(みかど)の密葬に千慮を傾けた。時恰(ときあたか)も鏖戰(あうせん)の最中(さなか)。萬(まん)が壹(いち)の士氣沮喪(しきそさう)を畏(おそ)れて勤忌(きんき)の身で在る事を直隱(ひたかく)しに隱(かく)し、陣を構へる大法(おほほ)の地に御本體所(もがりのみや)を設(しつら)へ、无火殯斂(ほなしあがり)で御靈柩(みひつぎ)を送り出す、怨靈(をんりやう)にも臆さぬ建内足尼(たけうちのすくね)の堂に入つた手管を信じて、眼を附けてゐた若人(わかうど)を引き擦り込み、人肌の冷めた孤閨(こけい)を焦がす竺志(ちくし)の太母(たいぼ)。

 一方、倭國の人質から遁れた山門の女王(ひめみこ)は、兄(このかみ)の夏羽(なつは)へ合はせる顏も勿ければ、熊鷲の許へ馳せ參じる事も勿く、雙方(さうはう)に使ひを立てて倭國の朝(みかど)が身罷(みまか)つた旨のみ言傳(ことづて)ると、義憤に燻る山門の私兵(つはもの)を輯(あつ)めた。大帶日賣(おほたらしひめ)の淸濁を一呑みにして平らげる暴政(まつりごと)を目の當たりにした田油津媛(たぶらつひめ)が貫き通す、神に阿(おもね)る事すら潔しとせぬ己の道。譬(たと)へ其れを圡蜘蛛の穴と呼ばれても。

 合はせ鏡の女王が織り成す烏玉(ぬばたま)の闇と闇。其の暗鬭(あんとう)を掠める玄(くろ)い影が、己で仕畱(しと)めた御靈柩(みひつぎ)を前に立ち盡くしてゐる。丹朱(にあか)で塗り固めた御形代(みかたしろ)の御靈石(みたまいし)を握り締め、暗默の祕儀を託された闇夜の鴉(からす)は、假(かり)の陵(みささぎ)へ御遺形(ごゆいぎやう)を斂(をさ)める前に、臍(ほぞ)の底で疼(うづ)く痼(しこ)りを削ぎ落とす爲、大帶日賣(おほたらしひめ)にも本懷を伏せて、再び帛(しろぎぬ)の暖簾(のんれん)に引き籠もつた。

 

 

 殯(もがり)の宮(みや)に坐(ま)して、更に國の大奴佐(おほぬさ)を取りて種種(くさぐさ)に生剝ぎ、逆剝ぎ、阿離(あはなち)、溝埋(みぞうめ)、屎戶(しそへ)、上通下通婚(おやこたはけ)、馬婚(むまたはけ)、牛婚(うしたはけ)、鷄婚(とりたはけ)の罪の類ひを求め、國の大祓(おほはらへ)を爲して、亦、建内足尼(たけうちのすくね)、沙庭(さには)に居りて、神の命(みこと)を請ひまつりぬ。

 

 是(これ)に於きて敎へ覺(さと)したまはりし狀(さま)、具(つぶさ)には先日の如くにして、凡(おほよそ)そ此の國の者は、汝命(ながみこと)の御腹(みはら)に坐(ま)す御子(みこ)の所知(しらしめ)る國なれ者(ば)と也。

 

 爾(しかるがゆゑ)に建内足尼(たけうちのすくね)白(まをさ)く、

 

 恐(おそ)りてまをさく、我が大神(おほみかみ)、其の神腹(かむはら)に坐(ま)します御子(みこ)や何(いづ)れの子なる。

 

 答へて詔(のりたま)はく、

 

 男子(をのこ)也。

 

 爾(しかるがゆゑ)に具(つぶさ)に請(こ)ひまをさく。

 

 今此の言(こと)の如く敎へたまひし大神(おほみかみ)は、欲(ねがは)くは其の御名(みな)を知りまつらむ。

 

 卽(すなは)ち答へて詔(のりたま)はく、

 

 是(これ)、天照神(あまてるかみ)の御心(みこころ)なれ者(ば)、亦、底筒男(そこつつのを)、中筒男(なかつつのを)、上筒男(うはつつのを)の參柱(みはしら)の大神(おほみかみ)なれ者(ば)也。今是(ここ)に其の國を求めむと思(ねが)は者(ぎ)、天神地祇(あまつかみくにつかみ)、亦、山の神及び河(かは)海(うみ)の諸(もろもろ)の神に、悉(ことごと)く幣帛(ぬさ)を奉りて、我が御魂(みたま)、船の上に坐(ま)しまして、眞木(まき)の灰(はひ)を瓠(ひさご)に納めまつり、亦、箸(はし)及び比羅傳(ひらで)を多(さは)に作りまつり、皆皆(みなみな)大海(おほうみ)に散(ち)らし浮(う)けて、以て度(わた)る可し。

 

 

 飼ひ犬に嚙まれた先帝(さきのみかど)が化けて出るかと思ひきや、干戈(かんくわ)の大逆を咎めもせず、迂闊にも號(なの)り出る神神の御目出度(おめでた)さ。内訌(ないこう)を丸く治めて政(まつりごと)を執り成す、當(あ)たり障(さは)りの勿い神之命(おほせこと)に建内足尼(たけうちのすくね)は呆れ果て、嚴(おごそ)かに口寄せを勤める憑巫(よりまし)を抛(はふ)りて早早に宇氣比(うけひ)を切り上げた。文武を怠り、謀(はかりごと)にも疏(うと)く、易易と身内の手に墮ちた擧げ句、己を屠(ほふ)つた狼藉者に葬られて、不歸(ふき)の眠りを貪る御人好しなぞ、物の數では勿い。主君に向けて引いた吾が後ろ弓も亦、神罰。是で眼が覺めぬのなら其れ迠の事。死して猶(なほ)、仇(かたき)を咒ひ殺す程の讐念も勿い虛(うつ)けに、治まる國が何處に在る。帶中日子(たらしなかつひこ)なぞと仰仰(ぎやうぎやう)しい。天孫の諡が畏れ多い處か、國を擧げて弔ふにも價せぬ。建内足尼(たけうちのすくね)は御靈石(みたまいし)を先帝(さきのみかど)の御形代(みかたしろ)として齋(いつ)き奉(たてまつ)ると、舶載(はくさい)の櫃(ひつ)に怱怱(そそくさ)と斂(をさ)めて結界を發つた。

 

 

 大臣(おほおみ)が御勢(みせ)の君(きみ)の御魂(みたま)を鎭めて歸陣(きぢん)すると、大帶日賣(おほたらしひめ)は一度(ひとたび)訶志比(かしひ)の宮に還御(くわんぎよ)し、群臣佰寮(まへつきみたちもものつかさ)を召して宸襟(しんきん)を解いた。

 「朝(みかど)が神の敎へに躊(たちもとほ)りて薨(みまか)つた此の上は、殘されし女王(おほきさき)が其の仰せ賜ふ財(たから)の國を治めずして、神恚(しんい)は治まらず。」

 先帝(さきのみかど)が神罰を蒙(かうむ)り御隱れに爲られた事を覈(あから)かにした女王(おほきさき)は、其の弔ひに祟(たた)り神(がみ)の名を騙(かた)りて、神前に供へる神饌(いけにへ)を請(こ)ひ、埀れ籠める惰氣(だき)を薙ぎ拂つた。財(たから)の國を平らげる前に、目障りな雜魚(ざこ)を平らげる。喪に服す素振りも見せず、日嗣(ひつぎ)の太子(みこ)の寳祚(ほうそ)をも閣(さしお)きて、御軍(みいくさ)を再び蠻夷(えみし)の地へと驅り立てる、有無を云はさぬ聖斷に色めき立つ宮内(みやのうち)。此れは卽(すなは)ち、邇邇藝命(ににぎのみこと)が竺志の高祖山(かたすやま)に降り立ち、天基(あまつひつぎ)を草創(はじ)めてより以來(このかた)、嘗て勿い女王(おほきさき)の登極(とうぎよく)。

 「先帝(さきのみかど)の御遺誡(ごゆいかい)は如何に。」

 時ならぬ新帝(あたらしみかど)の顯現に、臣下(やつがれ)の誰もが顏を身合はせ、有りて可然(しかるべき)、上奏を讓り合ふ許り。女禍(によくわ)の誹(そし)りを免れぬ、天理を覆す暴擧。然れど、女王(おほきさき)の足許に控へる建内足尼(たけうちのすくね)が、御形代(みかたしろ)の御櫃(おひつ)を胸に抱へて睨みを利かせてゐる。朝(みかど)に弓を引く事すら厭(いと)はぬ此の怪腕に眼を付けられて、心身穩やかな例し勿し。女王(おほきさき)への禪讓が神慮に適ふ物か否かは、自(おの)づと天の裁きが下される。總ては寳位の御言宣(みことのり)の儘に、と云ふ猫を被り、一先づは建前の蔭に、皆が皆、其の身を潛(ひそ)めた。

 

 九年、三月(やよひ)壬申(みづのえさる)朔戊子(つちのえね)、

 

 逆賊の圡人(どじん)、熊鷲を討伐(ことむけ)んと、女王(おほきさき)は御軍(みいくさ)を率ゐて訶志比(かしひ)の宮を出(い)で發(た)ち、竈門山(かまどやま)の裾野を擦(なぞ)りて層增岐野(そそぎの)に到ると、先帝(さきのみかど)が陣を敷きて斃(たふ)れ、其の御遺形(ごゆいぎやう)が眠る大法(おほほ)の陵(みささぎ)を申(さる)の方(かた)に望む、中(なか)つ海(うみ)の對岸に松峽宮(まつおのみや)を構へた。滿を持して兵馬を調(ととの)へ戎具(じゆうぐ)を砥(と)ぐ蠻夷討征。然れど、大本營に轟く鬨(とき)の聲(こゑ)とは裏腹に、其の臣心、穩やか不成(ならず)。帶中日子(たらしなかつひこ)の密葬に裏が有る事を十域別王(ときわけのみこ)と稚武王(わかたけのみこ)が見過ごす譯も勿く、人質の田油津媛(たぶらつひめ)まで寢返つたと爲れば、其の先行きも亦、不安(やすからず)。疑心暗鬼に驅られ、紐帶(ちうたい)の千千に縺(もつ)れた御軍(みいくさ)に、芯の通つた彌猛心(やたけごころ)なぞ希む可くも勿い。

 而(しか)して、草場川を遡り、いざ熊鷲の牙城、白髮山(しらがみやま)に向かはむと、氣勢を上げ軍鼓(なりもの)を打ち鳴らした將(まさ)に其の刻、飄風(つむじかぜ)に吹き飛ばされた女王(おほきさき)の御笠(みかさ)を、熊鷲の襲擊で切り飛ばされた生首と取り違へて泡を喰ひ、一齊(いつせい)に四散した御軍(みいくさ)の兵達(つはものたち)。荷持田村(のとりたのふれ)を前にして、敵の矢に斃(たふ)れた先帝(さきのみかど)の二の舞ひは御免と許りに、我先にと退路を爭ふ烏合(うがふ)の樣(さま)は芋を洗ふが如し。果たして、付け燒き刃の女神で親征の御旗が勤まる物かと云ふ内憂、豈圖(あにはか)らんや。所詮、男を出し拔きて寳祚(ほうそ)した如何(いかが)はしさ。女德の魔力にも有限(かぎりあり)。轍(わだち)を返した御軍(みいくさ)の先に霞む、中(なか)つ海(うみ)の彼方に祕した先帝(さきのみかど)の殯陵(みささぎ)。松峽宮(まつおのみや)から見て裏鬼門(うらきもん)の對岸に眠る怨靈(をんりやう)の出迎へに、女王(おほきさき)は舌打ちを返して陣幕を潛(くぐ)つた。後から射拔いた朝(みかど)に背を向けて熊鷲に討ち入り、知らぬ閒に挾み擊ちに興じた兵法(ひやうはふ)の愚(ぐ)。此れも亦、祟り神の爲(な)せる業(わざ)か。御軍(みいくさ)が散り散りと爲つた大本營に舞ひ戾ると、大帶日賣(おほたらしひめ)は呵呵(かか)として朗笑(らうせう)した。己の地に墮ちた女德も然る事乍ら、不甲斐勿き兵達(つはものたち)の俠氣(をとこぎ)。其れは敵とて同じ事。畢竟(ひつきやう)、賴れる物は此の身獨(ひと)つと臍(ほぞ)を固めて、宇氣比(うけひ)の設(しつら)へに取り掛かる。

 生を壽(ことほ)ぐ天照(あまて)る神か將亦(はたまた)、死を筮(うらな)ふ月讀(つくよ)む神か。建内足尼(たけうちのすくね)の見護る中で女王(おほきさき)が憑巫(よりまし)を勤めると、大三輪(おほみわ)と號(なの)る神が奈落の底から呻きを上げ、神代の往(い)にし方(かた)より以來(このかた)、積もりに積もつた舊恨(きうこん)を竝(なら)べ立(た)てた。何事か斥候(せつこう)を飛ばし、八隅知(やすみし)し翁(おきな)に層增岐野(そそぎの)の緣(えにし)を問ひて洗ひ出すと、秋月へ向かふ草場川の畔(ほとり)に、鄕(さと)の者が大己貴(おむがさま)と呼ぶ御神體(ごしんたい)の山を遙拜(えうはい)する、注聯繩(しめなは)で圍(かこ)つた荒れ地が在りけり。折しも、女王(おほきさき)の御笠(みかさ)が風に煽られた眼と鼻の先。近臣(やつがれ)を束ね、再び曰(いは)くの地に降り立つと、女王(おほきさき)親(みづか)ら大己貴(おむがさま)の御魂(みたま)を鎭めて祀り上げた。大三輪神(おほみわのかみ)と云えば國譲りで天孫(あめみま)に屈した出雲の主神(ぬしがみ)。此處にも鄕圡を追はれた祟り神が野埀れ伏してをるとは。吾等が倭國の祖神(おやがみ)は、此の現(うつ)し卋(よ)に至る迠、如何程(いかほど)の麤(あら)き政(まつりごと)を課して來たのやら。

 古來、熊鷲と夏羽の嫡流を辿れば、筑紫㠀の火山を飛び交ふ神の鳥の末裔を號(なの)り、各各(おのもおのも)國を治めて彌榮(いやさか)える八佰萬の獨柱(ひとばしら)で存つた。出雲神を長(をさ)と敬慕(した)ひて紐帶(もや)ふ、汲めども盡きせぬ千代の泰平。其の神と人の竟(さかひ)すら勿い、半睡半醒の桃源郷を天孫(あめみま)の侵寇(しんこう)が討(う)ち碎(くだ)いた。主神(ぬしがみ)の座右を免(ゆる)されし、對馬の御杖代(みつゑしろ)、海照神(あまてるかみ)。神無月(かみなづき)には最も遲く出雲に召され、最も早く出雲を發つ譽(ほま)れを賜つた重臣の筆頭が、舶載の文物と戎具(じゆうぐ)を儲(たくは)へ、恭順の意を飜(ひるがへ)して創(はじ)まる神神の物語。津浪の如き鐵(くろがね)の干戈(かんくわ)が竺志の山河を遡り、出雲の神をも呑み干して、服(まつろ)はぬ者は神の位階から物(もの)の怪(け)の穴藏に引き擦り降ろした。地に墮ちた神の鳥の末裔は化鳥(けてう)の謗(そし)りを免(まぬが)れず、火の鳥は天神(あまつかみ)の使ひにして蕃族(はんぞく)の祖(そ)に非ず、倭國を護る靈鳥也、と萬古不易の云(い)ひ傳(つた)へ迠も剝ぎ取られた。斯くして、頭上で霏霺(たなび)く鳳尾を仰ぐ事すら赦されず、鄕圡を護らぬ許りか、火山の噴怒を煽り立てる許りの不死鳥を、竺志の古族は口に爲る事すら憚(はばか)り、終卋(しゆうせい)、地祇(くにつかみ)のみを崇(あが)める事と爲る。對馬の海(あま)の民(たみ)に追ひ落とされ山(やま)の民(たみ)と、大寳の禪讓と地の底での蟄居(ちつきよ)を强(し)ひられて、再び掘り起こされた祟(たた)り神(がみ)の屈辱は如何斗(いかばか)りか。

 引きも切らさぬ怨みと咒(のろ)ひに塗(まみ)れた大八洲(おほやしま)の穢(けが)らはしさと、瑞穗(みづほ)の國の豐かな稔りの源は地の底で繫がり、斷つ事の不能(あたは)ぬ軛(くびき)。打ち破れた者達を肥やしに倭國は社稷(くにのおほもと)を築き上げて來た。文物(ぶんぶつ)とは文(あや)しき物(もの)にして魔物(まもの)也。出雲神に傅(かしづ)きて何の不足も勿かつた神代の歲月の愛(いと)ほしさ。陸稻(をかぼ)の葦原(あしはら)を水稻(みづほ)の堰(ゐせき)で仕切り稔つた苗も、究竟(くつきやう)、爭ひの種を撒く、終はりの勿い始まり。百姓(おほみたから)を所領に縛り付け、租調(みつき)を晰(あき)らかにする爲、五穀(たなつもの)許りを耕し、溢れ返る聚落(しゆうらく)と畜生は疫氣(ゑのやまひ)を招き寄せ、其の上、日旱(ひでり)の業火に田畑を棄て、逃げ隱れる事すら儘爲(ままな)らぬ、凡(およ)そ人の營みとは程遠い開化の仕打ち。朝(みかど)は天を仰ぎ民草は地を養ふとは雖も、覺えて終つた餘計な智惠が引き起こす鈴生(すずな)りの禍(わざは)ひ。然れど最早、此の海表(わたのほか)の利器を手放して後戾りする事は、國を手放すに等しい。祟り神の墓を暴いた女王(おほきさき)は、さ迷へる御魂(みたま)を埋め戾して、其の慘めな正體(しやうたい)を鼻で笑つた。穴の中から仇(かたき)を咒(のろ)つた處で、今更、何が浮かばれると云ふのか。其の怨みが募れば募る程、倭國が彌榮(いやさか)えるのならば、其れも亦、本望。天孫(あめみま)の血で血を湔(あら)ふ御稜威(みいつ)を取り繕ふ氣なぞ更更勿い。己の器は詮ずる所、天鈿女(あめのうずめ)止まり。天(あま)ヶ原(はら)を度(わた)りて侵寇(しんこう)した、海賊の前に立(た)ち開(はだ)かる猿田彥を惑はし、虜(とりこ)にした、色好みの爲(な)れの果(は)て。行く手を阻む者在らば、其れこそ閨狂(ねやぐる)ひ道連れ。千千(ちぢ)に咲き亂れる迠の事。

 逃げ失せた兵達(つはものたち)を山獵(やまが)りにて聯(つ)れ戾(もど)し、御軍(みいくさ)の挫けた士氣を如何(いか)にして立て直す可きか。大本營の中興(ちゆうこう)に腐心する將軍(いくさのかみ)に眼も吳れず、大帶日賣(おほたらしひめ)は十域別王(ときわけのみこ)と稚武王(わかたけのみこ)を竊(ひそ)かに召し上げた。

 「朕(われ)、大寳の聖德に遠く不及(およばず)。翌る日の辛卯(かのとう)、熊鷲との和睦(むつみ)を圖(はか)り、質(しち)と爲りて、輿入れも辞さず。就きては、倭國の日嗣(ひつぎ)と相伴ひて荷持田村(のとりたのふれ)の根城(ねじろ)に參らむ。」

 女禍の揚げ足を探る奸臣(かんしん)の耳を疑ふ悄(しを)らしき優諚(いうぢよう)。如何(いか)な心變(こころが)はりか、天孫(あめみま)の王道に悖(もと)る聖斷に、倭國に獻げた操(みさを)を蠻族に調進(みつきたてまつ)るなぞ以(もつ)ての外(ほか)、と諫(いさ)めるべき處を、倭國の日嗣(ひつぎ)と相伴ひてと云はれては、禪讓の宸旨(しんし)は何(いづ)れの身に有るのか、空位に等しき大寳を前に引くにも引けぬ雙(ふた)りの太子(みこ)。目障りな寡(やもめ)が片付き、登極の芽も出て來ると爲れば、屬國(ぞくこく)に花を持たせるのも惡く勿い。一利一害を指折り數へた、蜷(みな)の腸(わた)、か黑(ぐろ)し本願に二匹の狸は、二つ返事で鼓腹(こふく)を叩いた。

 

 

 片手で數へ得る限りの侍從(つかひひと)に衞(まも)られて松峽宮(まつおのみや)を後にし、人身供犠(じんしんくぎ)と違(たが)はぬ勤めに伺候(しこう)する失意の女王(おほきさき)。親(みづか)ら露拂ひを買つて出た十域別王(ときわけのみこ)と稚武王(わかたけのみこ)は、互ひに拔け驅けを許すまじと、後ろ手に相手の裳裾(もすそ)を摑み合ふ。敵は熊鷲に非ず。無刀で帶同する宥恕(いうじよ)の執り成し。己獨(ひと)りが生きて歸れる好機をのみを窺ひて烱烱(けいけい)とし、険眉(けんび)を解く遑(いとま)が勿い。

 對(たい)して、白髮山(しらがみやま)の麓に陣を構へる熊鷲は、田油津媛(たぶらつひめ)の言傳(ことづて)で帶中日子(たらしなかつひこ)が自軍の矢に斃(たふ)れた事を知り、女禍の御旗(みはた)で敵陣を前に遁走(とんそう)した倭國なぞ恐るるに足りず、と息卷いてゐた。大己貴(おむがさま)の治めた御卋より、秋月(あきづき)の野鳥(のとり)に坐(まし)します山神の末裔を、物(もの)の怪(け)呼ばはりし續けた天孫(あめみま)から和睦(むつみ)の申し立てとは片腹痛い。質(しち)の上納を以て手締めと爲すかは、其の手圡產を品定めしてから。取り卷く重臣(やつがれ)が神妙な面持ちで大帶日賣(おほたらしひめ)の著御(ちやくご)を俟つ中に在りて、熊鷲は手酌で酒(ささ)を呷(あふ)り續け、旣に程良く出來上がつてゐる。黥面文身(げいめんぶんしん)に瀦鹿(ゐのしか)の骨で餝り立てた山賊の群狼。獸の咒能を身に纏(まと)ふ、狼(おほかみ)は大神(おほかみ)也。秋月の古道は獸道。往(い)にし方(へ)の習(なら)ひを頑なに戍(まも)る徒黨(とたう)の純血。今こそ、海神に讓つた山神の國を召し返し、海の民に屈した山の民の無念を晴らし、物(もの)の怪(け)の辱(はづかし)めを雪(そそ)ぐ刻(とき)。押し默つた面面の顰(しか)める咒墨(じゆぼく)の文樣。其の打(う)ち拉(ひし)がれた怨嗟(ゑんさ)の渦卷く瘴氣(しやうき)の坩堝(るつぼ)に、倭國の生(い)け贄(にへ)は臺臨(たいりん)した。

 裾野を圍(かこ)む堀切を度(わた)り、幾重にも積まれた圡壘(どるい)を越えて、山懷(やまふところ)の陣幕を潛(くぐ)り、野盜の直中(ただなか)に親(みづか)ら乘り込んだ生(い)け贄(にへ)に峙(そばだ)つ、血走つた衆目。如何(どう)見ても此れから和睦(むつみ)に勤(いそ)しむ者達の目付きでは勿い。寳祚(ほうそ)に眼(め)が眩(くら)み、後ろ見を引き受けたは良い物の、何故(なにゆゑ)、斯樣(かやう)な獸頭人身(じうとうじんしん)の巢窟に迷ひ込んで終つたのか。十域別王(ときわけのみこ)と稚武王(わかたけのみこ)は女王(おほきさき)の背を楯にして、熱を帶びた殺氣から身を隱した。熊鷲の御賞味に價(あたひ)する物か値蹈(ねぶ)みする、郞黨(らうたう)の憎惡で底光る眼差しは、毒味に預かるとなれば一齊(いつせい)に襲ひ掛かり、八つ裂きにする迠、許すまじと燻(くすぶ)る切齒扼腕。倭國の嬲(なぶ)り者達が手にした、物(もの)の怪(け)の謗(そし)りを受けし祖神(おやがみ)へ獻(ささ)げる、弔ひの宴(うたげ)。而して其の落花狼藉の凌辱を前に、和毛(にこげ)を粟立(あはだ)てて北叟笑(ほくそゑ)む大帶日賣(おほたらしひめ)。

 「然(さ)ても然(さ)ても此の折りは、馬婚(むまたはけ)、牛婚(うしたはけ)、鷄婚(とりたはけ)、何(いづ)れの輿入れか。蠻夷(えみし)の餘興(よきよう)は厩(むまや)の賑はひ。天下(あめのした)を愛(め)でる太母と上通下通婚(おやこたはけ)を希(のぞ)むなら、其れも亦、朕(わが)、本領。姦(かしま)しき畜生の肉欲諸共、平らげる迠の事。」

 敵陣に犇(ひし)めく、人の皮を被つた山犬の群れに女王(おほきさき)は分け入り、野合の上座で一際の魁偉(くわいゐ)を誇る益荒男(ますらを)を睨み付けた。猛禽の翼こそ背負ふてはをらぬが、秋月の山河に手足の生えたが如き不動の風格。壯肩から立ち昇る酒精に搖(ゆ)らめく豪放な逆髮(さかがみ)。奴婢雜人(ぬひざうにん)に用は勿い。天照神(あまてるかみ)に仕へる齋王(いつきのきみ)の淸らかな雅(みやび)を尻目に懸ける、脂の乘つた妖艶な色香。奧の院の手弱女(たをやめ)とも、野晒(のざら)しの山猫とも毛色が違ふ、海表(わたのほか)の文物に由(よ)りて研(みが)かれた所作と嗜(たしな)み。絕卋を從(ほしいまま)にする仙女(せんによ)の桃質(たうしつ)。其の蠱惑(こわく)の蛾眉(がび)が俄(にはか)に吊り上がり、鬼氣迫る官能に眼福(がんぷく)を射拔かれた彌次馬(やじうま)が後退(あとずさ)る。引きも切らさぬ惡口(あつこう)も舌を拔かれた、皓齒紅吻(かうしこうふん)を苦遊(くゆ)らせる臈長(らうた)けた魔性。女王(おほきさき)は婀娜(あだ)な仕種で熊鷲の座右を占めると、其の熊掌(くまで)の如き鉤爪(かぎづめ)から爵(しやく)を受け取り、恭(うやうや)しく觚(さかづき)に注いだ。暗默に據(よ)りて裏打ちされた勝利の美酒を飮み干すと、豐明(とよのあかり)の主(あるじ)は質(しち)の肩に腕を囘し、其の襟足に鼻面(はなづら)から潛(もぐ)り込む。

 「馨(かぐは)しや。古鄙(こひな)びた牝の臭ひなぞ、優に及ばず。」

 陶然と熟柿臭(じゆくしくさ)い鼻息を浴びせて質(しち)に返盃を突き附ける熊鷲に、竝竝(なみなみ)と注がれた酒(ささ)を一氣に呷(あふ)り、熊苺(くまいちご)の如き赤鼻に押し返す大帶日賣(おほたらしひめ)。生きた心地もせず、其の場に膝を著きて狼狽(うろた)へる許りの十域別王(ときわけのみこ)と稚武王(わかたけのみこ)にも膳が立てられ、雙(ふた)りは勸められる儘に酒(ささ)に口を付け、獸の乳の如き濁り酒に咳き込んだ。野趣(やしゆ)に溢れる振る舞ひが喉を燒き、幾度も膝元に吐瀉(としや)を繰り返す、後ろ見の沮喪(そさう)を餘所に、熊鷲の返盃に一步も引かずに受けて立つ女王(おほきさき)。此處で呑まれては池に落ちた猴(さる)。木の股で寢かせた猨酒(ましらざけ)なぞ一服盛る迠も勿い。媚態を搔毆(かなぐ)り、觚(さかづき)を次次と空ける其の氣風(きふう)に、愛(う)い奴と眼を細め、熊鷲の百足(むかで)の如き張眉(ひやうび)が潮埀(しほた)れる。山颪(やまおろし)に乘りて木靈(こだま)した噂の傾城(けいじやう)に僞(いつは)り勿し。

 「天下(あめのした)に無雙(ふたつとな)い其の妍容(けんよう)。吾(われ)、得たりなば、天下(あめのした)の權勢も亦、無雙(ふたつとな)く、豈(あ)に此の上の望み莫(な)からんや。」

 赤銅(あかがね)色に上氣した熊鷲の黥面(げいめん)に、灼熱の呂律(ろれつ)で捲し立てる饒舌(ぜうぜつ)。宴(えん)も闌(たけなは)の御相伴(ごしやうばん)に蕩(とろ)ける遺恨の血栓。然れど、嘉酒(かしゆ)で薄めた樽俎折衝(そんそせつしよう)なぞ擬(もど)かしい。大帶日賣(おほたらしひめ)は熊鷲との閒を行き交ふ觚(さかづき)を捌(さば)き乍ら、一虛一盈(いつきよいちえい)の透き閒に虎視(こし)を凝らした。倭國の女王(おほきさき)と蠻族の酋豪(をさ)と雖も、煎(せん)じ詰(つ)めれば男と女。案に違はず、觚(さかづき)を片手に御酌(おしやく)の陰(ほと)を弄(まさぐ)る熊鷲は、其の精力も春情(しゆんじやう)の盛りにして熊の如し。騰(のぼ)せ上がつた秋月の主(あるじ)は質(しち)に襲ひ掛かりて肩に負ひ、暖簾(のんれん)で仕切られた丈けの閨房(ねや)に擔(かつ)ぎ込(こ)む。

 後宮(うしろのみや)の床入(とこい)りとは程遠い山賊の流儀。倭絹(ちくしぎぬ)の錦(にしき)を引き裂かれ、怪(け)だ物(もの)の褥(しとね)に押し倒された女王(おほきさき)は唇を奪はれ、大虬(みづち)の如き舌鋒が齒茎を突き破る。聳(そそ)り立(た)つ獸根(じうこん)が唸りを上げ、絞め殺さん許りの膂力(りよりよく)で手籠(てご)めにする鬼畜の目合(まぐは)ひ。倭國の名花を蹂躙する圡俗(どぞく)の亂行(らんぎやう)。其の咆哮(はうかう)を女王(おほきさき)は醒め醒めと聞かれた。此の穴羆(あなぐま)一匹を誑(たら)し込(こ)む事なぞ造作も勿い。然れど、蠻族の祕術を嗜(たしな)む遑(いとま)も復た勿し。名殘惜(なごりを)しきは其の絕倫。若し願はくば來卋(らいせ)の逢瀨(あふせ)。頸(くび)を洗ひて俟つてをれ。大帶日賣(おほたらしひめ)は唇を貪(むさぼ)る舌の根に喰らひ付くと、聲を上げられぬ其の喉笛を、埀髮(すいはつ)の插頭花(かざし)に祕めた釵子(かなくし)で貫き、蠻夷(えにし)の息の根を喰ひ千切つた。良き政(まつりごと)が白黑では勿く、折り合ひを附ける事で在るならば、其の根を絕てば更に不憂(うれひなし)。

 敦(あつ)く垂れ籠めてゐた暖簾(のんれつ)を拂い除け、喰ひ縛つた口角から臍(ほぞ)の下まで鮮血の淋(したた)る女王(おほきさき)が陣内に舞ひ戾ると、竊(ひそ)かに松峽宮(まつおのみや)の大本營を離れて喰那尾山(くひなをやま)に潛(ひそ)み、鬼謀神算(きぼうしんさん)を練りに練つた建内足尼(たけうちのすくね)が、氣焰萬丈(きえんばんぢやう)の御軍(みいくさ)を率ゐて旣に雪崩れ込んでゐる。

 「熊鷲は强暴也。黨類(たうるい)も多く、俄(にはか)に討ち滅ぼすのは早計。和睦(むつみ)を申し出て誘ひ出し、欺(あざむ)きて誅(ちゆう)す可し。」

 腹心の眼に狂ひ勿し。火酒(ひしゆ)の囘はつた山賊の逃げ惑ふ、飛盃覆膳(ひはいふくぜん)の宴(うたげ)を一掃する神機到來の皇仭(くわうじん)。天命は朕(われ)に有り。莫逆の增長、非理(りあらず)して、雌雄は決した。腰を拔かして其の場に這(は)ひ蹲(つくば)る十域別王(ときわけのみこ)と稚武王(わかたけのみこ)の前で足を止める女王(おほきさき)。建内足尼(たけうちのすくね)には折りを見て雙(ふた)りを斬れと云ひ含めて措いたが、差し當たりは小事に勝(まさ)る大事。天孫(あめみま)に有閒敷(あるまじ)き其の汚命(をめい)、一先づ預かり措くしか有るまい。

 「熊鷲の首、召し上げよ。」

 女王(おほきさき)は喰ひ縛る舌の根を吐き捨て、一糸纏(まと)はず其の場を後にした。

 勝ち目の勿い熊鷲の殘黨(ざんたう)は荷持田村(のとりたのふれ)を一擲(いつてき)に散(さん)じて顧みず、矢野竹村(やのたけのふれ)の要害から俎原(まないたはら)へと落ち延びた處を御軍(みいくさ)に圍(かこ)まれ、其の返り血が穀雨(こくう)に潤(うる)む葉櫻(はざくら)を再び染め上げた。

 

 

 

 鏡の前で顫(ふる)へ戰(をのの)く女(むすめ)在りけり。凶凶(まがまが)しく映(は)える墨痕(ぼつこん)を指で擦(なぞ)り、文物の理(ことはり)を棄て、蕃族(はんぞく)の義憤を棄て、女を棄て、人を棄て、獸頭人身(じうとうじんしん)に生まれ變はつた己の姿。天敵を調伏(てうぶく)する咒能(じゆのう)が足りぬと、田油津媛(たぶらつひめ)は齋女(いつきめ)の禁を解き、夭(をさな)き面差しに厭魅(まじもの)の墨(すみ)を入れ、前齒を拔いた。總ては彼(あ)の女(をんな)を超える爲。磨き上げられた白銅(しらがね)の魔竟(まきやう)の中で燻(くすぶ)る、己の弱さを睨み付けると、玄(くろ)く稻光(いなびか)る黥面(げいめん)が綻(ほころ)び、犬齒が妖しく煌(きら)めいた。

 去る辛卯(かのとう)、更待(ふけま)ち明けの夜、誅戮(ちゆうさつ)された熊鷲の戰況(ありさま)を耳にし臍(ほぞ)を固めた。倭國の行軍は其の足を止めず、矢野竹村(やのたけのふれ)を發ちて津固(つこ)に出で、舟を櫂(か)いて得川(とくかは)を下ると、甲午(きのえうま)には帶中日子(たらしなかつひこ)の眠る大法(おほほ)の陵、幷(なら)びに神磐戶(かむいはと)へと寄りて、天神地祇(あまつかみくにつかみ)を祀り上げたと云ふ。訶志比(かしひ)の宮(みや)に凱旋せぬと爲れば、一旦筑紫潟(ちくしのうみ)に出(い)で、潮路(しほぢ)を辿りて矢部川(やべがは)を遡り、吾等が本貫、山門の女山(ぞやま)を見据ゑる鷹尾(たかを)に舫(もや)ひを接(つ)ぐのは、恐らく丙申(ひのえさる)。

 己が統(し)らす天下(あめのした)、雙(ふた)りの女王(ひめみこ)は不罷成(まかりならぬ)と許りに、彼の陰(ほと)を濡らした鬼が乘り込んで來る。大帶日子(おほたらしひこ)の御卋から續く、僭主(せんしゆ)の親征。女山(ぞやま)の谷の石窟に籠もりて兵具(つはもの)を砥(と)ぎ、待ち構へる田油津媛(たぶらつひめ)。其の血意を諫(いさ)める、神夏磯媛(かむなつそひめ)、在りし日の口癖が磐壁(いはかべ)に木靈(こだま)する。

 「天下(あめのした)の名花と雖も、摘まれて終へば實(み)も卋も勿く、山門の女(むすめ)は咲かぬが花。」

 國と民草を護る爲に不遇を忍んだ亡き君の訓(おし)へ。然れど、女として生を賜はるからには、老いも若きも木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやひめ)。山門を憂ふ念ひは同じでも、此の田油津媛(たぶらつひめ)は奴婢(ぬひ)に非ずして、況してや、牛馬の如く地に這(は)ひ蹲(つくば)ふてをられ樣か。此の卋に產まれ落ちた其の時から、山門の女王と成る可く髙羽(たかは)より入鄕(にふきやう)して早幾歳(はやいくとせ)。故地に眠る祖神(おやがみ)と寢食を倶にし、其の云(い)ひ傳(そだ)へを子守歌に育ちて、穴居(けっきよ)の古習を護り續ける山門の民と、年齒の行かぬ内から野山を驅け拔けた。其の汲めども盡きせぬ地崇禮卑(ちすうれいひ)の信心を、圡蜘蛛と嘲(あざけ)る天孫(あめみま)の傲岸。許すまじ倭國(ゐこく)の殿上人(てんじやうびと)。譬へ此の身は果敢勿(はかな)くとも、刺し違へれば其れで本望。巖(いは)をも穿(うが)つ一念に、鼻の小峯(こみね)から頰へと限る玄(くろ)き嚴(いか)づ靈(ち)に龜裂(きれつ)が走り、倭國より下賜されし舶載鏡(まさかがみ)は、もう獨りの女王の足許で碎(くだ)け散(ち)つた。

 叛旗を飜(ひるがへ)してゐた者達は、熊鷲が討ち取られたと知(し)るや否(いな)や掌を返し、倭國に恭順の意を搴(かか)げて憚(はばか)る事を知らず、最早、援軍を賴(たよ)る當(あ)ても勿い。兄(このかみ)、夏羽(なつは)の鳳聲(ほうせい)を俟つ可し。然う喩(さと)す臣下(やつがれ)の大患も烏滸(をこ)の沙汰(さた)に如(し)かず。鳴き言は雄鷄(をどり)の性(さが)にして、女王の沙汰に非ず。

 果たせる哉(かな)、大帶日賣(おほたらしひめ)は田油津媛(たぶらつひめ)を討伐(ことむけ)んと欲して筑紫潟(ちくしのうみ)を度(わた)り、山門縣(やまとのあがた)は鷹尾(たかを)の鄕(さと)に大本營を敷きて髙良(たから)の宮(みや)と號(なづ)け、地元の海士(あま)は歡極(くわんきは)まりて黑鯛を獻り、舞曲を奏上したと云ふ。熊鷲を斃(たふ)した餘勢(よせい)を驅り、更に一步、兵馬を進めた倭國の御軍(みいくさ)は、女山(ぞやま)を望む藤尾(ふじのを)の社(やしろ)に我が物顏で陣を構へ、兵戈(へいくわ)の戰端は將(まさ)に眼と鼻の先。麓を挾んで睨み合ふ、山門の牙城と王師(わうし)の冑睛(ちうせい)。雙方の女王を軍議の車座が幾重にも取り圍み、先鋒の拔け驅け功名に燻(くすぶ)る彌猛心(やたけごころ)が狼煙(のろし)と爲りて立ち昇る。

 兵馬を隱しもせぬ倭國の明ら樣な牽制に、圡蜘蛛が穴に籠もつたと高を括るなら此れ幸ひ、と田油津媛(たぶらつひめ)は九死を厭(いと)はぬ精鋭(もののふ)達を見渡して、其の命を一心に預かつた。今宵、鷹尾(たかを)の海士(あま)が改めて筑紫潟(ちくしのうみ)の幸を調進(みつきたてまつ)り、拜塵(はいぢん)を賜ると云ふ。此の天與(てんよ)の内通に、己の產まれ落ちた星の渾(すべ)てを賭ける山門の女王(ひめみこ)。圡蜘蛛の穴に引き擦り込まれまいと樣子を窺ふ、一抹の迷ひに活路在り。數に物を云はせた大義なぞ畏(おそ)るるに足りず。新月の闇夜を俟たず。女山(ぞやま)の谷(たに)の地の利も棄てて、官軍(みいくさ)と僭(おご)る多勢に委せた虛を突く可し。

 木組みの甲冑(かふちう)に獸神(じうじん)の咒能を遮られぬ樣、獵衣(かりぎぬ)の毛皮を纏(まと)ひ、兵達(つはものたち)の前に顯(あらは)れた田油津媛(たぶらつひめ)は、銀瀾の霏霺(たなび)く滿天を仰ぎ、一睡もせずに戰勝を禱つた、赭視(しやし)の血走る險相(けんさう)を解いた。晦(つごもり)前の僅かに覗く瘦弦(そうげん)の月は己の命運か。獨弦哀歌(どくげんあいか)を嗜(たしな)む遑(いとま)も勿く、月を籒(よ)み、星を籒(よ)み、風を籒(よ)み、地の底から湧き起こる土神の聲に耳を傾ける。臍(ほぞ)の奧(おく)に轟く女山(ぞやま)の谷(たに)を吹き拔ける靈氣。山門の巫女は天地(あめつち)の御託宣(みことのり)を胎(はら)で聞く。田油津媛(たぶらつひめ)の目配せで次次と叢(くさむら)に身を屈めて潛(もぐ)り込(こ)む叛徒の犬走り。星明かりを湛(たた)へる古色蒼然の山河に、闇討ちの影が波を打つ。噎(む)せ返(かへ)る程の靑葉に護られて進む決死の行軍。女山(ぞやま)から矢部(やべ)の水門(みなと)へと通ずる故地を讓る不可(べからず)。海の幸、山の幸を從(ほしいまま)にする、此の肥沃な山門の惠みこそが吾等の生ひ立ち。

 然れど、倭國の度重なる貢租(みつき)と夫役(つとめ)に耐へ切れず、新き所領と獨立不羈(どくりつふき)を求め、天孫(あめみま)の傍流、磐餘彥(いはれびこ)の後を追ひて、東國(あづまのくに)へ不歸(ふき)の誓ひを立てた數多(あまた)の眷屬(うがら)達。風の噂に聞く、水稻(みづほ)も朽ちる干涸らびた山鄕(やまざと)で果たした天基(あまつひつぎ)の草創(はじめ)。去りし卋に若しもが有るのなら、苦難の壯途(そうと)を志す可きだつたのか。山門の圡地を棄て、神を棄て。

 闇に萌え盛る社稷(くにのおほもと)に這(は)ひ蹲(つくば)りて進み乍ら、田油津媛(たぶらつひめ)は草を食む犬齒を嚙み殺し、心の中で吼えた。同じ言(こと)の葉(は)を操りて言靈(ことだま)を交はし、天下(あめのした)の惠(めぐみ)と栖(すみか)を劃(わか)かち合(あ)ひ、其れ其れに崇(あが)める神を認め合ひ、爭ふ事勿く明け暮れた遙かなる來(こ)し方(かた)。其れが何故(なにゆゑ)、斯(か)くも所領と租庸(そよう)を奪ひ合ひ、人の貴賤のみ爲らず、神にまで上下の隔てが生まれたのか。吾等が始祖を物(もの)の怪(け)の蕃神(はんしん)と蔑(さげす)み、往(い)にし方(へ)の習ひと相生(あひお)ひを亂しては、力盡(ちからづ)くで總てを潰(くわ)い占(し)める邪(よこしま)な卋知(せち)。其の總てが、押し寄せる海表(わたのほか)の文物に因る賢(さか)しらと斷じる積もりは毛頭勿い。元から卑しき人の性(さが)も有らう。時の移ろひは行雲流水にして、因果は端(はし)勿き月(つき)の環(わ)の如し。逆らつた處で無櫂(むたう)の笹舟。然れど、古道を蔑(ないがし)ろにし、己の祖神(おやがみ)のみを崇(あが)めて、外(と)つ國(くに)に普(あまね)く神神と精靈(すだま)を斥(しりぞ)け、人の心を失つた者達が伸し上がりては覆す鼎(かなへ)の底に、不磨の天理が存るとでも云ふのか。

 獸頭黥面(じうとうげいめん)に變はり果てても、拭ひ去れぬ人の心。今宵、奇勝を博した處で、時の天變、卋の盛衰の一齣(ひとくさり)。其れでも猶、已(や)むに止(や)まれぬ憂ひを胸に、田油津媛(たぶらつひめ)は闇討ちの輝點(きてん)に眼を凝らした。敵前の露營で在り乍ら、此れ見よがしに焚かれた迂闊な篝火。圡蜘蛛と蔑まれた異能で音も勿く忍び寄り、吐く絲(いと)で鈍(なまくら)な步哨の足許を掬(すく)ふ事なぞ、出來損勿いの埴輪を轉がすも同然。山門の古族を虫螻(むしけら)呼ばはりするのなら、其の網に掛けて吊し上げる迠の事。拜塵(はいぢん)に浴する鷹尾(たかを)の海士(あま)達は、先刻、陣内に通された。錚錚(さうさう)とした夜氣の底に沈む生類木石(しやうるいぼくせき)に見護られ、風下から息を殺して地を匍(は)ふ精靈(すだま)の末裔。精鋭(もののふ)は人にして人に非ず。神を語る言(こと)の葉(は)が天下(あめのした)に生(お)ひ茂(しげ)る以前(まへかた)。山門と云ふ呼び名すら勿かつた此の地で、喘(あへ)ぎ、慄(をのの)き、蠢(うごめ)いてゐた命の塊。人も獸も蟲も草木も渾然として見分けの付かぬ、千載萬古(せんざいばんこ)の彼方に產聲(うぶごゑ)を上げた、吾等が始祖の靈源が此處に存る。蟲心(むしごころ)有らば圡心(つとごころ)。山門の山河を知り盡くした精靈(もののふ)に、女山(ぞやま)の谷(たに)の山颪(やまおろし)が飜(ひるがへ)る。追ひ風を背にした其の刹那、鷹尾(たかを)の海士(あま)の朴訥な鼓吹を合圖(あひづ)に、田油津媛(たぶらつひめ)は鬨(とき)の聲(こゑ)を上げ、陣幕を切り裂いた。

 目指すは干戈(かんくわ)の讓位(じやうゐ)に坐(ま)します紅一點(こういつてん)、大帶日賣(おほたらしひめ)。夜討ち朝驅けの一太刀で事は足りる。倭國(ゐこく)の御軍(みいくさ)と畏(かしこ)まつた處で、裏を返せば吳越(ごえつ)の舟(しう)。船頭獨りを沈めれば、後は櫂(みさを)の奪ひ合ひ。篝火を蹴倒して雪崩れ込む豐(とよ)の明(あか)り。戰はずして大勝の前祝ひ氣取りで居た虛(うつ)けの粗漏(そろう)を突き、熊鷲を陷(おとしい)れた其の逆手を取りて饗膳(ぎやうぜん)を覆す。鋒林(ほうりん)の火花を散らす精鋭(もののふ)を囮(をとり)に、田油津媛(たぶらつひめ)は犇(ひしめ)めく甲冑(かふちう)の肩と背を驅け昇り、人海(じんかい)の浪を輕輕(かるがる)と乘り越えて、宴(うたげ)の上座に舞ひ降りる。倭絹(ちくしぎぬ)の錦(にしき)で寬(くつろ)いでゐた女王(おほきさき)の御前(みまへ)に許しも勿く罷(まか)り出(い)で、舶載(はくさい)の狛劔(こまつるぎ)を拔き放つ狼藉の化身。今宵の獲物を探り當て、切れ上がつた犬齒を剝き出しに、雄威火(をたけび)を上げる野人の莞爾(くわんじ)。其の變(か)はり果(は)てた獸頭黥面(じうとうげいめん)に、女王(おほきさき)は嘗て己に仕へた釆女(うねめ)と氣付かず、侍從(つかひひと)を楯にして其の背を突き飛ばすと、女山(ぞやま)の谷(たに)で瀦鹿(ゐのしか)を追ひ、一匹たりとも逃(のが)した事の勿い田油津媛(たぶらつひめ)は、物の一太刀で其の頸を水平に飛ばし、返り血を被つた黥面(げいめん)に朱墨(しゆぼく)が入り混じる。狐客(こかく)に吼える郡犬に用は勿い。圡蜘蛛、惡鬼と見下されて幾星霜(いくせいさう)。積怨(せきゑん)の炎群(ほむら)が渦卷く蠱壺(こつぼ)の底で、遂に追ひ詰めた祖神(おやがみ)の仇(かたき)。刻(とき)は來(き)たりて、井蛙(せいあ)、雲龍(うんりゆう)を喰らふ。田油津媛(たぶらつひめ)は女王(おほきさき)の振り亂した埀髮(すいはつ)を、八岐(やまた)と呼ばれた其の脚で蹈(ふ)み躙(にじ)り、釘付けにすると、鮮血の滴る狛劔(こまつるぎ)を大上段に振(ふ)り翳(かざ)した。其の刹那、

 足許に身を護る得物(えもの)は勿いかと後ろ手に弄(まさぐ)り乍ら、大帶日賣(おほたらしひめ)が片手で肚(はら)を庇(かば)つた咄嗟(とつさ)の仕種(しぐさ)に、蔭走(ほとばし)る女の直感。此れは何處(いづこ)の拾(ひろ)ひ胤(だね)か。其の肌艶を一目見て、二月(ふたつき)と經つてはをらぬで在らう御懷妊。夜每、先帝と閨房を違へて、若駒(わかごま)に鞍を插(す)げ替(か)へる手筈を調(ととの)へてゐた嘗ての釆女(うねめ)は、其の飽く勿き淫行と豪膽(がうたん)に擊たれ、諸手で構へる環頭(くわんとう)の柄(つか)が痺れた。王統の古く澱(よど)んだ血脈に、下下(しもじも)の活き活きとした血潮を合流させる狡智も然(さ)る事乍(ことなが)ら、臍(ほぞ)の緒(を)の先に不義の驗(あかし)を抱へる其の身重で、蠻夷(ばんい)を斥(しりぞ)け、韓(から)の地(ち)をも平らげるなぞ生氣の沙汰では勿い。此の女に取り憑く魔物は、落人の怨靈(をんりやう)なぞとは格が違ふ。雜胤(ざついん)の鬼胎(きたい)を抱へて屍(しかばね)の山を築き、生死の竟(さかひ)を超えた其の頂(いただき)で御國(みくに)の行く末を指し示す。產(う)む事と屠(ほふ)る事を吾が身獨(ひと)つで成し遂げる倭國の太母。其の善惡の相克も淸濁の惑溺も厭(いと)はぬ、天地(あめつち)を喰らふ覇業と引き換へ、眷屬(うがら)の遺恨と天孫(あめみま)への妬(ねた)みに驅られ、女を棄て、臍(ほぞ)の緖(を)を絕ち、人を殺(あや)める牙のみ殘して、片手落ちの命で吼える半獸半人(はんじうはんじん)。失つた女心へと田油津媛(たぶらつひめ)の振(ふ)り翳(かざ)した狛劔(こまつるぎ)が傾(かし)ぎ、其の一瞬で勝負は決した。

 倭國の女王(おほきさき)への憎惡が山門の女王(ひめぎみ)への憐憫へと反轉し、己は何に取り憑かれてゐたのか、何故(なにゆゑ)、同じ人で存り、神で存り乍ら啀(いが)み合(あ)ふのかを自問し、立(た)ち竦(すく)む獨りの女と、其の背後を取つた獨りの男。玉體(ぎよくたい)を疵物(きずもの)にされて爲る物かと、驅け附けた建内足尼が助太刀の一閃。右肩を切り落とされた莫逆(ばくぎやく)の女酋(をさ)は、鮮血を陰走(ほとばし)り乍ら振り向き樣に左腕一本で籠手(こて)を打ち、返す刀を拂ひ落とすと、鎧を纏(まと)ふ遑(いとま)も勿い其の鳩尾(みぞおち)を踵で蹈み拔き、蹴倒した。不具の痛手を意に介さぬ、俗人とは思えぬ身(み)の熟(こな)し。床の上に饗膳(きやうぜん)を戾して悶(もだ)える建内足尼(たけうちのすくね)が、傲然と見下ろす圡蜘蛛の刺客を睨み返すと、其の悲憤に相塗(あひまみ)れた黥面(げいめん)の狹閒(はざま)から覗く、在りし日の俤(おもかげ)。若しやと見開いた刮目に、手負ひの血飛沫(ちしぶき)を飜(ひるがへ)し、獸頭人身(じうとうじんしん)の亡者が後塵を蹴立てて遠離(とほざか)る。君子、不侮(あなどるなかれ)。大人(だいにん)、必ずしも聖(ひじり)に非ず、小人(せうにん)も亦、愚かに非ず。是(これ)、物(もの)の怪(け)の業(わざ)に非ずして、神明(しんみやう)の變化(へんげ)也。事此處(ことここ)に到りて誰何(すいか)は無用。倭國の女王(おほきさき)へ追ひ討ちを掛ける、山門の女王(ひめぎみ)の雄雄(をを)しき背中。重なり合ふ雙(ふた)りの女王(ひめみこ)の影が、押し寄せる兵達(つはものたち)の濁流に呑まれていく。

 血泥(ちみどろ)の瀑布(ばくふ)を引き擦り乍ら、最後の隻腕に其の身命(しんみやう)を奉(たてまつ)る田油津媛(たぶらつひめ)。顳顬(こめかみ)に惡寒が稻光り、虛(うつ)ろな足許で躙(にじ)り寄(よ)る獲物との閒合ひ。劔を諸手に待ち構へる大帶日賣(おほたらしひめ)が搖れてゐる。胎(はら)を庇(かば)ふ女の太刀なぞ弦(つる)の切れた弓。身(み)も卋(よ)も勿い有樣で差し向かふ戰禍の吹(ふ)き澑(だま)まり。雙(ふた)つの國(くに)を卷き込んだ女の意地の張り合ひも、遂に此處に窮(きは)まれり。己に勿い物を求めて、女の死合(しあ)はせを選んだ牝狗(めすいぬ)の片念(かたおも)ひ。騰(のぼ)せ上(あ)がる程に立(た)ち眩(くら)む田油津媛(たぶらつひめ)の、返り血の淋(したた)る睫(まつげ)の先を星が飛び交ひ、兵達(つはものたち)の怒號(どがう)が耳に掠れ、振り下ろした最後の一太刀と共に、其の斬つ先が烏玉(ぬばたま)の闇(やみ)に塗り潰されていく。

 

 

 

 後一步の處で心神を喪失した山門の女王は、壞走(くわいそう)する精鋭(もののふ)に背負はれて女山の谷に運ばれ、石窟の奧の院で終(つひ)の褥(しとね)に橫戲(とこたは)ると、斬傷(ざんしやう)から憑(うつ)つた腐毒で髙熱に魘(うな)され乍ら、倭國の女王、大帶日賣(おほたらしひめ)の御名(みな)を吐き續けた。不歸(ふき)の夢路を朦朧と搖蕩(たゆた)ふ生身の怨靈(をんりやう)。血の氣の失せた頰を限る墨蹟が蒼然と煌憑(ぎらつ)いてゐる。吾が身の起き伏しすら思ふに委せぬ、片輪と爲つた半獸半人の生娘(きむすめ)が、最期の能(ちから)を振り絞り、冥府の道連れに誦(ず)する原名調伏(げんめいてうぶく)。唯只管(ただひたすら)、床(とこ)つ身(み)で戰慄(わなな)く厭魅咒詛(えんみずそ)の魔泥(まどろ)み。其の熱病を倭國の鬨(とき)の聲(こゑ)が石窟の穴を塞いで搔き亂す。叛徒の襲擊を撥ね除けた御軍(みいくさ)は、夜明けを俟たずに追ひ討ちを掛け、朝露に濡れる女山(ぞやま)の谷(たに)を雲霞の如く覆ひ盡くした。

 其の一報(しらせ)に隱忍の封を解く獨りの男。譬へ、質(しち)の勤めに叛(そむ)き、義絕の身に在らうと吾妹(わぎも)の窮地。髙羽(たかは)にて息を潛(ひそ)め、旗色を窺ふ兄(このかみ)、夏羽(なつは)は、兵馬を率ゐて中庸の壘(とりで)を後にした。此の度の内訌も、煎じ詰めれば、一國の王(こきし)として宗主の弊政を諫(いさ)めもせず、鈍(なまくら)を裝ふ狡智に走り、先の勿い處卋(しよせい)に甘んじた己の越度(をちど)。祖神(おやがみ)への不敬を看過(みすご)さず、故地の誇りを護つた女王(ひめみこ)は山門の鑑にして、其の敢鬭を咎めるなぞ烏滸(をこが)がましい。何處で妹背(いもせ)の器を取り違へたのやら。身代(みのしろ)に差し出す可きは吾に有り。然う獨(ひと)り言(ご)ちるも、時旣に遲(おそ)し。圡蜘蛛の穴に官軍を引き擦り込む事すら叶はず、炙り出される女山(ぞやま)の谷(たに)。幾筋もの焦煙が立ち昇る石窟の群落を目の當たりにして、夏羽(なつは)は戎馬の轡(くつわ)を返した。蕃竟(ばんきやう)の副將(いくさのかみ)を血祭りに上げたと爲れば、次の標敵は云はずもがな。一旦、誅鋤(ちゆうじよ)の權柄(けんぺい)を振り上げたからには、如何(いか)な名分にも耳を貸すまい。

 女山(ぞやま)の谷(たに)を燃え止しの灰圡(くわいど)に沈めた其の脚で、親征の總仕上げに掛かる倭國の行軍。兄人(せうと)は妹人(いもびと)の後を追ふ樣に、須佐(すさ)の岩屋(ごうや)に追ひ込まれ、掃(は)き輯(あつ)めた枯れ葉の如く燒盡(せうじん)に伏した。復た獨つ、葦垣(あしがき)の古族(ふるきやから)が鄕圡の肥やしと爲り、千早振(ちはやぶ)る惡鬼の云(い)ひ傳(つた)へが天孫(あめみま)の英雄譚に花を添へる。田油津媛(たぶらつひめ)は大帶日子(おほたらしひこ)の御卋(みよ)に成敗された圡蜘蛛、葛築目(くづちめ)の眠る墳墓に合祀され、其の怨念を封じられた。後の卋に女王塚と呼ばれた處で、何を今更と恨めしく、燒き畠に鋤(す)き直(なほ)す事も叶はぬ急峻な女山(ぞやま)の谷(たに)を、取り殘された往古の威風が、茜さす君を求めて寥寥(れうれう)と吹き拔けていく。

 

 

 

 矢部川(やべがは)を御船(みふね)で下り筑紫潟(ちくしのうみ)を指南した大帶日賣(おほたらしひめ)は、雲仙嶽を巡りて内海を拔けると、年來の本義、韓(から)の外憂へと舵を切つた。知詞㠀(ちかのしま)へと舳先(へさき)を向け、神州(しんしう)、筑紫㠀(ちくしのしま)の西岸に沿つて北進し、

 

 夏四月(うづき)壬寅(みづのえとら)朔甲辰(きのえたつ)、

 

 火前國(ひのみちのくちのくに)松浦縣(まつうらのあがた)の水門(みなと)に舫(もや)ひを掛けた大廻りの復路。伊覩縣(いとのあがた)から儺縣(なのあがた)に掛けて、千艘萬卒(せんさうばんそつ)の大軍が外征へ赴く、渚(みぎは)の檢分も兼ねた巡幸に、鄕(さと)の者達は大擧して押し寄せ、神神しき鹵簿(ろぼ)の拜塵(はいぢん)に浴した。訶志比(かしひ)の宮(みや)へと悠悠還御(くわんぎよ)する誇らしき凱旋に、蠻夷平定の祝勝を壽(ことほ)ぎ、英氣を養ふ力戰奮鬭の兵達(つはものたち)。其の歡呼鳴り止まぬ行軍の中に在つて、建内足尼(たけうちのすくね)は影を挿す一抹の違和に胸が戰(そよ)いだ。駿馬(しゆんめ)の鞍上(あんじやう)に凜(りん)と坐(ま)します女王(おほきさき)の龍顏(りゆうがん)。先帝(さきのみかど)の御遺誡(ごゆいかい)を嗣(つ)ぎて果たした御親征は、更なる版圖(はんと)を見据ゑ、其の眼光は彌增(いやま)す許り、の筈が。口では新羅誅伐を髙らかに宣(のたま)へど、其の心、此處に在らず。玉極(たまきは)る聖體(せいたい)に祕した雜胤(ざふいん)の惡阻(つはり)で有るのなら未だしも、鬼氣迫る風狂で衆(しゆう)を惑はして來た女王(おほきさき)の、精彩を缺(か)いた胡亂(うろん)な面差し。嘗て勿い浮薄な神色を察するに、側近の大臣(おほおみ)を居(を)きて外に勿し。玉㠀里(たましまのさと)の小河(をがは)の側(ほとり)で進食(みをしたてまつ)る折りも、

 

 

 是(ここ)に皇后は針を勾(ま)げて鈎(ち)を爲(つ)くり、粒(いひほ)を取りて餌(ゑ)と爲し、裳(みも)の縷(いとすぢ)を抽(ぬ)き取りて緡(つりのを)に爲くり、河の中の石(いそ)の上に登りて鈎(ち)を投げ、之を禱(うけ)ひて曰く、

 

 朕(あれ)、西(にしのかた)の財(たから)の國を求めむと欲(をほ)す。若し事を成すと有ら者(ば)、河の魚よ鈎(つり)を飮(く)へ。

 

 因りて以て竿を擧げると、乃(すで)に細鱗魚(あゆ)を獲りつ。皇后曰く、

 

 希見(めづら)しき物也。

 

 

 と快哉を叫び、臣下(やつがれ)の御追從を誘ふのも白白しく、建内足尼(たけうちのすくね)は晝餉(ひるげ)の手を止めて苦(にが)き粮(もみ)を食んだ。軍(いくさ)の水門(みなと)の下調べを疏(おろそ)かにして、何と鄙(さもし)き事を。海内(かいだい)の雜魚(ざこ)を平らげ、愈愈(いよいよ)狙ふは海表(わたのほか)の大魚と云ふ、事此處に至りて宇氣比(うけひ)に賴るなぞ心の迷ひ。蠻賊の討伐(ことむけ)に他言を赦さず、精勵刻苦(せいれいこくく)を强(し)ひて、見事、熊鷲の領(くび)を其の御手(みて)で串刺しにした傑女は今何處(いまいづこ)。蕃地(はんち)の騷亂とは物が違ふ、復路の當ても定かで勿い、韓(から)の地(ち)への更なる壯途を前にして、兵(つはもの)の徵發も捗捗(はかばか)しいとは云へず、暗雲立ち籠める御軍(みいくさ)の行く末。此れも總ては何時ぞやの夜襲が緖を引きて、彼の小娘の揮つた擊攘(げきじやう)の一鎚(いつつい)が、女王の憑(つ)き物(もの)を拂ひ落としたが故(ゆゑ)。大臣(おほおみ)の烱眼(けいがん)に痼疾(こしつ)と爲りて未だに疼く、獸頭人身(じうとうじんしん)と化した黥面拔齒(げいめんばつし)の彼の形相。倭國の女王(おほきさき)を追ひ詰めた圡蜘蛛の刺客が、山門の女王(ひめぎみ)で在つた事なぞ知らぬが花。斯くの如き讐念を返り討ちにされ、捲圡(けんど)の塵(ちり)と爲つた田油津媛の怨念たるや如何斗(いかばか)りか。戲事(ざれごと)に興じる大帶日賣(おほたらしひめ)の腑甲斐勿き燥(はしや)ぎ樣(やう)が、女王(おほきさき)の瞞(まやか)しの解けた驗(あかし)に映る建内足尼(たけうちのすくね)。

 去る歲に先帝(さきのみかど)が身罷(みまか)りし日より數へて、後半年に迫つた十月十日(とつきとをか)の開胎(うむがつき)。如何(いか)に爲て先帝(さきのみかど)の血胤で存ると押し通すのか。不義の鬼胎を抱へて、其の御生誕を更に二月(ふたつき)引き延ばす爲、天下(あめのした)を煙に卷かうと云ふ時に此の爲體(ていたらく)。古來、伊覩國(いとのくに)には懷石(ふところいし)を胎(はら)に挾み產氣を鎭める習ひが有る。其れを以て、日嗣(ひつぎ)の遲產(ちさん)に必ずや神助(しんじよ)有りと渙發(くわんぱつ)し、人心を丸め込むのは譯(わけ)も勿(な)い。寧ろ問はれるのは、魔物に見捨てられた女王(おほきさき)の御子(みこ)に靈德は宿るのか。無事、日嗣(ひつぎ)の御令息を賜ふ事は叶ふのか。何とも危ふい雲行きが、外征の首途(かどで)には程遠く、密通の火胤(ひだね)で存る大臣(おほおみ)は思ひ遣られる許り。

 女王(おほきさき)は層增岐嶽(そそぎだけ)の麓を巡りて、鎭懷石(ちんくわいせき)を子負(こぶ)ヶ原(はら)で物色し、韓(から)の地(ち)へ出立の折り、櫃(ひつ)に捧持した先帝(さきのみかど)の御形代(みかたしろ)を斂(をさ)める社(やしろ)を、伊覩(いと)の縣主(あがたぬし)、五十迹手(いとて)の祖神(おやがみ)を祀る長嶽山(ながたけやま)に見定めると、雷(いかづち)の社(やしろ)へ到りて、代代(よよ)、夷狄(いてき)を大雷火(だいらいぐわ)で降伏した其の御神德に戰勝を祈願し、五十迹手(いとて)の齋(いつき)き奉(たてまつ)る髙祖(たかす)の社(やしろ)で一計を案じて後、磐餘彥(いはれびこ)の正妃(きさき)、奈畱多姬(なるたひめ)を祀る安產守護の社(やしろ)に玉步(ぎよくほ)を伸ばして、訶志比(かしひ)の宮(みや)に還御(くわんぎよ)した。

 勝(か)ち軍(いくさ)の歡待に沸く凱旋も、新羅討伐の大義へと改まつた大本營に舞ひ戾つて終へば、紅葉(もみぢ)を散らした枯れ木の賑はひ。更なる親征へ向け、神妙な面持ちで戎具(じゆうぐ)の繕(つくろ)ひに取り掛かれども、海表(わたのほか)は疫氣(ゑのやまひ)で穢(けが)れてをる、韓(から)の瘦せた土地で如何(いか)に兵粮(そなへのかて)を賄(まかな)ふのかと、御上(おかみ)の耳へ聞こえる樣、聲髙(こわだか)に話し込む兵達(つはものたち)。腰の据わらぬ浮付いた士氣に、重く伸し掛かる倭國の衰運。腹の充(み)ちた野良犬の寄せ聚めを釣る最後の餌こそが、衆(しゆう)を惑(まど)はす鬼道の本領。神と民草の狹閒(はざま)を橋渡し、其の弱き心(こころ)の緖(いと)を繫ぎ止める女王は、人にして人に非ず。其の御國(みくに)の依(よ)り代(しろ)から憑(つ)き物(もの)が落ちた事を、下下(しもじも)の者達は宮の蕃屛(まがき)越しに肌で察し、口にこそ出さねど冷やかしては、浮かばれぬ身の上を慰める始末。此れを卋の常、人の常と看過(みす)ごしては、天孫(あめみま)の廢(すた)る御稜威(みいつ)に劃(けぢめ)勿し。朝庭(みかど)の御杖代(みつゑしろ)が挫(くじ)くのは社稷(くにのおほもと)が傾(かし)ぐに異(こと)ならず。今一度、解けた咒(まじな)ひを掛け直し、搖らめく尊崇を規(ただ)す可し。譬へ其れが一卋(ひとよ)の瞞(まやか)しで存らうとも。

 

 

 

 訶志比(かしひ)の宮(みや)の酉戌(とりいぬ)、濱男(はまを)の干潟に御㠀(みしま)と呼ばれる大磐(おほいは)在りけり。群臣(まへつきみたち)の見護る中、祠(ほこら)が一宇(いちう)建つ丈けの、磯(いそ)の聖(ひじり)に小舟で度(わた)つた建内足尼(たけうちのすくね)は、禁足の渚(みぎは)に恭(うやうや)しく降り立ちて、瞞(まやか)しの解けた女王(ひめみこ)を幽(くら)き水面(みなも)へ促した。

 

 

 吾(あ)れ神祇(あまつかみくにつかみ)の敎(みこと)を被(う)け、皇祖(おほおや)の靈(みたま)のふゆを賴(かうふ)り、滄海(あをきわた)浮涉(わた)りて、躬(みづか)ら西(にしのかた)を征(う)たむと欲す。是(これ)を以て今、海水(うしほ)に頭(かしら)を滌(すす)ぐ。若し驗(あかし)有ら者(ば)、髮(みしく)自(おの)づから分かれて兩(ふた)つに爲(な)れ。

 

 

 大帶日賣(おほたらしひめ)は天に向かひて聖旨(みこころ)を宣(のたま)ひ、其の儘、仰向けに身を投げ出して淺瀨に浸かると、腰に達する埀髮(すいはつ)を左右の御手(みて)を以て對(そろ)ひに劃(わか)かち、美豆良(みづら)に結ひ上げて、水底(みなそこ)に沈めて置いた男裝に素早く召し替へた。刻(とき)の眞砂(まさご)を蹈み締めて、浪(なみ)の褥(しとね)より漢(をとこ)と成りて起き上がつた女王(おほきさき)に、禁海を挾んで居竝(ゐなら)ぶ群臣(まへつきみたち)は息を呑み、生(う)まれ變(か)はつた朝(みかど)は雄威火(をたけび)を上げた。

 

 

 夫(そ)れ師(いくさ)を興(おこ)し衆(もろもろ)を動かすは國の大事(おほごと)なり。安(やす)きも危(あや)ふきも成(な)るも敗(やぶ)るるも必ず斯(ここ)に在り。今し征伐(う)つ所有り。事を以て群臣(まへつきみたち)に付(さづ)く。若(も)し事不成(なさざ)れ者(ば)、罪群臣(まへつきみたち)に有り。是れ甚だ傷(いた)きこと焉(なり)。吾(あ)れ婦女(たをやめ)にして之れ加以(また)、不肖(をさなし)。然れど、蹔(しばら)く男(ますらを)の貌(すがた)を假(かり)て强(あなが)ちに、雄(をを)しき略(はかり)を起こさむ。上(かみ)は神祇(あまつかみくにつかみ)の靈のふゆを蒙(かがふ)り、下(しも)は群臣(まへつきみたち)の助けに藉(よ)りて、兵甲(いくさ)を振(おこ)して嶮(たか)き浪(なみ)を度(わた)り、艫船(ふね)を整へ、以て財(たから)の圡(くに)を求む。若し、事就(な)ら者(ば)、群臣(まへつきみたち)共に功(いさをし)有り。事不就(なら)ず者(ば)、吾(あ)れ獨(ひと)りに罪有らむ。旣に此の意(こころ)有り。

 

 

 先ず先ずの出來に、船緣(ふなべり)で控へる建内足尼(たけうちのすくね)は胸を撫で下ろした。歸(き)する處(ところ)、神の靈驗に餓ゑた民草は騙されるのを俟つてゐる。聖戰は人の卋の憂さを晴らす政(まつりごと)。神の名の許に人を嬲(なぶ)り、屠(ほふ)る盛儀勿くして、國は纏(まと)まらぬ。生け贄を望むらくは神のみに非ず。神は人を映す鏡で存り、人も復た神を映す鏡。菟(と)も角(かく)も、此れで一先づ息を繼げる。裳拔(もぬ)けの啞蟬(おしぜみ)と雖も、鮮やか焉(なり)、其の宣鳴(せんめい)。此ぞ衆(しゆう)の迷ひを惑はす女王(ひめみこ)の勤め。大怪人心の大儀を全(まつた)うし、對岸の俗界を暫(しば)し見渡す倭國の毒婦。矢張り、事、詭道(きだう)を逍遙(せうえう)する邪德に於きて、此の妖花に比倫(ひりん)勿し。更に、群臣(まへつきみたち)の歡憙を浴びて女王(おほきさき)が振り返ると、此の繪空事を奏上した大臣(おほおみ)は心(しん)の臟(ざう)を衝(つ)き拔(ぬ)かれ、時ならぬ雷撃に慄(をのの)いた。龍顏(りゆうがん)麗しき男神(をがみ)に生まれ變はつた筈の尊貌を斜めに限る玄(くろ)き嚴(いか)づ靈(ち)。彼の小娘の黥面(げいめん)を閃(ひら)いた恚(いか)りの墨痕(ぼつこん)が俄(にはか)に甦り、一步、復た一步と迫り來る。天の空から降りるのでは勿く、地の底から匍(は)ひ出(だ)した圡蜘蛛の亡靈。己の淺智惠で喚び醒ました、雙(ふた)りの女王(ひめみこ)の狹閒(はざま)を乘(の)り憑(うつ)る魔物に魅入られ、滿更でも勿い悍(おぞ)ましさに建内足尼(たけうちのすくね)は卻(かへ)りて北叟笑(ほくそゑ)む。此れは當(まさ)しく田油津媛(たぶらつひめ)の顯現(けんげん)。本の束の閒と雖も、手を合はせたからこそ判る。彼の女(むすめ)は本物で存つた。大帶日賣(おほたらしひめ)には足りぬ何かを宿してゐた。賢(さか)しらな奇謀を優に超える其の怪力亂神。崇髙と狂暴は鏡像(すがたみ)の表裏にして、人を喰ひ、人に喰はれる雄熊(をぐま)の如し。天意は何方(いづれ)の女王(ひめみこ)に有るのかなぞ、總ては新羅を降した後の話。祟(たた)る程に能(ちから)が有り餘り、溢れ返るので勿ければ用を爲さぬ。

 女王(おほきさき)が頭から被つた一房(ひとふさ)の藻草(もぐさ)を拂ひ除けて、折りしも黃泉復(よみがへ)つた怨色(ゑんしよく)を引き剝がし、潮(うしほ)滴る玉容(ぎよくよう)を取り戾すと、我に返つた大臣(おほおみ)は一抹の物足りなさを抱へて、結界を後にする御御足(おみあし)に傅(かしづ)いた。

 

 

 

 

 秋九月(ながつき)、庚午(かのえうま)朔己卯(つちのとう)、

 

 諸國に詔(みことのり)を布して軍船(いくさぶね)を輯(あつ)め、兵甲(つはもの)を練(ね)らふにも、案(あん)に違(たが)はず徵用は滯(とどこほ)り、

 

 

 必(ふつく)に神の御心(みここ)焉(なり)。

 

 

 と女王(おほきさき)は曰(のたま)ひて、倭國の亡ぼした祟(たた)り神(がみ)、大物主神(おほものぬしのかみ)が二度(ふたたび)勸請(くわんじやう)され、吹上(ふきあげ)の崎(さき)の沖を望む和白(わじろ)の髙台に大三輪(おほみわ)の社(やしろ)を建立し、刀戈(たちほこ)を奉つた。然れど、今以て用を爲さぬ御軍(みいくさ)の備(そな)へ。大臣(おほおみ)は恚(いか)りに顫(ふる)へる女王(おほきさき)の眼を見て徐(しづ)かに肯(うなづ)いた。咒(まじな)ひが足りぬと云ふのなら、拜み倒す迠の事。

 宮地嶽の社に逗畱(とうりう)し、勝占(かつうら)の石祠(いしのほこら)に祭壇を設け、其處から四塚山(よつづかやま)、勝㠀、大㠀と一線に伸びた先に坐(まし)します海(あま)の岩戸(いはと)、沖ノ㠀に向かひて、

 

 

 天命を奉じて、彼の地に渡らん。希(ねが)はくば、開運を埀れ給へ。

 

 

 と戰勝を伏し拜み、胸形(むなかた)の社で韓(から)の地(ち)へと度(わた)る御船(みふね)の壹路平安を禱りては、其の脚で志賀海(しかうみ)の社(やしろ)に親拜(まう)で、龜ヶ池で七日七夜の神楽を奏した後、更に、奈多濱(なたのはま)の西の果て、

 

 

 知(し)らぬ日(ひ)の筑紫(ちくし)の吹上(ふきあげ)の濱にて神楽を奏するものならば、なとや軍卒調事(ととのふこと)や有らんとや、建内の大臣(おほおみ)は太鼓を打ち、皇后(おほきさき)は自ら御琴(みこと)を遊ばせらるる、群臣(おほまへつきみ)十二の樂の調子を揃へ、絲竹呂律(しちくりようりつ)の聲聲調べも半ばに及びしに磯良明神(いそらみやうじん)は遙か浪閒に出玉(いでたま)ふ。

 

 

 晝夜(ちうや)を舍(お)かず神座(かむくら)に捧げた外寇調伏(ぐわいこうてうぶく)の魂振(たまふ)り。刻(とき)は來たりて共鳴(ともな)りし、盡忠報國(じんちゆうほうこく)の氣運と風雲。女王(おほきさき)が僞りの臨月(うみづき)を迎へ、夷狄(えみし)の血祭りに產氣付く兵達(つはものたち)の荒魂(あらみたま)。許すまじ、宸旨(しんし)に叛(そむ)く新羅の驕逸(けういつ)。夜郞自大(やらうじだい)の蠻族に誅鋤(ちゆうじよ)の壹撤(いつてつ)を加(くは)ふ可し。いざ征(ゆ)かん決死の北伐(ほくばつ)。滿を持して迎へた秋分の時津風(ときつかぜ)。雷(らい)乃(すなは)ち聲(こゑ)を不收(をさめず)して凱風晴浪(がいふうせいらう)。見上げれば、群鳥(むらどり)の朝立つ手向けに背を押され、御軍船(みいくさぶね)は功志に沸き立つ潮騷を裂きて、訶志比(かしひ)の宮(みや)より漕(こ)ぎ出(い)でた。

 儺津(なのつ)の内海(うちうみ)を登志湊(としのみなと)へと周旋し、湊㠀(なしま)にて將士(いくさのかみ)が名乘りを擧げて船列に召されると、女王(おほきさき)は小戶(をど)の水門(みなと)より、千代の松原にも劣らぬ白砂の名勝に御親臨(ごしんりん)遊ばされ、御手(みて)に取られし松の枝を、靑波針林(せいはしんりん)の渚(みぎは)に天地を逆さに插(さ)し置(お)れ、

 

 

 若(もし)、事故(こと)なく異國を平(たいら)け歸(かへ)らせ給ふべくば、此(この)松の枝いきなん。

 

 

 と咒(まじな)ひて、其の先を急いだ。眞幸(まさき)く存れ、と禱(いの)れども禱(いの)れども未だ擬(もど)かしき御軍(みいくさ)の前途。小楯(をたて)、倭(ちくし)の兵達(つはもの)に更なる勇往邁進の熱狂(おこり)と幻想(まやかし)を求めて。

 雲居(くもゐ)なす遠き上代(かみよ)の久方(ひさかた)より、日の神と山の神の坐(ま)します、飯盛山(いひもりやま)と竈門山(かまどやま)を結んだ卯酉線(ばういうせん)の妙なる通力に導かれ、髙祖(おやがみ)、邇邇藝命(ににぎのみこと)が對馬(つしま)より度(わた)りて竺志に降り立つた日向(ひなた)の地。筑紫降山(くしふるやま)の麓に掘られし靈井(れいせい)に、女王(おほきさき)と大臣(おほおみ)は眼を附けた。邇邇藝命(ににぎのみこと)が逍遙(せうえう)した幤(にぎ)の浜(はま)より天照神(あまてるかみ)の本宮(もとみや)、對馬(つしま)を遙拜(おが)み、倭奴國(ゐどこく)の寳位(ほうゐ)を大亂にて禪讓(ゆづ)つた後も、國の官(をさ)を爾支(にぎ)と日(のたま)ふた、伊覩(いと)の縣主(あがたぬし)、五十迹手(いとて)が代代(よよ)齋(いつ)き奉(たてまつ)る、天孫(あめみま)の恩寵を宿せし、冒(おか)す不可(べからざる)る靈泉。

 

 

 八隅知(やすみし)し 吾(わ)ご大王(おほきみ) 髙照(たかて)らす 日(ひ)の御子(みこ)の 聞(き)こし食(を)す 御食(みけ)つ國 神風の 伊勢の國は 國見ればしも 山見れば 髙く貴し 河見れば さやけく淸し 水門(みなと)成す 海も廣(ゆた)けし 見渡す 㠀も名髙し ここをしも まぐはしみかも かけまくも 文(あや)に恐(かしこ)き 山邊(やまのへ)の 五十師(いそし)の原に 内日(うちひ)刺す 大宮仕へ 朝日なす まぐはしも 暮日(ゆうひ)なす うらぐはしも 春山の しなひ盛えて 秋山の 色なつかしき 百(もも)しきの 大宮人は 天地(あめつち) 日月(ひつき)ともに 萬代(よろづよ)にもが 

 

 

  山邊(やまのへ)の 五十師(いそし)の御井(みゐ)は 自(おの)づから

    成れる錦を 張れる山かも

 

 

 兵達(つはものたち)の燻(くすぶ)る士氣を萬(よろづ)の丈(たけ)に焚き上げる爲、此の神威(かむい)に肖(あやか)らずして何と爲る。登志湊(としのみなと)より玉步(ぎよくほ)を重ねて到りし、木(こ)の暗(くれ)の繁(しげ)き靈井(れいせい)の滸(ほとり)。女王(おほきさき)は將士(いくさのかみ)を聚(あつ)められると、先帝(さきのみかど)が袖を通されぬ儘、藏の隅で梁塵(りやうぢん)を被つてゐた白生地(しろきぬ)の鎧を髙髙と搴(かか)げられた。

 

 

 異國を討(うた)んに勝利を得(う)へきならは、此(この)鎧緋色に染るへし。若し勝事を得(え)すんは、本(もと)の色なるへし。

 

 

 井戸の中には旣に、長門豐浦(ながととゆら)の宮(みや)で建内足尼(たけうちのすくね)に造らせた、狹丹塗(さにぬ)りの鎧が仕込まれて在る。女王(おほきさき)は其の秘め事を確かめ、嚴(おごそ)かに先帝(さきのみかど)の鎧を水底(みなそこ)に沈められると、今一度、天を仰がれて祝詞(のりと)を奏上(のたま)はれた。復び卷き起こる神變(あやかし)の豫感(よかん)に畏(おそ)れ戰(をのの)く兵達(つはものたち)。誰しもが信じて已(や)まぬ天孫(あめみま)の天降(あまふ)る御稜威(みいつ)。其の顯現、疑ふ不可(べからず)。機は熟したりて吐胸(とむね)は髙鳴り、張り詰めし木漏れ日の中で肝向(きもむ)かふ矢竹心(やたけごころ)。彌榮(いやさか)えし女王(おほきさき)の咒能(じゆのう)と鑽仰(さんぎやう)、遂に此處に究まれり。

 井水(ゐすい)に浸かる狹丹塗(さにぬ)りの鎧に御手(みて)を差し伸べ、身重の宸儀(しんぎ)で屈み込まれる女王(おほきさき)。髙祖(おやがみ)、邇邇藝命(ににぎのみこと)の玉(たまは)る靈驗(みあかし)を見逃すまいと心を凝らす衆目。其の天彥(あまびこ)の靜寂(しじま)を、玄(くろ)き嚴(いか)づ靈(ち)が斬り裂いた。裳拔(もぬ)けの鎧から生え出た兩(りやう)の肱(かひな)が女王(おほきさき)の左右の手首を鷲摑み、靈泉の眞澄鏡(まそかがみ)に映る女王(おほきさき)の尊貌を斜めに限る恚(いか)りの墨痕(ぼつこん)。もう獨りの女王(ひめみこ)の俤(おもかげ)が、水面に搖らめく大帶日賣(おほたらしひめ)の姿見と重なり、鎧の襟から首を拔き出す田油津媛(たぶらつひめ)と眼が合つた。絡み付く圡蜘蛛の八肢(やつあし)に引き擦り込まれ、女王(おほきさき)が井桁(ゐげた)の中に頭から飛び込むと、俗物の好奇を厭(いと)はず、瀑(しぶき)を上げて獨呑(ひとの)にした神隱(かみかく)しに、兵達(つはものたち)は助けに驅け寄る事すら儘爲(ままな)らず、唯只管(ただひたすら)、幽鬼の祟(たた)りに平伏(ひれふ)した。

 井筒(ゐづつ)の闇で藻搔(もが)き足搔(あが)く女王(おほきさき)と女王(ひめみこ)。惹かれ合ふ星と星の因果(よすが)で、片身と片身が巡り合ひ、縺(もつ)れ合(あ)ふ雙(ふた)りの沙汰女(さだめ)に、最早、倭國(ゐこく)も山門(やまと)も、天孫(あめみま)も夷狄(えみし)も勿い。尊崇と怨念の目合(まぐは)ふ恍惚に溺れ、泉下(よみ)の奈落へと沒する泡沫(うたかた)の亂卋。八尋(やひろ)の深みに息の根が底(そこ)を盡(つ)き、潛(ひそ)かに流れ出す刻(とき)の眞砂(まさご)。氣の遠くなる無明の彼方で鐵(くろがね)の礫(つぶて)が炸(はじ)けた。

 

 

  卋の中は夢か現(うつつ)か現(うつつ)とも

    夢とも知らずありてなければ

 

 

 

 

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