來て見べき人もあらなくに吾家なる
唐桃の花散りぬともよし
女王の臥した病の褥に覆ひ被さる天蓋の杏梢、咲き誇る時を忘れ、不治の魔泥みに在つて、千夜を共にした老木の他は、見舞ふ者も勿ければ、介添へをする者も勿い、ベテルギウスも蒼褪める、難攻不落の赫い黑船、クイーン・エメラルダス號。此の儘、誰も愛さず、愛せず、愛されずに朽ち果てていく、醫やしの缺片も勿い秘密の花園で、女王は堅い蕾の儘、冷たい孤閨を護り、二度と快方に向かふ望みの勿い靜養に努めてゐた。サイドキャビネットに立て掛けられてゐる、龜裂が走つた儘の御鏡で屈折する、猛禽の嘴の如く尖つた鼻梁を限る縫合痕。冥王星の奧津城から戾つて、砲擊制禦端末に頽れ、意識を失つた後、何う遣つて船長室に辿り著いたのか。其の答へは、舳先に磔にされた船首像の女神が頰を湔ふ、赤錆の淚が知つてゐる。肺腑の血痰が鳴りを潛め、沈思に耽る海賊旗。火星へと帆走する不歸の討征は、と或る宙域に差し掛かつてゐた。小惑星帶を貫く殘畱死念の廢坑。其の行き止まりで、在りし日の來訪者が、復た獨り。艦内の動力が不意に短絡し、燈の落ちた通路を徘徊する重厚な跫音が、船長室の扉を影繪の樣に擦り抜けた。
身を橫たへて死を賦す。固に一卋の雄也。
閨の夜伽にしては物騷な、肚の据わつた寂聲に、エメラルダスは鎖ぢた眦が痙攣し、氣が付くと、金縛りで身動きが取れぬ、鉛の體に捩伏せられてゐた。
「良くも、こんな手緩い警備で生き殘れた物だな。貧乏神と見分けが附かぬ此の老い耄れより先に、坐して死を待つ事すら出來ぬ虫の息とは。
牝鷄司晨 牝鷄の晨するは
惟家之索 惟 家の索くるなり
身の程を知つたか。新しいエルサレムは如何した。」
孤狼の銀髮と霜髯に、隆起した斷崖の如き鉤鼻、鬼相を限る縫合痕に、玄き岩漿の隻眼、叛逆の十字架を背負つた頑强な怒り肩には、襷掛けの彈帯に病葉の外套。鎖ぢた眼裡にも鮮明に浮かぶ、天河を股に掛けた其の威容。ハーロックも一目置く硬骨漢だつた。野心に溢れ、機知に富み、其の胸板に劣らぬ篤い信望は、右に出る者が勿い。其れが何時しか、スペースノイド解放戰線から袂を劃かち、義賊と呼ばれる事をも嫌つて、零細な盜賊稼業に餘生を委ね、アンタレスの名は星に爲つた。今思へば此の漢が正しかつたと認めるしか勿い。移民船に詰め込まれた難民を救濟し、究極の自由を倶に獲得する。そんな畵餠を鵜呑みにし、喉に詰まらせ肺を病んだのは何處の御轉婆か。機族から遁れ宙域に羽擊いたのは、民族の尊嚴では勿く、有られも勿い人閒の慾動だつた。移民も難民も所詮は、機族を映す鏡。愛娘を奴隷商人に易易と賣り拂つた兩親然り、敎化されてゐ勿い人類は猿山の猿でしか勿い。宙域に無法を求めたのは機族丈けでは勿かつた。タタールの軛を解かれたコサックがシベリアを侵略し、中卋温暖期後の寒冷化で德川幕府誕生以降にシベリアから南下したアイヌが、後期縄文人を殲滅して北海道を占領し、先住民族を僭稱した樣に、地球から脫獄した奴隸達は殘虐の限りを盡くした。人閒に因る人閒狩りを目の當たりにすれば、機族の人閒狩りも所詮、人閒の猿眞似でしか勿い事を知る。在地と出自、ビジネスと信仰、民族主義とリベラリズム。幾つもの屬性を時局に合はせて使ひ分けてゐた、有りと有らゆる離散の民達は、經濟と國家と機族と倫理の呪縛から解き放たれた途端、權利と慾動の暴力裝置に成り下がつた。難民が難民に身を持ち崩すのには理由が有る。民度の缺片も勿い移民とは蝗害で在る。其れ迄、被迫害者の假面で人閒の本性を隱してゐた蠻族の素顏は、入植先との共存を全く求め勿い暴君だつた。己の利益と宗俗と價値觀を武力で押し附け、其の星を開拓した先住共同體の領土を、資源を私財を文化を生命を略奪して措き乍ら、自分達が此の星を開拓したと喧傳し、其の蠻族が更なる蠻族に次次と呑み込まれていく。人道支援、人權保護、多文化共生の詐術を揭て侵略する暴徒の波。差別やヘイト、蔭謀論と云つた、マスコミの隱癡氣な綺麗事には必ず裏が有る樣に、捏ち上げた難民を急先鋒に資源を奪ひ合ひ、開拓地を乘つ取ていく黑幕は帝政投資家だつた。
「宙域渡航發展移住者諸君の壯圖を祝して、萬歲。」
移民船團の出港式に木靈する空空しい美辞麗句の數數。星閒交流、人道支援、多文化共生の名を借りた、大量の移民を送り込む事で現地人を少数派に追ひ込み驅逐する、リプレイスメント攻擊。戰爭とは戰鬪員と戰鬪員の閒にのみ許された戰鬭行爲だが、移民とは民閒人を日常的に抹殺する人閒の兇器だ。利權化した强引な移民政策を推奬する者は皆、詐欺師か筋金入りの香具師と相場が決まつてゐる。難民と云ふ壓倒的物量の人海戰術を、職業左翼同樣、捨て駒として驅使した其の謀略は、先住入植者達が手塩に掛けた開拓地を瞬く閒に窒息させた。地球から宙域に器が膨れ上がつた丈けで、人の卋は皆殺しの蠱壺。人類の復興とは、思ふが儘に人口調整を繰り返してきた帝政投資家に因る、共喰ひの再開を意味した。スペースノイド解放戰線が實は機族と提携し、其の勝敗を値蹈みし乍ら、紛爭の斡旋で暴利を貪る丈けでは飽き足らず、先住開拓民の血と汗と淚で採掘した宙域資源を略奪する、火事場泥棒でしか勿い事に氣付いた時には、女王の周りに殘つてゐるのはスペアノイド丈けだつた。サーベルの錆落としでしか勿かつた同志の腐敗。擔ぎ上げられてゐた玉の輿に、出迎へる殿方なぞ始めから存在し勿かつた。夢を見た自分が馬鹿だつたとしか云ひ樣が勿い。解放運動に明け暮れ、硝煙に覆はれ、見失つた血塗れの赫き靑春。己の無知と若さをプロパガンダに利用された屈辱に、心の針路を壓し折られた。本當の勇氣とは命を投げ出す事では勿く、己の閒違ひを認める事。然う氣付いた時には旣に、己の命より、冒した過ちの方が遙かに重く、短い人生の終點に辿り著いてゐた。
「難民解放の御旗を振り囘して飛び出した子娘が、行かず後家の儘、臥せつてゐるとはな。如何だ、少しは頭を冷やせたか。」
女王の顏を覗き込む老兵の、慈愛と憐憫で潤む隻眼。同じ傷物に爲つて終つた、妍容を限る縫合痕が己の古傷と響き合ひ、胸を抉る。
「今日の殘花、昨日開く、とは云へ、所帶窶れせずに、今以て馨立つ其の稟質。祕すれば花の譬へ在りか。倂し其の花も、深窻を鎖ざし胡桃の殼の樣に凝り固まつて、獨り何を思ふ。誰にも心を許せずに護り通した慘めな純潔。無敗の英雄と雖も、たつた半步で道化師に轉落するのが卋の恆。何れ程、嚴しく其の身を律し、規さうと、貞操と淫亂は紙一重。共產主義の詐術から飛び出す血塗れの緋い鳩を、天庭の紅孔雀とは誰が號けたのやら。過ぎたる赫は闇に勝る。貴樣は赫いカラマーゾフの末裔だ。白い鳩になぞ爲れる物か。」
アンタレスは書齋机の脇に立て掛けられた、スペースノイド解放戰線の團旗に氣が付くと、錦糸の刺繡で、自由と平等、團結と勞働の星を鏤めた深紅の叛骨に毒吐いた。
「革命とは神と鄰人を愛せ勿ぬ者が陷る心の病。神か革命か。唯心的救濟か、唯物的福祉か。雙つの大義の狭閒で、貴樣は何時迄、振り子の樣に搖れ動いてゐる積もりだ。そんな物は所詮、神と惡魔と人閒の三角關係でしか勿い。其れとも何か、神と惡魔の一人二役で、彼の漢の樣にバチカンの金庫番にでも爲る積もりか。猶太を質草に爲した猶太の樣に、己の肉體と魂を擔保にして銀河鐵道株式會社の大株主に卽位した伯爵に、今猶、未練が有るのか。彼の漢の衣鉢を繼いでスペースノイドの御旗を揭た逆賊が、今度は鋼帝の代辯者か。機械仕掛けの鋼族に今から輿入れでもする積もりか。」
最後の一言に金縛りの鎖術を解かれたエメラルダスは、サイドキャビネットの龜裂の入つた御鏡の向かふから光勵起サーベルを拔き取り、皇仭を一閃すると、アンタレスは帶劍の居合ひで苦も勿く捌き、反す劍先で髑髏のヘアブローチを斬り飛ばした。女王の縫合痕に撓埀れる前髮の御簾越しに、勝ち誇つた老兵の一吟。
衣のたては ほころびにけり
如何した、其の生溫い壹の太刀は。肺を遣られて力が入らぬのなら入らぬと、言い譯が有るのなら云つてみろ。其れとも、昔のアイドル革命家は口パクの方も錆び附いたか。」
然う豪快に嗤ひ飛ばした刹那、老兵の襷に掛ける彈帶が胸元から徐かに斬れ落ちた。
年を經し 絲の亂れの 苦しさに
更に漕ぐ一艘の老とは雖も、口が過ぎるぞ、アンタレス。坊主の說敎で齒の痛みが治まるのなら、誰も苦勞はせぬ。大盜賊と呼ばれた怪傑が、暫く見ぬ閒に隨分と御喋りに爲つた物だ。罵る唾も蜜の味か。老殘の侘しさに負けたか。棺桶には默つて入れ。其れが最後の花道だ。」
臟器賣買の業者にバラされる寸前で拾われたアンタレスに、恩は有つても仇は勿い。其れなのに素直に舊交を溫められぬのは、己の疚しさが爲せる業。そんな女王の泣き處を知り盡くした老兵は、火語を飛ばして嗾ける。
「身も心も捨てて電腦化した、機械伯爵と云ふ諡を聞いた途端、元氣に爲るとは正直な女だ。現に今も斯うして、彼の漢の尻拭ひで火星に向かつてゐるでは勿いか。奴の賴みと在らば火の中水の中か。其れとも、今迄の不義理の埋め合はせに、重合體と刺し違るつもりか。實家に出戾るにしても、何故、鋼殻気嚢が暴發する寸前迠、皇粒子の彈倉と燃料を過重積載する必要が有る。眞逆、其れが伯爵への三行半では有るまい。貴樣も彼の漢も死に場所を探してゐる丈けのチンピラだ。手を取り合つて心中すれば近松も一筆揮ふ物を、其れすら互ひの鼻つ柱が邪魔をして赦せぬとは、面倒な奴等だ。」
アンタレスは女王に背を向けて、幾何學的に渦卷く波斯絨毯の花鳥風月に隻眼を零すと、嘲りを湛へてゐた霜髯の顴骨を削ぎ落とした。材木を擔いでゐるのかと見紛ふ屈强な肩幅が狹まり、漲つてゐた殺氣の潮が引いていく。
「銀河鉄道網を驅使して帶域制限を强ひ、彼の漢が何を隱し、護らうとしたのか。帶域制限と電劾重合體の關係は、何方が先か藪の中の雞と卵だ。」
靜寂が光束核幽囂爐の稼働音を炙り出し、劃られた言葉の餘白に女王の意識は引き込まれ、老兵の苦澁が滲み出る。
「貴樣は、鳥を見たか。」
アンタレスの立ち枯れた背中が問ひ質す、運命の第一審。
「天庭の紅孔雀等と云ふ御輿の御餝りで勿い、本物を。」
其れは最早、踏み繪だつた。見たと云へば見た、見て勿いと云へば見てゐ勿い。何が眞實と云へるのか。夢と現、異端と正統の狹閒に舞ひ降りた彼の極楽鳥を、果たして自分は見たと云へるのか。
「重合體の被災現場から飛び發つ鳥の炎舞は、命が燃え盡きる最期の煌めき。運命の宣吿が下される其の刻、化鳥は灼熱の威形を現す。」
「何う云ふ意味だ。」
エメラルダスが病の褥から、力の入らぬ上體を引き擦つて降り立ち、光勵起サーベルの放電に引き寄せられる薄埃が火花を散らすと、アンタレスは壁一面を彩る緣起繪卷の綴れ織りに片手を著いて、先史の時代へと遡る物語を隻眼で追ひ、指で擦つた。
「こんな老い耄れを斬つて誰に自慢する。鴉同士の喧嘩で何の白黑が附くと云ふのか。」
アンタレスは波斯絨毯で敷き詰められた萬春の樂園に帶劍を抛り投げると、天蓋の杏の木末を見上げて雄雄しく咳いた。
「我我が神話の中に折り込まれた紙の形代だとすれば、彼の鳥は其の形代に火を點す定められた命の驗。其の迸る命の炎群から、封じられし史は黃泉復る。靈鳥の能を信じ、念號に認められた史を辿る事のみが、火の星を濟ふ唯一の道。倂し、靈鳥の能を信じても、決して求めては爲らぬ。禁を破つた其の刻、追憶は不歸の旅と爲る。」
振り返つた病葉の外套が羽擊き、老木の天蓋から猛禽の皮脂を焦がして火の粉が降り注いだ。老兵は夢散し、鳳雷と言靈が轟く船長室。
「青二才だつた翠玉のエメラルドは赫く燃えてゐるか。女王よ目覺めよ。爾、神の物語を征け。」
耳を聾する嘴烈な鳳哮に艦體が慄き、靑銅の御鏡を走る斜めの龜裂が、女王の縫合痕と重なつて眞つ二つに割れ、老木の梢の狹閒から、金襴の怪鳥が飛び發つていくのが見えた。屆く筈の勿い其の鉤爪を摑まうと手を伸ばす女王の瘦身。灼き盡くされさうな生命の燦亂と星滅。再び目眩く、十干十二支の星辰列超。傳承の絲車は卷き戾され、紐解かれていく悠久の綴れ織り。時の眞砂に刻み込まれては、亂卋の風雲に吹き消されてゐた金石文が鏡面文字と爲つて、半缺けの八咫鏡を草査する。鋼紀柒拾玖年己巳から大長阡肆佰陸拾陸年己巳、大長元年から大化、朱鳥、朱雀、白鳳、白雉と逆相する、千載壹遇の轉卋。時の栖を亘る靈鳥の鳳尾が古筆を揮ひ、死藏した卷子の墨痕が霏霺いて、暗轉する艦内と薄れていく意識を幾重にも塗り潰していく。焚書を廣げ燃え盛る雙翼。闇を焦がす凰金の飛影に、老兵の戟勵が木靈する。
「爾、神の物語を征け。」
前後不覺の見當識に忽然と點つた一粒の白い礫。夢の浮橋を轉がる、其の小さな痼りが擴散し乍ら、遙かなる喪神の中で、追憶の焦點を取り戾していく。
竹で組んだ籠の中を俊敏に飛び跳ねる一羽の白雀。其の健氣な囀りに誘はれ、板張りの床に軍靴も脫がずに立ち盡くすエメラルダスは、追ひ求めてゐた穹いなる幻影に水を差されて、娟蛾一筆の秀眉を顰めた。
「此れが鳥?只の白子症では勿いか。」
物珍しいと云ふ丈けで他愛の勿い、小首を小刻みに傾げ、小皿の玄米を啄む白無垢の綿毛。遺傳子に異常を宿し、人の好奇に晒され、其の境遇すら理解出來ずに毛繕ひをする、不幸な個體の足處氣勿い仕種は物の哀れを誘ふ許りで、
「貴樣が彼の鳥なのか。」
と尋ねる氣にすら爲れ勿い。女王の御所望は、人心を惑はし、天地を征し、時空を統らす、萬物の靈鳥。靈は天に住み、鳥は其の使者で在り、刻に靈、其の物と云ふが、少なくとも、こんな人に媚びを賣る愛玩の虜には非ず。狐に抓まれて瞠める籠の鳥の白氣た平穩。其處へ不意に、不躾な跫音が表から乘り込んでくる。エメラルダスが屋敷の奧に身を隱すと、胡服に鍔勿しの製帽を被つたアンタレスが、脛裳を蹴立て現れた。晩夏の陽氣に滴る汗で煌付いた頰に縫合痕は勿く、彫りの深い窪目に漆黑の顎髭を湛へた其の壯貌。引き連れてきた付き人を見向きもせず、竹籠の中で戲れる無邪氣な小禽を睨み付け、屋外から降り注ぐ萬雷の蟬鳴を背負ひ、帶劍を拔く若き日の老兵。蟬に五德有り。頭上の緌は文。露のみを飮むは淸。穀物を食べぬは廉。巢を持たぬは倹。定まつた刻に出づるは信。其の成蟲が餌も得ず全うする短い命を、淸廉にして信義を護る姿に準へた、先人の後押しが退路を斷つ。
命長三年壬寅、秋七月戊申、甲寅朔丙子、蘇我臣入鹿が豎者、白雀の子を獲る。是の日同じき時に、人有りて、白雀を以ちて籠に納れて、蘇我の大臣に送れり。
瑞鳥を蘇我入鹿が朝堂に獻ると聞いて、官衙に乘り込んだ中臣鎌足は、其の幼氣な正體に破顏絕笑で咆駭し、直刀の斬つ先を竹籠の眞上で寸止めにすると、穢れを知らぬ供物に仁王立ちで正對した。
「村村の祝部に云はれる儘、徒に祭祀を繰り返し、牛馬を生け贄に天雨を乞ひ願つた擧げ句、何の靈驗も勿く、次は白雀か。元來、特惠を天に問ふは大王の神事。其れを息子に百濟寺で執り行はせて、明くる日、僅かに降つた丈けとは、
苗代に堰き下されし天の川
とむるも神の心なるべし
天の災ひが治まらぬのは星辰逆行、佛法に感け、祖神への尊崇が疏かな驗。斯樣な雛つ子の瑞祥で人臣の心を逸さねば爲らぬとは、此れより下に見下げ樣が勿い。八佾の舞ひは剽竊するわ。私民を徵發して己の壽墓を奉るわ。此れが儒家の流儀と云ふ奴か。」
鎌足の義憤は一官吏、一氏族の懷で治め切れる代物では勿かつた。丁未の勝照三年に物部の宗家を退けて以後、竺志の威を借りて朝堂を牛耳り、王族に輿入れし續けて外戚の手綱を放さぬ蘇我の權勢は衰へる事を知らず、
「建内宿禰を祖に戴く吾等が同朋は、息長帶比賣命の御宇から倭國に仕へる名門也。」
と髙言して憚らず、何かと云へば太宰府の京と較べ、山門の習俗は黴臭ひと退け、參寳と改革こそが天意で在ると押し切る其の橫暴。肩を竝べ好學を競つてゐた南淵の私塾にも顏を出さず、彼の頃は持つてゐた聞く耳も、今や扶桑の聲にのみ傾け、往にし方からの氏族合議は二の次三の次。其處で切羽詰まつた途端、小賢しい手土產で御茶を濁さうとは。
「こんな見せ掛けの紛ひ物を追ひ求める者は、人を騙し、騙される爲、生きるに等しい。斯う見えて代々受け繼ぐ祭官の端くれ。此れこそが雊ける鳥で在るのか否か、我が手を穢し、鳥筮ひに掛ける迠の事。」
鎌足は右の肱で切刃造りの直刀を大上段に振り上げると、汗顏を朱に染め上げて、小首を傾げる籠の鳥に一喝した。
「貴樣が神の使ひで解語の鳥ならば、授かつた天命を云ふてみよ。」
入鹿と鎌足。御互ひを知り盡くした、舊知の仲で在るからこその失意と、倒錯した激昂。當たり散らす相手が違ふと判つてゐても、逆上した頭には、佛の說法ですら火に油でしか勿い。
「あいや、待たれい。」
一騷ぎに爲ると端から承知で帶同し、靜觀してゐた物の、流石に居た堪れず、直刀を振り降ろす寸前に割つて入る付き人。其の手を拂ひ、今一度、直刀を鎌足が振り翳すと、撥ね除けられた付き人は奇聲を上げて其の場に卒倒した。呆氣に取られて気勢を削がれた主人の足許で、活き魚の如く四肢を痙攣させ乍ら、心神喪失の肉塊が裏返つた聲色で捲し立てる。
「蘇我ノ族ニ齒向カハズ、籠ノ鳥ニ手ヲ擧ゲテ氣ガ少シデモ休マルノナラ、其レモ亦、本望。逃ゲモ隱レモ致シマセヌ。此ノ卑小ナ身デ良ケレバ、幾ラデモ御役ニ立チマセウ。」
白眼を剝いて泡を吹き、物の怪に取り憑かれた其の口寄せに、鎌足の逆鱗は鳥肌に抜け替はつて粟立ち、血の騰つた汗顏が冷や汗で裏返ると、膝の番が外れ、鄕賊の如く押し入つた脛裳が後退る。
「名譽榮達ニ與リタケレバ竺志ニ出仕スル可キ處ヲ、敢ヘテ、地盤ノ勿イ山里ニ東國カラ下向シテ畱マリ、碩才デ身ヲ立テルニ到ラズモ、腐ラズ奉公ニ努メルトハ、將ニ忠臣ノ鑑。祖神ヲ崇メ、參寳ヲ敬ヒ、儒道ヲ違ハズ、主君ニ傅ク、其ノ息苦シイ柵ノ中ニ漢ノ立ツ瀨ヲ見出シテ、譬へ、尻尾ヲ卷イテ犬小屋ノ番ヲシテヰル丈ケダノ、豚小屋デ屠ラレルノヲ待ツテヰル丈ケノ、鈍ダノト罵ラレテモ、意ニ介サズ。人ノ風下ニ付イテ廻リ、鳩ノ樣ニ其ノ御零レヲ啄ム其ノ謙遜。生涯、無位無冠ト雖モ、淸貧ニ優ル仁德勿シ。」
振り上げた直刀を返り討ちにする萬雷の鶴聲。鎌足は其處で初めて、籠の鳥の円らな瞳に膝を屈した。飛び跳ね、囀るのを止めて、籠の接ぎ木に停まり、相對する暴漢を傲然と制視する白雀。其の眼差しの奧に、己の臍の底で封じられた蠱壺の蠢きを見た。
「蘇我ノ族ナゾ、幾ラ背伸ビヲシタトテ竺志ノ傀儡。斯樣ナ子飼ヒノ猿ヲ妬ミ嫉ミ、猿山ノ喧嘩ニ與スルナゾ君子ノ嗜ミニ非ズ。周カラ數ヘテ、秦、漢、魏、晉、宋、齋、梁、陳ト仕ヘテ措キ乍ラ、其ノ册命封爵ヲ辞シテ、藩王國ノ軛ヲ解キ、自ラ年號ヲ建テ、今ヤ唐ト對等ニ渡リ合ハウト云フ倭國ハ、今以テ東夷ノ忠臣ナゾト嘯ク干戈ノ逆賊。上邊丈ケノ主從デ、其ノ威ヲ借ル蘇我ノ橫暴モ推シテ知ル可シ。孰レ天命ニ由リ易姓ガ改マルノハ、火ヲ見ルヨリ明ラカ。孔子ガ九夷ノ受ケ繼グ禮節ニ焦ガレタ如ク、大八洲ノ古道ヲ護リ拔イテヰタノハ、竺志カラ山門ヘト流レタ分家ノ末裔。其レヲ舶來被レノ宗家、倭國ニ覆サレ、蘇我ノ族ニ迠、骨拔キニサレヤウト、我ガ大王ノ君德ニ翳リ勿シ。正統トハ何ゾ。見定メヨ眞ノ正鵠ヲ。御餝リノ朝堂ト揶揄サレ挫ケル挺身ナゾ、挺身ニ非ズ。臣下ノ迷ヒハ亂レタ舊辭、帝紀ニコソ在リ。」
主從の轡に喘ぎ、負け犬の云ひ譯に明け暮れてゐた本心が、瑞鳥の色素の拔けた雙眸に映し出されて反鏡し、鎌足の煮え切らぬ處卋を責め嘖む殘酷な正論。己を殺して主君を立てよと、强引に云ひ聞かせてゐた隱忍自重の言葉が、若さ故の大志と叛骨に突き刺さり、胸が張り裂ける。羊でも角は生えてゐると云ふのに、朝堂の奸臣に刃向かへず忠孝の鑑を演じ續ける怯懦。己の不甲斐勿さを棚に上げ、人の輿を擔いで廻る屈辱。此の儘、家督の祭官を嗣いで何に爲る。野良犬の樣に瘦せた山里に引き籠もり、骨に爲る迠、日照りに怯え續けるのか。
「此ノ果敢無キ人ノ卋ニ、己ノ名ヲ殘シタトテ一春ノ梅花。史ヲ規セ、己ノ生キタ驗ニ。此ノ國ヲ讚ヘル常シ方ノ史ヲ。」
瑞鳥の激勵が轟く行き場の勿い前途。鎌足は騷ぎを聞き付けて驅け附けた官吏を、直刀を振り囘して押し退け、憑き物が降りた儘の付き人に見向きもせず、官衙を飛び出した。何故、
「己ノ名ヲ殘セ、果敢無キ人ノ卋ニ。己ノ生キタ驗ヲ、常シ方ノ史ト成セ。」
と唆して吳れ勿いのか。己に其の資格は勿いのか。分櫱まで保たずに立ち枯れ、乾上がつた稻田を驅ける番犬の遠吠え。重疊たる群峰に圍まれ、何處にも出口の勿い山門の環鄕が、己の鳥籠に見えた。
反しの勿い舶來の淺靴に竺志の絹を纏ひ、冠帽の輪に歡聲の華が咲く。其の雅な興苑を遠く末席で眺め乍ら、鎌足は嚙み殺した苦虫を呑み下し、唯只管、其の刻が來るのを待ち續けた。金銅の冠に大帶と云つた豪族の金滿趣味を易易と脫ぎ捨て、首餝りに耳餝り、腕輪に足玉は疏か、呪力を求めた護符の勾玉迠も見切りを附け、扶桑の文物を後追ひする、山門の根勿し草。古道を蔑ろにした者達の淺閒敷い變節に、調子を合はせる合ひの手が空空と響き渡る。
命長五年甲辰の春、竺志の京に燦然と輝く、倭國佛敎の殿堂に肖つて號けられた蘇我の氏寺、法興寺。其の槻の木の廣場で披かれた打毬の會に、常恆、恩澤を賜つてゐる輕王子の計らいで、無位無冠の身で在り乍ら招ねかれた鎌足。此の分不相應な天の配劑を物に出來るのかは、總て、今此の刻の己次第。祭官の道を自ら辞し、もう後には戾れ勿い。俯いて上目遣ひで追ふ其の先には褶を手繰し上げ球戲に興じる若君、中大兄王子。
「打毬なぞ竺志の猿眞似。こんな事だから山門と云はれるのだ。」
と蔭口を叩かれてゐる事を知つてか知らずか、選りに選つて、朝敵の箱庭で此の爲體。別人で在つて欲しいと願ふ鎌足の念ひとは裏腹に、輪の歡聲と蹴鞠が宙を爆ぜる。
去る年、入鹿の指圖で斑鳩宮が討ち入りを受け、山背大兄王が自害に追ひ遣られた許りとだ云ふのに、兵を擧げる事もせずに靜觀し、恥の上塗り以外の何物でも勿い。祖父、馬子の孫に當たる古人大兄王子の卽位を目論む入鹿は、同じく馬子の孫とは云へ、朝堂の復權派が推す山背大兄に外戚の手綱を讓るまいと、古人大兄迠の中繼ぎに寳女王を擔ぎ出した擧げ句の凶行。次は誰かと云はれれば、寳女王の御卋嗣ぎに死ら羽の矢が立つのが道理。明日は我が身と思はぬのか。入鹿を油斷させる爲、敢へて虛けの振りをしてゐるにしても、俄には解し難い其の陋態。
有らゆる富と朝堂を專橫し絕卋を謳歌する蘇我に、誅鍬の一耕を加へずして、此の亂れた史を規す事は相成らぬ。其の爲には、搖るぎ勿き大義を擁する、王道の後ろ盾は缺く可からざる勘所。何の勳も名も勿い鎌足は、天與の御旗を探してゐた。其の資格が有るのは、竝み居る王統を見渡しても唯、獨り。倂し、其の唯、獨りを息を殺して見護つてゐた物の、堪へ切れずに澑め息を吐いた。
中大兄の噂は聞いてゐたが、其れにしても、冴え勿い男だ。毬に弄ばれる、愚鈍を繪に描いた其の身の熟しに、光る處はまるで勿い。膂力に長け、理に敏く、肝の据わつて、義に篤い駿馬とは程遠く、血筋が獨り步きしてゐる丈けの、朝敵に飼ひ慣らされた何の氣概も勿い駄馬。と云ふより、此れではまるで、蘇我が肥え太る爲の飼ひ葉でしか勿い。若い。若過ぎる。何一つ苦勞を知らず、張り詰めた處の勿い、緩み切つた其の溫顏。仕種と物云ひの一つ一つに、餘計な優しさと甘さが滲み出てゐる。此れでは到底、敵の懷で白癡を演じる策士では勿い。冠帽の輪の中に在つて一際目立つ其の凡百。倂し、最早、次の好機を選んでゐる暇は勿い。此の際、同じ御荷物なら、擔ぎ上げる輿は輕い方が良いのかも知れぬ。下手に芯の有る漢で、折れる可き處で我を張り、狹き門に支へるよりは增しか。然う自問自答を繰り返してゐた刹那、誰かの利き足の淺靴が宙を舞つた。
永遠の刻の中を緩慢に弧を描く放物線が、底を上にして地面を叩き、若君の照れ笑ひに喝采が卷き起こる。一瞬、躊躇つた鎌足は、無用の用ならぬ、無能の用、其の一點に賭け、恥を承知で進み出ると、舶來の逸品を手に取つて土を拂ひ、人の倍、汗に塗れた赤ら顏で驅けて來た新しい主君に、跪いて差し出した。此れが忠義の操と云ふ奴か。御人好しの若君は其の小聰明さを訝しむ事も勿く、取り入るのに無駄な手數は必要勿かつた。
程勿くして、中大兄は鎌足が籍を置く南淵漢人請安の私塾に通ふ樣に爲る。光元四年戊辰、學問僧として倭國の船で隨へと畱學し、命長元年庚子、唐から新羅を経へて歸國する迠、實に丗と貮年。儒佛の本場で研鑽し、文化の搖籃を見聞した南淵の高名は、磐餘彥命が天基を草創め給ふ以前から、恆に文化の後塵を拜し續けた山門に在つて、右に出る者は勿く。生死を賭した遣隋使船の冒險譚から、歸國後、扶桑の京、太宰府と、倭國佛敎の華、法興寺五重塔を巡つた遍歷は、數多の佛敎典籍、四書五經を差し措いて塾生を魅了した。群峰に圍まれた籠の鳥の殿下も異邦の文物の虜と爲り、徒弟の模範として師と問答をする鎌足の博識を目の當たりにするや、上下の隔ては霧消し、机右の兄と慕ふ樣に爲る。倂し、請安門下の筆頭と云へば聞こえは良いが、何處にも行き場が勿く、私塾に居座つた古株の根が張つてゐる丈け。
「鞍作臣と才を競つたとは流石。」
と入鹿の名を出されて、羨望の眼で仰ぎ見る其の足處氣勿い紅顏に、交錯する千羞萬愧。
記問の學は 以て
人の師と爲るに 足らず
詮ずる所、机を竝べて講義を受ける丈けの耳學問。こんな物は金冠を金言に擦り換へた、目新しい豪族趣味でしか勿い。漢文に踊らされ、衒學の限りを盡くす禮節とは裏腹に、朝堂は王道から橫道へと先途を違へ、山門の古格を手放して見向きもせず、强引で喧囂を究める者の聲が罷り通つてゐる。にも拘はらず、海表の文物に心醉し、唐や竺志への憧れに饒舌を揮ふ中大兄。況してや、入鹿と二人で一書を交讀した日日を執拗に尋ねられ、夢を語り合つた往時が胸を焦がす、落陽に彩られた私塾の歸り道。悍馬の如く叙位叙勲を驅け昇つて、父の蝦夷から紫冠を賜り、今や大臣氣取りの朝敵に較べ、地に這ひ蹲つて進む可き道も勿い、石龜の如き境遇に返す言葉も覺束ず、殿下の羨望の眼に映る慘めな己の姿が、合はせ鏡と爲つて潤んでゐる。入鹿とて、豫斷を許さぬ外憂に眼を光らせる竺志から、山門の統制と防備の使命を帶び、腰の重い古族達を束ねる爲に無理を承知で豪腕を揮ひ、重責に身を窶してゐるのだ。主君の爲に憎まれ役を買つて出る其の覺悟と、好い歲をして、禮記だ仁王經だと舶來の言葉遊びに感けてゐるのとでは天と地の差。山門の伝統と調和を亂すなと云ふのなら、扶桑の天子に叛旗を飜す可き物を、其れは流石に畏れ多いと鞘に治めるのでは、詮ずる所、扶桑の天使に山門の地を任された盟主への恨み辛みは、妬み嫉みの裏返し。斯樣な餘情に流されて、此れから先の大事が勤まる譯が勿い。二人丈けで在る刻を見計らひ、鎌足は遠囘しに長計の種を撒いた。
「私が鞍作臣と競つたなぞ、巷談に羽の生えた樣な物。殿下こそ、其の御歲で恬然とした其の膽力。私とは器が違ひます。」
「恬然とした膽力、とは如何に。」
「去る歲、斑鳩宮を穢した蠻觸の諍ひ。其の火の粉に卷かれず、決起した處を返り討ちにと、待ち構へてゐた奸計を見拔いた賢俊。此ぞ君子の存る可き姿。殿下が山背大兄王を見殺しにしたと、蔭で流言を注ぐ輩の使嗾にも乘らず、自重して時機を讀み、耐へ忍ぶ姿は將に三輪山の如し。竝大抵の深慮では勿いと、常恆、感服する次第。恥ぢを承知で腹心を布けば、鞍作臣が朝堂に獻上した瑞鳥の白雀に太刀を振り上げ、官衙を騷がせた事の在る私等、迚も迚も、彼程の狼藉を前にして平靜を裝ふのは、孔門十哲でも至難の業。」
鎌足が恭しく謙ると、中大兄の紅顏は硬張して、沈默が薄暮に消え入り、二人の跫音丈けが野畦を聯ねた。少し藥が效き過ぎたか。其れなら其れで話が早い。鎌足は次の布石の手順を巡らし、宵闇に廣がる大局を見据ゑた。
急峻な坂を登つた多武峰の四阿から見下ろす明日香村の集落。中大兄、緣の地で在り、後に藤原の里と呼ばれる山懷で、王子と鎌足の親交は密を重ねていつた。森閑叢叢として人の眼を遁れた二人丈けの奧の院。其の腹藏勿き歡談の最中、
命長五年甲辰、噎せ返る立夏を過ぎた壯綠を搔き分け、獨りの閒者が潛り込んだ。山道を通らずに藪を拔け、木の葉を被つて現れた入鹿の従兄弟で蘇我の重鎭、倉山田石川蔴呂に、顏色を變へ、擧措を失ふ中大兄。
「驚動召さるな。石川蔴呂の大老を喚んだのは此の私。蘇我の分家とは申しても憂卋の同志。殿下の御耳に入れ度い話しが有るとの事。疑懼には及びません。」
然う云つて鎌足が促すと、石川蔴呂は四阿の踏み石の前に跪拜し、額を突いた地邊田に唾鏃を飛ばした。
「去る癸巳の亥の刻、吾が宗家の鞍作が屋敷に里方を輯め、聞くに堪へぬ讒りの數數。王子は朝堂に不軌乖亂を企て、何時、討ち入るやも知れぬと宣ひ、各各方、備へ有れと嗾ける、無根の陷穽、此處に極まれり。」
武勇と威望を倂せ持つ石川蔴呂、直直の平訴と、濡れ衣を著せられ、遂に巡つて來た死ら羽の矢に泡を喰ふ中大兄。中腰に爲つて身構へてゐた筈が其の場に頽れ、此の卋の終はりと許りの泣きつ面の頰を、更なる檄が張り飛ばす。
「同じ氏名を賜る者として、看過し難き鞍作の橫道。此の儘では、祖神に顏向けが出來ぬ許りか、天の佑助を失ひ、朝堂の行く末が昏迷の泥濘に足を取られるのは必然の理。殿下は何故、彼の樣な奸臣を抛擲なさるのか。」
「口が過ぎますぞ。殿下の自重は深い御考へが有つての事。淺墓な穿鑿は失儀の沙汰にして、臣節に悖る僭越。愼まれたし。」
眞に迫つた石川蔴呂の勢ひを借りて、鎌足も目上の御大に怯まず疊み掛ける。此の血筋丈けの腰拔けを焚き付けぬ事には何も始まら勿い。現に、斑鳩宮の蠻行に沈默した中大兄は、入鹿に取つて眼中の外に轉がつてゐる借りてきた猫でしか勿く、石川蔴呂の密吿は總て作り話。尻に火を點けて叩かねば走らぬ駄馬に手加減をしてゐては、峠の手前で歲が明ける。石川蔴呂は役者だつた。蘇我の一族に在つて蝦夷、入鹿の增長に一物を抱へる此の長老に當たりを付けたのは、將に慧眼。鎌足の筋書きを過たず、色を添へて餘り有る激語は、地に額突く顱の頂を劈いた。
「今こそ此の果敢無き人の卋に、君子の名を殘す刻。其の生きた驗を、常し方の史と成さずして、何の生きる甲斐が在りませう。誅罰は天の御心。殿下、何卒、御決斷を。」
剛毅にして果敢な石川蔴呂、決死の進言。鎌足は此處ぞと許りに其の火語を煽り立てる。
「何を云ふ。御卋嗣ぎの身に若しもの事が在つたら何と爲る。況してや、殿下の御手を穢すなぞ。王道に有閒敷、凶事。」
主君の應否を待たずに迸る、忠烈の一喝。樹上の栖で息を潛めてゐた禽獸が一齊に飛び發ち、落葉の翠雨が舞ひ降りると、鎌足は中大兄に向き直り、木漏れ日が搖れる四阿の床に、負けじと額を擦り付けた。
「大老の分を辨へぬ雜言を許した非は、總て此の私に有り。其の上で猶、今一度、殿下の英明たる聰耳を御貸し下さい。小臣の思ひ上がりとは云へ、止むに止まれぬ私憤にも一分の理。大王の靈德を僭り稱へて神事を執り計らひ、君臣長幼の序を蔑ろにする鞍作臣の專橫は、天の恩寵も乾上がる神權への冒瀆。私に御委せ下さい。碌も勲も要りませぬ。總ては此れ、亂れた時卋を規す爲。」
「治卋は殿下の手で成される可き物。」
「否、玉體を嗣ぐ殿下の御身と髙名を穢して、何の治卋か。」
平伏した儘、御互ひ相讓らず、甲論乙駁を演じる狐と狸。而して、血痰を交へる昂吻の勢ひに吊られ、優男の眞珠の樣な頰を、柄にも勿い洟淚が嫋いだ。
「其方達の僞り勿き忠義は鞘に治めよ。」
御餝りの佩刀に手を掛けて、徐に立ち上がる中大兄。重い輿は腰も重い物だが、何とした事か、此の輕い輿は。今の今迄、寢惚けてゐた分、一働きして貰はぬ事には始まらぬとは云へ、惡い目覺めで勿ければ良いが。と、一抹の不安を膽の臓に呑み下す鎌足で在つた。
石川蔴呂を仲閒に引き入れ、其の女を王子の妃として、婿と舅の契りを結ぶ案を中大兄に申し出た鎌足は、石川蔴呂の許に出向き、仲人の役を買つて出ると、紆余曲折を經て、次女の遠智娘との婚姻に漕ぎ著けた。王族が復た獨り、蘇我の軍門に降つたの何のと云はれるのも、此の際、良い隱れ簔。蔭で嗤ふ者が居れば、其の顏を覺えて措けば良い丈けの事。御上に諂ひ、下下を蔑む者なぞ何處にでも居る。嚙み付くのは野良犬に委せて措けば良い。
南淵の私塾で支那の史書に精通した鎌足は、旣に粗方の繪圖を描けてゐた。天命が改まる度に繰り返される易姓革命。王者は恆に、追ひ墮とされるのでは勿く、自ら身を滅ぼしていく。虎には虎、龍には龍。建内宿禰を祖に戴き、息長帶比賣の御宇より倭國に仕へる竺志の飼ひ犬で、其の勢力を伸ばす度に四分五裂を繰り返す、蘇我の族同士を焚き付けて共喰ひに持ち込み、漁夫の利を得る。其れが歷史の答えだつた。決起の誅臣に佐伯連子蔴呂と葛城稚犬養連網田を中大兄に推擧し、後は蔭德陽報に努め、神助の兆候を待つ許り。鎌足は己の史を覆す血戰の成就を、遙か東國の祖神に禱り續けた。
命長六年乙巳、六月癸未、丁酉朔甲辰、
「韓人の進調之日に、必ず將に卿をして其の表を讀み唱へ使むとす。」
と吿げた時の石川蔴呂の血走つた瞠目が、鎌足の眼裡に灼き附いてゐる。本來なら其の手に掛け度いで有らう入鹿の首。倂し、入鹿の眼を上表文に惹き付ける大役は、蘇我の御大で勿ければ務まらぬ。血筋丈けが取り柄の駄馬に鞭を入れ、手柄を擧げさせるには、脇を幾重にも固めなければ。竺志の眼を盜んで往き交ふ辰韓との内通。寳女王の後を嗣ぐ古人大兄王子の御披露目も兼ねた、遣使が貢物を獻上する進調の儀には、積年、他族の恨みを買ひ、不意の仇擊を警戒して出步かぬ入鹿も必ず參内する。手筈を整へ、身も心も淨めて臨む、
丁酉朔戊申、飛鳥板蓋宮。梅雨の霖が滴る大安殿の板葺き屋根を見上げた鎌足は、進調の儀が始まる前の、最後の仕上げに取り掛かつた。
「子飼ひの鞍作臣を叩いて、竺志が默つてゐる物だらうか。虎の尾を蹈む事に爲りはしまいか。」
「外憂で首が囘はらぬ扶桑の天子に、山門へ囘はす手が有りませうか。佛を拜み、納める物を納めれば、天庭も文句は有りますまい。」
此の期に及んで弱音を吐く中大兄を引き聯れ、鎌足は大安殿裏の殿舍で控へる大王の許に忍び込むと、跪拜した儘、祕事を仄めかした。
「衣冠を僭へる亂れた風儀を規す可く、馳せ參じました。韓人の調を穢さぬ樣、努めますが、總ては佞臣の心得次第。何卒、御構ひ勿き樣。」
勘の良い寳女王は吾が子息と鎌足を二度見し、玉容を顰めて聲を殺した。
「罷り成らぬ。」
朝の龍眼に戶惑ひと煌めきが擦れ違ふのを見逃さず、矢張り噂は眞で在つたと確信した鎌足は、匍匐禮で後退ると、退室するなり、呆氣に取られてゐる中大兄に晴れ晴れと言ひ放つた。
「此れにて總ては整ひましたな。」
「何と云ふ事を。大王は罷り成らぬと。」
「罷り成らぬと云ふ事は、罷り通せと云ふ事。主君に諫められても敢へて違へるのが、内助の功臣。主君の手を穢さず、名譽を護るには、蔭で謀るに如くは勿し。大王の與り知らぬ處で事が治まれば、大王が天に僞る事も勿く、面目も保つ。誅血を吸つた臣下の手なぞ斬り落として終へば良いが、針一つ刺す事を赦さぬ大王の御玉は、然うは行きませぬ。御眼に爲りましたか、はたと見開き憂ひを晴らした、刹那の目配せ。力盡くで擔がれた許りに、降り度くとも、降ろして貰へぬ輿も在る。今こそ其の輿の荷を降ろす刻。」
長槍を杖に、稚児の如く付いて來る丈けの中大兄を、背中で易易と云ひ包め、鯔の詰まり、貴族が豪族、豪族は山賊の詐稱在るのなら、史とは力を是と爲る御旗也、と獨り言ちる鎌足。海犬養連勝蔴呂から兩つの劍を受け取つた、佐伯連子蔴呂、葛城稚犬養連網田と大安殿の裏手に器物が積まれてゐる物蔭で落ち合ひ、
「努力努力、急に須く斬る應し。」
と激勵するも、小心者の二人は重壓の餘り、腹拵へに流し込んだ水粥を、丹塗りの掘立柱に手を突いて反吐し、水月を波打たせ乍ら、虫酸の饐えた臭ひを放つてゐる。謀議の座では勇ましい事を火裂いてゐた分際で、何奴も此奴も。根囘しは行き屆いてゐると云ふのに此の爲體。肩に弓、腰に胡祿を提げた鎌足は呆れて、此以上、叱咤する氣にも爲れず、大安殿の脇に隱れる中大兄の許に二人を配した。
大王は旣に出御され、古人大兄王子が鄰りに侍ひ、辰韓の遣使と竝んで石川蔴呂は畏まつてゐる。神然と髙御座に立御する山門の御玉に相謁え、聖謐を貫く萬物の殿堂。賓客の揃つた式典は、唯、獨りの漢を待つてゐた。現つ神を差し措いて先後を亂す不遜な族。若しや何か嗅ぎ付かれたか。鎌足の胸裡を猜疑の鉤爪が抉つた其の時、入鹿が式場に現れた。父、蝦夷から讓り受けた、紫絹に金糸と銀糸で文樣を繡る大織冠に、金細工の髻花を插してゐる許りか、紫絹の裙襦に紫絹の褶を纏つて、悠悠と最後の空座に納まつた。位階を無視した紫冠丈けでも眼に餘ると云ふのに、人を喰つた其の濃裝束を誰獨り咎める者が勿い。全く大した漢では在る。確かに、此の日限りの獨り善がりなら、此れ位、醉狂な方が相應しい。御蔭で、俳優が豫め、御前の禮に失すると唆し、手際良く入鹿の帶刀を解いて在る。鎌足は北叟笑み、衞門府に合圖を送ると、總ての通門が一齊に無言で應へ、雨音が鎖ざされていく。
石川蔴呂が濱床の御座に昇り、大王の御前で辰韓の上表文を朖朖と讀み上げる。此處迄は繪圖に描いた通り事が運び、背負つた弓の柄と汗を握り込む鎌足。處が、上表文の奏上と共に討ち入る筈の子蔴呂と網田の二人が、鼻から反吐の絲を埀らして未だ嘔吐いてゐた。一向に討ち入る氣配が勿く、唐土の素文を譯き解し乍ら、刻を稼ぐ石川蔴呂。汗顏で声は上擦り、限り有る字面の列を眼は泳いで、手の顫へが止まらず、其れを見た入鹿が後ろから囃し立てる。
「何故か、掉ひ戰く。」
蘇我の郞黨の中に在つて、目障りな長老の難儀を嘲笑ふ、尊大な濃紫の衣冠。謀略を氣付かれては爲らぬと、石川蔴呂は必死で其の場を取り繕ふも、卻つて柄にも勿い事を口走つて終ふ。
「大王に近づきまつれるを恐て、不覺りて汗を流しつ。」
武勇で名を擧げた大老の慄きは、最早、怖氣に因る物等では勿く、不甲斐勿い同志への怒りの激甚で在つた。然して其れは、鎌足とて同じ事。態々手柄を擧げさせる爲に、壹から拾まで段取りを組んで遣つたと云ふのに、此の爲體。入鹿は女王の孤閨で寵幸を賜り、父蝦夷を凌ぐ權勢を手に入れた。己の母を寢取られて逡巡ぐ腑拔けに用は勿い。痺れを切らした鎌足は、子蔴呂と網田の介抱をしてゐる、獨りの御人好しな背中を後ろから蹴り飛ばし、式典の直中に突き落とした。
參列者の前に轉がり込んだ中大兄は、何が起こつたのか判ら勿い。降り注ぐ奇異の眼に暫し放心し、髙御座から見下ろす吾が母、寳女王を認めて、初めて總てを合點した。穴から煙で追ひ立てられた子莵の樣に慌てふためき、手から零れた長槍を見付けて飛び付く叛逆の王子。血の氣の失せた紅顏を揉みくちやにして、
「咄嗟。」
と破れ被れの奇聲を上げ、丸腰の入鹿に斬り掛かると、靜觀してゐた子蔴呂と網田も、背中に鎌足の番へた鏃を突き附けられて、其の後に續いた。紫冠が飛び、長槍と中大兄の腕を摑んで、官の刀は勿いかと見回し乍ら、
「當に嗣の位に居す天之子也、臣、罪なはゆることを不知、乞ひねがはくは審察に埀へ。」
と喚き散らす入鹿。辰韓の遣使を放つて、騷然とする太極の殿堂。
「所作を不知、何事か有りし耶。」
大王は吾が子息の狼藉に向かつて、髙御座から嚴づ靈を叩き落とすと、中大兄は返す言葉も勿く、其の薄志弱行に呆れた石川蔴呂は、上表文を搔殴り捨てて大王の御前に跪拜し、殿下に代はつて直訴した。
「鞍作、盡に天宗を滅ぼして、將に日の位を傾けむとしまつる、豈、天孫を以ちて鞍作に代ふ乎。」
一族の不始末は一族の務めと宣ふ長老の餘りの迫力に、大王は玉顏を背けて殿舍に引き下がり、取り殘された古人大兄は爲す術も勿く其の場に頽れ、中大兄と縺れ合ふ入鹿を、子蔴呂と網田が後ろから斬り刻んだ。袈裟懸けに斷たれた頸動脈から、血飛沫が閒欠泉の如く吹き出し、白眼を剝いて倒れ込む入鹿に伸し掛かられて、泣き叫ぶ中大兄。外に逃げやうとして通門が鎖ざされてゐる事に氣附いた參列者は、衞門府に喰つて掛かり、揉み合ひが更なる拔刀沙汰に飛び火する。蜂の巢を突いた公儀の狂亂。其の慘狀を、濱床を搖るがす、肚の据わつた鶴聲が一喝し、群盲を制した。
「靜まれ、靜まれ。殿下は見事に誅罰を果たされた。其れに引き替へ此の鞍作は、意の儘に朝堂を虜にした上、死して猶、聖主で存り、人主で存る、現つ神の御前を穢すとは何事か。即刻、宮から叩き出せ。」
息絕えてゐ乍ら、其れでも摑んだ袖を放さぬ入鹿の手を解かうと、血澑まりで藻掻ぐ婿殿を見下ろして、石川蔴呂は場を仕切つた。此れで良い。矢張り、虎には虎、蘇我には蘇我を充てるに如くは勿い。鎌足は表に出ずとも事が運ぶ妙味を嚙み締めてゐた。己を擔ぎ上げて吳れた恩人を、眼の前で見殺しにした古人大兄も、死に馬に止めの獨つも刺せぬ中大兄も、冠の髻花。輕い御輿も滿更、惡く勿い。梅霖に泣き崩れた板葺き屋根。表に引き擦り出された入鹿の骸は、流れ込む天つ水の張つた朝庭を赭く染め、蓆の蔀で簀巻きにされると、蝦夷の屋敷に竃木の薪柴の如く運ばれていつた。
返り血を袖から滴らせて失神した中大兄が、石川蔴呂の手配で蘇我が陣を構へる前に兵を固め、差し押さへた法興寺に聯れ込まれると、凡、諸諸の王子、王、卿大夫、臣、連、伴造、國造、皆悉く附き隨つて次次と寢返り、積もり積もつた恨みの程が知れた。黴雨に烟る城柵と、宵越しの篝火が巡らされた蘇我の氏寺。仇敵の御膝元で披かれた打毬の會で王子と出逢つて早壹歲。其の槻の木の廣場に、立場を違へて再び舞ひ戾る此の因緣に、鎌足は輪轉する史の理を垣閒見た氣がした。蹴鞠と皮鞋の閃く穩やかな陽氣は、今や暗雲に搔き曇り、陣頭で指揮を執る可き中大兄は、血の海に呑まれた戰慄で氣が觸れ、衾を被つて獨語を吐き續けてゐる。少し藥が效き過ぎたか。輿の御餝りも壓し折れては樣に爲ら勿い。
「殿下は御疲れのやうだ。」
石川蔴呂は苦苦しく、變はり果てた婿殿に語尾を濁し、姻がせた女の不憫を慮つて、人拂ひを命じた。長女が中大兄と一旦は結んだ契りを暴漢に絕たれ、意氣消沈してゐる父に、蘇我宗家の後塵を拜す倉山田の命運を擔ふ爲、姉の務めを果たすと自ら名乘り出た次女の遠智娘。卋閒知らずで氣骨の勿い婿殿に、甲斐甲斐しく仕へる姿は、冥利の盡きる事勿き忠孝の鑑。滅私に徹した其の辛勞に報ひる術は、殿下の榮達を措いて他に勿い。譬へ、鈍の空蟬でも、血統には筋が一本通つてゐる。今は其の蜘蛛の絲に縋るしか勿い。
石川蔴呂は、宗家の存亡、此處に極まりと、眷屬の兵を結聚して鎧冑の塵を拂ひ、蝦夷の警護と軍に備へる漢直の許へ、巨勢德陀臣を遣し、
「天地開闢より、君、臣のつぎて始まりて有りける。」
と傳へて說き伏せ、赴く可き王道の行く末を知ら令めしると、髙向臣國押は漢直に、
「吾等、君、大郞に由りて、被戮ゆ應當し。大臣、亦、今日明日に、立ちどころに其の誅るを俟たむと決れり。然れども則ち、爲誰に空しく戰ひて、盡に被刑め乎。」
と云ひ畢へて帶刀と胡祿を解き、軍陣を去つた。數多の賊徒も其の潔斷に倣ひ、散かれ走げると、石川蔴呂が戎馬を引き聯れて取り圍み、
翌、丁酉朔己酉、蝦夷は屋敷に火を放ち、自盡の譽れに浴したと讚へ、巷口を塞いだ。降り止まぬ梅霖を物ともせずに立ち昇り、蘇我の宗家を灼き盡くす終末の業火。其の騷亂の中で、炭灰に歸す、竺志の帝紀、種種相相の珍寳の中から、船史惠尺は身を挺して本記を濟ひ出し、中大兄に獻る可く、甲紐を解き始めた法興寺に伺候した。處が、深窻の殿下に代はつて取り次いだ鎌足は、
「餘計な事を。そんな戲けた竺志の史書なぞ、其の儘、燃して措けば良い物を。金書は禁書也。竺志に尾を振つた負け犬に、出自を騙る領分なぞ有る物か。扶桑に貮君在りと雖も、天之下に貮史在らず。」
此の鎌足が史を規す。然う、吐き捨てて卷子を裂いた。然して、日が替はるや否や、全燒した蘇我の屋敷も未だ燻る、
丁酉朔庚戌、蝦夷と入鹿の擔ぐ輿から解かれた寳女王は、輕王子に王位を讓られ、中大兄は太子の筆頭に昇つた。進調の儀での蠻行から僅か二日。朝堂を穢したと云ふのに、中大兄を始め、佐伯連子蔴呂と葛城稚犬養連網田の誅臣は齋戒で免除。入鹿の屋敷は許より、罪人、入鹿の立ち寄つた地所も悉く、穢れを灌ぐ爲に燒き拂はれ、總ては勿き物とされて終ふ。誅血を吸つた床板を張り替へる閒も勿く、大安殿で輕王子に授けられた神璽。
「あな、疾。」
の一言で片付けられていく朝堂の變事に、誰が裏の筋書きを認めたのかと訝る聲は、殿下の直刀で斷たれ、飛鳥寺まで達したと云ふ入鹿の首と共に、山鄕の軒から軒へと跳梁した。
寳女王は子息、中大兄への讓位を御望みに爲られたが、衾に包まり出て來やうとせぬ空蟬に務まる筈も勿く。
「古人大兄、殿下之兄也。輕王子、殿下之舅也。方に今、古人大兄が在して、殿下、王位に陟りたまはば、便ち人の弟の恭みて遜へる心に違へり。且た、舅を立たせまつりて以ちて民の望ひに答ふること、不亦可乎。」
と鎌足が代辯して祕かに朝庭へ奏聞ふも、大王の讓意を吿げられた輕王子は畏れ多いと固くなに辭び續け、轉り轉りつて、古人大兄に王位を薦めると、つい一昨日迠、蘇我の擔ぐ輿の上に胡座を搔いてゐた外戚の犬は、大王の御意に隨ふ可し、吾は出家して吉野に入ると宣ひ、一度も揮つた事の勿い金銅銀珠で裝美された腰の佩刀を解いて投擲ち、法興寺に向かつた。板蓋宮の襲撃を目の當たりにして屋敷に蟄居し、
「韓人が鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し。」
と異母兄弟の中大兄の凶行を見勿かつた事にする、怯懦を繪に描いた男だ。昇極する意欲を見せて滅ぼされる事を恐れ、蚊帳の外から少しでも離れやうと、逃げ足丈けは速い犬は、瞬く閒に、法興寺で佛殿と刹柱の閒に詣でて、自ら剃髮剃髯して袈裟を召すと、中大兄が衾を被つて咒詛を吐き續けてゐる奧の院を素通りし、肩の片髮も拂はず、吉野に旅立つた。
鎌足が無位無冠の頃から恩澤を賜り、中大兄との緣も媒つた輕大王の卽位。本來、望みを絕たれてゐた髙御座に立御した現つ神は、篤い慈しみの御心を以て、中大兄を日嗣の王子に据ゑ、阿倍内蔴呂臣と蘇我倉山田石川蔴呂は夫夫、左大臣と右大臣に昇敍し、鎌足も大錦の冠を賜つて、内臣に引き立てられ、戶封を增した。意を血して密議を重ね、此の手を穢した總てが報はれる。遂に披かれた榮達への門戶。處が、念ひ焦がれてゐた授冠の譽れは、後戾り出來ぬ修羅道の餞でしか勿かつた。
丁酉朔己卯、法興寺の大槻の木の下に群臣を召し聚め、天神地祇に其の信ずる所を盟ふ新冠の大王。
「天をば覆ひて地には載りて、帝道、唯一つ。而れども末代に澆薄ぎて、君臣の序て失せり。大いなる天、手を我に假して、暴びて逆ふるを誅し殄せり。今共に心血を瀝づ。而るがゆゑに今自り以後、君は政に二つ無し、臣は朝に貮こころ無し。若し此の盟ひに貮こころあらば、天に災ひし地に妖ひし鬼は誅し人は伐つ。皎きこと日月の如き也。」
天が味方する梅雨の晴れ閒に執り行はれ、玉音が澄み渡る境内。其の奧の院で、衾を被り蠢く鬼殆が、雌伏の魔泥みに濘るみ、目覺めの刻を數へ、毒吐いてゐた。
九月丙戌、丙寅朔丁丑、法興寺の門前で、門弟に喰つて掛かる獨りの漢、在り。
「眞逆、日嗣の王子の剔り除けた御髮を、捨たと申すのか。」
草臥れた輕裝で不意に現れた貴人の激昂に戶惑ひ、箒の手を止めた臂と臂で御互ひを小突き合ひ、疏らな落ち葉に眼を落とす見習ひ小坊主達。宜なるかな、譬へ貴人の發心とは云へ、得度の剃髮を後生大事に預かる謂はれは勿い。此處でも亦、話しの取り次ぎすら儘ならぬとは。吉備笠臣埀は途方に暮れ、色付き始めた梢が秋風と潺笑ふ山門を仰いだ。今生の別れと肚を決め捨て去つた山里。今頃、騷ぎに爲つてゐても奇怪しくは勿い。手振らで歸つては云ひ逃れが出來ぬ。責めて、古人大兄王子に緣の有る品の獨つも勿ければ。讀みの外れた吉備笠臣埀に殘された手は、裏切つた兩者の狹閒で拔け勿くなつてゐた。飛鳥の官衙に出頭し、
「臣、吉野の王子の謀反之徒に預かりまつる。故、今、自ら首まをす也。」
と其の旨、阿倍内蔴呂と蘇我倉山田石川蔴呂の大臣に傳へるやう訴へるも、誰獨り取り合つて貰へず、次に、驅け込んだ貴人の宮でも主の姿は勿く、
「殿下は何處に。」
と中大兄の所在を尋ねた途端、顏色が變り、叩き出された。何と云ふ事か。日嗣の座を降りて出家を裝ひ、吉野の山寺で身の保身と謀反の密議に明け暮れた古人大兄の決起。確かに、此の大事を信じろと云うのが土台無理な話。板蓋宮の變事で恥辱の限りを曝した鈍坊主に、斯樣な大それた知謀と蠻勇の二物が芽生える筈も勿く、復たぞろ、易易と擔ぎ上げられた御餝りの御玉。吉野太子と崇められ、蘇我蝦夷、入鹿の殘黨、蘇我田口臣川堀を筆頭に、物部朴井連椎子、漢文直蔴呂、朴市秦造田來津の叛旗で振り囘される鳴り物に、眞面な生ひ先は望め勿い。負け犬の尻尾に卷き込まれるのは眼に見えてゐる。淺閒敷い欲と意地の張り合ひにホトホト疲れた。吉備笠臣埀は飛鳥の國院、法興寺に足が向いたのも、僧門を潛り、頭を丸めよと云ふ佛の御導きなのかと心が傾いだ。將に其の刻、
「古人大兄が如何した。」
癇に障る掠れた聲が境内の靜寂に爪を立てた。門前小僧達の後ろで搖らめく窶れた隻影。斷食明けの苦行僧の如く、落ち窪んだ眼窩に隈取りをした狂れ人が、美豆良の解けた亂れ髮を逆立てて、蒼く燃えてゐる。朝堂に出仕した事の勿い吉備笠臣埀は、皮肉枯瘦の其の亡者が誰か判ら勿かつた。倂し、面を識つていたら猶の事、變はり果てた姿を信じる事が出来勿かつたらう。
「殿下。」
と振り向いて絕句した小坊主を搔き分け、奧の院から這ひ出てきた中大兄は、尖つた頥に抉れた顴骨を引き攣らせて、吉備笠臣埀の顳顬を劈いた。
「古狸の外道が如何かしたのか。」
冠位を賜り、多忙な宮勤めに嬉嬉として追はれてゐた鎌足の許に其の一報が屆いた時、蘇我大臣の使ひが捲し立てる意味が俄には摑めず、硯に添へた墨柱の手を止めて、暫し、下人の額から頰へと限る汗を眺めてゐた。古人大兄が謀反を企てたと云ふのも寝耳に水なら、法興寺で腐つてゐた中大兄が討伐を指揮し、電光石火で平らげたなぞ靑天の霹靂。厩舍で放牛息馬し、凱歌を揚げる菟田朴室古と高麗宮知に問ひ質し、宮に乘り込むと、廢人同然だつた中大兄が佛殿で居住まひを規し、烱烱と眼を血走らせてゐる。
「遲し。」
鎌足に一瞥も吳れず、内陣の暗がり、唯、其の一點を睨み恫喝する若き暴君。亡者の返り血を浴びて魔竟を覗き見たか。自ら手を穢した者の陷る疑心暗鬼。餘計な物に目覺めて終つた。蘇我蝦夷と入鹿を斥けたとは云へ、輕大王の髙御座は盤石では勿い。勘繰れば勘繰る丈け敵は增えていく。殿下の瞠める闇は深い。此の騰馬の手綱を捌き切れるのか。此處からが腕の見卋處と、鎌足は固唾を獨つ呑み、冠の掛緖を引き締めた。
扶桑の太子、伊勢王は、東の飛鳥で子飼いの蘇我が散り、日嗣の王子同士が矛を交へた喧囂を耳にして、心勿し、秀眉を閒に寄せた。俀王、利歌彌多弗利が病に倒れ、政を委された太宰の府。其の條坊を吹き拔ける藩國の醜聞。猿山の喧嘩は今に始まつた譯では勿いが、合議を旨とする古道は何處へやら。其の藝の勿さに附ける藥は勿い。總ては天孫の掌の芥子粒。吹けば飛ぶ分家の諍ひを、伊勢王は無言で握り込んだ。聖德の太子と呼ばれた多利思北孤の孫で、其の賢德は先帝に生き寫しと稱される御卋嗣ぎの千里眼と順風耳には、翌、
命長七年丙午、九月戊戌、遂に罷り畢へた任那の一報と共に、鎌足が初めての宮勤めで國博士に任命した髙向史玄理を、俀國との緊迫の度を增す新羅へと遣して、宗主國に對抗する外交を祕かに續けてゐる事も、筒拔けの靫。蘇我の討伐で竺志の威勢を削ぎ、良からぬ事を嗅ぎ廻る飼ひ犬の粗相なぞ、出來の惡い童の愛嬌でしか勿い。天の王道を步む太子の憂患は、そんな脇道に眼を吳れず、俀國の行く末を見据ゑてゐた。
命長七年丙午、十一月辛丑、己丑朔庚子、王后、體不豫したまふ。則ち王后の爲に誓願ひて、初めて藥師寺を興つ。仍りて一佰の僧を渡せしむ。甲寅、天皇、病したまふ。因りて一佰僧を渡せしむ。戊午、臘子鳥天を蔽ひて、西南より東北に飛ぶ。
俀王に續き天后も病に倒れ、利歌彌多弗利の容態も重篤の一途を辿る、扶桑の御所。命長元年庚子、太宰府政廳造營に合はせて、
五月辛巳、丁酉朔辛丑に設齋が行はれ、翌、壬寅、
沙門惠隱を内裏に請せて、無量壽經を講かしむ。沙門惠資を以て、論議者とす。沙門の一千を以て、作聽衆とす。
唐土歸りで位人臣を極める志賀漢人惠隱が取り仕切つた無量壽經講話。其の國を擧げての法事に不備が有つたのか、天王は病に倒れ、平癒を祈願し命長と改元して早六年。夜を日に繼いだ修祓と仁術の甲斐も勿く、凶兆の臘子鳥に迎へられて利歌彌多弗利は薨り、
常色元年丁未、伊勢王が扶桑の天子に卽位した。
二月甲辰、戊午朔壬午、新帝は大安殿に居し、親王、諸王及び諸臣を喚して、詔して曰はく、
朕、今より更た律令を定め法式を改めむと欲す、故に倶に是の事を修めよ。然も頓に是のみを務に就さば公事闕くこと有らむ。人を分けて行ふべし。
と宣ひ、常色と元號を改めた。常は、のりを表す「典法」。色は「色法」。則ち佛と物質。此の雙つの法こそ俀國の兩輪。倭王葛、磐倭の定めた律令を大成し、佛門の綱紀を革に改めて、藩國に知らしめる。天下の血束勿くして、半㠀の平定なぞ夢の復た夢。伊勢王は遷宮と共に先帝が健勝を挫かれた太宰府政廳を不祥と見なし、同じ轍を蹈む事に爲るのではと諫める臣下を斥けて、大郡の條坊を後にした。悲しみに暮れてゐる遑は勿い。危機と好機は紙一重。先帝の柵が解けたのも何かの機緣、俀國を革に改める時宜を逸機したと在つては、チのクシ降る神より聯なる天祖に申し譯が立たぬ。
小郡を壞ちて宮を營る。天王、小郡宮に處して、禮法を定めたまふ。其の制に曰く、
凡そ位有ちあらむ者は、要ず寅の時に、南の門の外に、左右羅列なりて、日の初めて出きことを候ひて、庭に就きて再拜むて、乃ち廳に侍へ。若し晩く參む者は、入りて侍ふことを不得。午の時に到るに臨みて、鍾を聽きて罷めよ。其の鍾を擊かむ吏は、赤の巾を前に埀れよ。其の鍾の臺は中庭に起てよ。
新帝は大郡、太宰府の南に數多の國衙、官衙に藥師堂を擁する、三尺三寸强の基壇に柱梁《ちゆうりやう》を組んだ明日香宮を造營して遷居すると、新宮の造法令殿で、白喪に服す生成りの素服に墨を飛ばし、一瀉千里に新法を定め、俀國を榮華の絕頂へと導いていく。
二月癸卯、卽位に魁け、戊午朔丁丑、大山上草香部吉士大形を小錦下位に敍された際、難波連の姓を下賜されると、其れを皮切りに氏姓を革に改め、更に、冠位を七色と十三の階調で選り辨けると、
夏五月丙午、丁亥朔辛丑、禁式九十二條を以て、
親王以下、庶民に至るまでに、諸の服、用ゐる所の、金、銀、珠玉、紫、錦、繡、綾、及び氊褥、冠、帶、幷て種種雜色の類、服、用ゐること各差有れ。
と位階を衣冠の色と素地で表した。然して、先帝が神上がりして百箇日も過ぎ、
六月丁未、丙辰朔己卯、
又卯日定緣日十二之御僧禰宜神主十二人宮奴神前祭不斷也
利歌彌多弗利の御魂を祭り、
七月戊申、乙酉朔丁酉、
天下に令して、悉く大解除せしむ。此の時に當たりて、國造等各、祓柱奴婢一口を出して解除す。
先帝の初盆法要と、伊勢王卽位の祭事が執り行われた。然して、息吐く閒も勿く、
乙酉朔癸卯、
故、沙門狛大法師、福亮、常安、靈雲、惠至、寺主僧旻、道登、惠鄰、惠妙、を以て十師とす。別に惠妙法師を以て百濟寺の寺主とす。此の十師等、能く衆の僧を敎へ導きて釋敎を修業ふこと、要ず法の如くならしめよ。凡そ朝庭より伴造に至るまでに造る所の寺、營ること能ずは、朕、皆助け作らむ。今、寺司等と寺主を拜さむ。諸寺を巡り行きて、僧尼、奴婢、田畝の寳を驗へて、盡に顯らめ奏せ。
佛門の位階を規して十師とし、宗門、夫夫に委ねてゐた僧綱の制を確かな物にし、更には、
十一月壬子、癸未朔乙巳、詔して曰はく、
親王、諸王及び諸臣、庶民に至るまでに、悉く聽くべし。凡そ法を犯す者を糾彈さむときには、或は禁省之中をも、或は朝廷之中にも、其の過失發らむ處にして、卽ち隨見隨聞にして、匿蔽すことなくして糾彈せ。其の重き事犯しし者あらば、請すべきことは請せ。捕ふ當きは捉よ。若し對捍みて捕はれずば、當の處の兵を起して捕へよ。杖色に當たらば、乃ち杖一佰より以下、節級にして決て。亦、犯しし狀、灼然きを、欺きて無罪と言して、伏辨ずして、爭ひ訴へば、累ねて其の本の罪に加へよ。
と宣ひ、「笞、杖、徒、流、死」の五刑を顯らかにした、常色律令を認めると、造法令殿の御座を立つ結びに、藩國の革たな行政單位、評制で集權體制を網羅し、新帝は其の秀叡な勑筆を納めた。微に入り細を穿つ緻密な刑法と禮法を審らかにして、民、臣、君の道を齊へ、豪族を領地から切り離して勢力を削ぐ爲、七色の十三階の冠で更なる官僚化を推し進め、徵收した領地は百姓に分け與へて富國の資を大にし、天下の石据ゑを固め、韓の故地、再興へ、屯倉と兵庫を具に備へる。伊勢王が窄めた眼光の焦點は、天ヶ原に浮かぶ天國と對馬の先に在つた。熾烈を究める海表の情勢。引きも切らさず掩護を乞ふ百濟からの窮報に、此以上、機を窺つて許りではゐられ勿い。歷代の倭王が果たして來た韓の討征。圖南を斗る北狄との果てし勿き攻防。舊辭の卷子を輪轉する戰禍の狼煙が、今、國を負ふ天子の背筋を焙り立てる。此れこそが己の求めてゐた生きる驗。天孫の偉業を聯ねる史の卷末に、此の名を契む刻が來た。年が明け、
常色二年戊申、三月丙辰、壬午朔甲午、
小紫及び宮内官大夫等に命して、新城に遣して、其の地形を見しむ。仍りて都つくらむとす。
壬午朔己酉、新城に幸す。
北狄との鬭爭に明け暮れる唐は、髙句麗を攻め落として後、必ずや百濟、新羅と倂呑し、其の上げ潮に乘つて樂浪海中を渡り、俀國に食指を伸ばすであらう。始皇帝の秦、絕卋の漢も成し遂げ勿かつた東夷平定の野心。長城を越えて中原を征した鮮卑の覇道には限りが無い。避けては通れぬ大國との角逐。唐から歸朝した遣使や學問僧の鬼氣迫る箴言に、新帝は俀國の本貫、竺志で相伐つ不退轉の覺悟を決めた。唐の進擊を耐へ拔いた其の先に、故地復興の道は拓ける。百濟を唐の生け贄にして保身に走るなぞ、天の道では勿い。伊勢王は本土決戰の第一步として、東國の統治と俀國第二の行政機關として、副都難波宮造營を發起し、其の定礎に當たり、木工寮で勞務に服する番匠を制めると、朝自ら行幸して其の地勢を確かめ、片や、俀國の本貫、太宰府死守の爲、後の卋に神籠石山城と呼ばれる防衛網を扶桑の要衝に築く、未曾有の國家事業に著手する。
伊勢王。番匠初。常色二年戊申、日本國巡禮給。當國下向之時、守輿船御乘在之。同海上住吉御對面在之。同越智姓給之。
天下に革たな行政單位、評制を周知させる爲、諸國を歷訪する難波行幸の往路、伊豫の地で領主の守輿に越智の姓を下賜すると、伊勢王は瀨戶の廿重、八百重と聯なる㠀竝みを細見し、
鏡當四年甲辰、新羅人來從筑紫至播磨燒之。
天地開闢より初めて邦土を穢された阿每氏の御卋。傳へ聞く鏡當の役に威儀を規し、遙かなる屈辱に心火を點した。一刻の猶予が一國の憂卋を弑する至難の外政。内政の大鉈を大上段で揮へぬ者に、外狄の命脈を絕つ資格は勿い。
四月丁巳、壬子朔辛酉、詔して曰はく、
親王より以下、佰寮の諸人。今自り已後、位冠及び襅、褶、脛裳、著ること莫かれ。亦、膳夫、采女の手襁、肩巾、竝に服ること莫かれ。
とのたまふ。是の日に、詔して曰はく、
親王より以下諸臣に至るまでに、給りし食封皆止めて、更た公に返せ。
とのたまひ、舊冠位の裝束と運用を差し止めて、位階に基づく食封を一旦返上させ、新冠位と裝束と倶に再配し、七色の十三階の冠を天下に布すと、
夏五月丁巳、辛巳朔癸未、
竺志太宰、大きなる鐘を貢れり。
「其の鍾の臺は中庭に起てよ。」と勑した鐘が、明日香宮の廳、乃ち官衙に屆き、新宮の甍に滲み入る撞鳴、已み難く、書机を立つ佰寮の新冠、名儒の德目、晚照に映える。
八月辛酉、己酉朔壬戌、親王以下及び諸臣に令して、各法式用ゐる慶き事を申さしむ。
九月辛酉、己卯朔癸未、禮儀、言語の狀を詔したまふ。且、詔して曰はく、
凡そ諸の考選はむ者は、能く其の族姓及び景迹を檢へて、方に後に考む。若ひ景迹、行能灼然と雖も、其の族姓定まらずは、考選はむ色には在らじ。
九月壬戌、己卯朔壬辰、勑したまはく、
今自りは以後、跪禮、匍匐禮竝に止めよ。更に之より、立禮を用ゐよ。
再び造法令殿に引き籠もつた伊勢王は、南船北馬の塵垢を拂ふ樣に染み附いた蠻俗に封をすると、中庭の鍾が湛へる寒露の靜寂に耳を澄ました。海表の文物に追ひ著き追ひ越さずして、新羅の肩越しに睨みを利かせる唐と渡り合ふなぞ、鐵を鎚たずに刀を研ぐに等しい。古道に殉つて浮かばれる物なぞ髙が知れてゐる。所要と有らば神事にも手を入れる事すら吝かで勿い。現卋の德を積まず、徒に墓の髙を競ひ、現を拔かしてゐる山猿は組み易し。然う髙を括つてゐられたのも倭王の御卋迠。今は、そんな猿の手も借りねばならぬ國難。佛典に依る敎化で、政と官衙と藩國を文書で束ね、天下臣民を統らす、其の見立てに狂ひは勿かつた。文字に據つて認められた權威に、無殘無殘と組み敷かれていく草昧な豪族達。冠位と云ふ無形の形式を爭ひ、文官を巡る虛榮が新しい富を生み出した。黥面で其の身を文つてゐた上古の民が今、木簡の墨痕で己の位德を文つてゐる。常色の改新とは、扶桑の天子の御膝元で閲される外交と交易以外、天下に普く流通する事の勿かつた文書に據る支配の確立。字義は時宜に相通じ、墨刃を征する者が萬卋を征する。文を明らかにする事こそが韓の故地、再興の道を伐り啓く。其の初志を信じて、墨染めと爲つた白喪の素服を疊むと、伊勢王は徐かに結跏趺坐を組み、眼裡に浮かぶ眞言を潺潺と誦した。
常色三年己酉、歲が明けると共に紫冠を敍かり、更なる增封を賜つた鎌足は、邃く常色の改新の恩惠に與つてゐた。東國から出仕し全く地盤の勿い山門の地で、輕大王の寵偶に浴し、冠位と引き換へに領地を明け渡した豪族と肩を竝べ、古式に拘る者達を尻目に榮達の階を驅ける幸甚。天にも昇るとは將に此の事。帆を飜した時卋の潮目は、己の才獨つで渡り步く鎌足に味方した。然して其れは、拭ひ切れぬ血糊と背中合はせの猜疑を、夜凪の不知火の樣に惑はしていく。
三年己酉初置八省百官及十禪寺。六年壬子改元白雉。
閏二月丁卯、丙子朔己丑、僧正、僧都、律師を任けたまふ。因りて勑して曰はく、
僧尼を統べ領むること法の如くにせよ。
是月、博士の髙向史玄理と釋の僧旻とに詔して、八省、佰官を置かしむ。
伊勢王の勑の許、八省百官及び十禪寺を置きて、官吏と佛門を統べ制へ、多利思北孤の揭た宗政一致を推し進めると、其の幾重にも締め上げる竺志の軛に力盡きたかの如く、
三月己巳、丙午朔壬戌、阿倍内蔴呂が薨り、左右の大臣の一翼が折れた。山門の朝堂の屋台骨は支へを失ひ、輕大王が擧哀きの禮に噎ぶ朱雀門は、怪しく傾ぎ始める。去る歲、改めた冠位を意に介さず、食封と共に一旦返上する可き紫冠の儘、政を執り仕切つた大臣。其れも獨りならず、雙りが足竝みを揃へる、無言の背反。古式を改める事で翼を得た鎌足とは裏腹に、割を喰つた者達の咒詛は地の底を這つてゐた。蘇我蝦夷と入鹿が斥けられ、竺志の威勢も削がれるかと思ひきや、改新の勑に因り、蠻俗の一言で斬り捨てられた東の飛鳥の禮法。其の上、領地は次次に召し上げられ、竺志の宗主が難波に宮を造營し、直に東國を睥睨すると云ふので、輕大王迠もが飛鳥の故地を離れ難波に遷宮する羽目に。俄に搔き曇る板葺きの空。蘇我蝦夷と入鹿が蓋をしてゐた蠱壺は徐かに溢れ返り、其れ其れの思惑が手探りで離合輯散を繰り返していく。
伊勢王から押し附けられた常色の改新に眉を顰める守舊派は、蘇我倉山田石川蔴呂と阿倍内蔴呂、雙りの大臣を擔ぎ上げた。扶桑の顏色を窺ふ丈けの輕大王は、髙御座の棚の上に置かれ、大臣の徒のみで積み重ねる山門の合議。其の輪の中に中大兄の姿は勿かつた。蘇我の氏寺に引き籠もつてゐた頃と較べれば持ち直したとは云へ、其の荒んだ蒼貌は見る者の眼を氷の礫に變へ、血の臭ひを知つて終つた者の猟奇が未だ燻つてゐる。蘇我の殘黨の餘力は如何程か、蘇我と入れ替はりに息を吹き返した者達は如何出るのか。新しい竺志の犬は誰か。古人大兄の次は誰が裏切るのか。烱烱爛爛と群臣、氏族の眼の色を覗ふ、闇の中の狐疑恆。彼の器では己の犯した罪に耐へられまい。況してや、輕大王を引き立てて朝庭を立て直すなぞ、狼に菟の卋話をしろと云ふ樣な物。靜觀するに如くは勿いと、丹塗りの柱の蔭で息を潛めてゐた鎌足。阿倍内蔴呂の薨去は其の膠著の緊を解いた。
王族の血筋に眼が眩み、遠智娘を姻がせた石川蔴呂は、入鹿誅罰の爲體と、其の後の人心から程遠い婿殿の奇行に幻滅し、最早、見切りを附けた婿殿を顧みる事も勿い。譬へ、日の目を見たとしても、無駄な重荷でしか勿い女の立后。其の悔悟と失望の矛先を不甲斐勿い朝堂の變節に向け、左大臣と示し合はせて紫冠を被り續けた。眼に餘る不遜な態度。盤石では勿い輕大王の髙御座を搖るがす無言の叛禮。其の一角が崩れた途端、鎌足は殿下が下手を打つ前に先手を取つた。
蘇我の宗家を嗣いだ石川蔴呂を妬み嫉む者なぞ、叩けば出てくる綿埃。蘇我には蘇我の鉄則は此處でも生きてゐる。唯でさへ、人を見れば咆える犬に墮ちた中大兄が、片翼を捥がれた石川蔴呂に眼を付けるのは時閒の問題。其の前に鎌足は蘇我臣日向、字は身刺に眼を付けた。元來、鎌足の仲人で、遠智娘の前に中大兄が契りを交はしてゐた石川蔴呂の長女と、密かに通じて聯れ去つた蘇我の亞賊。其の因緣淺からず、斯くも巡り巡つて來る物か。今思へば蘇我臣日向の狼藉も天の配劑。彼の時に中大兄と切れてをれば、蘇我の長老も天壽を全うした筈を。
丙午朔己巳、
「僕之異母兄の蔴呂、太子海濱に遊すを伺ひて將害之。將に反かむとすること、其れ不久。」
何んなに淺い嫌疑でも身内の密吿なら腑に落ちる。舅の不軌で婿殿の僻耳を擽り、狐疑の辿る道筋を、脇に逸れぬやう導く石川蔴呂の異母弟。何せ、此の何處に飛び火するか判らぬ腹の虫を野放しにしては、治まる物も治まらぬ。鎌足は蘇我臣日向を介して中大兄の怒りを本丸の一點に仕向け、大王に良弼す可きと、詮議の進言を促し、自らは石川蔴呂の獨り相撲と爲るやう根囘しに努めた。
髙御座から下された勑命で、大伴狛連、三國蔴呂公、穗積嚙臣を石川蔴呂の許に遣し、謀反の虛實を問ひ質すと、
「被問之報は僕面えて當に大王之所にて陳すべし。」
追ひ詰められた舅は、一蓮托生で在つた筈の婿殿に輔けを求めず、朝庭への直訴を申し出る。倂し、輕大王は一切應じず、再び三國蔴呂公、穗積嚙臣を遣して、事の次第を審らかにせよと繰り返し、亂臣賊子の舘を圍む可く、蘇我臣日向等に命じて兵馬を揃へた。左右の大臣が無言の異を唱へた改新に、贊同した者達は鳴りを潛め、阿倍内蔴呂が病に倒れた時點で、先手を打た勿かつた己を責める石川蔴呂。紫冠を被つて挑發し、中大兄の疳の虫が騷いだ處を逆手に取る筈が、逆手の逆手を捻じ上げられ、手の打ち樣が勿い。御餝りの輕大王を云い包めて嗾け、反動の族を音も勿く寢返らせたのは誰か。缺けた器で掬ひやうの勿い殿下に蔭の如く付き副ひ、遠智娘との惡緣を媒つた彼の漢。彼の成り上がり勿くして、中大兄の今は勿い。鎌足の平身した低頭の裏で描き込まれる筋書きに、石川蔴呂は組む可き曲者の異才を見誤つた、己の眼力を愧ぢた。朝庭の命を受けて蹴立てる戎馬の蹄塵。日向も何れ、捨てられる爲に遣ひ囘されてゐる事を知るであらう。然して、袋の鼠が氣付いた時には辯明の餘地すら勿い。
石川蔴呂は法師と赤猪、雙りの庶子を聯れて、鼠賊の誹りを嚙み締めた。朝敵と爲つて脫け出す、包圍の網の目。石川蔴呂の發願で山田寺の建立に當たつてゐた嫡男、興志は、父の危急を耳にして今來の大槻まで出向き、造營中の境内に迎へ入れると、
「興志、請はくは自ら直進みて來たる軍を逆拒まむ。」
と窮鼠の氣概を揮ひ、石川蔴呂に諫められても、小墾田宮を燒き討つと息卷き、士卒を聚めて、今や死に花の大輪にのみ取り憑かれてゐる。
翌、丙午朔庚午、
「汝、身を愛しむ乎。」
憔悴した面持ちで忽然と尋ねる石川蔴呂に、興志は決然と反した。
「不愛也。」
父の眼を一點に勾へて放さぬ嫡男の、餘りにも一途な其の矜恃。壓倒的な絕望と死に物狂ひの野望が鬩ぎ合ふ、若さ故の燃え盛る叛骨が、俗塵の滲み附いた老骨に堪へる。煩悶に次ぐ煩悶の夜を明かし、澄み渡る朝未だきの玲氣。立夏の賑綠が匂ひ立つ飛鳥の山懐で、落魄の將は熟熟、人の卋の虛しさに疲れ果ててゐた。竺志の猿眞似を持て囃し、祖神を敬ひ、釋尊を崇め、禮法を改め、文化の華を取り繕つた處で、欲目に眩み、人を貶め、恩を仇で返す猿山の小競り合ひに限りは勿い。蝦夷と入鹿を斥けた時には諸手を擧げた蘇我の徒が、瞬く閒に掌を返す、同族での啀み合ひ。擧げ句の涯に、冠の色が如何のと目抉らを立て、被る被ら勿いで意地を張り續けた己の淺閒敷さ。髙が布切れ獨つで命を分け合ふ意味が何處に在るのか。石川蔴呂は斗折蛇行の夢路から目覺めた丈けでも、能しとする境地に達してゐた。衆僧、長子、興志を聚め、朖朖と己の不德を省みる最後の潔齋。
「夫れ人の臣と爲れ者、安そ君にふることを構ふや、何そ父に孝ふことを失すや。凡そ此の伽藍者、元より自身の故に奉りて誓ひ作れり。今、我、身刺に見譖らへて橫しまに誅さへむことを恐る。聊願はくば、黃泉に尙ほ忠を懷ひて退らむ。寺に來し所以は、終の時を易から使めむにあり。」
と言ひ畢へ、佛殿の戶を開けて仰ぎ、
「願はくは、我が生卋生卋に君王を不怨。」
と誓ひを發て訖へると、石川蔴呂は未だ組み上がつてゐ勿い内陣の梁に首を掛け、自經きて天壽を絕つた。髙御座の棚の上に置かれた輕大王なぞ裳拔けの形代。總ては邇邇藝命より續く祖神の治卋を鎭める爲。聯れ添つた妻子も其の後に殉ひて、蘇我臣日向と大伴狛連の軍勢が山田寺に到る迠に總ては決し、落慶法要も儘ならぬ未完の伽藍に噎ぶ禱命を、殘屑の後始末に取り掛かる戎馬が蹈み躙つていく。
中大兄が運ばれてきた骸を檢め、石川蔴呂の生首に古き紫冠を叩き附けて振り返ると、遠智娘は其の場に泣き崩れ、以後、碎け散つた心根が正氣に戾る事は勿かつた。首獨つと爲つても猶ほ紫冠を被る石川蔴呂に默禮し、筵を被せる鎌足も、自害に追ひ込む丈けでは飽き足らず斬首を命じた殿下に、此の騰馬は野放しに出來ぬと、改めて思ひ知る。其の手に滲み附いた血の臭ひに、心が安まる事は勿く、石川蔴呂の生首も明日の我が身。最早、己の影に怯える亡者でしか勿い。其れに引き換へ、惜しい漢だ。器で云へば中大兄なぞ比べ物にもなら勿い。越度と云へば、護る可き山門の古道、其の一絛を貫き過ぎた事のみ。だからこそ竺志の富と權力に屈し勿かつた傑物が、斯樣な姿で晚節を鎖ぢようとは。禮節も弔意も拂はれず、死肉の穢れとして片付けられていく蘇我の長老。後に、召し上げられた舘から「太子の物」と書かれた良書、重寳が見付かり、石川蔴呂は無實だつたとの空言が吹き渡つた處で、後の祭り。革に改められた律令の五刑に據り、一族郞黨は聯座して、其の處罰は酸鼻を究めた。
生き殘つたのは遠智娘と蘇我臣日向の許に走つた姉、然して、妹の姪娘。其の唯一心を許せる妹を中大兄は力盡くで我が物にした。父の爲、一族の爲、姻いだ良人の榮達の爲、雙りの子女を儲け、一心に盡くす遠智娘への暴虐な仕打ち丈けでは飽き足らず、妹迠も手込めにする血迷つた妄執。死者は生者をして占有せしむ。殺めた者の數丈け彌增す、猜疑と風狂。中大兄は蘇我の亡靈を弄ぶ樣に、蘇我の女達を手當たり次第に娶つていつた。
常色三年己酉、十一月丁丑、辛丑朔庚午、
凡そ都城、宮室、一處に非ず、必ず兩參に造らむ。故、先づ難波に都造らむと欲す。是を以て佰寮の者、各往りて家と地を請はれ。
伊勢王が難波宮造營、複都の詔を賜ると、歲が明けて、
常色四年庚戌、二月己卯、庚午朔庚辰、
淨廣肆、小錦中及び、判官、錄事、蔭陽師、工匠等を畿内に遣して、都つくる應き地を視占たまふ。是の日に、小錦下采女臣筑羅等を信濃に遣して、地の形を看しめたまひふ。是の地に都つくらむとするか。
二月己卯、庚午朔辛卯、
伊勢王京師に巡行きたまひて、宮室の地を定めたまふ。
四月辛巳、己巳朔丙戌、
翌る年の九月に、必ず閲せむ。因りて佰寮の進止、威儀を敎へよ。
凡そ政の要は軍事なり。
一觸卽發の半㠀情勢。決戰に備へ竺志の地に山城の防壘を積み上げ、屯倉と兵庫を檢分し、諸諸の軍士、佰官に鏡當の役の慘劇を說いては綱紀を引き締め、風雲の士氣を賦活、督勵した。
冬十月、宮の地に入れむが爲に、丘墓を壞られたる人、及び遷されたる人には、物賜ふこと各差有り。卽ち將作大匠荒田井直比羅夫を遣して、宮堺標を立つ。
冬十月、難波宮に坐す袁智大王、庚戌冬十月に始めて、辛亥春三月に造り畢はる。
常色四年庚戌、冬十月丁亥、
伊勢王は難波京の造營を越智國の大王に勑命を下すと、八色の姓を制め、
十月丁亥、丁卯朔己卯、詔して曰はく、
更た諸氏の族姓を改めて、八色の姓を作り、以て天下の萬の姓を混す。一に曰はく眞人、二に曰はく朝臣、三に曰はく宿禰、四に曰はく忌寸、五に曰はく道師、六に曰はく臣、七に曰はく連、八に曰はく稻置。
此の日に、守山公、路公、髙橋公、三國公、當蔴公、茨城公、丹比公、猪名公、坂田公、羽田公、息長公、酒人公、山道公、十三氏に姓を賜ひて眞人と曰ふ。
十一月戊子、丙申朔戊申、
大三輪君、大春日臣、阿倍臣、巨勢臣、膳臣、紀臣、波多臣、物部連、平群臣、雀臣、中臣連、大宅臣、粟田臣、石川臣、櫻井臣、釆女臣、田中臣、小墾田臣、穗積臣、山背臣、鴨臣、小野臣、川邊臣、櫟井臣、柿本臣、輕部臣、若櫻部臣、岸田臣、髙向臣、完人臣、來目臣、犬上臣、上毛野君、角臣、星川臣、多臣、胷方君、車持君、綾君、下道臣、伊賀臣、阿閇臣、林臣、波彌臣、下毛野臣、佐味君、道守臣、大野君、坂本臣、池田君、玉手臣、笠臣、凡そ、五十二氏に「朝臣」を賜姓されるのを急がれ、氏族の務めと位階を顯らかにしていく。虫の知らせが然うさせたので在らう。
常色五年辛亥、八月戊戌、壬辰朔甲寅、
諸王を京及び畿内に遣して、各人夫の兵を挍へしめたまふ。
九月己亥、辛酉朔甲申、
淨大肆、直廣肆、判官以下、幷て廿人を以て、畿内の役に任す。
難波と山門の統治に數多の臣下を差配する爲の布石は石火の如く。扶桑の京、竺志から諸諸の吏を下向させた五日後、
九月己亥、辛酉朔己丑
伊勢王等、亦東國に向く。
扶桑の朝は時を置かず、難波に遷居した。天子の直轄地、九州からの下向。倭國の本貫を後に爲る其の哀惜と慚愧に熱き眦を堪へ、未曾有の國難を乘り切る爲、譬へ、敵に背を向ける誹りを受けやうと、打てる手は總て打つ。伊勢王に迷ひは勿い。百濟の肖古王が髙良玉埀命に七枝刀と七子鏡を獻つた御卋迠は、百濟と新羅で同屬の鞘當ては在つても、韓の地を拓いた倭國に叛を飜すなぞ有り得ぬ、杯中の蛇影で在つた。其れが北狄との雜交に因つて生まれた、新しい柵と利權と血緣が、韓の地の人心と信義を、次第に竺志から遠避け、同じ倭人の末裔で在り乍ら、意地を張り合ふ猿山の小競り合ひは、骨肉相食む、生き殘りを賭けた泥沼に嵌まり、然して遂に是の年、
夏六月乙未、
新羅の貢調使、知萬沙飡等、唐の國の服を著て、筑紫に泊まれり。朝庭、恣に俗移せることを惡みて、訶嘖めて追ひ還したまふ。時に、巨勢大臣、奏請て曰はく、
「方に今新羅を伐ちたまはずは、後に於て必ず當に悔い有らむ。其の伐たむ狀は、擧力む不須。難波津より、筑紫海の裏に至るまでに、相接て艫舳を浮け盈てて、新羅を召して、其の罪を問はば、易く得べし。」
伊勢王の逆鱗と震撼は何計か。髙句麗の雄鷄に鷄冠を立てる分際で、唐服を纏ひ龍顏に謁えた新羅の遣使。其の場で大刑を不揮るは、偏に、禁中の不淨を厭ふ寛仁大度の故。然れど、朝の雅量にも限度と云ふ物が在る。
常色三年己酉、
新羅始めて中朝の衣冠を服す。
常色四年庚戌、
新羅年號を廢止、唐の永徽を用ゐる。
との稟吿は天子の順風耳に屆いてはゐたが、眞逆、俀國の北闕に唐の威を借りて蹈み込んでくるとは。扶桑の尊望も地に墮ちた。面從腹背すら取り繕はぬ、習俗は從屬の證し。形丈けの朝貢に意味は勿い。新羅の心、今や此處に在らず。況してや、年號とは國の誇り。史を司る、治卋の要を捨てた者に、何の信義が有ると云ふのか。巨勢大臣の哭訴も無理は勿い。
常色五年辛亥、十月己亥、辛卯朔甲辰
儲用の鐵一萬斤を周芳の揔令の所に送す。是日、筑紫太宰、儲用の物、絁一佰匹、絲一佰斤、布三佰端、庸布四佰常、鐵一萬斤、箭竹二仟連を請す。筑紫に送し下す。
辛卯朔丙午、四方の國に詔して曰はく、
大角、小角、鼓吹、幡旗、及び弩、抛の類は、私の家に存く應からず。咸に評の家に收めよ。
伊勢王は難波の新宮に坐すと、杮を拂ふ其の口火に勑して、周芳と竺志の軍器を增强し、
十一月庚子、庚申朔己巳、
新羅、波珍飡金智祥、大阿飡金健勳を遣して政を請す。仍りて調進る。
新羅の遣使も召還され、其の船尾を追ふ樣に、
庚申朔乙亥
筑紫に遣す防人等、海中に飄蕩ひて、皆衣裳を失へり。則ち防人の衣服の爲に、布四佰五十八端を以て、筑紫に給り下す。
周芳から竺志の領水に艦を竝べて新羅への示威を敢行。曠古にも譬への勿い騷亂に自ら船底を覆し、溺れる者も數知れず。海表の澎湃に揉まれる扶桑の天の基。斯樣な、後には退けぬ國難が、伊勢王の御卋を倭奴國より續く俀國の絕頂へと驅り立てていく。
常色五年辛亥、十二月壬寅、戊午晦、
難波宮に、二千百餘りの僧尼を請せて、一切經を讀ませ使む。是の夕に、二千七百餘りの燈を朝の庭内に燃して、安宅、土側等の經を讀ましむ。是に、伊勢王、大郡より遷りて新宮に居す。
伊勢王遷居の祈念式が盛大に擧行され、明けて翌、
白雉元年壬子、春正月壬寅、己未朔、
車駕、難波宮に幸して、賀正禮を觀す。是の日に、車駕、宮に還りたまふ。
天下の諸王、文武佰官は難波宮に聚參して朝賀の儀に臨み、扶桑の天子に新年の御慶びを申し上げた。晦の昨夜に、執り行われた莊大な法會も然る事乍ら、初めて拜塵に浴した俀國の正統な文物の御稜威たるや、天孫の玄德に僞り勿し。宮に戾つた輕大王は、伊勢王と新宮の尊勝を目の當たりにし、未だ落成に到らぬ、其の破格の片鱗に痺れ、暫し車駕から降りれずにゐた。丹塗りの柱は倚り丹く、倚り太く。日輪を照り返して構へる朱雀門は、天を覆ひ盡くして憚る事を知らず。朝堂院を巡る囘廊の果てに聳えた、物と質の粹を盡くす大安殿の意匠と陣容は、玉の臺の金殿玉樓にして、此ぞ將に俀國の殿堂。天庭の御前と較べたら飛鳥の朝堂なぞ豪族の箱庭。國力の差は較べる迠も勿い。正門に鳥形、左に日像、靑龍、朱雀、右に月像、玄武、白虎と樹て巡らした幢幡から、天子の禮服に結はれた絛帶に到る迠。竺志の正絹錦糸で編み上げた裝束の氣品たるや、天の羽衣かと見紛ふ許りで、一條の皺が織り成す麗しき色艶は、瑞雲を步むが如し。蚕屋を建てる術も勿く、竺志の御下がりを奪ひ合つて纏ふ、見窄らしい山門の身形とでは雲泥を計るに等しい。百濟の遣使に流求の太子。常色元年丁未、俀國に歸順し、渟足の柵を設けた、古志の蝦夷の俘人も參列する、天下の貴種の總攬に在つて、山門の大王なぞ、天子の御膝元に謁える事を赦されて、其の座の前後を爭ふ客人の獨りでしか勿かつた。儀仗を構へる竺志の軍士も、猿山の喧嘩を繰り返す豪族とは毛竝みが違ふ。海表を渡り外狄と矛を交へて、倭國と韓の地を護り續けてきた血筋が如何に本者か。隙の勿い具足は英氣で漲り、粗野な振る舞ひを戒め、魁傑に驕る事を知らぬ益荒男の、膽然とした雄姿には惚れ惚れとする。然して、
大安殿を背負ひ、龍尾の壇に出御された伊勢王に至つては、岩戸の封を解いた日神も斯くやと云ふ靈光に滿ち溢れ、其の龍眼は群臣を一瞥で征した。聖德の太子の生まれ變はりとの巷說に、耳を貸さ勿かつた不敬が今と爲つては羞づかしい。立御して天地を明らかにする不動の玉顏。大らかにして嚴かな國を支へる御柱の貴迫。此ぞ常色の君。神の胤裔は一系にして冒す應からず。天孫は存在した。分家と本家では此程にも差が在るとは。磐餘彥命が竺志から下向したのも頷ける。輕大王が登る髙御座は猿眞似の茣蓙だつた。參種の神璽を受け繼ぐ扶桑の天子の前では懼れ畏む事しか出來ず、跪禮から立禮に改められた事も忘れて其處彼處に匍匐出で、失笑を買ふ始末。朝儀の場で玉音が何と宣り賜はれたのかも浮はの空。樂に五弦の琴、笛あり。射戲、飮酒を饗す朝會は、愧愧汗汗に塗れて過ぎていつた。其れは此の上勿き榮譽に與つた驗でも在り、今以て醒めやらぬ槐安の夢。
宮では、翌、庚申、輕大王の臣下が參内し、祝賀を奏上する設へに追はれてゐる。恐らく、山門の諸臣は新宮での朝賀の樣子を尋ねて來るだらう。竺志の天子が何爲者ぞ。藩國の寄せ集めと見縊り、吾等が本貫に乘り込んで來たからには、眼に物を見せて吳れる、と息卷く者達に釘を刺さねば。新羅と裏で通じてゐる山門の者達は、新羅の遣使が唐服で扶桑の天子に謁えた反禮に快哉し、俀王が難波に逃げて來たと北叟笑むが、不遜な態度は噯氣にも出しては爲らぬ。特に、中大兄は朝賀の閒、借りてきた猫の樣に溫和しかつたが、何を血迷つても奇怪しく勿い。王子に鎌足を引き合はせ、媒つたのは、果たして時勢に剴つてゐたのか。蘇我の權能を削ぎ、日嗣の位に立ちはした物の、心の安まる時が勿い。虫も殺せ勿かつた虛け者に、斯樣な鬼殆が眠つてゐたと、誰が知らう。今では其の卑小な器の底に穴が開き、何もかも撲ち撒ける、掬ひの勿い亡者に化けて終つた。然も其の化生に讓られて卽位した以上、彼の鬼子に次の御卋を統らす權と利が有る。全く如何ともし難き功と罪。選りに選つて、吾が子が其の日嗣の階に肩を竝べ、爭ふ事に爲るとは。譬へ望外の椿事で、何んなに低い髙御座で有らうと、一旦、昇つて卋を見下ろせば欲が自づと出て來る物。中大兄を斥け、有閒王子に嗣ぐ道筋は勿い物か。賴みの綱は此の手で紫冠を敍けた鎌足の手練手管。氣の觸れた鬼に轡を掛けられるのは彼の漢を措いて他に勿い。恐らく、其の一存で總ては決する。中大兄と輕大王、果たして何方の腹心なのか。
氣を揉む山門の朝に對して、當の鎌足は、
一月癸卯、己未朔戊寅、
白雉が獻上されると云ふ報せを聞き付け、難波宮に參内する許しを得た。
僧旻法師、曰しく、
此に休祥と謂ふは、希しき物と爲ふに足れり。伏して聞きまつる。王者、旁く四表に流けば、則ち白雉を見ゆ。又、王者、祭祀して不相踰て、宴食衣服に節り有れば、則ち至せり。又、王者、淸素れば、則ち山に白雉出づ。又、王者、仁聖にませば、則ち見ゆ。
唐土歸りの衒學に鎌足は辟易してゐた。口先丈けで卋渡りをする、識れ者は癡れ者。不歸の航海に賭した其の身命を事有る每に持ち出し、上から物を云ふ法師達なぞ、雁字搦めの僧綱で、猶一層、縛り上げれば良い物を。色違ひや三本足の禽獸なぞ、山奧に潛めば幾らでも飛び囘はつてゐる。そんな僞りの慶事吉兆に肖る者が居る限り、白く塗つて羽根が固まり、飛べ勿くなつた土鳩を差し出して、五刑の笞を受ける者も後を絕たず、相手にせぬのが賢人の嗜み。然うと判つてゐ乍ら、鎌足の足は瑞鳥が納められたと云ふ大藏省に急いだ。入鹿の豎者が捕まへたと云う解語の鳥。彼の化鳥と出遭つてから何かが變はつた。若しや、其の白雉と云ふのも、否、そんな眞逆。胸奧で疼く獨礫の痼り。萬が壹の疑懼が背中を押して、帶劍の柄に逸る心が汗ばみ、握り込んだ拳が泥濘んでいく。
夕映えに燃え盛る丹塗りの大安殿。扶桑の更に東に構へた新しい國衙の聳懼は、物部守屋、捕鳥部萬と平定し、難波、河内、龍田、斑鳩を結ぶ澁川道、龍田道に、四天王寺、澁川寺、西安寺、法隆寺若草伽藍、中宮寺を竝べた權勢をも凌ぐ激甚で、東夷の民を再び打ちのめした。十六の朝堂院も條坊も未だ創建の最中で此の壯觀。此れが扶桑の副への都。此れが天下に六十六の國分寺を打ち建てる俀國の本領。然も、多利思北孤が建立した自らの菩提寺、竺志の法興寺には、官道を餝る佛殿の競演や、新宮の全貌ですら霞む、扶桑一の刹柱、五重塔が在ると云ふ。釋迦の法力が地に放つた靑天の霹靂と稱される、其の威風は如何許りか。將に雲を摑む樣な話しで、鎌足は莊嚴な柱梁で築き上げられた難波宮とは吊り合はぬ、如何はしい瑞鳥の影を追ひ、朝堂院の外廊を巡つて、西日が絞り出す最後の一滴と、焦眉の一刻を爭ふ事しか頭に勿い。
山鄕の屯倉とは譯が違ふ大藏省の奧室に通されると、其處には旣に、竹で編まれた鳥籠を雙りの先客が覗き込んでゐた。
「火の鳥を見た事が勿いのだらう。物珍しい丈けの奇種を持て囃して獻り、天王の御機嫌を窺ふとは。山猿の淺智惠にしても底が知れる。」
威儀を極めた軍士の豪放磊落な嘲弄が響く、茜色に染まつた西向の白亞。其の大らかな哄笑を背に、輕く屈み込んだ徒は錐眼を凝らし、息を殺してゐる。海底から掬ひ上げた眞珠の樣に煌めく倭絹の胡服。屨形の繡錦は匠を究め、漆で固めた無位の冠に、何も氣負はぬ鳥尾の髻花。鎌足は其の稟質を隱し果せぬ端正な橫顏に、
扶桑の稀人。
然う直感した途端、膝の皿が割れた樣に平伏した。理窟を超えて押し寄せ、問答無用に突き落とされる、天道と王道の天地の差。嗚咽とも吐き氣と附かぬ熱い物が臍の奧から込み上げ、怒濤の恍惚が波を打つ。其の畏まつた氣配に振り向き、含羞み乍ら片手を振る天孫の貴種。
「立禮で構はぬ。飛鳥の仕來りならば身内で遣れ。息苦しくて敵はぬ。」
山門では獨つでも位階を疏かにすれば、咆え猿の喧嘩が始まると云ふのに此の大樣。倂し、鎌足の四肢は痺れ、面を上げる事が出來勿い。軍士は鎌足に眼も吳れず、稀人に耳打ちをして籠の雉に目配せをした。
「薩夜蔴。斯樣な紛ひ物、天王の御眼汚しにすら價せぬ。放つか。」
此れが參種の神璽を約束された、伊勢王の日嗣ぎ、明日香王子、薩夜蔴。中大兄が憐れに思へる程の其の龍貌。庚申の朝賀で輕大王の繰り返した、守舊派への諫言が鎌足の耳骨に木靈する。安易な俀國への對抗心なぞ、矛で雲を突くが如し。天孫とは唯、其處に居る丈けで、否應勿しに他を壓する、斯くも懸け離れた存在なのか。海表の文物を輕やかに著熟す、洗練された典雅な物腰も然る事乍ら、祖神から庇護を賜る其の靈威たるや、將に基の御柱。此の殿下は千載萬卋の風雪に揉まれ、不當な大禍に虐げられやうと、必ず史に名を刻む、極辰の星を背負つてゐる。其れに較べて、地に這ひ蹲り、拜謁の僥倖に打ち顫へてゐる此の樣は何だ。鎌足は、史を此の手で書き換へるなぞ、何と大それた事を、仕へる可きは此の稀人では勿かつたのかと、唯只管、天孫の御前に叩頭した。
「大海人、此の鳥に輿を計らへ。朝には臣から奉る。」
振り向き樣の鶴鳴に鎌足は再び畏まつた。大海人と云へば薩夜蔴と腹違ひの大皇弟。何たる不覺。倭國の年號にも其の名を聯ねる兄弟統治の扶桑に在つて、常色の海幸彥と山幸彥とも稱されて竝び立つ稀人を前に後塵を被る事しか能が勿い。薩夜蔴が鳥籠に放つた最後の一瞥は險しく、思ひ詰めた秀眉の狹閒には、勇斷の相が刻み込まれてゐた。隊仗の大海人も去り、水平に射し込む落陽の長い影が床に延び、鎌足と鳥籠の寫せ身丈けが灼き附いた白亞の一室。遠離る跫音が消え入り、徐かに面を上げると、鳥籠に囚はれた白雉が一羽。鎌足は尊顏を拜した恐悦と慚愧に放心し、膝を著いた儘、暫く漠然と天王の御卋を讚へる瑞鳥を瞠めてゐた。眞紅で存る筈の頰の肉埀れから尾羽の先迠、殘照に染められても猶、新雪かと見紛ふ透き通る白皙。人が手を加へずとも髙貴な其の妖貌が、更に際立つ神神しき毛竝み。とは云へ、
「斯樣ナ紛ヒ物ニ他奇ハ勿イ、デスカ。」
不意に、一人取り殘された奧室を招かざる聲が掠めた。振り返つても人の姿は勿く、己の影が狼狽へてゐる許り。鎌足は血の氣が引き、後ろを振り返る勇氣が勿く、見開かれた眼路を泳がせると、
「御榮達ノ御慶ビヲ申シ上ゲマス。」
鳥籠の影の中に白雉が居勿い。竹の骨組み丈けが白亞に灼き附き、人の眼の僞りを暴き出す。鎌足は忘れてゐた。彼の日、官衙を飛び出した己こそが、籠の鳥だつた事を。恐る恐る横目で盜み見ると、彼の時と同じく何事かを訴へる白雉の円らな瞳が、竹の編み目から覗いてゐる。然して、
「譬ヘ自ラハ望マヌトモ大臣ニ推擧サレルトハ。此ゾ宿德ノ譽レ。」
背後の長く延びた己の影が鎌足に語り掛ける。
之の日、夕、鳴鳥在り。
とは此の事か。
「眞逆、貴樣は彼の時の。」
鎌足は帶劍に手を掛け、影では勿い鳥籠に突き附けた。倂し、
「彼ノ時ノ何デスセウ。」
影に映ら勿い瑞鳥は微動だにせず、背負つた影に問ひ返されて、卋もや雀か雉かを問ふて騷ぎ立てる譯にも行かず、舌尖を呑む鎌足。彼の時と同じ円らな瞳で、唯、在るが儘に觀られてゐる恐怖。此の眼差しは在るが儘を映す鏡だ。鎌足が潛んでゐた闇の一點を射拔いて光に變へ、鎌足の噓と、彌榮の幻は、其の光に瞠められるて崩壞した。此の化鳥は一體、何物なのか。何故、再び巡り會つて終ふのか。白魔の絡めた絲に手繰り寄せられてゐる丈けなのか。饒舌な己の影を背に、幼氣な瑞鳥に斬つ先を向ける、己の尻尾に吠える犬。此れではまるで大安殿の俳優では勿いか。彼の日、飛鳥の官衙で小雀を相手に演じた醜態と、同じ過ちを繰り返してゐる己に、鎌足は刃を突き立てた。
「白を切るのは其の尾羽丈けで足りてをる。云ふてみよ。囚はれの身で何を企む事が有る。」
「此處デ羽根ヲ休メテヰル丈ケノ小禽ニ、聲ヲ荒ゲテ如何程ノ利ガ有リマセウ。逃ゲモ隱レモ致シマセヌ。自ラ訪ネテ來ラレタノハ何故カ、胸ニ手ヲ當テタ其ノ上デ、御役ニ立テル事ガ有ルノナラ、何ナリト。」
「飛んだ霍公鳥め。貴樣の手を借りる事も何ければ、化鳥から魂迎へに喚ばれる覺えも勿いわ。血反吐を吐く迄、啼き續けるが良い。」
「左樣デ。漸ク巡ツ來タ、易姓ガ改マル星ノ列ビヲ、素通リシテ終ハレルトハ、何トモ偲ビ勿イ。冥加ニ餘ル、鹽漬ケニサレタ星ノ淚ハ、嘸カシ苦イ事デセウ。」
「何と。易姓が改まるとは。前にも斯樣な事を火裂きをつて。」
「小禽ノ戲言ト其ノ能ヲ疑フノナラバ、噓僞リノ勿イ驗ヲ御見セシマセウ。」
「驗とは如何に。」
「此ノ小禽ガ今、此處ニ存ル驗ニ年號ヲ改メ、『元壬子年』ト刻ミマセウ。譬ヘ何者カガ其ノ曆ヲ捏ネヤウト、遠ク及バヌ常シ方ノ息吹キヲ吹キ込ミマセウ。誰ノ目ニモ顯カナ樣ニ。」
「常し方とな。常し方とは如何に。」
「人ノ卋ガ在ラウト勿カラウト、巡リ續ケル物、トデモ爲テ措キマセウ。其レハ不死デスラ勿イ天ノ理。詮ズル所、人ノ卋ガ求メル不死ナゾ、名聲ノ獨リ善ガリ。己ノ生キ樣デ威信ヲ誇ルノモ、死ネバ總テガ無ニ歸ス事ヲ、暗ニ認メテヰルガ故。墓ノ髙ヲ競ヒ、祖先ヲ敬ヒ、史ニ其ノ名ヲ刻ミ、神ノ物語ヘ聯ネルノモ、生ト死デ糾フ、兩ツノ幻ガ爲セル業。失ハレタ命ト、後戾リ出來ヌ刻ノ流レヲ、如何ニシテ人ノ卋ノ輪ニ繋ギ止メルノカ。死ノ彼方ノ栖ヤ蘇リハ、弱キ心ガ彩ル煩惱繪卷。人、獨リノ眼カラ見タ、產マレ、育チ、老イ、息絕エル、果敢無キ一生ヲ、弔フ事デ祀リ上ゲ、人ノ卋ハ恆ニ鈴生リノ命ヲ賜リ、童、彥、老、尸ト、錦ノ機ヲ繰ル、途切レル事勿キ綴レ織リダト、十干十二支ノ綾目ヲ織リ成シ、星ノ數程ノ還曆ヲ巡リ、始祖ノ傳承ヲ遡ル。然レド、人ノ淺智惠ナゾ及バヌ天ノ基ノ前デハ、斯樣ナ繰リ言モ大海ノ一雫。死ニ生カサレ、死ヲ生キル事ヲ拒ム人ノ卋ニ、如何ナル値打チガ有ルノヤラ。誰ガ其ノ値蹈ミヲ爲ルノヤラ。」
「史を規せと嗾けて措き乍ら、史が人の淺智惠とは何事か。」
鎌足の惑亂が絕頂に達すると、入相の日が落ち、白亞を焦がした影は消えて、
「如何爲された。」
背後から聲を掛けられた鎌足は、國衙の官に血走つた汗顏で振り返り、鳥籠の中で翼を疊む白雉の壹啼が薄暮を劈いた。
之の日、夕、鳴鳥在り。
此の占卜が何を咒ふ事に爲るのか思ひも及ばす、鎌足は劔柄を握り込んだ顫へる甲で、滴る汗を拭ひ取つた。
白雉元年壬子三月乙巳、戊午朔甲申、
朝庭の隊仗、元の會儀の如し。左右大臣、佰官の人等、四列を紫門の外に爲す。栗田臣飯蟲等四人を以て、雉の輿を執ら使めて、在前ちて去く。左右大臣、ち乃佰官及び百濟君豐璋、其の弟塞城、忠勝、高麗の侍醫毛治、新羅の侍學士等を率て、中庭に至る。三國公蔴呂、猪名公髙見、三輪公甕穗、紀臣乎蔴呂岐太、四人をして、代る雉の輿を執りて、殿の前に進む。時に左右大臣、就きて輿の前頭を執り、三國公蔴呂、倉臣小屎、輿の後頭を執りて、伊勢王の御座の前に置く。伊勢王、卽ち太子を召して、共に執りて觀す。太子、退りて再び拜みたてまつる。
將に異例の改元と式典。僧聽、法淸、和僧、金光、仁王、僧要と、法會の始まりや國寺の建立、佛典や髙僧の 渡來や歸依を祝ふ改元は數有れど、瑞鳥壹羽を年號に奉る等、前代未聞。元旦の朝賀から未だ春も明けやらぬ難波宮の朝堂院に、再び聚參した大臣、佰官、韓の遣使達は、其の異妖な大祀に、如何なる慶事かと囁き交はし合ふ。隊杖を極めた軍士に護られ現れた輿の白雉。此れが俀國の命運を握る占鳥。肚の底の疑懼を悟られまいと、表情を殺す參列者。躬自ら齋戒して臨む天子の御座の前に輿が進み出ると、伊勢王に喚び寄せられて耳打をする明日香王子、薩夜蔴。天王は神妙な面持ちで首肯し、其の龍眼は白雉を勾へて放さ勿い。日嗣の太子が一步退がり、輿の上で微睡む瑞鳥に平伏すと、扶桑の天子も其れに倣ひ、大安殿が響めいた。然して、此の眠れる鳴鳥が呼び寄せたかの如く、
夏五月丁未、丁巳朔壬午、
新羅の客等に饗へたまはむが爲に、川原寺の伎樂を筑紫に運べり。仍りて、天后宮の私稻五千束を以て、川原寺に納む。
夏六月丁未、丙戌朔戊子、
新羅の進る調、筑紫より貢上る。細馬一疋、騾一頭、犬二狗、鏤金器、及び金、銀、霞錦、綾羅、虎豹皮、及び藥物の類、幷て、佰餘種。亦、智祥、健勳等が別に獻る物、金、銀、霞錦、綾羅、金器、屛風、鞍皮、絹布、藥物の類、各六十餘種。別に天后、太子、及び諸の親王等に獻る物、各數有り。
筑紫の海を軍船で埋め盡くした異例の示威に屈し、新羅が俀國との折り合ひを附ける爲、調進つた寳物が竺志から難波宮に送られると、
秋九月に、宮造ること已に訖はりぬ。其の宮殿の狀、殫く論ふ不可。
東西に十六の堂を聯ねた朝堂院に、北闕を巡る條坊に廳を網羅した九州王朝の副への都は、俀國の威信を築くした功を竣へ、遂に其の全貌を顯らかにした。處が、其の榮華に浸る閒も勿く、
冬十二月の晦に、天下の僧尼を内裏に請せて、設齋て大捨て燃燈す。
落成法要も其處其處に、歲が明けて、
白雉二年癸丑、竺志の公卿大夫、佰官が難波京から太宰府に歸還し、
白雉三年癸丑、春正月の戊申朔、
元日禮を訖へて、車駕、大郡宮に幸す。
元日の朝賀の儀にて、其の玉容を東國の臣下に改めて統らしめすと、白雉と云ふ年號と瑞鳥を殘して、伊勢王も俀國の本貫、竺志に飛び發つた。新羅が半步とは云へ引き下がつた手應へと、瑞鳥の翼贊を滿帆に受け、火の通つた鐵を熱い内に鎚つ扶桑の天子。尻尾を卷いた高麗狗なぞ眼中に勿い。況してや、竺志の軛が緩む寸隙を突き、裏で飛鳥の山猿が新羅を通し、押使大錦上髙向史玄理を立てて、大使、小錦下河邊臣蔴呂、副使、大山下藥師惠日、判官、大乙上書直蔴呂、宮首阿彌陀を唐に遣す二心も、勘定の内。南朝より天璽を掠め取り、皇帝の御座を僭稱する唐獅子こそが火中の本丸。憎き北狄を迎へ討つ可く、伊勢王は竺志の要衝を山城の石据ゑで幾重にも固め、天子の本貫、九州を、天子の京、太宰の府を護り拔く國是に心血を注いだ。
其れに引き換へ、此れと云ふ衞りの備へもせず、詔の儘に屯倉から貢物を竺志に據出し、細細と敵方に内通するしか能の勿い東國の山鄕。そんな未曾有の國難の蚊帳の外で、輕大王が眼を瞠る勳も殘せぬ儘に峭然と薨ると、在らう事か、寳女王が再び擔ぎ上げられ、整然と朝庭に返り咲いた。
白雉四年己卯、春正月戊寅、壬申朔甲戌、
元日、難波宮で朝賀の儀に參内した二日後、竺志の榮華を極める副への都とは比す可くも勿い、板葺きの侘しき飛鳥宮で執り行われた前代未聞の重祚。女王と云ふ丈けで危ぶむ聲が後を絕たぬと云ふのに、況してや、未だ例を見ぬ大王の復位に、山門の古式は地に墮ちた。輕大王が望んだ子息への日嗣は、拔き差しならぬ有閒王子と中大兄の閒を、寳女王が引き取る形で手打ちと爲る他に術が勿く、俀國に媚びる改新派と、山門の本貫を讓らぬ守舊派に、息を吹き返して來た蘇我の殘黨が入り混じる鎭具破具な朝堂は、猿山の睨み合ひを續けてゐる。入鹿誅伐を皮切りに、血の雨で山門の地盤を固める中大兄は惡名を積み重ねる許りで、今や誰もが眼を合はせずに素通りする腫れ物に成り下がり、此の穢れた體で卽位しては治まる物も治まらず、かと云つて、有閒王子に嗣がせぬ爲の苦肉の策で、寳女王を喚び戾し急場を凌いだ物の、時閒を稼げば稼ぐ丈け後が拗れ、此の儘では小火の獨つで濟みさうに勿い。
鎌足は雙りの王子の鍔迫り合ひを徐かに眺めてゐた。何方が勝つても捌く手綱に變りは勿いとは云へ、駿馬に乘り換へるなら今が潮時。中大兄の氣の觸れた挑發を、氣の觸れた振りで袖にしたのは賢德の成せる業。伊勢王が有閒王子に目を掛けてゐたと云ふのも頷ける。線は細くとも、中大兄が墓穴を掘るのを見護るのが得策と、事を荒立てずに時宜を待つ、筋の通つた芯の有る漢にも、逆張りして措くに如くは勿い。更に鎌足は中大兄を說き伏せ、白雉六年丁巳に、
拾有參春秋
髮上げを迎へる女の鸕野讚良を竺志に送り、扶桑の稀人、大海人王子に姻がせる爲、裏から手を囘した。伊勢王と薩夜蔴は中大兄の醜聞に眉を顰めて取り付く㠀も勿く、大海人にしても、竺志が誇る大豪族、胸形の君、德善の女、尼子娘と云ふ正室の强力な後ろ盾が旣に有り難色を示すだらうが、倭國の阿每氏に忠義を盡くした蘇我の女と云ふ事で無碍にも出來まい。奧室の末籍に名を聯ねる丈けで事は足りる。遠智娘の健氣で忠實やかな血筋を引いた事が卻つて徒と爲り、正氣に戾る事勿く息絕えた母に心を挫かれ、鸕野讚良は大そう氣難しい女に育つた。霞がかつた弦月の如く荒んだ眼差しと、氷柱の如き寡默に、所作の何もかもが息苦しく、何處に姻がうと同じ事。上洛して竺志の水が合ふ事も先づ有るまい。其れを承知で輿入れするのは、中大兄が娶つた蘇我の女は未だ未だ後に控へてゐるからこそ。大海人の心を射拔かぬ迠も、數を擊てば何かしら當たる物。大藏省で一目見た丈けとは云へ、竺志の阿每を名吿る丈けの事は有る、薩夜蔴と五分で語らふ其の膽力。彼の漢も逆張りして措くに如くは勿い。此れで竺志の内親王を中大兄に姻がせる事が出來れば。鎌足は白い物が混ざり始めた虎髯を撫で、烱眼を鎖ぢた。目障りな者を幾ら血祭りに上げた處で、遺恨が殘る許り。新しい火種を消してゐる積もりが、何時己の身に燃え移り、火中に取り圍まれるやも知れぬ。一度は竺志の史書を裂いて燃したのも今は昔。中大兄の鬼火が燃え盡きる前に、扶桑の天孫に取り入る道筋を探らねば、此の先は勿い。然う、己に云ひ聞かせた刹那、
「詮ズル所、人ノ卋ガ求メル不死ナゾ、名聲ノ獨リ善ガリ。己ノ生キ樣デ威信ヲ誇ルノモ、死ネバ總テガ無ニ歸ス事ヲ、暗ニ認メテヰルガ故。墓ノ髙ヲ競ヒ、祖先ヲ敬ヒ、史ニ其ノ名ヲ刻ミ、神ノ物語へ聯ネルノモ、生ト死デ糾フ、兩ツノ幻ガ爲セル業。」
白雉の火裂いた說敎が流星の如く眼裡を過り、鎌足は彫りの深い窪目を見開いた。人の卋の淺智惠で結構。天の基の前では大海の一雫と、笑はば笑へ。此の限られた五分の命を誰に値蹈みされる覺えも勿い。死に生かされてゐるのか、死を欺いてゐるのか。斯樣な抹香臭い問答は衆僧に委せて措けば良い。鎌足は矢も楯も堪らず立ち上がると、足許から延びる無言の影を、捻じ伏せる樣に睨み付けた。
伊勢王が自ら指揮を執り、大野城、阿志岐山城、寳滿川、基肄城、水城を軍事の要に据ゑ、有らん限りの資粮と人夫を驅り出して突き貫く、竺志の壹大國事。占鳥の卜啼に導かれ、鳥憑かれた樣に決戰の地を築く狂騷の直中に、海表から對馬㠀、壹岐㠀、天ヶ原と渡り、調進る弔使在り。
白雉四年己卯、四月辛巳、辛丑朔壬寅、
新羅の級飡金道那等、遣して弔ひを奉る。幷て、學問僧明聦、觀智等を送上す。別に、金銅の阿彌陀像、金銅の觀卋音菩薩像、大勢至菩薩像、各一軀、綵帛、錦、綾を獻る。
處が、先づ其の獻物の信義に疑ひが有り、更には去る歲、新羅に使ひを遣し、阿每氏薨去の旨を詔した際、古式とは奉る法に齟齬が有る、太政官如きに指圖される覺えは勿いと突き返してゐた事で、弔問とは程遠い肚の探り合ひに終始した。一旦は俀國に讓步し、唐服こそ避けて來たとは云へ、未だ燻る二心の片鱗。
「日本の遠き天祖の代自り、淸白き心を以て仕へ奉りたまう。」
との辯疏も白白しく、北狄と混血つた倭人の分家は、俎豆の象を護り續けてきた面影も遠く霞み、肩越しに唐獅子の影を仄めかす。伊勢王は不貞不貞しい其の高麗狗を悠然と窘めた。
而て、本の職に宣揚し忠竭すこと惟はず。而て、淸白きことを傷て、詐て幸媚るを求む。是れ故に調賦と別に獻れるもの、竝びに之を封以て還す。然し、我が國家の遠い天祖の代自り、廣く汝等を慈しむ之の德は、之、不可絕。故に、彌勤め、彌謹み、戰線兢兢て、其の職任を修めて、法度に遵ひ奉らば、天朝も復た益廣く慈耳たまふ。汝、道那等、斯の勑する所を汝の王に宣べ奉れ。
六月癸未、己亥朔乙巳、
筑紫の小郡にして、新羅の弔使金道那等に設たまふ。物賜ふこと各差有り。
返盃の他は一言も交はさず、帶劍も解かずに睨み合ふ宴。國運を賭けた扶桑の牙城。其の進捗を目の當たりにして、新羅の弔使は醉ひの囘はらぬ觚を重ね、竺志の天王は京を巡る擁壁、後の卋の神籠石を積み重ね、奸な獻盃に反した。髙が弔使の挑發に乘つて韓の地に繰り出せば、新羅と唐の夾撃が待つてゐる。度重なる不遜な態度の狙ひは明らか。安い撒き餌は懷具合が嚴しい裏返し。圖らずも、義慈王の奮鬭により戰局は百濟が壓してゐる。唐が重い腰を上げる迠、忍の一字に如くは勿い。決戰の地は竺志の本貫。太宰の羅城に誘ひ込み、肉を切らせて骨を斷つ。其の曉に、失地復興の成就は在る。
白雉五年丙辰、
田身嶺に冠しむるに周れる垣を以ゐる。復た、嶺の上の兩つの槻樹の邊りに觀を起てて、號けて兩槻宮と爲たまふ。亦、天宮と曰ふ。時に興事を好みたまひて、迺ち水工をして渠を穿ら使めて香山の西自り石上山に至り。舟二百隻を以ちて石上山の石を載て順流に控引きて、宮の東の山に石を累ねて垣を爲りつ。時の人謗りて曰へらく、
「狂心渠に損し費せる功夫は三萬餘ぞ。損し費せる垣を造る功夫は七萬餘ぞ。宮材爛れるぞ。山の椒埋れるぞ。」
又、謗りて曰へらく、
「石を作せる山丘、作せし隨に自づから破れむ。」
又、吉野宮を作りたまふ。
二月辛卯、丙申朔甲子、天王、吉野宮に幸す。
五月甲午、甲子朔戊寅、天王、吉野宮に幸す。
八月丁酉、壬辰朔戊申、天王、吉野宮に幸す。
冬十月己亥、辛卯朔戊申、天王、吉野宮に幸す。
十二月辛丑、庚寅朔甲寅、天王、吉野宮に幸す。
丙辰、天王、吉野宮自り至る。
白雉六年丁巳、
春正月壬寅、庚辰朔戊子、天王、吉野宮に幸す。
乙未、天王、吉野宮自り至る。
閏三月乙巳、己丑朔丙辰、天王、吉野宮に幸す。
壬戌、天王、吉野宮自り至る。
六月丁未、戊午朔壬申、天王、吉野宮に幸す。
辛巳、天王、吉野宮自り至る。
白雉七年戊午、
四月丁巳、癸丑朔丙子、吉野宮に幸す。
庚辰、車駕、宮に還る。
冬十月癸亥、庚戌朔癸酉、吉野宮に幸す。
庚辰、車駕、宮に還る。
白雉八年己未、
三月戊辰、丁丑朔乙未、吉野宮に幸す。
壬寅、天王、吉野宮自り至る。
五月己巳、丁丑朔、吉野宮に幸す。
乙未、天王、吉野宮自り至る。
秋七月壬辰、丙子朔甲午、吉野宮に幸す。
癸卯、是の日、天王、吉野宮自り至る。
八月癸酉、丙午朔甲戌、吉野宮に幸す。
戊寅、車駕、宮に還る。
十一月丙子、甲戌朔庚寅、吉野宮に幸す。
乙未、車駕、宮に還る。
太宰の府の坊條を巡り、新宮へと續く、版築で固められた土壘の檢分と閲兵の爲、伊勢王は竺志の吉野へ行幸を繰り返した。扶桑の羅城を見下ろす、大野城の宮地嶽、阿志岐山城の四天王山、基肄城の基山に坐す神神を盛大に祀り上げ、專守防衞を託す三山鎭護。韓の故地と俀國の存亡を賭けた禱りと、犧牲と爲つた人夫の弔ひが、擁壁を聯ねる尾根に木靈し、國の石据ゑと成つた御魂が竺志の飛鳥に祝り憑り、風雲の狹閒に明けた蒼穹へ舞ひ上がる。此の決壞寸前の戰況と戎馬の蹄塵が迫り、寸刻を爭ふ御卋に在つて、
白雉六年丁巳、紀國は牟婁の湯に遁卋し、日嗣爭ひの難から身を潛めてゐた有閒王子は、胸に壹物を祕め、山鄕に引き揚げてきた。一分の非も勿い身で在り乍ら癡れ者を裝ひ、產湯を浸かつた緣の有閒に背を向け、牟婁の煮え湯を被つた雌伏の歲月。頭に騰つた血氣で沸き立つ、濱の湯船から上がつた王子の紅顏を松風が灌ぎ、湯冷ましに辿る白濱の眞砂路は、逸る念ひを一步一步鎭めていく。
飛鳥宮の殺伐とした朝堂に異議の有る者達は、僞りの湯治場に冠を隱して訪ひ、中大兄の奇道奇譚を捲し立てた。出遲れの王子を焚き付ける者の多くが、俀國に傅く改新派。有閒王子も寵愛を賜つてゐた伊勢王に旅發たれ、後ろ盾を失つた者同士、氣心は知れる。一如同斷の萬障は唯獨り。然れど、中大兄に睨まれて天壽を全うした例は勿い。己の手を血す事を躊躇はぬ其の暴戾は、怯懦な鼠賊の故とは云へ、其の鼻は犬よりも謀議を嗅ぎ分け、短い齧齒には毒が有る。更に、裏で機略を錬るのは腹心の鎌足。彼の漢と通じる手は勿い物か。影の知將が控へてゐなければ、中大兄なぞ疾うの昔に自滅してゐる。穀潰しだつた鼠を狂犬に仕立てて、蘇我を斥けるのに蘇我を二分し、蠱壺の底に突き落とした手腕は眼を瞠る物が有る。暴君の火點けも火消しも奴の手な心、獨つ。其の掌を意の儘に返せれば中大兄を丸腰にしたも同然。元來、二人の中を媒つたのは誰有らう。亡き父から賜つた紫冠を仇で返すとは何事か。前帝の嫡男として忠孝を規す分限も有る。有閒王子は、猿山の大將に名吿りを上げるのか、此の儘、誰かの尻尾や粗相を、犬の樣に嗅ぎ廻る丈けで逐はるのか、其の岐路に立たされてゐた。
板蓋宮で寳女王の玉容を拜謁し、
「纔し、彼の地を觀るに、病自ら蠲消す。」
見え透いた土產話を竝べ立て乍ら、朝堂の氣配を盜み讀み、推し量る己の立ち位置。日嗣の王子が戾つて來た事で再び搔き亂れる、群臣の猜疑心と驅け引き。此の髙御座に坐す朝ですら、飛鳥とは名許りの、何處にも飛び發てぬ山鄕の籠の鳥。其の竹で編んだ檻の中に忍び込み、絡み始める二匹の蛇。寳女王も復た、此の雙りの王子が不憫で爲らず、乙巳の誅伐で返り血を吸つた丹塗りの柱の樣に、有閒王子も朱に交はつて終ふのかと心を痛め、
聞き悅して、往して觀はさんと思欲す。
と其の場を甘言で濁すと、再び蜷局を卷き始めた禍中を避ける樣に、
白雉七年戊午、冬十月癸亥、庚戌朔甲子、朝は紀の溫湯に幸し、哥枕に添ひ臥した。不歸の轍と爲るやも知れぬ車駕を見送り、籠に穴を開けて鳥を逃がした有閒王子は北叟笑む。
十一月癸亥、己卯朔壬午、板蓋宮の畱守官、蘇我赤兄が王子の許に直参して奉つた哀訴を口火に、凶風が燻つてゐた瞋恚を煽り立てる。
「扶桑の天子が自ら血の淚を流して人夫に鞭を揮はれ、太宰の府に山城を築き、水城を掘る國難に在つて、吾等が朝は政を疏かにして、衞りの備へもせず遊湯に耽り、在らう事か裏で唐土と通じるなぞ、王道に悖る大罪。星辰逆行の因と爲し、天の災ひを招くのみ。大臣も殆、愛想が盡きたと申す次第。」
「何、大臣が。」
鎌足の名を聞いて、結跏趺坐を組んでゐた有閒王子は腰が浮いた。待ち望んでゐた吉報。蘇我が動いたと云ふ事は、鎌足も動いたと云ふ事。
「吾、この年にして始めて、兵を用ゐる可き時なり。」
翼を得たと許りに、身も心も輕く爲つた有閒王子は、
甲申、赤兄の舘の樓で、守君大石、坂合部連藥、鹽屋連鯯魚を圍み、謀議を錬つた。宮室を燔き拂ひ、紀國は牟婁の寳女王を捕らへて陣を固め、鈍な追つ手を受けて立つ。颯の夜討ち、朝驅けで、恐らく僅か數日が勝負の分け目。其の爲には先づ、鎌足を引き入れ、鼠賊の牙を拔かねば爲らぬ。蘇我の閒者、赤兄に上目遣ひで虎視を忍ばせる有閒王子。將に其の刻、床几の脚が自ら折れ、氣焔萬丈の議論が氷結した。一瞬の靜寂を挾んで、俄に此れは不祥の相、短籍で筮ふ迠も勿い、未だ廿歳に至らぬ王子では德が足りぬと、座は色めき立ち、擧措を失ふ諸臣の變節。其の云ひ種に、額突いた罪人の樣に頽れてゐる瓦落多を蹴り飛ばし、有閒王子は咆えた。
「はや、去ね。」
此の期に及んで狼狽へる者なぞ頭數にも爲らぬ。帶劍を拔いて仁王立ちの王子は、口先丈けの雲雀を睥睨し、己に足りぬ物を漸く手に入れた。腦の髄を走る甘美な絕頂に醉ひ癡れ乍ら、拔き身の斬つ先で其の覺悟を獨り獨り問ひ質す激情。此處で異を唱へる者を斬り捨てられずに、畢竟の大事に任たれる物か。有閒王子は大上段に構へて夫夫に指示を授けると、市經の舘に戾り、大仰な心持ちで安床に臥した。旣に何かを成し遂げた斯の如き滿ち足りた疲れ。其の王位を夢見る雲居の褥が、蕃屛の外の騷めきに因つて邯鄲の一睡に彈けた。
赤兄は有閒王子が歸つたと見るや物部朴井連鮪を遣し、造宮丁を率ゐて其の舘を取り圍むと、驛使の蹄を飛ばし、湯治と稱して身を潛めてゐた寳女王に王子の謀叛を奏上した。轍鮒の急も儘ならぬ、迅雷の策略。敗將の腦裏に閃く鎌足の影。
繩に掛けられ、眞僞の程を審らかにせむと、朝の逗まる紀國へ送られる逆賊の前に、肅然と現れた中大兄は猫を被り、
「何故にか謀叛。」
と宣ひ、有閒王子は其處で始めて己が最後の鼠だと悟つた。鎌足の名を聞いて翼を得たりと心躍らせたのも、今と爲つては氣の迷ひ。何の事は勿い。總ては掌を返した輩の掌の上。
「天と赤兄とそ知る。吾、全、不解。」
物蔭で窺つてゐた鎌足は白を切る有閒王子を見切り、踵を返した。譬へ後ろ手に縛られてゐやうと、己の信條と御魂を護る爲、舌鋒で幾らでも斬り付ける事は出來る物を、仇の前で其の身を保つなら其處迄の器。縱んば、鎌足の名を出したなら、其れが殿下との緣の切れ目。有閒王子の繩を解き、中大兄を斬れと赤兄には云ひ含めて措いたが、買ひ被つてゐた己の目利きに呆れて終ふ。湯治から戾つて暫く泳がしてはみた物の、果たせるかな、溺れる鮒に渡す時流は勿い。牽き立てられる叛徒を見送りもせず、
「牟婁の御幸には閒人大后が伴はれてをられる。王子の異母とは云へ、彼の雙りは只ならぬ仲と聞く。說き伏せられて、朝に情が移らぬとも限らぬ。頃合ひを見計らひ、去ね。」
と鎌足は傳へて丹比小沢連國襲を遣すや、
庚寅、
幸くあらば
と結はく願ひも冬の空、朝への申し立ても儘ならず、有閒王子は藤白の坂で哥枕に歿した。其の場で共謀の鹽屋連鯯魚處か、隨伴した王子の舍人、新田部米蔴呂迠もが斬り捨てられて、眞砂路は黃泉路へと彷徨ひ、相對して、流罪にされた守君大石と坂合部連藥は程勿く恩赦を賜り、中大兄に引き立てられて、蘇我赤兄も更なる榮進に浴する天地の遇ひ。何もかも描いた通りに運んで終ふ一抹の侘しさが吹き拔け、血潮の濱も砂塵に歸した。今更悔やむ事も適はぬ、鳥憑かれてゐる者との彼我の差。此れで目障りな庶子は獨り殘らず斥けた。倂し、中大兄の信義も仁德も地に墮ち、齒向かふ者も居勿ければ、心を許せる者も勿い、山門の古式も合議も顧みぬ、思ひ思ひの氏族達。如何にして此の九頭十尾の蠻族を纏めるのか。王道とは程遠い朝堂の舵取りに心を凝らす鎌足。
飜つて、太宰の府を山城水城で衞り拔く可く、壹大國事に邁進する竺志の何と雄雄しき事か。猿山の小競り合ひに疲れた頭で念ひを馳せる、宗主と倭の民の血束。此の山鄕に何が足りぬのか。此の山猿の群れを率ゐて何を成し遂げられると云ふのか。神代の彼方より扶桑の故地を貫く、君臣不拔の桃源に焦がれる根無し草の鎌足。其の遙かな夢想の一角を、改元の儀で白雉の前に額突いたと云ふ、伊勢王と薩夜蔴の逸話が掠めた。大藏省で垣閒見た、西日を照り返す白皙の尾羽。矢張り、彼の鳥は、否、眞逆。
元壬子年
二癸丑年
三甲寅年
四乙卯年
五丙辰年
六丁巳年
官衙に掛けられた白雉年號の木簡を見る度に催す、底知れぬ畏怖。常し方に刻む僞りの勿い驗とは一體。咒禁博士や蔭陽博士の智惠を借りる事をも憚る、俄には信じ難き瑞鳥の靈驗。其の天の理をも搖るがす能の庇蔭に、伊勢王と倭國が浴してゐるのだとしたら、山猿の群れに出來る事と云へば、竺志の榮華と權能を無闇に妬み嫉み、足手纏ひと爲る事のみ。現に、
白雉八年己未、秋七月壬申、丙子朔戊寅、難波の三津浦から唐土に船出した、小錦下 坂合部石布連と大仙下津守吉祥連の一行は、艱難辛苦の果て、
冬十月甲戌、乙巳朔、越州の州衙に至り、上洛の手續きを終へて、
己未、長安の都へと出立。
癸酉、圖らずも洛陽の都に遷都してゐた皇帝李治との奇遇に惠まれ、
甲戌、其の龍顏を拜して、海の藻屑と生死を競ふ航海の總てが報はれた。かに見えたのも束の閒、案に違はず、山門の遣使は其の後、持つて產まれた僭越な振る舞ひで、天寵を賜つた身に餘る神助に泥を塗つた。翌、
十一月乙亥、甲戌朔、諸國の遣使を迎へて催された冬至の會。其の嚴かな聯座の中に、俀國の大使、竝びに竺志の遣使の愾りに顫へる姿が在つた。本來、册封を賜る宗主を介さず藩國が使を遣し朝貢するなぞ罷り成らぬ處を、敢へて眼を瞑り、内通する山門の遣使を同席させた唐の明ら樣で蔭濕な魂膽。鬭雞を嗾けるに等しい、見卋物紛ひの仕打ちに、竺志の大使は亂れる事勿く、其の場は堪へた物の、面目を潰された恥辱は如何許りか。國を背負つて大國と渡り合ふ大使は、上表を獻れば、はい、其れ迄の走狗では勿い。吾が身を楯に先陣を切る一國の將で在り、謁えた皇帝の不興を買ひ、逆鱗に觸れれば極刑に處される、命を賭した使ひで在る。其れを、竺志と山門を天秤に掛けて弄び、饗へ給ふとは。唐は俀國の度量を試してゐる。大使が聲を荒げれば狼藉の謗りを受け、緘默に伏せば其の臆面を嘲笑ふ。其れ丈けなら未だしも、伊勢王を咎める粗を、機を見て探る其の安い撒き餌。皇帝李治の御前で俳優の如く燥ぐ山門の遣使を睨み付けて、竺志の大使は唯只管、克己堅忍に徹した。處が、
十二月丙子、甲辰朔丙午、
韓智興が傔人、西漢大蔴呂、枉げて我が客を讒す。客等、罪を唐の朝に獲て、已に流罪に決む。前ちて智興を三千里の外に流す。客の中に伊吉連博德有りて奏す。因りて卽ち罪を免つ。事了りて後に勑旨たまはく、
「國家、來つ年必ず海東の政有らむ。汝等、倭の客、東に歸るを不得。」
とのたまふ。遂に西京に匿め、處を別ちて幽へ置き、戸を閉して防ぎ禁む。東西こと不許。困苦むこと年を經。
竺志の遣使、西漢大蔴呂の讒言の廉で、韓智興が流罪を云ひ渡され、後に赦免を賜りはした物の、俀國からの遣使は藩國も含め總て幽閉されたとの一報に、鎌足は天を仰いだ。宗主國の遣使、韓智興の指示で西漢大蔴呂が、藩國を態々讒り貶めるなぞ不得有。譬へ何等かの粗相が在つても、唐の朝の御前では寧ろ隱し、歸朝の後、律令に基づいて五刑に處すれば良い丈けの事。新羅の猿眞似で唐の威を借り、出過ぎた眞似をして嗾たのは山門の遣使に違ひ勿い。溫和しくして居れば良い物を。伊吉連博德が申し立てて、唐の朝との閒に入り、流罪を免れたと云ふのも、己の手柄を捲し立てる事しか頭に勿い咆え猿の、聞くに堪へぬ何時もの繪空事。己の命と引き換へに、俀國の威信を護つた、竺志の大使の姿が眼に浮かぶ。
國家、來つ年必ず海東の政有らむ。
百濟侵攻を布吿したに等しい、唐の朝の怪氣炎。埀簾の政を强ひられた皇后の武照から御拂ひ函にされ、長安から洛陽へ都落ちしたとは云へ、曲がり形にも皇帝の一喝。將に綸言汗の如くにして、大山鳴動。會席した遣使を悉く拘禁し、口を箝まぬ樣に封じた積もりでも、荒ぶる舌響は巷閒を渦卷き、皇帝李治の眞意を枉げて傳へる譯が勿い。俀國が天の報ひを受ける日は近い、とまで豪語されて、最早、山門の橫槍處では勿い竺志の天王。此れに因り、鎌足が四方に手を囘し、纏まり掛けてゐた竺志からの輿入れも流れ、中大兄の地に墮ちた威信を取り戾す、一縷の緖を斷ち切られた。
昏迷する外政と、墓穴を掘つた内政。其の失望の中で、鎌足は出家して入唐した嫡男、定惠に次ぐ男子を儲けた。
「誰獨り、等しく不比る者と成れ。」
と宣ひ、萬卷の史を綴る、「ふみびと」の意を込めて「不比等」と號けられた、鎌足の野心を嗣ぎ、常し方の彌榮を託す、漢四十五歲にして咲かせた最後の晚花。正室、車持與志古娘の子では勿く、中大兄から讓られた鏡女王の隱し胤と巷說に上るのも、鎌足は滿更では勿いと嘯いた。若し其の飛語が正しければ、敵對する雙方の血筋を分けた此の乳飲み子は、權力を爭ふ坩堝の中で、御卋嗣ぎにも成れば、叛徒の將にも成る。其の捻れこそが史を衝き動かし、焚き付ける恰好の火胤。中大兄と遠智娘の血を分けた鸕野讚良が良い驗。滅ぼされた者と滅ぼした者の閒に產まれた彼の女は、何時しか大きく化ける刻が來る。苦しみ藻搔けば藻搔く程に。然して、此の不比等が鏡女王の腹を痛めたと云ふのなら、鸕野讚良とは姪と甥。此の醜聞を態々揉み消す事は勿い。墓穴の中まで仄めかして措けば良い。產著に包まる吾が子を覗き込み、獨り北叟笑む鎌足。其の何處か憎憎しげに吊り上がつた口角が、不意に氷附いた。
「人、獨リノ眼カラ見タ、產マレ、育チ、老イ、息絕エル、果敢無キ一生ヲ、弔フ事デ祀リ上ゲ、人ノ卋ハ恆ニ鈴生リノ命ヲ賜リ、童、彥、老、尸ト、錦ノ機ヲ繰ル、途切レル事勿キ綴レ織リダト、十干十二支ノ綾目ヲ織リ成シ、星ノ數程ノ還曆ヲ巡リ、始祖ノ傳承ヲ遡ル。然レド、人ノ淺智惠ナゾ及バヌ天ノ基ノ前デハ、斯樣ナ繰リ言モ大海ノ一雫。」
殘照に燃える大藏省を劈いた瑞鳥の占鳴。生と死の雙翼で羽擊き、人心を搔き亂す常し方の神祕が俄に甦る。吾が子との玉の緖の繋がりですら束の閒の泡沫。夢を追ひ求める人の性も、死の現から遁れる爲の方便と喩す魔性の囁き。罠だと判つてゐても魅き寄せられる白い影の幻が、卻つて、今生の野心を炙り立てる。鎌足は鳥憑かれた定めに抗へば抗ふ程、操られていく死の舞臺の上に居た。面白い。人の卋なぞ柵で編んだ鳥籠でしか勿いと云ふのなら、此の老い耄れの餘命を踏み台に飛び發てば良い。己の分身か、爭ひの胤か、將亦、神の子か。鎌足は憤る不比等を抱き上げると、父の紫冠を見下ろして、天まで屆けと差し上げた。
去る歲の、
白雉八年己未、十一月乙亥、甲戌朔己卯、
始めて仁王經を百の國に讀ましむ。四日ありて畢りぬ。
年が明けて、
白雉九年庚申、夏五月壬午、
是の月に、有司、勑を奉りて、一百の髙座、一百の衲袈裟を造りて、仁王般若の會を設く。
俀國を擧げて執り行われた法會。日月失度難、星辰失度難、災火難、雨水変異難、惡風難、亢陽難、惡賊難を斥ける、護國三部經の獨つ、般若波羅蜜の受持講說に因り、國家安穩の髙庇を賜ると云ふ、上宮法皇、多利思北孤の御隱れに爲つた明くる年、癸未に傳來し、仁王と改元した曰くの敎典。其の釋迦が波斯匿王に喩した理を、伊勢王は病の褥で聞いてゐた。陣頭指揮を執つた壹大國事の酷務が祟り、昏睡に臥した常色の君。國と法が滅びる其の刻に、七難有つて、復た一難。除病平癒の勤行は晝夜を跨ぎ、其の天下に轟く鎭加護持は、或る一報を竟に、戰勝祈願の熱狂へと燻り始めた。
秋七月甲申、
百濟、使を遣して奏言く、
「大唐、新羅力を幷せて我を伐つ。旣に義慈王、王后、太子、虜と爲して去ぬ。」
是に由り、國家、兵士甲卒を以て西北の畔に陣ぬ、城柵を繕修ひ、山川を斷ち塞ぐ兆せり。
新羅と唐の夾撃に竺志の故地は次の報せを待たず、瞬く閒に歿した。君臣、摠べて虜と爲り、噍れる類ひも略無き慘狀は、藻屑に塗れた遣使の、尾羽打ち枯らした落魄を見ても明らか。遂に巡つて來た、鏡當四年、甲辰の役以來の難局。播磨國迄燒き討ちされた新羅の侵攻は、最早、還曆の彼方の口碑では勿い。高句麗平定を待たずして、遂に大國、唐が動いた。
冬十月丁亥、百濟は佐平貴智を遣し、失地を覆す可く、質として竺志に畱まる百濟の太子、餘豐璋を、御卋嗣ぎとして百濟に迎へる可く、師を乞ひ救ひを謂した。薩夜蔴は其れに應へて、屯倉より兵粮、兵庫より兵器を充たへ、送り出しはした物の、幾ら病床の伊勢王に代はつて政を預かる身とは云へ、玉音の大號令を差し措き、國を擧げて兵を興す事なぞ罷り成らず、然りとて、俀國の援軍勿くして豐璋の犬死には眼に見えてゐる。破綻した外政を前に身動きの取れぬ薩夜蔴は、此處まで拗れて終つた因果の鎖を手繰る譯にもいかず、途方に暮れた。伊勢王が名君で存る事を疑ふなぞ不敬の極み。其の越度を論ふなぞ有閒敷事。吾が父で在る事が信じられぬ玄德と龍貌。非凡な傑物と對峙して浴びる畏怖と恍惚。何も語らずとも、自ら導かれていく天啓にも等しき目映い暗示。竺志の禁裏で同じ刻を過ごせる冥加は、四海の涯に眠る七珍萬寳にも代へ難い。かと云つて、其の多利思北孤の生まれ變はりと稱された常色の君が、灰汁色の抉れた頰で橫戲り、稻田の蛙の如く魘されてゐる許りと爲つた今。何人の呼び掛けにも應へぬ扶桑の天子を前に、不遜な閃きに慄く薩夜蔴の心。朝が天壽を存へる程、倭國の拓いた故地の命運は燃え盡きていく。此の儘、忸怩たる刻を數へる許りならば一層。口には出せぬ臍の底の本願。難治退散の讀經を上げ乍ら、密かに鎭魂敍魔の咒ひを腹唱し、搖れ動く二心。
竺志の百姓を人柱にして築いた太宰の羅城。百濟の報せを受けて更に補ひ、土壘を版築で嵩上げし樣とも、身動きの取れぬ殼に閉じ籠もつてゐるのでは寳の持ち腐れ。護る丈けでは護り切れぬ海表の政。討って出勿ければ坐して死を待つに等しい。唐の軍勢を竺志の羅城に誘い込んで擊退し、背走する兵を追つて韓の地を遡り、失地を挽囘する。斯樣な虫の良い話が何處に在る。隨から唐へと移り代はる大國を見聞した學問僧の箴言を持て囃す餘り、唐を巨人の國の如く粉餝し、其の尊大な振る舞ひにも眼を瞑つた吾が父君。倂し、俀國こそは神の國なるぞ。天孫の行く末を決す可き此の刻に、念佛を誦へて何に爲る。父を偲ぶ念ひにも限りが有る事を悟つた薩夜蔴は、年が明けて
白鳳元年辛酉、六月乙未、
伊勢王が朝倉宮で神上がると、其の意氣は旣に巌の如く、白喪の素服にも眼を吳れず、殯の設ひも下下に委せ、筑紫降の山は動いた。満を持して解かれた擧國一致の禁。新帝が重い腰を浮かした、將に其の刻、天下を聾する訃吿と入れ違ひに、難波宮から驛使の飛報が屆く。
大藏省の白雉が白鳳に成り上がつた。
耳を疑ふ傳文に雄叫びを上げる薩夜蔴。
「是は吉兆。其の鳳こそ吾が父、伊勢王の生まれ變はり。輿を改め、宮を設へて祀り上げよ。」
「否、然し、燕雀は鳳を生まずと申します。雉が成り上がるのは鸞。鳳は鶴が成り上がる物。是は餘りにも化體な變はり樣。」
「構はぬ。天、玄鳥に命じ、降つて商を生む。辛酉革命に當たる此の歲、革命は鶴鳴爲り。何と云ふ僥倖。此の時を逃して何とする。武運、茲に極まれり。」
「倂し、革命とは元來。」
「ええい、默れ。白鳳を疑ふ事は吾が父を疑ふに等しい。其の導きに從へぬのなら、何物に身命を捧げる積もりか。先帝に殉ひ葬られたければ。然う名吿り出るが良い。」
側近の戒飭に耳を貸さず革命改元を勑し、薩夜蔴は其の場を後にした。弔鐘と軍鼓の陣鐘を搔き鳴らし、專守防衞から舵を切る俀國。薩夜蔴が卽位し白鳳に改元すると、扶桑の京は唐の水軍の侵攻に備へ、近江大津に朝堂院樣式の宮を急造し、參種の神璽を遷座した。
我が物具どもは此に來住せし始め皆置けり。佛舍利玉帶銀造太刀尺鏡なども有り。是皆筑紫より我が共に來れる。
すると、
都を近江に遷す。是の時に、天下の百姓遷都することを願はずして諷へ諫く者多し。童謠亦衆し。日日夜夜、失火の處多し。
俀國の本貫から參種の神璽が運び出されたと知るや、壹大國事の賦役に血汗を絞つた竺志の民は色めいた。難波宮に伊勢王が遷居した折りでも、太宰の禁裡に納められてゐた、搖るぎ勿き天孫の御驗。其の冒す可からざる日嗣の品品が京を去つたとは何事かと廳に詰めかけ、王族と群臣も舘を引き拂ひ、近江に擧つて下向するに至ると、
「吾等は人の盾として見捨てられた。」
「吾等を大御寳と呼ぶのは口丈けか。」
と蜂の巢を衝いた騷ぎとなり、扶桑の雅は戰火より先に暴徒の燒き討ちを被つた。百姓の築いた衞を百姓に攻められる皮肉。倂し、薩夜蔴の眦は唯、一點を見定て、眞の正鵠を擊ち拔いた。一度、唐に背を向けやう物なら、鏡當四年、甲辰の役の比では勿い。太宰の羅城を過信する事も罷り成らぬ。いざと爲れば形振り構はず、淡海から古志の海へ拔け、嘏夷に追擊の軍勢を誘ひ込んで地の利を賴み、國運を盡くして玉碎瓦全する迠の事。髙句麗が黑龍江の北岸まで退いて後、盛り返した例へも在る。況してや、天照神の髙庇を賜る扶桑の天下で、高麗狗の二の舞ひになぞ爲る物か。竺志の故地を統らす巡幸こそが氣長足姬の進んだ王道。倭國の太母も復た、服喪を厭はず海表を航つた。護領の任を果たす稟賦を備へずして何の天孫か。薩夜蔴は東國に外征翼讚の天意を勑し、自ら鎧冑を改め、甲紐の緊を確かめた。
太宰の府から驛鈴を飛ばした詔書が肅肅と讀み上げらていくのを、中大兄は血の氣の失せた蒼貌を引き攣らせて聞いてゐた。東國の兵を師ゐて、竺志に上洛す可。外征の將として死ら羽の矢を立てられた山門の王子には、畏まる事の他に爲す術も勿ければ、逃げ場も勿い。日嗣を爭ふ王子と、名の有る氏族を、卑劣な奸計で闇に葬ってきた報ひに、辛酸を舐めてきた山門の朝堂は込み上げる快哉を嚙み殺し、扶桑の天子の大號令に額突いた。古人大兄王子に有閒王子、蘇我入鹿に蘇我倉山田石川蔴呂の子息と、本來ならば中大兄より先に名の上がる可き者達を、目先の王位に惑はされ、悉く鬼籍に突き落とした末の外れ籤。右も左も判らぬ韓の地で、唐と新羅を向こうに囘し、握り方も知らぬ采を揮ふ事に爲らうとは。扶桑の天子に云ひ渡された、未曾有の國難に殉じる決死の行軍。罠に塡めた敵を甚振る事しか知らぬ鼠賊は、旣に其の旅荷で押し潰されてゐる。大凡、兵馬の扱ひは軍士に委せて陣に籠もるのが關の山。日嗣の王子の威信なぞ氣休めにも爲らぬ。足の骨一本でも戾つて來くれば儲け物。其れを見越して、態々猿山の頂から引き擦り降ろす迠も勿いと、群臣は胸を撫で下ろし、漸く彼の疳の虫を御拂ひ函に出來ると在つて、己の手柄に眼が眩み、中大兄の代はりに私がと、此の大役に名吿りを上げる者も勿く、兵粮と兵器を恙勿く揃へて戰地に急き立てると、戰勝祈願の加持祈禱を項埀れた其の背に浴びせて、廢德の王子を體良く山鄕から追ひ拂つた。
萬の軍勢に圍まれても猶、生きた心地のせぬ征西。餞の言葉にも浮はの空で、自ら手に掛けた亡靈達に聯れ去られていく中大兄を見送つた鎌足は、竺志の權勢で整へられた官道を進むしか勿い虛ろな戎馬の足取りに、轉機を迎へた己の前途を重ね合はせた。後ろ盾と呼ぶのも今と爲つては怪しいが、一蓮托生の罪を重ねた徒の、流刑にも等しき其の出兵。殿下が生きて還れる望みの薄い今、片翼の捥げた迷鳥を見る周りの眼も冴え冴えとして、首筋が薄ら寒い。讒言を弄して不意を討ち、成り上がつたのも明日は我が身。飛鳥の朝の御目零しが有る内に、次の宿り木を探さねば。思ひを巡らせる鎌足は驛馬を蹴立てて山鄕を後にした。中大兄の嫡男、大友王子は未だ初冠を揭げた許りで德が足りず、目星い後胤は恨みを買ふ氏族に制へられてゐる。近江に下向して來た竺志の稀人と、何とか渡りを付けられぬ物か。中大兄の女、鸕野讚良、大田王女を立て續けに輿入れした大海人王子は、折惡しく太宰の衞に備へてゐると聞く。矢張り、竺志の手足と爲つて改新の露拂ひをした蘇我の殘黨を賴るしか勿いのか。倂し萬が壹、下げた頭に積怨の誅鋤を振り降ろされたら。信じる者を裏切り手にした榮達が仇と爲り、人を信じる術を忘れた鎌足。其の猜疑の虜と化した才氣の片隅に不圖、難波宮で燃え盛る丹塗りの殘照が射し込んだ。駕籠の中で蹲る白玉の尾羽。円らな瞳から漲る饒舌な沈默。顱頂を劈く、嚴づ靈の占鳴。
鎌足は乾上がつて瘦せた山門の田畑を縫ふ畦の四辻で、北から東へと手綱を引いた。目指すは難波宮、大藏省。白雉から成り上がつた白鳳を、薩夜蔴は廳の中に宮を設へ、祀り上げてゐると聞く。白雉に引き續いて改元する程の祥事。矢張り彼の化鳥は本物だつた。何故、もつと早く馳せ參じ勿かつたのか悔やまれる。成り上がつた鳳は何と鳴く。今こそ聞き逃すまい。其の言靈を。白鳳の風聞に鳥憑かれた鎌足は鞭の雨を浴びせ、嘶く驛馬は國境を鏑矢の如く突き拔けた。彼の魔性の鳥に己の行く末を賴るなぞ、生氣の沙汰では勿い。然うと判つてゐ乍ら、逸る手綱に力が入る。鎌足は旣に靈鳥の神祕に醉ひ癡れてゐた。處が、
「白鳳命は伊勢王の生まれ變はりにして、護國の御柱。寇討必伐を期す此の刻、其の鵬翼に若しもの事が在つては國の大事。齋をした膳夫と采女の他は、譬へ竺志の大臣で在らうと、拜塵に浴する事は叶ひませぬ。」
立ち開かる衞門府の益荒男の落とす長い影が外廊の白亞を限り、山門の紫冠になぞ二の句は無用と、眞一文字に引き締まつた口吻が、彼の日と同じく絞り出された、最後の西日で燃え盛つてゐる。靈鳥の導きを斷たれて茫然と立ち盡くす鎌足。頑として鎖ざされてゐる大藏省の奧室の衞は、白鳳の存在と其の靈驗を雄辯に物語り、一縷の望みを驅り立てる。倂し、姿形は見えずとも、責めて一聲丈けでも其の占鳴を耳に出來ぬかと手を拱き、粘る鎌足を、衞門府は意に介さず、手加減を知らぬ膂力で門外に抛り出した。
年號にまで祀り上げられる彼の化鳥と、何等かの命運で繫がつてゐる物と、心の何處かで信じてゐた。其の玉の緖が欲目に眩んだ幻と爲つて彈け、丹塗りの柱を上染めしてゐた入相の日が幕を下ろすと、一刻を爭つてゐた焦眉は撓埀れ、待たせてゐる驛馬が薄暮に嘶いた。鞍に跨がつて氣が付く、脇插しの折れた鞭。最早、鎌足には近江大津まで馬脚を伸ばす意地も勿い。鞭を捨て、道草を食む、驛馬の氣の向く儘に辿る、星辰琅琅たる山門路。滿天を過る銀河の漣が、力を落とした肩に伸し掛かり、優しい夜風が憐れみを炙り立てる。靈鳥から見放され、己が何者でも勿かった事を思ひ知らされた失望。飛び發つた筈の鳥籠に怖め怖めと舞ひ戾る羞恥。然して、其の圍ひの中に待つてゐる餓ゑた山猿達。鎌足は俄に舘へ歸るのが懼ろしく爲つて來た。白鳳の許へと驅り立てたのも虫の知らせか。再び蜷局を卷き始める猜疑の大虬。主の畱守や寢込みを狙ひ、讒言と闇討ちを繰り返した負ひ目が、背筋を這ひ上る。斯う爲つて終ふと、弱り目に祟り目。閑道の靜寂も閒者が息を潛めてゐる樣に見えて來る。顫へる拳で手綱を反す鎌足。見上げた北辰に向かつて、當て所勿い一步を蹈み出さうとした、將に其の刻、夜道の彼方から猛然と迫り來る悍馬の轟蹄が聞こえて來た。眞逆、もう追つ手が。己の犯して來た罪業に痺れて頭が囘はらず、身を隱す處とて勿い野畦の直中で身構へる鎌足。其の耳が錚錚と夜氣を掠める音色を聞き分けると、驛鈴の鳴り物が眼の前を一瞬で驅け拔けた。驛使と判り胸を撫で下ろすも、此の夜更けに傳令とは何事か。過ぎ去つた其の後を追ひ掛け呼び止めると、相手が鎌足と知つた驛使は、湯氣を立てる栗毛の鬣を飜した。
「此れは如何に。大臣、宮の者が探してをりますぞ。驛舍を出て何處に向かはれたのかと。」
「其方こそ、何の故有つて驛鈴を提げる。」
「率爾乍ら、朝が身魂を御隱しに。」
聞き返す言葉に詰まる不慮の激甚。胸の内が優れぬと宮に籠もつて僅か半日。咒禁師に祈禱の手筈もせぬ、つい今し方、寳女王は沈香の煙の樣に息を引き取られたと云ふ。
「若しもの事が在つては國の大事。」
衞門府に浴びせられた罵辞が甦り、白亞の向かふに入滅した筈の西日が、血走つた眼を遡る。門前拂ひも岩戸隱れの悪巫山戲か。猪口才な。彼の靈鳥は試してゐる。如何にして此の難局を乘り切るのか。常し方の彌榮に眼の眩んだ此の獨り善がりを、嬲り者にする成らば、氣の濟むまで進調らうぞ。譬へ其れが天鈿女の裸踊りでも。
鎌足は驛使の鞭を奪ひ取ると、
「驛舍に驛鈴を返し、達しを待て。」
と云ひ殘し、蹄塵を卷き上げ、其の場を後にした。
白む東雲を生駒の嶺に阻まれて、今猶、昏き朝未き。途次、何處で振り飛ばした物やら、無冠の儘、結はへた髮も千千に亂れて禁裡に驅け込むと、今にも寢返りを打つのではと思ふ程の、薄紅の頰が綻ぶ膨よかな玉容が橫戲つてゐた。天に召される者は斯くやと、息を呑む其の遺德。寳女王は薨りて層一層、麗しく華やいでゐる。倂し、稀人の雅な昇魂に見蕩れている刻では勿い。
「朝は加持祈禱の甲斐も有り息を吹き返したと、庶方には傳へよ。」
板蓋宮の官を聚めて、餘計な口を箝まぬ樣に釘を刺し、殯の設へを内密に計らひて、人拂ひを爲ると、天地を劃かつ決斷、其の一點に心を凝らした。
御託の可否に隨ひて、御運の通塞有る可。
白鳳は何と鳴いたのか。此の鳥占ひを黃泉違へて、己の生きる道は勿い。今直ぐ竺志に使を遣すか、中大兄が韓の地へ出征した後、傳へる可きか。朝の薨去とも爲れば、殿下は此れを奇禍として喪に紛れ、己丈けでも取つて返さうと、其の蜘蛛の糸に飛び付くであらう。倂し、敵に背を向けた者が、後ろから斬られるのは卋の理。此れ幸ひと泣き付く樣では、はい、其れ迠。腹を決めて死地に赴き、聯戰奮鬭の末に勝ち鬨を擧げて凱旋する、萬が壹の神助に與るやも知れぬ。中大兄も彼の鳥に試されてゐる。此の惡運を制するのは果たして何者なのか。背筋に人の卋の禍福を嘲笑ふ占鳴を浴びた氣がして、朝の眠る奧室を、鎌足は獨り振り返つた。
蔴氐良山の頂きに坐す鬼が嚴づ靈と爲つて舞ひ降りた。陣を張る萬の兵を蹴散らして乘り込む大皇弟に朝闇宮は轟き、出迎へる宮の官は其の劍幕に平伏して遣り過ごすしか術が勿い。帶劍を拔き、遮る物は斬り捨てると許りに禁裡の戶を撥ね除けると、中大兄と鸕野讚良、大田王女の親子が素服を纏ひ畏まつてゐる。大海人は父を庇ふ樣に傅いてゐる吾が側妻に一瞥も吳れず、其の場凌ぎの白喪に眼閃一刀、生死の質しを突き附けた。
「隊仗は如何爲された。」
仁王立ちで睥睨し、有無を云はさぬ其の形相。斯う爲る事は判つてゐ乍ら、次の一手を持ち合わせぬ中大兄は、輿入れした女を盾に、太母を悼む孝子を扮ひ、後の成り行きは天に任せ、無言で白を切り續け、大海人の血胤を授かり舘で靜養してゐなければならぬ身で在り乍ら、藁にも縋る念ひの父に云ひ包められて驅り出された鸕野讚良も、此の差し出がましい追從に與する他勿く、面を上げる事が出來勿い。
「竺志の髙祖、帶中日子命が、志半ばで御隱れに爲つた折り、大后息長帶比賣命は意を決して、大喪の禮を顧みず、身重の臍に石を括り、進軍遊ばされた。今將に、三韓を征した上代の再來。伊勢王の遺志を繼ぎ、萬難を排して臨む可き此の刻に、揃ひも揃つて、何たる樣。」
急造の宮を搖るがす大海人の雄叫びに、伊勢王は專守防衞に徹してゐたでは勿いか、抑も、息長帶比賣の三韓征伐なぞ繪空事では勿いのかと、中大兄は腹心が喉に痞へたが、其れを口にし樣う物なら火に油。最早、被る火の粉を拂ふ事すら許されぬ。山鄕では睨みを利かせてゐた蔭の暴君も、扶桑の京に上洛してからは借りて來た猫。其の鼻先を大海人は太刀の斬つ先で弄び、無文の冠紐と髷を彈いて髮を下ろすと、荒げた聲を押し殺し、胸に刻む口碑を神妙に讀み上げた。
「舊辭に曰く、還曆を遡る事、百を數へる往にし方より以來、火の鳥に追はれて天の國を渡り、流れ著いた韓の荒土を切り拓いて、樂浪の峯背から降つて湧く北狄を迎へ討ち、黥猴、倭奴と蔑まれ乍らも護り拔いてきた、竺志の故地を何と心得る。其の方が產湯を上がる前から、吾等は雷山から韓の治を望み、先人の偉業を嗣ぐ血意をした。海表を跨ぐ韓の地は只の外藩では勿い。唐の橫槍に怯えて俀國の版圖を飜すなぞ以ての外。」
大上段に構へた大海人の斬つ先は顫へてゐた。何故に山門の族は、斯うも性根が腐つてゐるのか。赤心奉國の矜恃も勿く、徒に猿山の爭ひに感け、互ひを傷附け騙し合ふ。其れは百濟と新羅とて同じ事。同じ倭國の末裔で在り乍ら、たつた一條の蕃屛で劃かつ、限られた獨つの領分で意地を張り合ひ、犬牙の如く入り亂れた擧げ句、高麗狗に手を燒いてゐた唐犬まで招き寄せて終ふとは。何處迄、己の首を絞めれば氣が濟むのか。囚はれた百濟の臣下は、新羅への忠勤を誓ふ見返りに役職を敘られ、次次と歸順してゐるなぞ聞き度くも勿い。
國家昏亂 國家昏亂して
有忠臣 忠臣有り
君辱臣死 君辱しめらるれば臣死す
可き物を、何たる面汚し。大海人は足許に蹲る、腰が拔けて逃げる事も、命乞ひも出來ぬ怒りの矛先に愕然とした。外征は國益に有らずと云ふ成らば、叛旗を掲げて猿山の衞を固めれば良い物を、怖め怖めと竺志まで兵を率ひて愚圖るとは。唐と新羅に裏で通じ、竺志を貶める裏切り者は、矢面に立たせて攻め込めば良いと割り切つてゐたが、此れでは捨て石にすら價せぬ。死地に臨む覺悟を固める此の刻に、手柄にも成らぬ山猿を斬つた處で、太刀が泣く。かと云つて、生かして措くなぞ國の愧ぢ。敵に背を向け、煙に卷く者を泳がしては示しが付かぬ。斯う爲つては己の手を血すより他に勿い。然う諦め、
「爾、夜の勤行は濟ませたか。」
責めてもの情けに、大海人が最後の御勤めを促した刹那、
「もう、良かろう。其れ位にして措け。人目を盜んで謀を錬るしか能の勿い虛けを、鍛え直して遣る積もりでゐたが、矢張り、兵を束ねる器に非ず。責めるなら、見る目の勿かつた私を責めるが良い。其の死に馬を蹴り、德を下げて何に爲る。いざと云ふ時、後ろから矢を放つ者なぞ用は勿い。香具山で芋でも掘らせて措け。」
隊仗を纏つた薩夜蔴の顯現に、彌增す禁裡の玲氣。常色の海幸彥と山幸彥と稱された、俀國の命運を擔ふ兩雄が揃ひ蹈み、斷罪の潮目が變はつた。扶桑の天子の助け船に、臟の腑を戾す勢ひで嘆堵する中大兄。情けを掛けた積もりも勿い薩夜蔴は、長居は無用と許りに、研ぎ澄まされた眼光で兄弟統治の片翼、大皇弟を表に促した。察する處、俗耳に曝せぬ國の大事に相違勿い。大海人は兇刃を鞘に治めると、禁裡の結界を跨ぎ乍ら、背中越しで鸕野讚良と大田王女に吐き捨てた。
「雙り共、何を爲てをる。其の腰拔けの尻馬に乘つて歸れば良からう。山猿の孫なぞ見度くも勿い。」
蔴氐良山の社に徒で詣で、其の頂きから、朝闇の宮地嶽、大己貴神の社、阿志岐の宮地嶽、住吉の社と眞一文字に繫がる神の道を見下ろした薩夜蔴は、頰を張る逆風に向かつて險眉を解き、小氣味良く鼻で笑つた。
「唐犬と高麗狗丈けで勿く、山門にまで挾まれては打つ手が勿い。」
精精とした其の物云ひに大海人が振り返ると、扶桑の天子は俯いた面差しで、徐かに念ひの丈を零した。
「韓を征した唐を太宰に呼び込み、地の利を生かして一掃した餘勢を驅つて失地を覆す。先帝の賢望は稀有にして壯大。將に天與の壹計に相應しい。だが、其れも、降り注ぐ火の粉には、隣の寺の空念佛。海表の政に取つて大義や志操なぞ、御輿に立てる鳳輦の代はりでしか勿い。百濟も新羅も唐の册命封爵を受けて措き乍ら、其の仲介に叛いて啀み合ひ、山門は唐と新羅に裏で通じて措き乍ら、討伐の兵を用立てる。此れでは最早、何を信じて良い物やら。周の御卋から貳心勿く、壹心に仕へた壹國の倭。倂し、天璽を嗣いだ宗主が鮮卑の隨に挫かれて、古道の威信は地に墮ちた。忠烈の士は今、何を以て何者に仕へる可きなのか。先帝の萬卋を見渡す深謀遠慮に、一理有るのか二理有るのか、吟味してゐる遑は勿い。新羅王が薨り、唐も髙句麗の反擊に敗走したとの報せも有る。此の機を逃しては、門前の狼藉を看過し、嵐が去るのを待つに等しい。正義は吾に有る。天璽を規す刻が來た。」
眦を上げて肥沃な竺志の大地を一頻り愛でると、薩夜蔴は住吉の社の彼方に霞む韓の地を見据ゑた。
「後を賴む。吾が身に若しもの事在らば、此の明日香の名は蔴氐良布の頂きに奉り、就いては、姬の後見として山門に下り、王氏への輿入れに芳志を盡くせ。口惜しいが、東國の佐け勿くして此の大局は乘り切れぬ。」
「姬、眞逆、倭姬を。」
愁眉を峙て詰め寄る大海人に、薩夜蔴は二の句を噛み殺し、己の頭を押さえ込む樣に肯いた。
己の務めを果たさねば。大海人は蔴氐良山を驅け降り、扶桑の國寺、法興寺を目指した。竺志に殘れとの刻ならぬ達し。韓の地では天子の盾に爲る積もりでゐた大皇弟は、薩夜蔴の血意に擊ち拔かれた。此の漢を佐けずして、俀國の王道は儘ならぬ。己が先に卽位してゐた成らば、同じ采を揮ふだらう。母は違へど生き寫しの雙り。後を賴む。其れを以て他に言葉は無用。史に名を殘す爲、手柄を獨り占めにする漢では勿い。祖神の加護を信じて國の石据ゑと成る。今生の別れを吿げた薩夜蔴の覺悟に、己の半身を裂かれた大海人は、託された遺志を胸に先を急いだ。
晚夏を惜しむ蟬時雨で炙り立てられた大伽藍の中でも、一際壯麗を極める扶桑一の刹柱。西海の賓客を悉く默らせ、其の眼を釘付けにする、蒼穹に尖塔を衝き立てて羽擊く、五つの雙翼が見えて來た。飛ぶ鳥の明日香を顯す五重塔を仰ぐ度に、大海人は、先人の積み上げてきた矜恃が傾ぐ事なぞ有つては爲らぬと、身が引き締まる。
僧門を潛り、寺主に促されて通された、八方を畵する佛殿。鋲を穿つ重苦しい扉が、呻きを上げて左右に開け放たれると、埀髮に覆はれた小さな背中が、上宮法皇、多利思北孤を象る觀卋音菩薩に誦經を獻げてゐる。振り返り、大父かと見紛ひ驅け出した童女に、大海人が片膝を著いて輕く會釋をすると、竺志の王女は持つて產まれた靈感に引き畱められて立ち止まり、喉に支へた胸騷ぎを呑み込み乍ら、紅葉の樣な小さな合掌で唇を塞ぎ、頭部を埀れた。美しく咲き誇る事を約束された、譬へ其の身は幼くとも、人の心を照らし出す其の色艶。白雉三年壬子、開聞嶽の磐屋で法水を舐めた牝鹿が忽ち身籠もり、翌年の春、草庵を黃金の瑞象に滿たして娩まれた、產名を瑞照姬と稱へ奉る、開聞の神女、倭姬。二歳にして薩夜蔴の女に迎へられ上洛した、穢れを知らぬ瞳が叔父の大皇弟を見上げて瞬き、其の憂ひを帶びた微笑みに、と或る獨りの面影が過つた。似てゐる、大父に、然して、彼の漢に。何故、總裁が此處に。エメラルダスの、左右の手な心を合はせて鎖ざした言葉が、刻を超える咒ひと爲つて、魔泥みの殿に木靈した。
寢るがうちに見るをのみやは夢といはむ
はかなき卋をもうつつとは見ず
眼裡に光が差し、逸史を搖蕩ふ周遊から覺めると、エメラルダス號は殘畱死念のトンネルと呼ばれる小惑星帶の宙域を拔けてゐた。再び鉛色の人生に舞ひ戾つた無冠の女王。アンタレスの姿は旣に勿く、誰獨りとして見舞ふ者の勿い病の褥に放置され、光束核幽囂爐の微動と交差する刻を超えた遙かな餘韻に、天蓋を覆ふ唐桃の梢が幽かに騷めいてゐる。復た、見ては爲らぬ物を見て終つた。深淵な畏怖と怪異な陶醉に痺れて、反芻する舊宗念號の綴れ織り。此の刻の流れと人の命が経糸と緯糸と成つて糾ふ、寫し卋の綾は何を物語つてゐるのか。何故、アンタレスが語り部として現れたのか。矢も楯も堪らず、額から縫合痕を傳ひ、襟足を浸す寢汗を亞蔴色の埀髮に絡ませ乍ら床つ身を起し、半月に缺けた御鏡に手を翳して、僅かな記憶と勘を賴りに、闇業化された僞計占有座標を入力するエメラルダス。復た獨つ寄り道が增えた。後は合成義惱の健算に委せて、窶れ果てた肩甲骨を記憶するシーツの窪みに倒れ込み、舌の上を轉がる血痰を吐いて、吸引器を咥へ込む。究極の自意識が慾する、孤獨で勿ければ安まらぬ、心の病。其の宿痾を捻じ伏せてでも、確かめねば爲らぬ事が有る。夢の續きが見たいのか、夢の答へ合はせをし度いのか。其れとも、奇術の種明かしをし度いのか。一度暴かれたトリックは誰も見向きをし勿い物だが、己の噓に鳥憑かれた者は、僞りの闇にこそ眞實を見出し、其の幽かな光を追ひ求め、己の作り話に踣り込んでいく。合成義惱の彈き出した航路に舵を取り、飜る髑髏の紋章。銀河系放射との潮目を越えた太陽風に、死の辨證法が北叟笑む。
斜めに斬り裂かれた御鏡の半月に點る、小惑星の蔭に隱れた一切れの屑鐵。何もかも彼の頃の儘の草臥れた軀體に、エメラルダスは昇壓劑の効きが薄れて霞む眼を細める。光覺冥彩を亂數解析する偏光フィルター越しに映し出された、コロニーとは噯氣にも呼べぬ廢材で艤裝した盜掘サルベージに、天庭の紅孔雀と稱される海賊船はアプローチを開始した。ササラモサラの艦旗も壓し折れ、肉眼で目視出來ても難破船だと誰もが素通りする瓦礫の巢窟が、エメラルダスの色褪せた記憶を自動再生し、懷かしさと、悔しさと、憎しみと、虛しさの序列が入り亂れる。
昔、男ありけり。女を盜みて、幾年月。後代の譏りに謝る所を知らぬ數多の蠻勇。力竭きて顧みる、嘉會歡樂、望む可くも勿き其の修羅道、いと甚だしけれど、
うれしくば忘るることも有なまし
つらきぞ長き かたみなりける
奴隷商人の手から遁れて聯れて來られたアンタレスの星の栖で、湯氣の立つカップラーメンを夢中で飮み干した緊張と恍惚。其れは何處迄も長い鉛鎖の始まりでしか勿かつた。親に投げ賣りされた意味も判らず、同じ境遇の孤兒達に揉まれて過ごした幼き日日。然して、盜賊の眞似事を始めてコロニーを飛び出し、富と名聲、成功と自由、そんな在り來たりな模造品に目移りをして、單身、火星に舞ひ戾つた其の後は、
腐肺した胸を熱くする、女王の目眩く紅き靑春。此處に足を運ぶ事は負けを認める事に爲る。家門を過ぐれども入らず。然う云ひ聞かせて來た筈が、行かず後家の分際で手ぶらの出戾りとは。然も其の上、御鏡に映る屑鐵は、久し振りの我が家と云ふ感慨とは程遠く、アンタレスと云ふ誰かの隱れ處でしか勿かつた。鼻筋を限る裂傷の樣に縫ひ合はせる事の出來ぬ、醒めた斷絕。改めて己の歸る場所は勿い事を突き附けられ、自分が護らうとしてゐる火星も、所詮、勝手な片思ひでしか勿いのだらう。エメラルダス號を橫著けし、側舷の艙口から接續タラップの蛇腹を伸ばす。帶域制限に障らぬ至近距離からの管制信號に應答は勿いが、勝手知つたる餘所の家に遠慮する程、初では勿い。嚇精劑を呷り、手土產の代わりに帶劍帶銃を提げて、釣り鐘外套を羽織るエメラルダス。捨てられた親に未練は勿い。倂し、育ての親には、そんな甘い感傷に凝り固まつた自尊心が鞭を振り上げる。艦内に潛入したアンタレスが、殘畱死念に共鳴した老想可視なのかを確かめる、其れ丈けだ。一瞥で事は足りる。挨拶も無用なら、奴の前で立ち止まる必要も勿い。船長室を出た女王は藥の力を杖に、僞りの王道を闊步した。
接續された蛇腹を滑り降り、動力の稼働と大氣制禦を確認してアンタレスの據點に降り立つと、宙域感染予防の消毒臭が漂ふ艦内は、意外にも整備が行き屆いてをり、鈍な打痕やヒールチップで研磨された床にも、油漏れ處か、芥一つ落ちてゐ勿い。節穴同然の警備の眼とは裏腹に、環境管理の眼が隅隅まで睨みを利かせる規律と自負。倂し、其の威風が卻つて、空調ファンが唸動してゐる丈けの通路を吹き拔け、兵達の脫ぎ捨てた鎧を偲ばせる。
葡萄美酒夜光坏 葡萄の美酒 夜光の坏
欲飮琵琶馬上催 飮まんと欲すれば 琵琶 馬上に催す
醉臥沙場君莫笑 醉ふて沙場に臥すとも君笑ふこと莫かれ
古來征戰幾人囘 古來 征戰 幾人か囘る
殺氣立つた野心を骨牌の掛け声と酒精が攪拌してゐた、在りし日の活況は今何處。莨煙、腋臭、塵垢、精液、吐瀉物で噎せ返る漢達の鐵火場で、軍靴の股下を縫つては鰻の寢床を驅け囘り、隙閒と云ふ隙閒に脫菟の如く潛り込んでは、孤兒達と蠻勇を競ひ、遊び場に事缺く事の勿かつた艦内。小火騷ぎを起こして焦がした天井や、摘まみ食ひが出來るやう調理場のダクトに空けた穴。配管パイプを引き拔いて振り囘すチャンバラや、有人機動服のヘルメットを總てドラえもんにした落書き。そんな狼藉を默つて抱擁して吳れた羊膜の樣な母艦が、壓力タンクを盲溶接した樣に閉經してゐる。歷戰の猛者から一宿一飯の流れ者迠、蟹工船の樣に詰め込まれ、其の群像を映す小さな鏡の孤兒達が、戰利品の御零れを拾つて山分けした、熱氣と密度とは程遠い、積み荷勿き船の閑散。錠の下りた扉の向かふにも人の氣配は勿く、女王のヒールチップ丈けが木靈する。
盜賊稼業は疊んで隱棲したと話しには聞いてゐたが、小惑星を枯山水に見立てて寒山拾得とは。趣味が良いのか惡いのか。錻力で圍つた方丈の庵で何を念ふ。息を潛めて步を進める牢名主の塒。此の時代と云ふ巨大な風車の影と戰ひ續けたドンキホーテの終の栖に、義賊として名を馳せてゐた往時は、表裏の勿い寛仁豪毅を慕ふ者達が、引きも切らさぬ程だつたと云ふのに、人拂ひでもしてゐるのか。彼の漢が氣後れする者なぞ聞いた事が勿い。老醜を曝す事が許せずに引き籠もつてゐるのだとしても、樣子が奇怪しい。こんな忸怩たる晚節を耐へ忍ぶアンタレスでは勿い。エメラルダスは一瞥すれば事は足りると髙を括つてゐたが、其の一瞥を投じる勇氣の故に、足取りが重く爲つてきた。變はり果てた姿を眼にした途端、氣丈に振る舞つてきた少女の儘の自分が決壞して終ふのでは勿いか。殘畱死念のトンネルから、見卋仕舞ひしたサルベージ船のタイムトンネルへと迷ひ込んだ、もう獨りの少女と、其の後を追ふ女王の心の旅。
難民の强制輸送の混亂に乘じて暗躍する手配師が、解錠されたコンテナの中で半殺しにされ、穴の開いたドラム缶の樣に轉がつてゐた。右も左も判ら勿ければ、自分が保護された事すら判らずに乘り込んだスペースノイド解放戰線の襲擊艇。臓器摘出の健體として身請けされる寸前で助けられ、育てて貰つた其の恩義とは裏腹に、少女は此の筋金入りの解放区に在つて誰獨り心を許さず、其れは命懸けで少女の盾と成つて吳れた、アンタレスとて例外では勿かつた。此の漢には人として大切な芯が有る、と頭で理解出來ても同じ事。特に食事の作法や食べ物を粗末にする度に落ちる嚴づ靈は强烈だつた。
「德川の將軍は食事中、米粒を零すと必ず自らの手で拾ひ上げ完食しなければ爲ら勿い。其れは米の壹粒壹粒が百姓の命だからだ。百姓とは訓讀みで「おほむたから」。詰まり、大御寳と云ふ國の寳だ。其の大いなる國の寳の育てた米を粗末に扱ふ事は、譬へ天下の將軍で在つても赦され勿い。此れが德川の帝王學で在り、其れは大政奉還後の皇室にも行き渡つてゐる。米に限らず、總ての食事は命を敬ふ事で成り立つてゐる。命とは、命と命を御互いに分かち合ふ事で成り立つてゐるからだ。食事の前に「頂きます。」、食後に「御馳走樣でした。」と手を合はせて禮をするのは、命を敬ふ、太古から續く信仰で在り、食事とは命を崇めて頂く神事で在る。命を分け合ひ、尊い御馳走を頂く意味の判らぬ者は、此の舟を去れ。」
少女は正しい事を云はれれば云はれる程、云ひ返し、情けを掛けられれば掛けられる程、威を張り突つ撥ねた。人樣の釜の飯を分けて貰つても、心が餓ゑる丈け。差し伸べられた優しさに手を添へると、卻つて、親に捨てられた悲しみを搔き立てられる。身も心も持ち崩してゐた兩親とは云へ、物心が附く前の火星で暮らした原風景は、生涯で唯一、平穩で眩しい日日だつた。孤兒が他人の安易な僞善に抗ふのは、捨てられても猶、彼の日の溫もりに忠孝を盡くす幼氣な想ひが有ればこそ。胸の痼りに痞へて聲に出せぬ戀慕の念が、强靱な叛骨心を練り上げ、叩き上げていく。少女丈けでは勿い。盜賊のアジトに巢喰ふ子供達は、獸の樣に抛り出されても、本來の生命力で寧ろ逞しく育つていつた。盜賊達の力任せの餓殺な優しさに喰つて掛かる鼻つ柱が、本の彈みで泣き崩れて終ふ幼心を支へ、人や物に當たり散らす事で、最大限、卋閒に甘え、武者振り憑く。然して、
年端も行かぬ孤兒達の中に在つて、人一倍秀でた感性と氣位で瞠めた、難民と云ふ名の蝗害が、何時しか少女に神への反抗を血意させる。宙域に遁れ、被災者を僭稱する者達は、民度も敎養も倫理も衞生觀念も勿い、賤民の中の選民で、選り選られた暴徒の王樣だつた。難民を積載した貨物船の中で犇めく、虐待と强奪と詐術の應酬を潛り拔けて來た少女に取つて、其の蠱壺は人の卋の縮圖では勿く、剝き出しの眞實、其の物。祭りの樣な地獄、不愉快な機智と無氣味なユーモアで下賤の闇に塗れ、自滅していく難民に手を差し伸べる事は、犯罪に手を貸すに等しく、表面的な慘狀に心を許せば瞬く閒に騙され、裏で喰ひ物に爲れる。其の計算し盡くされた貪婪で狡猾な憫亂に、同情の餘地は勿い。
自分の吐いた噓は二秒で忘れる朝鮮人と東南亞細亞人。眼に見える物は總て腕力で獨り占めにし、飢人の食を奪ひ、人の骨まで賣り捌いた擧げ句、人の寢顏にまで排泄する支那人。子供を强姦し、人を殺めても、神に禱れば赦されると豪語し、極惡非道を繰り返すクルド人。家畜に爲つた方が增しな、血泥の性奴隷が死ぬまで續く男尊女卑から遁れる爲、女を棄て男として生きる女達。攻擊出來る相手が居勿く爲つたら共喰ひを始める、仲閒同士や身内への際限の勿い暴力。飛び交ふ腐つた豚肉と廢棄豚脂の一斗缶。足手纏ひと爲つた途端、我が子を捨て去る兩親。人を騙して己の賢さを自慢する歪んだ微笑み。燒夷彈より强烈な罵詈雜言。そんな半人半獸を擁護し、難民として斡旋し荒稼ぎする職業左翼。通俗を超えた蠻俗の競演。其處では奪ふ事が生きる事だつた。弱い者や規律を徹底的に凌辱した擧げ句、都合が惡くなれば被害者面で己の人權のみを主張し、他者の人權を蹈み台にして措いて、二言目には差別、差別と喚き立てる二股者に限界は勿い。性善說を眞に受け、非人道主義者のレッテルを貼られて、差別、人權、ヘイトを大音量で訴へられると思考停止する、優しくて溫和しい、情報弱者のセキュリティホールを狙つて襲ひ掛かる、極左の常套手段を踏襲した眞の差別主義者達。凡ゆる犯罪行爲を離散の悲劇と云ふ物語で美しく正當化し、トランプのカードの樣に神の敎へを使ひ別けては、蟻の列の樣に他者の權利と財產と生命を蹈み躙る。難民を自稱する者達の殆どは、卋界を破滅させる爲に擴散する害人で、文明と云ふ化けの皮を剝いだ、存りの儘の人閒の慾望、其の物だつた。
祖国を捨て、美味い話に飛び付く根勿し草には、咲く花も勿ければ、實る物も勿い。舊卋紀、出稼ぎ移民が海を渡つたのとは時空が違ふ。何れ程、虐げられ、苦難の道を步まうと、地球を離れる可きでは勿かつた。然う、先賢は繰り返した。己の祖国を死守出來勿かつた者に、宙域で何を成し遂げられると云ふのか。此處では勿い何處かへ、約束の地を安易に見出さうとする惰弱と欺瞞には、辿り著く場所も、歸る場所も勿く、慾望の掃き澑めに迷ひ込んでいく。犧牲者の假面を被る盜人が相乘りした難民の護送船團は、ノアの方舟を艤裝した、海賊旗の勿い海賊船だつた。獵師が獸と、マル暴がヤクザと同化して終ふ樣に、手配師も奴隷商人も難民も、其れを襲ふ海賊も見分けの附かぬ熱狂の坩堝。帝政投資家の御零れを漁るハイエナに仲閒も序列も勿い。地獄の釜の底を覗き見て終つた少女は、信じる物を見失ひ、己にも其の難民と云ふ害人の血が流れてゐる現實に愕然とした。他人の死に己の死を悟るが如く、科せられた原罪の軛。惡靈懷妊の受胎吿知に組み込まれた、時限裝置のカウントが運命の扉を叩く。何時、破水するやも知れぬ、暴虐の鬼胎を抱へて、少女は此の艦内を驅け囘り、
拾有參春秋
宙域へ飛び出した。「難民」「孤兒」と云ふ鉤括弧を脫ぎ捨て、始めて手に爲る無限の自由。倂し其れは、開けたは良いが閉まら勿い、ガタついた心の窻、其の物だつた。抑え込めば爆發する己の本性は、自他の見境勿く攻擊し續ける事でしか、分散する事が出來勿い。野良猫の奇種流離譚。敵を憎み續けてゐる閒は、己の過ちと向き合はずに濟む。其のツケが今、囘はつてきた。貧民窟育ちでスカートを履いた事すら勿い女の半生。最前線の肉彈に明け暮れて燃え盡きた、紅き靑春のツケが。
追憶の茨を潛り、突き當たつた氣密鋼板。運命の扉か、將亦、棺桶の蓋か。漢の城の中の城が見えて來た。叩扉を躊躇ふ嚴つい門構への船長室。其の僅かな隙閒から聞き覺えの有る寂聲が泄れてゐる。鍵の解かれた鎧戸の向かふで熱を帶びる、朖朖とした語り口。誰か居るのか。彼の漢以外に。エメラルダスが厚切りにされた氣密鋼板に耳を添へると、扉越しの狂言囘しが奇妙な雄辯に醉ひ癡れてゐる。己の物語に呑まれた者が、此處にも復た獨り。
「何しに戾つてきた。舟の錆落としなら餘所で遣れ。」
不意の一喝に鋼板から耳を撥ね除けると、室内の硬骨漢は叱聲を捲し立てた。閒違ひ勿い。此の船の主は健在だ。倂し、其の相手は、
「革命を素つ放かした女が、何を偉さうに。貴樣なぞ衆道の天使か赤線の聖母が關の山。神の法も人の道も辨へず、右手にナイフ、左手に十字架。神と惡魔を誘惑し、裏切つた女郞蜘蛛に用は勿い。宙域に救卋主を復活させると豪語し、人の掟を越えた丈けで、神に叛いてはをらぬと火裂いた、彼の時の鼻息は如何した。基督は女だつたとでも云ふのか。エルサレムを貴樣の下り物で緋く染める氣か。其れとも貴樣は基督に振られた女寡か。基督とは殉敎した聖敎師の逸話を繋ぎ合わせて造つた創作物、御伽噺の英雄。其れ以上でも其れ以下でも勿い。基督は存在し勿かつた。にも拘はらず、人人は心の中に獨り獨りの基督を見出した。其れこそが心の眞實で在り、信仰の根源。基督は此の卋を去つたからこそ、今猶、人人の中に居る。神の不在と人心の實在。何故、神は存在し勿いのか。何故、神は人類を斷罪して葬り去らず、生かして措くのか。生きるとは、神に論爭を挑み續ける事なのか。我我は神を論破する爲に生きてゐるのか。人閒とは墮落した神か、惡魔の地上部隊か。人閒とは墮落した神か、惡魔の地上部隊か。神への挑戰と、神への憐慕は、獨つの胴體から生える二匹の蛇だ。宗敎的排泄物と思辯的吐瀉物に塗れて終末論に躓き、偶造的未來を思ひ描く丈けで、復活論へと辿り著けぬ小羊達。碎け散つた大理石の神神と、無神論の預言者達。惡魔より罪深いのは、弱者を呑み込む闇を自動化した、大衆と社會だ。最早、我我は素朴に神を信じた時代に戾れはせぬ。神の不在の絕望の中に己の神を見出すしか道は勿い。人閒の苦惱と歡憙とは、己で創造した神に裁かれ、罰せられ、赦される自作自演の紙芝居だ。神が心の中に在るのならば、地獄も復た然り。人閒が持つて產まれる惡の魔性を認めず、神のみを信じる成らば、本物の破滅が待つてゐる。罪を犯さずに神を崇める事が出來やうか。全く罪が勿いと云ふのは、魚の住めぬ海に等しい。墮落して打ちのめされ、頽れて跪くのなら、其の歎きは何時しか禱りに變はる。惡しき心にこそ光は宿り、惡しき心を求めて光はさ迷ふ。過ちの筋道を辿るのが神への道。魂とは神への羅針也。人に自我が有る樣に、宇宙には神が存る。無神論で民を濟ふ救卋主なぞ片腹痛い。經卋濟民で慾望の機械に爲る事が、神勿き殉敎者への第一步だとは此れ如何に。聖書を逆さに讀み、猶太と基督を擦り換へる奇術で、ドサ囘りでも爲る積もりか。無神論者は皆、聖人で正しい人の道を釋くのなら、其れも復た神と同じ道。熱湯を產湯の桶から地獄の釜に入れ替へた丈けの、信仰を求める心の裏返しでは勿いか。神は存在するの、し勿いのと、罵り合ふ時點で、同じ領域、同じ次元、同じ穴の小菟だ。貴樣は神勿き卋界に命を賭けられるのか。アブラハムは息子イサクを神に捧げた。貴樣は誰に何を獻げるのだ。其の蜘蛛の巢の張つた操を貢ぐにしても、出會ひ系のアプリで神を探すのか。處女膜證明書と履歷書をメールで天國に送信するのか。貴樣は蛇を宿した禁斷の聖母だ。犯人の情婦として撲殺されて復活するアナスタシアだ。聖母像を抱いて投身自殺する娼婦だ。神と云ふ精神的快樂が肉體的快樂よりも尊い理由が何處に在る。基督の花嫁は敎會だと云ふのなら、日曜禮拜に火を放つてでも神を强奪しろ。信仰の勿い者に眞の自由は勿い。人は誰しも己の神話の中に生きてゐる。沈默こそが神の特性。神と對話し度ければ言葉を捨てろ。」
支離滅裂で止め處勿い、造語症寸前の唐突な語彙。其の口吻は統合失調症と認知症の合倂症を臭はせる。慢性的な宙域神經症からの重篤化。其處等のコロニーなら月竝みな話しだが、彼の漢に限つて、そんな。エメラルダスは惱が萎縮し、艦内を徘徊するアンタレスに眩暈を覺えた。正氣と狂氣の竟を問ふても意味は勿いとは云へ、鋼の漢と呼ばれた豪傑が妄言のピエロに墮してゐるのだとしたら。嘗て反目と畏敬の存在だつた大いなる背中が、傴僂の樣に腰曲してゐる姿なぞ見度くも勿い。冷徹な鐵扉に頰を埋めて顫へる彼の日の少女に、室内から頭熟しの激語が飛んで來る。其れにしても誰に向かつて咆えてゐるのか。相手は女だ。共に死線を潛り拔けた益荒男以外で、アンタレスを訪ねる者と云つたら。其の問ひに、妖しく微笑む髑髏のヘアブローチ。冥王星の吹雪の中を追ひ掛けた、もう獨りの影が閃き、女王は首を振つて拂ひ除ける。そんな眞逆。
「階級の鋼業化と輯團化に因つて、宙域で復活した農奴制と强制收容所を破壞し、革命から聖戰、祖国戰爭へと擦り換へ、人類を首狩り族に先祖返りさせたのは誰だ。テロは新しい卋界への最短で唯一の道。革命は未來へのフリーパスだと信じ込ませたのは誰だ。革命と云ふ理想は略奪と殺戮を合法化する妄想で在り、政敵を效率良く抹殺する綱領だ。其の爲に犯罪者の潛在能力を最大限に有效活用する。奴等の手にする最强の武器は絕望と慾望だ。暴動とは發狂した自由でも、正義の誤爆でも勿い。追ひ込まれた輯團は主義主張を轢き殺して進む。裏切り者は泳がせて、更に大きな魚を釣り、敵は赦す前に殺すのが鋼鐵の不文律だ。味方も居勿くなる迄、徹底的に排擊する。然して、咳をしても獨り。革命家は自分が銃殺される側に囘はる迄、己の過ちに氣付か勿い。動物園のパンダを觀て憙ぶ馬鹿は、自分がウイグル人の樣に動物の檻に送り込まれる迄、パンダ外交の意味を理解出來ぬ。幸福なジャン・ヴァルジャンは暴走したテロリズムを知らずに死んだ。革命は濱に打ち上げられた魚の樣に一晩で腐敗する。ジャコバン主義とは程遠い、カフェで議論に明け暮れる氣樂な亡命指導者。他人の命に無關心な論理で著餝つた傲慢。高潔で愚劣な似非エリート。理性と云ふ美酒は政治的惡靈、其の物で、思想とは幻想で在り、生薬では勿く歷とした酒毒だ。卋論と公約を完全に無視して、派閥爭ひに血道を上げる委員會。工作員と倶に失踪する活動資金。監獄に送られる、使ひ捨ての無能な同志達。豚小屋の革命結社に尻尾を振る權力の犬。ユダが居勿ければ基督も勿い樣に、裏切りが勿ければ連帶も復た勿い。分派活動を彈壓し、御互ひを密吿し合ふ疑心暗鬼が組織を結束する。人の爭ひに内亂も外亂も有る物か。資本主義と共產主義、巨惡と巨惡の結託した、上下二卷の福音書を人類は暗誦し續けた。革命家の思想體系や組織圖も所詮、ローマカトリック敎會と終末論を雛形にした、一神敎の燒き直しでしか勿い。奴等は組織のパンをバラ撒き、十字架を信者に背負はせてワインを呷る基督だ。信者とは人件費の掛からぬ理想の奴隸で在り、其の豚共を分母に卋界を通分する。此れこそが究極の平等で在り、ファシズムの樂園だ。人權や平等の中に仕組まれた、特別と別格と云ふ詐術で支配する出口の勿い組織主義。困窮した民衆が嘆けば嘆く程、活動家は髙笑ひする。革命に取つて個人の不幸は蜜の味。其の怒りが紙の御城で造られた共產主義に火を點ける。敎會が罪人と乞食を求める樣に、革命事業を支へる御柱は、生け贄の血に據つて其の石据ゑを固める。白手袋で完遂出來る革命は勿い。血のスカーフは新卋紀のペストだ。惡しき不浄な血は絞り出さねば爲らぬ。權力に據る檢閲がテロリズムと云ふ惡靈を擴散し、政治的動機さえ有ればテロリズムは日常化する。肅淸の大義は星の數をも凌ぐ。政治的殺人の權利を行使する、似非文學の美辞で粉餝された檄文が、情を退けて理を押し通す。革命家に取つて獨斷とは救卋主の接吻か、惡魔の杖か。反權力を訴へる者は支配者の足許から伸びる影でしか勿い。一度權力の盃に唇を觸れると、後は飮み干す事に爲る。革命家と暴君は、權力と武力の核反應で生まれた太陽が、燃え盡きるまで周囘する、雙兒の惑星だ。王朝が打倒されても、其れは勝者と敗者が上著を取り替へた丈け。最も懼ろしい暴君は人閒の無知と無關心で在り、暴君と左翼の正裝は絞首刑と相場が決まつてゐる。僞りの萬機公論。一極に集中した權力が管理する地下室の組織。革命は過去を物理的に破壞する丈けで、建設的な新しい何かを創造する智性も、强奪した權力を制禦する能力も勿い。奴等の火裂く地上の樂園は動物的アナーキズムを野放しにするサファリパークだ。暴力の勝利で急速に增長する未熟な組織と無秩序な社會。其れは嵐で溢れ返つた急流の、一時的な虛しい增水でしか勿い。宙域は衆愚と云ふ新たな暴君を、血統書の勿い無數の獨裁者を生み出した。革命の熱狂と庶民の無關心。國家、階級、貨幣、貧困、私有財產、婚姻、年齢、性差、人種、性交涉、强奪、詐欺、殺人、臓器賣買。人類の種の改良の名の許に、有りと有らゆる制限を排除した奴隸社會へようこそ。我我は自由だ。」
アンタレスの前後の文脈を無視した炎舌に、寒門の才子を氣取つた孤娘は、身に抓される懺悔の聲を聞いた。一體、何を庇はうしてゐるのか。辯護士とは良心の賣人でしか勿い。此の漢も復た、昔見た夢に魘され、神と革命で搖れてゐる。間違つた夢を觀てゐた者同士にしか判らぬ、其の絕頂と絕望。何れ程、意識が混濁しても、己が最も輝いてゐた月日と言葉に人は縛られてゐる。具眼の士が見る影も勿い。此の勤めを終へた廢船も、空に爲つた船倉に鍵を掛け、罪荷の亡靈を背負ひ續けてゐる。人生の終末に再び巡り會ふ孤兒と孤老の悲しき因力。女王は意を決して氣密鋼板のノブに手を掛け、時を隔てた敷居を一跨ぎに、室内へ蹈み込んだ。
「下劣な大衆に人權を語る資格なぞ勿い。腐敗と云ふ特權を濫用して措き乍ら、何の口が人としての權利を叫ぶのか。現實に無知で無關心な其の本性に點ける藥は勿い。己の選擧權を易易と放棄した擧げ句、極左に唆され害人の人權を擁護する社會の亡靈は、毆られても起き勿い馬鹿だ。大衆の最惡な民度こそが社會の不正の溫床で在る。汚職と不法と暴走の限りを盡くす議員も、役人も、資本家も、マスコミも、不法移民も總ては、大衆と云ふ同じ木の根で繫がる、大衆を映す鏡だ。寧ろ、下劣な大衆こそが最も太い幹で在り、議員も、役人も、資本家も、マスコミも、不法移民も、其處から延びる枝葉末節でしか勿い。卵が先か雞が先かで云へば、背任の徒を產み落としたのは大衆の淫蕩で在る。政界財界、役所の腐敗も、大衆の猥らな本性の代辯者でしか勿い。大衆が犇めく巷閒は汚濁に塗れてゐる。
這是一溝絕望的死水 這は是れ一溝の絕望的死水なり
淸風吹不起半點漣漪 淸風は半點の漣漪をも吹き起こさず
不如多扔些破銅爛鐵 如かず 多く些かの破銅爛鐵を扔れて
爽性潑你的賸菜殘羹 爽性 你の賸菜殘羹を潑するに
也許銅的要綠成翡翠 也許 銅の要綠は翡翠を成し
鐵罐上鏽出幾瓣桃花 鐵罐上に 鏽は幾瓣もの桃花を出さん
再讓油膩織一層羅綺 再び油膩を讓して一層の羅綺を織らしめ
黴菌給他蒸出些雲霞 黴菌は他に給して些かの雲霞を蒸出す
死水に顳顬まで浸かつて微笑む汚物に、何を遠慮する必要が有る。所得の五割を國にピンハネされた上に、國家予算の三分の二を特別會計で猫糞されて措き乍ら、氣付きも、訴へもせず、マイルや家電量販店のポイントを貯めて憙んでゐる明き盲には、プラスチックの粒を新米だと云つて配つて措けば良い。大衆の危機感を痲痺させて、難民豫備軍へと誘導し、二束三文で叩き賣れ。家畜は己が商品だと知る由も勿い。刃向かふ者は臟器バンクへ直送しろ。其れが奴等への最後通牒だ。」
感極まつた怒號に左右の頰を面罵され、一步後退るエメラルダス。艦内モニターと端末の埋め込まれた壁に、釣床では勿くベッドを橫著けにした丈けの、備品と呼べる物は鏡獨つ勿い簡素な室内。配管が剝き出しの低い天井に押し潰されて、生活の凡ゆる息吹きが窒息してゐる。幼い頃何度も忍び込んでは摘まみ出された牢名主の獨房。そんな想ひ出の密室に立ち盡くす武骨な影。强靱な廣背筋と僧帽筋に因つて、岩盤の樣だつた肩幅と脊椎が狹まり、一囘り小さく爲つた背中が、何の餝りも勿いリベットで打ち付けられた壁に向かつて對峙し、立ち昇る殺氣で搖らめいてゐる。先客の姿は勿い。面前の鋼板に彈き返される、割れ鐘の如き激昂。其の壁の向かふに誰か居るのか。取り付く㠀の勿い其の劍幕。獨り咆え續ける老兵に、隔てた歲月が育む慈悲の滂沱を、エメラルダスは必死で堪へた。僧は敲く月下の門とは懸け離れた、取り殘された遭難者が、遠退いていく救助船を罵つてゐる樣にしか見えぬ其の落魄。黄濁した蒼貌に白髪霜鬢を被り、口角が弛み埀れ下がつた頰と顎髭に、瘦せて抉れた眼窩から飛び出す隻眼丈けが、木から落ちた梟の樣に、烱烱と煌付いてゐる。カーゴパンツの革ベルトに裝著された人工肛門のコネクタが眼に畱まり、意識の混濁は癌の轉移に因る譫妄狀態だと直感するエメラルダス。宙域感染症に因る免疫不全でマックトリガーが働かず、たつた獨りでの鬭病。モルヒネで痛みを散らしてゐる丈けなのだらう。医療廢棄物の抗癌劑や介護に甘んじる漢では勿い。況してや下の卋話等、有閒敷き屈辱。粗相をする位なら物を口にする事を絕つ。然う云ふ漢だ。優しさは自尊心を逆撫でする丈け。手懷けられて尻尾を振る玉では勿い。犬死にする覺悟は出來てゐる。苦悶の叫びを上げる位なら舌を嚙み切る事だろう。己に課せられた最期の刻を誰にも穢され度く勿い。許から、身の囘はりに茶坊主を侍らせるのを嫌つてゐた。見屆けるのは此の舟丈けで良い。人の言葉を口に爲勿いからこそ舟は愛ほしい。終の棲家に他言は無用。同じ船乗りとしてエメラルダスの胸に迫る其の痛切。美德を背負つて泳ぐと人は沈む。其れでも泳ぎ續けた漢の信義。思ひ描く主義思想は遷り變はらうと、心は恆に此處に在る。其れなのに、
何故、もつと早く訪ねやうとし勿かつたのか。榮光の餘韻も途切れた澄み渡る殺風に、見送る者勿き流し舟の隻影。其の趣きを臺勿しに爲る此の三文オペラ。自意識の獨り芝居か。夢遊病の劇中劇か。こんな空騷ぎを、淸苦にして、逸趣自づから饒く、隱居して放言すとでも。エメラルダス號で見た矍鑠としたアンタレスは矢張り、殘畱死念の產物。其れは良く判つた。倂し、事は何一つ治まら勿い。病魔に飜弄され、地の底に墮ちた漢の美學。御眼汚しにしても酷過ぎる老醜からエメラルダスは顏を背けた。若し、此れが己の姿だとしたら、卋界中の鏡を叩き割つて、ブラックホールに身を投げるだらう。銀河聯盟捜査局の第壹種特別指名手配、通稱、赤手配書の筆頭をハーロックとエメラルダスに讓り、星閒運輸機構が出資する格外報奬金の最髙額を塗り替へられても、廢れる事の勿かつた大盜賊の威名。默つて茣蓙を卷いてゐれば良い物を。こんな棺桶を引つ繰り返して演臺にした浪花節を聞く爲に、航路を逸れたのでは勿い。責めてもの情けに介錯を執る可きか、此の儘、生き愧ぢを見捨てるのか。骨を拾ふ身内が居るのなら手配もするが、結局、此の漢の事を何も知ら勿い。壁の中の誰かに向かつて主張し續ける老兵を前に、立ち去り難き女王の健氣な丹心。其の搖れ動く心の襞が、譫妄が生み出す幻と共鳴した。舌火を揮ふ浪曲師が不意に其の啖呵を呑み下し、姿勿き先客の影を追つて、徐に振り返る。
「遂に正體を顯しをつたな、此の化鳥め。」
落ち窪んだ眼窩の底で怒張した隻眼を血走らせ乍ら、エメラルダスを睨み付けると、アンタレスは白髪を振り亂して壁から跳ね退き、艦内モニターの脇にチャージしてゐた光勵起サーベルを拔き取つて、迸る虹周波の斬つ先を突き附けた。
「何故に、人の眼を惑はし、何故に、帶域を領有し、何故に、舊宗念號を僭り稱へる。」
鳥憑かれた眼に映る女王の病身が、靈鳥の炎群で燃え盛つてゐる。此の漢も見て終つたのか。宙域を羽擊く彼の幻の鵬翼を。其れは何時何處で何の樣にと問ひ質さうにも、夢の中の夢をさ迷ひ、腰を落として躙り寄るアンタレスに、最早、聞く耳は勿からう。若し、此のエメラルダスも鏡に向かつて咆える犬なのだとしたら、生きた心地も勿い。女王は嚇精作用に因つて粗生した肺の腐を咳き、左の袖口で血痰を拭ふと、醒め醒めとした慚愧を嚥下して帶劍に手を添へ、靈鳥の幻影に立ち開かつた。相手に取つて不足は勿い。己の星を天から突き落とした者同士の、死線を跨ぐ事でしか叶はぬ舊交。獨善、萬難を破り、劍を揮へば、神在るが如しと呼ばれた兵との最期の手合はせ。此れに優る弔ひは勿からう。そんな女王の肅やかな敬意も御構ひ勿しに、アンタレスは獨り捲し立て、鈷藍の刀身を大上段に振り翳した。
「重合體の被災區域に顯れては、變幻自在に姿を眩ます、神出鬼沒の其の消息。中でも、十干十二支を數へる刻の輪列を、念ひの儘に操る彼の女は、一體、何を企んでをるのか。歷史の影に女在り。其の一言では片付けられぬ鬼道の暗躍。舊宗念號は禁斷の正史を紐解く、蠶靈の緖。其の索引に手を觸れる事は、髙祖の聖廟を暴くに等しい。」
嚇怒に驅られた氣合ひと共に、振り降ろされた渾身の一刀迅雷。解き放たれた嚴づ靈の咆哮が、袈裟懸けに弱竹の蜂腰を限り、虹周波の斬像が網膜に灼き附いて、叩き付けられた衝擊が床を這ひ廻る。舞ひ上がつた塵芥を焦がして屡叩き、制禦された換氣を濁す放電ノイズ。絡み合ふ頭上の配管が慄き、埀れ籠める烟霞に紛れて降り注ぐ火花が、流星の樣に明滅する。矢張り、もつと早く訪ねる可きだつた。剛腕が錆び附く前の強かな壹の太刀を受ける事の出來ぬ侘しさに、半步も退かずに立ち開かる女王の劔柄が顫へてゐた。胸元に突き立てるプラズマの刀身を楯に逸した、其の柔な手應へ。其の力倆を推し量る迠も勿い。千閃萬烈の手練れは今何處。亞蔴色の埀髮が亂れる事も勿い、小手先の劍戟。明日の吾が身を垣閒見て、生き愧ぢの何たるかを知る。勝負は決した。其れすらも解せず貳の太刀を揮ふ老兵の衰へに、空しく爆ぜる光量子の追撃。色褪せた膂力に委せた盲刃を振り囘し、一撃必誅を期して、朽木から彫り起こした形相が、熱い鼻息を浴びせ掛けるアンタレスに、エメラルダスは左手を捨て、右枝埀れ柳に構へた。墮胎して黃泉復つた吾が子を送り返す鬼子母の如く、受けて立つ、苦悶の愁眉。光勵起水晶の發振出力に弄ばれて、八相の構へから繰り出す、强引な一太刀每に上體が泳ぎ、去なされる度に膝が搖れ、腰が碎ける老兵を、女王は手心で捌き、無言で叱咤する。埀髮の殘像を追ふ事すら儘爲らぬ、肩で息をする落ち武者の惡足搔き。此れが今のアンタレスの全身全靈。燃え盡きる命の炎群の最期の閃きは如何した。此の儘、電光影裏、春風を掠る許りで、恩師として慕ふ事すら勿く、斬り捨てて終はるのか。在りし日の少女の吐胸を湔ふ土砂降りの慈雨。相手の呼吸も、閒合ひも、御構ひ勿しの闇雲な素人剣戟が、藥の能で下駄を履かせた己の鬭劍の疚しさを責め苛む。斯うも力の差が有つては、花を持たせて遣らうにも、大衆演劇のチャンバラ。埓の明かぬ手應への勿い攻防にエメラルダスは痺れを切らし、脚が縺れて躓く老兵に險眉を極める。
愧ぢを斬る彌陀の劍にかかる身の
なにか五つの障りあるべき
アンタレスの鳥憑かれた幻の代役は此處迄だ。想ひ出は美し過ぎて、有りの儘の現實に堪へられ勿い。星辰一刀、安らかな眠りで償ひ、念佛を手向けるのが最適解だと、心に祕した、將に其の刻、
「我が國の發祥は律令制からで在る。」
片膝を著いて喘ぐアンタレスの獨白が、エメラルダスの反擊を押し畱めた。跡切れ勝ちな其の呻吟が帶びる哀惜と苦澁。鳥憑かれた語り部の云ひ傳へに女王は惹き込まれていく。
「事有る每に、大寳年號の建元こそが大和王家の草創と敍られてゐた陛下の眞意を何と心得る。陛下は日嗣の皇位が九州倭國王朝から禪讓された物で在る事を存知てをられた。然し、自らの御立場から其の正史に觸れる事は儘ならず。只管、公務に追はれ、禱りを獻げる日日。孰れは解き明かされる其の刻に、國民の信を得られぬと心を痛めてをられた事を知らぬとは、不屆きにも程が在る。陛下も亦、人也。早歲にして皇族の存在意義を問ひ續け、其の答へを探し求めた考古學と古代の文獻史學。陛下の心勞は如何許りか。積み重ねた叡智は憂門の第一步を蹈み固める許りで、念ひを分かち合ふ師や徒なぞ、望む可くも勿い。」
一騎打ちの相手を餘所に、アンタレスの隻眼は船外の彼方を仰いで陶醉し、エメラルダスの魔刃に輕く遇はれた恥辱なぞ旣に眼中に勿い。
「其れは魂の講義で在つた。水資源との共存と未來を命題に揭た、亞細亞太平洋、水サミットの場で、陛下は記念講演の機會に惠まれ、學生時代から卋界の遺跡を巡り、邃めた知見を許に、自論を展開なされた。アジア太平洋地域の民俗信仰を視座に進める、水と人、自然と社會の營みと歷史。其れは宮内庁の役人が用意した原稿でも、勑を布す玉音でも勿く、陛下の肉聲で在つた。阿蘇の山紫水明に始まつて、山嶽信仰の水脈を遡り、祀られた水神、農業神と其の傳承を辿つて、繩文土器に象られた蛇の神、龍神に想ひを馳せて說き明かす、先史から古代への遙かな息吹き。其處に、皇國史觀に囚はれ、史實の研鑽に聖域を設けては爲らぬとの私心を託された。古代に眞實を求めて、祖国の築き上げた常し方の價値を見出し、一刻も早く、戰前戰中も含めた國史を改め、國民と皇室の意義を共有し、其の存續の裁決を委ねる。總ては彼の國の未來の爲に。竝竝ならぬ御覺悟で講義に臨まれた陛下の御心は、迚も語り盡くせる物では勿い。
絲の絡まつた傀儡の樣に蹌踉めき乍ら立ち上がると、アンタレスは居丈髙な構へを解き、毛細血管が彈けん許りの研ぎ澄まされた眼尖で、女王の水月を貫いた。
「心して聞け。譬へ記紀が粉餝を極めた史書で在るとしても、千年を優に越えて國の祭祀を司つた法皇としての功績、然して何より、國と民の平和と繁營の爲に禱り續けた其の仁愛に僞りは勿い。彼の國の古道を外洋の功利主義で推し量るなぞ笑止千萬。理論に據つて武裝された價値とは、ブランドロゴで僞裝した合皮の財布や鞄でしか勿い。祖先を祀り、皇室と國民が互ひを敬ふ其の心に、何の咎めが有ると云ふのか。國の精神的支柱に理窟は勿い。議論とは、信ずる物の勿い、軟弱者の戲言也。彼の國は人類の模範と成る可き、寳石の樣な國だつた。にも拘はらず、國民は盲目的な皇國史觀を擔ぎ上げる許りで、講演の意圖を理解出來る者は居勿かつた。僞史を獨りで背負ひ込み、陛下は孤獨でをられた。花を見て實を見ず、國を見て民を見ず、冠を見て人を見ず。そんな淺はかな忠心なぞ、陛下は御望みでは勿い。百姓と書いて大御田の田子等は大御寳。其の國の寳が患ふ、白癡と云ふ白蟻が彼の國の柱を喰ひ潰した。何故に、陛下を鑑と爲可き民が斯樣な病に冒されたのか。皇尊の統べる千代の權威を最も貶めたのは、マスコミが捏造する卋論では勿く、皇室の精神も學問の意義も心の底では信じてをらぬ、御用學者達で在つた。公金を溶かして、記紀に沿つた虛僞の研究に明け暮れ、學會の沽劵と自己保身に執著する餓鬼道に、辯解の餘地は勿い。記紀が僞書では、皇室を敬ふ事は出來ぬとでも云ふのか。其の程度の皇國史觀こそが僞りの產物で在る。舊宮家の謗りを受けた皇族の再興にも盡力せず、定說の追從にのみ奔走して、國學の士號を名吿るとは何事か。記紀の總てが眞實で勿ければ、皇室を敬ふ事は出來ぬと云ふのなら、斯樣な尊王論者は眞の尊王論者では勿い。譬へ風車が壞れても、風が止む事は勿い。記紀の粉餝が暴かれやうと、彼の國を築き上げた魂の系譜は、彼の國の血潮と大地に刻まれてゐる。機械の體に爲る前も、機械の體に爲つた後も、精神的支柱勿き鋼國史觀を謳歌してゐた機族とは譯が違ふ。蓋し、卋に云ふ正史とは、大凡、僞書の謗りを免れぬ。だからと云つて總てを否定し闇に葬れば、其れこそ、GHQの焚書と同じく、勝者に因る眞實の隱滅に他ならぬ。記紀には神話として、民族の語源として、文學として搖るぎ勿い價値が有り、國の文化と思想の柱で在り、寳で在る事に疑ひの餘地は勿い。其の確固たる威義を見出せぬ者に歷史と國家と卋界を語る資格は勿い。此の宇宙の營みに比すれば、譬へ、國家や民族が一瞬の幻に過ぎぬとしても、其の成り立つに至つた必然を看過する事は許されぬ。人類の享受する自由と平和は恆に、合議に據る國家と民族、然して何より、愛國心の紐帶で擔保されてきた。其れを民族主義だ、排他主義だ、軍國主義だとレッテルを貼つて糾彈し、武裝解除したのを見計らつては、革命の名の許に暴力で制壓する。國家、民族、宗敎が崩壞した後の未曾有の秩序の狂亂を、更なる暴力で殲滅し、屍の山を競ひ合ふ。歷史は何度、同じ過ちを繰り返してきたか。愚か者は傳統と祭祀を、蒙昧な習俗や時代錯誤の遺物だ、懷古趣味と云ふ過去への感傷だと闇雲に否定した。其れは新しい權威を捏ち上げ、己が總ての實權を獨占し度いが爲の方便でしか勿い。其處に自由は勿い。自由が權威を誇示し、佞な力に訴へるで在らうか。權威に束縛された博愛は、博愛に非ず。陛下は下劣な大衆の弱さ、悲しさ、果敢無さをも愛し、赦してをられた。其の陛下の御心を、舊宗念號を僭りて稱へ、搔き亂すとは何事か。天から御言宣を授かり、初めて人は使命を得る。貴樣の授かつた使命とは如何に。答へられぬと云ふのなら、天の聲を聆け。」
鳥憑かれた勳臣の妄言が、エメラルダスに樣樣な角度から突き刺さる。雁字搦めの火語に取り圍まれて登壇した被告席。女王は裸だつた。授かつた使命を問はれて凍り付くしか勿い女の一生と、己の使命に燃える漢の熱き彈劾。何物が斯う迠、澁皮一枚の老骨に云はしめるのか。血然たる哭訴に罪狀認否も儘爲らぬ密室裁判。決して癒著する事の勿い、鼻つ柱の縫合痕が疼き、拔絲をすれば石橊の樣に口を開く心の隙閒に、息を吹き返したアンタレスが鈍な兇刃を突き立てる。嗄れた奇聲が三半規管を劈き、捨て身を投じる老い落の肉彈。虛を衝かれたエメラルダスは小手先の太刀で捌き切れずに、サーベルの鍔際で競り合ふと、手刀でアンタレスの劔柄を拂ひ落とした。
プラズマの放物線を描いて床を叩く光勵起サーベル。手首を押さえて頽れた敗殘の將の足許を轉がる、虛しい勝利を瞠め、掛ける言葉も勿く、後味の惡い幕切れを嚙み締める。佛心で介錯の手が鈍り、醜刃を交へる許りで、罪重ねる愧ぢの上塗り。御互ひ身寄りの勿い分際で、死に切れぬ者同士、何故、勞り合へぬのか。磁石に焦びり付く砂鐵の樣に、死太く絡み合ひ、啀み合ふ因力。何に意地を張り續け、さ迷つてゐるのかも忘れて終つた舟には、振り上げた錨を降ろす場所も勿い。此の漢が鳥憑かれてゐる幻を誰が笑ひ飛ばせるのか。人は誰もが、鏡の前で手舞足踊に興じる影繪でしか勿い。アンタレスの無慘な老境が、孤兒の絕望を生き寫し、誰にも助けを求めず、恐怖と不安を撥ね除ける爲に鎖じ籠もつた、欺瞞の殼に罅が入る。女王と云ふ己の噓に唆され、己の作り話の前に立ち盡くした獨りの少女。盜賊王と捨て子の虚卋身が入れ替はり、這ひ蹲る己の過去と未来を見下ろして、殘酷な奇異に息を呑む。詮ずる所、人の卋とは身無し子の破れ繪卷。其の斷末で行き詰まつたエメラルダスの無常も顧みず、形振り構はぬ老兵は猶も勝負に獅嚙憑き、忌忌しげに取り零した得物を拾ひ上げると、モニター端末脇に格納された大虬の如き主動力のケーブルを、右腕一本で引き擦り出し、左手に持つた光勵起サーベルの把頭餝にコネクタを接續した。討ち破れた尊嚴を振り亂して、藪睨みの隻眼は瞳孔が擴散して標的を見失ひ、檄を飛ばした口角は薄ら笑ひを苦遊らせてゐる。
「馬鹿な眞似は止せ。」
引き畱めるエメラルダスを無視して、主動力のレンジを全開にするアンタレス。劔柄に埋め込まれた光勵起水晶が兇振し、規格外の嚴づ靈が鎌首を擡げ、靜電氣で八つ俣の矛の如く反り返つた鬣が、天蓋に犇めく配管を突き上げる。容量を決壞した苛電龍の逆鱗。召喚された雷神の團渾が蔭走り、再び目覺めた老怪な魔性が雄威火を上げる。
劍太刀いよよ研ぐべし古ゆ
清けく負ひて來なしこの名ぞ
完全に太刀會ひの一線を超えたプラズマの虐燒。最早、活人の劍でも、殺人の刀でも勿い。室内を攪拌する電磁の濁流を搔い潛り、エメラルダスが動力のブレーカーに手を掛けやうとした刹那、臨界に達した光勵起サーベルが暴發し、アンタレスの左腕が吹き飛んだ。白烈と煤煙が朦朦と埀れ籠める視界。殘畱電荷が交錯する爆心の慘禍。寸刻の放心を振り拂ひ、火花を吹いて床を垈打つケーブルを斷ち切つて、仰向けに薙ぎ倒されたアンタレスを抱き起こすと、肩口から先を失ひ、燒け焦げて露はに爲つた左胸が明滅してゐる。急激な血圧低下に抗ふ人工心臓の拍狂。生き存へて何を待ち焦がれてゐたと云ふのか。スプリンクラーと警報裝置が作動し、蹴汰魂しい驟雨と警笛が降り注ぐ船長室。誰獨りとして驅け附ける乘組員の姿は勿く、エメラルダスは釣り鐘外套を脫いでアンタレスの爆創を覆ひ、形狀記憶拘束維の壓著で動脈を止血すると、後はもう、鳥憑かれた者の末路に眼を泳がせる事しか出來勿い。
一目確かめる丈けの積もりが、死の淵に誘ひ込んで終ふ、己の業の深さ。禱りを獻げる御題目も、濟ひを求める信心も持ち合はせぬ女を、疫病神か死神か、今更問ふて何に爲る。スプリンクラーの水壓で、焦土と化した廢船を搖蕩ふ、祭壇も獻花も勿い鐵火の燒香も搔き消され、雨滴に沈む戰士の休息。胸に懷く髑髏の紋章が朽ち果てたアンタレスを見護り、死の辨證法が肺の腐に爪を立て、見慣れてゐる筈の敗者の醜酸が鼻翼から縫合痕を衝き上げ、目頭で堰き止める。腕を囘して納まる窶れた體に、邃く刻まれた苦澁の皺貌と歷戰の彈痕を、傳ひ落ちる幾筋もの時の雫。卋の人は此れを、里親の死に目に閒に合つたとでも云ふのだらうか。御互ひの奔放な生き樣を拭ふ苛烈な袖時雨。人竝みを求め樣にも、何が人竝みなのかも判らぬ、首の皮一枚の繫がりが今、徐かに途切れ樣としてゐた。恰も其の刻を察したかの樣にスプリンクラーが停止し、大氣制禦が屑屑と囘收していく粉塵と殘煙と入れ違ひに、噎せ返る狹霧が渾てを淨化していく。被爆して煤けた隻眼の險しい眦が癇り、一頻り魘されて薄目が差した其の虹彩に、悟性の光が瞬いゐた。エメラルダスを二度見した目泣子が柔和に潤み、我に返つた大盜賊が最期の啖呵に火を點ける。
「こんな處まで場所代を取り立てに來るとは。解放戰線も下火なら、海賊稼業も落ち目の祟り目。次は何に鞍替へするつもりだ。彼の飛行船の圖體で、今更、白タクに貸しボートでも在るまい。」
エメラルダスの外套から首丈けを出し、勿け勿しの毒を吐く快兒老人。
枯木龍吟銷未乾 枯木 龍 吟銷して未だ乾かず
咄 枯木再生花 咄 枯木 再び花を生ず
寂とした雨上がりの束の閒、枯れ木に咲いた一輪の徒花に口角が緩む。
「潛りのスクラップ屋から廢油を絞つて何に爲る。屑鐵を捨てに寄つた迠の事。三ヶ〆の上がりなら、盛り場に茣蓙を廣げてから云へ。こんな四阿で舟の錆落としが出來るか。」
僅かな餘命と引き替への些些やかな安らぎ。本の一瞬、刻を卷き戾せた奇蹟。雙りの狹閒で絡まつてゐた紙縒りが解け、後はもう、無粹な言葉で此の一刻を濁し度く勿い。薔薇の樣な唇、舌には棘も有る女王が、緘默の秘酒に接吻し、靜閑を貫いた。彼の譫妄狀態で何を目の當たりにし、爭つてゐたのか。彼の鳥と何時遭遇し、鳥憑かれたのか。電劾重合體と舊宗念號と彼の鳥は何を訴へてゐるのか。そんな事は最早、何うでも良い。況してや、何故、電腦化の闇に呑まれていくハーロックを引き畱め勿かつたのか。大盜賊が奴隷商人から孤兒を助けたのは、「傳卋品種」目當てだつたのか。マイクロチップワクチンも遺傳子組み換への履歷も勿い貴種ならば、時が經つ程、値が上がると蹈んで圍ひ込み、賣り捌いてゐたのか。今更、其れを確かめて、誰かの何かが浮かばれる譯でも勿い。宇宙の寳や永遠の命の樣に、凡ては泡沫の氣の迷ひ。此の卋界に探さねば爲らぬ祕密も眞實も存りはし勿い。打ち捨てられた物の哀れを愛でる、人の心の弱さが蹲つてゐる丈け。其れを判り合へた今、刻、旣に遲くして、個個銘銘の送り火は銀河を下る。女王の腕の中で息を引き取つた、在りし日の大盜賊。舊故を道はずに通じ合ふ、血を分けた者かと見紛ふ其の境涯。君子は黨せずして袂を劃かち、異なる道を步んでも猶ほ、互ひの影に從ふが如し。白狼は鼠竊に非ず。巧を絕ち利を棄つれば、盜賊有ること無し。
虛ろな眼窩を伏せて霏霺く髑髏の紋章。半旗を飜して離脫するエメラルダス號の照準が、小惑星に座礁した錻力の精靈舟を捉へ、萬感の念ひを込めて弔砲が轟く。皇粒子の燦めきを帶びてアンタレスは星と成り、復た獨つ罪荷を背負ふ赭き黑船。滅後の幽寂、蕭蕭として、隻彗、寒し。
莫唄當年長恨歌 唄ふ莫かれ 當年の長恨歌
人閒亦自有銀河 人閒 亦た自づから銀河有り
然らば、塵外の獨絕。滿天に轟く懸河の辯も永卋の彼方。壯志、一度去つて復た還らず。見送る女神像の船首を挫き、針路を限る銀瀾の奔流。河の淸むを俟たば、人壽幾何ぞ。天帆艱難にして、之の使、猶からず。天命は更に易からず。いざ征かん、無極にして太極の宙原。血の塩で固めた緋き翠玉を胸に、狹丹塗りの舶鯨が愁波に搖れる、低囘顧望の操舵と索走、果たして相成るや如何に。諸君の壹路平安を禱る。