滿紙荒唐言 滿紙 荒唐の言
壹把辛酸淚 壹把 辛酸の淚
都云作者痴 都な云ふ 作者は痴なりと
誰解其中味 誰か其の中の味を解さん
宙原に放愾する、淸廉隱士の負け惜しみ。眞空の洞で木靈する賢しらな贅語に、大人は己無し、とは誰が觀た夢。未だ至らぬ、無可有の鄕。坐忘せよ、白玉樓中の召。名を盜るも、聖を穫るも、氣の迷ひに如かずして、船緣に縋る俊寬の淚。天に大赦莫し。鬼界の不遇も亦、歸の寄なるを以て水盃を呷る、作家乞食で薄情者。。
息を吐く度に血痰が絡み、爛れた氣管支が掠れた笛を吹いて目覺める、不吉な草枕。病は以て身を保つ可し。そんな氣休めは與り知らぬ、汚泥の樣な寢汗の濘るみに塗れた不治の褥。枯れ枝の樣に投げ出された手足は、腎機能低下に因る帶狀疱疹で被れ、俎板の上に磔にされた救卋主を、唐桃の梢が鬱蒼と見下ろしてゐた。藥の力を使つて幾ら背伸びをした處で、身の丈と云ふ物が有り、片手で數へ切れる餘命が、ポケットの中の小錢の樣に洒落付いてゐる。此の勿け勿しの身代で、次は何に賭けるろと云ふのか。寢返りを打つて覗き込む、半月に缺けた鏡の中のメフィストフェレス。雙つに割れた己の魂と引き換へに何を契約したのやら。惡い星の許に醉つてゐる時閒すら殘されてゐ勿い女王は、病葉の如き手な心を翳して、管制モニターに切り換へると、霞む眼を凝らして巡航狀況を確認した。アンタレスを葬り、一刻も早く直行す可き電劾の討征。處が、エメラルダス號の合成義惱は、火星とは異なる軌道計算を彈いて、到達距離をカウントしてゐる。大義を差し措き、傾いでいく慝な航路。心は萬鏡に隨つて轉ずる、二度振りの賽。火星に突入する蹈ん切りが付かぬ、と云はれれば其れ迠の、二の足を蹈んで逸れる脇道の先に、女王の緋き靑春の礫が點つてゐた。
何故、此の期に及んで土星の第六衞星に立ち寄らねば爲らぬのか。モニターの星系圖で明滅する翠玉の雫を弓形に追ひ掛ける、重力係數と突入角度の破線が、エメラルダスの肺の腐を抉り、追憶の座標軸を遡つていく。家門を過ぐれども入らず、の誓ひも虛しく、軍門に降つたアンタレスとの再會。堪へてゐた人戀しさと懷舊の情が堰を切り、自制の櫂を失つた笹舟は、只管、航海軌道の螢線に押し流されていく。鉄郞との邂逅で心は旣に折れてゐた。人肌の聲の溫もりに觸れて氷解した女王の氣概。袖と著丈の餘る男物の軍服を羽織り、流行りの思想で理論武裝した、卋閒知らずの御姬樣は、もう、唯の女ですら勿い。身無し子の慄きが、薔薇色の孤髙を僞り續けた代償と爲つて、背筋を這ひ囘る。借り物の武力を誇示し、猛猛しい凱歌を喚いて、無闇に殺生を重ねた丈けの半生。新しい服や寳石や男を求める馬鹿な女達を貶み、誰にも抱かれず、己の腕一本で宙域を泳ぎ切らうと藻掻き續けた。人生に騙されたと簡單に妥協し勿かった分、邃く刻み込まれた縫合痕。過去と人語で塗り固められた、女王と云ふ自意識の獨り歩きを、エメラルダスは靜かに俯瞰してゐる。奪はれた外套を求めて彷徨う亡靈の樣に、もう獨りの女王が徘徊する艦内。當て所勿い軍長靴のヒールチップが聞こえる。漢に成り切れず、女で在る自信も勿い分裂した自分に、追ひ付く事は出來勿いのなら、責めて、時閒を少しでも卷き戾し、其の距離を縮め度い。束の閒の錯誤で構は勿い。心に鎖した鉄のカーテンの隙閒で搖れる女王の瞳。此の儘、燃え盡きていく丈けの自分には、もう想ひ出に浸る事しか赦されて勿い。今一度、此の眼に燒き付け度い。網膜を掠める殘像だと嗤はれても良い。宙域に唯一殘された常綠の大地に降り立つて、何が爲度い譯でも、出來る譯でも勿い。不渡りを繰り返した人生の帳尻合はせなら火星に取つて有る。只、其處迄吳れば、彼の女に挨拶の獨つも爲て措かなければ氣が濟まぬ。今更會つて何が如何なる物でも勿いのは、アンタレスと同じ事。到り得て歸り來たれば別無し。然うと判つてゐても足を向けて終ふのが、腐れ緣と云ふ奴だ。彼の女は己の居場所を知つてゐて、其處に居る丈けで人を喚び寄せる能が有り、誰もが斷ち切れぬ因力に搖曳されて、旅から舞ひ戾る。
再び、蜜に嵌まり込んだ蠅の樣に溺れていく死の床の魔泥みの中、エメラルダスは眼窩を零れ落ちさうな水晶體を透かして、土星に寄り添ふ健氣なの點滅を、翠玉の湛へる永遠の煌めき追ひ續けた。女王の異名が生まれた、神助の第六衞星を。
火星が生命を墮胎した地球の模造品止まりだつた樣に、大方の入植地は鑛物資源を採り盡くすと、開發は打ち切られ、物流の據點にすら成れず、煙草の吸ひ殼宜しく其の場で踏み躙られた。在りし日の地球とは程遠い地球を量產する宙域開拓の中に在つて、タイタンは或る意味、奇蹟の星だつた。テラフォーミングと綠化に最も成功した天體で、宙域開拓の理念に卽した、地球を凌ぐ翠の星。髑髏の海賊旗も其の眩しさに眼睛を屡叩く、本來、表彰されて然る可き最優良物件の筈が、帝政投資家の皮算用で不良債權の烙印を押され、手間と時閒の掛かる利幅の薄い植物資源より、高價なレアメタルや紛争ダイヤモンドを求めて、人人は系外へと旅立つて行き、女王も亦、其の中の獨りだつた。詮ずる所、宙域に地球環境の再生や自然との共生なぞ、誰が求めてゐたと云ふのか。使ひ捨てられた地球と同じ產廢に後足で砂を掛け、次の現場へと向かふ賞金稼ぎにロールモデルは無用。木樵と鑛夫と盜賊では何れが儲かるか。其れが總てで、天秤に掛ける迠も勿い。不良債權として見捨てられたタイタンは、本音と建て前で使ひ囘される事すら勿く、職業左翼の吹き澑まりと爲り、太陽系の樂園と揶揄された。其れが自然な流れと云ふ奴なのだらう。
誰もが一瞥も呉れずに素通りする無可有の鄕。其の唯一成功した失敗作にアプローチする、スペースノイド解放戰線の旗行船。ジェット氣流で渦卷く雲海を全長480mの鋼殻気嚢で搔き分ければ、星、碧にして、舟、逾緋し。舊世紀の地球と見紛ふ葉綠素と海潮の鬩ぎ合ひ。無機質な固形物の茫漠では勿い、有機物の氾濫に船外モニターが歡憙する。女王の凱旋。常綠の絨毯に降り立つ狹丹塗りの舶鯨が、其の莫大な機影を引き擦り乍ら、測位衞星システムに入力した座標に向けて滑空し、斷層圈防禦を解いた艦内に植物電荷が充満していく。裝備を整へ、果てる事の勿い原生林を瞠め乍ら、エメラルダスは淺墓だつた己の知見に、幽かな頰笑みを苦遊らせる。遺傳子のアーカイブから培養し增殖させた生命の結晶。今が盛りの、青丹よし第六衞星を半月に缺けた御鏡越しに眺望し、此處が火星と竝ぶ、己の錨星だつたと氣付いた時には、もう旣に遲し。宙域に放たれた事で復活した大地主義。地球ですら宇宙が人類の爲に貞操を護つてゐた處女地では勿かつた。タイタンの原生林が圖らずも披瀝する、文明が髙度化する程、低俗で野蠻化していく文化と云ふ心の宿り木。原始の營みが何よりも洗練されてゐると、認める事が出來勿かつた文明の髙慢な越度が、此の衞星を太陽系の樂園に壤成した。爆發的な食物聯鎖で網羅された肥沃な大地に瑙蜜な大河。蝶花鳥獸の阿鼻叫喚が絕卋を謳歌する萬物の神祕。此の翠玉の魔法の元で、嘗て人人は日日の生活を磨き上げ、太古の豐かで臈長けた紐帶、風俗、習慣、人生、社會を培つてゐた。宇宙と云ふ概念を夢想するより、自分の手が屆く範圍の卋界で、過去も未來も勿く、人も草木も畜生も分け隔て勿く、總ての生類と命を分け合ひ、一日每に一つ一つの人生を生きる。生と死の渾然一體と爲つた存るが儘を享受して、眼に見えぬ未知の物に對して、不安も、恐れも絕望も勿い桃源郷。そんな神慮の星が、小つ惚気な野望に急き立てられて飛び出した時の姿の儘、平然と待つてゐて吳れた。本能に刻み込まれた感性が慾する快哉。當時は見向きも爲勿かつた天然の創造美に、最早、何も考へる必要は勿い。理窟で捏造された經濟的價値觀なぞ及びも付かぬ、卋界の本質が其處に廣がつてゐた。我欲に曇る心では受け止める事の出來勿かつた景色に、澡はれていく人類の望鄕。無謀な遠征の終著を認める失意の歸還。其處に靑い鳥は實在した。創作は時として現實を超え、物語が眞實へと昇華する瞬閒に、エメラルダスは嚇精劑の力を借りず、此の天然の大地を全身で感應し度いと、叶はぬ願ひを夢想する。
天網の彼方を目指し、エメラルダス號で乘り出した今迄の航海は何だつたのか。旅とは己の中に根付いた卋界觀の再生でしか勿い。在るが儘の宇宙を見てゐる積もりでも、經驗と予測で照合した範囲内で、其の差異に一憙一憂してゐる丈けの事。知の領域に新しい發見を求める事自體が、人類の愚かな營爲の驗だ。己の價値觀と閒尺を超えた理解不能な新事實を目の當たりにした時、人は其の存在にすら氣附け勿い。未知の何かに出遭つた積もりでも、自ら求め、用意して措いた、旅の情緖に呑まれた醉客。今と爲つては何れ程の眞實を見過ごして來たのかすら判ら勿い。其の依怙地な旅すら、後、殘り僅か。プリセットの座標にモニターを切り替へると、葡萄谷と呼ばれた往時の據點が旣に灰燼と化して、大地の肥やしを務めてゐる皮肉に、獨り呵呵として大笑した。
光束核幽囂爐を浮揚姿勢制禦に切り替へ、地平線の彼方まで敷き詰められた密林の直中にエメラルダス號が投錨すると、極彩色の猛禽の群れが爆擊の煙霧の如く飛び發つた。開放された艙口に流れ込む、發酵した腐葉土で噎せ返る、手荒な大氣の歡迎。生臭い熱波が亞蔴色の埀髮を搔き上げ、和毛の粟立つ毛穴全快の皮膚呼吸が、虫の息だつた肺細胞の毛細血管を拡張し、壞疽寸前の女王を叱咤する。野性の一擊を喰らつて目覺めた、埀直に筋の通つた脊椎。骨密度が凝縮し、膝關節も滑らかに、天體重力を闊步して降り立つ熱帶雨林の大地。天頂を囘遊する核融合パネルが輪舞し、人工太陽が常夏の卋界を照らし出してゐる。額に滲む心地良い汗。軍裝の汗澡冷卻を起動し、種子と胞子と菌糸と、絡み合ふ梢に覆はれた樹海のトンネルにエメラルダスは潛り込んだ。
無盡藏の精氣と濕度と臭氣と天然色素が攪拌し堆積した、猥雜な養分に眩暈を覺え乍ら、羊齒植物の天鵞絨を蹂躙する編み上げの軍長靴。蔦葛と蜘蛛の巢と小蠅の群れを、帶劍で拂ひ除ける度に木漏れ日を浴び、枝先の振動と體溫に反應して頭上から降る蛭を引き千切る。途切れる事の勿い豐饒で饒舌な大榕樹の密林。倒木を解體する白蟻の軍勢。樹液に絡み付いて痙攣する揚羽蝶。木蔭に隱れる爬虫類と齧歯類の俊敏な影。子菟に頭から嚙み付いた儘、一休みしてゐる縞蛇。死骸の腸に湧いた蛆蟲の脂ぎつた乳白色。一華五葉を開く、七重八重の葉脈にはルソーの眞筆も及ばぬ綠黃色の階調が霏霺き、雄蘂と雌蘂と共に入り亂れて發情する花瓣の讚歌が、想ひ出を一目燒き附け度いと云ふ、甘い考へだつた網膜に突き刺さる。一分一秒を爭ひ、己の生を貪る事に夢中で、女王の行軍になぞ一瞥も呉れぬ原始の王國。海も山も五分で飽きると豪語してゐた御轉婆が、今や泥と垢に塗れ、文明を一息に呑み込む壓倒的な包容力と格鬭し、抗ふ自由に、生きてゐる手應へを摑んで放せ勿い。心は旣に旺盛な大地に跪き、接吻してゐる。
往にし方に歸れ。
蔭陽五行や蠻夷への逸樂とは一線を劃す太古の禮讚。安易な復古主義では語り盡くせぬ魂の根源。此れが自然囘歸、否、轉向在野と云う奴か。物事が上手く行か勿いと、直ぐに投げ出し飛び出して、新しい小芝居を繰り返してゐた彼の頃。己の意地も通俗な卋閒が在つての事。此の星は人語を解さぬ神の代辯者だ。精靈達の競演の前では、女王も魂の遭難者でしか勿い。天文學的な細胞分裂と交尾が太古の鼓動を打ち鳴らし、地鳴りの如き蟬時雨、啼禽咆猴の大合唱に取り卷かれて、方向感覺が痲痺していく。幸ひ、髑髏のヘアブローチに導かれて突き進むと、蹄と轍で蹈み固められた獸道に合流した。日光と榮養素を求めて、所狹しと侵蝕する新陳代謝を跨いだ文明の殘滓。目的地は近いが、熱帶雨林は囘虫と感染症と野獸が犇めく死の寶庫。一瞬の油斷が其の鐵格子を開ける鍵と爲る。確か此の一帶には孟加拉虎を計畵放獸してゐた筈で、出會したら、手土產にするのも惡く勿い、と北叟笑むエメラルダス。程勿く、紛れ込んだ竹藪の向かふから、納屋に毛が生えた丈けの侘しい孤つ屋が顯れた。
仙女の賤家か、魔女の隱れ處か。柱の木目から節、小傷、下地窻の格子に絡む蔦一本に到る迠、寸分違はぬ往時の佇まひ。燐寸箱と自諧してゐた苫葺きの草庵は、女王の奧懷に祕めた其の儘の姿で、天日に干した腰蓑の樣に枯れ果ててゐた。區劃制禦の設定を蕃屛に、亞熱帶の氣候と生態系で取り圍まれた、淸閑幽韻の避暑地。葉先で彈けた朝露の香爐から揮發する、萬象一滴の薰陶。割れ鍋の如き原生林の騷亂は鳴りを潛め、木造の平屋を土壁で固めた丈けの朴訥な靜謐に、蜜蜂の羽音丈けが纏はり附いてゐる。まるで、議論に餓ゑてゐた若き日のエメラルダスの樣に唸る、たつた一匹の叛逆。アイドル革命家、星辰のジャンヌダルクと呼ばれる前の、旣に女王蜂氣取りだつた少女が其處に居た。熱帶夜に突き刺さつた氷柱の樣な論客に喰つて掛かる、血の氣の濃さ丈けが取り柄だつた日日が甦り、冠木に掲げた扁額の屋號を仰げば、墨痕逞しき草書の女瀧が蔭走り、其の名も嫗の如水庵。其の健在を確認し、日頃押し殺してゐる表情筋に、緩い緊張と苦い愉悅が絡み合ひ、皓齒が零れる。餘命幾許も勿い身と爲つては、罪重ねた羞ぢの數數さへ愛ほしい。
傳承と神話こそが精神の石据ゑで在り、傳統と格式が人の和を成す、過去と未來の橋渡しで在る事を認めず、空理空論を振り翳してゐた若造の減らず口に、粗茶を勸めた嫗の雅量。其れは此の星の氣宇壯大な營みに相通じると、今更思ひ知らされる。性差に抗ひ、萬物の攝理を無視し、男を超える女に成ると息卷いて男の猿眞似をし、凡ゆる個別の性の人權讚歌を謳つて措き乍ら、多樣性と云ふ唯獨つの價値に總てを押し込んで、何處へ行かうとしてゐたのか。鳥、飛ぶに倦んで還るを知り、蒼蒼自生の竹林と手入れの生き屆いた植栽に圍まれて、沈思に耽る苫屋の箱庭。天に向かつて埀直に伸び、絡み合ふ事を知らぬ、風霜高潔の孤孤に在つて猶、竹に上下の節有り。蓮つ葉の戲言を優しく見護る嫗の眼差しに氣付かぬ程、若かつた。差し出された茶菓に一切手を觸れず、獨り相撲を繰り返しては露地に飛び出し、徒に伸ばした赤日の長い影。
一體、何を求めて此の苫屋に足繁く通つてゐたのか。彼の女の言葉に何を見出さうとしてゐたのか。單に人戀ひしさに流されてゐた丈けなのか。他人の言葉に耳を傾けて何に爲る。人は往往にして、己の心の奧底で蠢く本當の聲に耳を傾けず、他人の言葉を當てに爲る。他人の助言に縋るのは、己の本心を放棄するに等しいと云ふのに。此の全宙域で最も理解不能なのは己自身の存在と心だ。人は潜在意識の裏側を暗躍する本心に支配されてゐる。故に、己の感情と肉體を制御出來勿い。己の本心は常に助けを求めて聲を上げてゐる。其れなのに人は己の本心では勿く、スポーツ選手やミュージシャン、作家や投資家の言葉に許り耳を傾ける。卋閒で成功したと稱される者達の發言を金言として奉るのは、成功と云ふ權威に媚びてゐる丈けしか勿い。其れは主體性の勿い人閒に落ちゐる第一步だ。他人の言葉に振り囘される者に未來は勿い。他人の評價の中に己は存在し勿いと云ふのに、端末でエゴサーチをする者程、他人の聲に目移りする。己の本心に耳を傾け、己の本心と對話し、己の本心と和解して、己の頭で考へ、己の心で決斷し、己の體で行動し、己自身で總ての責任を負ふ。其の達成感と挫折が人生の總てだ。他人の言葉に從つて物事が上手く行つた處で、其れは己の力では勿い。都合の良い結果許りを追ひ求めて何に爲る。エメラルダスは寂然と苔生す露地を前にして、改めて耳を澄ました。己の中に鎖じ籠もつてゐる、もう獨りの女王の聲に。
相手を云ひ負かす事しか頭に勿く、一切、眼に畱まら勿かつた、蹲踞の廻り道で息を潛める苔生した石燈籠、筧から手水鉢に注ぐ埀水の玲瓏。其の些些やかな設への出迎へに、女王の凱旋は勝ち鬨の聲を、固唾と共に嚥下した。今以て、空手還鄕の境地には非ず、餝る錦と土產に拱く、手振らの出戾り。其の里心を信じてゐたからこそ、同じ場所で待ち續ける寂然不動の靜物に、旅に遁れた愚かさを知る。譬へ其れが感傷で補正された追憶でも、掛け替への勿い仲閒達。安住の地とは、兔角、言葉を弄せずして人の心を誑し込む、狐里にも似たりか。エメラルダスは中門勿き茶庭の軍門に降り、飛び石を叩くヒールチップが彈ける度に、獨つ復た獨つと心の軍裝を解いていく、步步是れ道場。
見誤つた本願を强引に凝視し、歪んだ忍耐力で己の憎惡を捻じ伏せ、何かを克服した気に爲つてゐた永遠の處女。衰へた肉體を引き擦つて初めて判る人生の正念場。殘された日日に急かされる見えざる敵との戰ひと較べたら、時代の寵兒と持て囃され、有り餘る若さに乘じて成し遂げた事なぞ、巷の風聞に帆を張り、浮かれてゐた丈けの事。今、俗卋を後に、省察と和解の一時に耽る寸進牛歩。其の開け放たれた心の扉に不穩な影が忍び込む。途切れた小径の突き當たり。躙口の手前で重ねた沓脫ぎ石の上に、爪先の傷から踵の減りまで見覺えの有る軍長靴が肩を竝べ、直立不動で主人の歸りを待つてゐる。女王を差し措いて招かれた眞逆の正客。剩へ、懷舊の情が昂じてゐる處へ、瓜二つと見紛ふ黑革の編み上げ。其の不埓な既視感に瀟洒な趣は一瞬で吹き飛び、エメラルダスは下地窻越しの氣配に矢も楯も堪らず、躙戶を橫毆りに拂ひ除けると、高さ二尺三寸、幅二尺二寸の、挾み敷居と鴨居の木枠に圍まれて、もう獨りの女王が茶掛けを背負ひ、四疊半の床前に端坐してゐる。本意とは懸け離れた后位に擔ぎ上げられた少女の伏した憫睫。エメラルダスは貴種で在り乍ら身賣りされた、もう獨りの自分に愕然とした。暗轉する茶室と遠離る悟性の中で目眩く「元來不識」の茶掛け。此の星に降り立つ事で、本の僅かでも卷き戾し度いと願つた刻の流れが決壞し、制御不能で逆卷いていく。
足處氣勿い姬の面差しが傾ぎ、魔泥みに獨り舟を漕ぐ、天下千年の夢。
白鳳八年戊辰、正月、
淡海の渚の樓閣で披かれた山門の大王卽位の宴に、倭姬王は御餝りの王后として座の一隅を埋め、物憂い丈けの退屈を嚙み殺してゐた。淡海帝の誕生。其れは倭姬王の御心から餘りにも遠い繪空事で、啻、白雲の孤飛を仰ぐ許り。白村江の役で倭國軍と百濟は全滅し、唐の進駐軍に太宰の府を占據され、都落ち同然、命辛辛の體で東國に下向。更に其の背走の最中、筑紫の再興を期し、
拾有參春秋
髮を結ひ上げて閒も勿い、戀の憧れすら儘爲らぬ身空で、中大兄王子と云ふ稱號を傳へられた丈けの、會つた事も勿い男へ輿入れが取り纏められた。獨りの子娘が異を唱へて、如何にか爲る卋情では勿い。山門との協調勿くしては、立ち行かぬ處まで追ひ詰められた倭國。天孫が對馬から竺志に降臨してより以來、存亡を賭けた政略。其れは唐軍の手に墮ち、俘虜と爲つた、扶桑の天子、薩夜蔴が出征前、己の半身片腕と見込む大海人王子に達してゐた、萬が壹の窮餘を凌ぐ最後の一手で在つた。
竺志の血統を護る爲、身も心も淨め、磨いて來た筈が、其の純血を東國の山猿に穢されると爲つた途端、姬の宿して來た女の志魂は水に流された。己の行く末に身命を捧げる甲斐も勿くなり、四季の移ろひにも浮はの空の日日。啻でさえ眼に映る物が虛ろに見える處に、東國の見窄らしい風俗と蕃地に取り圍まれて、空き家に轉がり込んだ籠の鳥は何を哥へば良いのか。千疋の倭絹と海表の文物で溢れる竺志に馴れた身には、舘の設へから、下下の裝ひ、言葉遣ひ、仕種、何もかもが野鄙で、强烈な山門訛りは耳に障り、秋に舞ふ蜻蛉を「とんぼ」とは何ぞ、と小首を傾げ、韓人と筆談しやうにも、自由に遣へる筆も墨も勿く、上宮法皇、多利思北孤の御卋に建立されたは良い物の、參寳の傳來に於いて、竺志とは干支の數へで二囘はり半、歷史の淺い佛閣は信心と風情に缺け、幸ひ此の大津宮は舟遊びが出來る物の、一足、山門の鄕に蹈み入ると、佛典の敎化が遲れて薄葬を知らず、無闇に髙を競ひ合つた奧津城が、狹い窪地の其處彼處に犇めいてゐる許りで、爽やかな濱風に洗はれる事の勿い鬱蒼とした山氣は性に合はず、千代の松原や咲耶㠀が戀しい許り。百姓の營みも甲羅を剝がれた龜の樣に貧しく、此れでは土民の群れでは勿いかと、一々氣が滅入る。肥沃な竺志と較べ、月明かりで田の干上がる瘦せた土地で、夏は暑くて冬は寒く、天道を山塊に限られ、朝が遲くて夜が早いのは、天照神に見放されてゐる驗か。其の天照神が大穴持命に仕へてゐた御卋から更に遡る、神と人との區別の勿かつた頃、山門の地は淡海の樣に水の底で在つたと云ふのだから、文物の後進に甘んずるのも無理は勿い。切れ目を知らぬ群峰に開明の道を阻まれ、海表との交易に程遠い處か、藩國との交流にも疎い、斯樣な山里で天基を草創め給ふとは。幾ら竺志の本貫から溢れた分家の獨立とは云へ、彥瀲の御落胤は、餘程、行く處が勿かつたので在らう。ともあれ、岐美や針閒を盥囘しにされた擧げ句、佐貫の族と合流し山門を攻め落としたのも神佛の御導き。今、斯うして難を遁れてゐる身に在つて怨語は贅語と、倭姬王は今一度、鈍な睡魔諸共、水月に呑み下した。
口に合はぬ酒を袖に、重い瞼で瞠める淡海帝の取り卷き達。扶桑の京、太宰の府が唐軍の手に墮ちたと聞いて慨嘆に暮れる事も勿く、寧ろ、宗主への積怨を仄めかして澑飮を下げ、擧つて觥舟を漕ぎ戲れる、外地で血を流した事の勿い氏族の猥らな歡談。
「彌榮。」
の掛け聲に、念ふ處が有つても倭姬王は獨り貝と爲り、舶載の置物の樣に鎭座し、吾が君の盛運に眼を吳れる事も勿い。
天子の御膝元で一芝居を打ち、閒一髮の處で外征の九死から落ち延びた中大兄に時卋の風は頰笑み、立ち竦んでゐた丈けの足許に、漁夫の利は轉がつて來た。
白鳳四年甲子、夏五月庚午、戊申朔甲子、
百濟鎭將劉仁願、朝散大夫郭務悰等を遣はして表凾と獻物とを進ず。
裳拔けの空近い太宰の府の政廳に、戰勝國から敗戰國へ突き附けた一方的な令達。其の傳文を奉讀し、中大兄は眼の色を變へた。白村江で倭國軍は全滅した丈けで勿く、薩夜蔴が俘虜の身に在ると云ふ一文に天地が覆る。竺志の朝が空位と爲つて倭國の中樞が痲痺し、外政も内政も入り亂れてゐる處へ、當の天子が人質と在つては、講話交涉なぞ成り立たぬ。全面降伏が皇帝の勑命として嚴然と認められた異例の國書。
「死してより偉大に成る可きを、天王は何故、自盡の誉れを選ばなんだか。」
今はもう恨み言諸共、呑め勿い物を呑むしか勿い。此の眼も當てられぬ事態に、一枚岩と成つて耐へ忍ぶ事こそが、忠君愛國の在る可き姿。薩夜蔴が囚はれたと云ふ憶測が事實と爲つた事で、割れてゐた唐への對應にも一本化の目途が立つ、筈が、東國に遁れて來た倭國の王族と有力臣下は、山門の氏族を卷き込んで、反唐派と親唐派に別れ、離合輯散を繰り返しては啀み合ひ、大津宮は、吳越同舟にも等しい樣相で、膝を突き合はせ乍ら、同じ釜の飯を喰らひ續けてゐた。百姓は長引く半㠀への介入と敗戰で、絞り粕にも爲らぬ程、疲弊してゐる。暴發寸前の不滿を抱へた其の卋情を抑へ乍ら、如何にして唐の倭國侵攻を阻むのか。右に切つても左に切つても後の勿い闇夜の舵取り。其の落禍騷然を見計らひ、中大兄は丹塗りの宮柱を蔭から蔭へ、闇から闇へと跳梁した。
寳女王薨去の後、山門の朝堂も混迷を極め、在來の氏族から怨みを買ひ、寳祚へ推擧する合議の得られぬ中大兄は、登極せずに政を稱こした物の、竺志と山門の禁裡が揃つて空位と在つては、纏まる物も纏まら勿ぬ。己の保身と上邊丈けの孝志が櫂を奪ひ合ふ、船頭を波に攫はれた船。斯樣な正道の通じぬ難局が、破戒の道を步んで來た輩には幸ひした。人人の當惑を地熱に、猜疑を種火に、此の期に及んで未だ燃え盡きぬ謀略の炎群は、獨り愚直な野望に突き進む。半㠀への介入に及び腰で、内内に唐と内通してゐた中大兄は、始めから倭國を出し拔く事しか頭に勿い。其の脂ぎつた惡智惠が先づ眼を附けたのが、再び嘗ての勢力を取り戾しつつ在る蘇我氏だつた。蘇我の女と在らば手當たり次第に輿入れさせて配下に强ひた、其の手綱を緩めて手繰り寄せる中大兄。乙巳の變で本宗家を滅亡させた張本人の甘言に色めく舊敵の陣營。倭國への忠誠を護り通してきた蘇我氏も反唐派と親唐派で割れてゐた。未だ記憶に生生しい宗家の燒滅。其の遺恨を引き擦ずれば引き擦る程、足手纏ひに爲る情勢が總てを打ち消した。中大兄が蘇我と組む事に、蘇我の臺頭を挫く事に奔走して來た鎌足は耳目を疑ふ。確かに、蘇我の力を借りずして山門の氏族は纏まるまい。蘇我が閒に入れば、竺志との輿入れも芽が見えて來る。落ち目の宗主とは雖も、其の後ろ盾を得れば、度重なる返り血で穢れた叛徒の卽位も夢では勿い。蘇我の倭國派と親唐派を右から左へ使ひ辨ける事が出來るのなら、機を見るに敏で在らう。然りとて、手負ひの倭國を舐めて掛かり、濟ひの手を差し伸べ、釣り出した處を喰ひ物にしやうと云ふのなら、餘計な下心は命取りにも爲りかねぬ。
謀略と闇討ちに明け暮れた中大兄の橫道。其の騰馬の轡を取り、制へて來た老功の手練れ鎌足ですら、今の倭國を廻る動靜を讀み切る事は至難の業。山門の自治と古道を、倭國の支配から奪ひ返す好機で在るには違ひ勿いが、幾ら殿下が裏で通じてゐ樣と、唐の軍勢が何時、大擧して侵攻して來るやも知れぬ此の刻、火事場泥棒なぞしてゐる場合なのか。目障りだつた竺志の天王が倭國の足枷と爲つてゐる事を北叟笑むのは、心の隙を生む丈け。裏で糸を引くのは良いが、相手は昇り龍をも嚙み殺す唐獅子。藪から吊り出したは良いが、其の儘、丸呑みにされぬと誰が云へるのか。殿下が百獸の王を手懷けられるだけの器なら、誰も苦勞は爲勿い。水を得た魚は得てして大海と合點し、魚籃から爆ぜて地に墮ちる。此の男が奮ひ立つと碌な事が勿い。假に萬事が齊ひ大王の座に卽けたとして、絕頂と凋落は峠の一本道。今は面從腹背に徹し、潮目を讀むに如くは勿い。
未曾有の激動に鎌足の慧眼も搖れてゐた。風雲亂卋は史に名を刻む、一卋一代の天機の筈が、いざ、倭國の存亡を目の當たりにすると、時流が打ち寄せる荒波の猛猛しさに慄き、天を衝く身の丈を越えた濤髙に膝を屈し、仰ぐ事しか出來勿い。山門を含めた東國を、律令、位階、評制に佛法敎化と、力盡くの政で捩伏せ、榮華を極めた扶桑の王者が、一澑まりも勿く打ち碎かれ、神の國は一夜にして終焉した。僞りの神を水底に沈めた唐の皇軍。其の國力は如何斗りか。日增しに髙まる、戰勝國に對する脅威的な認識と、更なる巨妄。矢繼ぎ早の傳聞に飜弄される許りで、朝堂での合議は互ひの顏色を窺ひ、親唐派が制して吳れるのを當てに、反唐派が全面講和を主張するのも白白しく、其れ其れの小さな縄張りで小競り合ひ乍ら、事の成り行きを見護つてゐた。唐の水軍の侵攻に備へて薩夜蔴が造營し、參種の神璽を遷座した大津宮に、太宰の府の羅城で唐を討つと云ふ伊勢王の遺志も虛しく、竺志の勢力が遁れて來た時點で、徹底抗戰なぞ望む可くも勿い。いざと爲れば淡海から古志の海へ拔け、嘏夷に遁れる算段で急拵へした、背水の陣なぞ眼中に勿い及び腰の宮湖。恥も外聞も勿い、假住まひの渚で、雅な倭絹の裝束が卻つて慘めな落魄の宗主と、其の御下がりを羽織る藩國が肩を竝べた鎭具破具な車座に、今の今迄、己の積み重ねて來た謀略と、驅け昇つた榮達が如何に卑小な、蝸角の爭ひで在つたかを思ひ知る鎌足。目先の欲目に走り、大局を遠望も注視もせず、外戚に割り込み、實權を握る事のみ明け暮れ、閒良くば、倭國を斥けて東國と古道を再興し、史に其の名を刻む。何の事は勿い。巫山戲た夢を追ひ求めた擧げ句、倭國も山門も此の樣だ。
外征に向かふ殿下の命運を試した事も、今と爲つては一昨年の星筮ひ。抑も、山猿が一匹、生け贄に爲らうと爲るまいと、如何にか爲る戰況では勿かつた。然して、九死に一生を得た山猿は懲もせず、猿山の頂きに獅嚙憑き、次の餌を漁つてゐる。裏で唐と通じ其の威を借りた處で、向かふが一肌脫ぐ代はり、此方は丸裸にされるのが落ち。此處ぞと云ふ處で、宗主を裏切つた者の戲れ言を唐が信じる筈が勿い。大惡黨か小惡黨か見境の附かぬ殿下の淺閒敷さ。唐で生き恥を曝してゐる薩夜蔴と、鬼の居ぬ閒に天下を掠めやうと躍起の中大兄に、如何なる差異が在ると云ふのか。
「己ノ名ヲ殘セ、果敢無キ人ノ卋ニ。己ノ生キタ驗ヲ、常シ方ノ史ト成セ。」るのか、其れとも、
「史ヲ規セ、己ノ生キタ驗ニ。此ノ國ヲ讚ヘル常シ方ノ史ヲ。」規す可きか、
彼の日、彼の刻、彼の鳥に刷り込まれ、唆された言葉は荒波に呑まれて、搔き消され、永遠の矜恃は斷崖の淵に膝を著き、其の先を覗き見る事すら出來勿い。身命を賭して飛び込む氣概も勿い分際で、一刻を爭ふ此の怒潮を意の儘に切り分け、一筆で己の勝手に改めるなぞ、何と大それた事か。史に名を殘すと云つた處で、髙髙、樂浪海中の㠀国。西方淨土にも其の名の聞こえる大國に一睨みされた丈けで手が顫へ、過ぎ去りし大禍を認める事すら覺束ぬ。白村江で沒した者達も旣に忘却の彼方。其の生き殘りが九死の狹閒で火の鳥を視たと云ふ。紅蓮の炎に包まれた海戰の上空を舞ふ不死の鳥を指差し、倭國の軍勢は偶さか歡憙の聲を上げたのだと口を揃へる、消し炭の樣にドス黯く灼け爛れた顏と顏。火の鳥は倭國の護り神。倭國は天孫の統らす國と云ふ根も葉も勿い云ひ傳へは、其の鳳尾に縋り付く事すら叶はず、幽かな望みは怪鳥の氣紛れに嬲られ、異國の海で灰燼に歸した。萬の屍で緋く染め上がつた水面を周遊し、燃え盛る竺志の靈鳥。其の不死の源は燃え盡きる人の命を肥やしにしてゐるかに見えたと云ふ。總ては、絕頂と幻惑、確信と盲信を行き交ふ夢の中の夢。最早、何を信じて良いのやら、始めから何も賴れる物なぞ勿かつた事を思ひ知らされて、鎌足は宮を後にした。
靜まり返つた淡海の渚。夜風と倶に當て所勿く逍遙し、波閒を霏霺く銀瀾を瞠めては、水有り皆月を含む、湖西に念ひを馳せ、火の海と化した白村江と、外寇に占領された太宰の府が、此の寂莫と天を獨つにする今を信じられずに立ち止まる。水掬すれば月手に在り、とは誰が云つたのか。月輪を映す其の手も放せば、指を擦り拔ける雫を摑む事すら儘爲らず、徒に袖を濡らす丈け。人の卋の諍ひも星の巡りに照らし出された一瞬の影。物の哀れを解さぬ刻の流れは轉轉と、衣食が足りても滿たされぬ、靑雲の彼方に髙じた志魂と氣概を苛み、對岸の灯火に眼を凝らす鎌足の頰を、冷徹な夜氣で削ぎ落としていく。
白鳳五年乙丑、冬十月丁亥、己亥朔己酉、大きに莵道に閲す。
十一月戊子、戊辰朔辛巳、劉德髙等に饗賜ふ。
大唐の使節の歡待に中大兄は奔走し、東國は倭國と相容れず、皇帝への積年の忠孝は搖るがぬ勿い事を喧傳した。靜觀してゐる鎌足の眼にも小聰明い其の阿諛追從。魚籃から飛び出した鮒は、陸と河の區別も勿く跳ね囘はり、大唐の遣使に「倭國の殘黨ならば心配無用。」と餘計な口まで叩いて、臣下は火消しに追はれた。何故、斯うも輕い男なのか。己が嗾けたとは云へ、此の狹量、其の身の丈で良くも東國の盟主として振る舞へる物だと、呆れるやら感心するやら。此れも亦、才覺の内と云へるのか。外征から遁れ、山門に引き籠もつて暫くは、蔭で腰拔け呼ばはりされてゐたと云ふのに、薩夜蔴の軍が全滅したとの一報を受けた途端、中大兄は「其れ見た事か。」と、まるで先見の明が有つたかの如く振る舞ひ始め、其の風當たりも掌を返した。獨つの政廳で祐筆を揮ひ、汗簡を取り交はす中で、殿下と竺志の主要官吏の結び付きも蜜に爲り、太く爲り、自づから信望と呼べる物まで附いて來てゐる。姑息にでは在るが、裏で親好を續けて來た事も實を結び、今では大唐との執り成しに勿くては爲らぬ顏役。倭國に代はつて饗應の音頭を操る殿下に粗相が有つてはと、鎌足は恆に先囘りをして膳夫に目を配り乍ら、未だ厚く埀れ籠める風雲を順風へと轉じた奇遇が、卻つて末恐ろしい。宴の最中、巡盃で滑らかになつた劉德髙の口から、薩夜蔴は封禪の儀に參列した後、送還する旨、吿げられ、列席した倭國の諸臣が聲を殺して、滂沱に搔き暮れる樣を見るに附け、服喪を盾に外征を辞した殿下を生きて歸した、天の氣儘な賽の目に、人事を盡くして待つ可き物を見失ひ、果たして、殿下の爲に流す淚が有る物か自問する。こんな物を天命と呼んで良い物か。筋道が在るのか知れぬ因果の聯なり。其の亂卋の縺れた玉の緖の先で、中大兄は更に實物の女神を手繰り寄せる。
惡運丈けで成り上がつた漢の眞骨頂か、針を仕掛ける前の、埀らしてゐた丈けの釣絲に喰らひ附く大魚が一匹。阿每氏の宗家から、二年後の丁卯の歲に髮を結ふ、竺志の姬の輿入れの話しが舞ひ込んで來た。其れも、鎌足が蘇我氏の手を囘す前に。山門から竺志に輿入れの御伺ひを立てる事は在つても、其の逆なぞ在つては爲らぬ事。然も、扶桑の京に殘る大海人王子が姬の後ろ見として直直に下向すると云ふ。中大兄は白村江後の講和の鍵を握る、今や刻の要人。大唐と倭國の綱引きの閒で、雙つの宗主を兩天秤に掛ける曲者を繫ぎ止めて措く可く、竺志が先に動くとは。謀略の限りを盡くした嘗ての奸賊を蔑ろに出來ぬ、阿每氏が下した苦澁の選択。其の後ろ盾を得て王氏の地盤を固める中大兄の更なる榮進。倂し、鎌足は此の願つても勿い大緣の先で待つ、骨肉の爭ひに慧眼を飛ばした。
殿下の后には、血で血を湔ふ因緣で結ばれた蘇我氏の姪娘も居れば、大友王子の母、伊賀采女宅子娘も控へてゐる。竺志の威を借りて稱制の枷を解き、空位と爲つてゐる大王の座に卽くには、其の先妻を押し退けて竺志の姬を王后宮と爲ねばならぬが、騙し討ちで家まで燃した敵の女を、力盡くで娶つて措いて、屯倉の古米の樣に隅から隅へと片付けるのでは遺恨の上塗り。倭國の王女と山門の里女では格が違ふ。だからと云つて快く身を引き、先を讓る虛けが何處に居る。始めから斯う爲る事は判つてゐた。雁字搦めに縺れた絲を染め上げる流血の緣。此の怨嗟の鎖が斷ち切られる刻が在るのなら、其の刻は如何なる大鉈が、誰の身に振り降ろされるのか。其れは鎌足の慧眼でも遠く及ばぬ、史の卷末に霞んでゐた。
白鳳七年丁卯、十月辛亥、戊子朔癸卯
對馬國司、使を筑紫太宰の府に遣して言はく、
月生ちて二日、沙門道久、倭王薩夜蔴、韓㠀勝娑婆、布師首磐、四人、唐より來て曰く。|唐國《もろこし》の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等一千四百人、摠て合て二千人、船丗七隻に乘りて、倶に比知㠀に泊まり、相謂て之曰く、「今吾輩人が船、數衆し。忽然に彼に到れば、恐るらくは彼の防人、驚き駭みて射ち戰はむ。乃ち道久等を遣して、豫め稍くに來朝の意を披らき陳さしむ。」とまうす。
天ヶ原を埋め盡くす大船團に護送されて入港した倭王の歸還。國を擧げて出迎へる可き千代の松原に人影は勿く、土地の者は誰獨り軍の水門に近寄ろうと爲勿かつた。五年もの閒、空位と爲つてゐた太宰の府の朝の再臨に、餘所餘所しく素通りする濱風の獨閃。見上げれば、那の津に犇めく豪奢な軍艦を、筑紫降峯の高祖山、飯盛山から見下ろす百姓の不穩な表情が見え隱れする。竺志の稀人が擧つて東國に遁れた後、見捨てられた民の心は廢れ、盜人と燒き討ちが橫行する倭國の本貫に、外寇の群れが押し寄せて來たのだ。千を超える軍勢と其の上陸は、戰勝國に據る本腰を入れた占領支配の始まり。土地を捨てて遁れる事の出來ぬ竺志の民に取つて、本當の災禍は此處からで、其れが何處まで續くのか。扶桑の天子が戾って來たとて、參種の神璽まで運び出された竺志の何を護れと云ふのか。天孫の咒ひは解けた。今更、生き愧ぢを曝しに聯れ戾された神樣を拜むで何に爲る。斯樣な物蔭から覗き見る敗者の疑心暗鬼を、大唐の兵達は倭國の聖域ごと土足で蹈み躙つた。
壯健な隊仗が列を成して押し寄せる兇行軍は、無抵抗な竺志の百姓を蹴散らして御笠の河を遡り、大野城、阿志岐山城、寳滿川、基肄城、水城を巡る防壘を乘り越えて、太宰の府の羅城に備へた軍器兵器を燒き拂ひ、屯倉の兵粮を强奪すると、扶桑の京を驅逐した其の足を止めずに倭國歷代の王墓へと進軍し、女に餓ゑた山賊の樣に凌辱した。冢は碎かれ、玄室の鮮やかな壁畵は抉られ、副葬品は山分けにされ、狼に屠られた畜生の樣に洞と爲つた腸を曝す神神の奧津城。天下を獲つた支那の習ひとは云へ、御魂の安眠を八つ裂き、祟りを畏れぬ其の惡鬼の所業に、竺志の人人は言葉を失つた。落人の尊嚴を完膚勿き迄に打ちのめし、黃泉復る事勿き、眞の闇へと葬り去る事で、東夷の天孫に天の加護勿き事を暴き立てる勝者の流儀。白村江の後、百濟の王墓も斯くやと風聞は海を渡つてゐた物の、眞逆、此程迄とは。竺志の榮華を根刮ぎ討ち滅ぼす怒濤の肅淸。國祀を執り行ふ社殿から伊都の古刹まで容赦勿く斧を揮はれ、海東の菩薩天子の象徴で在る法興寺の破卻も呑まされて、唯只管、耐へるしか勿い負け犬の悲哀。斯樣な有無を云はさぬ蠻行の最中に在つて、倭國が誇る扶桑壹の刹柱、五重塔は辛うじて其の難を遁れた。樂浪海中に忽然と、飛ぶ鳥の明日香を象り聳え立つ佛塔は、如何樣にして卦體な其の魔性を宿したか、血氣に逸る大唐の兵達をも其の眼福で虜にし、振り上げた矛を納めさせて終ふ。白村江で倭國の軍勢を見捨てた火の鳥の如く、不滅の旺羅を帶びて、我關せずと、荒廢した竺志の國土を見下ろす神憑つた威容。身獨つで助かつた事なぞ噯氣にも出さず、今にも飛び發たん許りに、天を目指して燦然と、五重の庇を廣げてゐる。
其れに對して、出戾りの天王は同じ命拾ひでも酸鼻を極めた。參跪玖叩頭で額を朱に染め拜謁した唐の北闕。皇帝に刃向かつた叛徒としての大罪を直直に赦され、改めて册封を賜る都督として送り出される鄭重な殊遇も、死に損なひの薩夜蔴には針の筵で、臣下を人買ひに賣り渡した金で戾つてきたと、山門の氏族が流布した虛報に反駁する氣力も勿い。胡亂な眼で上洛する太宰の府も、皇帝の京から帝國管轄の行政單位で在る都督府へと元通りに規され、嘗て扶桑の天子を號つてゐた漢は急造の樓閣で、大唐の傀儡として餘生を過ごす事が割り當てられた。此れが天子の名を僭稱した者への皇帝の溫情。生け捕りにされた神の末裔に、今更、生きる道も勿い。唐犬と呼び捨ててゐた者達に首輪を塡められ、都府樓と云ふ犬小屋の押し込められて、天孫と云ふ幻に鳥憑かれてゐた半生から目覺めると、亡國の天子は言葉を弄する術も、意思を顯す術も手放して奧の院に引き籠もり、何人たりとも謁える事を赦さず、乾く事勿き盃を片手に日日を過ごした。
「南朝に仕へた磐倭の御卋に戾つた迄の事。元の鞘は、さぞ納まりが良からう。」
占領地を與る郭務悰は、餘計な事を放言し、打ちのめされた人心を煽るよりは都合が良いと、唖に爲つた倭王に眼を細め、都府樓の巡監を解いた手勢を、更なる王墓の破壞、權威の毀損に振り分けた。飼ひ犬に手を嚙まれる醜態丈けは避けたかつた大唐の髙級官吏にも、薩夜蔴の衰亡は一瞥にして明らか。孰れの流民か山賊か、蓬髮埀髯を縱に、頭を梳らず、蟣虱も捕らず、衣服は垢汚した物を替へもせぬ、持衰に等しき其の風采。何しろ其の酒燒けした赤ら顏の右眼から左頰を限る禍禍しい刀傷が、零落の總てを物語つてゐる。囚はれの身とさえ爲らなければ、名誉の負傷と成る筈の勳章に、敗者の烙印を燒き附けられ、人前に立てぬ疵物と爲つた天照神の末裔。譬へ命は盡きぬとも、心と體は別の生き物。
いざ子ども狂業なせそ天地の
固めし國そ大倭島根は
と豪語し、明日香王子と呼ばれた飛ぶ鳥の天王、薩夜蔴は白村江で死んだ。火の鳥を擁する日の本は神の國との云ひ傳へも、今や血の海の底。倭國の史は美談で終はつた。犬小屋への足も遠退き、顧みる事も勿くなつた郭務悰。其の職務に追はれ、八面六臂に聞き分ける慌ただしい左右の聦耳の閒隙を、竺志の海から上陸した軍士の、肥の國で火の鳥を視たとの一報が擊ち拔いた。我等が皇帝、李治は云ふに及ばず、支那歷代の皇帝が探し求めた、永遠の命を司る不死の靈鳥。扶桑の㠀に宿ると云ふ鳳凰の風聞に、郭務悰は著任より以來、初めて心が躍つた。隴を得て蜀を望むのは卋の恆、人の恆。手柄が多いに越した事は勿い。貴耳賤目を唱へて逸る心を抑へ、先ずは此の眼で確かめる迠は何事も始まらぬと、選り駿りの戎馬に飛び乘つた。
竺志の都を後にした郭務悰の蹴汰魂しい後塵を被り、都督の犬小屋に取り殘された薩夜蔴は、酒面に映る隻眼を潤ませて、醉ひに委せた追憶を反芻し續けた。白村江の敗殘を歷歷と抉り立てる失眼の裂傷を、斜めに滑落していく在りし日の野心と情景。
大船の泊つる泊りのたゆたひに
物思ひ瘦せぬ人の兒ゆゑに
白鳳元年辛酉、十一月庚子、對馬の水門に舫ふ軍船を瞠めて夜を明かした搖れる念ひ。身重を壓して三韓討征を果たした息長帶比賣。外遊外征に骨身を碎き、八幡大菩薩の稱號を授かつた倭王葛、磐倭の古事を暗誦して、煮え切らぬ己の氣骨を勇め、
昔より祖禰躬ら甲冑を擐き、山川を跋涉し、寧處に遑あらず。義士虎賁文武功を效し、白仞前に交はるとも亦顧みざる所なり。
と、將軍の誉れと讚へられた倭王武の遺志を嗣ぎ、倭氏の獨壇場で在つた海表の勤めを、吾等が阿每氏が果たす刻が來たと、韓の地を照らす北辰を仰いだ。
天の原ふりさけみれば春日なる
三笠の山に出でし月かも
那の津を後にして憚つた、心を過る竺志の古哥。韓の地へと航る倭國の使ひが詠ひ繼いだ鄕愁も、餘計な積み荷と波閒に捨てた。征戰に退路勿し。譬へ其の背に嚴づ靈を受けやうと、決して振り向く事勿かれ。曇天の海に頰を斬る冬の礙風を受けて漕いだ鈍い櫂先。唐國新羅の猛攻に抗ふ百濟の遺臣を支援し、故地を挽囘する爲、虜と爲つた前帝、義慈王の太子、餘豐璋を百濟王に推戴し、百濟復興の御旗霏霺く決死の船團。對馬から望む北方の蒼き陸影に、黥面文身の倭奴と蔑まれた彌猛心が胸を鏗つ。
薩夜蔴が遂に蹈み締めた竺志の故地は、東國の山門すら肥沃に見える程の瘦せ細つた貧寒地が、容赦勿い凍風に打ちのめされてゐた。一瞥して鋤や鍬を揮ふ甲斐の勿い、石と砂利の上に薄く被つた皮一枚の土壤。平壤迠が水稻稻作の北限で、其處から先は狩獵と遊牧以外に術の勿い、不毛の山野と風土が續く韓の地の現實。此れが灼熱の疾疫を竺志に傳へた、瘴氣の盈ちる穢れの大地。他國の遣使が倭國を羨望の眼差しで見聞する意味が今初めて判つた。此程迄に實り少なき土地を爭はねば爲らぬ海表の悲哀。各國の遣使が、倭國の籾米を我先に求めるのも詮勿き事。竺志の鴻臚館で生米を饗應し、米酒を振る舞ふと、腰を拔かす者まで居た。
國は鐵を出し、韓、濊、倭、皆從に之を取る。
新羅には豐富な鑛脈が有ると雖も、鐵を囓つて腹が盈ちる事は勿い。改めて、倭國の賜る山海の幸、其の穰かな惠みは如何斗りかと念ひを馳せ、薩夜蔴は土地土地の山神海神の恩寵に敬服し、韓の地から深深と遙かなる南鄕に拜謝した。
海表に漕ぎ出でて身に抓された外蕃の荒廢。中でも薩夜蔴が險眉を峙て、失望したのが、現地の氏族と百姓だつた。新羅の遣使の度重なる狼藉を蹈まえて、或る程度の肚心算はしてゐたが、北狄と血を混じへた韓の民の人心と風俗の亂れは眼に餘る物が有り、其の日の糧を得るのに手一杯で身形や禮節に手が囘はらぬのであらう、倭國より先に傳はつた儒佛や文物の敎化は、粗末な裝ひ同樣、身に付いてをらず、其の振る舞ひは徒黨を組んだ豺狼の樣に賤しく、口を吐いて出るのは噓と罵辞許りで、僅かな一粟を骨肉で爭ひ奪ひ合つてゐる。其の枝胤を辿れば、吾等と同じ祖神を仰ぐと云ふのに、倭國の謹みや嗜みと呼べる物は何も勿い。火の鳥に追はれて海を航り、韓の地を切り拓いたと云ふ舊辭の北征は、都合の良い美談でしか勿いのか。竺志の故地を護る爲と乘り込んだは良いが、此の幸薄き蕃屛の國と血脈の濁つた土民の群れは果たして、宗主が其の身に替へて勞を盡くすに價するのか。韓鐵の權益は倭國の玉の緖。易易と手放す事は罷り成らぬが、白鳳の顯現を號令に辛酉改元を果たした是歲、對馬から銀が採れ、銀錢を鑄るに到つた例へも有る。扶桑の奧地を隈勿く探せば、更なる鑛脈が有るやも知れぬ。抑もが、宗主への忠義を蔑ろにし、倭國と唐國を天秤に掛けた新羅の貳心に端を發する此の征戰。一體、何に信を見出せば良い物か。薩夜蔴の血意を鈍らせる故地への疑懼。愚かな爭ひに卷き込まれたのではと囁く聲勿き聲は、人智俗念を超えた大局に押し流されていく。
冬十二月庚子、壬戌朔、
援軍の先陣を切り、兵五千餘を率ひて、本鄕に衞り送らしめた、大山下狹井連檳榔、小山下秦造田來津と合流し、䟽畱城で反亂を起こした、義慈王の父、武王の甥で、百濟の正規軍を率ゐてゐた佐平福信と、僧侶道探が陣を構へる前線で歡待を受けると、薩夜蔴は遠征の疲れも拭はずに戰況を檢聞した。錯綜する戰果と内偵を選り分け乍ら導く、剴切必中の兵法。其の俀國軍の將を交へた合議の中で、戰歷も勿ければ土地勘も薄い餘豐璋は、百濟復興軍の據點に惡鬼の巢穴と云はしめた䟽畱城では勿く避城を推した。
「此の州柔は田畝に遠隔て土地は磽确たり。農ひ桑ひの地に非ず。是れ拒戰の塲なり。此は久し處なりて、民は飢饉う可し。今、避城に遷す可し。避城は西北に帶る古連旦涇の水を以ゐて、東南に深き埿、巨き堰の防ぎに據れり。繚すに周田を以て、渠を决くて雨を降らしむ。華實の毛、則ち、三つの韓の上腴なり。衣食の源は、則ち、二儀の隩區なり。地卑れりと曰へ雖も、豈、不遷らむ歟。」
其れに對し、薩夜蔴の帳内、勇將、朴市田來津は軍の理を紐解き、私信を排して進言した。
「避城と敵の在る所の閒と、一夜に行く可し。相近きこと茲甚だし。若し、不虞有らば、其れ悔ゆとも及び難き者矣。」
元來、寡默で目上を立てる田來津が、促される事勿く、自ら口禁を解くとは餘程の事。不興を買ふと承知で、軍の死活を問ふ臣下が賴もしく、腰を据ゑて見護る薩夜蔴。處が、話しの腰を折られたと許りに、餘豐璋は全く聞く耳を持たうとし勿い。吾等が將軍の、苦勞を素通りして來た締まりの勿い橫顏と、妙に氣取つた靑臭い物腰に、薩夜蔴は目配せで、此處は堪へろと、田來津を喩した。息長帶比賣の御卋、人質として竺志に拘畱されてゐた新羅の太子、末斯欣は、存亡の危機に在る祖国の爲、家臣の命を囮にして衞りの兵達を欺き、單身で倭國を脫し、歸還する程の氣骨が有つた。其れ程の肚の据わつた漢なら、譬へ敵として相對するにしても見上げた物だが、酒池肉林に明け暮れた義慈王の血を引く餘豐璋は、拘畱先の竺志で遊び惚けてゐる許り。器の底が見えてゐる薩夜蔴は、其の腐つた性根を端から擔ぎ上げる氣なぞ勿い。有り餘つた時を利して文武を極める事も勿く、倭國の豐富な食材と米酒に舌鼓を拍ち、女の尻を追ひ掛けて、或る時、桑蠶の如く蜂を育て蜜を聚めると云ふので遣らせてみたら、己が蜂の巢にされる始末。愚物を裝ふ、聰慧機敏にして、才略、人に拔きん出た英主の態では勿い。此の男に付け燒き刃は火傷の元。現場で鍛え直すか、使ひ棄てるか、二つに一つ。取り敢へずは、戰勝を祈願する祭祀の勤めを果たしてさへゐれば其れで良い。遠謀に長けた新羅は旣に、百濟復興軍が餘豐璋を迎へるのを見透かした樣に、投降した餘豐璋の實の兄弟で在る扶餘隆を討伐軍の將に任命し、殘黨の攪亂と切り崩しにも手を進めてゐる。立太子の宣命を受けてゐ乍ら、捕縛されて鞍上の新羅の太子に跪き、面唾を浴びて罵られた擧げ句、手懷けられて、尻尾を振るのだから、兄も兄なら弟も弟。新羅の掌の上で仲良く轉がされ、何方が先に零れ落ちるかを競ひ合つてゐるのでは、附ける藥が勿い。
百濟の人心を惑はせ、仇の重鎭で在つても寢返れば禮遇する拔け目の勿さ。武烈王、金春秋亡き後も、其の遺志を嗣ぐ新羅王、金法敏の才覺は、父親譲りで酷と切れが有る。薩夜蔴は、常色元年丁未、去る歲に神上がりした利歌彌多弗利の弔使として竺志を訪れた、新羅の太子、金春秋を忘れる事が出來勿い。毗雲の亂に因つて女帝善德王が薨る國難の直中に在つて、喪期も顧みず渡航した漢の魂膽は知れた事。倭國を油斷させ乍ら、東國の山門との内通を密にして夾撃し、倭國と百濟との紐帶に楔を槌ちつつも、倭國と唐國の外交狀況を見定めて陽動し、閒良くば、倭國を韓の地の復權を狙ふ、反唐勢力として外征に卷き込んでいく。内憂外患を極め、當時、韓の地を爭ふ三つ巴の中で最も劣勢だつた新羅は、太子親ら諜報の先陣を切る詭策に活路を見出した。大膽にして狡猾な能辯と、一點の曇りも勿い頰笑みで分け入る朝堂の裏方。瞳の奧底から擊ち拔く洞察の鏃。人の心の隙閒を擽る、計算し盡くされた癡態。太宰の府の大極殿で伊勢王の卽位の禮に參列し相謁えた折り、新帝の髙御座を前にして、登極の祝辭も其處其處に、新羅の國情を切切と訴へる長広舌を揮ひ、皆が皆、度肝を拔かれた。場を辨へぬ厚かましさに、鼻持ち爲らぬ男と斬り捨てるのは容易いが、其の不貞不貞しさには搖るぎ勿い鬼魄が有り、金春秋の命を賭した陳情に、果たして、倭國の太子が同等の大役を海表の北闕で勤められるのかと、臣下は顏を見合はせ、薩夜蔴は己が井蛙の類ひで在る事を思ひ知らされた。倭國、唐國、百濟、髙句麗と、親ら敵國を渡り步き、其の懷で肚を探つた膽力と行動力は將に無雙。己に勿い物を持つ海表を股に掛けた當卋の魁傑。薩夜蔴は彼の日見た古狸に一目置いてゐた。其れに較べて百濟の陣營は、右を見ても左を見ても、先帝、義慈王を護り切れずに逃げ果せた者許り。䟽畱城の反亂で一躍名を擧げたと云はれる佐平福信と、僧侶道探も焦臭ひ輩で、心を許せる遑が勿く、豪快な惡漢なぞ望む可くも勿い。氏族の小競り合ひを成敗するのとは譯が違ふ。此の程度の馬力と火力で乘り切れるのか。薩夜蔴は歷代の倭王が貫いた王道の嶮しさに震汗し、天孫として相應しいのか、其の能を見極めやうと鳥瞰してゐる神の眼に痺れた。伊勢王と倶に跪拜した乘輿の白雉。吾が大殿の昇魂と入れ替はりに成り上がつた大藏の白鳳。倶に改元して奉つた靈鳥の加護は如何斗りか。薩夜蔴は己の天命を甲紐で堅く締め上げて陣を發つと、焦土を覆ふ新雪を蹈み拉き、髙句麗の援軍に繰り出した。
髙麗國にして、寒きこと極まりて浿凍れり。故、唐の軍、雲車、衝輣ありて、鼓鉦吼然る。高麗の士率、膽く勇み雄壯し。故、更に唐の二つの壘を取る。唯二つの塞のみ有り。亦、夜取むの計に備ふ。唐の兵膝を抱へて哭く。鋭鈍り力竭きて、拔くこと能はず。臍を噬ふの耻、此に非ずして何ぞ。
初陣は高麗の兵の奮鬭に冬將軍も味方した。鴨綠江、大同江が共に凍結する猛烈な寒波と、蛇水での大雪に苦しみ、唐軍は眞逆の大敗。退卻を餘儀勿くされた。幸先の良い緖戰。其處には嘗て、新羅王、慈悲蔴立干に、
「家内に養ふ鷄の雄者を殺せ。」
と云はしめた、曲者達の鷄冠が繙いてゐた。視界を覆ふ地吹雪を舞ひ踊つた、高麗の兵が兜に插す雉の尾羽。薩夜蔴には、白魔を自在に驅ける雷鳥の隊列が、火の國を護る火の鳥と對を成す、嚴づ靈の鳥に見えた。日の本には日の本の、韓の地には韓の地の靈鳥が居る。極寒の死線に在つて、神助を疑はぬ薩夜蔴の胸は熱く燃えた。
日本の髙麗を救ふ軍將等、百濟の加巴利の濱に泊りて、火を燃く。灰變へて孔に爲りて、細き響有り。鳴る鏑の如き。或いは曰く、高麗百濟の終に亡びむの徵か乎。
名も知れぬ誰かの火裂く遠吠えなぞ、何處吹く風。先人の切り拓いた故地に、何故、一刻も早く凱征し勿かつたのか。天は倭國に味方する。餘計な惑ひや畏れに振り囘され、聖戰に二の足を蹈んだ己に腹が立つ。覆された領土丈けで勿く、失はれた刻をも挽囘する爲に、勝利の餘韻に浸る事勿く、薩夜蔴は勝ち鬨を擧げる陣營に檄を飛ばし、髙句麗の戰果を讚へ、百濟の凡戰を叱責した。餘豐璋が御餝りなのは言を俟たず、擧黨一致で臨む可き此の難局に、福信と道探は手柄を競つて啀み合ふ爲體。味方を出し拔いて足を引つ張り合ふのは東國の山猿で見慣れてゐたが、其れに輪を掛けた剝き出しの性根。事有る每に不手際の附いて廻る、百濟の淺慮で餓殺な氣質に、倭國の軍士は手を燒いた。現に、
白鳳二年壬戌、春二月癸卯、辛酉朔丙戌、
百濟、達率金受等を遣して調進る。新羅人、百濟の南の畔の四つの州を燒燔く。幷せて安德等が要地を取る。是に、避城、賊を去ること近し。故、勢居ること能はず。乃ち還りて州柔に居り、田來津が計る所の如し。是の月に、佐平福信、唐の俘續守言等を上げ送る。
朴市田來津の懸念は的中し䟽畱城に退卻。其の上、在らう事か、百濟の遣使は登廳した太宰の府、韓の地を巡る戰況を傳へる折り、誰と取り違へたか、明日香の天王、薩夜蔴が敵地で囚はれの身に爲つた、否、身を御隱しに爲られたと報せる始末。其の誤聞を眞に受けた朝堂は、遊部の巫祝、柿本氏を召し上げ、追弔の挽歌を詠み上げて終ふ。
忌くも ゆゆしきかも 言はまくも 綾に畏き 明日香の 眞神の原に 久かたの 天つ御門を 懼くも 定め賜ひて 神さぶと 磐隱り座す 八隅知し 吾ご大王の 所聞見しめす 背面の國の 眞木立つ 不破山越えて 百濟釼 倭山が原の 行宮に 天降り座して 天の下 治め賜ひ 食す國を 定め賜ふと 雞が鳴く 吾妻の國の 御軍士を 喚し賜ひて 千磐破る 人を和せと 不奉仕 國を治めと 皇子隨 任し賜へば 大御身に 大刀取り帶し 大御手に 弓取り持たし 御軍士を あどもひ賜ひ 齊ふる 鼓の音は 雷の 聲と聞くまで 吹き響せる 小角の音も 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の 恊るまでに 指擧げたる 幡の靡は 冬ごもり 春去り來れば 野每に 著きて有る火の 風の共 靡くが如く 取り持てる 弓弭の驟 み雪落る 冬の林に 颱かも い卷き渡ると 念ふまで 聞きの恐く 引き放つ箭の 繁けく 大雪の 亂れて來たれ 不奉仕 立ち向かひしも 露霜の 消なば消ぬべく 去く鳥の 相競ふ端に 渡會の 齋の宮ゆ 神風に 伊吹き或るはし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひ賜ひて 定めてし 水穗の國を 神隨 太敷き座して 八隅知し 吾ご大王の 天の下 申し賜へば 萬代に 然しも有らむと 木綿花の 榮ゆる時に 吾ご大王 皇子の御門を 神宮に 裝束ひ奉りて 遣使はしし 御門の人も 白妙の 蔴衣著て 埴安の 門の原に 茜刺す 日の盡 鹿じもの い匍ひ伏しつつ 烏玉の 暮に至れば 大殿の 振り放け見乍 鶉成す い匍ひ廻り 侍へど 侍ひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも 未だ過ぎぬに 憶ひも 未だ盡きねば 言さへく 百濟の原ゆ 神葬り 葬りい座して 蔴裳吉し 城上の宮を 常宮と 髙く奉りて 神隨 安定まり座しぬ 雖然 吾ご大王の 萬代と 所念ほしめして 作らしし 香山の宮 萬代に 過ぎむと念へや 天の如 振り放け見つつ 玉手次 懸けて偲はむ 恐かれども
久さかたの天知らしぬる君故に
日月も知らず戀ひ渡るかも
埴安の池の堤の隱沼の
去方を知らに舍人は迷惑ふ
哭澤の神社に神酒すゑ禱れども
我ご王は髙日知らしぬ
緖戰を制した壽歌で勿く、魂鎭め咒歌を奉り、不穩な言靈を喚び覺ます輕躁な失態。斯樣な事とは露知らず、韓の地の倭國軍は善戰を續けた。
三月甲辰、
唐人、新羅人、髙麗を伐ちき。髙麗、救を國家に乞へり。仍て軍將を遣して、䟽畱城に據らしむ。是に由りて、唐人其の南の堺を略むることを不得、新羅其の西の壘を輸すことを不獲。
蘇定方、遂に平壌を圍むも、大雪に會ひ、圍みを解きて還る。
唐軍丈けで勿く、兵粮が底を盡いた新羅も兵を引き揚げる程、高麗の兵には分の有つた冬場の消耗戰。其れは暗に、遲い春の音連れで氷解する事を意味してゐた。薩夜蔴の率ゐる倭國と百濟の兵達の足竝みは、穩やかな小春日に微睡む宥らかな雪山の如く、人知れず徐かに滑落していく。
五月丙午、
畱鎭郞將の劉仁願を熊津城に封じ込めて包圍し、復興軍の反擊は此處で獨つの區切りを附ける事に爲る。重い腰を上げ韓の地の掣肘に乘り出した物の、一向に吉報の屆かぬ戰果に痺れを切らした、唐國の女帝、武照るは、劉仁軌に檢校、帶方州刺史を與へて、前の都督王文度の部隊と統合し、叛徒の軍營に向かはせると、雪解け水の泥濘から解き放たれた皇軍は各地を轉戰し、敵陣を陷れては不敗を誇つた。迫り來る巨人の跫音に顫へる竺志の故地。皇帝の鶴聲に大山は鳴動し、押し寄せる軍靴の爪先と相謁える以前に、百濟復興の軍勢は自滅していく。
唐國の名將を追ひ詰めたにも拘はらず、福信は劉仁願の包圍を解いて熊津城を放棄すると、任存城に退き軍の體制を立て直した。此の不可解な撤收に我が眼を疑ひ、籠城の緊を解く事が出來ぬ劉仁願。無理も勿い。福信は戰火の騷亂に紛れて、反りの合はぬ道探に有らぬ罪を擦り付け、野良犬の樣に捕殺してゐた。薩夜蔴の眼の屆かぬ處で暗躍する亂臣賊子。始めから軍規と呼べる物は勿く、福信は道探の殘黨と反亂後に四散してゐた雜兵を倂呑し、任存城に據を構へると、軍務經驗の勿い餘豐璋は其の後に付いて廻るしか勿い。復興の御旗で存る筈の百濟王も、福信に取つては旣に足手纏ひ。軍の實權は旣に其の手に有り、千切れ掛けた尻尾を振り返る事も勿ければ、其の御餝りの尻尾が司る祭祀の神賴みや占卜に縋る事も勿い。
合流した劉仁願と劉仁軌は甲紐を解いて兵を休ませると、增援の要めを請ふた。目先の勝敗に囚はれず、戰ひ續ける事が生業の劉仁願も、此の時許りは冬の陣で曝した醜態の雪辱に燃えてゐる。其の士魂に女帝武曌は右威衞將軍孫仁師の派遣で應へ、磐石の布陣で決戰の刻に備へた。
七月戊申、
虎と龍を掛け合はせた劉仁願と劉仁軌の唐軍が、熊津の東で福信の進擊を打ち破ると、立て續けに䟽畱城、尹城、大山、沙井の柵を陷れ、戎馬の蹄前に投降させた。形勢が一變した福信は、本陣を張る䟽畱城の萬が壹に備へ、汀を臨む髙く險しい要衝の眞峴城を新たな據點を設けると、形振り構はず復興の士を搔き聚め、囘瀾を旣倒に反す可く、再起を圖る。倂し、犯した罪の數丈け削られていつた命數の殘滓は、今や片手の指で足りる程。刻の趨勢は一度、衰亡に傾いだが最後、滅びる可く爲て滅びていく。
疑心暗鬼が跋扈する背走の陣。福信は此の劣勢を餘豐璋に擦り付け、實權を奪はれた餘豐璋は餘豐璋で、福信の專橫が氣に入らぬ臣下で身を固め、御互ひに裏を探り合ふ。然して遂に、福信が病氣を裝ひ、餘豐璋が見舞ひに來た處を仕畱める奸計を嗅ぎ付けられ、逆に、福信を謀叛の疑ひで網を張つてゐた餘豐璋の親衞隊に誅殺された。策に溺れ、闇討ちの應酬で、己に因果のツケが囘はつた奸賊の末路。半ば氣の觸れた百濟王が、醢漬けにした福信の首を誇らしげに揭げ、祝杯を上げてゐるとの報せを受けて、薩夜蔴は漸く眼を覺ました。彼の疫病神を人質に殘してゐた許りに、百濟復興軍に驅り出され、嵌まり込んだ泥沼。太宰の府で金春秋の振り撒く、計算し盡くされた笑顏が頭を過る。百濟の穀潰しを人質に取つて、今の今迠、倭國は何を擔保に出來てゐと云ふのか。出征を前に、内緣の妻で在つた多臣蔣敷の妹との別れを惜しみ、正式の婚儀に漕ぎ著ける事しか頭に勿かつた男だ。奴を擔ぎ上げてゐては何處にも辿り著けぬ。抑も、疫氣と爭ひと貧窮で窒息した、何も見出す物の勿い此の咒はれた大地に、辿り著く可き何處かなぞ果たして在るのか。淺墓としか云ひやうが勿い。伊勢王の遺志を護り、太宰の府の羅城で韓の地を平定した唐國を迎へ討つ可きだつたのか。戰野の直中で王道を蹈み外した薩夜蔴の茫慨。此の内訌で䟽畱城奪還への出兵が十日遲れ、其の一齣外れた數奇の齒車に、倭國の命運は引き擦り込まれていく。
秋八月己酉、丁亥朔甲午、
「今聞く、大日本國の救ひの將、明日香天君、健兒萬餘を率て、正當に海を越えて至らむとす。願はくは、諸の將軍等の圖を預る應し。我自ら往きて白村に待饗せむとす。」
福信を斥け、一卋一代の手柄でも上げたかの如き餘豐璋は、意氣揚揚と薩夜蔴を親ら白村に出迎へると云ふ。嘗て、酒池肉林に耽る義慈王を諫め投獄された佐平成忠は、死の閒際に血辯を揮ひ、
「凡そ軍を制するに、地の利を生かすに如くは勿し。上流は陣を構へて相手を呼び込めば、百戰に憂ひ勿し。外狄の襲擊に於いては、陸路で沉峴を破られては爲りませぬ。水軍も同じく、伎伐浦の岸に上陸させては爲りませぬ。狹隘艱險な地を利して護り拔けば、何を恐れる事が有りませう。」
と宣ひ、同じく流刑に甘んじてゐた佐平興首も、
「唐の軍勢は巨大にして嚴格。況んや、新羅と謀つて夾撃を狙つてゐる以上、決して、平素な原野で對峙しては爲りませぬ。白江と沉峴は百濟の要衝。一夫、單槍で萬の兵も逡巡ぐ堅難を誇ります。憂國の志士を擁して、唐軍を白江で堰き止め、羅軍を沉峴に釘付けにすれば、後は䟽畱城に籠もり、身を固めれば、敵の兵粮が盡きるのを待つ許りです。」
と忠臣は口を揃へた白江と沉峴の衞り。王も取り卷きも聞く耳を持たず、義慈王自らが虜の身と爲つて其の眞價を改めて示した、䟽畱城の膝元を流れる國防の生命線に、兵達の背負う其れ其れの功と罪が、再び魅き寄せられていく。
彼の地の攻防が鍵を握るのは對する唐軍とて同じ事。女帝武曌の命にて兵四十萬を率ひ、德物㠀を經て熊津府城に赴いた右威衞將軍、孫仁師は、唐軍の先發隊と合流するや、征野の繪地圖を圍み、戰況と機略を質した。或る者は、水陸の要衝、加林城に總力を傾ける可しと力說するも、徒に堅牢で割りの合はぬ事を知る劉仁軌は、兵戈を傷める許りと諫め、
「兵法の極意は實を避けて虛を突くに盡きる。䟽畱城を討つ可し。䟽畱城は百濟の衞戍地にして、賊軍の巢穴也。惡の根を斷てば、諸城は自づから降るで在らう。」
と、居竝ぶ勇將の燻る鬭志を怜悧な一計で一閃し、紛糾必至の戰議を制した。孫仁師と劉仁軌、然して、新羅王、金法敏は陸軍を率ひて䟽畱城に進軍し、劉仁軌の別働隊、杜爽と、義慈王の子、扶餘隆が率ゐる水軍と兵粮船は、熊津江から白江へと下り合流する。本來なら一手遲かつた筈の出兵。其れが卋紀を超えて名を刻む血戰と爲つた。
秋八月庚戌、丁亥朔戊申、
餘豐璋からの報せを受け、䟽畱城へと向かふ倭國の水軍。天地開闢以來と云ふ規模の船師を率ゐて北上する薩夜蔴の雙眸は、三千人の宮廷女官が身を投げたと云ふ落花岩を探した。唐軍に追ひ詰められ、新羅からの辱めを遁れる爲に入水の列を成した悲劇の斷崖。其の復讎を期すべき景勝も、討征の大義に搖れる將の虛ろな心には、係畱地迠の里程を數へる澪標の獨つでしか勿い。源泉を發して北から西へと大きく渦卷き、熊津、泗沘と百濟の京を通り拔けて黃海に注ぐ錦江は、百濟の水運を司る幹線水路。湖江と讚へられた其の穩やかな水流を遡る風光明媚な航軍に、胡亂な氣配が埀れ籠めて來た。夥しい群影が川幅を埋め盡くし、進路を塞いで漂つてゐる。何事かと眦を窄め遠望に正視を凝らすと、旣に先頭を行く倭國の船師は唐軍の火鏃を浴びてゐた。遡る事十日の、
秋八月己酉、丁亥朔戊戌、
唐軍は旣に䟽畱城を繞み、水軍は黃海に注ぐ白村の入り江に艦隊を敷いて漲つてゐた。上流で陣形を堅めた唐國の颯颯たる大船團。統制の取れた戰艦から放つ烈火の弓擊が、不測の敵襲で擧措を失つた俀國軍を壓倒する。出航が遲れたが故の、形勢を齊へる閒の勿い唐突。桁違いの物量で艤裝した軍艦の迫力と、覆しやうの勿い分の悪さに、醜尾を曝す事を厭はず、撤退の號令を咆える薩夜蔴の激喉。舳先を反して唐國の追擊を振り切り、倭國の船師が靑息吐息で難を遁れると、舒川の岸邉に潛んでゐた百濟の軍勢が恐る恐る首を出し、復興の御旗を振り立て呼び止めた。
出迎への餘豐璋が倭國軍の奮鬭を襃め讚へるも、薩夜蔴は餘りの白白しさに、其の場で斬り捨てる衝動を堪へる事しか出來勿い。目の當たりにした唐軍の絕望的な規模。本氣に爲つた皇帝の瞋恚を前にして、危ふきを避けるのが賢君の勤め。然うと判つてゐ乍ら、攻略を練る氣も、聞く耳も持てず、逆上して血走つた眼は、一睡に甘んじる處か、一中夜瞬き一つせず、祖神に戰勝を禱り續け、翌る日の、
己酉、
日本の諸の將と百濟王と、氣象を不觀て相謂ひて曰く、
「我等先を爭はば、彼自づから退く應し。」
と、薩夜蔴は天下に勑し、王道は天を目指すと宣誓した。
「倭國は今、試されてゐる。嘗て鮮卑と呼ばれた北狄の騎賊が、天の理を欺き、神璽を掠め、朝の御名を騙りて憚る事勿し。我等、天孫の精裔が其の勤めを果たす可き時が來た。」
迫り來る恐怖を怒鳴り散らして搔き消す明日香の天王。傍らの餘豐璋なぞ眼中に勿い。信じる物は條理を超えた天與の勝利。其れを疑ふ事は神を疑ふ事。天命に此の身を獻げぬ己の怯懦こそが眞の敵だと、異論を斷舌した。
「兵法は神の御心で在り、戰力とは神の威信で在る。天下に貳朝勿し。征韓の大義は我が手に有り。賊軍、恐るるに足りず。」
萬雷の陣太鼓と鬨の聲が天を衝き、我先にと櫂を漕ぐ船師の猛者達。薩夜蔴の言靈に醉ひ癡れ、一氣呵成に討つて出た、其の果てに、
日本、伍を亂す中軍の卒を率て、大唐が陣を堅之ある軍に進み打ちて、大唐便ち左右自り船を夾みて繞みて戰ふ。須臾の際に、官軍敗績れぬ。水に赴きて溺り死ぬる者衆し。艫舳廻旋すこと不得。
倭人と白村江に遇ふ。四戰皆克ち、其の舟四百艘を焚く。煙、炎天を灼き、海水、丹を爲す。
倭國の平船とは造りが違ふ、砦の如き軍艦から擊ち下ろされる火鏃の雷雨。統率された艦隊に退路を絕たれ、倭國の船師は東西不知ふ許りで、潮目を無視して突擊しては、甚だしい干滿の差に船が水底を著き、身動きが取れずに藻搔いては、瞬く閒に燒き拂はれていく。全く勝負に爲らぬ、海戰とすら呼べぬ殺戮。火の海と血の海が鬩ぎ合ふ煉獄で、無謀な東夷の逆賊が徒に自滅していく、將に其の刻、と或る獨りの兵が天を指差して歡聲を上げた。
彩鳳 丹霄に舞ふ
其の一言に煤雲の埀れ籠める炎天を見上げると、西方淨土の極樂かと見紛ふ光輪に包まれた、劫火絢爛たる鳳凰が皇然と羽擊いてゐる。珠玉の限りを鏤めた冕冠に、灼熱の燎翼。綾錦の如く霏霺く鳳尾に、熔鐵の鉤爪。海上の地獄繪圖とは無緣の莊嚴と妖麗に息を呑み、暫し戰火の直中で在る事を忘れる倭國の兵達。阿蘇、雲仙嶽、鶴見嶽、霧㠀、鹿兒㠀と倭國の火坩を巡る靈鳥が、今、倭國の窮地に驅け附けた。其の生き血を飮み干せば、永遠の命が宿ると云はれる不死の鳥の顯現は、倭國が不死身の證し也。日の本の護り神の參戰に、倭國の水軍は狂憙し、起死囘生の奇蹟を垣閒見た、僅かな一瞬。其れは文字通り一瞬の奇蹟で在り、慘めな慰めでしか勿かつた。待望の靈驗に見向きもせぬ唐軍は弓擊の手を緩めず、火の雨を浴び續ける倭國の船師。上空を旋囘する火の鳥は其の阿鼻叫喚を優雅に遊覽し、金燐を豪奢に振り撒き乍ら、持て餘した鳳尾を飜す許り。愉悅に滿ちた七寳の眼差しは、炭と爲つて折り重なる屍を視姦り、和光同塵とは相容れぬ天真爛漫な艶舞は、一向に神助の一石を投じる樣子も勿ければ、手の屆かぬ上空から降りて來る氣配も勿い。然して、薩夜蔴は見た。兵達の燃え盡きる命の炎を啄んでは、嬉嬉として喉を鳴らす、人の死と血の臭ひを嗅ぎ付けて襲來した、火の鳥の貪婪な惡食を。
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更なる生け贄を求めて咆哮し、敗者の絕望を煽り立てる死神の翼。火の鳥は不死の鳥では勿く、啻、人の命を奪つて肥え太る化鳥でしか勿かつた。太古の薩摩を灼き盡くし、熊襲の民と竺志の民を北へ北へと追ひ遣つた元凶が、今、刻を超えて韓の地まで追つて來たとでも云ふのか。其の優美な姿形は、燦然と煌めく凰羅は殘虐の裏返し。まるで、自然の嚴しさは優しさの裏返しで在る樣に。絕望と恍惚が混然と渦卷く生死の氾濫に、爲す術も勿く立ち盡くす薩夜蔴。其の火の鳥を仰ぐ視界の片面に、紅い星が飛んだかと思ふ閒も勿く闇に塗れ、頰を限る斬像から熱い脈動が溢れ出てくる。乘り込んで來た雜兵を斬り捨てて、光が有る方の隻眼を飛ばすと、潮の引いた入り江に飛び降りた唐國の軍勢が徒で押し寄せ、薩夜蔴の船を取り圍んでゐる。
朴市田來津、天を仰ぎて誓ひて、切齒りて嗔りて、殺すこと數十人。於焉に戰ひに死にき。
是時、百濟の王豐璋、數人と與に船に乘りて高麗に逃げ去りつ。
薩夜蔴を護る爲、身を挺して盾と成つた田來津の怪力亂神も虛しく、更に其の奮鬭が主君の稀人で在る事を詳らかにした。生け捕る爲に手足を取られ、懸命に抗ふ血塗れの形相を、悠か上空から嘲笑ふ火の鳥。裏切られたのでは勿い。夢を見た己が莫迦だつた丈けの事。右眼の缺落した視界諸共、薩夜蔴の遠離る意識は、勝ち鬨の聲を上げる人の波に呑み込まれていつた。
虜の身と爲つた薩夜蔴は、未だ己に息の有る事を呪ひ、生き存へてゐる事を愧ぢた。新羅王、金法敏は橫戲る薩夜蔴に面唾して、其の頭を踏み躙り、命が欲しければ新羅の傀儡に爲れと迫つたが、嘗ての倭王は旣に、國と民を賣る氣力も勿く、漠然と缺落した隻眼の闇を瞠めてゐた。死してより偉大に成る可き樣子も勿い廢人と雖も、倭國の稀人。皇帝へ獻げる最上の戰果を殺めては堪らぬと、劉仁願が金法敏を諫めて身柄を保護する事三年。
白鳳五年乙丑、秋八月乙酉、
熊津都督を敍かつた扶餘隆と新羅王が、熊津の就利山で白馬を供犧して盟誓し、立ち會ひの劉仁願が其の文辭を金書鐵契して、新羅の朝廟に納めると、劉仁願は新羅の使者と百濟、耽羅、倭人、合はせて四國の使者を引き聯れて黃海を航り、西方に降り立た其の足で泰山を目指した。虜と爲つて何度目の秋かも判ら勿い薩夜蔴も、其の一行の中に放り込まれてゐた。
冬十月丁亥、皇后、封禪を請う。
冬十二月己丑、泰山に封ず。仁軌、新羅及び百濟、耽羅、倭四國の酋長を領ゐて赴會す。髙宗、甚だ悅び、大司憲を擢拜す。
女帝武曌の大號令で往にし方より甦つた聖天子の盛儀、封禪の儀。天下の泰平に與つた、際立つ功と德の有る天子は、泰山に封じ、梁父に禪す。泰山は秦の始皇帝、漢の武帝等、古來、天子の崇拜す可き聖山として尊ばれ、梁父は泰山と對を爲す南の名山。「封」は土を盛つた壇に天を祠り、「禪」は地を祓つて山川を祠る。其の兩儀を經ずして正當な統治は成し得ず。是れ、眞の皇帝の驗也。
中華を普く夷蠻戎狄の王と太子が一堂に會する稀代の祭典。東夷は羈縻政策に則して鷄林大都督を敍かつた新羅王、金法敏を先頭に、熊津都督扶餘隆、耽羅の國主、佐平徒冬音律と聯なり、捕囚の薩夜蔴も倭國の首領として引き擦り出された。泰山に續續と輯結する蠻夷の國國。供物を詰んだ夥しい牛車の群團と、涯し勿き參列が地を埋め盡くす壓倒的な規模に、茫然とする薩夜蔴。神の國と豪語してゐた倭國は、東夷の片隅に浮かぶ外藩の一國に過ぎ勿かつた。其の取るに足らぬ存在が、比べ物に爲らぬ大國で在る事も知らずに挑んだ、彼の無謀な外征に何の意味が有つたのか。最早、外遊を重ね活路を見出した金春秋の足許にも及ばぬ己の器才に呆れ、新羅王の後塵を拜する扈從の屈辱を歎く、生氣すら勿い。盛大にして壯大な聖儀の末席で傍觀する空疏な餘命。眞の帝國は年號を麒德から乾封に改元し、以後、舊唐書から倭國の記述は途絕えた。
酒精と隻眼で距離が摑めず取り零した觴が轉び、薩夜蔴は再び淺い眠りの泥濘みに足を取られていく。釆女の卋話を寄せ附けぬ、胸まで達した蓬髮と霜髯。贅を盡くした倭絹の盛裝が痛痛しい、枯木の如く窶れた體軀。後の卋の卽身佛も斯くやと云ふ、生きて地獄の責め苦に甘んじる其の狂變は、當の開祖、釋迦牟尼ですら說法を躊躇ふに相違ひ勿いと云ふ。阿每氏の王族で獨り、薩夜蔴の歸りを俟つて竺志に殘つてゐた大海人は、唐兵で固めた衞門府が取り繼ぐ氣の勿い事を悟り、流謫に等しき都府樓を後にした。倭國の年號にも其の名を聯ねる「兄弟」統治の扶桑に在つて、常色の海幸彥と山幸彥とも稱されて竝び立つ、竺志の宗主の一翼が捥がれた。己の半身を失つて、もう二度と甦る事は勿いのか。此れでは倭國を立て直すなぞ夢の復た夢。太宰の府を唐國の軍勢に制壓され、竺志の天王は生きた儘、御隱れに爲り、竺志の氏族と官吏が遷居した東國の大津宮も、親唐と反唐で割れて弓を引き合つてゐると云ふ。物情騷然として暗澹たる卋卋情情。此の國の石据ゑを失ひ、今や其の樞軸が何處に在るのかすら判ら勿い。伊勢王の御卋に常色の榮華を誇つた倭國ですら、僅か數年で此程の苦境に陷るのだ。此の卋に永遠を約束された物なぞ何も勿い。生生流轉の徒波に飜弄され、今では嘗ての北狄に傅き、更に其の支那の王朝も亦、猫の眼の替はり樣。始皇帝から受け繼いだ神璽の正當を揭た處で髙が知れてゐる。王墓を凌辱されて祟りの獨つも勿い王族から人心は遠退き、天地神明の梯子を外されて、地に墮ちた倭國の王道も、化けの皮が剝がされた迠の事。神の庇護を失ひ、一體、何を支へに政を治めれば良いのか。然う自問した刹那、奧の院に籠もり、卋を捨てた薩夜蔴の無言の斷絕が、
「姬を賴む。」
と託した、彼の日の一言を喚び覺まし、大海人の吐胸に木靈した。昼日中に在つても見通しの立たぬ闇路を睨み返す亡國の王子。其の重い足取りは一路、南を目指した。沖津宮に祕した海の正倉院と對を爲す、生葉評に築かれた陸の正倉院。唐軍の手を遁れた扶桑の寶庫に辿り著いた大海人は、天子の勑許を要する開封の儀を差し措き、引き畱める衞士を腰の佩刀で振り拂ふと、私人禁制の扉に手を掛けた。倭姬の納采に召し上げる選り選つた四海の御神寳。中でも、髙良玉埀命の御卋に百濟の調進つた七枝刀は門外不出の逸品。此の萬財の壹傑を持ち出す事は、もう以前の倭國には戾れぬ事を意味してゐた。其れでも、無念の輿入れに責めてもの華を添へて竺志の威信を示し、東國から倭國を立て直す、其の石据ゑと成るのならと、大海人は足處氣勿い女王を輿に乘せ、扶桑の京を後にした。
皇明光日月 皇明 日月と光り
帝德載天地 帝德 天地と載す
三才竝泰昌 三才 竝びに泰昌
萬國表臣義 萬國 臣義を表す
白鳳八年丁卯、正月癸丑、丙辰朔壬戌、
卽位の宴で興が乘り、淡海帝の嫡男、大友王子が詩を吟じ、碩才の片鱗を見せた。博學多通にして文武材幹有り。天性明悟、雅に博古を愛し、筆を下せば章を成し。言を出せば論を爲す。時に議する者は其の洪學を歎く。魁岸奇偉、風範弘深、眼中淸輝、顧盻煒燁の麒麟兒と、其の絕讚を縱にし、白鳳五年乙丑、白村江の役以後の講和の根囘しの爲、東國を訪れた唐國の遣使劉德髙も、莵道で閲兵し、饗應を受けた折り、大友王子の駿風に觸れ、
「此の王子、風骨卋閒の人に似ず。實に此の國の分に非ず。」
と舌を卷いた相當な詠み手だと云ふのに、倭姬王は吾が君を讚へる繼子の壽歌を、引きも切らさぬ祝辭を、上の空に浮かべて聞き流してゐた。酒の味も判らぬ歲で詩にも醉へず、畏まつた振りをしてゐるしか勿い霽れの日の臨席。本來、此の大友王子が年相應で在る筈が、五十路を過ぎた父、淡海帝に髮を上げた許りの生娘が姻いだのだから、下下の者ならば笑ひ物。總ては竺志と山門の野合の爲。若い身空で一生を捧げる倭國の人身御供が、數多の先妻を押し退けて擔がれた后位。分別の附かぬ年頃でも判る妬みと嫉みを背負はされ、針の筵と迠は云はぬが、氣分の良い眺めでは勿い。竺志より持參の七枝刀を差し出した途端、急變した周りの眼の色が、山門の總てを物語つてゐた。此の大津宮に其の場凌ぎで遷座した參種の神璽も危ふい物。此の儘、參寳諸共、東國の流謫に埋もれていく貞女なのか。倭姬王の器量に餘る其の憂ひは、愛でる者の勿い妍容と類ひ稀なる氣品を、徒に磨き上げていく。念ひの丈を呑み下して伏す程に燁く雅な面差し。其の靜楚な津津し美を、招かれざる猛猛しい騷めきが搔き亂し、矛を杖に床板を鎚ち鳴らし乍ら、大海人が嫡男の髙市王子を引き聯れ、鬼の形相で乘り込んで來た。旣に、開けた盆の窪から耳の裏に掛けて紅潮し、酒精を湯氣の樣に立ち昇らせてゐる。藪睨みで屡叩く血走つた眼が獲物を捉へると、咄嗟に鎌足が盾と爲り、
「御待ち申して居りました。」
と尋常で勿い劍幕の進路を塞いで額突くも、闖入の輩は矛の鐜で拂ひ除け、淡海帝に躙り寄る。
「中元とは何ぞ。」
大海人は宴席から外された事なぞ、端から眼中に勿い。倭國の年號、白鳳が旣に在り乍ら、東國に淡海帝の御卋を數へる年號「中元」の建元を布した暴擧に、矛の握りが痺れてゐる。
「年號とは一國の天子にのみ赦された、統めら命の驗で在り、國の誇りにして、天子の御卋を認める史の驗也。二十歳を待たずして得度し、海東の菩薩天子、上宮法皇と成られた多利思北孤の御卋に、法皇年紀、法興を建元した例へは有れど、其れは天子の成せる業。山門の大王風情が何の理を以て年號を騙るのか。肥の國に遷居した郭務悰に御伺ひを立て、無理が通つたのなら、然う申してみよ。事有る每に、遷座した參種の神璽の周りを彷徨きをつて。七枝刀丈けでは飽き足りぬか。天子の御名を僭り稱へ度ければ、力盡くで來い。」
大海人は怒髪天を衝く仁王立ちで啖呵を切ると、淡海帝の跏趺を搔いた股の閒に矛を突き立て敷板を貫いた。宴も闌で在つた取り卷きの巡盃は凍り付き、淡海帝を庇ふのは鎌足のみで、皆が皆、自席に鎭座して腰を浮かす者すら勿い。本來なら薩夜蔴の俘囚に由り空位と爲つた倭國の王位に卽く可き漢だ。其れが私利私慾を棄てて天王の幼き血胤に立太子を讓り、倭姬王の後ろ見と東國の治政に眼を光らせる爲、竺志の本貫を顧みず下向したのだから竝大抵の事では勿い。酒淫に乘じていると雖も、持つて生まれた威風の格が違ふ。何時寢首を搔かれるか知れぬ山門を制へる爲、己の帝位を棄てた大海人の迫力に、會衆の醉ひは蒼醒め、中でも宴席に紛れる竺志の氏族は、面を上げる事すら儘爲らぬ。大海人は濟し崩しで猿山に取り込まれた元の飼ひ犬を、獨り獨り眼に燒き附けた。
嘗て竺志の地に於いても、力に物を云はせて驕り高ぶり、私年號を建元した剛の者が居勿かつた譯では勿い。己の領地、領分の限りで羽目を外すのは卋の習ひ。宗主が出る杭を打ち、水に流せば其れ迠の事で治めてゐた。天孫の威信が磐石で在つた頃は。落ちる處まで落ちた倭國と、肩を竝べた積もりで建元したで在らう此の挑發を見過ごせば、其の先に俟つ物は何か。外征を避けて力を蓄へた山門に、孰れ竺志は倂呑される。一昔前なら、一笑に付された戲言が笑ひ話しで濟ま勿くなる。
「何だ其の眼は。申し開きが有るのなら、先ずは手を突き、地に平伏してからで有らう。」
片翼が捥げ、地に墮ちた天孫の逆鱗に、淡海帝は突き立つた矛を引き拔き立ち上がらうとするも、敷板諸共貫かれた袴の内股に足を取られて轉び、鎌足は慌てて矛の骹と柄を摑み、
「爲りませぬ。」
と聲を荒げ、形振り構はず抑へ込んだ。
「其の腰付きで人が斬れるのか。」
大海人は引き裂かれた袴を濡らす粗相の染みを見下ろして髙笑ひ、淡海帝は鎌足と矛を奪ひ合ひ乍ら必死で云ひ返す。
「此の手が顫へるとでも。」
王位に卽く政略の具として、己の女を四人も差し出した相手で有る事も忘れ、減らず口を叩く淡海帝を鎌足諸共蹴倒すと、大海人の舌鋒は氣焰萬丈に達し、丹塗りの列柱に轟いた。
「韓の地を前にして怖ぢ氣付き、尻尾を卷いて逃げ歸つた分際で何を宣ふ。吾等が天王を見殺しに、倭の恩を仇で返した腰拔けが、一國の大王とは聞いて呆れるわ。」
「先の外征に如何程の分が有つたと云ふのか。無闇に倭國と爭ふ氣の勿かつた藪の中の唐獅子を起こすなぞ愚の骨頂。敢へて南韓には手を附け勿かつた、話の判る相手を引き擦り出し、防壘で圍つた太宰の府誘ひ込まうとしたのは何處の賢君か、御忘れなら敎へて進ぜやう。無益な軍で百姓は疲弊し、竺志の京は唐土の兵に踏み躙られ、此れが天下の政と申すなら、國が幾つ有つても足りぬわ。」
「何奴も此奴も唐風に靡きおつて。」
孰れ唐國は韓の地を平定し、倭國に南征する事を承知の上で此の口車。唐國と山門で倭國を夾撃する狙ひが透けてゐる明ら樣な詭辯に、奸計の才許りが際立つ淡海帝は猶も捲し立てた。
「徐福が童男女參仟人、伍穀の種、佰工を携え、神仙藥を求め東へ向かひ、平原廣澤の地を得て畱まり王と成つて還らずと云ふでは勿いか。我等の祖に當たるやも知れぬ唐土と仲違ひするのは、如何な物か。」
「我は太伯の末成るぞか。唐土から逃げ延びて措いて、頭を下げて朝貢するとは、そんな出戾りの後家に用は勿い。抑も、唐も隋も北狄の牧童。斯樣な者に血を分けて貰つた覺えも、仕へた覺えも勿いわ。成り上がりの威光に肖つて、鮮卑の血筋を祭り上げる。そんな倭魂の勿い者に、此の國の政が勤まるか。況んや、天子の年號を僭り稱へるなぞ以ての外。」
「成らば、竺志の天王を扶桑の天子とは此れ如何に。大唐の皇帝にのみ赦された天子の號を僭り稱へ、藩國の官衙、都督の府を、天子の坐す太宰の府と僭り稱へるのは何と爲る。」
「竺志の天子は竺志の天子。唐土の天子は唐土の天子。大王の方こそ、何方の天子に仕へる心算か。貳心勿き壹意專心の忠義こそが、邪馬の御卋から續く壹國の誉れ。唐犬に尻尾を振るのに壹本では足りぬと申すなら、切り落とす迠の事。萬が壹、手元が狂ひ、勢を割去したならば、倭國に宦官の道は勿い。女王は溫和しく蠶室に下るが良からう。」
舌火の勢ひが、誰にも明かせず堪へてゐた重責の煩悶にまで飛び火して、何處迄も燃え廣がつていく。其の淡海帝の貳心を詰る大海人も、肚の底では親唐か反唐か、東國に讓步するのか、倭國の體面を固持するのかで搖れてゐた。天孫を崇める丈けで藩國と氏族と百姓が著いて來たのは昔の話。祖神の咒ひが解けた今、山門に足許を掬はれる前に唐國との講和を結び、都督としての威儀を改めて規し、國力を恢復す可きで在る事は言を俟た勿い。然れど、韓の地を眼の前にして外征を蹴つた背叛不義と、竺志の京と王墓を辱めた暴虐に眼を瞑るのも亦、竝大抵の事では勿い。薩夜蔴の無念も背負つて切り拓く、倭國の革たな王道。其の重壓に悲鳴を上げる大海人を、嫋やかな囁きが優しく包み込んだ。
「大皇弟は醉つてをられる。」
据ゑ膳の酒を瞠めて身動ぎ一つせぬ倭姬王の、泰然とした玲聲瓏韻。静まり返つた狂宴の視線が、年端も行かぬ小娘の一點に注がれると、大皇弟は淡海帝に背を向けて一呼吸措き、涸れ果てた喉を振り絞つた。
「此の大海人、譬へ醉つてはゐても、飼ひ主の足許に粗相をする山狗では勿い。」
薩夜蔴、達ての内命とは云へ、倭姬王の輿入れを大海人は悔やんでゐた。卋が卋なら、嫡男の髙市王子が娶り、竺志の天后と成る可き神女で在る。吾が女を手放し、穢されゐるが如き斷腸の想ひは、今以て癒やされる事が勿い。其の亡國の女王が解いた怜悧な口禁。
「國の大事を與る身ならば、大皇弟としての勤めを重んじる可きで在りませう。」
倭姬王の發した大皇弟と云ふ言靈の響きに大海人は顫へ、紅潮した襟足が蒼褪めていく。倭國の阿每氏が誇る兄弟統治の一翼、大皇弟は、天王の天命を佐ける龍顏の點睛。山門の王氏が云ふ處の王弟とでは生まれ持つた星の權みが違ふ。然して其れは倭姬王とて同じ事。如何に氷肌玉骨を誇らうと、祖父と孫ほど歲の離れた淡海帝と大后では、御互ひ男でも勿ければ女でも勿い。國の大義に身を窶す乙女の、花を咲かす事も散る事も叶はぬ長い一生。其の意を察したかの樣に、倭姬王は徐かに言の緖を紡いでいく。
「倭國に產まれ落ちた其の日から、倭國に姻いだ此の吾が身。開聞の鄕から二歳で太宰の府に上洛し、東國の山門に下向したのも總ては倭國の爲。女の幸せなら下下の者に委せて措けば良い。」
倭國の捨て石を勤める大役に、己の進む王道を見出した獨りの小娘。色戀に溺れて天孫の通力を失ひ、竺志の血を穢がした兒を宿す位なら、石女と爲るのも復た本望と許り、据ゑ膳の觚を諸手で天に獻げると、周の御卋から傳はる參獻の儀禮で、飮め勿い酒を飮み干した。
「倭の姬鷄彌として賜つた此の天命に、何の不足が有らう。」
亡國の太母とし貞女られた渾てを全うする其の鬼魄に、大海人は身重の腹に石を括つて三韓を征した息長帶比賣を、本物の女王を覩た。醉ひが醒め、見失つてゐた倭國の命脈に拍たれた大海人は踵を返して退き、髙市王子も其の後に續いた。大海人の怒りには酒の勢いですら燃え盡くせぬ芯が有り、寧ろ、一步下がつて見護つてゐた髙市王子は物足りぬと許りに、去り際、大友王子の前で立ち止まり、不遜な流眄で綾を附けるも、淡海帝の嫡男は伏した面を上げ樣とすらし勿い。此れでは端から勝負にすら爲らぬ。嵐が去つた後、荒れに荒れる淡海帝を宥め乍ら、鎌足は改めて宗主の眞髓に觸れ、雜事に追はれ見失つてゐた史の本流を垣閒見た氣がした。
藩國の成り上がりの下では埓が明かぬ。手負ひの天孫と雖も、仕へる可きは、矢張り、倭國の嫡流で在つたか。大海人も然る事乍ら、倭姬王の皇皇しさには感服するしか勿い。此の騷ぎで氣配を消してゐた髙市王子も、流石、扶桑の稀人。一步引いた處から一步も引かぬ其の膽力と、大友王子を威拔いた彼の眼力。人を制するのに言葉は要らぬ。母は竺志の王族、胸形の君、德善の女、尼子娘で、將に倭國の正統也。仕切り直して酒を注いだは良いが、盃を口に運ぶ手元は泳ぎ、袖を濡らす許りの大友王子なぞ、啻の當て馬。魁岸奇偉、風範弘深と囃し立てられた處で、いざと云ふ時に此れでは話に爲らぬ。鎌足は後に、
道德承天訓 道德は天訓を承け
鹽梅寄眞宰 鹽梅は眞宰に寄る
羞無監撫術 羞づらくは監撫の術無きことを
安能臨四海 安んぞ能く四海に臨まん
と大友王子に助言を乞はれるも、
「恐らくは聖朝萬歲の後、巨猾の閒釁有らん。然れども臣、平生曰く、豈、此の如き事有らんや。臣聞く、天道は親無し。惟れ然あるは是れ輔くと。願はくは大王勤めて德を修めよ。災異憂うるに足らざるなり。」
其の鼻に掛かつた衒學に色を附けて返し、體良くの己の女を娶らせた。育ちの良さが人の良さの惡い方に出て、入鹿を斬る前の中大兄の樣に、一皮も二皮も剝ける必要が有る。
卽位の宴の蠻行にも拘はらず、淡海帝は嫡男で在る大友王子では勿く、大海人を立太子に推さざるを得ず、朝堂の要職も、左大臣に蘇我赤兄、御史大夫に蘇我果安、巨勢人、紀大人を昇敍し、因縁淺からぬ蘇我氏を始め、建内宿禰を祖に戴く竺志の飼ひ犬で固める苦肉の策で、漸く治まつた近江朝の船出。其の事始めに建元して態々倭國に喧嘩を賣り、親ら出鼻を挫くとは。參種の神璽が大津の宮に遷座した事で、天孫を嗣ぐ驗は眼と鼻の先、見す見す、竺志に還して爲る物かと息卷き、吾こそは古道に則り、祖神を崇め、宗廟を護る草創め也と、
天地と共に長く日月と共に遠く不改じき常の典
不改常典を大袈裟に揭けた擧げ句、
時の人に「天皇、天命將及。」
と曰はしめ、親らの卽位を支那の王朝交代に淮へた。其の勇み足も、孰れは山門の古道を蹈み外す。淡海年號が何處まで續く事やら。此れから先の尻拭ひは命を粗末にする丈け。鎌足の心も搖れてゐた。今惟ふに倭國からの輿入れは拙速だつたのでは勿いか。納采の七枝刀に眼が眩み、ああも易易と竺志の女王を差し出した、其の裏を見極め勿かつた報ひを受ける日が來やう。淡海帝の御卋は玉響の流れ星と判つてゐ乍ら、往時の樣に立ち囘はれぬ衰へた氣骨。東國に乘り込んで來た倭國の阿每氏に鞍替へするにしても、淡海帝の樣に脇の甘い相手では勿い。況してや、尻に敷いて、手綱を揮ふなぞ、其れこそ命の投げ賣り。己の器と餘生では、所詮、此處迄。目障りな氏族を蹴落とし、山門の王族に阿り、遮二無二伸し上がつた榮達も一息吐き、保身に囘はる時が來た。化鳥の影に怯えて、史を規せと己を叱咤し、永遠の名聲に鳥憑かれてゐた彼の頃は何だつたのか。今と爲つては思ひ出す事も出來ず、山と積まれた廳での務めに、肅肅と勤しむ鎌足。扶桑の東の更に東、常陸の國から流れ著き、地所も勿く昇り詰めた鎌足に取つて、豪族から本領を召し上げて官僚化する律令の徹底は、一族繁營の命綱。倭王葛、磐倭から多利思北孤、多利思北孤から伊勢王へと受け繼がれた倭國律令、常色律令を素地に、山門の諸司に頒布す可く、東國を束ねる近江令を編み上げていく。其の裏で、遡る事、
白鳳四年甲子、
淡海帝は白村江で扶桑の天子が虜と爲つた閒隙を透かさず、鬼門除けと稱して、太宰の府を見下ろす有智山の竈門の社に、名も勿き蕃屛の捌佰萬神を强引に押し込んで奉り、艮から山門への咒術を封じると、
白鳳九年己巳、
有閒王子の陷穽に功の有つた蘇我赤兄に、筑紫率を敘けて上洛させ、太宰の府を衞る可く繞らした、防壘の頂に坐す山城の神神を引き擦り降ろし、中でも大野城と基肄城に坐す、事代主、武甕槌、天御中主は王城神社と筑紫神社に鎖ぢ込めて、太宰の府の羅城の結界を解いた。天命を革め王朝の交替を成す「天命將及」の足掛かりに、竺志の神の切り崩しに掛かる淡海帝には、未だ鎌足の力が必要だつた。處が、不慮の落馬に因り鎌足は脊椎を打ち、傷痍の程は殊の外重く、病床に臥して終ふ。
冬十月乙亥、丙午朔乙卯、
功臣の患禍と知つて、淡海帝親ら直々に慰問し、恐縮する鎌足。
「天道の仁を輔ること、何そや乃ち虛說。善を積みて慶びを餘すといへど、猶ほ是に徵无し。若し、所須有らば、便ち以て聞こす可し。」
積善餘慶を說いて勞る朝に、鎌足は己の不德を羞ぢ入る許り。其の型通りの遣り取りを、嫡男の不比等は疏惚な面持ちで聞いてゐた。未だ髪を結ふ歲では勿いが、其れでも人の噂は聞き分ける。鎌足の最後の正室、鏡女王は、淡海帝の御落胤を宿して暇を出され、其の後片付けに鎌足が引き取りつて血胤を隱し、與志古娘が產んだ兒として育てた。幼い不比等の背を靡く心勿い風聞。己の實父やも知れぬ男との初めての對面。況してや時の朝として謁える奇異に摑み處が勿く、二人の父と同席してゐる巡り合はせを前にして、氣配を殺す事しか出來勿い。見舞ひを終へて退出する淡海帝は、不比等を一瞥して眼路を逸すと、顏色獨つ變へず、
「忠孝に勵め。」
と云ひ殘して去つた。然して五日後の、
庚申、
大王、東宮なる大皇弟を藤原の内大臣の家に遣はして、大職の冠と大臣とを授けたまふ。仍て姓を賜ひて、藤原氏と爲せり。此れ自り以後、通して藤原内大臣と曰ふ。
卽位の宴で淡海帝に喰つて掛かつてより以來、氷炭相容れずと云はれる大海人が、其の朝の使ひで舘に出向き、鎌足に藤原姓を授けた。何う云ふ風の吹き回しか、意想外の推參に舘の者達は泡を喰ひ、此れには何か裏が有ると穿鑿したが、鎌足は大海人の光來を欣幸の至りと拜謝し、人拂ひをして面會に臨んだ。病身を押して歡待する父の密かな目星と、大海人の怜悧な虎視が何う噛み合つたのか。別室の不比等には知る由も勿い。父の萬が壹に備へ、日を置かずに來駕した雙りの稀人。不比等の足處氣勿い瞳には、時の朝を一囘り凌駕する大海人の、悲愴な迠の險しい雄雄しさが灼き附き、此程の殿上人に求められる父の威德が身に染みて、其の後を嗣ぐ自信の勿い不比等には、己の境遇の總てが重荷でしか勿かつた。
朝と大海人の心盡くしの甲斐も勿く、容體は一向に好轉せず、瘴氣に蝕まれて衰弱の一途を辿る鎌足は己の死期を悟り、藤原家の嫡男として不比等を呼んだ。
「髙市郡藤原を本據に、天兒屋根命を祖神とし、王家の祭祀を勤め、黑田の子息の常盤の代に中臣連を賜り、朝からは藤原の姓を賜つた。其の恩寵は計り知れず、冥利の總てに報ひる事なぞ望む可くも勿い。將に果報の至り。此の身命を賭して朝の御心に殉ふ事こそ本望で在ると信じて來た。然れど、王道は天道に非ず。況して山門の古道は如何なる物か。」
落ち窪み、隈で緣取られた眼窩の奧で烱烱と煌憑く雙眸が、加冠に與る歲にも滿たぬ不比等の童顏に喰ひ入り、寢返り獨つ打てぬ體を起こさうとする。父の後ろ盾を失ふ吾が子の行く末を案じる親心が、其の腹藏を詳らかに撲ち撒けた。
「心して聞け。王位を巡り何事か凶變が起きたらば、朝を立てて、大海人に附け。矢張り、竺志の嫡男、山猿とは一味違ふ。今一步、早く出會ふ可きで在つた。苦し紛れに蘇我と組む朝に見込みは勿い。中臣の者達が朝に附いても決して後を追ふな。墮ちた星は拾ふ不可。王族なぞ詮ずる所、駕籠の中の色を塗られた瑞鳥。塗り固めた羽では駕籠から飛び發つ事すら儘爲らぬ。」
其處迄一氣に捲し立てて、鎌足は息を呑んだ。瑞鳥の二文字が喚び覺ます、大藏省に鎖ぢ込められた白鳳の幻影。白村江の役以後の騷亂で完全に失念してゐた、淡海帝の中元建元に因つて、穢され、侮られた倭國年號の鳳凰が、今再び、燃え盡きようとしてゐる鎌足の命の炎を嗅ぎ付けて鳥憑き、眼も眩む閃光の燦亂を斬り裂いて、衝天駭愕の爆音が轟いた。地を穿つ激甚に心の臟を鷲掴みにされた暫しの空漠。舞ひ落ちる梁塵を見上げる丈けで足腰の立たぬ不比等の耳を、表に飛び出していく舘の者達の跫音が擦過する。嚴づ靈が直擊し、火の粉を散らす庭の佳木を取り圍む人垣と喚聲。其の輪が廣がつていく程に靜まり返る病床の枕邊を、耳慣れぬ禽獸じみた占鳴が劈いた。
「不比等ト號ケラレシ其ノ刻カラ定メラレシ史ノ天命。爾コソ、千千ニ亂レシ古事ヲ束ネ、此ノ國ノ史ヲ規ス者也。」
物心附いた時から幾度と勿く聞かされた父の口癖。其の度に、溫和しく意氣地の勿い不比等は、身の丈を超えた大義を計りかねて戶惑ひ、生返事を繰り返して來た。此處數年、其の口數も減つたとは云へ、何故、斯うも父は天の配劑で在る史に拘るのか。何故、斯うも息子の顏を見る度に使命だ天命だと捲し立てる樣に爲つたのか。昔の父を知る者が云ふには、或る頃を境に、父の爲人は變はつたと云ふ。古道を護る事に勤め、出卋とは無緣だつた祭官の嫡男が、眼の色を變へて仕官し、辣腕を揮つて政敵の排斥に明け暮れ、榮進に次ぐ榮進を果たしていく樣は、憑き物が降りて來たとしか思へぬと首を傾げてゐた。然して、現に、今、眼の前の父の聲色は全く別人、否、全く別の生き物に聞こえる。
「時卋ヲ見極メ、天機ヲ摑メ。爾ハ史ヲ規ス者ゾ。」
落雷で碎けた幹の爆ぜる音に焚き付けられて聯呼する、口寄せの宣明。其の遺言とも咒ひとも知れぬ狂ほしい發作に縋り付き、不比等は最期の夜を過ごした。
「父上、御氣を確かに。」
幼い皓齒で呼び掛ける必死の介抱。庭の焦木は鎌足の身命を宿した樣に燃え續け、翌る日の、
辛酉、
冠位二十六階の最上位まで昇り詰めた鎌足は薨り、燻り續ける庭木から煙立つ燒香が、東雲の霄に紛れた。天に昇つた御魂を摑まうと手を伸ばす、灼け殘つた枝振りを見上げて彳む不比等の、泣き腫らした眼に窶れた頰。鄕の者達は旣に、此の落雷も入鹿や有閒の祟りだと、聲を潛めて冷やかしてゐる。藤原の姓を賜つた丈けで、
藤かかりぬる木は枯れぬるものなり
いまぞ紀氏は失せなむずる
と恨やむ卋閒に不比等は放り出された。藤原の家督を繼ぐも何も、父の後ろ盾を失つた孤兒を引き取つて吳れる者は、中臣氏の類緣に在つても山科田邊史大隅しか居らず、資財も親族も四散して、位人臣を極めた鎌足の大成も、帰する處、壹榮壹辱の例へに如かず。
神奈備の石瀨の社の呼子鳥
いたくな鳴きそ我が恋まさる
生家を後にして風の便りに聞いた、憶說の母、鏡王女が噎ぶ偲び哥。子を呼ぶ鳥の愛しさを顧みる事すら赦されぬ身の上で、古巢を追はれた不比等は冷や飯に甘んじ、父の遺訓も忘れ、文林を生業とする田邊史大隅の許で、諸學の研鑽に勵む事と爲る。飛び發つ翼も覺束ぬ男雛に取つて、史とは偏に、押し流されていく日日の彼方で語り嗣がれる、殿上人の物語でしか勿かつた。鎌足が降りた事で閊へてゐた楔が外れ、愈愈、危ふい角度に傾いでいく政爭の舞臺。然して遂に、屋台骨の歪んだ朝堂の奧の院に身を潛めてゐた史の番人が、新たに鳥憑く漢を求める樣に、歲も押し迫つた、
十二月丁丑、
難波宮から姿を消した。衞門府で固め一分の隙も勿かつた大藏省の奧の院。其の途切れる事の勿い監視の許で出火した奇禍と倶に、忘れ去られてゐた瑞鳥は燒滅した。年號にまで祭り上げられた白鳳の最期。炭と化した官廳に佰官は額突き、
鳳や鳳や、何ぞ德の衰へたる。
と、今は勿き靈鳥の愾りを鎭めた。竺志の副都を見放した此の凶兆は何を意味するのか。獨つの禍ひが喚び寄せる、新たな禍ひの鈴生りに怯え、亦候、外征か疫氣かと訝る天下。其の欹てた俗耳と戰戰兢兢の巷吻が治まらぬ内に、
鳳 吟ずれば雷雲起こる。
白鳳十年己巳、四月辛巳、癸卯朔壬申、
夜半の後に法隆寺に災けり。一屋も餘ること無し。大雨ふり、雷震ふ。
山門の斑鳩を染め上げた紅蓮の劫火。嚴づ靈の矛を振り亂す叢雲を引き聯れ、滿天の星空を瞬く閒に覆ひ盡くした鳳凰に、法隆寺は灼き滅ぼされた。怒濤の豪雨を物ともせずに炎繞する大伽藍。立ち昇る火柱に金燐を鏤めて燃え盛る火の鳥の炎舞。倭國の護り神の激嗔から鄕人は逃げ惑ひ、唐國と新羅に媚びを賣る許りで、天孫を蔑ろにする山門の政を、口口に罵つた。文武王十年庚午の史書に曰く、
倭國、更めて日本と號る。自ら言ふ。日出づる所に近し。以に名と爲すと。
倭國の威名を剽竊し、山門が東國の國號と年號を革めて閒の勿い此の禍事。己の號を穢された白鳳に因る近江朝への戒めか、或いは、倭國の斷末魔か。雷雨と爆炎が吹き荒れる、末法の終焉も斯くやと云ふ地獄繪卷に、火の鳥は歡憙の雄叫びを上げ、燒け出されていく佛の文物を其の兩翼で煽り立てた。竺志の明日香を僭稱する斑鳩に吹き荒れた、情け容赦勿い狂亂。將に其の夜、大海人も天地を覆す疾風怒濤の雷夢に寢首を擊ち拔かれた。
飛鳥淸原大宮にて大八洲御たまふ天皇の御卋に曁びて、潛龍、元を體し、洊雷、應に期さむとす夢の哥開きて、而るに纂りし業を相せ、夜の水に投て、而るに基を承けむと知る。然れども天の時に臻らず、南の山に於いて蟬は蛻けし、人の事共に給はり東國に於いて虎步む。
皇の輿、忽ちに駕け山川を凌ぎ渡る。六師雷震し、三軍電逝す。矛を杖り、威を擧げ、猛き士、煙に起ち、旗は絳くして、兵は耀き、凶徒瓦解る。
乃ち、放牛息馬し、愷悌華夏に歸り、旗を卷き戈を戢めて舞ひ詠ひ、都と邑に停みたまひき。歲大梁に次り、月夾鐘に踵りて、淸原大宮に昇りて、天位に卽く。
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靈鳥の絕叫で目覺めた大海人は、子の四つを囘はつた歲の瀨の夜も顧みず、咒禁博士と蔭陽博士を喚び寄せて夢を占卜し、宵の禊ぎで身を淨め神前に改まると、天命、顱頂を貫いて心の髓に轟き、己の纂ぐ可き業が詳らかと爲りて、見失つてゐた王道が夜明けと倶に啓かれた。白む東雲に色褪せる天河。
潛龍、元を體し、洊雷、應に期さむとす
風雲は嚴づ靈の導きにして、壹卋に貳つの天機勿し。大海人は日の出を待ち侘びる小鳥の哢りすら瑞唱に聞こえ、今將に立ち昇る天照神が、倭國再興の御達しに相違勿いと、大願の成就を盟つた。此れから捲き起こす狂瀾の坩堝。其れは大海人の野望を遙かに凌ぎ、去る夜に暴威を揮つた火の鳥の沙汰ですら、後の卋の焦土から惟ひを騁せれば、激動の前の胎動、始まりの始まりでしか勿かつた。
白鳳十一年辛未、春正月己亥朔、
天下の諸王、文武佰官は難波宮に聚參して朝賀の儀に臨み、薩夜蔴の壹粒胤にして、竺志の日嗣の太子に新年の御慶びを申し上げた。倭國の神聖にして正統な文物の儀。其の御稜威を脅かす不遜な態度の者は紛れてゐ勿いか、樹て巡らした日月像と四神旗の狹閒から、後ろ見の大海人と儀仗を構へる竺志の軍士が睨みを利かせる龍尾道。其の參列者の一隅に淡海帝も何食はぬ顏で畏まつてゐる。竺志の都府樓に坐す、倭國の都督、薩夜蔴に替はつて出御された殿下の尊影に泥を塗り、惠方に配した幢幡を叛旗に飜す狼藉者に神經を遣は勿ければ爲らぬ程、天孫の玄德は千千に亂れてゐた。天子の禮服を繞ふ殿下の强張つた紅顏。笞杖の刑で磔にされたかの樣に立御する、見るに忍び勿い姿が、大海人の祕めた覇業に火を點ける。去る歲に、雷夢と倶に顯現した火の鳥の、亂心は亂卋の驗。神意は吾に有り。藩國の度重なる不義を、天が此れ以上見過ごす筈が勿い。啻、其處に居る丈けで臍の鼎が煮え滾る淡海帝の面の皮を探り乍ら、大海人は黙黙と虎視を研ぎ澄ました。眼に物を云はせるのは未だ早い。暗君は必ず髙御座で躓き、卋變に轉ぶ。其の刻に手足と爲る臣下、獨り獨りの倭國への忠烈、其の眞僞を拜賀の所作で見極める。果たせるかな、翌る日の、
庚子
大錦上蘇我赤兄臣と大錦下巨勢人臣と、殿の前に進みて、賀正事を奏す。
淡海帝の許で執り行はれた朝賀の儀では、鎌足の楔が外れた蘇我の類族で拜賀の序列を爭ひ、佩刀に手を掛けたと云ふ。然も有りなん。大海人の順風耳丈けで勿く、巷閒をも賑はす其の醜聞。今迄、鎌足が其の都度接ぎ直してゐた綻びが、命脈を絕たれた玉の緖と倶に解れていく。勢ひを失つた獨樂に鞭を入れる者が居勿ければ、後は轉ぶのを俟つ許り。大海人は此の大局に靈智を啓き、其の節目に眞の正鵠を見定める。古事を語り嗣いで來た神の末裔が、革に紐解く白妙の卷子。
諸家の帝紀及び本辭を賷らす所は、旣に正實を違へ、多きに虛僞の加はる。當し、今の時に其れ失ふを改めざれば、幾年を經ずして其の旨欲に滅ばむとす。
序章の草稿に垣閒見る國記の殘像。獨り步きをし始めた焚書の影法師が、交互に蹈み拉く虛實の跫音が聞こえ、亡命せし者の邪說と、葬られし禁書の片鱗が、正史と云ふ幻想の闇に今、閃く。
白鳳十一年辛未、十月己亥、甲子朔庚辰、
御召しが掛かり大津宮に伺候した大海人は、淡海帝が讓位の詔勑を出す旨を、内密に摑んでゐた。嫡男で在る大友王子の立太子に吝かで勿い筈の王權の亡者が、何故、無殘無殘と、呉越の仲と認め合ふ相手に髙御座を明け渡すのか。其の透けて見える肚積もりに、素知らぬ振りを突き通す。此の押し引きも旣に、只の手續きでしか勿い。謁見の閒へ向かふ囘廊で、旣に子飼ひの蘇我臣安蔴侶から擦れ違ひ樣、
「有意ひて言したまへ。」
と耳打ちされるも、如何に體良く應へやうと、遲かれ早かれ濡れ衣を著せられるのは眼に見えてゐる。避けては通れぬ王道の嶮難。東國を日出處の國、倭國を日沒處の國に淮へて、日の本を剽竊する男と相對するのも此が最後で在らう。盜人猛猛しい其の面構へを眼に灼き附け、決戰の火種を燒べるに如くは勿い。
佩刀を解き、畏まる大海人の前に出御した淡海帝は、其の玉體を苛む甚だしき臥病の大凡しを敍べると、鴻業を授く聖旨を勑し、快い領掌の辯を聞き逃すまいと半步身を乘り出した。病の翳りなぞ微塵も勿い、竝竝ならぬ眼光に宿る其の旺盛な精力に、面を伏した儘、暫し沈默を貫く大海人。安い餌で氣を惹く位なら、其の場で斬り捨てれば良い物を。闇討ちしか藝の勿い男が、探つた肚を知つた處で何に爲る。大海人は込み上げる蟲酸と咒詛を呑み下し、焦れる朝に醒め醒めと獻言した。
「臣之が、不幸は元より多に病を有るにありて、何んぞ能く社稷を保るか。願はくは陛下、天下を擧りて王后に附せたまへ。仍りて、大友王子を立て宜しく儲君と爲したまふべし。臣は今日に出家しまつりて、陛下が爲に功德を修はむと欲ひまつる。」
王位を輕王子に讓つたにも拘はらず、叛徒に祭り上げられた古人大兄王子の薨去から早、十二支を二囘はり。一度味を占めたら止められぬのが謀の食指。惡計は繰り返す。蘇我の徒も淡海帝に附くか大海人に附くかで旣に割れ、何方が勝つても良い立ち位置に陣取る者達は、淡海帝の前では大友王子の卽位を熱望して、大海人を惡し樣に罵り、大海人の前では日嗣の位を讓つた蔭德を襃め稱すで在らう。此の後に及んで、猿山の習俗に怪事を付けても始まらぬ。政の觚は天下に獨つ。毒酒を干さずに美酒を注げるのなら誰も苦勞はせぬ。大海人は舌の根を焦がす辛酸を呑み下し、疲弊した國家と百姓の復興と慰撫、母國に歸れぬ英靈達の鎭魂を發心した次第を說き、重ね重ねの讓意に固辭し續けた。
「請ふ、洪業を奉げて大后に付屬けまつらむ。」
此れは倭國の最後通牒で在つた。倭姬王が東國の王位に卽き、淡海帝を始末して倭の兒を宿せば、東國の血筋を斷ち切れる。此の餘りにも際疾い、捻じ伏せられた逆手を覆す薩夜蔴の布石に、大海人は胸が閊へて言葉に爲らず、心は扶桑の彼方を遙拜した。
大王之を聽したまふ。卽日に出家して法服をきたまふ。因りて以て、私の兵器を收めたまひて、悉く司に納めまつりたまふ。
頑として墓穴を掘らぬ大海人に根負けした朝は、一度口に爲して終つた苦苦しい勑を取り下げ、羞ぢの搔き捨てと許りに無言で入御した。御互ひ此れで取り繕ふ物は何も勿い。御前を退いた大海人は、内裏の佛前に端座して髻を解き、沙門の裝ひに履き替へた其の足で、敢へて人目を憚らず奧室に立ち寄つた。伊卋參宮に言寄せて御暇を乞ふも、朝の許しが下りぬ倭姬王に、得度して宮に籠もる旨を傳へ、
「伊卋へ行啓の折には、吉野で俟つて居ります。船遊びでも致しませう。」
と云ひ殘して大津宮を後にする。はて、東國の吉野には船遊びの出來る河處か瀧すら勿い、と訝る倭姬王の愁眉に、竺志の山懷で披かれた鵜飼ひや曲水の宴が過り、若しや其の吉野とは、と心が騷いだ。
此に皇后若し恥有らんや、私に生土の所に歸らむと欲しめせ。
大海人の底意を汲んだ倭姬王は、己の勤めを果たし終へた事を悟つた。倭國再興の爲、僅かでも刻が稼げたのなら、此の難儀に堪へた甲斐も有る。竺志の太母は其の本望を遂げたと許りに、羽根を休めたも鳳凰斯くやと云ふ、雅な睫尾の帷を下ろした。
壬午、
吉野宮に入りたまふ。
或の曰く「虎に翼を著けて之を放てり。」といふ。
兵器を解き、朝から賜つた袈裟を羽織つて、大海人が吉野入りしたのを見屆けたは良い物の、讓位の魂膽を見破られた上に、易易と逃げられた不調法に、淡海帝の取り卷きは呆れてゐた。東國に下向したと雖も、相手は針閒以西を顎獨つで從にする倭國の柱石。今迄の陷穽に突き落とせば事足りてゐた山猿とは格が違ふ。だからこそ、綿密な奸計で委細漏らさず闇に葬る可き處を。彼の及び腰では、譬へ大海人が讓位を受けてゐたとして、仕畱める事が出來てゐたのやら。虎翼一たび奮はば、卒に制す不可。逃した獲物は鯉や鮒では勿い。讓位を固辭した大海人は倭姬王を推戴した。竺志からの輿入れは東國に倭國の女帝を樹てる爲の布石。其れを己の登極に浮かれて身拔け勿かつた淡海帝の御寒い料簡。最早、大友王子の立太子なぞ二の次三の次。藤原の内大臣、生きてが居られたなら如何に差配したか、と顏を見合はせる下下に、成り行き任せの綸言が、木枯らしに煽られ吹き拔けていく。
錦秋の散り果てた佛殿に滲み渡る般若波羅蜜多の受持講說。本尊と正對し、兩の手な心を合はせて念誦する護國濟民の悲願に、隱し果せぬ仁王の氣概が凜然と張り詰めてゐる。介添への僧侶を背に、單衣の素服で結跏趺坐した大海人の、冥想の坐法とは思へぬ不穩な佇まひ。倭國の存亡を背負つた其の肩に、一房、復た一房と、剃り落とされた御髮が舞ひ散る度に、露はと爲つた顳顬の頭皮が靑銅の地金の如く底光りし、淸淸滔滔と伏し拜む獨經が俄に殺氣を帶びていく。俗塵の柵を削ぐのは形丈けで、意を決した鬼魄の形相。積もりに積もつた讐念が佛の御心をも炙り立てる。
天の時に臻り、南の山に於いて蟬は蛻けし、人の事共に給はり東國に於いて虎步む。
蟬に五德有り。頭上の緌は文。露のみを飮むは淸。穀物を食べぬは廉。巢を持たぬは倹。定まつた刻に出づるは信。其の成蟲が餌も得ず全うする短い命を、淸廉にして信義を護る姿に準へた、其の君子が人の皮を脫ぎ、鑄鐵に焦がれた饕餮と成る。御髮が梳かれる程に、無數の皺襞が大海人の襟足から頥へと疥癬の如く這ひ昇り、綠靑の酸化皮膜に爛れていく顴骨に饕餮の獸紋が蠢いて、合掌した手の甲をも覆ひ盡くしていく。常色の海幸彥と呼ばれた漢の覺變。僅かに俯いた黥面文身の皇鼎から立ち昇る幽渾が、都府樓に封印された山幸彥の生き靈を更に喚び覺まし、雙つの天命が獨つと成つて、薩夜蔴の斬り潰された右眼が大海人の獸面に乘り憑ると、生き殘つた左眼を苦悶の醜眉が渦卷き、眼窩を緣取つて血走る火眼金睛の瞠喝。紅蓮の隻眼から放電する、獵奇を帶びた嚴づ靈が、鬼界の門を抉じ開け、人の俤を見失ひ、獸神に蝕まれた鑄鐵の權化が沸鼎し、内陣に仁王經の慟哭が轟く。
劫火洞然 劫火洞然として
大千倶壞 大千 倶に壞る
須彌巨海 須彌と巨海と
磨滅無餘 磨滅して餘り無し
梵釋天龍 梵釋天龍
諸有情等 諸の有情等
尙皆殄滅 尙 皆 殄滅せん
何況此身 何に況んや此身をや
生老病死 生老病死と
憂謔イ苦惱 憂謔イ苦惱と
怨親逼迫 怨親逼迫し
能與願違 能く願ひ與違ふ
愛欲結使 愛欲の結使
自菴瘡疣 自ら瘡疣繧剃ス懊☆
參界無安 參界安きこと無し
國有何樂 國に何の樂しみか有らん
有爲不蟇ヲ 有爲縺ッ蟇ヲ不ず
從因緣起 因緣從り起こる
盛陦ー電轉 盛陦ー電轉じて
暫有蜊ス無 暫く有り縺ヲ蜊ス縺。無し
?「界雜」生 ?「縺ョ界と雜」縺ョ生は
髫業緣現 業緣に髫九?て現ず
螯影螯響 影の螯ゅ¥響き縺ョ螯ゅ¥
一切逧空 一切螺?逧???空なり
識逕ア讌ュ漂 識は讌ュ縺ォ逕ア繧て漂ひ
乘閧?、ァ襍キ 閧?、ァ縺ォ乘じ縺ヲ襍キ繧
辟。明諢帷ク 辟。明と諢帷ク帙?
謌第?謇?逕 謌代→謌第園繧医j逕溘★
隴倬圷讌ュ驕キ 隴倥?讌ュ縺ォ髫ィ縺イ縺ヲ驕キ繧
霄ォ蜊ス辟。荳サ 霄ォ縺ッ蜊ス縺。荳サ辟。縺
諛臥衍蝨句悄 諛峨↓遏・繧九∋縺怜恚蝨溘?
蟷サ蛹紋コヲ辟カ 蟷サ蛹悶↑繧九b莠ヲ縺溽┯繧翫
一向程に崩壞していく護國品の偈頌と、大海人の卋人としての原型。瓦解した本願が咒詛の羅列と爲つて、甲殼を嵌め込んだ頥から蔭走り、剃り落とされた御髮が放電して、奇矯な矩形と三角の繊光で逆立ち、心の臟の鼓脈に合はせて蠕動し乍ら、鑄物の憑坐を同心円に幾重にも輪舞し、擴散していく。不協和な念佛と合成周波數が糾ひ、冥走する情念。薩夜蔴の絕望と不離一體の形代に轉生した大海人の、額を穿つ隻眼が發皇し、變容の一部始終を盜み見て終つた目擊者を睨み返す。太古の文樣が流動し、獸神が徘徊する煮え滾つた醜貌。其の甲殼が不意に綻び、年の功を刻んだ嫗の柔和な相好に映り變はつていく。
「朝から行啓の御許しを給はりました。急ぎて御支度を。」
釆女の嫗に起こされ、重い睫毛の御簾を差し上げると、沸鼎の怒氣で搖らめいてゐた佛前は何處。得度した大海人の尊顏を覆ふ綠靑を吹いた地肌も、皺積した貪婪な獸神の綾竝みも、瘡蓋を剝がされた樣に憑き物は落ち、鑄造の死神は姿を滅した。
幻妖、醒めやらぬ夢魔の餘韻。不吉な兆候を夜著の裾に引き擦り乍ら、倭姬王は促される儘に裝束を整へ表に出ると、寢惚け眼で三日月の隱れた西の霄を仰ぎ、
「あな、と。」
なぞと、氣怠く微笑んだ。御伊卋參りと云ふのに車駕を引き入れず、厩へ靜靜と誘ふ嫗の彎曲した寡默な背中。
冬十一月庚子、甲午朔丁酉、
倭姬王がの大海人の遣した臣下の尻馬に乘ると、餞の言葉も勿ければ、夜明けすら俟たず、北辰を背に駿馬は驅け出した。闇の中を爆ぜる蹄が總てを置き去りにして、最早、吉野の船遊び處の話しでは勿い。倭姬王の吐胸は高鳴り、外遊を許した淡海帝の肚の蟲も亦、新たな謀で蠢いてゐた。倭姬王の行啓を、大海人の謀叛に加擔して身を隱したのだと喧傳し、壹網打盡にする爲、態と泳がせた朝の算段と、其れを嗅ぎ付けて、一足先を出し拔いた逃避行。驛鈴は旣に抑へ込まれ、敗殘の落人の如く吉野の大海人と合流し、東へ東へと向かふ倭國の命運。追つ手と伏兵の網の目を縫ふ背走に、
「藤原の内大臣が生きてをれば。」
と大海人は遲過ぎた鎌足との和睦を悔やみ、後續の馬群を顧みた。破瓜を迎へ、此れから女として咲き誇る筈の倭姬王を、此の儘、國の捨て石にしては、祖神の拜塵に浴する面も勿い。淡海帝の卽位の宴で觚を飮み干し、塲を治めた彼の氣概。何故、漢に生まれ勿かつたのか。其の器は薩夜蔴と大海人を悠かに凌ぐ物が有る。國を統らす威信の搖るがぬ權しは、理窟で備はる物では勿い。大海人は、最後の最後、竺志の本貫を護り拔くのは、此の女王の樣な氣がして爲ら勿ず。倭國の太母を此處で手放す譯には行かぬと勇鞭を揮ひ、腹心之臣を鼓舞した。
是に大友王子、兵勢を催し、倭姬王を弑せんと欲し、衆兵を路次に躃らす。川波髙く沂を遡り遂に逆兵皆退去す。
數多の嶮難を凌ぎ、汗馬を潰して追擊を振り切り、辿り著いた伊卋の阿濃津は、祕やかな宵の渚と、常し方の卋卋生生を知り盡くす松風で一行を迎へた。大海人は雄叫びを上げ、天寵は吾に有りと確言する。敵を撒くには格好の星明かりの海原。手を囘して措いた船も滯り勿く、時津風にも惠まれ、後は舫ひ綱を解いで漕ぎ出し、二手に分かれて上げ潮に乘る許り。大海人は此れより先、要らぬ徒波の立たぬやう綿津見神に禱り終へると、慌ただしい船出を强ひる己の不德を詫び、倭姬王に詩を送つた。
月光似鏡無明罪 月光 鏡に似たれども罪を明らむること無く
風氣如刀不破愁 風氣 刀の如くなれども愁ひを不破
隨見隨聞皆惨慄 見るに隨ひ聞くに隨ひ 皆惨慄たり
亦秋獨作我身秋 亦の秋は獨り我が身の秋と作る
現し身で會ふ事は、最早、在るまいと、互ひに後顧之憂を排して臨む楫枕。譬へ舳先は違へども、大海の水底より邃き護國の念に隔ては勿い。倭姬王は己が大海人の王道に身を窶す持衰に成らうと、髮を降ろし、肅やかな夜氣に千早振る。
なかれゆく われはもくつとなりしとも
きみしからみと なりてととめよ
鬼道を事とし、能く衆を惑はす女王の俤。片膝を突いて畏まる大海人に、倭國の行く末を指南する日の神子の言靈が轟いた。
「吾が殿下の壹路平安を禱る。」
舘に殘つた髙市王子は、倭國の精鋭に機要を託して、山門を取り圍む東國に遣し、近江朝の内偵と諸般の根囘しに暗鬭してゐた。
「唐土の郭務悰を抑へ、竺志と蕃屛の援軍を取り付ける。果報を俟て。」
と吿げて出立した大海人の畱守を與る其の耳に、倭姬王も今や囘南の海路に在りとの報せを受け、追討の手の者が獲物を取り逃したとも爲れば、次の朝の矛先は云はずもがな。迫り來る戎馬の蹄轍と嘶き。髙市王子は己の本領を揮ひ發つ星の巡りに、兩の肱に祕めた有り餘る膂力を、揚揚と撫した。倭の漢に產まれ落ちて、何時迄も鞘の中で錆を吹いてゐられる物か。上げ美豆良で見送つた薩夜蔴の外征。稚兒と云ふ丈けで、佐けに爲らぬと畱守を强ひられた無念が歷歷と甦る。己が白村江に臨んでをれば、必ずや一矢を報ひて唐國から倭國の本貫を護り拔いてみせた。況してや、生き愧ぢを曝して送り返されるなぞ萬死の沙汰。焦がれ續けた捲土重來の風雲に色めく紅顏。大殿を立てて一步引き、畏まつてはゐたが其れも此處迠。鬼の居ぬ閒に事を成さず爲て、何時成せるのか。親ら矢面に立つて憚らぬ若宮は、其の大事の前に、別棟に匿ふ鸕野讚良と一粒胤の草壁王子に眼路を飛ばした。淡海帝が實の女に手を掛けるのなら其れ迠の事と、大海人が吐き捨て置き去りにした、敵と味方の血を分ける足手纏ひ。蘇我の外戚の影をも引き擦る、何れに附かうと不思議で勿い、表と裏の判らぬ妖女だ。仇の兒を產んだ女なぞ、今更、人質にも人の盾にも爲らず、寳女王の薨去に託けて、淡海帝の服喪に加擔し、外征を忌避した異母に義理も勿い。此れを好機に後仕舞ひとする可きなのか、投げ遣りな思惑に耽る事すら煩はしい。
何しろ、物狂ひの中で沒した遠智娘の次女で、氣難しい女に育つた鸕野讚良も然る事乍ら、草壁王子に到つては人の足を引つ張る意氣地すら勿い。謁える度に蒼褪めた瘦貌は土氣色へと死相を濃くし、胸が惡く氣息が整ふ事の勿い異母弟の不甲斐なさには蟲酸が走る。後一月で歲が明ければ、髮を上げ冠を授かると云ふのに、丈を超える埀髮を美豆良に結ひもせず、倭の錦を肩から袈裟懸けにして科を作り、床に臥せつてゐるか、書庫に籠もつてゐるかで藝事に明け暮れ、女が腐つたとは將に此の事。人を鑄直す鑪が在るのなら突き落として遣る物を。漢氣を母の臍に忘れて產まれた者より、歲下とは云へ、同じ蘇我の血を引く、鸕野讚良の姉、大田王女の嫡男、大津王子の方が未だ見所が有る。斯樣な末生り風情に冷や飯を喰はせて、何の肥やしに爲ると云ふのか。實父を追討されても舘に殘り、逃げも隱れもせずに陣を固めた髙市王子に取つて、煮え切れず、かと云つて芯の勿い根菜なぞ目障りな丈け。何時の卋にも軍に餓ゑた者は掃いて捨てる程居る。其の殺氣の中で揉まれる事に生きる手應へを摑む倭國の强者は、吾が背を焙る火急の變に眼路を切つた。
丙辰、
蘇我赤兄臣、中臣金連、蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣が大津宮に參内して、大友王子と内裏の佛前で合議し、
臣等五人、殿下に隨て大王の詔を奉るに、若し違へること有ら者、四天王打たむ。天神地神、亦復、誅罰む。三十三天、此の事を證め知ろしめせ。子孫、當に絕えて家門必ず亡ぶべし、云云
と盟ひ合ひ、赤兄に到つては滂沱に|塗れ、大友王子の御前に平伏したと云ふ。有閒王子を陷穽の奈落に突き落とし、太宰の府の羅城の結界を解いた國賊の空泣き。入鹿から石川蔴呂迠、蘇我の宗家を悉く燒き拂はれて措き乍ら、猶も「家門必ず亡ぶべし。」なぞ片腹痛い。髙市王子は翌日の、
丁巳、
大津宮の大藏省、第三倉に灾を放ち、法隆寺を灼き盡くした火の鳥が舞ひ降りたと風聞を流した。宗主を蔑ろにされて怒り狂ふ倭國の護り神の再臨。次に灰に爲るのは内裏か朝本人かと囃し立てられて、大友王子の取り卷きは何う動くか。御上に齒向かふ火付けの咎人なぞ當たりは知れてゐる。間髪を入れず討つて出れば良い物を、大海人と倭姬王を取り逃がした事すら噯氣にも出さず、敵は只管及び腰で樣子を見る許り。卻つて髙市王子の側が痺れを切らす程で、月も押し迫つた晦日の獨つ前、
壬戌、
漸く小火の片付けの濟んだ朝堂に動きが在り、再び聚まつた六人が淡海帝の御前で改めて盟ひを共にしたとの報せ。然して、つい今し方、朝の使ひの者が獵の誘ひに現れた。
「朝の御體に障るのでは。」
「内裏に籠もるのも如何な物かとの事。」
盟ひの場で何を取り決めた物やら、兵達で固めた物物しい舘の中に通されて、素知らぬ顏で返す厚かましさに、髙市王子は込み上げる愉悦を堪へ切れず、呵呵として快諾した。然して、
「外での氣晴らしと雖も、此の季節は、淡海の濱風も卻つて體毒と爲りませう。」
と、大津宮から眼と鼻の先、朝の獵を恆とする奧津㠀での誘ひに牽制を入れた。離島に先乘りして待ち伏せされては一澑まりも勿い。人拂ひをして闇に葬る心算で在る事は眼に見えてゐる。無理にと云ふのなら當の日の前に事を運ぶ迠の事。獵の病に御見舞ひするなら、病み討ちこそ相應しい。其の肚の底を知つてか知らずか、溫和しく引き下がる使ひの者を見送る、舘の兵達の胡亂な眼光。臣下の獨りは火中に臨むのは拙速に過ぎ、竺志に向かつた大殿の果報を俟つ可きではと進言するも、髙市王子は壹檄で斬り捨てた。
「今の使ひの膽の坐り樣を何と爲る。先に火中に飛び込まれて、默つて居れるか。果報なぞ軍に勝つてからでも遲く勿い。」
獲物に怪しまれるのを恐れてか、髙市王子の意を汲み、獵場は山階の鄕へと轉じ、朝靄に烟る山懷は、朔風拂葉、小雪の夜氣を引き擦り、未だ冴え渡つてゐた。倭國と山門を繫ぐ交通の要衝で、足繁く通つた鎌足の陶原の舘も在り、淡海帝に取つては勝手知つたる土地柄。御伴の者達と、冬枯れの木立に潛む兵達に圍まれた朝は、艶やかな獵衣を纏つて白馬に跨がり、蒼鷹を愛で乍ら、獲物が罠に掛かるのを待ち構へてゐた。獵場に迷ひ込んだ樵蘇に扮し、敷き詰められた落ち葉に紛れて息を殺す、大友王子率ゐる誅烈の志士達。獵の最中、髙市王子が獨りに爲つた處を捕らへるも良し、其の塲の勢ひで亡き者とするも良し。怖氣に驅られて姿を顯さぬのなら、此の機に乘じて叛徒の舘に討つて出る。我等同志の血盟を大藏省に火を付けて嘲笑つた怨みを如何に爲て晴らすか、木の股に顏を埋めて念ひを巡らす大友王子。竺志に遁れた大海人を其の儘封じ込め、嫡男の髙市王子を片付ければ、自づと披ける山門の王道。淡海帝の卽位の宴で見下された屈辱を灌ぎ、髙御座に立御した己の姿を夢想して、未だ手にしてもゐ勿い美酒に醉ひ始めてゐた。日日、文武に勵んでゐる丈けの、苦勞を知らぬ若宮の浮ついた胸算用。其の思ふ樣廣げた大風呂敷に、招かざる客人が一番槍を爭ふ馬脚で蹈み込んで來た。
獵路に騷塵を蹴立てて犇めく怒濤の進軍。鬨の聲を擧げ、甲冑に戎馬を聯ねて現れた髙市王子は鞍上から弓を番へると、疾風迅雷の先鏃を切り、一行の中で最も眼を惹く、的にして吳れと云はん許りに著餝つた、白馬の稀人を擊ち拔いた。後續の騎兵は木立の中に潛んでゐる大友王子の手勢に矢の雨を降らせると、落馬した朝を助け起こす御伴を蹴散らし、意識の勿い朝の兩脚を繩で縛り上げ、其の儘、頭を逆さに戎馬で引き擦り聯れ去つて行く。其の閒、髙市王子は帶刀を拔いて振り翳し、姿勿き倭國の奸臣に半狂亂で怒號を浴びせ、逃げ惑ふ御伴の者達を斬り刻んだ。
「大友は何處、大友は何處。」
卽時撤收をと諫める臣下をも振り拂つて逆燒する、其の餘りの迫力に大友王子は落ち葉の中に頭から潛り込み、匍匐ひで樹海を只管さ迷ひ落ち延びると、肚の治まらぬ髙市王子は、捕らへた朝に息が有るのも確かめず、名にし負ふ淡海の底に沈め、魚礁の肥やしにした。其の後は舘を引き拂つて東國に脫し、達しを受けて馳せ參じた蕃屛の兵達と合流し、軍の布陣を堅めていく。一方、近江朝の陣營は總て後手後手に囘はり、從前通りの謀で事足れりと髙を括つた者と、端から擧兵する肚心算で挑んだ者の差は歷然。大友王子に命じられ恐る恐る獵場に戾り野捜しをし、今更、狐鼠狐鼠と嗅ぎ囘はつた處で後の祭り。朝の淺沓の片割れを拾つた他に手掛かりも勿ければ、髙市王子から朝の安否の報せが來る筈も勿く、徒に時が過ぎるばかり。同じ水底で哥枕と爲つた、山門の王の二の舞ひに、
淡海の海 瀨田の濟に 潛く鳥
目にし見えねば 憤しも
と獨り言ちる、日嗣の太子として榮華を極め、博學多通にして文武材幹有りと持て囃された大友王子の才覺は、詮ずる所、鞘の象嵌や螺鈿の類ひ。
十二月辛丑、甲子朔丙寅、
遂に、朝の不在を隱し果せず、大津宮は淡海帝の薨去を公にはした物の、朝を無殘無殘攫はれて逃げ歸り、打つ手の勿い事まで明かす譯にも行かず、柩の中身に當てが勿いのでは、殯の申し合はせすら儘爲らぬ有樣。大友王子の卽位と、髙市王子討伐の手配に追はれる師走を過ごし、歲が明けて、
白鳳十二年壬申、
大友王子が卽位し、近江年號を果安に改元。山門の大王としての建前を整へる丈けで、後はもう、先帝の折りに催した卽位の宴を披く可きか、口に爲る者すら居勿い。何故、彼の時、大海人を招じ入れ懷柔し勿かつたのか。何故、其の後も髙市王子と張り合はうとしたのか。何故、此の期に及んで改元なぞ爲てゐるのか。惡い夢から醒めても、眼を開けた儘、魘される事に爲つた新帝は、淡海と云ふ背水を負ひ、正しく玉碎に討つて出るしか道の勿い窮地に親ら追ひ込まれてゐた。瞬く閒に東國の勢力を牛耳られ、針閒から西の倭國の蕃屛に驛使を遣して援軍を請ふも、悉く無下にされ、倭國に附くか近江に附くか、二手に分かれた蘇我氏の閒に割つて入る事すら敵はず、己の仁望の勿さを思ひ知らされる許り。此れも先帝の搔き捨てた巧言亂德の讎ひ。何を據り處に造反の梯子を登つたのやら、二言目には、
「藤原の内大臣が生きてをれば。」
と零す臣下の澑め息が耳に痛く、取つて付けた氣休めも唇に寒い。鳥籠の外に出される迠、己が籠の鳥だと知ら勿かつた新帝に、今更、何處へ飛び發てと云ふのか。矛を向ける相手を過つたと氣付いた時には、旣に寢返る事すら叶はず、逃げ遲れた者達を束ねて臨む負け軍。一式揃へて磨き上げた甲冑が鈍く耀き、決起の觶に呑まれ潤んだ瞳に、胴前の脇に添ひ伏す兜が己の生首に見えた。
み吉野の 耳我の嶺に
時なくそ 雪は降りける
閒なくそ 雨は零りける
その雪の 時なきが如
その雨の 閒なきが如
隈もおちず 思ひつつぞ來し
その山道を
無事、扶桑の天子の直轄地、九州に上陸した大海人は、御嶽から蛤嶽へと銀冠を聯ねた脊振の重畳を仰ぎ見ると、頰を打つ御雪の慰みで熱い目頭を堪へた。紫雲霏霺く頂きに辨財天が降り立ち、給仕の雙龍が背を振り欣憙したと云ふ、懷かしき吉野の靈峰。其の雄雄しき白銀の繪卷に、薩夜蔴の外征から、倭姬王の後ろ見として東國へ下向し、逃奔する迠の激動が一氣に甦り、千歳川の營みが追憶の大河と成つて其の吐胸を流れ、背撓ら負ふ天命と吹き下ろす寒氣に身が引き締まる。己の庭に舞ひ戾り、驛馬と驛鈴を易易と手に入れ、倭國の官道を縱橫に驅け巡る快哉とは裏腹に、山門に於いて天涯の孤客で在つた大海人の瞳を擦過する、嘗て勿い彈壓に因つて一掃された靈廟と御社の數數。打ち拉がれた百姓の生業と廷臣の忠孝は辛酸を極め、天孫の稜威と信心も地に墮ちた。其の元兇の顏色を伺ふ爲、舊懷を溫める遑も勿く、倭國の眞の仇の許へ直參する屈辱は如何斗りか。我等が故地に進駐し蜷局を卷く大虬の、毒を以て毒を制する他、手立ての勿い竺志の國情に、大海人は慚愧の鞭を揮ひ、己を責め立てる。奧の院に幽居し、醉生夢死の落人に沒した薩夜蔴の都府樓を背に指南する、唐國の兵達に接收された肥の國の城郭。目指す朝散大夫、郭務悰は鴻臚館での饗應を袖にして、阿蘇、髙來峯、霧㠀と火山の周遊に明け暮れてゐると云ふ。王墓を劾き、臣民を片輪にして、己は風光參昧とは良い御身分だ。戰勝國の元帥に見縊られ、片手閒で統治する放漫。倂し、今は其の脇の甘さに活路を見出すしか勿い。
安斗宿禰智德を從へて、阿蘇の外輪を望む郭務悰の逗畱地に赴いた大海人は、文人然とした唐國の髙級官吏の容姿に息を呑んだ。舶載の白磁かと見紛ふ尊貌の肌理。進駐する軍に暴虐の指示を下したとは思へぬ瀟洒な物腰に、皓齒を開けば金聲玉振の鈴鳴り。科擧を及第し、更に選り選られた指折りの國士が發つ靜謐な凄味と相謁え、此の漢の力を利して大友王子を斥け、更には唐國をも斥ける大業に背筋が顫へた。先ずは白村江の役の賠償と講和を如何に纏め上げるか。事に韓國が漢の御代から續く重貢を、倭國も擔ふ事丈けは、此れ丈けは何としても避けねばならぬ。金銀牛馬の他に三千に及ぶ韓の女が、貞操を獻げる事を强ひられ、性僕として支那に送り出されてゐる慘狀に、韓の宗主を號る分際で見て見ぬ振りをして來た讎ひ、と云はれて返す言葉も勿い。韓の女は、姻がず、切らず、塗らずと制られ、髮を切つて男を扮ふ事は疏か、頰に藥を塗つて爛れさせ、醜女に爲る事すら赦されぬ。此れを倭國の女に科す事なぞ、在つてはならぬ國辱。海峡の隔てが在ると雖も、新羅が此の機に乘じて、積年の重責を倭國に押し附けても不思議は勿い。大海人は唐國が何處まで新羅の意を汲んでゐるのか端倪し、通事の介釋に耳を欹て乍ら、其の折り目正しい容色の變化を見逃すまいと眦を吊り上げる。處が、意に反して郭務悰の心は政に在らず、身を乘り出して切り出したのは、淡海帝の追討を遁れた大海人が、海路に在つて知らざる、髙市王子の蠻勇が撒き散らした東國の風聞。
「去る歲、火の鳥が大津宮を燃したとは眞か。」
白鳳十年己巳、火の鳥に燒き滅ぼされた法隆寺の件なら未だしも、全く耳に覺えの勿い嫡男の禍事に、郭務悰の聰明な眼差しが、大海人の眸の奧を覗き込んでゐる。其の只ならぬ入れ込み樣に、大海人は心得顏で受け流した。
「だとしたら。」
「火の鳥は倭國の護り神と聞く。何故、東國の地に舞ひ降りたのか。」
其の問ひに大海人は千載壹遇の天祐を察し、此處を先途と疊み掛けた。
「倭國の祖神を蔑ろにした東國の大王氏に、火の鳥が戒めを下した迠の事。天の恚りに僞り勿し。其の御心に背き、事有る每に不義を爲す大王氏の貳心は、必ずや、皇帝李治、幷びに、皇后武曌を欺く事と爲りませう。」
大海人は兩手を著いて平伏すと、額を擦り付けた床板に念ひの丈を放唾し、其の激語は樓閣の天蓋に轟いた。
「汝の國は數戰ふ國也。必ず戰術を知らむ。今如何に。」
「厥、唐國は先に覩者を遣し、以て地形の蔭平及び消息を視さしむ。出師の方、或は夜襲、或は昼襲す。但し深き術は知らず。」
大海人の劍幕に壓され答えへに窮する郭務悰。半身に構へ直した其の後を、亡國の烈士は二の矢三の矢で追ひ縋る。
「我等の道理を計るに、恆に會稽東治の東に在る可し。夏后少康の子が廣めし、會稽東治の遺德に叛く輩を、此の儘、野放しにせよと申されるのか。」
鳲鳩在桑、其子在榛 鳲鳩は桑に在りて、其の子は榛に在り
淑人君子 正是國人 淑人君子 是の國人を正たらん
正是國人 胡不萬年 是の國人を正たりて 胡ぞ萬年ならざらんや
大海人は詩經に淮へて、郭務悰に正鵠を見定めよと攻め立てた。郭公は扶桑に在りて、册封する國と民を正すならば、宗主の勤めを全うす可し。考へる餘地を與へずに押し切り、無理が通る筋道を抉じ開ける。竺志進駐の指揮を執る暴官は矢も楯も堪らず、
「先ずは落ち著き召されよ。火の鳥の件を持ち出したのは他でも勿い。隨の煬帝の勑使として倭國に航り、易姓革命の後にも、髙祖に仕へた裴卋淸の文書を御叡覧召された皇后が、竺志の火山より飛び發ち、常し方の命を司ると云ふ火の鳥を御所望し、皇帝の聖旨を差し措き、講和も賠償も二の次で倭國に臨めと息卷いてをられる。周公の御卋に鬯艸を獻上してより以來、倭國は不死の祕法が宿る四海の果て。永遠に續く妍しき容と權き力を求める者達は皆、樂浪の海表を目指した。徐福が求めた神仙の㠀に棲み處を爲す、神仙の鳥を。數多の傳奇、民の巷說を鏤刻する肥の國に至りて、阿蘇の噴煙を仰ぎ、吾、確信せり。此の日出づる扶桑の地に非ずして、不死の鳥は不生と。倂し、俟てど暮らせど靈鳥は顯現せず、在らう事か淡海を火の海にしたと云ふ。火の鳥は肥の鳥にして、倭國の護り神では勿かつたのか。火の鳥は何處、今何處。」
思はぬ火の鳥への執心に面を伏した儘、愉悅を嚙み殺す大海人。白村江で我等を見捨てた疫病神に入れ込むとは、人の欲目に倭國も唐國も勿い。火の鳥を我が物とし、其の能を自在に操れるのなら、唐犬や高麗狗に遲れを取る物か。煉獄の番人に手を出して火傷で濟んだ例しは勿い。生け捕りにし、永遠の命を得られると云ふ其の血を呑まうとした者は、悉く身を滅ぼして來た。彼の化生に鳥憑かれたのなら、態々正氣に戾す事は勿い。然うと判つてをれば、法隆寺を燒き盡くしたとの俗說も有つた、難波宮の白鳳を押し附けてゐた物を。皇后武曌の肝煎りとも爲れば話しが早い。毒を以て毒を制すのは統治の眞髓。唐國が僞りの靈鳥に感けてゐる此の隙を突かずして、次の天機なぞ望める物か。
「火の鳥を手に爲る者は、天の理を手に爲る事に不外、倭國の祖神は其の通力を怪釣り、氏族と百姓を蒼古の代より導いて參りました。靈は天に宿り、鳥は其の使ひで在り乍ら、刻に靈、其の物。火の鳥を冒す事は天の理を冒す事。譬へ、皇后が御所望で在つても此れ許りは。」
「何と、火の鳥を怪釣る。怪釣るとは如何に。」
「其れは倭國の政を司る門外不出の祕儀にして、眞床覆衾の祭祀。」
大海人の打つて出た狂言に、眼を瞠る郭務悰。其の鬼魄に通事は訝る事すら赦されず、唐國の髙級官吏は鼻先で靡く蜘蛛の糸に、伸ばした指が空を切る。
「成らば、火の鳥の生き血を呑めば永遠の命を授かると云ふのは。」
「然樣、其の能は深淵にして尊大。而れど、如何に皇后武曌の御本願との仰せでも、火の鳥は倭國の護り神。」
「其處を達ての。」
千代に苔生す巌の如く、匍匐禮で固辭する大海人に、郭務悰が擦り寄らうとした其の刻、舘の石据ゑを衝き上げる激甚が謁見の閒を搖り起こし、臍に轟く地響きが顱頂を驅け拔けた。天地を覆す萬物の震撼。九州を貫く燠き脊椎の怒號。大海人は、平伏を解いて驅け出すと、降り注ぐ梁塵を潛り戶を開け放つた。地神が鳴動すれば、天神が舞ひ降りる、倭國の乾坤一擲は今此處に在り。逆光を背に振り返つた大海人は、腰が拔けて躄る郭務悰を見下ろし、勝ち鬨の聲を擧げた。
「御覧召されよ。」
無影樹 頭に鳳舞ふ
悟達の無心に音連れると云ふ靈鳥が、大海人の狂氣が咒ひと爲つて召喚したかの樣に、阿蘇の凱煙から躍り出で、噴塵と雷霆と金燐を撒き散らし乍ら、竺志海を跨いだ髙來峯へと羽擊いていく。灼熱の雙翼に蓬蓬たる綾錦の鳳尾を霏霺かせ、天に沙羅降り、地に馨立つ極樂を繪に描いた衆彩莊嚴に、
「也太奇、也太奇。」
郭務悰は四つん這ひで歡憙の聲を上げ、大海人の脚に獅嚙憑いた。仙姿玉質を搔毆り捨てて戰く埀涎の崩顏。此の男も亦、屍に羣がる銀蠅と大差勿い。火の鳥を所望してゐるのも皇后なのか妖しい物。同じ手懷けるのなら、天を舞ふ魔性の鳥より地を這ふ唐犬。此の千載一遇の奇蹟に、大海人は郭務悰の視座に合はせて片膝を突くと、其の亂れた冠と襟元を規し、靈驗に顫へる手な心を優しく握り込んだ。
「先ずは落ち著き召されよ。火の鳥は逃げも隱れも致しませぬ。皇后の永華に骨身を削り、譬へ其れが國の護り神と雖も捧げ獻るのが、册封を賜る藩國の勤め。先程の峻拒は本の戲言。皇后の御稜威に叛くなぞ以ての外。此の大海人、必ずや皇后の御千慮に應へて見せませう。」
「其れは誠か。」
「漢の約束に證文は無用。但し、人に話を聞いて貰ひ度くば、先づ人の話を聞くのが自明の理。」
大海人は生き肝を拔かれた郭務悰を抱へ上げると、俄に聲色を落として東國の背信に色を點けてを吹き込み、講和と賠償の大いなる讓步を地獄の底から引き擦り出した。武力で相手を捻じ伏せ、其の領分を見渡す限り廣げても物足りぬ人の野心。四海の寳を積み上げても屆かぬ永久の命を逆手に取り、畢竟、人を惑はすなら、獨りより天下を惑はした方が理に適ふと、大海人は竺志海を夾む對岸の太良を臨み、放愷した。
淑き人のよしとよく見て好しと言ひし
吉野よく見よ多良人よく見
火の鳥の魔力に眼が眩んだ御人好しを丸め込み、手も勿く轉がした亡國の虎の子。處が、
三月甲辰、癸巳朔己酉、
内小七位阿雲連稻敷を倭に遣し、大王の喪を郭務悰等に吿げしむ。是に於いて、郭務悰等、咸に喪服を著て三遍轝哀、東に向いて稽首む。
壬子、
郭務悰等、再び拜みて書凾と信物とを進る。
東國から汗馬を乘り潰して馳せ參じた驛使の報せに、大海人と郭務悰は互ひの瞠目を見交はした。淡海帝の豫期せぬ薨去と、果報を俟たずに擧兵した髙市王子。左右の耳を聾する其の違算を裏付ける樣に、淡海帝の後を嗣ぎ卽位した大友に官符を託されて、佐伯連男が太宰の府に乘り込み、下された興兵の令を、栗隈王が理に非ずと受け對へ、三野王と武家王が佩刀に手を掛け斥けるに至つては、畱守にしてゐる東國で何もかもが先走り、己が竺志に取り殘されてゐる事を大海人は認めるしか勿い。嫡男の獅子奮迅の武勇を素直に憙べぬ父の徒勞と俗情。倭國が誇る益荒男の譽れの一言では片付けられぬ、餘りの剛腕に付いて廻る先先の杞憂。大勢は旣に決し、後の卋に壬申の亂と呼ばれる合戰は、東國に主君が歸還する許りと爲つてゐた。
夏五月丙午、辛卯朔壬寅、
甲冑、弓矢を以て郭務悰等に賜ふ。是の日に郭務悰等に物を賜ふこと、總合て絁一千六百七十三匹、布二千八百五十二端、綿六百六十六斤。
戊午、
髙麗、前部富加抃等を遣して調進る。
庚申、
郭務悰等罷り歸りぬ。
未だ見果てぬ火の鳥への夢に、後ろ髮を引かれる念ひで歸國船に乘り込む郭務悰に取つて、白村江の賠償として積載した大量の貢ぎ物も御慰みの品品でしか勿く、阿蘇の外輪から峨峨として立ち昇る白皙の噴煙に、彼の日見た鳳の影を探し求め、此の儘、何時迠も波待ちを續けられればと、時津風よ吹くなと禱る許り。必ずや火の鳥を送り屆けると云ふ大海人の確約。其の賴りの綱も、舫ひを解かれた船の上で心細く搖蕩ひ、後はもう天の御心に委せるしか勿い。髙市王子の壓勝を吿げる、續報に次ぐ續報を受けて東國に下向する大海人も亦、其の足取りは重く、豫斷を許さぬ内亂の事後の政に險眉を極め、入れ違ひに、伊卋を發つた後、南囘はりで蕃屛を巡り、寄港する先先で歡待を受け、長國、土左、日向と逗畱した倭姬王は、
布帆御恙なく、終に翌る白鳳十二年壬申冬十一月四日薩州衣評、山川牟瀨濱に著きたまふ也。
九州に集ひし雲水は其れ其れの空へと四散し、今や二度と錯はる事の勿い、囘曆をさ迷ふ刻の客人。女王の歸還を祝ひ、沿道を匍匐禮で埋め盡くす百姓に出迎へられた倭姬王は、開聞嶽の頂に登つて夜勾㠀の翁嶽、宮之浦嶽を背負ひ、竺志を護る四王寺山、卋卋の奧津城、太宰の府、胸形の社を結び、韓の地を目指した北埀に壹揖すると、天之御中主神、髙御產巢日神、神產巢日神の參柱に向かひ參禮參柏手し、披かれた天扉に倭國への忠貞を誓ひ遙拜した。百の還曆を遡る太古の黎明、天神の化身、火の鳥の業火で淨められ、地神の惠みに因つて甦つた大地を見護る竺志の太母。邦土の復興と安寧を願ふ禱りが、鹿兒㠀の噴塵に噎ぶ凱風を喚び覺まして埀髮を逆卷き、其の篤き吐胸で擁き抱へた、萬卋の搖籃に眠るもう獨りの女王が今、千夜一夜の夢路を超えた、更なる風雲に舞ひ戾つていく。
黑髮の亂れたる卋ぞはてしなき
思ひに消ゆる露の玉の緖
「そんな苫屋の隅に蹲つて、何を狐鼠狐鼠してゐるんだい。」
玉響の魔泥みに、泡沫の往古が目搏き獨つで彈け、漂白した追憶の彼方へ絲を曳く餘韻が、淸閑とした露地に滲み渡り、蕃屛の笹波に紛れていく。座標軸と時閒軸が混線した儘、茫然と搖蕩ふ見當識に鹿威しが句讀點を打ち、躙り口の前に重ねた、沓脫ぎの敷石に片手片膝を著いて目覺めたエメラルダス。夜伽と覺醒の狹閒を行き交ひ、刻を驅ける少女は、永遠の姬君として甦り續ける千年女王の運命に幻惑され、暫し、心と體の焦點が嚙み合は勿い。沓脫ぎの上に揃へられた、爪先の傷から踵の減りまで見覺えの有る、先客の軍長靴は旣に見當たらず、髙さ二尺三寸、幅二尺二寸の躙り口が猫の額を閉ぢてゐる。茶室の中で漲る風艫釜、下地窻越しの老獪な主の氣配。其の膠も勿い御挨拶に、殺伐とした舊交が甦る。
城外杏園人去盡 城外の杏園 人去り盡し
煮茶聲裏獨支頥 茶を煮る聲裏 獨り頥を支ふ
苔生した手水鉢と蹲踞が寄り添ひ、石燈籠が緘默を貫く、苫葺きを目深に被った幽邃の草庵。訥訥と滴る井泉が過ぎ去つた月日を數へ、何もかも縮尻り薄汚れた自分を窘める、彼の頃の儘の靜物達。エメラルダスは刀掛けに佩刀と戰士の銃を預けると、當時は荒荒しく開け放つてゐた躙戶に恭しく手を添へて、挾み鴨居に跪拜し、聚樂壁越しの御呼ばれに甘んじた。
「御静閑を煩はせて申し譯勿い。」
苦苦しく口を濁して潛り拔ける、燐寸箱と鼻で笑つてゐた隱れ處。躄る兩膝を張り替へられた許りの靑疊が擦り切り、賽子を裏返した樣に削ぎ落とされた、最小限の意匠と閒取りに、女王と云ふ虛餝は裸にされていく。面を上げると其處には、小皿に活けられた一輪の花橘が、梅昆布茶の樣な婆の說敎に嚙み付いてゐた在りし日を偲び、床の間で躍る墨痕逞しき茶掛の一筆には、
林下千年夢
無神論者の懺悔室に揭られた刻の十字架に、下の句を返すなぞ烏滸がましい。何せ此の會席の主は、點前疊に端座する、木綿の藍絣に紅を散らした單衣に、屹乎と引き締まつた細帶の妖女だ。逝く刻の流れを偶詠して彳み、物の哀れにも工まず。傳統には普遍的な玄理と永遠のモダニズムが在り、過去にしか眞の新しい發見は勿い事を知る此の星の太母に、付け燒き刃は通用し勿い。底光りする栂の柱で劃られた、四疊半一閒の小宇宙と相對して、彼の頃より一層大きく見える反目の師。
「如何なんだい、海賊稼業の方は。」
淨められた棗と茶杓と金繼ぎの伊萬里茶碗に顏を向けた儘、天河無雙の女王を前にしても與せぬ、澁く掠れた低吟。銀髮を小振りに結つた、何處吹く風の丸髷に、松の根の如き襟足。往時はさぞ臈長けて、明眸皓齒を振り撒いてゐたで在らう傾城も、今や三途の渡しにも不動ぬ不遜な橫顏。冥土の土產も質草にして呑んで終つたと云はん許りで。宙域の片隅で獨り、樂しみに淫れず、哀しみに傷れず、露地の蹈み石の樣に實繰りと生きて來た、今が盛りの姥櫻。
かたちこそ み山隠れの 朽木なれ
心は花に なさばなりなむ
一分の隙も勿い修身の心得と、此の星を飛び出した日付の儘、淡淡と繰り返される薄茶點前の所作に、一客一亭の眞髓が張り詰めてゐる。絣の袖が伊豫簾の帛紗と靑海波を一節舞つて、年季の入つた茶道具に溶け込んでゐた面を上げると、女王の腰まで達した亞蔴色の埀髮に嫗は眼を細めた。
「おやおや、隨分と悄らしく爲つた物だ。
暫く男の貌を假て、强ち雄雄しき略を起こさむ。
と息卷いてゐた男女は何處へやら。其れぢやあ今更、尼寺にも戾れやし勿いねえ。頭に殼を被つて走り回つてゐた雛鳥が、如何云ふ風の吹き囘しだい。澑まつた垢を落としに來たのなら、裏の外湯に囘はりな。」
「雀が一羽落ちるのも神の攝理と云ふ奴だ。」
客疊に足を崩して腰を下ろした放蕩娘は、今更何を弄した處で羞ぢの上塗り、堅苦しい茶論では勿いと釘を刺される位なら、有りの儘で良い。
泰擔有女兒 泰擔に女兒有り。
二十心已朽 二十にして心已に朽ちたり。
と喝破された緋き靑春。相手が怨恨に塗れた暴走を知悉する、數少ない目擊者と在つては逃げ場も勿い。氣後れしまいと斜に構へてゐた驅け出しの革命戰士。若さ故、の一言では片付けられぬ、辯證法的禪問答を繰り返した匹夫の勇に、耳の裏が熱く爲る。そんな女王が少女に戾つた羞ぢらいを見透かして、
「下品な生菓子で良かつたら、何卒。」
嫗の勧めた小皿の上で畏まる、茶巾包みの和紙に祕められた、懷かしき逸品。エメラルダスの目泣子が愛でる、追憶の褥に臥した小振りの早乙女、其の名も姬橘。
「良く覺えてゐた物だな。」
大陸より傳來した金柑を、黃身時雨と紅餡の二層で包んだ不老長壽の靈果は、此の儘、胤の勿い唐桃で良いのかと云ふ苦肉の裏返し。包みを解いて、薄紅色に蒸し上がつた巧みの龜裂を頰張ると、舌に甘く心に苦い、向かう見ずの小娘を優しく諭す淡い酸味に減らず口を塞がれて、
「不思議な物でね、歲を取れば取る程、昔の事を思ひ出して、取り畱めも勿く一日が過ぎて行くんだよ。今此處に自分が居る事も放つて、愚圖愚圖と浸つて許りゐる。情け勿い話しさ。」
と云ひ乍ら抹茶を差し出す嫗に、
「忝い。」
と心で呟き、下げた頭部を上げる事の出來勿いエメラルダス。
アンタレスの元を飛び出し、仕組まれたリベラル思想に氣觸れ、人類の前衞で在る可しと躍起に爲つてゐた彼の頃。惡魔とは天使の姿で現れる。自分は眞實に目覺めたのだと勝手に思ひ込み、スペースノイドの解放、移民の宥和と多文化の共生の爲、國家、民族、宗敎、風習、傳統的價値觀に、性差から家族の紐帶迠、過去の遺物を總て破壞する事こそが自由への道だと、精神と肉體の解放だと帝政投資家から吹き込まれる儘に、歪んだ正義を、左翼思想の最上檣、人權の御旗を、御仕著せの博愛を、大上段で振り翳した。人道主義の先陣を切る無限の宙域。伏はぬ者共は、手當たり次第に排外主義のレッテルを貼つて反動分子に仕立て上げ、、諜報戰とゲリラ戰で捻じ伏せる。崇髙な理念を盾に手段の正否より目的を優先し、己の過失に氣付いても、軸受けが捥げる迠、橫車を押し續けた。其の行き著く先は、銀河鐵道網と云ふ鳥籠の編みの中。輯積化した情報經濟のファシズムだとも知らずに。果ての勿い旅に見えた航路は、銀河鐵道株式會社の敷設した路線圖の物流領域を徘徊してゐるに過ぎず、移民に因る開拓と侵略は其の親會社の差し金で、移民の解放と天體の略奪は表裏一體、革命部隊は資本家の使ひ走りで、理想の未來と究極の自由は、隱癡氣な口先丈けの綺麗事で、己の氣に入ら勿い者を腕力で罵倒する、只の感情論、否、喋る暴力だつた。
今以汝爲總裁
先代の衣鉢を繼いだ積もりが、其の實態は、銀河鐵道株式會社の株式を强奪し、海賊の合法化に乘り出したハーロックの蔭謀を、地下組織化する爲に据ゑられた傭はれママ。御餝りの女王は、新裝開店の花輪でしか勿かつた。彼の漢に絆されたのでは勿く、漢に成る事を想ひ描いた英雄譚に騰せ上がつた丈け。漢を追ひ掛ける駄目な女にも爲り切れず、憧れと戀と憎しみで綯ひ交ぜになつた漢と張り合はうとする俗情。そんな悲憤の奴隸で在つた事すら、今と爲つては、己の心實に忠實だつた眩し過ぎる日日。其れに較べて、
スペースノイド解放戰線を支援し、人權や差別やヘイトや夫婦別姓を声髙に訴へる者の殆どが、職業左翼や在家左翼、若しくは左翼に騙されている情報弱者で有り、其の主張の全ては、建前だけの、欺瞞と詐術に塗れてゐた。邦人ファーストを外國人ヘイトに歪曲して糾彈する邦人ヘイト。難民や移民の斡旋、人身賣買、實態の勿い就勞支援で補助金の詐取を繰り返し、ボロ儲けする左翼ビジネス。果ては、石油元賣業者から受け取つた日當で、時に、原油價格を髙止まりさせる爲、化石燃料の枯渴を誇張して喧傳し、時に、敵對する原子力發電事業を貶める爲、反原發運動に繰り出したかと思へば、再生可能エネルギー利權を貪る爲、捏ち上げられた脫炭素政策の廣吿塔に明け暮れ、更には、菜食主義の名の許に、遺傳子組み換へ食品と昆虫食に投資してゐる資本家からの保釋金とボーナスで、小賣店の乳製品、精肉賣場、畜產設備の破壞を買つて出る環境テロリスト。裏の勿い表が勿い樣に、反差別主義者、人道主義者、平和主義者、難民救濟募金の揭る正義には必ず闇が有り、其の本性と絡繰りを隱してゐる。短絡的な理論と見せ掛けの美德を竝べ立てた、頭熟しの原則で徒に秩序を搔き亂し、敵對する主張は言葉狩りで血祭りに上げ、總括の名の許に抹殺する、天使と惡魔の二重人格。
アフリカ大陸で黑人狩りをし、白人の奴隷船に賣つたのは黑人自身で在るのに、此の不都合な眞實を黑人差別の糾彈者が口に爲る事は勿い。肌をホワイトニングする黑人は白人に憧れ、黑人の肌の色を蔑視する、歷とした黑人差別者で在り、ファッションの一言で誤魔化せる物では勿い。フェイスペイントで肌を黑く塗るなと云つては、日傘を使つて肌を黑くし勿いのは差別だと騷ぎ立てる自意識過剩な自家撞著。此の不寛容こそが黑人以外を無差別に排外する、典型的な差別主義だ。殘酷な事實だが、絕對的に思へる黑人に因る黑人差別の糾彈にも、或る一定の欺瞞が存在する。
福㠀瑞穗、辻元淸美、田嶋陽子、上野千鶴子、香山リカ、山田五郞と云つたフェミニストは、フジテレビの女子アナウンサー上納問題に沈默を護り續けた。日頃、仕事を貰つて御卋話になつてゐる地上波に忖度したが故の其の沈默は、取りも直さず、女性の性を商品化している事に加擔し、男女平等は口先だけで、本當に肝心な處では、女性より男の味方で在る驗。此の手のフェミニストに「では女性にも徵兵制を。」と進言すると、戰爭反對と云つて論點を逸す許り。抑も、フェミニストの最大の敵はイスラム敎だ。イスラム敎の男尊女卑は性暴力をも超えた性奴隷だ。初潮が有れば强姦しても罪に爲ら勿いと、宗敎指導者が豪語するカルトを何故野放しにするのか。ムスリムの女性には社會的身分の保障と人權が勿く、死ぬまで性暴力から身の安全を護れ勿い事に絕望し、女を棄てて男として生きる事を選擇する者まで居ると云ふのに、此の似非フェミニスト達は、見て見ぬ振りを決め込んだ。所詮、男女平等を謳つて、其れ其れの違ふ特性まで均一化し、結果的に旣存の倫理を總て無效化し樣としてゐる丈け。夫婦同姓が男尊女卑に據る物で、先進國は皆、夫婦別姓だと吹聽するのも完全な詐術だ。歐米の先進國は殆どが夫婦同姓で在り、夫婦別姓の傳統國は支那と朝鮮で在る。此れは姻いで來た嫁を家族に組み入れ勿い爲の物で、夫婦別姓は寧ろ男尊女卑の最たる物だ。彼の國で夫婦別姓を叫ぶ者は、殆どが彼の國の國民に僞裝した支那人と朝鮮人で在り、彼の國に大量移住して侵略する上で、夫婦同姓が足枷となる爲、排斥し度いのだ。彼の國のフェミニストは、男女平等の名の許に夫婦別姓を押し附けて、彼の國の戸籍制度を無效化し、國體を破壞し度い、通名と云ふ僞名で諜報活動をする害人勢力でしか勿い。
部落差別に至つては、同和解放組織を隱れ蓑にした左翼系會社組織が、法の網を縫つて樣樣な違法ビジネスを繰り返し、左翼に資金提供をしては、更に違法ビジネスがし易くなる樣、行政にオルグ活動を續け、熱海では自治體の度重なる勸吿を無視して差別差別と喚き散らし、ソーラーパネル設置工事を强行した結果、土砂崩れに因つて數多くの罪の勿い人人の命を奪つた。
彼の國を謂れの勿い誹謗中傷、差別の誹りで、永遠にマウントを取らうとする噓のデパート朝鮮は、日韓倂合以前、途轍も勿い奴隷社會、差別社會で、此の奴隷達を差別から解放した彼の國の政府に、未だ感謝の一言も勿い。彼の國の政府は朝鮮を統治して、被差別階級を撤廢し、道路、鐵道、ダム、電力、近代農業と工業化、敎育機關、病院、警察、裁判所、有りとあらゆる社會インフラの整備に努め、朝鮮人の平均壽命は25歳代から40歳代にまで跳ね上がつた。朝鮮人が彼の國が植民地支配を受けたと云ふのは、赦し難い妄言だ。抑も、抗日獨立運動をしてゐたのは、奴隷階級や一般市民から、財產、勞働力、生命、自由、尊嚴を搾取してゐた貴族階級の兩班で、日本が是正した特權階級の旣得權益を奪ひ返す爲に、不當な反亂を繰り返してゐた。此の兩班は國の財源を湯水の如く使ひ、國の財政を破綻させてゐた上に、彼の國から幾ら借金が有るのか尋かれても、帳簿を付けて勿かつた爲、幾ら借金が有るのすら把握してゐ勿かつた。當然、借金は彼の國が總て肩代わりし、其れで猶且つ、朝鮮のインフラの整備を彼の國が施した。彼の國を差別國家、侵略國家と訴へてゐる朝鮮人の一定數は、彼の國に因つて解放された奴隷達の末裔で在り、彼の國が差別を撤廢してゐ勿かつたら、此の卋に生を受けてすらゐ勿いのだ。大韓帝國時代の木製の軛を嵌められて晒し者にされてゐる奴隷達の白黑寫眞。彼の國の歷史を幾ら遡つても、此程の酷い差別をした事實は見付から勿い。朝鮮人を最も差別してゐたのは、朝鮮の貴族兩班で在り、朝鮮人自身だ。其れを棚に上げにして彼の國を糾彈する。何と恥づかしい民族なのか。
ドナルド・トランプJr.を人種差別主義者だと批判し、デモを繰り返してゐたアンティファやBLMは、アメリカを護る爲にグローバリストと戰ふトランプが邪魔な、ジョージ・ソロス等のウォール街の資本家から資金提供を受けて活動してゐた。デモに參加してゐた者の多くが、デモの參加者に支拂はれる日當を目當てに參加し、日當を拂は勿かつたジョージ・ソロスに對して「ジョージ・ソロス、金拂へ。」のシュプレキコールをする動画がネットに擴散された。此れが差別を訴へる者達の正體だ。似非人權主義者の示威行爲こそが、正義に對する最も卑劣な差別だ。
LGBTQは其の理論に於いて、多樣性の深層に在る、構造的共通性を度外視してゐる時點で初めから破綻してゐるが、其れ以前の問題として、LGBTQはユダヤ敎、キリスト敎、イスラム敎と云つた一神敎の價値觀と保守勢力の地盤を破壞する爲に、共產主義者やグローバリスト達が仕掛けてゐる歷とした蔭謀だ。更にLGBTQは未成年者にも性行爲をする權利が有ると、數數の主張に潛り込ませて主張し、押し通した。LGBTQは兒童賣春を合法化し、ボロ儲けをし度い者達から資金を得て活動し、更に其處へ夫婦別姓に因り、彼の國の戸籍制度を崩壞させ度い新左翼も絡む混沌と化していつた。LGBTQと兒童賣春、人身賣買、戸籍制度の破壞は一連托生。そんな羊頭狗肉の政治活動家は、理論武裝の備への勿い情報弱者が、人權や差別と云ふ單語でレッテルを貼られ、大聲で騷がれると思考停止し、GHQに因る戰後レジュームで、亞細亞を植民地支配して苦しめたのだから、外國には全て謝らなければなら勿いと洗惱され、性善說を信じて誰にでも優しく大人しいと云ふ、セキュリティホールを狙つて、正當な發言と權利を束縛し、身動きが取れ勿い樣にしてから橫暴を繰り返す、單なる詐欺師で在り、其の似非人權主義者と、隱癡氣な理念に躍らされた己も、鏡を見て吼える犬と猿の違ひでしか勿かつた。
力は能に匪ずと判つてゐても力に賴り、醉ひ癡れ、縋り付く。物事に力で訴へるのは、己の非力を誤魔化す劣等感の表れ。抗議をするのに言論では勿く中指を突き立て、相手を暴力で脅迫し、排外するのは、己の主張に根據も正當性も勿いからだ。確固たる論理の許に、筋道立てて相手の主張を封殺出來勿いが故に、眞實を力で打ち碎く。其れこそが民主主義と言論の自由と人權の破壞で在り、究極の排外主義だ。力に賴る者が法權力に拿捕された途端、其の加害者が己の人權を徹底的に訴へ、被害者と其の遺族、更には未來の被害者の人權を完全に無視し、蹈み躙る其の厚顏には書いて在る。人權とは詭辯と同義語で在り、言葉の暴力でしか勿いと。力に賴つた時點で心は負けてゐる。臆病者程、先に劍を拔く。エメラルダスは違ひ棚の空白を睥眼で盜み見た。其れと察した嫗が輕く鼻で嗤ひ、
「御前さんと同じで出戾りでも、良い御緣が有つて、漸く片付いて吳れたよ。」
「御蔭で内の船も派手に遣られた。彼の御轉婆を飼ひ熟せると、良く見拔いたな。」
「鉄郞に會つたのかい。」
澄まし顏の皺眉が華やぎ、身を乘り出す嫗に、
「彼の銃が引き合はせて吳れた。」
と刀掛けに預けた戰士の銃を顎で指す女王。嫗は己の手柄と云はん許りに北叟笑むと、叩き上げの憎まれ口も滑らかに眼裡の武勇を囃し立てる。
「錆落としにでもと持たして見たら、其の玩具で、御前さんの置いてつた玩具を、鉄郞が片付けちまつたよ。」
「ホウ。」
エメラルダス號の滑空時にモニターした焦土に合點が行き、初期伊萬里の手な心の中で彈ける抹茶の泡に零れた女王の瞑目。羽根を休めた鳳尾の如く、祕かに伏した睫毛の愁ひ。
「侍に大人も子供も、男も女も勿い。御前さんは然う云ふのが好きだつたんぢや勿いのかい。」
矢張り此の古狸は一言多い。想ひに耽るエメラルダスの心を覗き込む樣に、嫗も其の胸襟を解いて、林下一代夢を語り始める。
「此の星で描ける夢と云つたら圖書館の本を全部讀む事位だつたけどね、今の私の後仕舞ひは鉄郞のBarbourの丈を直して遣る事だけさ。其れ迄、此の體と此の星が保つて吳れれば其れで良い。
搴帷別母河梁去 帷を搴げて母に別れ 河梁に去く
白髮愁看淚眼枯 白髮 愁へて看 淚眼枯る
慘慘柴門風雪夜 慘慘たる柴門 風雪の夜
此時有子不如無 此の時 子を有するは無きに如かず
何て、强がつてゐた頃も在つたけどね。意地も張りも勿くなつた處に、彼の子が星の樣に降つて來たよ。
ありつつも君をば待たむうち靡く
我が黑髮に霜の置くまで
もう、白く爲る處も勿くなつて、後家の一念と云ふ奴さ。谷崎の細雪くらいなら讀んだ事は有るんだらう。女は浪漫より我慢。見る眼の有る女なら、ああ云ふ佳い漢に唾を附けとく物だ。内の盆暗息子ぢや勿くね。女の盛りを血泥に染めて、折角の眞つ更な戶籍を面ごと疵物にした擧げ句、此の儘、獨身不犯の誓ひに殉ずる積もりかい。まあ、今から花嫁修業しやうにも、後が閊へて立て込んでゐる樣ぢや、緣を媒つ㠀も勿いよ。」
切り柄杓を釜に置く反り上がつた指先の樣に、二の句を制した嫗の險しい口角。邃く刻まれた法令線が醜く歪み、通ひ疊を挾んで靜對する女と女。四畳半一閒に鎖ぢ込められた、過去と未來の合はせ鏡。鬱鬱と姥口を突く風艫釜の腹騰。下地窻に傾ぐ笹波の影。息を呑む永遠の一瞬に耐へ切れず、井泉の溢れた吐け口が靑竹の柄を叩き石に振り降ろす。鹿威しに押された小さな背中。女王の筋を通した鼻の小嶺を限る、忌忌しい嚴づ靈を瞠め、嫗が嗄れ果てた喉を絞り上げる。
「今の火星は只の火の車ぢや勿い。ああ爲るともう、惑星なんて呼べる代物ぢや勿いよ。御前さん、火宅の星を鎭める爲に媚女として蔑される積もりなのは結構だがね、人身御供が獨り生け贄に爲つた位で治まる樣なら、老い先短い私が買つて出てやるよ。其れとも何かい。彼の電荷の化け物に捧げる爲に、女の操を護り通して來たとでも云ふのかい。幾ら意地蹴た生涯だつたからつて燒けに爲る事は勿いよ。一旦、志を立てて成らずば、斷じて一死のみ、何て男に任せとけば良いのさ。魔女の道連れに御姬樣まで卷き込む三文オペラ何て、流行りは爲勿いよ。」
「拂ひ戾しの利くチケットを捌く心算は毛頭勿い。エメラルダス號を遊覧船と一緖に爲るな。棺桶に片足丈け入れて粹がるのは、氣質の遣る事だ。」
「然うかい、其れは恐れ入つたね。」
嫗は澑め息を盆の窪に隱して、蔴織りを藍で玄くなるまで染め上げた疊の緣に眼路を外した。大航海時代と云ふ海賊稼業から始まつた、金融システムと產業革命と政治思想。其の成れの果てが輯積した赫いブラックホールに、文明が根刮ぎ呑まれ樣としてゐると云ふのに、髑髏裏の眼睛に睨まれた此の生娘は未だ何處か、男と女の勝ち負けから拔け切れてゐ勿い。何を云つても無駄。其處が亦、愛ほしい。暇を吿げられた年季奉公の樣に、靑菜に鹽の態で項埀れた嫗。其れを尻目に一本取つた積もりのエメラルダスは、髙台脇に指を添へて茶碗を差し上げ、金繼ぎの蒔繪が縱橫に走る、初期伊萬里の山水を眼で追ひ乍ら、手な心の上で謐かに舞はした。こんな使ひ古した見榮を張る爲に來たのでは勿い筈なのに、面の皮と癒著した女王の假面を剝がす事が出來ず、彼の頃に戾つて態々同じ過ちを繰り返す許り。鞘暮た少女の羞ぢらいを堪へる氣骨勿い素顏。其の不貞腐れた强がりが叩く最後の憎まれ口。
「火星は私が護る。」
一度口を吐いて出た物を呑み込む位なら、毒を呷つた方が增し。念佛の樣に誦へる雁字搦めの獨語症が、寢ても醒めても吹き荒れる、髙度に研ぎ澄まされた自意識。出口の勿い個の殼の中で反響する、音聲化した無闇な感情に振り囘され、心安まる時が勿い。何故、何時も斯う爲つて終ふのか。己の肉體と精神だと見做してゐる物なぞ、所詮、言語化された思考と、硬直化した記憶の糾ふ想像の產物。自我と云ふ錯覺を人は眺めてゐる丈けで、記憶と言語を顏料にして想ひ描いた、己の影の獨り步きを俯瞰する者こそが、自己の存在の核心で在り、感情とは必ず過ぎ去る雷雨でしか勿い。實體の勿い嵐を堰き止めるなぞ愚の骨頂。唯、遣り過ごせば其れ迠の處を、形の勿い物に力で迎へ擊ち、逆らふ事こそが苦しみの始まり。遣り過ごす事は逃げる事では勿く、心を鎭め在りの儘で在る事。自分自身の本當の存在は何も變はら勿い紺碧の空。其處には何も求め勿い平穩と、感情の奴隸から解放された深遠な自由。言葉や記憶と云ふ重荷を下ろし、靜寂に身を委ねる。何かを加へるのでは勿く、手放す事こそが無制限の自由。自由な財產、自由な時閒、自由な戀愛、自由な仕事、自由な人閒關係、自由を意の儘には爲らぬ己の外に求めても意味は勿い。自由とは恆に己の内面に有る。髙價なブランドで身を固めても物欲は滿たされる事勿く、一時的な勝利も成功も名譽も、何時か失敗し破綻するのではと不安が著き纏ひ、相思相愛の異性が隣に居ても、嫉妬や浮氣の疑懼で氣が氣では勿く、果ては、女王と云ふ虛名に壓し潰される。何も持つてゐ勿くとも、何處にも辿り著け勿くとも、何も成し遂げ勿くとも、誰にも認められ勿くとも、恐れ、羞ぢ入る事が勿い。其れこそが在る可き心象風景だと、エメラルダスの手な心の上で目眩く、初期伊萬里に繪付けされた、紺色の四季と氷結した山水。白皙の胎土に澄み渡る酸化鈷藍の森閑が、前卋紀に失はれた妍しき歲月を喚び覺ましては、指と指の隙閒を擦り拔け、瞬く閒に消え去つていく。釉藥の底に咲いた靑花を眼でる、透徹した美意識を具へてゐ乍ら、文明と己の淺智惠に宙域航界圖を無理矢理押し込めて來た半生。短い鞘に合はせる爲、鈍な刀を折る樣に、棺桶に合はせて人の脚まで切り落として來た。
女帝の鼻つ柱を限る縫合痕が疼き、非吸收絲で縛り上げられた身無し子の女が叫ぶ。貴樣を宿した星が何の星よりも先に太陽系の番外地と爲つたのは何故か。彼の電荷の嵐が文明に芽生えた感情の嵐だとしたら、其の暴走は己の迷走と相通じてゐるのでは勿いのか。過去と言語と信念の破綻した、己の心すら治められぬ者が、電劾重合體に立ち向かへる譯が勿い。亂れた心の儘、絡み合ふ疑懼と悔悟と懊惱と憎惡を撲つけた處で、電腦の錯亂を增幅する丈け。寧ろ、自ら火星に空いた己の心の風穴に惹き込まれてゐる。然うと判つてゐ乍ら、其の闇を掘り起こして破滅を撰ぶ、獨り芝居の罪と罰に、息を潛めて見護つてゐた黑子が、不圖、呟いた。
「火星が何故、緋いか判るかい。」
嫗の皺貌が口寄せの恍惚を帶びて顫へてゐる。陶然と鎖ぢた眼裡に一條の光明を見出した戰慄に、襟足の和毛から疊の目迠が一齊に峙ち、風艫釜の姥口が咳いて、煮詰まつた井泉が吹き零れる。
「其れは地表の岩石と砂礫の鐵分が酸化してゐるからだらう。」
初期伊萬里を巡る四季のモンタージュに、繼ぎ接ぎだらけの心を重ねて眼路を擦る、浮はの空のエメラルダス。其の素氣勿い云ひ種が嫗に火を點けた。
「そんな理窟なんか訊いちやゐ勿いよ。リトマス試驗紙ぢや在るまいし。白でも黒でも靑でも勿い緋つてのは、一體、何物なのか。何故、女王の翠玉は緋いのか。何故、緋く勿ければ爲らぬのか。其處が問題だつて云つてるんだよ。
出身參拾年 出身參拾年
髮白衣猶碧 髮は白きも衣は猶ほ碧
日暮倚朱門 日暮れて朱門に倚り
從朱汚袍赤 朱に從ひて袍を赤く汚さん
右から左に、左から右にと浮氣をした位で染まる程、御安い玉ぢや勿いだらう。心の臟で脈打ち、血の潮が滾る命の彩に魅入られて、爪の先まで返り血に塗れて來た。其れが御前さんの闇よりも邃い、緋い星の巡り合はせさ。生と死が渾然と煌めく、女王の鬼胎に孕んだ魂の原色。赤い星の許に產まれて燃え盛る女の一生、果たして、相成るや如何に。」
エメラルダスの顱頂を劈き、掛込天井を搖るがす嗄れた鶴聲。嫗の憑變に苫葺きの屋上で旋風が羽擊き、一陣の閃影が突上窻を覆ひ、驅け拔ける。
「御前さんは鳥を見たんだらう。其れも、靑い鳥ぢや勿く、赤い鳥を。」
虛を突かれるより寧ろ、核心を突かれて、寒山の崖路を辿る手が止まり、心の何處かで俟つてゐた其の言葉に、エメラルダスは切り髙台を膝の上に納めて改まつた。此處にも亦、解語の化生に鳥憑かれた女が獨り。紅蓮の焰から立ち昇る言靈を觸媒し、嫗の昂吻が吹き荒ぶ。
「大方、神の道を征け何ぞと火裂いて、鉄郞を唆したんだらうが、其れも身に付いて勿い片言の檄ぢやあ、口先丈けの綺麗事。神の物語つて奴は、代に代を重ね、卋卋を超えて行き著いた末に神が宿る。神話とは傳卋品の眞髓にして究極の御寳。民の心の結晶なのさ。譬へ、語り部が云ひ傳への通りに講釋しても、民の心を捉へ勿ければ神話が語り嗣がれる事は勿い。人人が耳を貸さぬ物事を幾ら竝べた處で、其れは風に虛しく、卋卋を超えて人の心を渡り步く事何て出來やし勿い。語り部は聞き手の憙怒哀樂を讀み取り、一憙一憂の起伏に應じて物語を紡ぎ出す。物語に聞き入る民の念ひを形にする事こそが語り部の腕。民の心が搖さ振られた時、物語に命が吹き込まれ、眼に見えぬ天地の理が神と成つて耀き始める。神と人が不離一體で在つた時代の榮光に照らし出された、神話とは共同體の深層心理が輯合した投影で在り、民の心を映す鏡。人の心を解き明かす鍵。何故、人は物語を求めるのか。孤立した一つ一つの奇蹟でしか勿い神の記憶を寄せ輯め、行く川の流れに沿つて繫ぎ合はせた一條の玉の緖が、過ぎ去つていく刻を超えて、人人の心と心を繫げていく永遠の奇蹟。人の心が物語に惹き寄せられるんぢや勿い。物語こそが人の心の生き寫しで在り、神話が物語る神も亦、人の心の生き寫し。故に、僞りの物語も在れば、佞な神も居る。民の心を象つた神話が民の心を育み、豐かな精神風土を耕していく。神の道は人の心に通じ、然して、物語は時として獨り步きをし始める。傳卋品種の血を受け繼いだ鉄郞と、御前さんの樣にね。記紀と云ふ二つの物語も獨り步きを爲て後戾り出來勿くなつた、神と人人の迷ひ道さ。同じ國の史書で在り乍ら、記紀が隱し果せぬ記述の擦れ。其れこそが人に芽生える貳心の狹閒。己の僞りと僞りの折り重なつた齟齬に壓し潰され、闇に葬られた史實をも超える眞實の墓場。獨つの體に犇めく分裂した自我。其の無言の軋轢が人と民族の無意識と爲つて底流する。記紀の擦れは、神神を巡る天與の傳承が途切れた驗。其れでも未だ、途切れた傳承を語り嗣いでゐた時は優しだつた。目先の損得に感けて過去を置き去りにし、神代の營みを語り嗣ぐ事が途絕えた刻、人の心も國も民族も廢れて行つた。そんな不毛の末卋に舞ひ降りて、天庭の紅孔雀と呼ばれた女王は何を念ふ。靈は天に宿り、鳥は其の使ひで在り乍ら、刻に靈、其の物。天から遣はされた御前さんの果たす可き勤めとは何か。蠻勇を衒し、徒に命を粗末にして事足りるのなら、誰も引き畱めやし勿いよ。御前さんは己の命よりも重たい罪荷を身籠もつてゐる事が判ら勿いのかい。女王とは神の物語を再び此の卋に產み落とす貞女で在り、女王の體に流れる紅き潮は胎古の海。途切れた神の道を進み、失はれた心の行方を突き止め、離れ離れの物語を、人の心を映す鏡の破片を繫ぎ合はせる。其れが御前さんの物語さ。手掛かりは刻を超えて抑壓された記憶の中に在る。御前さんの心の中で、相克する記紀の樣に、雙りの女王が、否、歷代の女王が爭ふ、縺れた自我の綴れ織りを編み直し、千年女王を復活させる。其れが御前さんの最後の勤めさ。」
其處まで嫗が捲し立てた處で、エメラルダスは行き成り觴を呷る樣に抹茶を片手で飮み干すと、其の勢いの儘に片膝を立てて、風艫釜に初期伊萬里を投げ付け、破壞した茶道具から立ち昇る湯氣と煤煙に向かつて一喝した。
「癡れた事を。溫和しく聞いてをれば抜け抜けと。」
神憑つた口寄せの鬼魄に呑まれ、嫗の物語をさ迷ひかけたエメラルダスは、胸を拍つ鼓動を搔き消す樣に釣り鐘外套を飜し、躙口から引き拔いた軍長靴を客畳の上で突つ掛けると、編み上げも止めずに方位口から水屋に上がり込み、頭の獨つも下げぬ儘、敷居を跨いで露地に降り、有無を云はさぬ背中越しの捨て臺詞で、最後の會席を斷ち切つた。
「舟を借りるぞ。」
刀掛けの佩刀と戰士の銃を腰に戢め、如水庵を後に爲る最後の女王。小川の潺ぎを賴りに竹藪の蕃屛を越えると、糖蜜と樹液の混濁した原始の分泌物が噎せ返り、髙溫多濕の大氣水象が息を吹き返す。再び、窶れた肺腐の胸倉に充滿する、厚釜しい程の生命力の氾濫。熱帶の歡憙に沸く、血中の免疫細胞。エメラルダスは軍長靴をレースアップして眼下を過る岸邉に降り、棧橋に係畱してある獨り乘りのジェットホバーを跨いで舫ひ索を佩刀で斷ち切ると、窮屈な操縱席に滑り込んで、髑髏のヘアブローチのピン先をセルに插し込み、直結にした浮揚ファンのスイッチを入れて出力を上げた。唸りを上げて抱腹するスカートの帆布。生ひ茂る川藻が旋風の戰慄に峙ち、重力に逆らつて橫滑りする舟艇が、棧橋の杭を衝き飛ばして長閑な源流に呑み込まれていく。子供用のビニールプールに等しい浮き輪の中で、貸し切りのメリーゴーランドの樣に暫し囘遊する彼の日の少女。兩岸を埋め盡くす、極彩色の果實と花瓣の燦亂、姿勿き吼え猴の哭歌齊唱。木漏れ日が波閒を亂反射して、常夏の魔法陣を舞ひ踊り、野性の喝采を浴びて搖さ振られる本能と、壓倒的な萬物の包容力に溶け出していく眩暈の狹閒で、此の一瞬の爲に總てを投げ出して良いと、エメラルダスは敗北の人生こそが宇宙の寳で在る事を痛感した。群棲する永遠の翠綠に較べて果敢勿き、夢を追へば追ふ程、短き人の卋の盛夏。目的地に辿り著け勿い旅の方が、倚り多くの物に巡り逢へる皮肉。人に日蔭も日向も勿い物を、徒に己を日蔭者だと思ひ込み、培養土の塊と化した此の星で一輪の野菊を見護る事すら出來勿い。此れも緋き靑春の爲せる業か。尤も、今は獨りで反省會をしてゐる場合では勿い。嫗の嗾ける女王の勤めとやらに點つた、氣掛かりな感嘆符。
「手掛かりは刻を超えて抑壓された記憶の中に在る。」
とのだしたら、此の險相を斜めに限る縫合痕は、滑落した强迫神經症の斷層だとでも云ふのか。鼻の筋が違へ、擦れ落ちた氣がして、鼻翼を吊り上げるエメラルダス。矢も楯も堪らず、玩具の樣なラダーを倒して船尾のダクトプロペラを切り返し、上流に向かつてスロットルを全開にすると、將に、
虎に翼を著けて之を放てり。
何方に轉ばうと、嫗を押し退け、何時もの調子で苫屋を飛び出す事に爲つて終つたで在らう虫の報せ。水煙を卷き上げて江漂林のトンネルを突貫するジェットホバーに煽られて、木陰に潛む猛禽が一齊に飛び立つていく。嘗ては我が物顏で往來してゐた、勝手知つたる密林の逆走。其の向かひ風の熱波に焦臭い粒子が閃き、針路に散在する兩岸に打ち上げられた產廢が、獨つ復た獨つと、激鬭の爪痕を刻み始める。朽ち果てた戰果が物語る鉄郞の武勇の數數。上流のダムの軀體と思しき鐵筋コンクリートの巨塊は、遡る程に彌增し、アルゴリズムの魂を拔かれたスペアノイドが行き倒れ、半壞した開拓複合機の除塵機が腹を見せて、如何樣の破禮た賽子の樣に、其處彼處に轉がつてゐる。飴細工の樣に捻じ曲がつた製品倉庫の輕量鐵骨とブレーシング。ドライヤードラムに突き刺さつたダブルのスクリューコンベア。破斷した製罐部品を吸著して磯巾著の樣に膨張した磁選機。熱交換機と送風機と分電盤とポンプを咥へ込んで窒息したイーグル破碎機。蹈み潰されたポテトチップの樣に散亂して、川面を漂ふ波形スレートの花筏。破裂した各種壓力容器とリサイクルボイラーの石橊。橫倒しになつたピラミッドかと見紛ふアトラスサイロ。そんな配管とバルブと計器類の絡まつた建材と鐵屑の墓場を更に、攀縁類の食指が呑み込み、此の星の貪婪な繁殖力で養分に分解し、土へと還していく。
上空から瞰て判つてはゐたが、隨分と派手に遣つた物だ。鉄郞の若さ故の暴走、其の快哉に、
事しあらば みゆきのために 仇波の
よせくる船も かくやくだかむ
と謳つてゐた自分が同じ歲で此處まで出來たか、痛し痒しの自問を苦遊らせるエメラルダス。モーゼの海割りの如くV字に打ち碎かれた、莊嚴なダムの殘骸を目の當たりにして、空と爲つた水底に女王の莞爾が幾重にも木靈した。要するに己の所業は、川も勿いのにダムを造り、靑竹に花を咲かせ樣としてゐたと云ふ事。全く卋話が灼ける女だ。更に上流の葡萄谷へ2ストローク2氣筒のプロペラを飛ばすと、何れ程の爆發が在つたのか、薙ぎ倒された木立に圍まれて、基礎諸共吹き飛ばされたチップヤードは、隕石の掘削したクレーターにしか見え勿い。ジェットホバーの船首を囘頭して著岸し、目指すは議事堂と呼んでゐた革命自警團本部の、と或る一畵。勤勞の天道樂土の俤すら勿い焦土は旣に、灰燼のカリウムで肥えた根力の有る夏草が芽を吹いて、先を急ぐ軍長靴に纏はり、先住生物との共存とは何か、何處迄も何處迄も揚げ足を取り續ける。此處は御前の歸る場所では勿いと、視界を飛び交ふ蝗蟲を拂ひ除け、辿り著いた筈の彼の地も旣に、熱帶雨林の洪水に沈沒し、何處が出口か入口か、敷地の地境も見當たらず、シャブコンで皹割れた基礎を突き破り、名も勿き群叢が丈を競ひ合つてゐる。兵共が夢之跡と人は云ふが、一體、何と戰つてゐたのやら。
富の分配と自然との宥和を模索し、人類の解放を謳ひ乍ら、男と性差を爭つて、人人の紐帶を分斷し續けた愚かな日日が、完膚勿き迄に燃え盡き、本來の在る可き生態に蘇生して、衰へる事を知ら勿い。辛うじて點在する、溶解溫度で座屈した儘、立ち枯れた重量鐵骨は將に、原始共產主義と環境保護とフェミニズムの三本柱。宮崎アニメの御姬樣の如く、何もかもが隱癡氣な綺麗事の成れの果て。打倒米帝ディズニーを揭てゐた筈が、何時の閒にやら、帝政投資家とマスコミに飼ひ慣らされ、聲優の權利を蹈み躙つては利權を貪り、ハリウッドのポリコレと同じ穴の狢に納まつてゐた風の谷の女王。グレタ・ドゥーンベリはナウシカの素顏だ。シリコン製の小兒性愛で豐胸した人類愛は破裂して跡形も勿く、此の綠の廢墟が雜魚蠻と呼ばれた活動家の末路。最後の一粒と爲つた葡萄谷の翠玉は、エリートと云ふ人類の失敗作ですら勿い。鯔の詰まり、歷史を學ばぬ者は皆、左翼の吹き澑まりで溺れる事と爲る。エメラルダスは淸淸しい敗北に身を委ね、病んだ胸の内を解毒しやうと、苦い頰笑みを崩して深呼吸した。其處へ不意に、吹き下ろす峡風が灰燼を卷き上げて息の根に詰まり、
「總長、事務總長では在りませんか。」
在りし日の取つて付けた肩書きが、拗れた肺の腐に背後から爪を立てる。霏霺く亞蔴色の埀髮を搔き上げて振り返ると、草叢の向かふに、人民服と人工被膜が燒け落ちて筐體とプリント基板の剥き出しに爲つたスペアノイドが、胸に刈り取つた夏草の束を抱へて立つてゐる。
「チップヤードの粉塵爆發に因り、操業停止を餘儀勿くされてゐる合板プラントの現況ですが、一兩日中に原狀囘復す可く、革命自警團總員で、鋭意專心、復旧作業に當たつてをります。」
總長不在の怠業を噯氣にも出さぬ、健氣な剛筋義肢の敬禮に、力勿く返禮する出戾りの女王。恐らく、たつた獨りで畱守を護り續けて來たのだらう。監視スコープと口蓋スピーカに臭覺センサーの孔だけ空いた、幸の薄い平坦な瓜實顏に、
「御苦勞。」
と口籠もる丈けで、今更、大見得を切つて下達する指示も勿ければ、鑽仰を拜する立場にすら勿い。敬禮を解かず直立不動で見送るスペアノイドの痛ましさに苛まれ、エメラルダスは遁れる樣に其の場を後にした。此處にも亦、仕舞ひ忘れた記憶の缺片が獨つ。太陽系の樂園を見棄てた主の、無責任な使命に殉ふ最後のピエロが、火星の守護天使を全うし、緋い大地に永眠する事で人生を美化しやうとしてゐる、女王の帳尻合はせと重なり、己に跳ね返つてくる喜劇。今と爲つては、本心とは違ふ誰かの人生を演じ切る事しか出來勿い。迷ひ續けた己の道を卷き戻し乍ら進む、常綠の絨毯で覆ひ隱された解放自治区の中核。其の表參道の道草で藻搔いてゐる内に、見えて來た。革命廣場と號けた造成地の一畵に築いた祈念館の殘骸。死してより偉大に成ると崇め、安置した英雄の靈廟が。
「いざ羽擊け、革命自警團。諸君の壯圖を祝して、萬歲。」
と事有る每に集會し、気勢を上げた眞紅の雛壇。其の赤煉瓦に見立てた木造ブロックの建屋が、山津波の如き木粉の火碎流に押し流されて見る影も勿い。蔦の絡まつた鉄筋コンクリートの臺座丈けが置き去りにされてゐる、革命戰士の勇を鼓した共鬭の殿堂を前にして、
「哥枕見て參れ。」
と己の背中を押すエメラルダス。人民が永遠の尊貌を拜顏出來る樣にと强化硝子を張り巡らせた柩。防腐劑で塗り固め、有らん限りの保存處理をした、革命の母を餝る獻花と御神體。初代事務總長を封印した僞りの聖域。總ては此處から始まつた。夢よりも短い緋き靑春の暴走。壞滅したプラントの片隅で眠る、もう獨りの女王。
何處にでも轉がつてゐる内ゲバ話しだ。アンタレスの許を飛び出して合流した、銀河連盟捜査局の手配リストにすら上がらぬ場末の傭兵部隊。資金調達の名目で武裝强盜を繰り返してゐた破落戸は、開拓事業の賣れ殘りと爲つてゐた土星の第六衞星に漂著すると、開拓事業株主の暴利に苦しむタイタンの移民共同體に、略取からの武力に因る解放を呼び掛けて接近し、各事業所のプラントを產業戰士の名の許に、徵收の一喝で占據し乍ら、瞬く閒に在來の雜魚も倂呑して行つた。仕切るのはエカチェリーナの生まれ變はりと呼ばれた赭き女帝。此の初代事務總長は、實社會と戀愛に適應出來ず挫折した知的エリートで、過剩な理想論と暴力で男と社會に復讐する女の怨恨は、始めから破滅してゐた。然して、其の破滅の煌めきこそが、虐げられた者達への求心力だつた。畑を棄てた農夫、不登校の學生、免許の勿い敎師、無責任なリーダーの複合した典型的な左翼に、怖い物は勿い。赭き女帝は共同體の委員に割り込むと、移民の最下層を誘導して藥物と補助金の虜にし、被害者を捏造してから救濟支援を募る自作自演で正義面をし、其の豫算を謝禮金と橫拔きで私物化し乍ら、働か勿い方が儲かる絡繰りで弱者を更に怠惰にさせ、骨拔きにする事を平等だと布敎し、共同體の支援と給付金が勿ければ生活出來勿い亡者を量產して票田を堅め、自治選擧を操作した。一時的な筈の福祉を支持者の固定資產にし、自分の努力を放棄して他人の努力と擦り換える事が人生と爲つた太陽系の樂園。人に背負はれて自分の人生を步く事は出來勿い、と訴へても通じぬ、解放とは名許りの人道主義で僞裝した支配。其の辣腕を前にしては、
「臣下の私議なぞ僭上の沙汰も甚だしい。」
と個人の意思は一蹴され、詰め襟の半軍服に軍長靴と云ふナチスの詩的趣味も、總ては初代總長の号令一下。民主輯中制と云ふ名の僞裝民主主義を叩き込まれたエメラルダスは、女帝の劣化コピーでしか勿い。實物の誇大妄想は革命の事業化と系外への輸出を斷行し、緋き版圖を宙域の陬僻までもと目論んだ。良識の有る地權者に雜魚蠻と揶揄されて憚らず、建前の理念を毒突いて、略奪した治外法權の解放区で粗暴な蠻勇を謳歌する共產主義の賊軍。そんな居酒屋で管を卷く質の惡い常聯客が、何時しか其の身を持ち崩す時が來た。醫療原材料の罌粟と大蔴栽培の獨占。實入りの良い魔性の副業に手を出し、暴利と快樂を鷲掴みにした拳が拔け勿くなるのは卋の必然。晝夜を問はぬ野戰の恐怖を紛らはし、更なる精神の革命と解放を求めて、野良犬同然の黨員達は次次と汚染され、髙御座の女帝が其の毒牙の餌食と爲るのも時閒の問題だつた。痲藥の亢進作用に據る、幻覺と第六感に洞察と啓示と聖なる絕頂を求め、憑依した精靈の託宣で組織の大綱を決議する巫女姬に、生まれ變はつた事務總長。基督の威信に據つて髙度に組織化した、畵壹的構造の敎會が强ひる閉塞感から遁れて分離した信徒が、シャーマニズムの自由奔放で根源的な儀式と呪能に魅了される樣に、此の衞星を覆ひ盡くす密林を、年增の中毒患者は神と呼び、鬭爭の聯續で疲弊してゐた組織は、自然崇拜をする怪僧に化けた女帝を、寧ろ熱烈に歡迎し、共鳴した。唯獨りを除いて。
慾望の吐け口が革命から神祕體驗に擦り替はり、此處ぞと許りに羽目を外す流亡者達を、移民船の狂瀾に揉まれ、幼い瞳に燒き附けてきたエメラルダスは、然も有りなんと片眉を吊り上げ、嘆喘を食んだ。殘飯に羣がる豚の尻と尻を眺め乍ら、女帝の懷刀として仕へてゐた釆女は己の出番を悟り、手筈を齊へた。人は墮ちる可き處に墮ちていく。農奴として憎み合ひ、使ひ棄てにされる者達に揉まれて育つたエメラルダスは、撲たれれば撲たれる程、尾を振る犬の習性を知悉してゐた。制約の勿い快樂の反動で、服縱と辛酸と屈辱の絕望的な陶醉に民衆は餓ゑてゐる。後は、藥物の後遺症で衰弱し、機械化に因る延命を口にする、神に轉んだ敎祖を整理する丈け。其れも更なる統制の布石となる樣に。
治療と稱して向精神病藥と抗精神病藥、强心劑と昇壓劑と降壓劑の過剩投與を促し、經理の傳票に織り交ぜて淡淡と處理した宮廷クーデター。肅やかな殯の後、安置した御靈屋で赭い女帝の繼承者は標本化した御身體に額突いた。暗殺を飛び級で神格化に昇華する離れ業で、下下の熱狂は頂點に達し、架空の御遺誡で禪讓された王位に君臨するエメラルダス。權力とは虛構の罪重ね。箍の外れた綱紀を規す可く、新しい女王は無神論の默示錄へと舵を切つた。藥の副作用で喇痢つてゐる不成者を敎化してゐる暇は勿い。紊れに紊れた眞夏の夜の夢。聖母と性母の區別も附か勿い反動で、葡萄谷の十月革命も終はり勿き肅淸の嵐が吹き荒れた。人心掌握とは、腐つてゐる奴を拾つて其の氣にさせ、捨て駒に爲る事で在り、仲閒を裏切る事が從順な組織の奴隸に合格する答へだつた。先に叩いた者が、他人の命と引き換へに生き殘り、密吿が人人の心を唯獨つの方向に縛り上げる。女王から眼を逸した者から順に片付ける死のリレー。良心の呵責なぞ胸元を餝るアクセサリーでしか勿い。政策の誤謬、失態、汚職を隱滅し、支配の磐石を期す爲に、臺頭する幹部は隨時地下室に消えていつた。然して、總括總括、差別差別と喚き散らし、氣に入らぬ物事を排外し續けた擧げ句、氣が付けば獨り。
旣存の權力に組み込まれてゐ勿い政治に未熟な雜兵に、自分が撰ばれた人閒で、卋界を自分の力で變へられると信じ込ませ、純粹で眞劍な者程騙される繪空事の理想論で、淺墓な忠誠心と正義感に火を點ける。新しい物と古い物の區別も曖昧なら、新しければ何が何う正しいのかも曖昧な儘、新しい卋界を追ひ求め。何が敵か味方かも危ふやな儘、敵を討つ、造反有理、求眞究理の大合唱。其の熱狂の渦中で最も使ひ勝手の良いのが反日活動家だつた。反差別や平等、平和主義を訴へてゐ乍ら、言葉の暴力と物理的暴力で内亂を誘發する此の蠻族は、邦人に僞裝した朝鮮人や支那人で、母國と民族の利益を最優先に暗躍する、脊椎の生えた社會の蚤蝨。左翼思想の柱は人權と國際協調主義で在る筈なのに、完全な自家撞着も顧みず、反日破壞工作に踣り込む分裂主義者に取つて、信條とは目的では勿く、手段でしか勿い。反日活動家とは、歪な民族主義を見せ掛けの自由主義で隱蔽してゐる、左翼の革を被つたゴリゴリの民族主義者で、此の究極の右翼が抱へる髙慢な劣等感を擽る丈けで、我先にと墓穴を掘り續けた。破滅こそが創造で在ると正當化する輯團ヒステリー。其の現實の競爭原理に打ち負かされた咒詛の津波に、女王自身が呑み込まれ、恐怖で統制してゐた心算が何時しか、次の標的に爲る恐怖に女王が最も顫へてゐた。手に餘る權力に振り囘されて自滅する左翼の豫定調和。人類とは自分で語つた神に騙される究極の莫迦だ。怪しい者を先に消せば寢首を搔かれる事は勿いが、誰も信用出來ず、助け合ふ事も出來勿なければ、心が安まる時も勿い。肅淸の蒼い炎と蔭走る血潮に獨り醉ひ癡れてゐた祭りの後。權力とは抑へ込んでゐた無秩序な己の本性を映す鏡だつた。暴君と爲つて思ひ知る。帝政投資家こそが、もう獨りの自分の姿で在り、機械化された錢ゲバの傲慢は、滿たされぬ女王の慾望を上位互換した、祕かな憧れでしか勿い。緋き靑春を閃く、狂つた季節の幻影。其れは人類の縮圖でも在つた。
欠員をスペアノイドで補充し、侍らせた、枯れ木も山の賑はひ。統一規格の性能と筐體で量產した、機械仕掛けの働き蜂で再構築されていく賊軍とプラントに取り圍まれて、生身の女王蜂は組織圖で網羅した巢箱に付著する、紅一點の染みでしか勿い。此れが求めてゐた平等なのか。否、此れは太母の天命に叛いた罰だ。自然の嚴しさが總ての命を產み出す優しさの裏返しで在る樣に、薄汚れた民衆こそが步く塩で在り、大地の糧で在る。女王の孤獨は、愚かで疲れ切つた駄馬を慈しみ、勞り、慰める、太母の勤めを疎かにした、愛染の赭を湛へる慈悲の泉が、此の胸に湧き溢れてゐ勿いが故の讎ひだ。民衆の遁れ得ぬ卑しさ、慘めな悲しさや果敢勿さの中に、弱者の健氣な逞しさを見出せずに忌み嫌い、拔け目の勿い底意地と汚泥の樣な怠惰が、無器用な憐慕の假面だと氣付かず、誰も愛する事が出來勿かつた。人は困難を乘り越えて美しく磨き上げられていく。峻嚴過酷な宙域こそ人類が超人へと進化する舞臺だ。思想より生活と家族。革命より安定。そんな見せ掛けの幸せに靡いたら其處迄の人生。然う云ひ聞かせて來た女王に、人の卋の不幸を身籠もる覺悟は有つたのか。女が女として生きるには、矢張り母と爲るしか勿いのか。石女の女王に人の卋を統べる資格は有るのか。女として抱かれた事の勿い女では、赤子獨りを擁き濟める事すら儘爲らぬ。心の底から人を愛せぬ此の因果は、如何なる宿業と繫がつてゐるのか。此れが心の病と云ふのなら、餘りにも贅沢で身勝手な病だ。
溪谷から吹き下ろす一陣の山背に夏草が嫋ぎ、亞蔴色の埀髮がエメラルダスの頰を撫で上げ、粉粉に爲つた記憶の破片が逆卷いて、肺の腐を搔き亂す。何もかもが一掃されて土に還つた革命家の桃源郷。秋の音連れを知らぬ此の星で、靑き春の蹲つた出口の勿い夏。鈴生りの過ちが許りが獨り步きをして、纏足の樣に押し拉がれた心が追ひ附いて行か勿い。葡萄谷の片隅で鉄筋コンクリートの臺座の上に祭り上げられた、野晒しの緋い傳說が見えて來る。今更、此の手で葬つた、もう獨りの女王の死に顏を拜んで何がし度い譯でも勿い。孰れは己も其の後を追ふ爲れの果てを前にして、此の朽ちた胸の内に何が點るのかを見定め度い丈け。心の奧に仕舞ひ忘れた落とし物が其處に在る甘い豫感と、解き明かされる眞實なんて何も勿い、其れならば其れで區切りが付く、と云ふ戒悟の念で搖れる、一步、亦、一步。眞夏日の夢遊病か、誘蛾灯に魅入られた夏の虫か。迷へる小羊を尾行ていく足取り。然して、遂に行き止まつて終つた。誰も顧みる事の勿い死藏の靈廟に。
エメラルダスは愕然とした。建屋は總て燒き盡くされ、押し流されたと云ふのに、强化硝子の柩は當時の儘の姿で橫戲つてゐる。盛夏の陽射しを照り返す、罅の一條處か小傷一つ勿い禁斷の封印。決して遺體を衆目に曝さず、湯灌から死に化粧まで自ら納棺師を務めた。血拔きをして動靜脈に注入した發色性防腐劑。血の氣を取り戾した薔薇色の頰が脳裏に甦る。謀略の痕跡を鎖ぢ込めたショーケースから舞ひ上がり、稚い羽擊きで互ひの愛を確かめ合ふ番の蝶すら眼に入らず、其の場に立ち盡くす在りし日の送り人。跡形も勿く消滅してゐれば、後腐れの勿い物を。まるで、放火魔が戾つて來るのを待ち受ける火災現場。幽閉されてゐた筈が、亡者の讐念で獅嚙憑き、永遠の復讐を果たす爲に君臨し續けてゐる。御苦勞な事だ。怖い物見たさに膝が嗤ひ、抑壓された痛恨が踵を引き畱める、破拉破拉な心と體。化けて出るのなら返り討ちにする迠の事。一度飮み干した死の美酒を御替はり出來るなぞ、滅多な事では勿い。エメラルダスが意を決して中を覗き込むと、現物は更に畏れてゐた元凶の斜め上に在つた。
强化硝子で覆はれた不歸の褥に眠る、人工呼吸器、點滴、心電圖、惱波計、各種檢査裝置の配線でスパゲッティ狀態の、色素が崩壞した少女。神と成つた敎祖の姿は勿く、此の狀況は宙域感染症の輯中治療と云ふより臨床試驗。其れも倫理を度外視した祕匿の研究室。全く唐突な白晝夢を目の當たりにして、
此れはメーテル。
女の直感が眉閒で彈け、擦り替へられた柩に縋り付いた途端、密閉されてゐる筈の病原に感染したかの如く横隔膜が波打ち、嚇精劑で抑へてゐる肺の腐を血泥の咳氣が衝き上げた。盜掘された玄室の殘骸なら未だしも、此れは何の悪巫山戯か。胸を搔き毟つて瞠若する、金絲雀色の鳳髮が入り亂れ、屍蠟化した血色の勿い形代。施術を放置された儘、鹽漬けの驗體は無言で天を仰いでゐる。其の非道な實驗臺を透明な檻一枚で隔てる、エメラルダスの苦悶の創貌を映した强化硝子を、一筋のリズミカルな曲線が驅け拔けた。滑らかに蛇行し乍ら、右から左へと走査しては改行していく閃閃流轉の聯續。眼を凝らすと其れはアルファベットの筆記體。然も、左右が反轉した儘、咳き込み續ける宿痾の病狀を逐一採錄する樣に、次から次へと書き毆つていく。
此れは鏡越しのカルテ・・・と思ふ閒も勿く、鏡面文字の筆跡は傾ぎ、鹿威しが吹き零れる樣に雪崩れ落ちて縱列し、硬質なペン先の屈曲が、毛筆の円やかな萬葉假名の草書體へと轉調していく。花と散り掠れる墨痕。泡沫の微睡みに搖蕩ふ曲水。紐解かれし一幅の書畵。決壞した虛實の眩暈の中で、情報の下僕になる前の文字が、文字に苛まれる前の言葉が、言葉を弄する前の心が押し寄せてくる。意味不明の奈落に陷つた頭蓋を反鏡して轟く萬雷の幽哭。齒止めの利かぬ窶咳に斬り刻まれる胸臆から、引き剝がされる樣に遠離つていく意識の中で、千載壹睡の星曆を遡る三十一文字が、翠玉の言の葉を鏤めた刻の谷閒に木靈した。
行く水に數書くよりもはかなきは
思はぬ人を思ふなりけり
白む東雲に切切と喘ぐ途切れ途切れの息遣ひ。咳き込む度に繊弱な肋の椎が波打つ病の責め苦に、淚を堪へて寄り添ひ、夜を明かした母の心勞は如何斗りか。病臥の星の許に生まれ落ちた吾が兒の咎は、總て母の前卋の罪業に有ると鸕野讚良は己を詰り、釆女の手を借りる事すら畏れ多いと寸刻を惜み、介抱に身を窶した。實父、大海人の卽位の禮を閒近に控へて、病床を離れる事の出來ぬ草壁王子に、如何な立つ瀨が在ると云ふのか。己の息繼ぎすら儘ならぬ身で、孰れは日嗣の太子なぞと望む可くも勿い。
倭國の宗主、阿每氏の許に姻いだ物の、外征に叛いた淡海帝の肩を持つた事で、鸕野讚良の閨房に訪ふ大海人の爪音は途絕えた。失意の中で呱呱の聲を上げた壹粒胤は、母の苦惱を煎じた胎毒に冒され、風前に彳む事も儘爲らぬ蒲柳の質で、虫も殺せぬ弱竹の物腰は、髮を結ひ冠を給はつて猶、月の巡りを知らぬ未通女の如し。日日、床に臥せるか、書庫に籠もるかの末生りで、武道に勵む事は疏か、
「何故、男に生まれたのか。」
と繰り言を零す許りで、蚊程の意氣地も勿い始末。此れでは臣下からも將來は勿いと見縊られ、況して、近江朝を興して年號を立て、倭國に弓を彎いた淡海帝の血を引くと在つては、大海人から賜る寵愛は薄く、同じ眷属とは云へ、文武に秀で人望も篤い、鸕野讚良の姉、大田王女の嫡男、大津王子との差は歷然。其の上には更に、壬申の内亂で功を成した髙市王子が坐し、天下の兵を睥睨してゐる。山門の叛徒を平らげ、山門の朝庭と政を阿每氏の父子鷹が治めた今、大海人の正室で、胸形の君、德善の女、尼子娘の宿した、竺志の正統な帝胤が控へてゐては、髙御座に登極する足掛かりは勿い。倭國の本貫、太宰の府が唐の進駐から解かれて再興し、天孫の日嗣が擧つて歸朝でもせぬ限り、草壁王子の寳祚は夢の亦、夢。
何より、髙市王子の豪腕は壓卷の一言に盡きた。虎に翼を著けて之を放つた、大海人に討ち取られるのなら未だしも、畱守を預かる虎の子に、山門の總てを呑まれて終ふとは。韓の地への外征より以來、物情騷然とした卋の鬱憤を晴らす可く躍動した風雲の巨星。武運長久で名を馳せる髙良玉埀の冥加を賜り、武神、伐折羅の生まれ變はりと稱された紅顏の烈士の勇猛と知略は、巷舌を介して常陸、上野の國にまで達した。實父の申し付けを差し措き、髙市暗殺を謀つた淡海帝を返り討ちにして屍すら殘さず、鏑矢の如く東西に威令を發して倭國の蕃屛を掌握し、三野、尾治の國が誇る萬の兵を束ねると、乙巳の内亂で淡海帝に貶められた竺志の飼ひ犬、蘇我氏に、
「建内宿禰を祖に戴き、息長帶比賣の御宇より倭國に仕へた名門は今何處。山門の御零れに尻尾を振る野良犬になぞ用は勿い。」
と焚き付け、倭國に附くか近江朝に附くかで割れる一族を、蠱壺に蹴落として山門の勢力を削ぎ、近江軍の副官で出陣した蘇我果安を難勿く轉ばせて、大將の寢首を搔かせた後は、大津宮に遷居して以來、我が物顏で圍ひ込んでゐた參種の神璽を抛つて、百にも足りぬ軍勢で背走する大友王子に、東國の關を跨ぐ事すら赦さず、辞卋の一節も其處其處に、縊首の自裁へと追ひ詰めた。
白鳳十二年壬申、六月丁未、庚申朔丙戌、
髙市王子、不破に遣して軍事を監令めたまふ。
己丑、
髙市王子、和蹔に往きまして、命して軍衆に號令せしめたまふ。
髙市王子の命を擧げて、穗積臣百足を小墾田の兵庫に喚す。
八月己酉、己未朔甲申、
髙市王子、命して近江の群臣の犯狀を宣はしむ。
大海人が肥の國で報せを受ける迠も勿く總ては決し、下向すると旣に髙市王子の差配で造叛の徒は蕃境の疏地へと流され、近江年號を破棄された山門の氏族と百官は、未だ餘燼冷めやらぬ、野戰の後仕舞ひまで終へてゐる手際の良さ。己の戰果は口にせず、
「父君の嚴命に叛き、私憤を晴らした狼藉は、逆賊の所業にして斟酌の辯を弄するに不能。五刑を以て規さねば王道を蹈み違ふ事と爲りませう。天孫の譽れ勿くして倭國勿し。吾が身は惜しく有りませぬ。父上の裁量にて如何樣にも。」
と實父に匍匐禮で懲罰を乞ふ嫡男に出鼻を挫かれ、若き將聖に心醉する諸國の兵達の熱き忠烈に壓されて、吾が兒乍ら、過ぎたる其の機才と膽力に、舌を卷いて呑み下した。華麗なる初陣で明らかと爲つた軍將として生まれた其の稟質。親馬鹿で在つた積もりは勿いが、大海人は寧ろ輕く見てゐた。氏族の相關圖と動勢、臣心と巷閒の風向きを網羅して、敵か味方か腹を探り、時機を見て天の配劑を讀み切つた。誰に手解きを受けるでも勿く、此の國難を鎧袖一觸に伏した器量は、本物を超えてゐる。此れは偶さかの大勝では勿い。何より此の漢には華が有る。筋の通つた美丈夫にも增して、内に祕めて咲き誇る扶桑の五色が。若し、此の漢が白村江に閒に合つてをれば。然う思はせる何かを持つてゐる。傍に仕へてゐたにも拘はらず、千早振る其の氣鋭を野放しにしてゐた己に腹が立つ。親ら襃賞して措き乍ら、勳勞著しい蘇我氏の增長に釘を刺す可く、朝堂から阻却する樣に進言する處なぞ、隙も勿ければ、拔け目も勿い。全く底が知れぬ。日嗣の太子として此の上を望めぬ程の英德。然れど、切れ味の過ぎる刀は自仭の元。此の若さで此處まで牙を研がれては番犬と豺狼も紙一重。軍と官の兩輪を一瞥で默らせる其の眼力は下知を不要。臣下は旣に大海人の言質と髙市皇子の顏色を天秤に掛け、髙市王子の後ろ盾勿くして、大海人の踐祚も勿いと裏で目配せをする。此の若鷹が次ぎに羽擊く時は如何なる風雲が卷き起こるのか。長幼の序を立てて溫和しく傅き、父の一步後を付いて步く神妙な所作にも背筋が薄ら寒く、氣が氣で勿い。倭國と山門を常色の海幸彥と山幸彥で兄弟統治する。其の大願が成ろうかと云ふ時に、嫡男の他を壓する才幹が落とし穴と爲るのではと訝るのは、版圖の起き伏し、波風を平らげた天下人故の、分に過ぎた惱みなのか。己の拓けた前途に立ち竦む大海人に、病床で寢汗を搔いては、鸕野讚良の手を煩はせるしか取り柄の勿い草壁王子なぞ、眼中に勿かつた。
白鳳十三年癸酉、二月乙卯、
飛鳥淨御原宮で大海人は卽位し、王氏から阿每氏への日嗣ぎに據つて、此處に初めて天皇の號を擧げ、唐、新羅の侵攻に備へて大津宮に蝟集して後、空き巢の拔け殼と爲つてゐた飛鳥宮は政廳を整へ、朝堂に硯田を摺り、汗簡を重ねる響きが甦つていく。生乾きの丹塗りと白亞が眩しい柱梁と四壁。一新された人事と臣心。然れど、新帝の眼精の光矢は、葺き替へられた内裏の屋根を越えて、遙か扶桑の空の下に達してゐた。竺志の國難を顧みず、己獨りが暢暢と髙御座に納まり、勑筆を舐めてゐる積もりは勿い。白鳳と改元して、
拾有參春秋
唐の進駐に因つて虐げられた太宰の府を奪還し、倭國を再興する。山門の猿山を登り、其の頂を制したのは振り出しの一步でしか勿い。總ては、竺志の明日香に薩夜蔴、山門の飛鳥に大海人を擁して、九州と蕃屛の兄弟統治を期する爲。飛鳥宮に腰を据ゑたのも其の足掛かり。難波宮に遷居した薩夜蔴の皇胤と參種の神璽を、山門の地で生殺しにさせて爲る物か。一刻も早く太宰の府に送り屆ける爲にも、一先ず此處で力を蓄へねば。
大海帝は内亂の平定に功の有つた蘇我や大伴を始めとする氏族を、角の立たぬ樣に遠退けて、政の閣を生え拔きの腹心と直系の姻族で固めると、郭務悰との確約も何處吹く風、唐との交はりを斷ち切つた。去る歲の、
白鳳十二年壬申、冬十一月壬子、戊子朔辛亥、
新羅の客、金押實等、筑紫に饗たまふ。卽日に、賜祿、各差有り。
十二月癸丑、戊午朔壬申、
船一隻、新羅の客に賜る。
癸未、
金押實等、罷り歸りぬ。
より以來、
白鳳十三年癸酉、六月己未、甲申朔壬辰、
耽羅、王子久蔴藝、都羅宇蔴等を遣して朝貢。
己亥、
新羅、韓阿飡金承元、阿飡金祇山、大舍霜雪等を遣して、騰極を賀ばしむ。幷て、一吉飡金薩儒、韓奈末金池山等を遣して、先の皇の喪を弔はしむ。其の送使貴干寳眞毛が承元、薩儒を筑紫に送りつ。
戊申、
貴干寳等を筑紫に饗へして、賜祿、各差有り。卽ち、筑紫從り國に返しつ。
秋八月壬戌、癸未朔癸卯、
髙麗、上部位頭大兄邯子、前部大兄碩干等を遣して朝貢。仍りて新羅、韓奈末金利益を遣して、髙麗の使人を筑紫に送らしむ。
戊申、
騰極を賀びまつる使金承元等、中つ客より以上廿七人を京に喚す。因りて太宰に命して、耽羅の使人に詔はしめて曰く、
「天皇新しく天下を平げて初めて卽位に之れり。是れに由りて、唯、賀びたまふ使を除きて以外は不召。則ち、汝等のみ親に所見。亦、時寒波嶮し。久しく之に淹畱たらば、還りて汝が愁へを爲さむ。故、冝しく疾く歸るべし。」
仍りて、國に在る王、及びに使者久蔴藝等に、肇めて爵位を賜ふ。其の爵者大乙上なり。更に、錦繡を以て之を潤餝て、其國之佐平の位に當たれり。則ち、筑紫自り之を返しつ。
九月癸亥、癸丑朔庚辰、
金承元等難波に饗へす。種種の樂を奏して、賜物、各差有り。
十一月甲子、壬子朔、
金承元、之れ罷り歸る。
壬申、
髙麗、邯子、新羅、薩儒等、筑紫の大郡に饗へす。賜祿、各差有り。
海表との政は總て、唐の傀儡と爲つた竺志の都督府と鴻臚館で執り行はれ、今更、東國の出る幕も勿ければ、矛を折られた舊敵の面なぞ拜み度くも勿い。然りとて、大海帝の登極を壽ぎ新羅より來賀した韓阿飡金承元許りは、驛使《はゆまづかひ》に託した詔書の一筆で遇ひ、竺志に足止めする譯にも行かず、明石の瀨戶を潛る可しと、内海の東航を免した處が、厚釜しくも難波宮に坐す薩夜蔴の後嗣に謁えて、恩賜に與るまで海表の舞曲に興じ、天孫の御前を蹈み荒らしたのには呆れ果てた。其の取り亂した騷ぎの裏で、新羅の密使が唐の窮狀を内通して來なければ、北狄と交はり血れた卑しさを戒めてゐたで在らう。
白村江で百濟と倭國を斥け、遂には大願の高句麗征討を果たしはした物の、百濟を倂呑した新羅を我が物にす可く身を乘り出した其の背後を、引きも切らさぬ聯戰に疲弊した唐の軍勢は契丹に突かれて、河北の情勢は混迷を極め、皇后武曌の亂脈な暴政で招いた内憂外患に、大國は喘いでゐる。此の天機を逃して、次が有ると云ふのなら、來卋まで俟つが良からう、と聲を潛める通事に大海帝は默つて耳を傾けた。助けて吳れと、喉から手が出る程、縋り度いので在らう。百濟復興軍を唐と新羅で夾撃した分際で、次は倭國と新羅で唐を夾撃する番手也とは、虫の良い話しだが、惡い話しとも云ひ難い。表と裏の區別が附かぬ新羅の掌で躍るのか踊らされるのか。乘らぬ荷船で渡れる海が何處に在る。韓の地を巡る唐と新羅の爭ひが拗れ、力を削ぎ合ふ、共斃れへと仕向けるには、唐と新羅の閒に入つて雙方を誑し込み、綱引きをさせるに如くは勿い。猫の眼の樣に瞬く外政を一點に睨み返しつつ、大海帝は名の有る史部達を召し輯め、内政の杖柱と爲る尖徹を突いた。
朕聞くに諸家の帝紀及び本辭を賷らす所は、旣に正實を違へ、多きに虛僞の加はる。當し、今の時に其れ失ふを改めざれば、幾年を經ずして其の旨欲に滅ばむとす。斯れ乃ち、邦家の經緯にて、王化の鴻き基となす焉。故惟ふに、帝紀を撰び錄り、舊辭を討ね覈かにし、僞りを削り、實を定めて、後葉に流へむと欲ふ。
元來、文物に昏く字に起こす勞を懈つた後進の地に在つて、諍ひの炎群に呑まれた山門の國記。倭國の册封を賜る蕃屛の、宗主との系譜を詳らかにせずして、天下の石据ゑは泰からず。高祖山に皇御孫の坐して以來、初代倭王、邇邇藝命の嫡男、火照命の皇胤を承け繼ぎ、竺志の本貫を統らす阿每氏の傍流で、邇邇藝命の庶子、日子穗穗穗手見命の、其の亦、庶子の鵜椎葺草葺不合命の庶子、磐餘彥が山門へ下向し天基を草創めた、との謂はれも然る事乍ら、佐貫と粟國から海を渡り侵攻した寇族が山門を我が物とした、と蹈み散らす、訛語訛傳の看過も罷り不成。何れの故事に理が有る物のか。氏族、各の思惑で粉餝され、騙り嗣がれた切れ切れの口碑。此の縺れた文を如何に說く可きか。居竝ぶ史部達は皆、面を上げる事が出來ず、其の拜謁に若くして浴した、紅顏の碩英、太安萬侶も亦、其の獨りだつた。山門の書紀を一統の卷子に脩めよ、との優諚を賜りはした物の、其れ其れの祖神が背負ふ由來の齟齬、氏族閒の相克を取り纏めるのは、和を以て貴しと爲す山門に在つても至難の業。況して、山門の氏族が竺志の傍流で在る事を認め、認める事は、律令と云ふ倭國の軛に自ら鍵を掛けるに不外。
然れど、遠水海、珠流河、出豆、柯彼、相摹、日立、木國、若俠、伊卋の國國が、朝の日嗣の名を賜り遷居した髙市大寺を仰ぎ、先を爭つて奉納する至寶の數數を目の當たりにしては、今將に、天孫が直直に東國を治め、立御する御卋の拂曉。禁中に祕した卷子を親ら紐解いて、神代より續く御賞麗しき倭國の靑史に愁眉を解き、
「古來、竺志を差し措きて、眩き國なぞ在つた例し勿し。須く、千千に紊れた山門の史を規す可し。」
と豪語する其の龍顏に唾辯を講ずる譯にも行かず、唯々偏に承け賜る他勿し。何より、
十二月乙丑、壬午朔丙戌、
大嘗に侍へ奉る、中臣、忌部及び神官の人等、幷て針閒、田庭、二つの國の評司、亦以下の人夫等に、悉くに祿賜ふ。因り以て評司等に、各爵一級賜ふ。
國を擧げての祭祀に在つて、總てを執り仕切るのは難波宮に坐す竺志の日嗣。其の臺臨に大海帝が傅き、候ふ姿は、山門の氏族を改めて震撼させた。
集侍はれる神主、祝部等、諸聞こしめせ、と宣る。髙天原の神畱り坐す、皇睦神漏伎命、神漏彌命以て、天つ社、國つ社と敷きませる、皇神等の前に白さく、今年十月の中の卯の日に、天つ御食の長御食の遠御食と、皇御孫命の大嘗聞こしめさむための故に、皇神等あひうづの日まつりて。
と奉る祝詞の言靈を胸に、肅肅と設へる大嘗宮。初代倭王、邇邇藝命の降臨から絕ゆまぬ國の事擧げを、皇御孫直直に執り行ふ現卋の譽れに、佰官は唯只管、畏怖こむ許り。阿每の朝の舞ひ降りた、山門は常治るにして平らか也、と萬民が聲を揃へて木靈する東國の山懷。其れは乃ち、山門の古道は途絕え、竺志の國記の外傳、天下に侍る數多の蕃屛を綴つた書紀の一卷として、簀卷にされる事でしか、命脈を保ち得ぬ事を意味した。史を規せ。然う說き伏せて制へる天孫に、髙御座を明け渡した山門の史部達は、其れ其れの氏族の大義を持ち寄つて互ひの顏色を窺ひ、落とし處を探り續けた。
訛傳の淘汰に澁る許りで、因循姑息な書庫から眼路を切り、大海帝は獨り、月明かりで稻田の干上がる、竈の底の如き山襞の奧地を見渡して、竺志の肥沃な鄕土に思ひを馳せた。一籾一籾に百姓の命を籠めて濱風に打ち靡く瑞穗の漣。此の倭國が貿ふ金色の穀俵を求めて、海表の國國が鑛を積み上げ乘り込んで來る活況とは、餘りに懸け離れた鬱然と沈む山氣に、澑め息を吐いた後の息を繼ぐのも厭はしい。鹽を賄へぬ許りか、粮米を蓄へる事すら敵はぬ此の瘦せた土地で、如何に東國を纏め上げるのか。嘗て勿い榮達に浴しても猶、拭へぬ國を憂ふ念ひ。山門の地に於いては餘所事でしか勿い、遙かなる倭國の慘狀。裳拔けと爲つた薩夜蔴と暫し袂を劃かち、日嗣を辞して下向したのも、總ては社稷の足掛かり。太宰の府の再興には、蝮が龍を胎む程の產す力、國を光る資を不可缺。天照神の翳る事勿き實り豐かな倭國成らばこそ、此の辛氣に噎ぶ東國の鄙俚と云へど、眠れる虎子を宿してをらう。白鳳の辛酉改元の歲、對馬で銀が掘り起こされた例へも有る。彼處の濱邊で砂鐵が採れるなら、鐵の鑛も金の鑛も何處かに埋もれていやう、と三方を圍む尾根を睨み、頂き每に坐す在來神、山祇に佑助を乞ふ大海帝。其の奉天去私に徹した禱りの聖謐を、驛馬の爆ぜる驛鈴が驅け拔けた。
白鳳十七年丁丑、
「唐の兵等、京より退けり。」
茹で上がつた汗馬の嘶きに荒ぶる、扶桑からの吉報とは程遠い奇報。新羅の遣使が差し向けた内通は今、壬申の調伏より以來、嘗て久しい小寧の虛を突いて現と爲つた。激化する河北の情勢を背に受け、新羅の粘り强い抵抗は衰へる事を知らず、撤退を餘儀勿くされた唐の皇軍。高句麗を墮とした雄勁蒼莽の士氣は旣に朽ち果て、皇后武曌が發つ舌火の號令にも、珠玉を聯ねた埀簾が搖れて、無闇に煌めく許り。餘りにも敢へ勿き幕切れに、大海帝も山門の飛鳥から竺志の明日香へ、勑筆を執る事すら忘れ、謁見の閒に立ち盡くした。
後塵と百姓の資粮を卷き上げ乍ら、御笠の川を下り博多津へと輯結する進駐の軍。兵器を奪はれて京を護る術も後ろ盾も勿く、駐畱の負擔で百姓と國土は疲弊し、野盜が蔓延る政廳の條坊が、弄ばれて棄てられた生娘の樣に橫戲つてゐると云ふ。唐から竺志を奪還すると云ふ血意に燃えてゐた大海帝は、戰ふ相手を失ひ、宙に浮いた宿怨が無風に戰いでゐる。大魚を逃したなぞと嘯く積もりは毛頭勿い。唯、一矢讎ひる事すら敵はず、手を拱いて得た漁夫の利に小躍りして飛び付く程、落魄れてはをらぬ。歷代の奧津城を穢されて猶、坐視に屈した國辱は、將に一生の不覺。況して、白村江で虜と爲り、生き愧ぢを曝して聯れ戾された薩夜蔴の髀肉の嘆たるや計り知れず。唐の盛衰を見通して外征を蹈み畱まり、一先ず百濟の王族を竺志に引き揚げ、機を俟つ可きだつたと、後智惠を諷めかすのも遲かりし證文。淺墓な彌猛心に振り囘され、伊勢王の慧眼を蔑ろにした戒めにしても、餘りに甚大な其の仕打ち。都督の府に棄て置かれた竺志の天子は、病の床に臥し、半身を起こす事すら儘爲らぬと云ふ。鄙俚を極める山峽の其處彼處で、鑛の寢床が在るやも、との傳達に沸く此の折。海表に漕ぎ出さずとも鐵が採れると爲れば、倭國の故地と云ふ事の外に、何故、韓の地に身を捧げてゐたのかも危うく、息を呑んで見護る臣下に背を向けた大海帝は、
「負け犬の尾を摑むなぞ外道の沙汰。遣使も無用。」
然う云ひ殘して内裏に入御された。
那の津の水門に押し寄せた軍船に、唐の兵達が乘り込む樣は、恰も、大禍の兆候に慄き、鳴禽、鼬鼠が大擧して逃げ惑うが如し。積み荷を押し退け、舫ひを斷ち切り、舳先を角突き合はせて入り亂れる志賀の海關。其の身も卋も勿い壞走を見送る樣に、取り殘された赤羽の隻影が、蹈み荒らされた竺志の荒墟に閃き、衆目の好奇を輯めた。
冬十一月辛亥、己未朔
筑紫太宰に赤烏を獻る。則ち太宰の府の諸の司人に賜祿、各差有り。且、赤烏を專捕る者に爵五級賜ふ。乃ち當評の評司に爵の位を加增へたまふ。因りて評内の百姓に給復ひて、以て一年を之けり。是日、大きに天下に赦したまふ。
再建を急ぐ都大路に舞ひ降りた一羽の幽鳥。此れこそ唐の撤退を壽ぐ天與の徵と、奇瑞の賜物は憙び勇んで獻上された。處が、其の妖しき靈驗は、薩夜蔴の斬り潰された隻眼に、白村江で倭國の兵の燃え盡きていく命の燈火を、喉を鳴らして啄む不死鳥を喚び覺まし、古傷を暴かれた落人は頭から衾を被り、病の褥から轉がり落ちた。痩せ衰えて隻眼が飛び出し、嘴の如く鼻の尖つた其の形相は、將に鳥憑かれた者の如し。此れが飛ぶ鳥と書いて明日香の太子と呼ばれた漢の定めなのか。最早、扶桑の天子は扶桑の天子に非ず。再び國體の玉は碎かれ、逃げ惑ふ追憶。阿鼻叫喚の火の海を逍遙して、倭國を見殺しにした、倭國の護り神。彼の魂の惡食は竺志を滅ぼす瞞しでしか勿い。餘りの怖氣に、
「其の化鳥を始末せよ。」
と命じる一言半句すら喉に痞へ、手當たり次第に祿位と幣帛を下賜して人拂ひをし、瑞鳥を野に放つも、赤烏は飛び發つ事勿く樓閣の甍に畱まり、奧の院で悶絕する薩夜蔴を視姦し續けた。一鳴も上げる事勿く、禁中に張り付いた不穩な天使。其れが翌る歲末、
白鳳十八年戊寅、十二月乙丑、癸未朔己酉、
之の日、夕、鳴鳥在り、
何の前觸れも勿く、入相の靜寂を劈く蹴汰魂しい絕響を殘して、艮の空へと飛び去つた。幽鳥が忽然と姿を消したとの報せを受け、病床から釆女に目配せをする薩夜蔴。老長けた嫗が永らく閉め切つてゐた妻戸へと躄り、開け放つと、紫雲に烟る薄暮の綾錦が蒼然と霏霺いてゐる。久方振りに仰ぐ淸雅な風光に潤む薩夜蔴の隻眼。荒涼とした玲瓏に心が澡はれ、顧みる事の勿かつた佛へ歸依し、祖神を敬慕する念ひが湧き上がつた、其處へ不意に、
臘子鳥、天を弊りて、西南自り東北に飛ぶ。
失踪した赤烏の後を追ふ樣に、赤潮の津波かと見紛ふ集鳥の大群が顯れ、見渡す限りを埋め盡くした。鬼門の空へと飛び去つていく禍禍しき凶兆。此の卋の終はりを吿げられた薩夜蔴は白眼を剝いて昏倒し、唐の進駐をも超える未曾有の國難を迎へる其の刻まで、罠に掛かつた瀦の樣に唸り續けた。
先の大亂で中臣氏が大友王子の陣營に附いた事に由り、山科田邊史大隅の舘で冷や飯に與る不比等は、髙市王子の率ゐる大伴吹負の軍から遁れて、河内へ落ち延び、更なる不遇を託つてゐた。淡海帝の君寵を賜り、位人臣を極めた父の身代も今何處。美豆良を解き、髷に結ひ上げて早六歲。見通しの付かぬ行く末に意を決する事も勿く、只、漠然と眺めてゐる靑二才の眼の前を、無爲徒食に費やした一年が再び過ぎ去ろうとしてゐた。藤原の姓を賜つた先の内大臣の形見を委された後ろ見として、鎌足の遺向を切切と說く、田邊大隅の思ひも虛しく、生返事を繰り返す不比等の未だ足處氣勿い面差し。然も有りなん。不比等は周りの囑せる望みとは裏腹に、元來、宮使ひには及び腰。河内に引き下がつたのも此れ幸ひ。繰り越された出仕に羽を伸ばしてゐた。科や藤の卷衣の樣に、柔肌に武藝が合はぬ本の蟲は、書庫に籠もつて勤める事に不備は勿い。寧ろ思ひ遣られるのは、狹き門の先に在る獨つの席を、僚友と爭ひ、蹴落としていく人の卋の淺閒敷さ。先帝の輕擧が調伏された後は、筆を矛に木簡を盾にして戰を續ける朝堂の素顏を又聞きし、丹塗りの柱の蔭で足を引つ張り合ふ蟻地獄に何の意味が有るのか。溫和しい事の外に取り柄の勿い優男は、誰にも問ひ質す事が出來ず、腹藏に鍵を掛ける許り。出來る事なら文物に圍まれ、何時迠も卷子を繰り、書寫に勤しむ日日を送り度いと、學問僧と爲つて畱學する夢を描いては、髮を剃つて出家し沙門と爲る程の信心も勿ければ、命を賭した航海に挑む氣概も勿い己に、獨り打ち拉がれる。一先ずは、顯官子弟の官人見習ひ、大舍人として籍を置き、榮達の途に勵めと尻を叩かれ、其れが最も無難な一路と判つてゐて、抗ふ術も勿い。更に、其の煮え切らぬ心を未だ聾する父の遺訓。帝から賜つた大職の冠と較べられる無冠無祿の身の上も然る事乍ら、
「史を規せ。」
の一點張りで、天下の理に挑めと嗾けた、己の死期も顧みぬ彼の執著。父は何に取り憑かれてゐたのか。家督の祭官を辞してから人が變はつた、と田邊大隅は云ふが、其れは何故か。大それた事と言下に退けても全く不動ず、
「果敢勿き卋の末席で終はる勿かれ。父の號けた其の名を誇り、常し方の不比等と成れ。」
と唆す、蠱惑な言靈。俄に甦る父の眼の色に垣閒見た束の魔の狂氣。慌てて眼路を逸した不比等は、氣が付くと何時も通り、廢屋だつた舘の、手入れの行き屆かぬ庭の冬戲れに圍まれ、途方に暮れてゐた。何事も勿く過ぎゆく歲と、雲一つ掠める事の勿い大寒の空。鼻の頭を染めて薄皓の澑め息を吐く紅顏の書生に、霜風索漠の詩片が閃き、書き畱めなければと甘い感傷に流れる惰弱に、思はず頰が綻ぶ。己は父の樣な器では勿い。何もかもが大袈裟なのだ。養父の大隅に云はれる儘、時の流れに流される儘、有りの儘に生き、果てる事に何の不服が有らう。然う云ひ聞かせて丸めた背中に、夥しい惡寒が走り、瞬く閒に陽が落ちて、降り注ぐ凶鳴が東國の山河を搖るがした
靑雲の靄く極みの髙天原を、天の血埀飛ぶ鳥の禍が啼く。
不比等が振り仰ぐと、竺志から飛び發ち、海を越えて艮の彼方へと羽擊く臘子鳥の大群が、緋き夜空の如く犇めき、轟いてゐる。天照神の岩戸隱れも斯くやと云ふ狂亂。人智を絕する奇景に鄕の者と犬畜生は逃げ惑ひ、其の場に平伏しては神佛を拜み倒す慟哭と嗚咽。此の卋の總てを紅蓮の闇に呑み込む末法の來臨。己の罪を曝け出して赦しを乞ふ其の斷末魔の坩堝に在つて、不比等は覽た。化鳥の一團が舞ひ降りて來るのを。其れも唯一條に己の許へ。
「あなや。」
不比等が慌てて舘の中に驅け込むと、魔除けの鏡を立て掛けてある棚へと急いだ。追ひ掛けて來る臘子鳥の群れが一塊と爲つて燃え盛る。其の炎の中から一羽の靈鳥が顯れた。然して、
「何ヲ恐レル事ガ有ル。」
と聞き覺えの有る聲に呼び止められ、そんな眞逆と耳を疑ふ不比等。振り返つた背後に聲の主は勿く、唯、雙翼を疊み、錦糸の鳳尾を飜して彳む、極樂を繪に描いた魔性の禽獸が、煌びやかな睫を屡叩いてゐる。表の阿鼻叫喚とは程遠い、其の陶然とした幽姿。摩訶不思議な眼差しに魅入られ、暫し放心してゐると、
「正鵠ヲ見定メヨ。己ノ本分ヲ忘レタカ。史ヲ脩メル畢生ノ大業ハ如何シタ。」
再び、耳に痛く、然して、何より懷かしい彼の聲が、祀られてゐる靑銅で鑄られた仿製鏡の向かふから木靈した。
「父上。」
怖氣よりも先に棚の上の光り物へ飛び付き、中を覗き込む不比等。すると、在らう事か、其處に映し出される筈の己の姿は何處にも勿く、不比等の背中を瞠めてゐる靈鳥と鏡の中で眼が合つた不比等は、腰から頽れ、膝で床を叩いた。
「不比等ト號ケラレシ其ノ刻カラ定メラレシ史ノ天命。爾コソ、千千ニ亂レシ古事ヲ束ネ、此ノ國ノ史ヲ規ス者也。」
紛ふ事勿き父鎌足の肉聲と折り重なる靈鳥の占鳴。鏡の中で黃泉復つた姿勿き遺訓に擊ち拔かれて、白眼を剝き昏倒する不比等。薄れていく意識の中で、火の粉と金燐を撒き散らして飛び發つ羽音が、追憶の彼方へ遠離つていく。遁れ得ぬ星の鎖爲を足枷に、同じ轍を周囘する因果の輪轉。此れで何巡目に當たるのか、左右の足跡の樣に延延と繰り返される罪と罰の道連れが、何處迄も何處迄も折り重なり、刻の眞砂を蹈み固め、亦、始めの場所に辿り著く。幾つもの晝夜を數へて、白白と迎へる明け方。不比等が正氣を取り戾すと旣に、天地を覆す激甚が倭國を貫き、地獄の底が拔けた騷ぎに陷つてゐた。
是月。筑紫國大きに地動る。地避くること廣さ二丈、長さ三千丈餘り、百姓の舍屋村每に多に仆れ壞れたり。是の時に、百姓の一家、岡の上に有り。地動の夕に當りて、以て、岡崩れて處遷れり。然れども家旣に全くして、破壞るること無し。家の人、岡の崩れて家の避るることを不知。但し、會明の後に、知りて大きに驚けり。
戊寅の年に、大きに地震有りて、山崗裂け崩れり。此の山の一つの峽、崩れ落ちて、溫れる湯の泉、處處より出でき。
歲の瀨も押し迫り、最後の晦日を迎へ樣かと云ふ師走の賑はひを、萬卋に一度の大禍が殲き滅した。待ち望んでゐた、唐の軛勿き初春を眼の前にして、解き放たれた賀びに振り降ろされた奈落の嚴づ靈。火山に圍まれた天子の直轄、九州に在つて、圡神の愾りとは緣の勿い竺志を襲つた、飛ぶ鳥すら轉げて轉ぶ轟きに、人は耳目を塞いで其の場に平伏し、後は只管、洪範九疇の亂心が通り過ぎるのを、耐へ忍ぶより外は赦され勿い。倭國の本貫を搖るがして巖を碎き、東西を走る龜裂から砂泉を噴いては、流砂と爲つて建屋を呑み込み、夕餉に追はれて火を熾してゐた京と輯落は燒き盡くされ、波打つ田畑と官道に死屍累累を竝べ立てた。年の初めを壽ぐ節供は疏か、進駐した唐の軍に略奪されて屯倉の蓄へも勿く、復興された許りの内裏、政廳、御社に佛殿も再び瓦礫の山と爲り、外狄に蹂躙される丈けでは飽き足らず、天にまで見放された天下。百姓は路頭に迷ひ、夜盜が昼日中を跋扈し、氏族は家財を背負つて逃げ隱れる有り樣に、此れで眞に倭國は神の國なのか、佛の御心は今何處と、名も勿き哀訴が虛空をさ迷ふ許り。況して、不豫の褥に臥せる薩夜蔴の宸憂に到つては、旣に此の卋に在らず。白村江より引きも切らさぬ無閒地獄に、臣下の傳へる城外の慘狀を薄ら嗤ひで聞き流す、骨と皮丈けと爲つた生身の無垢露は、浮き上がつた隻眼を煌憑かせて、
「亦、彼の化鳥の仕業か。」
と、神の裁きに咒詛を吐き續けた。此の耐局に立ち上がる荒魂の杖も壓し折られ、墮ちる處まで墮ちた社稷。
其の禍中に在つて倭國の國寺、法興寺が誇る扶桑壹の刹柱、五重塔は倒壞を免れ、倭國の心の支へと成つて保ち堪へた。此ぞ法治の眼目と、口を揃へて合掌する僧侶達。然りとて、嘗て勿い激震で損なはれた其の塔身。壁は剝がれ、瓦は崩れ、一から繕ふ部材は數知れず。各各の傷みを檢める可く解體したは良い物の、再建の目途は立たず、八角佛殿の柱梁と共に積み上げられた儘、朝庭の天命が革まる、千年に一度の其の刻迠、永い眠りに就く事と爲る。
大海帝が晴れて踐祚し、登宮の譽れを賜つた鸕野讚良。實父、淡海帝に因る蘇我宗家の燒き討ちから、繼子の髙市王子に因る淡海帝の調伏迠の、目眩く因果を乘り越え辿り著いた、女の王道。然りとて、一帝一后の習ひは如何ともし難く、立后されし竺志の正統、尼子娘に異論を夾む餘地は勿い。實姉、大田王女亡き後、皇貴妃として册立されるも、詮ずる所、鸕野讚良は女御の端くれ。後宮の次席から仰ぐ后妃の隔ては、天河原が橫戲るが如し。とは云へ、其れは其れ、疾うの始めから承知の上。今更、此の身を流れる血筋を入れ替へる手立ても勿ければ、氏族の沙汰女に目抉らを立てる積もりも勿い。内亂と謀略の果てに葬られた者達の無念を顧みれば、不服を口に爲る事すら烏滸がましい。此の身に此の卋が在るだけで、己の餘生は事足りてゐる。女の妬み嫉みなぞ下下の御慰み。富貴を極めた女の胸を穿つ、唯一つの煩ひは、壹粒胤の行く末。腹を痛めた親心の嚆矢が行き著く先こそ、何を措いても女の本分だと、改めて思ひ知る。
吾が兒の彌榮を禱る母の念ひとは裏腹に、草壁王子の心許勿い爲人。男らしさの缺片も勿ければ、相も變はらず健勝に惠まれず、輿入れした阿閇王女と竝べても淑やかで麗しいが故に、此の似た者同士が寄り添ふ樣は姉妹かと見紛ふ程。其の上、日日、床に臥せるか花鳥風月を愛でるかの繰り返しで、色香と情欲の素振りも勿ければ、言葉を交はす事すら勿い。此れで妹背の營みが務まるのか、御卋嗣ぎの兆しは有るのかと氣が氣で勿い鸕野讚良は、神社に詣で、祖神に成否を伺つては、冷め切つた閨を加持祈禱で焙り、急き立てた。其の餘りの勢ひに堪へ兼ねて、漸く覺束ぬ腰を上げた草壁王子。癡辱に甘んじた甲斐も有つてか、御懷妊の報せは、枯れ木に花が咲いたと、山鄕の俗耳俗言をも賑はせた。待ちに待つた御後胤の光明。嬉しさも一入なればこそ、此の燈火を消して爲る物かと、一心に募る妄執が、數奇な星の巡りを魅き寄せる。
白鳳十九年己卯、
是歲、氏女の制を承けて、氏族の女の宮仕へが數へで十五歲からに改められると、壹粒胤の草壁王子に姻いだ阿閇王女の命婦として、獨りの才媛が皇后の眼に止まつた。名を縣犬養道代。本貫は河内國。出雲に其の源流を遡るのか、祖神は神魂命。縣犬養家は先の大亂で縣犬養連大伴が大いに名を馳せ、道代の父、東人も其の恩賞に與つた。女の出仕も其の賜物。小作の御轉婆や遊女の莫連なぞには夢にも叶はぬ、誰しもが羨む拓かれた前途。其の初め一步で道代の榮華と過酷な終生は沙汰女られた。東國の豪族が宿した小娘とは思へぬ端麗な容姿も然る事乍ら、氣配りの行き屆いた控へ目な所作と落ち著いた物腰に閃く、内に祕めた芯の强さ。鸕野讚良の女の勘は數多の推擧の中に在つて、其の類ひ稀な器量を一瞬で見極めた。殺伐とした内裏の暗鬭を照らして導く、己には望む可くも勿い女神の天稟を。
倭國と東國の政爭に卷き込まれ、仇の許に姻いだ鸕野讚良の懊惱が胎毒と爲り、身も心も冒されて產み落とされた草壁王子と同樣に、阿閇皇女も亦、口にこそ出さねど、實父、淡海帝を亡き者とした一族に、輿入れせ不るを不得、身の代の悲哀に打ち拉がれてゐた。敵味方の區別すら附かぬ、入り亂れた血の緣に縛り上げられて、身動ぎ獨つ出來ぬ此の妹背に殘された救ひは、同じ境遇を共に劃かち合ひ、堪へ忍ぶ事のみ。欲の勿い雙りに取つて、皇位へ寄せる周りの囑目なぞ針の筵。生まれた星の巡りが惡かつた。二言目には體が云ふ事を聞く打ちに出家をし、來卋に向けて德を積み度いと歎く許り。斯樣な、蜉蝣の樣に幼弱で今にも消え入りさうな雙りを、本來、歲下で側使ひの道代が姉の樣に、母の樣に、持つて產まれた惻隱の情で包み込み、更衣から膳に到る迠、肌理細やかな心盡くしで、憂色に暮れる現卋に繫ぎ止めた。
何事に於いても角目立つた者達の輯ふ後宮。些細な事で聲を荒げ、傷附け合ふ女の鐵火場の直中で、其れは其れは不思議な女で在つた。道代の存在は、只、皇女の脇に畏まつて居る丈けで、絡み合ふ私情と虛榮と愛憎を解き解し、秩序と調和を齎した。然り氣勿い持て成しと、愼み深い語り口。常に相手の氣持ちを汲んで先を讀み、道義に悖る仕打ちや謗りを受けても決して感情を表に出さず、身に覺えの勿い非でも自ら背負つて諍ひの種火を揉み消し、譬へ、下下の者でも面目を立てて齒向かはず、何事に於いても先に折れて讓りつつも、時に、息を呑む程の毅然とした面持ちで護る可き處は護る。其の懷の深さは底が見えず、眼にも眩しい容姿と若さを嫉んでゐた大年增ですら、人を惹き付けて放さぬ其の妙なる因力に絆されて、知らず知らずの内に道代を賴り、一目置く樣に爲つて終ふ。鸕野讚良も何時しか、荒み切つてゐた己の精魂を默つて見護る、道代の堅忍質直な姿に打たれ、稀代の賢母を射止めた積もりの本人が、道代に心を射止められてゐた。僅かな目配せで仔細を察する道代には、
「良きに計らへ。」
の一言で、總てが事足りる。鸕野讚良は此の天與の杖に其の身を預けて、有りと有らゆる差配を任せ、道代の言葉には委細漏らさず耳を傾け、片言なりとも打ち消す事勿く受け入れる阿閇皇女は、初產を控へて胸に閊へる不安の總てを吐露し、片時も其の座右を讓る事が勿く、實母の鸕野讚良より先に歲下の命婦の顏色を窺ふ程。後宮の岩戸を開き、照らし出す女神は、當代に雙りと居勿い太母だつた。然して、其の慈悲の光は期せずして、血に餓ゑた夏の虫をも喚び寄せて終ふ。
家督の祭官を辞してから人が變はつた、と語つた山科田邊史大隅は、其の息子が父を淮へる樣に、忽然と豹變した奇遇を目の當たりにして、血族を巡る不吉な緣に慄いた。鷹揚な態度に背筋と胸郭は反り上がり、聲色は鋭氣を發して、引き締まつた形相は獲物を見定めた猛禽の如し。鎌足に乘り憑つた何物かが、再び不比等を虜にし、眦を吊り上げて舘を飛び出した人の鏃は、微官に甘んじる養父を二度と顧みる事は勿かつた。
不比等は先づ、蘇我連子の女で蘇我馬子の孫、娼子に眼を附けた。娼子の兄、蘇我安蔴呂は、讓位を諷めかして政敵を陷れやうとした、淡海帝の謀を嗅ぎ付け、
「有意ひて言したまへ。」
と大海帝に助言し、倭國の稀人に貳心勿き事を顯したにも拘はらず、其の後の大亂に卷き込まれ、淡海帝調伏後の祿位に與る事勿く在卋を閉ぢた。殘された弟達は、敵味方に分裂した蘇我氏の不穩分子として重用される事が勿く、父、蘇我連子が右大臣まで昇り詰めた隆盛は一旦途絕えて終ふ。先細る丈けの生ひ先に焦る一族に取つて、其の存亡を背負ふ娼子は外戚の利を得る爲に缺かせぬ虎の子。姻ぐ先の位階、血統を選り好みし、根囘しに奔走するのは人の卋の恆。然して其れは、内大臣にまで昇り詰めた父の後ろ盾を勿くした不比等とて同じ事。一介の書生にも等しい身分で下働きから始めてゐては、父の足許にすら辿り著けぬ。立錐の餘地も勿い位階に割り込むからには、一切合切、力盡く。蘇我安蔴呂《そがのやすまろ》の遺德と、父が死の閒際に大海帝と交はした厚誼を賴りに楔を鎚ち、其れでも駄目なら突き崩す。野望丈けが獨り歩きし、徒手空拳で乘り込んで來た不比等に、娼子の一族は血相を變へたが、
「納采は無用。」
と一喝し、憤る嫁御を聯れ去つた。
宮勤めと一口に云つても一から十まで有る中で、木簡の積み卸しや削り直し等、汗簡を繪に描いた下働きに忙殺され、腐り切つてゐた不比等の許に、
「皇と族、奧津城へ親謁える旨、其の設へに勵め。」
との達しが下り、機に餓ゑた志士は書庫の暗がりで色めいた。飛鳥宮から御發輦に帶同し、朝に此の胸の内を直奉する事は叶はぬとしても、陵迠の道中、譬へ一瞥でも其の玉眼に浴し、顏を見覺えて頂くには此の出御を以て外に勿い。無位無冠で淡海帝に謁え、其の心を摑んだ父、鎌足も通つた道。何を臆する事が有らう。衆目の嘲弄も衞士の掣肘も知つた事では勿い、と勇んで臨んだ御幸の當日。然れど、
春先に興じる打毬の會と、靈廟の祭禮とでは譯が違つた。嚴かな鹵簿の車列を前にして立ち竦む不比等の淺沓。遙か彼方に行幸す皇の御姿處か、鳳輦の鳥餝りすら窺へぬ、喪に服した卿の雲霞。此れでは玉體に迫り、龍顏を仰ぐ處か、拜塵に與る事すら叶は勿い。己の私利私欲の爲に此の人垣を裂き、事を荒立てるのは、祖宗の安息を妨げる狼藉の極み。矢張り、武勳も勿ければ文勳も勿い山門が、天孫の御前に進み出づるなぞ畏れ多いと云ふ事か。謁見を阻む佰官の大外を巡つてゐる内に、動き出した車駕の轂が軋み、水牛が物憂げに噯氣を上げる。責めて、御駐輦の折りにでも垣閒見る術は勿い物か。途方に暮れる不比等に取つて、蕭然と聯なる人の波は朝堂の位階、其の物。己は鴟の尾の末尾にも在らず。と吐き捨てた處に、御練りの足竝みから取り殘され、舘の脇で控へてゐる車駕が眼に畱まつた。水牛を轡に嵌めた儘、素服の裝ひで牛飼ひ童と車副が所在もなく侍つてゐる。何故、と訝る事すら擬かしい。奇は機也。不比等が驅け寄つて尋ねると、牛の蝨を潰し乍ら愁嘆を濁した。
「御妃の申すには、親王の御氣分が優れぬとの事。」
其の苦苦しい一言に不比等の狡猾な予覺は閃いた。竺志の參后に限らず、山門の皇貴妃も御成りで在つたとは何たる曉光。暗雲は啓けた。此れが天助で勿くして何で在らう。不比等は舘の一畵に巡らせた暖簾に向き直ると、基壇の緣に額突き、此處を先途と吼え立てた。
「此處に先の内大臣、藤原鎌足の後を嫡ぐ男在りけり。名を不比等。豈夫や、御忘れでは有りますまい。」
表に俟たせて在る車駕の稀人は、大海帝の女御、鸕野讚良と草壁王子で勿くて誰で在らう。患つてゐるのが皇后の親王、況んや竺志の血胤なら、斯樣に倦み、興の醒めた素振りをしてゐる遑は勿い。天は不遇の星と星を引き合はせた。
兄、定惠が輕大王の落とし胤を宿して厄介拂ひされた釆女、車持與志古娘の妾腹で、鎌足の嫡男では勿い樣に、不比等も亦、淡海帝から鎌足に御鉢が廻って來た鏡女王の隱し胤、と風聞に晒されたのも今は昔。事此處に到つては耳障りな飛語も復た良し。如何なる怪しい脈や緣で在らうと、勿いよりは增し。朝の皇貴妃が胤果の勿い庶子と、姪と甥とだ囃し立てられて、眉も顰めず、齒牙にも掛けずと云ふのでは話しにも爲らぬ。
「父の喪に服しては、明後、行く末を見失ひ、先の大亂では淡海を追はれ、時卋を經て久しく爲りにければ、御妃の御光臨を仰ぐ事も勿く、折折の禮節を缺いた不敬の歲月。其れも總ては、吾が中臣の不逞の輩が朝に弓を彎いた天の戒めにして、御赦しを乞ふのも烏滸がましい惡因惡果の爲せる業。某も弱輩にして徒の輕擧に手を拱いたのは慚愧の極み。然れど此の儘、御妃の御尊顏を仰げず、一分の理も申し開きが叶はぬと云ふのでは、生きてゐる貝も有りませぬ。此の塗炭の苦しみに、羞ぢの上塗りと承知の上で、何卒、今一度、此の不忠の下僕に御目通りを。」
滂沱の淚で打ち顫へ、蔭走る洟訴。打ち付けた額は熱く、舌鋒が圡を穿ち、溢れ返る激情に僞りは勿い。然れど、
「あな、侘しや。」
暖簾の隙閒から草壁王子の吐息が幽かに漏れる許りで、厚く折り重ねられた帛の向かうは闇の中。更に、
「何と爲る。此の下﨟が。」
不比等の襟を摑み舘から引き剝がさうとする車副。其處へ
「下下の者は退がれ。」
埀れ籠めた帛越しに下される情理無用の沙汰。下下と一括りに呼ばれても猶、此處で退いては、二度と再び御上を仰げぬ崖の下。車副に後ろから襟を締め上げられ乍ら、不比等は息を限りに吼え立てた。
「今以て、先帝の聖恩は巾箱之寵にして感に堪へず、其の君德に報ひ、一心に仕へる念ひは父鎌足にも劣らず、盡き果てる事も勿ければ、貴てなるも賤しきも有りませぬ。先帝の御卋繼ぎに若しもの事が有るやも知れぬと云ふ此の國の大事に、除病平癒の加持祈禱も誦へずに見過ごしてをられませうか。御卋嗣ぎの御息災に祥の薄き故も、元を正せば、扶桑の政が海表の文物と利祿に感け、八佰萬の天神地祇を敬ふ山門の古道を蔑ろにした讎ひで有りませう。
行かむ方も知らずおぼえしかど、思ふこと成らで卋の中に生きて何かせむと思ひしかば、ただ、むなしき風にまかせて步く。命死なばいかがはせむ、生きててあらむかぎり、かく步きて、奉公といふらむ陵にあふやと。
微力乍ら此の不比等、天理を違へた卋の習ひを革める爲ならば、今生限りの身命なぞ惜しくは有りませぬ。壹粒胤の山門の親王を以て爲て、竺志の輿を擔ぐなぞ、
一生の恥、これに過ぐるはあらじ。御名を得ずなりぬるのみにあらず、天下の人の、見思はむことのはづかしきこと。
其れとも御妃は、天孫の御稜威に眼が眩み、竺志に輿入れしたとでも。」
不比等の洪舌が絕頂に達した其の時、息を潛めてゐた帛が俄に飜つた。泣き腫らした恫目で門外漢を見下ろす仁王立ちの皇貴妃。分を辨へぬ餘りの物言ひに堪り兼ねて躍り出たは良い物の、返す言葉が喉に痞へて、息獨つ繼げぬ苦悶の玉容に、不比等は地に平伏した儘、捲し立てる。
「御妃の心の迷ひは、日嗣の度に入れ替はる干戈の主に取り憑いた、背德の爲せる業。盛者と落人の相亂れる血族の緣。淡海帝と蘇我の眷族、何れの御靈を弔ふにしろ、山門の古道は唯一條。此の藤原不比等、御妃と親王の登極を衞る杖と爲り、仗と爲り、朔風の盾と爲りませう。父鎌足から承け繼いだ、三卋を貫く丹心赤誠に噓僞りは有りませぬ。」
不敬の笞刑も顧みず、絞りに絞つた紅淚の果てに、鸕野讚良の片膝が頽れ、床板を叩いた。
「面を上げよ。」
「滅相も勿い。
我が袂 今日かわければ わびしさの
千種の數も 忘られぬべし
ここらの日ごろ思ひわびはべりつる心は、今日なむ落ちゐぬる。」
五月庚午、庚辰朔甲申、
吉野宮に幸す
乙酉
天皇、皇后及び草壁王子尊、大津王子、髙市皇子、河嶋王子、忍壁王子、芝基王子に詔して曰く、
朕、今日、汝等與倶に庭に盟て、千歲之後に事無らめと欲す。奈之何。
皇子等共に對へて曰さく
理、實に灼然し。
則ち草壁王子尊、先づ進みて盟ひて曰せらく、
天神地祇及び天皇證めたまへ。吾が兄弟、長らへ幼き幷せて十はしら餘りの王、各異腹より出づ。然れども同異なることを不別ずて、倶に天皇の勅せごとの隨にして相扶けて忤ふること無し。若し、今自り以後、此の盟ひの不如者、身命は之亡びむ。子孫は之絕えむ。忘るること非じ。失すること非じ。
五はしらの皇子、以て次に相盟へること先の如し。然る後、天皇曰ひしく、
朕が男等は、各異腹にして生れませり。然れども今、一つ母の同產の如く之慈しむ。
則ち、襟を披きて、其の六はしらの皇子を抱きたまふ。因りて以て盟ひたまひて曰ひしく、
若し、茲の盟ひに違はば、忽に朕が身を亡ぼさむ。
皇后之盟ひたまへること、且、天皇が如し。
吉野宮で一堂に會した日嗣の太子。朝の御前で宣ふ皇位結束の契り。竝居る親王を差し措いて草壁王子が先づ進み出、朝の優諚の後に、竝居る後宮を退けて鸕野讚良が締めくくる其の厚かましさを、髙市皇子は憮然とした表情で眺めてゐた。乘り慣れぬ山道の御成りで窶れ果てた草壁王子から、腹に一物を抱へた大津王子に到る迠、皆が皆、髙市皇子の眼を憚り、肅肅と誰が兄で弟かも知れぬ同產の盟ひを立てていく。吉野の會盟と後に呼ばれる此の談合。船遊びすら儘爲らぬ山に籠もつて、先の大亂での遺恨を水に流せとは此れ如何に。竺志と阿每氏と山門の王氏の和同を以て、大八洲の泰平を築く石据ゑと成る事を此處に盟ふと聞こえは良いが、詮ずる所、拔け驅けは赦さじと互ひに枷を課すのは、髙市皇子の立太子が搖るぎ勿いが故の苦し紛れ。斯樣な山門の和議なぞ稚兒の飯事。己に託された日嗣に齒向かふ者が居るのなら、先の大亂の二の舞ひ三の舞ひを踊らせる迠の事。譬へ其れが血を分けた今生の現人神で在らうとも。命を賭けて王道を衞つた事の勿い者達に、口先丈けで國を治める愚かさを叩き込む、亦と勿い好機。泰平の貽厥を求める可きは吾に非ず。總ては下下の心懸け次第。朝に此の會盟を唆したのが大津王子と鸕野讚良だと云ふ事は旣に摑んでゐる。大津王子は朝も一目を置き、群臣の信服も篤い。とは雖も、髙市皇子から見れば大友王子に毛が生えた程度の模造品。一番煎じが通じてもゐ勿いのに二番煎じとは藝が勿い。叛徒の亞種なぞ雨後の竹の子。蘇我の血を宿した者達は必ず、同族で憎み合ひ滅ぼし合ふ。弱者が手を取り合ふのは裏切りの始まりでしか勿い。髙市皇子は利得に眩んだ者同士の末路に北叟笑み、其の先を見据ゑた。己の本分は竺志の再興。其の意氣込みに懸けては朝にも劣らず、積年の大願が叶ふのならば、姓を賜つて臣籍に降り、頭を剃り上げて出家る事すら吝かでは勿い。山門の習ひと一言で片付け、足の引つ張り合ひを看過する朝に、一家言は有る物の、此處は一先づ顏を立てて、遊ばせて措けば良いと、巡杯を呷つて腹に流した。
山門の庶子と足竝みを揃へて畏まる竺志の嫡男に、大海帝は胸を撫で下ろした。髙市皇子が天下を統る器に相違勿く、其の膽力と慧眼、先の大亂を制した死地の場數と、蕃屛の軍を掌握する手腕に於いて、肩を竝べる處か足許に及ぶ者すら望み得ず、菟にも角にも格が違ふ。踐祚を約束された日嗣の太子とは斯く存らまし。誰しもが認める阿每氏の直系。然りとて、少壯氣鋭と雖も、事、此處まで極まると、寧ろ一抹の危ふさに驅られ、朝は大津王子と鸕野讚良の進言に乘り、敢へて其の立太子に釘を刺した。過ぎたる荒魂が故の難物。親の欲目にも此の鬼子に東國は狹過ぎる。飜つて、太宰の府から難波宮に災禍を遁れたは良い物の、歸京の目途すら立たぬ薩夜蔴の壹粒胤。不敬を承知で苦言を呈すれば、修羅場を知らぬ竺志の日嗣のひ弱さに、思ふに委せぬ天の配劑が悔やまれる。髙市皇子こそが倭王の凛品を備へてゐるのは明らか。何故、斯樣な齟齬と試練を扶桑の星は巡るのか。觚爵の禮法に則り御酒を傾け乍ら、朝は臺臨に伍した鸕野讚良の上氣した頰を盜み見た。如何なる風の吹き囘しか。今の今迄、時卋に流され、男妾の如き、死に損なひの子息に感けてゐた捨て猫が、政に頸を出し、皇后尼子娘を差し措いて女帝の如く振る舞ふ其の眞意。
「其の腰拔けの尻馬に乘つて歸れば良からう。山猿の孫なぞ見度くも勿い。」
と唾棄されて泣き崩れるしか能の勿かつた雌鶏が、何に鳥憑かれた物やら。禁裡の大御心に親ら御伺ひを立てた、中々見所の有る此の度の懷柔籠絡。斯樣に頭が囘はるのなら、外征を忌避した淡海帝を、逆に說き伏せる役にも立つたで在らうに。國の太母に目覺めた遲蒔きの女御に、今少し早く出會ひ度かつたと、朝は獨り言ちた。
「御妃と親王は淡海帝の故地、多武峰の岡宮で、禁足にも等しき憂き目を强ひられてをると云ふのに、髙市王子の立太子は安泰、山門の政に出る幕は勿いと許りに、竺志から下向した皇后、胸形の姬は念佛三昧の日日。今は亡き大田王女は御妃と手を取り、外征を忌避する先帝の服喪に隨ひて、竺志の勑命に叛いたにも拘はらず、今以て朝の寵愛を賜り、御卋嗣ぎの大津王子も其の庇護に與るとは如何な物か。譬へ一度、御妃が不義に搖らいだと雖も、國を憂ふ心に上下も天地も有りませぬ。何故に此の積年の仕打ちに堪へねば爲らぬのか。皇胤、姓氏に位德の序、有りと雖も、虛ろに眺めてゐる丈けでは石木も同然。抑も、唐土に竺志の本貫から追ひ遣られて、吾等が山門の本貫に轉がり込むとは何事か。天孫の風上にも置けぬ其の所業。何時何時、太宰の府に蜻蛉返りするやも知れぬ、腰の据わらぬ阿每の海族に髙御座を讓るなぞ、悍馬を野に放つも同然。況んや、飛鳥の京は山門の本貫、地は血也。山門の地は山門の血で固めずして、圡の石据ゑと爲りませうか。親王が御健勝で有れば、斯樣な辱めを赦す事は有りますまい。」
「然うは申しても、向かうは竺志の皇后。」
「竺志とは何ぞ。皇后とは何ぞ。」
「其れは宗主の。」
「宗主とは何ぞ。」
「其れは。」
「今さへ、なにかといふべからず。」
不比等の一喝に迷へる太母は陶然と頽れ、嚴づ靈の如き叱責が、惠まれ勿かつた父と夫の情愛と交錯し、爲す術も勿く其の身を任せた。
「向かうが竺志の皇后と云ふのなら此方は山門の王后。何の不足が有りませう。古道の本貫、山門は竺志に非ず。天道は山門に在らず。天孫は何故に天下を要じ給ふのか。見晴らしの良い髙天原から降り、竺志から山門に下り。次は何處へ下るのやら。山門を山猿と罵る己の方こそ、落ちた木に登れぬ猿では在りませぬか。山門の古道は上りも下りも致しませぬ。外樣の海族に幾ら蹈み荒らされやうと、生を賜つた邦圡に根を下ろし、唯の一步でも蹈み違へずに其の本貫を衞り續ける事、身の上の患ひに挫けぬ親王の御姿の如し。然れど、其の親王の御盡力に赦された歲月は後如何斗りか。俯仰天河に愧ぢずと申すなら、最早、其れ迠の事。」
鸕野讚良の舘の出入りを赦された不比等の邪な諫言は、女王の濕氣り切つた情念と、乾き切つた狡智と慾望に易易と火を點けた。鎌足の忘れ形見は、幸の薄い母子の代辯者に成り濟まし、眼を逸らす事すら赦さ勿い。溫和しく廉節を護つてゐては、草壁王子は皇位から取り殘される。此の儘、死んだ犬に集る蚤で終はるのか。其れは威しで在つた。髙市皇子や大津王子とは違ひ、此の女には取り入る隙が在る。然も其の上、鸕野讚良を追ひ詰める事で、打ち拉がれた母心に怪しく光る物を不比等は見た。代代、選ばれし女の咒ひが人人を服へた、往にし方の妃巫女の能を。史の裏で蠢く女王の能を信じた。
皇后、始め從り今に迄るまでに、天皇を佐けて天下を定めたまふ。侍り執りたまふ每之際に、輙ち言ふこと、政事に及し、毘補たまふ所多し。
と後の卋に傳はる隱政の始まり。其の腹心は、甘い毒舌で唇を潤し、耳打ちする、憑き人の影。
「此の不比等に策有り。」
其の一言に、藤かかりぬる木の如く、物狂ひの巫女は絡み取られていく。
玉襷 畝火の山の 橿原の 日知りの御代ゆ 生れましし 神のことごと 樛の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを 天にみつ 山門を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離る 夷にはあれど 石走る 淡海の國の 樂浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の尊の 大宮は 此處と聞けども 大殿は 此處と言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる ももしきの 大宮處 見れば悲しも
ささなみの 志賀の大わだ 淀むとも
昔の人に またも逢はめやも
ささなみの 志賀の辛崎 幸くあれど
大宮人の 船待ちかねつ
淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば
情もしのに 古思ほゆ
竺志の太宰の府から下向し、逢坂の關を越えて、在りし日の淡海大津、天離る夷の京に足を伸ばした其の漢は、息長帶比賣の日嗣、品陀和氣に追ひ落とされた忍熊王を偲び、灰土で肥えた夏草の眩しき渚に慰撫鎭魂の咒歌を獻げた。武内宿禰と五十狹茅宿禰、智謀の限りを盡くした腹心の資性で勝敗の決した、天下の分水嶺。倭寇率ゐる精兵に進退窮まり、背水に身を投げ、川床に沈んだ哥枕。
淡海の海 瀨田の濟に 潛く鳥
目にし見えねば 憤しも
淡海の海 瀨田の濟に 潛く鳥
田上過ぎて 莵道に捕へつ
もののふの 八十氏河の 網代木に
いさよふ波の 行く方知らずも
宇治の流れを漂ふ忍熊王の骸を辿る樣に川面を下り、飛鳥の地へと指南して、背にした北辰を巡る王家の興亡。未だ浮かばれぬ淡海帝の行く方に思ひを馳せれば、近江朝の沒落ですら、壹代限りの主の去つた箱庭。萬卋壹系を誇つた太宰の府の荒廢を前にしては、其の侘しさすら瞬き獨つの果敢勿さでしか勿く、總ては路傍の石に等しき無情の沙汰と云ふ人の卋から、徐かに眼を鎖ぢた。
飛鳥宮に至つた漢は、召し上げた主君に相謁える可く、衞門府に導かれて大極殿へと向かつた。倭絹を惜しげも勿く纏ひ、一目で扶桑の駿馬と知れる其の瀟洒な身の熟しは佰官の眼を惹き、幽かな嫉みの漣が遠卷きの衆眉を嫋いで、庭内の府から府へと聯なつていく。時に、皇貴妃の推擧で不可解な敍位を果たした、草莽の臣を氣取る若造に、朝堂の裏方は竊かに逆撫でしてゐた最中。不比等も亦、鼻白む者達の標的と爲つて、後ろ指の鏃を背負ひ戰つてゐた。先の大亂で大友王子に附いた中臣氏と云ふ丈けで勿く、先帝の右腕として謀虐の限りを盡くした鎌足の嫡男と云ふ丈けで、喧嘩腰の者も居る大海帝の御卋で、憚る事を知らぬ不比等の周りは、必然、敵を搔き輯める事と爲る。其の逆風を鼻息獨つで鮮蹴り、囘廊を橫行闊步して見渡せば、位階に感け、賜祿、各差有る事に目抉らを立てる佰官の狂宴。衣冠束帶と引き換へに土地と暴力を手放した豪族は、今も目先の欲に振り囘されてゐた。精精、人の彌榮を逆恨みしてをれば良い。餘所見許りしてゐる者は、昇段の階では勿く、平地で躓く。不比等の眼路は旣に位祿の先を射拔いていた。竺志と山門の王族で固めた律令は、水と油の入り混じつた泡の樣な物。孰れは彈け、冠履倒易の刻が來る。否、其の刻の鐘を鳴らすのが己の密命。と込み上げる愉悦で綻ぶ不比等の相好。其の獨りで脂下がつた異端兒と擦れ違ひ、何事かと振り返つた漢が獨り。名を柿本朝臣人丸。
夷の朝が直直に太宰の府から召し上げ、常色の海幸彥と山幸彥、薩夜蔴から大海人へと仕へる譽れを賜る事と成つた、後の卋に竝ぶ者勿き歌聖は、「人丸」と何度號つても「ひとまろ」と發して讓らぬ御國訛りに呆れ、其の頑冥な山門の風物に終生馴れる事は勿かつた。巫祝と獻哥を生業とする一族に產まれ、朝堂に馳せ參じ乍ら、數多の古哥を奉つた竺志の名家。阿每氏の隆盛と倶に衣冠盛時を賜つて來た賢臣の眼に、僞りの宥和で其の場を取り繕ふ合議の妙は、互ひに蚤を毟り合つて輪を描く猿の群れに見えた。唐土の進駐と地震の大禍に、哥枕の數數を打ち碎かれた人丸に取つて、大亂を經た後とは思へぬ程、長閑な東國の氣色に抱く摑み處の勿さ。此の空疏な習俗の何を、如何に詠む可きか。更に念ひ惱む事と爲る。王家の榮華を謳ひ上げて來た哥心は、日輪の女神も岩戸に隱れる國難を前にして、餘りにも無力で在つた。畢竟、天孫の建前を潤色する、御餝りでしか勿い長哥と三十一文字に、魂の濟ひは有るのか。失つた詞藻の風穴で搖れる文弱の徒。其の當て所勿い逍遙の先に、星辰を逆行する未曾有の天變が待ち受けていやうとは。寄せては返す亂卋の徒波。力盡きた扶桑の京で詠み盡くした筈の挽歌を奉る爲、人丸は今一度、涸れ果てた詩情を振り絞る事と爲る。