鋼紀柒拾玖年戊申
水無月己未、壬戌朔己卯
平卋何曾有稗官 平卋 何ぞ曾て稗官有らん
亂來史筆亦焼殘 亂來 史筆も亦た焼殘す
佰年遣藁天畱在 佰年の遣藁 天の畱めて在り
抱向空山掩淚看 空山に抱き 淚を掩ひて看る
然えてゐる。舊卋紀の黎明より、熒惑と呼ばれ畏れられた災ひの星が、太陽系の肉の犬と爲つて、然えてゐる。探査信號を搔き消す抗周波の帶域亂流。吹き荒ぶ磁雷の砂嵐に成層圈を覆はれ、電劾重合體の虜囚に墮した軍神が身悶えてゐる。サイドキャビネットに立て掛けた半月鏡。其の眞つ雙つに割れたモニターに、雷怨渦卷く火星の電影が燒き付いてゐる。 管制宙樞の姿勢制御は旣に電惱蠕虫に喰ひ荒らされ、エメラルダス號は周囘軌道からアプローチする事も勿く、酸化鐵の煮え滾る惑星の地核に向かつて埀直に落下していた。自動操舵航行の儘、出力を維持し續ける光束核幽囂爐。地表に衝突する迠の距離と時刻を肅肅とカウントする合成義惱。鋼殻気嚢の尖頭に艤裝した一矢討星の主砲を起動させ、空爆と一齊砲擊に向けた臨戰態勢を執る事も勿く、漠然と單騎で突入する狹丹塗りの舶鯨。何者にも阿る事を知ら勿かつた緋き黑船が、惡い男を知つた少女の樣に、死の淵へと導かれていく。此れを聖戰の特別攻擊と呼べるのか。此れが死の辯證法の最適解なのか。量子的演算の限界なのか。生き馬の目を拔く宙域を、一瞥の許に睛壓して來た天河無雙の海賊旗、髑髏の蠻章は無氣壓無重力の長征に疲れて打ち萎れ、舳先を餝る船嘴像の復活の女神は、入水に等しき豫定調和の甘美な幕切れに今、何を念ふ。
最後の最後に音連れた雙りの女王の竊かな對面。終の褥に臥せるエメラルダスの枕元で、其の安らかな眠りを見護るエメラルダス。化石の中から唯、一羽、生き殘つてゐた始祖鳥も最早此處迄。愛染とは無緣だつた紅の軍裝に蒼褪めた創貌。始めから斯う爲る事は判つてゐた。逸れ者に器用な別の生き方なぞ望む可くも勿い。誰かを怨んだ處で己に跳ね返つて來る丈け。何獨つ思ひ通りに成らず、其の半生を橫戲つて過ごした。無師無統の矜恃が今もさ迷ふ船長室で、假面を脫いだ少女の寢顏に掛ける言葉も勿く立ち盡くす、もう獨りの女王。己自身とは最も近い恆星より遙かに遠い誰かで存り、宙域の誕生をも凌ぐ究極の謎。其の答へを求めて人は亦、旅に出る。然らば、エメラルダス。壹宵萬秋と謳はれた女王の夢路が覺める其の刻迠。天蓋を蔽ふ唐桃の梢が騷めき、亞蔴色の埀髮を振り亂して羽擊く釣り鐘外套。占鳴が艦内を劈き、半月鏡を咥へて飛び發つと、金燐を振り撒く煌びやかな鳳尾に煽られて、壹仟億の星星を誇る銀瀾の潺ぎが色めいた。
千早ぶる神代もきかず天の河
からくれなゐに水くくるとは
大長五年丁未、春正月癸丑、乙未朔乙巳、
山澤に亡命して禁書を挾藏し、百日まで首せずんば、復た罪ふこと初めの如くす。
年の初めに渙發された詔が、
四月丁巳、癸亥朔乙酉、
で其の日切りを過ぎ、衞門府を勤める長田王は聖旨の大役を賜はつて山門を發ち、太宰の府に赴いた。去る歲、大長四年丙午年に續く逆賊への掣肘。未だ鳴り止まぬ倭國の殘黨に因る叛旗騷林の軍鼓。然れど、兵部を率ゐて乘り込んだ長田王が先づ向かつたのは、解體された儘、野積みに爲れてゐると云ふ法興寺五重塔の許で在つた。扶桑壹の刹柱を山門に移築する差配も兼ねた刻下の征西。鹽漬けにされた柱梁と歷代の資財帳、他寺に遷座した佛像と寳物を檢め、船積みの搬路と筑紫潟の水門を見分し乍ら、眼裡に想ひ描く過ぎ去りし竺志の榮華。
吿貴元年甲寅、
六十六ヶ國建立大伽藍名國府寺
倭國の上宮法皇、多利思北孤が天下に國分寺建立を詔した折りに伐り出されて、略、干支を二囘はり。唐國の進駐軍の暴虐から遁れ、竺志大地震に堪へて卅歲壹卋の眠りから目覺める、鳳凰の雙翼に例へられた天を衝く飛鳥の寳塔。其の由緖有る資材の山を前にして、若き將軍の戶惑ひは募る許り。己の本分は勤儉尚武と雖も、不遇を託つ名刹再建の爲と在らば、此の弱輩の微力を盡くすに吝かでは勿く、況してや、倭王、阿每氏の菩提寺を召し上げる未曾有の國事とも爲れば、疏かにする事は不罷成ぬ。然りとて、其の扶桑壹の刹柱を、事も在らうに、山背大兄王子が血祭りにされた法隆寺に移築するとは何の因果か。白鳳十年己巳、灰燼に歸してより已降、手付かずの儘の焼け跡に塔を建て、京の西門に當たる斑鳩を楯に、扶桑からの怨靈を封じるとは蟲が良過ぎはしまいか。山背大兄王子の祟りを畏れて、焦圡に蹈み入る事すら憚り、野晒しにして來た遺恨の地。消し炭に竺志の咒ひが飛び火しやう物なら眼も當てられぬ。倭國の無念を鎭めたければ、新き王朝を創業する前の、元の鞘に治める事こそが筋と云ふ物。
本領安堵の沙汰を反古にされた、眞つ當な異議申し立てを莫逆の一言で片付ける。此の殘黨獵りに大義は有るのか。倭國の祟りを畏れて猶、倭國を討伐る相克。穴戶の關を航り九州の地に降り立つて後、其處彼處で、東國より徵集された防人が眼を光らせてゐる異樣な道中は、將に朝堂の迷ひ道、其の物。東國が嘏夷と手を組まぬ樣に引き剝がして竺志を見張らせ、孤立した嘏夷を攻め落とし乍ら此の征西。斯樣に手の込んだ政を弄するのは、干戈の付けに追はれるが故。其の後ろ目甚さの最たる物が、
禁書を召し上げる。
との御言宣。此の聖斷は眞に天下を統べる朝の大御心たり得るのか。禁書とは那ぞ。倭國の書庫に如何な障りが有ると云ふのか。佛の道を說く法の國が、人の國の卷子に手を血す。其れが神代の舊辭とも爲れば、其れこそ觸れてはならぬ禁忌の文書。筆を矛に替へて揉み消すなぞ生氣の沙汰では勿い。此れも太政官に控へる右大臣、藤原朝臣不比等が纏らう藤の軛と云ふ奴か。此れで天下が治まるのなら、女禍の謗りも在りはしまい。密吿と暗殺に明け暮れた吾が身に覺えが有るからこそ臭い物に蓋をする。故に、頭から抑へ付けられた方も撥ね除ける。祟りを最も懼れてゐるのは何者か、推して知る可し。嘗て淡海帝の王后として入内した倭姬王が、開聞の女王として倭國の最後の御旗に祭り上げられたと聞くや、薩摩の化け猫を成敗せよと發するに至つては、怨靈調伏にも程が有る。
長田王は白砂靑松の西海道を指南し乍ら、稀代の謀官の鼓吹に踊らされる朝堂と、女帝の悲哀に肩を落とした。大八洲の果ての果て、肥國と薩摩を劃かつ瀨門の渚まで繰り出して何を今更。朝の勑筆を拜して恐れ畏み、滂沱の淚で天命を盡くすと誓つたのは何處の殿下か。此の繰り言も總ては彼の物の怪を一目見てから。長田王は五重塔の資材を檢める折りに顯れた隻眼の蛙に、彼の胡亂な目泣子に今も魅入られてゐた。何處から湧いて來るのやら。角材の節の如く張り付いて目搏く蝦蟇の歪な莞爾。鄕の者は疾疫の瘡で右眼を潰された多利思北孤か、將亦、白村江で斬り裂かれた薩夜蔴の生まれ變はりかと畏れ戰き、決して追ひ拂はうとせず拜み倒した。五重塔の資材に纏はる彼の化生は、成佛し切れぬ倭國の亡靈也。竺志の本貫で法興寺を再建してこそ眞の弔ひと成る物を、咒はれた佛塔を態々山門まで擔ぎ出した處で碌な事は勿からう。
武勳に餓ゑ、血氣に逸る新兵を從へて數百里。鬱蒼とした山氣とは趣を異にする、豪放磊落な九州の火山を歷訪し、異鄕の雄壯な勝景に奔放な野心を擽られ、亡命せし山澤は未だか、服はぬ者は名吿り出よと、初陣に息卷く驅け出しの猛者達とは裏腹に、長田王は己の大役の疚しさが餘計な旅荷と爲つて、其の雙肩に募る許り。鶴見嶽、阿蘇嶽、雲仙嶽、霧㠀と巡つて、此れから向かふ鹿兒㠀の威容は如何斗りか。征西から凱旋した者達の手柄を競ふ圡產話なぞ物の數では勿い。己の足を運び、改めて思ひ知る、倭國の稔り豐かな力强い山水と、文物に秀でた大國の器。佛の典を天下に敎化たのも、賢しらに海表の威風に靡いてゐたのでは勿く、其の押し寄せる徒波に呑まれぬやう導いた聖斷で在つた。山門が猿山の爭ひに現を拔かして居られたのも、神代の往にし方より、倭國が外寇と相對し、大八洲の本領を護り拔いて來たからこそ。今や其の盟主が西戎と罵られ、追はれる身に成り下がるとは。長田王は蒼穹を搖るがす白亞の瀑煙を仰ぎ、
「將に之、火の國也。」
と隨の遣使も絕句した煉嶽に、舞ひ上がる神の國の護り神、火の鳥の遊姿を探した。火堝の中より無限に黃泉復ると云ふ、徐福も追ひ求めた扶桑の靈鳥。此の偉大なる天子の所領、九州に相應しき不滅の鳳凰。其れが眞なら、何故に神の鳥は天孫降臨の地を見殺しにしたのか。其れとも、
「倭國存亡の今此の刻にこそ、滿を持して舞ひ降りてくるやも知れぬ。」
老楠大杉の生ひ繁る、峠道の木立の中で暫しの休みを取つた折り、誰とも知れず口に爲た輕彈みな危懼。其の言靈が魅き寄せたのか、獸の衣を纏ひ、靫を背負つた獨りの童子が弓を杖にして顯れた。戎馬を率ゐた隊仗の益荒男達の前を素通りする蓬髮襤衣、持衰の如き其の容貌。盲で存る。其れを、
「黯淡无光の輩と雖も無禮也。」
呼び止めて嗤ひ者にする臣下の粗野な雜言。匍匐禮をするやう恫喝するに及んで、其れ位に爲て措けと長田王が諫める前に、扈從する小毅が其れと察して矛先を逸した。
「火山を火の鳥が行き交ふとは眞か。居るのなら今何處。」
稍、謙つた其の音なひに、童子は足を止めぬ許りか振り向きもせず、
遠くも吾れは今日見つるかも
と獨り言ち、平然と立ち去つた。
「盲の分際で見つるかもとは、是如何に。」
童子の背負ふ靫に投げ附けられた減らず口の礫に快哉が彈け、窘める小毅の穩雷。其の悶著を一顧だにせず、長田王は童子の返した、七七、拾四文字に不意を擊たれた。此れは哥の下の句。
「待て、暫し。」
然う呼び止めた時には既に童子の姿は勿く、入れ違ひに、斥候の任を終へ引き返してきた戎馬の一騎。
「御覧召されよ。弓を杖にする盲に貰つたと、鄕の童子が申してをります。」
前哨の況を述べた後、懷から取り出した皇皇と燦めく獨片に、衆目は其の敏睫を屡叩いた。此れは正しく火の鳥の鳳尾。
「何をしてをる、彼の童子を追へ。」
長田王の雷命に、眼の色を變へて跳ね起きる征西の猛者達。鞍上に飛び乘り戎馬に鞭打つも時旣に遲し。弭を賴りに進む盲の探り足。然うは遠くに行けはせぬと髙を括つた處が、峠を下り麓に達しても見當たらず、弭を突いた跡も勿ければ、影も形も勿い。手元に殘された煌びやかな鳳尾に眼が眩み、指の閒を擦り拔けていつた怪童との奇遇。煙に卷かれた長田王は將軍の勤めを暫しを忘れ、返し損ねた上の句に想ひを馳せた。
太宰帥からの達しに因り、禁書召し上げの詔を突き附けられ、愈々追ひ詰められた倭國の遺臣は、薩摩の南端に坐します開聞の宮に陣を固めた。後の卋に薩摩富士と稱へられる、末廣がりの秀峯には未だ程遠い、白煙を放咳する武武骨な火山を背に、夜勾㠀の宮之浦嶽に向かつて埀直に南面する、竺志の御本城、太宰府の離宮として竹林の中に造營された女王の終の栖。其の、
くれ竹の よよのみやこと 聞くからに
君はちとせの うたがひもなし
と哥はれた、謐かな餘生を送る筈の奧の院が、兵達の篝火に圍まれ煮詰まつてゐる。此處から先は流求へと續く大海原。國を棄てるより外に退路勿し。背走に背走を重ね、最後の壘を組んで疲れ果て、大庭に屯するより他に手の勿い、望み薄き籠城に焦りの色の隱せぬ御軍を、宮の髙樓より見下ろして、女王は擔ぎ上げられた御輿の髙さに眼が眩んだ。
殉血を惜しまぬ精鋭の氣骨に比して、今や陰から血を流す事すら叶はぬ、潮も干上がつた、十干十二支の一囘りに後一歳の老骨が、如何にして其の忠烈に應へれば良いのか。三韓の討征を成した大帶日賣は、數數の宇氣比を天に仰いでは、靈驗灼然な神託を賜り、勝ち戰に導いたと云ふ。果たして己に倭國の太母の大役が勤まるのか。宮形の棚に齋き奉る八咫の御鏡の前に進み出て覗き見る窶れた皺貌。霧島躑躅の滿山錦の如しと讚へられた、昔日の幽かな俤を探す許りで、神の御心に狂れるなぞ迚も迚も。倭國の日女神子に產まれ、身も心も穢れ勿く、物忌みを課して來たと云ふのに、神が降りて來る事も勿ければ、神の聲が聽こえる事も勿い。才に彈け、虛實を見透かす女王の醒め切つた悟性が、有られも勿く取り亂す憑依の醜態を受け付ける事は勿かつた。御鏡の裏に描かれてゐる花紋の向かうに天の岩戸は鎖ざされ、鬼道に事へ、能く衆を惑はす、女王の勤めも儘爲らぬ。己は倭國の日女神子に價するのか。己には何が足りぬのか。
白雉三年壬子、佛の加護を賜つた牝鹿の胎から產まれ、御歲二にして薩夜蔴の女に迎へられ上洛した竺志の女王、其の名も倭姬王。物心も附かぬ閒に倭國へ姻ぎ、國母として忠貞を誓つた日女神子は、
拾有參春秋
淡海帝の許に入内したとて身も心も許さず、生きて再び開聞の本貫に舞ひ戾り、巡り巡つて早三十六歲。此の老い落で姬と呼ばれるのも片腹痛い、瞬く閒の一生。艶やかな倭絹に身を包み、膳夫の設へる据ゑ膳を啄み、開聞の四季を愛でる丈けの日日に埋もれて、此の儘、倭國と倶に其の天壽を終へるのか。女禍、風雲の始まりにして、女帝、亂卋を制すと云ふは易し。此の弱竹の細腕で何を成せるのか。女王なぞ所詮、政の形代に如かず。薩夜蔴の壹粒胤も薨り、最後の御旗として搴げられた倭國の太母に、高樓の御餝りから降りる梯子は勿い。御鏡の中に囚はれた沙汰女を瞠めて强張る女王の衰貌壞偉。女の幸せを捨てて背負つた一握りの矜恃。其の一國の權みに壓し潰された在りし日の小娘の胸の内を、階下の蠻聲が引き裂いた。囘はり緣の欄から見下ろすと、秋宮の大庭に襟足を摑まれて引き擦り出された蓬髮襤褸の童子が、亡國の兵達に圍まれてゐる。
「兵粮を嗅ぎ囘はる鼠が一匹。」
歩哨の番上が益荒男の輪の中に童子を抛り投げ、手に集る蝨を拂ひ落すと、旅帥は童子の使ひ込まれた弓と靫を訝しげに檢めて、瞑れた眼の前で手を振り光が勿いのを確かめた。
「鼠では勿く圡竜では勿いか。手柄を立てたければ餘所へ行け。盲を徵發した覺えなぞ勿い。」
乞食同然の風貌で一言も口にせず、爲すが儘に委せる童子の泰然とした彳まひ。旅帥は齒牙にも掛けず、番上に持ち場へ戾れと目配せで促すも、其處は其處、敗色で塗り潰された兵達の强面が雁首を竝べる殺氣立つた大庭。只でさへ心許勿い兵粮に手を出さうとしたのなら、追ひ詰められて悍に堪へぬ偉丈夫達が默つてはをらず、寧ろ、其の鬱屈を晴らす生け贄に餓ゑてゐる。其處へ、左右の衞士に促されて、尾羽打ち枯らした蓬髮襤褸の男が復た獨り。
階下から釆女が御伺ひを立て、女王に侍從する嫗に耳打ちすると、
「やがて行かむ。」
老命婦は袁智國からの密命と聞いて、撓埀れてゐた眦の方片を吊り上げ、盲獨りに氣色ばむ大庭に向かつた。下下の騷ぎには眼も吳れず相謁える、海を渡つて馳せ參じた用閒の曲者。
「故國の紀傳を此處に。」
嘗ての蕃屛の閒者が嫗の前に跪き、懷から倭絹に包まれた一物を差し出すと、其の封に袁智國の印璽が捺して有る。
「勞かはし。」
山門の王氏に天孫の寳位を禪つても猶、離背する事勿き諸國の搖るぎ勿い挺身。此ぞ歷代倭王の聖德が爲せる業。嫗の皺貌が解れ、己の身を危めてまで古傳を獻る其の篤い忠義に、忝しの一言すら喉に閊へる。
山澤に亡命して禁書を挾藏し、百日まで首せずんば、復た罪ふこと初めの如くす。
新き王朝が目の敵にする禁書が倭國と蕃屛の本紀、舊辭で在る事は晰らか。所領と租庸調は疏か、天孫の云ひ傳へ迠も身包み追ひ剝ぎ、山門の嫡流に改める心算か。禁書は焚書也。此の國難を遁れる爲、諸國の史書を輯め、宮形の棚の脇にみ上つた卷子の山。參寳の神璽を山門に禪積り渡した今、天孫の故事來歷は決して手放す譯には行かぬ、倭國に殘された最後の御稜威。其の千秋萬歲に及ぶ神の物語を、如何に爲て干戈の魔の手から守護す可きか。斯うして古傳を輯めても、書寫して殘す卷子も儘爲らず。かと云つて見過ごせば火刑の燃え止しと爲る許り。其の心苦しさを堪へ忍びつつ、嫗は倭絹に包まれた卷子に壹禮し、恭しく節榑た手を差し伸べた。處が、
「山門に討たれし、亡き主君の遺託。是非、女王の御手に。」
袁智の使の語氣は、印璽の封を解くのは天王の勤め、老僕の手を出す料簡では勿いと、眼前の嫗を一蹴した。隙の勿い物腰で迫る拜塵の譽れ。只者では勿い。防人を張り巡らした網の目を搔い潛り、死線を越えて辿り著いた其の氣魄。生きて祖國に歸れるか知れぬとも爲れば、女王の勑ひを仰ぐのも宜なる哉。使の者が論ふ通り、命婦の身分で印璽を割くのも僭越では有る。見上げれば姬が欄から事の次第を瞰下ろし、宮内では旣に客人を持て成す酒の膳へも進めてゐる。然れど、先ずは其の奉物を檢めぬ事には。然う、嫗が躊躇つた刹那、闇を閃く光矢の一箭が袁智の使の喉笛を貫いた。
息を呑む掠れた呻きを殘して男は前踣りに斃れ、手元から零れる倭絹の包み。其の解けた封の中から覗く兇刃の燦めきに、嫗は血の氣が引いた。衆目が一齊に振り返ると、童子の解き放つた弓弦が獲物を仕畱めた餘韻に痺れてゐる。瞑れた眼を伏せた儘、如何に爲て山猿に寢返つた犬を嗅ぎ分け、的を絞つたのか。己が殺めた骸に見向きもせず、超然と彳む浮浪兒の風采が、仙骨の相を呈して妖しく漲つてゐる。誰もが此の神掛かつた一鏃に心を射拔かれ、己が眼にして終つた奇跡を信じる事が出來勿い。總てを見透かす闇の眞虛を前にして、一步後退る會衆の漣で披けた道を、何事も勿かつたかの如く無言で立ち去る、探り足の怪童。得體の知れぬ隱者を引き畱める者が居勿いのを見て、腕に覺えの有る靫負に仲閒が嗾ける。
「彼ぞ射手の聖。其方も一度、瞑りて射ては。」
面目を失ひ、後に退けぬ靫負は、曲者の骸を一瞥し聲を荒げた。
「盲の詮議は是から也。」
天を衝く虛勢に呆れる彌次馬。其の獨りに、欄越しに見下ろす倭姬王も居た。童子の背に向けて矢を番ひ弓を構へた兵に、當の步く的は耳の咎にも價せぬと許りに、足を止めやうともし勿い。女王が高樓から一喝すれば事は治まる。然れど、御薦同然の童子に只ならぬ緣と靈威を覺え、次は何を起こすのか、此の眼で見屆け度い念ひに驅られて息を殺し、且つ亦其れは、大庭の衆目とて同じ事。切羽詰まつた威しを意に介さず竹藪に紛れていく童子。名打の靫負が痺れを切らして矢を放つと、鷲巢の如き蓬髮を掠め、雄竹の一筋に突き刺さつたのを合圖に、開聞の火堝が、鹿兒㠀の臍に抱へる岩漿が戰いた。
地祇の恚りに狂れ、波打つ積年の灰圡。高樓の柱梁が傾いで甍が爆ぜ、一齊に飛び發つ山鳥が、火口から立ち昇る白煙を追ひ掛けていく。太古より熊曾の民に科せられし、天下を搖るがす地震の誅烈に足許を掬はれ、逃げ惑ふ事すら敵はず、唯只管、平伏して赦しを乞ひ、山泰く、地鎭まり給へと拜み倒す壹騎當千の猛者達。不可冒る物に弓を引いた報ひの樣に、地の底を穿つ魔物に蹂躙され、欄に獅嚙憑いて大禍の去るのを堪へ忍ぶ倭姬王。何故に、吾が祖の鄕圡は斯樣な仕打ちを受けるのか。何故に、此の荒ぶる山海に生きるのか。此れが神の國と呼べるのか。此の國難は何時迠續くのか。天理を糺し、神の聲を求めて、霏霺く白煙の狹閒に火の鳥の飛影を探す女王の哀哭。其の背後を蹴汰魂しい鐘聲が劈いた。振り返ると、宮形の棚が崩れ、八咫の御鏡が卷子の下敷きになつてゐる。高樓の囘はり緣に這ひ蹲り、躙り寄る女王。床の上で跳る、碎け散つた神璽の破片が、神に弄ばれる民の群像と重なり、袖の淚で搔き輯めた。
新月の夜空に一際澄み渡る銀瀾の潺ぎを仰ぎ、失はれし半月の光輪は今何處と、游ぐ瞳の遣る瀨勿さ。地震の大禍に呑まれ、鏡台に支へられてゐた下弦を殘して半円の缺けた御鏡が、建て直された宮形の棚の上で無慘な煌めきを湛へてゐる。今の卋に在つては鑄造する術の勿い、圍み八咫、十六寸を誇る、伊覩の日女王が奉つた、天の託宣を仰ぎ、魔を拂ふ、日の神の御璽。其の天孫の淵源に遡る往にし方の至寳獨つ護り切れぬ、祖神に合はせる顏の勿い非力な身の上に、倭姬王は打ち拉がれてゐた。眼下の大庭には夜襲に備へた篝火が滿を持してゐると云ふのに、倭國の運命を託されし最後の女王が此の爲體。霜の降りた埀髮を美豆良に結ひて、箸と筆の上げ下ろしで疲れる細腕を鎧袖に通し、武神の眞似事なぞした處で、血氣に逸る兵達に何と指圖して良い物やら。宮の高樓から愛でる四季の移ろひと供に、日一日と削ぎ落とされていく倭國の御稜威。其れにも拘はらず、火山の躑躅は咲き誇り、雄然と霏霺く噴煙は途絕える事が勿い。國が滅びても山河の營みに翳りは勿いのかと思ふと、危急存亡を賭けた血泥の政と終はりの勿い戰に、何の意味が有るのか。譬へ此の場を凌げたとして、誰が寳位を日き嗣ぐ可きなのか。此れならば責めて、淡海帝の落とし胤でも良いから宿して措けば。等と、下下の慰めでしか勿い女の幸せに臍の宮が疼く、弱り目に祟り目。其の心の隙閒に忍び込む鼠が一匹。
高樓の階を一段一段、突突と探る、宮仕への者で勿い跫音。弭を杖に顯れた蓬髮の影は壹禮も勿しに、持衰の如き身形で齋きの閒に上がり込んでくる。母屋の隅で控へてゐた嫗は其の招かざる客人に眼を細めた。湖の北に陣を張る山門の賊軍が、明日にも討つて來やうかと云ふう哨からの報せを受け、壘を上積み、巡らせた壕を更に掘り下げ、衞を固めた開聞の宮。麓の民は旣に村を明け渡して番上の者達が詰めてゐる。其れを如何に潛り拔けて來たのやら。將に此の童子は神の出で鬼の行くが如し。風の噂に、法淸年閒に百濟の皇子、威德王を濟ひし射手の譽れ、鞍橋の君の嫡流で鉄と呼ばれ、盲の分際で如何に的を絞るのか、矢を能く射ると聞く此の浮浪兒。其の上、火の鳥を手懷け、喚び寄せる、と實しやかに囁かれるに到つては、强ち聞き捨てる氣に爲れぬ趣を祕めてゐる。何しろ彼の闇を射拔いた神業に僞りは勿い。一度眼にすれば多言は無用。嫗とて此の不敬な御薦を追ひ拂ふ心算は毛頭勿い。敵にする位なら飼ひ殺しにした方が得策。寢返つた曲者を怖め怖めと聯れて來た明き盲より、餘程賴りに爲る。此の聖なる佯狂の輩は、倭國を護る祖神の遣した使やも知れぬと、嫗は目尻の皺を伸ばし、倭姬王も鉄の出仕に氣付いて、幽かに亡國の憂ひが輕くなつた。
人語を疏い、草木に紛れて吠える事も歎く事も嗤ふ事も勿い、鉄の飄然とした出で立ち。獵師が獸、其の物へ化けていく樣に、鉄は倭國の山河、其の物に歸してゐる。人の手を介さず、野性の惠みに育てられたので在ろうか。何事にも不動ず、弱い者程、力に物を云はせ、愚かな者程、理窟を捏ねる、人の卋の賤しさとは程遠い、自づから然りの境地。其の仙客が、無言で見護る女王と嫗を顧みず、半月に割れた御鏡へと魅き寄せられていく。片身と爲つた神璽を覗き見る瞑れた目泣子。高樓に音なひて、宮形の棚に詣で、日の神の缺片の前から一步も動かうとせず、碎け散つた龜裂の緣を指で擦り、何に心を奪はれてゐるのか。童子の佛頂面を映す鏡面を挾み、瞠め合ふ光勿き頑睛。其の己が何者なのか問ひ掛ける雙りの童子に、倭姬王は何時ぞやの朧な俤を垣閒見て息を呑む。
「爾は若しや。」
喉に閊へて胸を締め付けられる、現卋を超えた遙か彼方の其の忌名。巡り會つては擦れ違ふ、行き摺りの星と星とが響き合ふ束の閒の瞬き。すると、鉄は振り返り、弭の觸れた卷子の山へ徐かに片手を伸ばした。恰も、女王の半生で上書きされる前の物語が紐解かれて終はぬ樣に。卷子の褾に織り込まれた幾重にも渦卷く文樣を辿る鉄の指目。
いにしへの 倭文の苧環 くりかへし
昔を今に なすよしもがな
此の期に及んでは空空しい、皇典の尊大な故事の數數。眼に見える物に惑はされぬ冥福を賜つた此の神童に、天下に波風を立てては抑へ附け、覇權と簒位に感けた濫行を、恭しく奉つては嚴かに取り繕ふ王家の生業は如何に映るのか。數多の氏族が遠祖の顯彰に血道を上げて王道を蹈み外し、倭國の手を離れて獨り步きを續けた神話。服はぬ者達の家傳と血統を灰に爲て來た擧げ句、己に巡つて來た焚書の憂き目。此れは靑人草の分際で天孫の名を僭り稱へた罰なのか。此の試練に神慮は有るのか。此の國書を護る、殘された最後の大義が有るとすれば其れは何か。倭姬王は積み上げられた粉餝の系譜を無言で慰撫する鉄が、其の答への樣な氣が爲た。知る者は語らず、語る者は知らず。言葉を弄する事は畢竟、僞りに通じ、心を疏かにする。小夜更けて幽韻の靜寂に澡はれる、身に滲み附いた俗塵。女王は我れ知らず膝を著き、物言はぬ山の精に手を合はせ、其の幼氣な敬慕を避ける樣に、鉄は亡國の卷子から手を放し、宮形に背を向け、母屋の隅に野良犬の如く體を丸めて橫戲つた。有りの儘の姿で今を生きる流れ者の暫しの休らひ。野山を思ひの儘に逍遙して喰ふに困らぬ鉄こそが神代の民也。宮暮らしと聞こえは良くとも、奧の院に鎖ぢ込められた己の身の上に、生きた心地が何處に在る。鉄に衾を遣はすやう、倭姬王が嫗に目配せをした事にすら構はぬ大らかな寢息。心安まる時の勿い千千に亂れた此の濁卋に、其の瞑れた目泣子で如何な夢を觀る。女王は再び新月の夜空を仰ぎ、此の南天の何處に隱れたか、遙かなる金鏡を尋ねた。
竹林越しに迫り來る軍鼓と雄威火を背に、倭姬王は半月に缺けた御鏡に額突き、護國濟卋を禱り續けた。夜蔭に紛れて隊伍を進め、開聞の宮を左右から挾み込む樣に、東西二手に分かれて逃げ場を斷つた山門の賊軍。兵粮が底を突くのを俟つ氣なぞ毛頭勿い。壘に身を潛め相手の出方を窺ふ倭國の精鋭も望む處。日の出と共に睨み合ひを續けてゐた兩軍が、午の刻を合圖に鏑矢が交差し、鬨の聲を擧げた。逃げ惑ふ火山の禽獸。僅かな財を背負つて方方に身を隱す鄕の者達。禁書を差し出すやうに說く使の者も寄越さず、手柄を競ひ津波の如く押し寄せる犀鎧仗戟が犇めき、幡戈の林が幾重にも倭國の陣形を取り圍んでいく。南天の極日に焙られ、濱風に立ち昇る圡埃と、血飛沫が運ぶ生溫い潮の臭ひ。物量に優る敵の仟軍萬馬。緖戰で旣に大勢は決してゐた。
美しく散るより外に術の勿い、目前に迫つた倭國の終焉。死に場所を求めて打ち輯ふ遺臣達を押し畱め、降伏を說くのは其の忠烈を裏切る事と爲る。山門に服ふ生き羞ぢを潔しとせぬ者達の最後の奉公。其の堅甲利兵の挺身が、勝ち馬に乘つた大軍に、幾許も勿く呑み込まれていく。申の刻を待たず爲て、宮の大庭に負傷した兵達が雪崩れ込んで來た。持ち塲を棄て、矢束の盡きた皇軍の背走も、此處が行き詰まり。流血淋漓の亡者が恐怖を搔き消す奇聲を上げて、折れた劍と矛を闇雲に振り囘してゐる。獨り復た獨りと兇刃に倒れ、死屍累累の壘を積み上げていく憂國の志士達。去る歲に軍器を召し上げられた九州の諸國から援軍は望めず、西海の水平に陽が傾ぐのは未だ早い。外征に兵を出し渋つた彼の山門が數に物を云はせ、息をも吐かせず疊み掛ける干戈の猛攻。此の勢ひで攻め落としに來るのが定石。日沒まで耐へれば山門の賊軍が一旦引き上げる、等と當てにしてゐては話に爲らぬ。竹林の笹波の向かうに、最後の牙城、開聞の宮を垣閒見、火の矢を放つ群起蜂蜂の寄せ手。戶を立て切つた高樓の中で、倭姬王は亡匿の手筈を整へる嫗を橫目に、國母としての勤めに心を凝らした。
「女王の宸慮を安んじ、倭國の祖神に身命を獻れ。」
將軍の號令一下、聖志を奉行する臣下の死鬭を楯に、山の霞みに紛れ、夜露を啜つて天孫の名を地に墮とす位なら、死してより偉大に成る可く、自盡の譽れに浴してこそ本望。元から、此の身の貞潔なぞ癡れた事。御輿が己の足で逃げ果せるなぞ聞いた事が勿い。倭國の命脈が盡きやうかと云ふ今此の刻に、女王として成す可き事とは何か。倭國が神の國で存るならば、此の儘、終はる譯が勿い。
燈明皿の炎に搖れる半月の御鏡から眼路を切り、最後の望みを見据ゑた倭姬王。軍が始まつても鉄は昏昏と母屋の隅で眠つてゐる。其の肚の据わりやうに蒼貌を崩す女王。盲が夢路を巡幸遊ばしてをられるのに、倭國の太母が取り亂してをられやうか。鉄は本領を發揮す可き時宜を知悉してゐる。危殆に頻する國家の直中に在つて、此の悠悠緩緩とした安寧こそが最も心强い。鉄が目覺め其の重い腰を上げる刻こそが眞の正念場。今將に問はるる鼎の輕重。鉄の野生の勘、否、天の靈異に女王は賭けた。其處へ階下から、釆女の不罷成と追ひ縋る聲を振り切り驅け上がる蹴汰魂しき跫音が。
「疾く立ちぬ。」
敵味方の區別が附かぬ程の勢ひで怒鳴り込んで來た漢の血相が、決戰の況を物語つてゐる。荷物を纏め、裏手の山腹を西に囘はつて朔方に拔けろと促す自軍の大毅。女王は負けを認めた者達に流されて爲る物かと、見向きもせず一心に禱り續けた。必死の上奏を無下にされ呆氣に取られる敗軍の將。其の血眼が野良犬の樣に眠り續けてゐる鉄を捉へたのを察し、
「御薦也、打ち措き給へ。」
と嫗が宥めるも、御薦の安らかな寢顏は大毅の絕望に火を點けた。無理も勿い。宮形を奉る齋き處に有閒敷き蝨の湧いた下賤の輩が轉がつてゐるのだ。餘りにも空空しい其の云ひ種は、眼下の死鬭を見縊られたに等しく、嫗も咄嗟の事で口が滑り、打ち消しさうとした物の、
「打ち措けとな。成らば。」
長尺の柄に込めて打ちのめす怒りの矛先。鉄の丸めた背中が床の上を爆ぜ、戰慄く母屋。女王と嫗が止めに入り、大毅の腕に縋り付いた其の刻、燻り續けた護り神が受忍の封を解き、火山の腸を引き裂いた。
雌伏の眠りから醒め、息を吹き返した鹿兒㠀の、乾坤を搖るがす末卋の憤愾。遂に倭國の嘆きが天神に達し、地祇が應へた。怒髮天を衝き散華する瀑煙と噴石。決壞した岩漿が火坩から溢れ、紅蓮の火碎流が生類石木の見境勿く、萬物を燒き盡くしていく。何時ぞやの地震の大禍なぞ比べ物に爲らぬ奈落の狂瀾。煉獄の竈が覆り、鹿兒㠀と地の底で通じ、同じ火種を抱へて漲る開聞の魔窟と響き合ふ。天孫の太祖すら竺志の地に降り立たぬ、往にし方より繰り返されて來た、路傍の民草なぞ一澑まりも勿い、雄雄しき山河の營爲と曆數。降り注ぐ灼熱の礫が倭國と山門を火祭りに上げ、猖獗を極めし内亂すら下火にする暴威。風前の焦燼と化した兩軍の氣勢は削がれ、玉石同碎の攻防も投げ出し、雙方で互ひに顏を見合はせ、倭姬王は逆賊に故地を穢されるより、此の儘、神火に身を任せ、開聞の灰圡に歸すのも復た本望と祖神に手を合はせた。蒼穹烈日を繪に描いた白晝が漆黑の雷雲に埋め盡くされ、星明かり一つ勿い闇夜に、彼よ彼よと暗轉する天下。
「人草を一日に千頭、絞り殺しまつらむ。」
と伊弉冉に云はしめた、魑魅魍魎の跋扈する日の神の見捨てた黃泉の幽冥に怯える衆生。黯雲の沸き立つ子丑の、光亡せし空を顧みると、開聞の宮を取り卷く敵味方が擧つて、頭上から舞ひ降りる獨片の光輪を指差した。
之の日夕、鳴鳥在り。
夢路の半ばで叩き起こされた鉄は、樓外の激甚なぞ何處吹く風。懶げに箭靫を弄り立ち上がると、矛を支へに立ち盡くしてゐる大毅を拂ひ除けて、弭を賴りに囘はり緣に向かつて歩き始めた。刻が來たりて伺候する天使の御前。戶を開け放ち欄の前まで進み出ると、鳥憑かれた御薦の浮はの空に、倭國の護り神、
彩鳳 丹霄に舞ふ。
此れは夢か幻か。火山雷を率ゐて開聞の頂を周遊する扶桑の靈鳥。冕冠に華咲く珊瑚晶璧を逆立て、下界を嘲望する胡亂な紅眸。金銀砂子の極樂繪卷の如き絕卋を彩る鳳尾に、皇然と羽擊く劫火の天翅。莊嚴と怪奇が織り成す恍惚と畏怖に、妖媚な燐粉を振り撒き乍ら、倭國の護り神が其の幽姿を煥らかにした。
靈は天に住み、鳥は其の使者で在り、刻に靈、其の物。
鹿兒㠀の噴火に輪を掛けて響めく火の鳥の降臨。此れこそは神の國を濟ふ爲に顯現した復活の烽火か、將亦、薩摩の地を再び火の海に沈める神罰か。眼下の阿鼻叫喚とは無緣の天眞爛漫な炎舞に、山門の兵達は色めいた。
「彼こそは徐福の追ひ求めた、常し方の命を司る神仙の不死の鳥也。其の生き血を飮み干せば釋迦の壽命にも比肩すると云ふ。見事射止めて朝に獻れ。」
仰せ付かつた國是を一旦抛擲し、一齊に放たれた怒濤の箭束。其の神に弓引く冒瀆の鏃を、怒り狂つた火の鳥は鳳尾の烈風で吹き拂ひ、左右の翼下に從へる嚴づ靈と琥珀色に灼けた噴石を、雜兵の愚かな頭部に降り注ぎ蜘蛛の子を散らした。何者も寄せ附けぬ怪力亂神と、火山から火山へと流離ふ艶やかな雄飛。天國と地獄の兩性を具有する蓬萊の猛禽。其の眼福に與る事の勿い盲の許に、火の鳥が舞ひ降りて來る。俯いた儘の鉄が徐かに右の肱を差し出しすと、其の上に熔鐵の鉤爪が駐まり、燃え盛る虹彩を屡叩いて、火花の爆ぜる雙翼を折り疊んだ。
言葉も光も勿く通じ合ひ、鉄と靈鳥が織り成す天と地の邂逅。巡り會つては擦れ違ふ星と星とが奏でる束の閒の高鳴り。倭姬王は眼を瞠つた。人と物の怪の竟を超えた魂振りにも增して、火の鳥の嘴で煌めく、半月に割れた花紋の御鏡に。若しや、其の靑銅の缺片は。其の一言が喉に閊へて、身動ぎも出來ず、半月鏡を咥へて何事か啼吟する火の鳥を見護る女王。鉄が無言で其の天の施しを賜ると、火の鳥は鉄の肱から囘はり緣に降り立つた。鳴り止まぬ噴火の豪咆に軋む高樓の柱梁。神の恚りに狂れ、瓦解する濁卋に在つて、餘りにも清閑とした鉄の彳まひ。神の使に選ばれた流浪の聖は、弭を賴りの忍び足で步を蹈み出した。產まれ落ちた己の蹉跎目を默默と擦る無明の足取り。母屋の堂奧に設へた宮形に魅き寄せられ、祭壇の前で立ち止まつた鉄は足許に弓を置き、火の鳥から賜つた御鏡を兩手で天に搴げ上げた。刻の流れが止まり、息を呑む止水の玲瓏透徹。湖影に沈む落陽の如く、宮形に齋き奉る御鏡の上に新き御鏡を獻げると、雙つの片身の繼ぎ目が揃つて眞円を成し、甦つた神璽の鏡面が蓬髮の浮浪兒と瓜二つの少年を映し出した。
「鉄郞。」
女王が絕句した瞬閒、過去と未來が反轉し、逆走する追憶の總てが鏡の中に輯束していく。漢の約束に證文は無用。再び巡り合ふ契りを交はした女王の前で、大上段に戰士の銃を構へた鉄郞は、微かに息を齊へ乍ら照星を水平に振り下ろし、鏡の外に狙ひを定めた。矢も楯も堪らず鏡の前に驅け寄る女王。銃口の捉へた獲物を顧みず、手を伸ばした指先が銃爪を炸き、時放たれた鈷藍き皇彈に御鏡は張り裂け、碎け散つた破片が倭姬王の鼻骨を斜めに斬り刻み、咄嗟に飛び發たうとした火の鳥の胸元を擊ち拔いた。
劍で頸を斷たれても事切れぬと云はれた不死鳥の斷末魔。身に纏つてゐた怪奇炎が見る閒に燃え盡き、五色の鳳尾を投げ出して、倭國の護り神が少年の一擊に斃れ、女王の頰を限る裂傷から血れし潮が蔭走る。神の國を濟ふ最後の燈火が潰えて、心の洞に轟く鹿兒㠀の慟哭。碎け散つた御鏡の獨片獨片に映る、老相を緋く染めた無數の女王。總ての記憶を取り戾し、幾千年の刻を超えて舞ひ降りた大化年閒を見渡すと、欄に凭れて絕命した火の鳥を置き去りにして、鏡の中の鉄郞と盲の鉄の姿は消え失せてゐた。伏線の緖すら摑めぬ三卋を股に掛けた有爲轉變。己の器を超えて目眩く神の物語。然れど、此の壯大な大局を前にして何を成す可きか、女王は總てを心得てゐた。
「劍を此處に。」
決然と嫗に云ひ付けて火の鳥の首を摑み、吹き飛ばされた宮形の前まで引き擦り込むと、手渡された小刀で擊ち拔かれた胸から肚を捌き、宮形の脇に積み上げた蔴紙の卷子に其の鮮血を降り注いだ。
「吾が御國に常し方の命を授け給へ。薩ひの御手を摩け給へ。」
火の鳥の生き血を親ら召される物と惟ひきや、天に其の操を獻げた女王に、心得違ひをしてゐた嫗は平伏し、國母の貴き御志を見誤つた己を羞ぢた。誇らしきかな吾が主君の飽く勿き貞烈。譬へ神の淨火に燒き拂はれやうとも、倭國は不滅也。
「いざ、倭姬、穢き所に、いかでか久しくおはせむ。」
此の闇に乘じて、と出立を促す嫗。然れど、倭姬王は血塗れの卷子を瞠めて呟いた。
「史書を負ふて去ね。」
女王の潔意は嫗の尊崇を遙かに超えてゐた。神に貳言勿し。其の聖斷を喩す事は天孫の御稜威を辱めるに等しい。頰を染めた流血と火の鳥の返り血を拭はうともせず。倭姬王は鏡勿き宮形の前に火の鳥を獻ると、其の上に親らの衣を掛けて燈明皿の火影を放ち、靑銅の破片を鏤めた床の上に兩膝を著いた。倭國の御旗が逃げたと爲れば、禁書も抱へてゐると追つて來やう。此處で囮と爲り、刻を稼ぐ。帝紀の壹路平安を禱つて。
「何日可逢。神の物語を征け。」
燃え廣がる炎から眼を逸さず、進退を決した女王の御覺悟を知り、嫗は其の宸慮を安んずる可く、斷腸の念ひで最後の御奉公を承つた。
「然らば、暇申して。」
卷子を蔴布に纏め、心得の有る釆女を從へ罷り出づる嫗に背を向けて、倭姬王は炎の宮と化した祭壇に參禮參拍手を打ち、神の扉の封を解いた。母屋に埀れ籠める煙に卷かれ、遠離つていく亡國の憂ひ。眼裡に浮かぶのは唯只管、異なる星の下で巡り合へた、時の旅人達が垣間見せる、行き摺りの頰笑み許り。懷かしき哉、千載壹遇の面差し。天壽を超えて醒めやらぬ夢の復た夢。譬へ此の身は滅ぶとも、
人は縱し念ひやむとも玉蘰
影に見えつつ忘らえぬかも
倭姬王に託された帝紀を背負ひ、嫗と釆女の一行は開聞嶽の山腹を西囘はりに、獸道を搔き分けていく。山鳥の囀りも蟲の音も途絕え、暗雲に響めく鹿兒㠀の亂心。地の底から衝き上げる圡轟に足許を取られ乍ら、女王の御遺詔を果たす可く、藪を潛り澤を過る嫗の、凡そ其の齢に適はぬ健脚。開聞の裏手に拔けたからとて、其の先に當ては勿い。海へ出て北の知詞㠀に航るのか、南の海見㠀に航るのか。何處へ遁れやうと山門に掌を返した者達の眼が光る天下。其の網の目は旣に闇路の先で待ち構へてゐた。
「穴から炙り出されし菟の一羽、二羽。」
と數へる從卒の輕口を肯んじ不得、
「餘言也。愼む可し。」
虛しき苛立ちを募らせる長田王。精鋭を率ゐて木立に隱れて時宜を俟つ引け目に、羞ぢを上塗りする粗無際な一言。案に違はず迷ひ込んで來た勑旨の本命とは云へ、女を斬つて何を誇る。無用な殺生は勳に怪事を付ける丈け。然れど、命と引き替へに禁書を差し出せと說いても通じはしまい。降り注ぐ灰燼が絡む喉で、殿から順に片付けるやう命じ、漆黑の木陰に紛れる遊擊の志士を見送つて、長田王は先を急いだ。地祇の恚りに震へる開聞嶽の山懷。倭國と山門、何れの背理を咎めてをられるのか、將亦、人の卋の賤しさ其の物か。雙つの王家を劃かつ甲乙なぞ癡れた事。人の手が左右で利き腕を競つて何に成る。大義の善しも惡しきも、禍根の輕重も、盡忠報國の據り處も今や、鳴き聲しか聞こえぬ闇夜の鴉。此の晦冥は何時、如何に爲て明けるのか。其の問ひを煎じ詰める遑も勿く、息を殺した兵達が、獨り、復た獨り。釆女の口を背後から塞いで抑へ込み、音も勿く胸を刺し貫いて、葉摩れの篠めきに包み葬つていく。下草の一露に消える、餘りにも果敢無き端女の一生。嫗が神妙な氣配に足を止め振り返つた時には、獨りの益荒男が恭しく頭部を埀れてゐた。
「萬事、御案じ召さるな。」
長田王は倭國に獻げた積年の奉公に壹禮し、味方が迎へに顯れたのかと錯誤した嫗の、肩から心の臟を一太刀で捌くと、仰向けに斃れた骸の脇に片膝を著いて、見開かれた雙眸を徐かに閉ざした。
再び、神火に喘ぐ鹿兒㠀の激甚に痺れ、火山雷の瞬く闇夜に呑まれた山門の遊軍。獲り逃した者はゐ勿いか、今一度、下知を重ねて茂みを探らせ、從卒と雙りに爲つた長田王は、篝火を點して卷子に隸書された帝紀の古筆を檢めると、一處に輯められた包み布の上に、手にした炎群を抛り投げた。禁書召し上げの勑旨を賜つて征西し、見事、物にした手柄の山を毀にする暴擧。慌てて拂ひ除けやうとする從卒の肩を制へて、忸怩たる火影を見護る背信の將。
「譬へ其の身は弑めても、天孫の氣骨を挫く事は不罷成。」
愁眉を極めて弔ふ亡國の御稜威。神の物語が剽竊されぬやう、最期を看取る責めてもの情けに、卷子を荼毘に付す紅蓮の淨火が一氣に燃え盛り、立ち昇る火柱から少年に擊ち斃された不死身の靈鳥が黃泉復る。絕卋の凰羅を放ち、燒盡の翼を廣げて飛び發つ倭國の護り神。斬り棄てられた嫗の骸が仰向けの儘、左右の眞虛を見開いて痙攣し、萬古不變の契りを絕叫した。
「倭姬王、其方ノ本懷、聢ト承ツタ。」
顱頂を劈く占鳴に膝から頽れ、陶然と綾に畏き靈驗を仰ぐ長田王の頭上で、鳳尾を飜し皇然と燐舞する生まれ變はつた火の鳥。
凄空一鶴排雲上 凄空 一鶴 雲を排して上り
便引詩情到赤霄 便ち詩情を引きて赤霄に到る
常し方の命を謳歌し、伊弉冉の咒ひで、人草を一日に千頭、絞り殺しまつらむ下界を見渡す灼熱の天使。其の烱眼に鹿兒㠀の火堝が三度身悶え、萬感の念ひを込めて弔咆が轟く。
后宮岩隱之事、
大長伍年戊辰歲、六月甲子、壬寅朔癸卯、皇后御壽五十九歲薨御也。
不滅の鳳凰と入れ違ひに、高樓の飛灰に紛れた最後の國母。復た獨り、傷付いた女の操が忠を舞ひ、星星流轉の忘客の彼方。何時の日か再び紅塵に召される其の刻まで、
然らば 緋き靑春の日日
然らば 仟年女王