私ヒロちゃん! 今あなたの家の前にいるの!!
『申し訳ありません。ただいま戻りました』
冬は日没が早いせいで、外はすっかり真っ暗だ。私は綾瀬家の玄関を開けるなり、念話を投げかけた。
ごめんね! 遅くなったね! 残機として警備会社の寮で休眠してたら、分体の信号がロストしたから大急ぎ(当社比)で駆けつけてきたけど! 普通に遠くて! あと移動が遅くて!
こんなすぐ死ぬとは思っていなかった、私含めて分体があと3体になってしまったな。
玄関を開けて視れば、片付けた形跡はあれど、居間がめちゃくちゃだ。十中八九、邪視である。
太郎のお札はもう耐性がつけられたのか…早くない? まだ2日目だよ??
予備の靴も服もないから、寮に置いてた分体の私服を勝手に持ってきてしまったし、後で返さねば。
「ヒロ! もう、心配したんだから!」
「ヒロさん! よかった…」
「遅かったじゃん! 婆ちゃん、ヒロ帰ってきたー!」
「おう、待ってろ。飯出してくる」
突っ立っていた私は、愛羅に飛びつくようにハグされる。ぐへぇ、受け止めきれず危うく倒れるところだった。
オカルンと桃まで、私の姿を見て安心している。前に死んだ時はすぐ分体と入れ替われたから、待たせた分だけ皆を不安にさせたらしい。
せめて分体を維持するための母星の栄養剤か、欲を言うならワープ装置があればなぁ。
ジジはみんなの後ろから私を見つけて、目をまん丸に見開いた。
「ヒロちゃん! 生きてる…!!」
『死んでますね』
「えーっ!?」
「ややこしくしてどうすんですか」
私と会話をしたことで、沈んでいたジジの気分も持ち直した様だ。彼には悪い事をした。
この調子で私が死ぬと流石にまずいし、原因究明せねばなるまい。
『ご迷惑をおかけしました。なぜ私は死んだのでしょう』
昨日までしか同期していないから私は現状を把握していないのだが、何がどうしてこうなったの?
首を傾げて桃たちを見上げれば、桃も「うーん」と首を傾げた。
「なんか、前ウチらにやった時みたいに、ジジに服着せようとしたっぽい?」
「ヒロさんの体も水判定されるみたいです。気をつけてください」
Oh…何やってんの私? いや、でもそっかぁ〜私も冷たい液体かぁ〜。言われてみればそりゃそうだ。
擬態する時にしか形を崩さないし、ゲル体の自認が “自由度の高い体” だったので、物体寄りの意識だった。盲点!
『それは申し訳ありません。鎮圧は問題ありませんでしたか』
「邪視はウチらで何とかしたわ。ご飯も先食べたから、ヒロも食べなー」
「散らばってた体は集めてあるわ。持ってくるわね!」
『ありがとうございます。嬉しいです』
マジで!? めっちゃ助かる。泡になる前のゲル体に包まれていれば、繊細なコアの破片も多少長持ちしてくれるのだ。愛羅ちゃんマジ有能。ありがとう!
「お前ぇマジですぐ死ぬじゃねーか。次は気ぃつけろよ」
『はい、星子様。…星子様、多いです』
あっ、なっ、凄い勢いで机にご飯が盛られていくよォ〜!?
星子さんが次々と置いていく料理に私は困惑し、狭くなっていく机に萎縮する。桃がそんな私を親指で指さした。
「まあこんな感じだから、ジジが気にすることないって」
「どんな感じ!? でも生きてて良かった…! 邪視がゴメンね!!」
本当に辛そうで申し訳なさそうなジジくんだが、普通に私のポカだし、ライムズ星人が脆いのが悪いし。その代わり、何度でも蘇るさ!
『我々にとって、
「え! ジジ、怪我してんの!?」
「してないしてない! ピンピンしてるよ!」
ジジの周りをグルグル回って確かめる桃に、大丈夫と言わんばかりにジジが手を広げる。問題なのはそっちじゃないんだよなぁ。
『桃とオカルンは邪視により、あなたが望まぬことをしないよう守ってきました』
「ちょま、そういうの言わなくていいから!」
『しかし、私の過失が水の泡にした。あなたの心は傷つき、沈んでいます』
「ヒロさん…」
邪視はジジの霊力を勝手に吸い上げ、成長しているのだが。ジジが落ち込むことで意思の抵抗力が落ちれば、邪視による霊力吸収はさぞかし捗ることだろう。
私はうっかりで敵に塩を送ったわけである。肘から塩振って邪視に山盛りにしてやったぜ! この盛り塩で退散してくれ頼むから。
『謝罪をします、円城寺 仁。申し訳ありませんでした』
「そんな…謝らないでください! ヒロちゃんが無事なの、ちゃんと分かりましたから!」
私が頭を下げれば、ジジは困った顔をして、柄にもないかしこまった物言いをした。うーん、こういう所は茶化さない。いい子だ。
ジジは空気を払拭するように、くるりと桃とオカルンの方を向いた。
「てか、桃…! オカルン…!! オレ感動だよー!!」
「ギャー! ジジさん、重いですって!!」
「モモもマジありがとー!! オレのことチョー好きじゃん!?」
「だからそういうんじゃねーし」
「スッ、なっ…!」
戯れる3人を他所に、戻ってきた愛羅が私の横に座ると、机へタッパーを置いた。
「はいこれ、だいぶ少なくなってるけど…」
『いいえ。あなたにとても感謝します』
愛羅へ溢れんばかりの感謝の念を送り、タッパーから私は小さく溶けた分体を吸収する。
分体が記憶に残そうとしたのか、邪視と戦闘した時の光景が微かに視える。全体としてかなり飛び飛びで薄いが、ないより遥かにマシだ。
しかし私はなぜ太郎と頭でキャッチボールを…?
「ねえ、囃子が来るまでは危険よ。ヒロは別の場所に避難した方がいいわ」
『愛羅。死を恐れるあなたの価値観も解ります。しかし、私の監視が無くなりますと、日中に星子様へ負担をかけてしまいます』
心配してくれる愛羅ちゃんには悪いが、私としては邪視を強化してしまった負い目がありましてね?
ライムズ星人の監視の精度で未然に防がなければ、邪視が出た分だけ彼女たちの疲労や怪我も増える。そうなれば、次の戦闘から更にキツくなるだろう。
『そして忘れずに───あなた方を狙う襲撃者は、時と場を選びません』
静かに警告すれば、愛羅は息を飲んだ。
こんなに異能者が一堂に会する場に飛び込むバカはいないとは思うが、万が一もあるからな。
異星人を襲う
「ヒロが脆いのは仕方ないとして、なんか対策練らないとじゃね?」
「そうですね、邪視が出た時に備えて話し合いましょう」
「みんなカッケーっす! 頼りになるーフォー!」
邪視がいる間だけでも地球にいる分体との共有頻度、増やそうかなぁ。
□
「作戦会議するわよ!!」
「賛成です…」「異議なし…」
愛羅がほうきを片手に、ガーゼを貼った険しい顔でそう宣言する。
オカルンはひっくり返った虫みたいな有様で、桃は天井を思考停止の目で見上げながら、それにもったりとした賛同をした。
桃が見上げる天井は2階どころか屋根をも貫いて、冬の空に憎たらしいほどピカピカ輝く星が見える。そんな穴が上どころか横やらあちこちにあった。
湯気で結露した脱衣所のドアノブを、うっかりジジが触ってしまい、出てきた邪視が大暴れしたのである。
くたびれきったオカルンは呆然と星を見上げ思う。あのどれかの星で、宇宙人が自分の知らない暮らしをしているんだ…。彼は疲れていた。
綾瀬家は今や穴だらけのチーズのようで、冷えきった空気が侵入し放題であった。
「てか邪視、急に強くなりすぎじゃね!? おかしいだろがい!」
「前まで殴り合いだったのに、今度はボールまで蹴り始めましたね…」
桃はほうきを振り回し「キー!」と暴れ回る。オカルンは起き上がって、邪視に蹴り飛ばされた腹をさすりながら、散らばる家の破片をほうきで集めた。
この部屋にいるのは3人だけだ。ジジとヒロは2階の部屋から穴を塞ごうと頑張っていて、星子は穴を塞ぐためのダンボールを取りにスーパーへ出かけて行った。
太郎の封印が解けてから、まだ1日経ったばかり。
護摩祈願の除霊は失敗したとはいえ、邪視も多少は弱体化していた。それが回復どころか、強さのギアを跳ね上げ始めている。
「明らかに異常だわ。私たちの作戦が通じないくらい、邪視が強くなりすぎてる」
「作戦とか言うけどさぁ、ヒロの近くにいる奴が守りに入るだけじゃね?」
「はあ? じゃああんたはもっといい考えが出せるっての!?」
ほうきを支えに頬杖をつきダレる桃に、神妙な面持ちをしていた愛羅が強い語気で食ってかかった。
そんな愛羅の態度にムッとした桃が、ほうきの柄で愛羅を指す。
「考えっつーか、そもそもアイラ! てめー普段から水筒持てよ! なんでその辺に置いてんだよ!」
「私が1番邪視を食い止められるからだけど!?」
愛羅は桃が指してくる不快なほうきの柄を、自分の持つ柄で払いのける。
桃と愛羅は睨み合い、柄がかち合った。ほうき同士が鍔迫り合う。
「あ? てめぇみてえなボンクラが止められてるわけねーだろ!」
「はぁ!? ふざけんじゃないわよ、このブタ野郎!」
互いを罵倒しチャンバラを始めた2人に、オカルンは焦ってワタワタと手を動かした。
「ブスブスブスブス!!」
「ブタブタブタブタ!!」
「ちょ、2人とも落ち着いて──」
『作戦会議をしましょう』
「「「っす」」」
正座したヒロの前で、同じく正座し肩を丸めた3人が反省した顔で頷いた。
オカルンは話が進められなかったことを反省しているし、後の2人は言わずもがなだ。
『戦闘に参加できない私が貢献できるのは、戦闘における分析と改善です。よろしいですか』
「お願いしゃす」「しゃっす」「あっす」
一定のリズムで話すライムズ星人の声は、いつだって真面目くさったように聞こえるが。普段よりも真剣そうな雰囲気に、学生たちは気を引き締め直した。
ヒロはこう言うが、邪視が蹴り出したボールが家の外に飛び出し死角から戻ってきた時に、真っ先に警告したのはヒロだ。死に身近な宇宙人は、危険に気づくのが誰よりも早い。
聞き手が態度を改めると、ヒロはそのとぼけた顔に見合わぬ大人びた声で見解を告げた。
『邪視の強さに関しましては、ジジのストレスが原因かと』
「ジジが? なにそれ、どーゆー事?」
桃が首を傾げる。
『どれほど強い力を持つ者でさえ、精神を堕とせば抵抗力は弱化する。スピリチュアルにおける “基本” です』
「つまり私は最強ってことね!」
「ウチのが百倍つえーわ」
「2人とも張り合わないでください」
『ジジの強大な霊力と強い精神力により、邪視は器の主導権を得られません』
態度を改めた本人たちの至って
『しかし邪視が周囲を傷つけ、ジジの精神を切り崩すほど、邪視は器の霊力を奪いやすくなります』
「んなこと言ったって、邪視相手に無傷で勝つとかムリムリ!」
「面倒臭いわね、なんであいつのメンタルまで面倒みなきゃいけないわけ?」
「このままじゃ邪視の思うツボですよ」
『そのための私です。チームワークを円滑にすることで、邪視による被害の軽減を目指しましょう』
学生たちが思い思いの言葉を雑多に並べる中で、ヒロは
心なしか、ガラス玉のような目の奥がキラキラと青く輝いている。
『戦闘における問題点の確認をします。まずは桃から、発表をどうぞ』
「はい! オカルンはよくぶっ飛ばされるし!」
「すみません」
「アイラは前に出しゃばり過ぎだと思います! こいつには協調性を持って欲しいです!」
桃は元気に手を上げ、高らかと主張する。
問題を指摘されたオカルンは肩を丸めて小さくなったが、反対に愛羅は顎をツンと持ち上げた。
「さっきも言ったけど、私が前に出るのは邪視が動き回らないよう食い止めるためよ。じゃなきゃ今頃、あんたの家は粉々なんだから!」
「でも邪魔なんだもんよ〜」
桃がブーブー口を尖らせる。
愛羅は火力がない分、手数が多い。常に前線で邪視と戦う愛羅は、確かに他へ攻撃が向くのを食い止めてはいた。
だが素早い攻防と突出した立ち回りに周囲が手を出せず、サポートしにくいのが現状だ。彼女が崩れた時に一斉にフォローに回るのも、お湯をかけるのには都合が悪かった。
しょぼくれるオカルンに、ヒロが一段とキラキラしく光る目を向ける。
ライムズ星人は新たな発見と意見の交換に目がない。漏れ出る思念が伝わるなら、弾む場違いな感情に面食らったことだろう。
『オカルンは自分がなぜ攻撃を受けるか、理由が分かりますか』
「えっ。えーと…邪視の動きは見えてるんですが、体が追いつかないと言いますか…」
「オカルンは邪視に近づいた時にぶっ飛ばされがちじゃね?」
「高倉くんは自分から動いた後で相手が動くと、咄嗟に動けなくなるみたい」
急に話を振られ慌てて考え出すオカルンへ、桃と愛羅が助け舟を出した。
この中で誰よりも速いターボババアの力を持つオカルンだが、彼は真っ直ぐにしか進めない。狭い部屋と自分の速度に体が追いつかず、必ず止まるせいで隙が出来てしまっている。
今まで本ばかりで運動をしてこなかったのもあるが、彼は根っから不器用であった。
『愛羅は何か、他の意見がありますか』
「あるわ。モモ、あんた超能力動かしてる間、自分でお湯かけられないんでしょ」
「ギクッ」
「えっ、そうなんですか?」
桃が図星を突かれ、肩を揺らす。
実のところ、超能力の手と桃自身の手の感覚はリンクしている。4本に増えた手をバラバラに動かせるほど、彼女は器用じゃなかった。
手を縛られれば超能力は上手く使えず、なんなら彼女はあっち向いてホイの指にまんまと釣られ、同じ方向を向いて必ず負けるのである。
オカルンは遅れて「そういえば…」と、
「1つのことしか考えられない単細胞なのよ」
「仕方ねーだろ! 超能力使うのに集中してんだよ!!」
逆に、愛羅は周囲をよく見てはいるが、相手に何を期待しているのかが伝わっておらず、周りにフォローと判断を任せすぎである。
愛羅のことをよく知る幼い頃からの親友たちが、今まで彼女のやりたい事を察し、そのフォローをして動いてきた弊害だった。
「で、オカルンはなんかないわけ」
三者三様の問題点。桃はオカルンも気づいたことがないかと軽く話を振る。
「邪視がいるのに2人が喧嘩することですかね」
「それはマジゴメン」「反省するわ…」
オカルンの正論パンチに、打って変わって今度は2人がしょっぱい顔をした。
『では、互いの役割を明確化させましょう』
分析を終えたヒロが目の焦点を合わせ直す。常に瞳孔の開いた目が、規則的に2度瞬きした。
『愛羅、あなたは邪視の動きを抑えることに重きを置いています』
「邪視に暴れられたら家がなくなるわ」
「マジでそれな。家が寒い〜」
立派だった綾瀬家は邪視により、家はボロボロだ。もうここまで来たら建て直すしかないし、これからもっと壊れることだろう。
これ以上破壊されれば、最低限のライフラインすら無くなってしまう。
『あなたの観察眼は鋭く、リーダーとしての適正を感じます。優れた決断力と状況判断力は磨かれるべきでしょう』
「ふふん、当然よ。だって私、選ばれし美少女戦士なんですもの!」
「イカれてんな」
「綾瀬さん、しー!」
愛羅は自信に満ち溢れた顔へピースを添えた。桃はそんな自尊心を拗らせた彼女に塩の顔をしたが、仕方あるまい。
超能力を見て桃を悪魔だと思い込んで縛り上げた挙句、オカルンの金玉を「神聖な玉」どうこう言って顔に押し付けてきた時から、愛羅がイカれ女なのは分かっていた。
『戦闘において指揮は重要です。そこで星子様と前線を分担しつつ、邪視の攻撃を阻止するため、全体をコントロールする訓練をしてみましょう。チームを指揮に慣らす必要があります』
「いいわ、この私のリーダーシップに従うことね!」
「こいつ大丈夫か?」
「どうでしょう…」
オカルンもナチュラルに失礼だったが、これも仕方のないことだった。
白鳥 愛羅という少女が思い込みで暴走しがちな残念美人なのを「告白=キス」発言の時に、彼は既に思い知っていたので。
『桃、あなたは超能力で臨機応変に対応できています。サポートや防御、応用力が高いからこそやれることも多い。優秀ですね』
ヒロが手放しに桃を褒めるも、桃は邪視と戦った時のことを思い出し「うーん」と浮かない顔で唸る。
「捕まえようとしたり、攻撃来てたら超能力で守ったりするけど。邪視が速すぎて正直なとこ手一杯だわ」
『焦ってミスをするより、役割を1つに絞っても良いかと』
「ねえ、なんかめっちゃ作戦会議って感じしない?」
「話聞きなさいよ、大事なとこでしょ単細胞」
「あ?」
「学ばないのかあんたらは!!」
「「すいませんした」」
桃がヒロの打てば響く会話にテンションを上げれば、今度は常識人の顔をした愛羅がアホを見る目で見下し、桃は輩の面持ちでガンを飛ばす。
そこに挟まれるオカルンの叫びに、2人はしょんもり反省の顔をした。
ヒロはそんないざこざにも微動だにせず…いや、瞬きするのをやめたかもしれない。
オカルンは無表情のヒロの内心が分からずハラハラした。ひょっとして怒ってるんじゃ…。
実際は学生たちの集中力が続かないと悟り、ヒロも擬態の手を抜き始めただけである。
『現在は
「おっしゃあ、じゃあ次はそれで!」
拳を握り気合を入れる桃から、ヒロの透明な瞳がオカルンを向く。顔の向きは後からついてきた。
『オカルンは邪視の攻撃の初動を妨害できていましたね。反射神経に関して、あなたはズバ抜けています』
「あ、はい。でもその後はジブン、攻撃を避けられないっす」
オカルンは不甲斐なさで頭をかき、無意識に下を向いた。
強くなれたと思っても、自分が不器用なことを酷く痛感するばかり。
イキイキと次へ向けて気合を入れる女子たちを前に、男だというプライドはありながらも、不甲斐なさばかりが募っていた。
そんな彼を怒るでもなく、ヒロはただ提案した。
『相手の行動が完了する前に動き、間に合うのならば。あなたの行動は、邪視による致命的な攻撃からの周囲の救出と、瞬間的にお湯をかける方向へシフトできます』
淡々とした感情のない声は、オカルンに前を向けと言うように、彼のできることを示す。
視線を上げたオカルンは、ヒロと目が合った。
何を考えているのか分からない超然とした顔から、僅かに口の端を緩めたヒロに、オカルンは背中を押された気持ちでピンと背筋を伸ばす。
『あなたの速さは直線で発揮される。強みを活かしましょう』
「はい!」
「そっか、攻撃受けて止まるくらいなら、駆け抜けた方がターボババアの能力的にいいんだ。オカルン曲がれないし」
「家の中って狭いんですよ」
「てめー、道でも曲がれてなかったじゃねーか」
迷いの晴れた3人は調子を取り戻し、立ち上がる。そしてほうきを片手に向かい合った。
「私はリーダーとして指揮を執って、邪視をお姉様と食い止める。モモはあのクソボールを止めて、高倉くんがサポートに回る───次はこれで、邪視を完封するわよ!!」
「っしゃあ! 邪視がなんぼのもんじゃい!!」
「囃子が来るまで、頑張りましょう!」
ワイワイと賑やかな子供たちがやる気を新たに、家の片付けを再開する。作戦会議をまとめ終えたヒロは、静かな2階を視上げた。
ジジは、ぽっかりと穴の空いた床を前に、階下の喧騒を耳にしていた。
穴を塞ぐ作業は全くといっていいほど進んでおらず、彼の手は止まったまま動かない。
皆が邪視を敵視する、それは当たり前のことだ。
桃とおばさんの家は壊れ、オカルンたちにも迷惑がかかっている。暴れる邪視を抑えるために誰かが怪我をして、その度に家を継ぎ接ぎでどうにか直している。
水に触れれば人を殺し、あらゆる物を壊すプレッシャーと隣り合わせ。
邪視に器として体を奪われ、並の人間ならストレスと緊張でおかしくなるような状況下で。
──ジジが思うのは、自分以外の誰かのことだった。
お祓いが来るまでがタイムリミットで。
でも、どうしても。言い出せない事がある。
ジジの手はキツく拳を握る。
普段の明るい彼からかけ離れた憂いを帯びた表情は───何かをずっと、独りで抱え込んでいた。