今日のシャーレは、珍しく穏やかな時間が流れていた。
いつもなら次々と押し寄せてくる書類の山や、各学園からの支援要請が、今日はぱったりと途絶えている。昼下がりのシャーレがこんなにも静かだなんて、何かの間違いじゃないかと思うくらいだ。
割り振られたタスクはとっくに終わらせて、今はただ机に頬杖をつきながら、何も考えずにぼんやりしている。手元のタブレットをスライドする指も気まぐれな動きになっていた。珍しく何も急かされることがないこの瞬間、正直嫌いじゃない。いや、むしろちょっとだけ好きかもしれない――そんなことを思いながら、私は窓の外に広がる青空へ目を向けていた。
「んー……」
無意識に、私は首元のチョーカーに手を伸ばした。何かを考えたり、落ち着きたいときに触れる癖がついていて、いつの間にかそれが当たり前になっている。けれど――。
「……あれ?」
指先に、いつもあるはずの感触がない。違和感に気づいて慌てて首元を撫でると、何もない。目を落とすと、机の上に黒いチョーカーが転がっていた。
「あー……」
手に取ると、留め具がすり減って完全に壊れている。ずっと使ってたから仕方ないけど、こうして切れてしまうと、胸の奥が少しだけ寂しい。
「どうしたの?」
声をかけられて顔を上げると、目の前には先生が立っていた。いつもののんびりした顔で、けどその目は何か気にしているみたいにこちらを覗き込んでいる。
「別に、大したことじゃないよ。ただ、これが切れただけ」
私は壊れたチョーカーを揺らす。先生はそれをじっと見つめて、少し眉をひそめた。
「ずっとつけてたやつだよね。大事なものだったんじゃないの?」
「別にそこまでじゃ……ないし。ただ、ずっと使ってただけ」
そう答えながらも、どこか言い訳っぽく聞こえたのは自分でも気づいていた。たかがアクセサリー――そう思う一方で、切れてしまったことが胸の奥に小さな穴を開けているような気がする。
「なら、新しいの買いに行こう」
その言葉に、思わず目を見開いた。
「へ?」
先生はあっさりと言うと、立ち上がってすぐに上着を手に取った。
「準備してくるから、待ってね」
「ちょ、ちょっと先生!?」
何の迷いもなく準備を始めるその姿に、思わず声を張り上げてしまう。
上着を羽織り、いそいそと準備をする先生を見ていると、ツッコミどころしかなくて頭が追いつかない。
「いやいや、何を当然みたいに言ってるの!別にそこまで困ってないし!」
「切れちゃったなら、ちゃんと代わりを見つけない」
「だからって、そんな急がなくたって……」
「でも、ずっとつけてたでしょ? それがなくなったら寂しいんじゃないかなって」
「っ……」
反論しようと口を開いたけど、先生の顔を見た瞬間、言葉が喉の奥で引っかかった。
あまりにも真剣な表情。その瞳は迷いがなくて、まっすぐに私を見ている。なにこれ、どうしてこんな顔をするの? 何も言えなくなるの、わかってやってる?
「それにね――チョーカーをつけてるカズサ、私は凄く好きだから」
「んぇっ、なっ――!?」
瞬間、顔が一気に熱くなるのを感じた。手元にあったチョーカーを慌てて机に置き、視線を泳がせる。だめだ、直視なんてできない。
でた、でた、でた!そういうところだぞ、ほんとに!
私はパーカーの端をぎゅっと掴みながら、内心で叫ぶ。これでも先生からの甘い言葉には慣れてきたつもりだった。可愛いだとか、綺麗だとか、良い香りがするとか――。そんなのは日常茶飯事だし、いちいち反応してたら身が持たない。
けど……「好き」はずるい。それだけはどうしても慣れない。
「せ、ん、せ、い?私いつも言ってるよね?そういうこと言ってると――」
先生は私の言葉を遮るように軽く手を上げる。
「誤解する人が出る、でしょ?でも、私はカズサにしか言わないから大丈夫だよ」
……何が大丈夫なの!?
目の前でさらりと微笑む先生に、じわじわと込み上げる感情を抑えるのが難しい。でも、ここで爆発させたら、また先生の思うつぼ――そんな気がしてならない。
「それより、チョーカー。新しいのを探しに行こう。今のカズサには、ちゃんと似合うものが必要だよ」
先生は何でもないことのように言うけど、その目はどこか強引さを感じさせる。軽いようで押しが強いのはこの人の得意技だ。
私はため息をついて、机の上のチョーカーをじっと見つめた。切れてしまったそれは、何となく頼りなく見えて、妙に寂しい感じがする。
「……わかったよ。でも、その代わり――」
勢いよく立ち上がると、先生を指差す。
「さっきの『好き』って発言、私以外に絶対言ったらダメだから……本当に、絶対」
自分でも驚くくらい小さくて震えた声だったけれど、それでもはっきりと言い切った。言葉がこぼれるたびに胸の奥がざわめいて、心臓の音がやけに響く。
「……本当に、だめだから」
視線を下げたまま、ぽつりと付け加える。顔が熱くなっているのがわかるけれど、先生の反応がどうしても気になって、そっと顔を上げた。
先生は驚いたように一瞬目を見開いて、それからゆっくりと微笑んだ。その笑顔はどこか優しくて、まるで全てを包み込むみたいだった。
「うん、わかった。約束するよ」
その一言に、心臓が跳ねる。反則だ、反則すぎる。そんなに優しい声で、こんなに簡単に不安を消し去らないでほしい。
なのに、心の奥にじわりと広がる安心感を止めることができない。まるで氷が溶けるように、緊張がほどけていくのを感じた。
「さ、カズサにぴったりのチョーカーを見つけにいこう!」
先生はいつもと変わらない、あの柔らかい笑顔を浮かべてそう言った。その何気ない言葉にまた心を掴まれてしまう自分が、本当に悔しい。
それでも、その笑顔を見ていると、胸の中にふわりと広がる嬉しさはどうにも隠せなかった。口元が緩みそうになるのを、ぎゅっとパーカーの袖を握りしめることで誤魔化す。
「……私のこと、こんなに簡単に引っ張り回さないでよ。ほんと、単純だって思ってるでしょ」
少し拗ねたように言ってみても、先生は変わらず微笑んでいる。それが余計に気になって、でも同時に、そんな先生だからこそ――と思ってしまう自分がいた。
◇
平日の昼間だからか、ショッピングモールはいつもより静かだった。
広々とした吹き抜けのフロアにはキラキラとしたイルミネーションが飾られていて、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。けれど、賑やかな声や足音の響きは少なく、普段の休日の混雑が嘘のように穏やかだった。
歩く人たちはまばらで、どこかのんびりとした空気が漂っている。大型のポスターには、今月限定のキャンペーンや新作スイーツの写真が並び、それを眺めるカップルや数人の買い物客が時折足を止めているくらいだ。普段の喧騒がない分、イルミネーションの輝きやディスプレイされた商品が妙に目を引く。歩くだけでもちょっとしたお祭り気分を味わえるようだった。
「あ、この店……」
目を向けたのは、店全体が黄色と白で統一されたアクセサリーショップ。まるで雑誌の中から飛び出してきたみたいなデザインのお店で、ショーウィンドウにはキラキラ輝くネックレスやイヤリングが並んでいる。通りがかった人たちが「かわいい!」と声を上げるのが聞こえてきた。
「今時って感じの見た目だね」
「今時なのかな……?ここ、前にスイーツ部のみんなと来たんだよね」
思い出すのは、部活のみんなとここでアクセサリーを見て回ったときのこと。似合いそうなものをお互いに勧め合って、ちょっとしたプレゼントを買ったのが懐かしい。
「おぉ……青春してるね学生……」
「花の女子高生ですから」
私はわざと胸を張ってキメ顔をする。そうしたら、先生は少し吹き出してから、「確かに、女子高生は強いなぁ」とおどけたように肩をすくめた。
そんなやり取りをしながら店内に足を踏み入れると、チョーカーが並んでいるコーナーが目に入った。シンプルで細いデザインのものから、大きな装飾がついた派手なものまで、驚くほど種類が多い。アクセサリー専用のライトが当たっているせいか、どれも魅力的に見える。
「むむ……」
悩む。いや、私も花の女子高生だし、こういうのはデザインに多少なりともこだわりたい。だけど、チョーカーをじっくり選んだ経験なんてない。こうして大量に目の前に並べられると、どれがいいのか全然わからない。
「うーん……」
顎に手を当てて唸っていると、隣にいた先生がひょいっと顔を覗き込んでくる。
「種類が多くて悩むねぇ。どれも良さそうに見えるし」
のんきにそう言った先生の顔を見て、私は思わずピンときた。
――あ、こういう手もあるな。
「ねえ、じゃあ先生が決めてよ」
「え?」
先生が目を瞬かせるのを無視して、私は続ける。
「私に似合いそうなの、先生が選んで。それが一番早いし、先生のセンスを見せつけるいい機会だよね?」
わざと少し挑発的に言いながら、脇腹をつついてやる。ほら、これで逃げられないでしょ。
先生は少しだけ驚いた顔をしていたけど、すぐに真剣な表情に変わった。
「わかった。じゃあ、カズサに似合うものを本気で探すよ」
――本気で?
その言葉に少しだけ戸惑った。
冗談めいた口調じゃない。本当に真面目そのものの顔をしている。そのまま先生はチョーカーの棚をじっくりと見始めた。一つひとつ手に取り、素材やデザインを吟味しながら、サイズ感を確認している。表情には迷いがなくて、なんだか職人が作品を選んでいるみたいに見える。
「……先生、そんなに真剣にならなくてもいいけど」
思わずそう言うと、先生はちらりと私を見て柔らかく微笑んだ。
「いや、適当には選べない。これはカズサのために選ぶんだから、ちゃんと似合うものを見つけたいんだよ」
「ふーん……ふーん?」
聞こえないふりをするようにわざとらしく返事をして、ぷいっと視線を逸らす。これ以上顔に出たら恥ずかしすぎる。
――よし、ごまかせた。たぶん。
今日はもう散々ドキドキさせられてるんだから、これくらいで過剰な反応はしない。さすがに耐性がついてきたはず。そんなことを自分に言い聞かせて、気づかれないよう深呼吸をする。
「これなんてどう?」
ふと先生の声がして振り向くと、手の中にはシンプルな黒いチョーカーがあった。中央に小さな銀の飾りがついていて、派手すぎないけどしっかりと存在感を感じさせるデザインだ。
「……まあ、悪くないかも」
嘘。ぶっきらぼうに答えたけど、本当はすごく気に入っているのが自分でもわかる。
「先生、意外とセンスいいじゃん」
わざと上から目線でそう言ってみると、先生は「それは光栄です」と穏やかに笑った。その顔を見ていると、胸の奥がじんわりあたたかくなるような、不思議な気持ちがした。
――でも、なんか負けた気がする。
そんな思いが湧き上がり、私はちょっとしたいたずら心を発揮することにした。
「ねえ先生、チョーカーってさ……相手を独占するって意味があるんだよ、知ってる?」
先生が「え?」と軽く声を漏らして手を止めたのを見て、内心で勝利を確信する。そして、とどめを刺すように続けた。
「先生が選んだチョーカーをつけるなんてさ、私、まるで先生のものになっちゃうみたいだね」
いたずらっぽく笑いながら言ってみる。先生がどんな反応をするのか期待して顔を覗き込むと、その表情が完全に裏切ってきた。
先生の顔がほんのり赤く染まっている。それだけじゃない。驚きの表情から、次第に余裕を取り戻したように唇をかすかに上げ、明らかに「してやったり」と言わんばかりの顔になっている。
「ふむ……そういう意味もあるんだね。でも、それなら余計にちゃんと選んでよかった」
「……え?」
私が動揺するのを見た先生の目が少しだけ細まり、さっきの赤さを残しながらも自信たっぷりな表情を浮かべた。言葉の主導権を奪われたのがわかり、なんとも言えない居心地の悪さが込み上げる。
――くっ、こんなはずじゃ……!
それ以上言い返せず、私はそそくさとレジへ向かった。商品を渡し、お金を払おうと財布を開く。けれど、その瞬間――。
「はい、これお願いします」
先生が横からクレジットカードを差し出してきた。
「えっ、ちょっと待って!何してるの!?」
慌てて振り返ると、先生はさっきと同じ「してやったり」の表情を浮かべている。それどころか、意図的にわざとらしく、わかりやすい調子でこう言った。
「これは私からのプレゼント。カズサに似合うチョーカーを見つけた記念だからね」
その余裕たっぷりの態度に、今度は私の顔が赤くなる番だった。さっき自分が言った「チョーカーの意味」を思い出し、余計に逃げ場がなくなる。
「ぐっ、ぐぬぬ…!……あ、ありがとう……ござい、ます……」
視線を下げたまま、小さな声でそう言うのがやっとだった。カードでの支払いが完了する音が、なんだかやけに大きく聞こえた気がする。
先生の顔をまともに見ることができないまま、私は商品を受け取って足早に店を出た。後ろからついてくる先生の気配が、なんだかやけに近く感じる。
――勝てないなぁ、この人には。
モール内の天井を見上げると、キラキラ輝くイルミネーションが目に映った。そんな景色を見ながら、私は小さく息を吐いた。
◇
自宅の部屋。机に座って、昼間買ってもらったチョーカーをじっと見つめる。新品の光沢が美しくて、中央の銀の飾りが小さく光を反射している。その控えめだけどどこか上品な輝きが、やけに目を引いた。
「……ほんと、こういうの得意だよね、先生って」
小さく呟いて、ふっと笑みがこぼれる。普段なら何気なく流してしまうような言葉も、今日はどうしてだか一つひとつ胸に響いてくる気がする。
鏡を覗きながらチョーカーを首に当ててみる。すると、不思議としっくりきた。シンプルで派手じゃないけど、それが妙に自分らしい――いや、たぶん、先生が私に似合うように選んでくれたからなんだろう。
「似合ってる、よね?」
鏡の中の自分に問いかけるように呟く。その声がやけに大きく響いた気がして、少しだけ気恥ずかしくなる。でも、映った自分の顔をじっと見つめていると、その表情がどこか誇らしげで、それでいてほんのり赤らんでいるのがわかる。
――こんな顔、自分で見るのも恥ずかしい。
「……なんだこれ、調子狂うなぁ」
そっとチョーカーを外し、机の上に置いてから、また手に取り、もう一度鏡の前で当ててみる。何度も同じ動作を繰り返しているうちに、心の中で膨らんでいくものが抑えられなくなってくる。
先生が私のために、ちゃんと考えてくれた。
その事実が頭を離れない。嬉しいのはもちろんだけど、それ以上に、何かもっと大きな感情が心の奥で広がっているようだった。
「これ以上考えたらヤバい……!」
自分の胸の高まりに耐えられなくなって、私は勢いよく立ち上がり、そのままベッドに飛び込んだ。
「~~~!」
枕に顔を埋め、声にならない叫びを漏らす。足をばたばたさせるたび、ベッドが小さく揺れる。その揺れが妙に落ち着かなくて、でもどこか心地よくて、ますます自分の感情が手に負えなくなる。
「ほんと、先生って……なんなのさ。こういうの、やりすぎだよ……」
枕に向かって小さく呟く。胸の中で広がる温かい気持ちは、いくら抑えようとしても消えてくれない。それどころか、じわじわと広がっていくばかりだ。
――あの笑顔とか、言葉とか。なんでいちいちこんなに気にさせるの。
そう思うのに、少しも嫌な気分にはならない。それがまた、自分をどうにももどかしくさせる。
「……もう、知らない!」
そう言いながら布団を頭からかぶり、足をもう一度ばたばたさせる。顔が熱くなっているのを隠しながらも、胸の奥でじんわりと広がる感情が、どうにも心を落ち着かせてくれなかった。
やがて、布団の中で息を整えながら、少しずつ眠気が押し寄せてくる。
――先生が選んだチョーカーか。
その最後の思いを抱えながら、私は静かに意識を手放した。夜の静けさが部屋を包み込み、窓の外で瞬く月明かりが、机の上のチョーカーを優しく照らしていた。
カズサと先生の距離感がとても難しい
あとどうしてもワンパターンな展開が多くなってしまいそうなので、良い感じに味変できるようにしていきたいです
カズサをもっと可愛く書けるよう精進します