金曜の夜、キヴォトスの空は厚い雲に覆われていた。
朝からずっと予報は「夜には土砂降り」と告げていて、誰もが外出を避けようとしているような気配だった。窓の外は既に暗く、街灯が反射する地面は濡れている。まだ本降りではないが、じわりじわりと雨の香りが空気に混ざり、傘を忘れたら一瞬で濡れ鼠になる……そんな不穏な前触れが漂っていた。
「……そろそろ向かわなきゃ、本格的に降られるかな」
私は傘を握りしめながら、意を決してD.U地区――シャーレへと足を向ける。
毎週金曜日のシャーレ通いはもはや私のルーティーンとなっていた。いつも通り先生を手伝い、買ってきたスイーツを食べ、当たり障りのない会話をする、そんな日常。
まぁ、先生は忙しいし?手伝いと息抜きをさせるために行ってあげるのは悪いことじゃない……と、思う。うん、良いことだ。
「ケーキ、崩さないように走らなきゃ」
小さく呟き、手に持つ箱をパーカーで覆う。箱の中には、駅前のパティスリーで少し並んで買ったケーキが詰められている。先週は苺のタルトが美味しかったから、今回は同じ店で、先生が好みそうなチョコムースやフルーツタルトを揃えた。
曇天の空がどんよりと重く、今にも雨が降り出しそうな気配を漂わせている。けれど、それがどうしたというの? 私の足取りはむしろ軽い。
「先生、また喜んでくれるかな」
そんなことを考えるだけで、胸の奥がほんのり温かくなる。いつも忙しそうで、気づけば自分のことなんて後回し――そんな先生が、ケーキを見て少しだけ嬉しそうな顔をするのが好きだった。
「どうせ、また『ありがとう、カズサ』って言うんだろうなぁ」
自分で言った言葉に小さく笑ってしまう。あの、ちょっと照れたような笑顔が浮かぶのを想像するたび、私まで口元が緩んでしまうのだから不思議だ。
通りを歩く人々の傘の間を縫うようにして進む。灰色の空は重くて、いつものギヴォトスの景色がどこか色褪せて見えるけど、そんなことは気にならなかった。
「チョコムース、好きだといいな……」
箱を守るように腕に抱えながら、小走りでシャーレへの坂道を駆け上がる。心の中では、先生の笑顔が繰り返し浮かんでくる。灰色の空とは対照的に、なんだか今日はいい気分だ。
◇
シャーレまでの道、最初はぽつぽつとしか落ちていなかった雨が、途中から急に勢いを増してきた。大粒の雨滴が傘を叩きつけ、風はそれを斜めに運んでくる。傘の下だというのに、顔にも手にも、冷たい雨が容赦なく当たった。
足元はどんどん濡れていき、水たまりを避けるのも追いつかない。靴の中までじんわり湿っていて、スカートの裾もすっかり水を吸って重くなっている。それでも私は足を止めなかった。
「あと、少し……!」
呟く声は自分でもわかるくらい必死だった。ケーキの箱を守るようにカーディガンで包み込みながら、なんとか一歩ずつ踏み出す。これを濡らしたら――いや、そんなの考えたくもない。先生がこのケーキを見て笑ってくれる顔、それだけを支えに私は進む。
空に祈るように目を伏せた瞬間、突風が吹き抜けた。傘がぐらりと煽られ、思わず短い悲鳴が口をつく。
「わっ!」
傘は半ば無意味な形で揺れ、髪や肩に雨粒が直接降り注いだ。突き刺すように冷たい雨が肌を叩き、瞬く間に全身が濡れていく。
紙袋をさらにカーディガンで包み直し、私は走り出した。普通に歩いていたら全身ずぶ濡れになる――いや、もうすでにその状態に近い。だけど、ケーキだけは絶対に守らなきゃ。先生が喜んでくれるその瞬間のために。
「はぁ……はぁ……」
息を切らしながら、ようやくシャーレの灯りが見えてきた。遠くから見るその灯りは、まるで暗闇の中で見つけた救いのようだった。
前髪は完全に額に貼り付き、制服は雨水を吸って重たくなり、手首からはぽたぽたと水滴が落ちている。こんな姿で先生に会うなんて――絶対に呆れられる。
「でも、ここまで来たんだし……」
引き返すなんてあり得ない。ケーキはどうにか生きているはず。箱の中に水が染みていないことをただ祈りながら、私はドアの前で立ち止まった。
一瞬だけため息をつき、濡れた指で前髪をどうにか整えようとする。けれど、髪はぺたりと額に張り付いたままで、うまくいかない。
「……もう、行くしかない!」
覚悟を決め、執務室に足を踏み入れる。
室内では先生が机に向かって何か作業をしていたらしい。淡い青白い光がディスプレイから漏れていて、先生の表情をうっすらと照らしている。
私が小さく顔を出すと、先生がすぐに気づいて顔を上げた。そして、椅子から立ち上がった瞬間――その目が驚きで見開かれる。
「カズサ!? どうしたの、その格好――!」
先生の声が耳に届く。それまで机に向かっていた彼は、驚きと心配をないまぜにした表情のまま勢いよく立ち上がり、すぐにこちらへ駆け寄ってくる。その瞳に宿る強い戸惑いと優しさが、私の胸をじんわりと揺らした。
「どうしたも何も、スイーツ持ってきたの。これ」
できるだけ平静を装って手にした箱を高く掲げる。でも、制服は雨水で重くなり、スカートの裾からはしずくが滴る。その様子が視界に入るたび、妙な恥ずかしさが胸にせり上がってくる。
それでも、せめて声だけは明るくと、ぎこちない笑顔を浮かべながら言葉を紡ぐ。
「……先生、お疲れ様、です」
声が微かに震えたのは、きっと冷えた身体と心許なさが入り混じっていたからだろう。先生は一瞬驚いた顔を見せたあと、柔らかな笑みを浮かべる。その笑顔を見た途端、胸のどこかで小さな炎が灯るみたいに、熱が走った。
「ありがとう、カズサ」
その言葉は、まるで甘い蜜のように耳元でほどけていく。
先生はタオルを手に取り、ためらうことなく私の髪へと伸ばす。
「ちょ、ちょっと……自分でできるから!」
慌てて声を上げるけれど、先生は気に留める様子もなくタオルを動かし続ける。私の髪についた冷たい水滴が、その優しい手つきで拭われていく。
「いいからじっとして。こんなに濡れてるんじゃ、すぐに風邪を引くよ」
その言葉には、小言でも叱責でもない、ただ心配の気持ちが素直に宿っていた。抗う理由が見つからないまま、私はされるがままになる。タオル越しに伝わる先生の掌は驚くほど温かく、冷えた身体と心をじんわりと溶かしていくようだ。
雨で冷えきった頭が、先生の不器用だけれど丁寧な仕草でゆるゆると温められていく。そのたびに、体の奥底から甘く切ない熱が立ち上る。心配してくれている、という事実がこんなにも胸に響くなんて、思ってもみなかった。
「よく来てくれたね。こんな雨の中で、大変だったでしょ?」
ぽつりと落とされる先生の声が優しすぎて、言葉を返そうとしても喉が詰まってしまう。何て答えたらいいのか分からない。励ましてもらっているはずなのに、私は何も返せないまま、目を伏せる。
先生の指が、私の髪の端をそっと撫でる。その慎重な仕草に、先生らしさが詰まっている気がして、胸がまた締め付けられる。苦しいほどに甘い不思議な感覚だ。
「……そんなこと、ないよ」
か細く返した声が震えたのは、冷えた雨粒ではなく、心の奥で沸き立つ何かのせいだ。先生が「大丈夫?」と覗き込むと、すべてを見透かされそうで、余計に熱くなる。困ったように眉を下げる瞳は、私を甘やかすようで、少しずるい。
「カズサ、本当に大丈夫? 」
「だ、大丈夫だって。それよりほら、これ食べよう!」
慌ててスイーツの箱を差し出す。頬が赤くなっているのは確信しているけれど、そんなことを気にしている余裕はない。何か、話題を変えなきゃ、意識を逸らさなきゃ。
でも、先生はふわりと笑って、ゆるやかに首を振った。
「ありがとう。でも、その前にシャワーを浴びておいで。こんなに濡れたままじゃ、体が冷え切っちゃう」
素直に頷くと、静かに目が合った。その瞬間、外から聞こえる雨音が遠のいていくような気がする。冷えた身体が、さっきまでの不安定な心が、先生の言葉と温もりでほどけていく。
この感じは、ただ雨で体が冷えたからじゃない。先生の笑顔、言葉、そしてぬくもりが、内側に潜む何かを溶かし始めている。
立ち込める雨の匂いが、いつの間にか甘い香りに変わったような錯覚さえする中、私は小さく「わかった」と頷いて、そっとシャワー室へ向かった。
◇
シャワー室は思いのほか整然としていて、小さな灯りが柔らかく床や壁に溶け込んでいた。むわりとした湯気が肌を包みこみ、さっきまで感じていた冷えや痛むような寒さが嘘みたいに遠のいていく。濡れた服を脱げば、下着まで冷たくて思わず身震いする。早く、この身体を内側から温めてしまいたい――そんな焦燥混じりの思いでシャワーをひねると、程よく調整された湯がすぐに流れ出した。凍えるような雨の記憶も少しずつ溶けてくれる。
温かな水が髪から肩へ、そして背中へと滑り落ちていくたび、外にあった冷たさが洗い流されていくようだった。しばらくの間、ただ湯気に溶け込むように目を伏せ、張り詰めていた呼吸を整える。鼓動が穏やかになると、ようやく周囲を見る余裕が生まれた。そのとき、ふと視界に入ったのは――所謂、女性向けのデザインがされたシャンプーボトル。
とても、かわいらしい、しゃんぷー、ぼとる。
ん?
――え、ちょっ、誰のこれ!?
「先生の……じゃ、ないよね……?」
胸の奥が少しざわつく。たぶん、先生のではない。ラベルを見るにこのシャンプーは金木製の香りがするものだと思われるが、先生の髪からそんな香りがしたことはなかった。いや、敢えて私と会うタイミングでは使っていないという線も……ないか、あの人のことだし。
「実は家のない生徒たちのためシャワーを貸しているんだ!とか、先生ならありえるか……」
自分で言っておいて、妙に納得してしまう。先生なら、特別な女性との関係なんかより、むしろそんな風に生徒たちを助けている可能性の方がはるかに高い気がした。そう考えると、不安や嫉妬で胸がさざめいた先ほどまでの気持ちが、少しずつ溶けていくようだ。
うん、きっとそうだ。先生ならそうに決まっている。私はこんなことでご機嫌斜めになったり、心が揺らいだりなんて――
「しないわけ!ないでしょうが――!」
思わず声が裏返る。狭い脱衣所に響く自分の声に、私自身が一番驚く。すると、すぐ近くから先生の困惑した声が飛び込んできた。
『カズサ!?大きな声出してどうしたの!?』
「なんでもない!てか、下着とかあるんだから脱衣所まで来ないで!」
『えっ、あ…………そ、そうだね!ごめん!』
何故か一瞬、妙な間が空いた気がする。けれどその理由を問い詰めるより早く、先生の足音が急ぎ足で遠ざかっていく気配がした。
静まり返った空間で、私はひとつ溜め息をつく。さっきまで胸を乱していた感情の残滓はまだそこにあるけれど、先ほどよりはずっと穏やかになっている。
「ほんと、面倒なやつだな、私」
シャンプーのラベルを軽く指先でなぞりながら、小さく吐息を混ぜて呟く。シャーレに他の生徒が訪れるのは当たり前のことだと頭ではわかっているのに、胸の奥がじんわり揺れるのは、ここを私と先生だけの特別な空間と信じたがっていたからかもしれない。自分よりずっと親しい生徒が自由に出入りしているのかも、そう考えると訳もなく寂しさが押し寄せる。でも、今さらこんな子供じみた嫉妬に囚われるなんて、情けなくなる。
「……後で謝らなきゃ」
そんな自分を戒めるように唇を噛み、愛らしいラベルのシャンプー――ではなく、その隣に控えめな無香料のボトルを掴む。湯気の中、ゆっくりと指先を髪に滑らせながら、先週の記憶を辿った。あのときは甘いお菓子と先生の穏やかな声だけで心が満たされた。でも、こうして余計な想いが頭をもたげるのは、「もっと近づきたい」という欲深い感情が芽生えはじめている証拠なのかもしれない。
シャワーを止め、湿った空気を肺に取り込みながら深呼吸する。そして脱衣所へ戻ると、そこにはふわりとしたパジャマが丁寧に畳まれていた。男性用のゆったりとしたサイズに袖を通すと、少しぶかぶかで頼りないけれど、その生地にはほのかに先生の匂いが染み込んでいる。まるで腕の中にそっと抱かれるような幻想が胸の中に広がり、熱を帯びた頬を隠すように、私は袖口をぎゅっと握りしめた。
◇
髪を軽くタオルで拭いた後、執務室へ戻ると先生は私の服を乾燥機にかけてくれていた。振り向いた先生は少しぎこちない笑みを浮かべ、
「どう?あったまった?」
と声をかけてくれる。
「うん、おかげさまでね」
「よかった。パジャマは……大きいよね。寒くない?」
「大丈夫。むしろ、あったかいし、先生の匂いがして……ちょっと、安心する」
言葉にしてしまうと、急に照れくさくなってしまう。でも、先生はそれ以上に動揺したようで、視線をさっと逸らした。その小さなリアクションが可笑しくて、私までつい笑ってしまう。さっきまで暗い気持ちだったのが嘘みたい。やっぱり、この人といると不思議と心が和らぐ。
「ねえ、あの……」
「ん?」
「さっき、シャワー室で変な声出して……それで心配して来てくれたのに、あんな言い方しちゃって、ごめんなさい」
そう素直に謝ると、先生は一瞬目を瞬かせ、それから柔らかく笑ってくれた。
「気にしないよ。びっくりさせちゃったなら、私のほうこそごめん。カズサが大きな声出すから、何かあったかと思って」
「……シャンプー」
「え?」
「女の子向けのシャンプーが置いてあってさ、その……ちょっと動揺してたんだよね。先生のじゃないだろうし、勝手に変なこと考えちゃって……」
私が気まずそうに言うと、先生は「ああ、あれか」と納得したような顔になる。その様子に少しホッとする。ここで曖昧にはぐらかされたら、また変な不安が芽生えてしまいそうだった。
「訳あって、シャーレ近くの公園で野営してる生徒がいるんだ。毎回ドラム缶でお風呂を沸かすのも手間だろうからシャワー借してるんだけど……その子たちのシャンプーだね」
「……野営?マジで?」
「うん、大マジ」
まさかの予想的中だった。先生らしい話だ。私が想像していた、特別な女性とどうこうなんて妄想より、ずっと現実的で、ずっと先生らしい。生徒を助けるためなら、こうして自分の空間を惜しみなく提供する人だと、改めて実感させられる。
「……そうなんだ。ごめんね、私、勝手に勘違いして変に拗ねちゃって。」
素直に謝った途端、先生は「ああ、気にしなくていいよ」とでも言うような、軽やかな表情を浮かべる。その自然体な態度は、まるで床に落ちている紙切れを拾うようにあっさりしていて、逆に胸がきゅん、となる。最初からこの人には、私の小さな迷いなんて見透かされていたような気がする。
けれど責めることもなく、からかうこともなく、ただ柔らかく受け止めてくれる。それが先生らしいところで、心地よくて、ちょっと悔しい。こんなに簡単にほだされる自分が、もうちょっとしっかりしてよ、って感じ。
「気にしなくていいよ。そんな風に考えるくらい、ここを特別だと思ってくれてるってことでしょ?」
「な、なにそれ……急にそういうこと言わないでよ」
思わず頬がじわりと熱くなる。冗談半分で言ってるんだろうけど、そんな言葉ひとつで私の胸はうわぁって盛り上がるんだから、自分でも笑っちゃう。結局、どれだけ勘ぐっても先生は先生で、私はこうして簡単に心をほどかれてしまうらしい。
外はまだ雨が降っている。ぽつぽつとした音が遠くで響く中、私たちのいるこの小さな部屋は妙にあたたかい。湿度が増してるはずなのに、私の心は軽くなっていくばかり。
「私もめんどくさい生徒だよね。夜遅く、雨の中わざわざ来たり、変な詮索したり……」
「そんなことないよ。カズサが来てくれて嬉しい。ちょっと拗ねたり、気にしたりするのも、カズサらしくて……可愛いと思うな」
「か、可愛いって……。もう、そういうの、いきなり言わないでよ」
先生からは言われ慣れているはずのその言葉は、脳内で小さな花火みたいにぱちぱちと弾ける。自分の中で、ちょっとしたお祭り騒ぎが始まる。私はそっぽを向いて、その花火が見えない振りをするけれど、頬の熱さはどうにもならない。こんなにも簡単に胸が躍るなんて、もう、どうかしてる。
「本当のこと言っただけだよ。」
先生は平然としていて、逆に私の方が落ち着かない。笑いが自然と漏れてしまう。窓ガラス越しに微かな雨の音が聞こえるけれど、この部屋だけはまるで色とりどりのキャンディーに包まれているような、甘く優しい光で満たされている気がする。
「……それじゃあ、せっかく守ったスイーツ、食べようか」
「うん! 見て、ちゃんと無事だよ」
箱を開けると、苺のタルトやチョコムース、カラフルな果物が踊るように並んでいる。まるで小さなパレード。指先が軽く震えるのは、空腹とかじゃなくて、わくわくする気持ちのせい。頑張って濡れながら運んだ苦労も、こうして先生と分け合う瞬間のためだったんだと思えば、悪くない。むしろ、最高かも。
「わあ、どれも美味しそう。カズサは何から食べる?」
「私は……苺のタルト。先生は?」
「じゃあ、チョコムースにしようかな。」
フォークを入れると、ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐる。パクッと頬張れば、苺の酸味と生クリームの軽さが舌の上で踊り出す。ああ、幸せ。先生の隣で、お気に入りの味がより何倍も美味しくなる。胸の奥がじわりとあたたかくなって、目を閉じれば、一瞬で満たされていく自分がわかる。
「おいしい?」
「うん、とっても。苺が甘酸っぱくて、生クリームも軽いし、何度でも食べたくなる」
「チョコムースも滑らかでいいね。これ、ハマっちゃいそう」
「ふふ、そしたらまた買ってくるよ。……あ、でも先生、無理しないでって言いそう」
「もちろん言うよ、無理しないで。カズサが来たいときに来てくれれば、それで私は嬉しいんだから」
「カズサが来たいときに来てくれれば、それでいい」――そんな言葉、胸に染み込むみたい。私が会いたいと思ったとき、先生はきっとここにいて、笑顔で受け止めてくれる。雨夜に身を包み、ぶかぶかのパジャマで、甘いケーキを分け合う。ただそれだけで、こんなに気持ちがとろけるなんて、想像もしてなかった。
――ああ、本当に幸せな時間だな。
外では雨音が淡々とリズムを刻んでいる。でも、この部屋の中は静かで、柔らかくて、まるで抱きしめられているような気分だ。私はフォークを唇に当てて、そっと笑う。この瞬間が永遠に続けばいいのに、なんて、ちょっとポップな妄想が頭に浮かんでしまうほど、今は満ち足りている。
◇
外は相変わらずの大雨。気がつけば時刻もかなり遅くなっていた。
まぁ、正直に言うとこうなることは予想できていた。シャーレからトリニティはかなり距離があるのに加え、この雨となれば帰宅は困難。先生もそれをわかってか「仮眠室の準備をしてくるね」と、自然と寝床の準備をし始めた。
「えへへ」
他の生徒でもシャーレ当番の際に宿泊することはある。けれど、プライベートな時間でお泊りをする、というのはまた別の嬉しさがある。
そうして嬉しさを噛みしめながら仮眠室へ向かった私は、ドアを開けた瞬間、思わず目を瞬かせた。床には寝袋が敷かれている。
「……は?」
つい呆れた声が漏れた。確かに「仮眠室の準備してくるね」と言っていたけれど、何で先生が床なの?
こちらを伺うような顔をした先生は、軽く肩をすくめて見せる。
「じゃあ、私は寝袋で寝るから、カズサはベッドで寝てね」
「……」
私は無言のまま、先生の服の裾をきゅっと引っ張る。まるで抗議の意思表示みたいに。
「いや、さすがに生徒と一緒に寝るのは――」
「この前は先生から誘ってきたくせに」
唇を尖らせてふくれっ面になると、先生は言葉に詰まった。私が泊ったときに、先生が「隣、横になれば?」と、寝ぼけながら誘ってきたことがあった。あの時は戸惑いながらも、なんだかんだで一緒のベッドを共有したはずだ。
「あーそんなこともあったような……なかったような……。で、でも、あれは状況が違うし……?」
「今回は私が一緒に寝たいの。これでお相子でしょ?」
そう言い切ると、先生は一瞬目を泳がせ、困ったように頬をかく。
「……わかったよ」
どぎまぎしながら、先生が承諾する。私は思わず心の中で小さくガッツポーズ。
こうして二人でベッドに潜り込むと、すぐに照明が落とされた。仄かな薄暗闇の中、隣に先生がいる。その事実だけで心臓がやけにうるさい。少しだけ緊張が走る。向き合って横になると、お互い無言のまま数秒が経つ。頭の中にはさっきまでの雨音と、ここに至るまでの一連のやり取りがぐるぐる回っている。
外の大雨はまだ続いていて、窓を打ちつける音が静寂の中に響く。落ち着いているようで、妙に落ち着かない。
少し経ってから、私はぽつりと口を開く。
「……寒い」
静かな仮眠室で、その一言がやけに際立つ。
その一言で先生はためらいながらも腕を伸ばし、私の肩に手を回す。
制服からパジャマに着替えた時に感じた先生の匂いが、また近くで漂っている。じわりと染み込むぬくもりは、わざと意地を張っていた自分を嘘みたいにほどいていく。
さらに先生は少し逡巡してから、そっと私の頭に手をやり、髪を撫でてくれる。その動作は子供扱いされているみたいで照れくさいけれど、心地いい。守られている気がして、胸がきゅっとなる。
外の雨音が優しく聞こえる。遠いトリニティの寮に帰れないことより、ここで先生のそばにいられることが嬉しいなんて、数か月前の自分なら考えもしなかった。
今はただ、たった一人の大切な人のそばで穏やかに眠れることが愛おしくて、胸が温かい。
少し上を向き、囁くような声で問いかける。
「先生……起きてる?」
「うん、起きてるよ」
柔らかな返事が返ってきて、なんだか嬉しくなる。
「ありがと……今日は、一緒にいてくれて」
「……そっちこそ、雨の中わざわざ来てくれてありがとう。無茶しないで欲しいって思うけど、正直、ちょっと嬉しかった」
「ふふ、そっか」
カーテンの隙間から入り込むわずかな明かりに、先生の輪郭が浮かぶ。
その顔を目を細めて見つめながら、特別な言葉なんていらないと感じる。二人の間には、今日一日かけて作り上げた小さな信頼と絆が、柔らかな橋みたいにかかっている。
外では雨粒が窓を叩いているけれど、ここには穏やかな温度がある。
それは蒸し暑さでもなく、ただ、心がほっとするような温もりだ。
「おやすみ、先生」
耳元で囁けば、先生も低い声で応える。
「おやすみ、カズサ」
互いに寄り添い合い、心臓の鼓動を確かめるような沈黙が訪れる。
明日が晴れようがまた雨だろうが、今はただ、二人で過ごすこの甘くて静かな時間が大事だと思えた。
雨音が遠く子守唄みたいに耳をくすぐる。こうしてくっついていれば、寒さなんて感じない。
じわじわと意識が溶けていく中、私は先生が髪を撫でる手の感触を名残惜しむように感じながら瞳を閉じる。
外は激しい雨でも、私たちの間には小さな太陽みたいなぬくもりがあった。
今夜はきっと、ぐっすり眠れそうな気がする。
翌日が土曜だからお泊まりするのか…カズサ…?
もっと描写を軽くすれば投稿頻度は上がるけど物足りなさを感じてしまうジレンマ…。
感想などいただけるとやる気が出て頑張れます。