――そうなるべくして、なった関係だったのかは分からない。少なくとも私は、あの瞬間まで幸せだった筈だった。彼を愛して、彼と共に戦っては傷を作ってきた。誰よりも、彼を知っていた筈だ。
だからこそ、その行いは余りにも理不尽で自らを呪いたくなるほどだった……。
「嫌だ!離してっ!」
待ちわびた今日という日であったのに、私は用意されたの部屋で仲間だったはずの男達に押さえつけられる。
何故そうなったのか分からない。突然だった。これから行われる馬超との婚儀。それをしあわせな気持ちであげる予定だったのに……。
「大人しくしてね?」
頭を押さえつけられて、彼の従兄弟である馬岱が口を開く。その声は妙に冷たくて、陽気な筈だった彼の声は低いものに変わっていた。
「馬岱っ!離してっ」
「それはできないんだ。諸葛亮殿からの命令でね」
そう言うと、彼の部下が私の両手を拘束した。
「何なのこれ!やめてよ!私はこれから孟起とっ……!」
「残念だけど、それは無理だよ。若はもう祝言を上げている」
――は……?
開け放たれた窓からそれは確認する事ができた。きらびやかな衣装を身にまとい、恋人だったひとが自分とは違う人と腕を組んで歩いている。あの女性には見覚えのある。馬超の邸で、彼の身の回りの世話をしていた女官だ。頬を赤らめて、見つめる女。それを受け入れる孟起。彼に触れてほしくてなくて、現実を嘘だと思いたくて私は怒りで顔を真っ赤にして叫び声をあげようとした。
「……っ!!」
「だめだよ。若の大事な日を邪魔しちゃ……」
口元を背後から押さえつけられた。力は強く、女である私は嫌でも自身の不甲斐なさを自覚する。必死で抵抗しようともがくが、後ろから羽交い締めにあったままの私にはその力を振りほどく力を持ち得なかった。
「……っ!んんんっ!!」
愛した男が自分以外の女と唇を交わす。愛した男が、自分以外の女を抱きしめて、微笑む。混乱する中でうめき声をあげるしかできない。
「君は、若と祝言はあげられないんだよ。たとえ今ここで俺の腕から逃れられたとしても、あそこで捉えられるだけだ」
――何故……。
その言葉しか出てこない。昨夜まで孟起と楽しく時間を共有していた。馬岱とだって笑って酒を飲み交わしていた筈だ。それが何故今こんな状態にあるんだろうか……。どんなに頭を巡らせても、答えが出てこない。ひたすら自分の思考に疑問符が浮かんでいくだけだ。
私は涙を流しながら抵抗していた力を緩めた。
「や、だぁ……も、き……嫌……嫌だぁ……」
泣きじゃくる自分に同情の空気はない。呻くように声を上げる私に馬岱は私を抱きしめる。なぜ、そんな事をするの?あなたは彼の身内で、一番近くにいる人だったそれなのに何故……。
あれから幾日経ったのか分からない。地下牢に鎖で繋がれたまま、私は水も食料も最低限の量を与えられたが、口にすることはなかった。外は雨が降っているのか水滴の落ちる音が聞こえる。湿気を帯びる空間。喉がカラカラのまま乾いた唇を舐めるがその唇が潤うことはなかった。
「……」
「いつまでそうしてるの?何も食べないつもり?」
鉄格子の奥から声がする。私を監視するために馬岱は牢へ連れてきてからずっとここにいる。
ため息をついてから鉄格子の鍵を開け、私の目の前に来ると馬岱は水を含んでから私に口付けた。
「……っ……んっ……くっ……」
こくっと音がするが、馬岱は私の唇を堪能するように角度を変え、舌で歯列をなぞり深く口付ける。
「……んんっ、や……ぁ……」
挿し入れた舌を絡ませて、拒絶しようと逃げる私の顔を押さえ込んで何度も何度もそれを繰り返す。
――ガリッ!
「……っ!」
馬岱の唇を噛むと、男は冷たい顔のまま私を組み敷いた。初めて見る馬岱の【男】の顔に私は平静ではいられなかった。唇から少しばかり出血をしているその顔は私が知る馬岱のそれではなく、口に付着している血を舐めとるその動作は妙に色っぽく見えた。私はそれが恐ろしく思った。
「痛いなぁ……。酷いよ…ここに来てからずっとそばにいる俺にする仕打ち?」
「う、うるさい、そばにいてくれって頼んでない」
「はは……強がっちゃって可愛いなぁ君は……。1人なら泣いてた癖に……。本当なら今頃、君は若としあわせな時間を過ごしていた筈だったのに残念。可哀想だね。寂しい思いしないように、俺がそばにいてあげてたのに、頼ってもくれないんだから」
「何、言って……」
馬岱が、私に覆い被さる。するりと、太腿に大きな手を滑らせる。事に及ぼうとする体勢を取ると私は身をよじる。
「逃げても無駄なのに……」
聞きなれない声に背筋がゾクリとする。今までずっと近くにいて、こんな顔をする彼を知らなかった。
「あ……あんた、頭おかしいんじゃないの?」
「……あは、そうでもないよ?これはすべて織り込み済みの事だから」
「はぁ?」
「言っても分からないよね?でももうすぐわかるよ」
「やめてよ」
「やめないよぉ。そういう約束だから」
「何っ、言って……」
言いかけると、牢の出入り口あたりから人の気配がした。
「残念。時間切れだね」
スッと離れると、鉄格子の奥に数人の人影があった。
「も、……き」
会いたかったその人がそこにはいた。気まずそうな顔のままこちらを見ることはなく諸葛亮殿と、ゆっくりこちらに向かってくる2人。丞相殿は口を開く。
「気分はどうですか?」
悪巧みするように羽扇で口元を隠して言う丞相は、大体ろくでもない事を考えているはずだ。
「……」
「鎖を外して差し上げなさい。馬超殿」
馬超は、私の錠を外そうと無言で近づいた。名前を呼んでも、彼は視線を合わせることはなく淡々と言われた事を実行した。重い鎖がじゃらりと音がする。
外された後に彼に手を伸ばそうとし、触れるか触れないかの手前で孟起は私から離れた。
――拒絶……された……?
「……ぜ……?……な……ぜ……」
疑問が頭を支配する。つい数日前まで、抱き合って唇を重ねて楽しみにしていた相手。あれほど相思相愛だったにもかかわらず、どういう事だ?
「……およしなさい。彼はもう既に婚儀を終えた身。妻の居る者に色目など使ってはいけません」
――婚……儀……?
鈍器で殴られたような衝撃。あの日の事が思い起こされる。羽扇を片手にこちらを見下すような目。隙間から見えたその口元は微かに笑ったような……。
「……貴様……か……!!」
立ち上がってそちらに向かおうとするが疲弊した身体が言うことを聞かない。しかしこの男を、諸葛亮を殴らなければ気が収まらない。気持ちが爆発しているというのに身体が自分の意志のまま動かず、床に手を付ける。私はそれが悔しくて、自らの足を殴りつけた。
「くそっ!動けっ!」
傍から見たらその行動は異常かもしれない。動かない体を自分で痛めつける。数歩先にいる男達に何もできない自分が情けなくて仕方がない。自虐を止めたのは孟起ではなく後ろにいた馬岱だった。
「離してよ!!」
少ない体力で精一杯の抵抗の声を馬岱に投げる。
「だめだよ、それ以上は……」
「うるさい!!殺してやる!」
暴言を吐く私に、馬岱は仕方なく床に私の頭を押さえつけた。体重をかけられたせいで私は暴れながらもがくしか無かった。そんな私の前に、諸葛亮はゆっくり近づいてから視線を少し低くして言った。
「私と馬超殿を殺したくて堪らないでしょう?」
無数にこぼれる涙そのままに、二人の男を睨みつける。拳を握りしめて唇を噛んだ。
「そうですね、取引をしましょう。これからあなたは我が蜀にとって、魏への献上品として明け渡されることになります」
「な、に?」
「半年……差し上げましょう。とある人物と繋がり、情報を把握し共に我らの国に持ち帰ってください。そうすれば……」
――私達をあなたの好きにしていい……。
そのときの私は憎しみに囚われていて正常な判断ができないでいた。なんとしても、奴等に復讐してやる。その想いのまま、首を縦に振るだけだったのだ。
馬超の本心も、馬岱のあの行動の意味すら分かっていなかった。
――ただひたすらに憎しみの気持ちが、私を魏国に導いていたのだ……。
◆
着飾った装飾品。この国にいた時ですらこんなに派手な格好なんてしていなかった。綺麗で滑らかな生地。華やかな宝石を身につける。鏡の中の自分が余りにも哀れな顔をする。笑顔が無いそれは強引に装飾品に着させられているようだった……。
「いいですか?あなたの役割は魏国にいる元直を説得し、情報を持ち帰る事。その役目が終わらなければ、こちらに帰ることはなりません」
羽扇を口元にあてて、男はそう言った。徐庶といえば、諸葛亮と同門だと聞いたことがある。母上を人質に、魏国に行ったと……。あれからしばらく経っているというのに、諸葛亮は彼を諦めていないということか……。
私は所詮……徐庶奪還の為の駒なのだと知った。この国にとって、私の存在などその程度なのだと……。
「君をあちらに送り届けるのは俺の仕事だから……。馬車に乗ってくれていいよ」
馬岱はいつもどおりの涼しい顔のまま言った。
「……」
何かを言う気にはなれなかった。どちらにしろ、私にとっていい方に転がり込むことが無い策だ。失敗しようが成功しようが幸せになることはありえない。
笑顔を貼り付ける馬岱を見る事なく乗り込む。ぱたんと扉がとじられると、馬岱は悲しそうな顔で口を開く。
「はは、残念嫌われちゃったみたいですね」
「仕方がありません。我々は彼女を捨て駒にするようなもの……」
諸葛亮はそう答えると、動き出した馬車と馬に乗って並走する馬岱を見送った。
「……」
馬超は、諸葛亮の後ろでポツリと名前を呼んだ。拳を握り、下を向いたその顔は悔しげなそれであった。
それから数日、魏国の国境へ向けて馬車を走らせる。傍に警戒する相手がいると思うと、私はどうにもいたたまれず周りを常に注視していた。思いのほか馬岱はそばに来ることはなかったが……。その日は違った。
「今日の見張りは俺なんだ」
いつもの陽気な声で彼が言った。私は目の前に立つ馬岱を警戒した。あんなことがあった後に、私を乱暴に扱いながら唇を奪った男だ。何を考えているのかわからない。
「随分落ち着いたね」
「……」
無言を貫いて、馬車から薪の燃える場所にまで移動する。彼がいるその場所からでも十分に監視できるというのに馬岱は私の後をついてきた。
「何故、ついてくるの?見張りなら私の私兵にさせればいい」
火が灯る薪の前に座ると馬岱も反対側に腰を下ろす。その顔は何事もなかったかのような表情。あまりにも普通過ぎて、私は拳を握った。
「君の私兵にさせたら、逃亡を図るでしょ?」
「……」
「それに、これは俺が好きでやってるんだよ。そういう約束でもあるけど……」
「この間から何なの?その約束の話、ちゃんと話して」
「それは言えない」
「人一人の人生を壊しておいて、偉そうなこと言ってんじゃないわよ」
「そうだね、俺は君の信頼も君の幸せも壊した人間の一人だ。でも、上から言われれば従わないといけない。君も将であったなら分かることでしょ?」
同意を求められて、私は顔を反らした。馬岱の言っている事は正しい。仲間を犠牲にしてでも、それを行いたいと言うならば致し方ない事は分かる。分かるが……。
――今回の件は余りにも酷すぎる
だってそうだ。孟起と過ごすはずの日々を夢見ていた。今だって本当は、彼の腕の中で笑いあっていたかもしれない。彼の為に、食事を作っていたかもしれない。明日はどんな嬉しい気持ちになるのだろう。わくわくしていた自分が愚かだ。
その夢を壊したのは、目の前の愛する人を含めた仲間だった何か。悪びれもせず、私の前に存在すること自体厚顔無恥にも甚だしい。睨みつけていると、馬岱は口を開く。
「……君がなぜこの作戦に選ばれたのか分からない?」
粥を口に入れて考える。適齢期の女は他に多くいる。その中で私を選ぶなんて、【いい理由】なわけがない。たとえば、私は冴えない武将の娘で成り上がりだ。現時点で親はいない。容姿も普通。戦況に影響がない存在を駒にするには私が一番都合が良かったのかもしれない。
「……」
「都合がいいっていう選択は正しいよ。諸葛亮殿にとっても、俺にとってもね……でもね、それだけじゃない君じゃないと行けない理由があるんだ」
低い声で、私にそう言う姿にカチンときた。含みのある言い方をすれば私が泣きながら彼に縋るとでも思っているのだろうか……。
「勘違いしないで。お前たちを殺したい気持ちは消えていない。お前たちを根絶やしにする事なんて、魏国に取り入ればいずれ出来る事だ。私を舐めるのも大概にしろ」
「ごめん……でも、これだけは伝えておくよ。俺は、君の幸せを願ってる。どこにいようと。もし、魏でうまくいかなくて逃げ出したいと思ったらいつでも助けに行く。それだけは覚えておいて」
「……悪いけど、あんたにだけは絶対に助けは求めないから」
鋭く言葉を放った後に、微かに彼の表情が曇った気がした。私はそれを見ないふりした。
暫くの後私は魏国の国境沿いで迎えの馬車に乗り込んだ。馬岱は最後まで私の心配をしていたが、事が事だ。決して私は彼に視線を向けなかった。それが、弱った私ができる精一杯の馬岱への接し方だった。
数週間。私の気持ちは本当に穏やかではなかった。ひどく精神的に消耗し、付いていた筋肉も落ちていた。少し歩くだけで、息切れをしてしまう事だろう。深く考えようとしても、あの日の事を思い出して頭痛と心臓が痛みだす。深夜になると孤独に耐えかねて涙するときもあった。どこまでも弱いと自覚する時間にしかならなかった……。
「貴様が蜀よりの献上品か……?」
案内された個室で待機しているとそこにあの司馬懿が入室してきた。嫌悪の顔をこちらに向けて、不機嫌な顔をする。私は急いで、跪こうとするがもたついて倒れそうになる。
「ふん。返事もまともにできぬとは……蜀の将も落ちぶれたものだな……蜀より『戦場を駆け抜ける白き華』と詠われたいた割にはそうでもない……。存外、蜀の噂も当てにはならぬな。」
そう言う司馬懿を私は睨みつける。もともと将であった私にそのようなことを言うという事は司馬懿は私を挑発しているのだ。しかし、ここで事を荒立てる必要はない。着飾った服のまま膝をついて口を開く。
「挨拶が遅れまして申し訳ございませぬ。あちらを出る際に、少々問題が起きてしまい、体調を崩しておりました」
務めて冷静に言葉にする。名を告げて、体調が悪かったという言葉は少し語弊があるかもしれないが、将であった私が痩せこけてここにいるという時点で男は何かを察したのかふん!と鼻息を荒くした。扉の方へ向かい、乱暴に歩いていく。遠のく足音を聞きながら私はただ唇をかみ締めながら下を向いているしかなかった。
元々、容姿になんか自信はなかった。戦場で駆け抜け、戦場で戦い、戦場で勝ち残ればいい。ただ、それだけを思って私は生きてきたのだから。そもそも、何も好意がない異性に大したことはないと言われたところで傷つくような歳ではない。
しかし、それが自分の好いた相手となれば別なのだ。いつもそばにいて背中を任され、任す存在だった孟起、馬岱……。自然と私たちに友情や恋情が生まれるのは、そう長くかからなかった。
「いつか俺と、一緒に……」
孟起にそう言われることをどれだけ待ち望んだことか……。彼にとって私は唯一無二で、私以外に変えられる存在はいない。と自負していた。
にもかかわらず、あっさりとその自信は砕け散った。孟起は、屋敷にいた美しい女官と婚儀を行い、私を捨てたのだ。挙句の果てに、あの時私の鎖を解いた際に見せた瞳が……。
「分かってる。すべて、夢物語」
ここにいることは現実で、気持ちの整理すらついていない自分にはどうするべきなのかいまだに判断がつかない。それでも、私は私を守るために戦うしかないのだ。
あいつらを無きものにする。皮肉なことにそれが私の心を繋ぎ止める唯一の希望だった。
その後、魏国曹操に挨拶の為宮殿へ。
王と傍らに立つ息子の曹丕はこちらを静かな目で見下ろしている。曹操は随分と上機嫌で、顎髭をくしゃりと触っていた。
「お初にお目にかかります」
「うむ、賜り物と聞き、何が来るかと思えばお主とな……お前の活躍は知っておる。幾度か戦場で見たことがあるぞ」
「光栄です」
魏国の王に顔を知られていることに驚いたが、私は冷静を装って礼を言った。周りは魏国の敵だらけ。他国へ名前を轟かせた武将達が集まるこの空間に冷や汗をかく。集中する疑念の目、ひとつ間違えば私の命はない。故に、この場をなんとしても切り抜けねばならない。
「そうかしこまらずともよい。顔を上げよ」
私はそのままスッと顔を上げた。こちらを吟味するようなその瞳に緊張の糸がピンと張る。曹操をまっすぐ見つめると口角を上げた。
「子桓、どうじゃこの娘中々のものではないか?」
面白いものを見たとでもいうような顔をして、曹丕に話しかける。話しかけられた男はこちらを一瞥してから、さして興味のないような冷たい顔のまま口を開いた。
「父よ好色も大概にされぬといつか痛い目にあいますぞ」
「馬鹿を言え。わしにではなく、お主にだ」
「生憎と、私には甄がおります。他に女を囲うつもりはない」
冷静に言い放つ男に曹操は短くため息をつく。
「……まあよい。お主はこちらに来る途中に怪我をしたそうだな。しばらく療養をするといいだろう」
魏国からの馬車の乗り換えの際に馬岱がそのような話をしたようで、私は少し動揺した。それでも、この姿をみて疑問に思う者も多くいるだろう。
「はい。有難うございます……」
そう口にして再び両手を心臓の前に当てて一礼した。
退出の際に一瞬交差した視線。切れ長の、王の息子は静かにこちらを見ている。
――チリリン……。
髪飾りの鈴が鳴る。睨むではなく、試すでもなく……。ただ、何も興味を示さないかのような鋭く冷たい瞳。私は、この男『曹丕子桓』の眼に【何か】を感じた。
◆
「もう、いいです。ありがとうございます。」
蜀でのひどい仕打ちで、警戒する人間が傍にいなくなった反動か私は 出された食事を食べる事が出来ず女官に声を掛けた。
「……お食事がお口に合いませんでしたか?」
「違う……ごめん、うぅっ!」
ここに来て一週間。食事をしても、胃が物を受け付けずもどしてしまう。辛うじて水は飲むことが出来たが、それ以外は全て受け付けず、私は寝台での生活を余儀なくされていた。
唯一長旅の間に口にできた粥でさえ、口に入れたとたん吐き気をもよおす。痛めつけられた精神は、思いのほか深いのかと笑いさえこみあげてきてしまう。
「国のためにわざわざ単身ここへ来たのに……使い物にならないなんて笑える」
「ご無理なさらないでください」
女官は心配げな面持ちで私の背中をさする。桶の中へ胃の中身を戻そうにも、何も食べていないため胃液だけがそこに溜まる一方だった。
今の私は、宮殿から離れた屋敷で療養の日々を送っていた。名目上は、曹操によって曹丕が屋敷の管理をしていることになっているがここに足を運んでくることはない。それはそうだ。いくら敵国から献上されていたとはいえ、半病人のような娘を送りつけられたのだ。魏からしてみれば迷惑でしかない存在だ。そんな人間に目をかける者はいない。分かっていた。知らない人間の監視があったとして、私が蜀で受けたあの事実を知る者はいない。それ故に、私のこころは少しずつ冷静に、しかし着実に憎しみに揺れていた。
憎いと思った男達にいいように利用されてたまるものかと……憎いと思った男達に殺されるくらいなら、情報なんて、流してなるものかと……。そうこの一週間でその結論に至った。
だったら、諸葛亮が一番嫌がる方法で裏切ってやればいいのだと……。
◆
「ほう……あの娘が……」
司馬懿は、執務室で女官からの報告を受けた。人質としてこの魏国に来てから一週間。女官の中でも優秀で忠実な者を彼女に付けた。報告は昼と夕に一度ずつ。
食事をここに来て受け付けないこと、日に日にやつれて行く姿に痛々しい程の希望のない瞳。女官は彼女が可哀想でならなかった。
「恐らく、精神的に相当蜀で痛め付けられたのだと思います。ここに来て最初の湯浴みでは、手首の鎖の跡、身体全体に痣の後で変色しておりました」
「つまりは何か?あの女は蜀でも厄介払いというわけだな。はっ!そのような女をよくもまぁ敵国に送りつけてくるものだ。諸葛亮も落ちたものだ」
司馬懿は忌々しげな顔をする。彼女の噂は他の将からも聞いていた。戦の際の武勇も去ることながら、頭の回転が早く優秀だったと……。事実数年前の戦の際に、夏侯惇率いる攻城戦では彼女の指揮の元陥落が出来なかった。そんな彼女をひと目見てみたいと思っていた司馬懿は、あの日の初対面の際、余りのひ弱そうな姿に落胆した。しかし理由があるなら、その理由を知りたいと思うのは人の性だ。それを理由に、こちらに引き込むことも可能であるだろう。
思案していると、女官が悲しげに口を開く。
「わたくしには……それが痛々しく思うのでございます。あの方は何かを懸命に耐えているような……諦めた様な……そんな印象を受けるのです」
「ふん!そのようなこと敵軍である私には関係のないこと。お前は与えられたことをやればよいのだ。私に一々進言などするな。」
「……申し訳ございません。」
「引き続き、監視をしておけ。あの女をどう利用するかで我々の今後もまた変わるだろう」
深々と頭を下げて、そのまま部屋を出て行く彼女。その後姿を見送った後、彼は外を眺めながらポツリとつぶやいた。
「雨……か。」
◆
ポツリポツリと水滴の音がする。まばらに降るその音はあの日の記憶を呼び起こす。
「雨……」
雨季に入るのだろうか……此処の所雨が多い。戸を開けて廊下に出ると、私は降り続ける雨を見つめ続ける。ここに来てからというもの、雨の音だけで手が震えている。それがあまりにも不甲斐ないと思った。
かつては泥だらけで剣を振っていたあのころ。自分にはこれしかないと思っていたあのころ。その唯一のとりえさえ、今ここでは発揮すらされず、自らが弱っていく一方だ。ここは敵ばかり。頼れる人間なんて一人もいない。だから……。
裸足のまま庭を歩く。どうせいつ風邪を引いたっていつ死んだって迷惑にはならない存在だ。
いっそのこと、このまま高熱にうなされて死んでしまったほうが楽なのではないかと思った。雨足の強い水はやせ細った自分の身体に振り続ける。白い衣服は水分を吸い込んで、肌にぴたりと吸い付いていく。
空を眺めながら、かつての幸せだったころを思い起こす。どの時にも、私のそばには彼らがいた。
「何を思い出しても、あの人たちの顔が浮かぶ……」
ぽつりとつぶやく。誰にも言えない事情。誰にも打ち明けられない気持ち。誰かを信じることができないことがこんなにも苦しいなんて……。心の安寧なんかない。私が一体何をしたのだろう……。
「消えてしまいたいなぁ……」
掠れた声で言う。この気持ちは私の本心だった。誰かを憎みながらも、生きる気力がわかない矛盾した立場。この場を乗り切ったとして、私に何が残るのだろうかと……。
スゥーっと目を閉じる。もしかしたら、今度目を開けたらすべては夢だったという事にならないだろうかと……。
「勝手に雨に濡れるのは構わないが、私の前で倒れてくれるな。面倒だ」
降り続ける雨の中、不機嫌そうに……それでいて冷たく低い声が耳に届いた。
――振り向けばあの男、曹丕がいた。
廊下の柱に身体を預けてそこに男は立っていた。後ずさりする私に、曹丕は雨など気にもせずこちらに向かって足を進める。眉間に皺を寄せて、怒っているのか、目を細めたまま私に近寄って手を伸ばした。
「や、やだ……やめて。近寄らないでっ」
瞬間的に怯えた声を上げる。馬岱に触れられたあの時の行為がフラッシュバックする。私は、足を踏み外してそのまましりもちをついた。
「……ぁっ……」
怯えた表情で戸惑う私に、彼は特に気にもしない素振りで私を抱きかかえた。
「や、やめっ……」
「案ずるな。お前のような女に興味はない。風邪を引く。来い。お前には、利用価値はないものの蜀からの人質だ。大人しくいうことを聞け。」
冷たい言葉。そして、酷い言葉に自然と大人しくなる。
――あぁ、またこの言葉か……。
「いいです。近づかないで。歩けるから……」
「……」
そう言ったはずなのに、彼は屋根の下に私を連れてきても卸してくれる気配がない。
「降ろしてください」
「自分の今の姿を自覚した上で言っているのか?」
「えっ……」
白い服が体に張り付いて、肌色を帯びている。裸同然のその姿に私は顔を赤くした。
「あの、大丈夫です!降ろしてくださいっ」
彼を押しのけて居室へ移動する。大きめの毛巾引っ張り出してそれを羽織ると、曹丕はそのまま部屋の中に入ってきた。
「なにっ……」
「私も濡れたのでな、予備のそれをこちらにも寄こせ」
命令口調で言われて、もう一つの大きな毛巾を手にすると彼に手渡した。
「……」
曹丕が、上着を脱いでそれを出入り口近くにある椅子に掛けると、頭から毛巾で拭きだした。私はその姿をじっと見つめている。
「何だ?」
こちらの視線に気が付いているのか、短い言葉をかけられる。私はあわてて、寝台近くの屏風の後ろに向かった。予備の服が置かれているのでべたついた白い服を脱ぐ。色の付いた服を着替えると、私は毛巾で髪の毛を拭いてから屏風の脇から彼の様子を伺った。簡易的にふき取ったであろうその姿は、髪の毛からわずかに水滴が垂れている。私は思わず声をかけた。
「あの……」
「……」
視線だけ向けられて、私は奥の部屋にある椅子に彼を誘導した。
「よければ髪を……」
そう言うと、思いのほか素直に曹丕は席に着いた。髪紐をほどいて、長い黒髪を私は自分が使っていた毛巾で丁寧に拭き取る。
「綺麗な髪ですね……」
「男の私に言っても何も出ないぞ」
冷たく言葉が出るが、私はそれを無視して髪を毛巾でパタパタと乾かす。頭の方も水気を取ろうと動作をしても、思いのほか彼は何も反応を示さなかった。気まずい空気にも思うが、私は意外にもこの感覚が嫌ではなかった。
「できました」
髪を櫛で好いて結い上げるまでしていいのかわからず、寝台の隣にあった櫛を取りに後ろを向くと、腕を掴まれた。
「お前も座れ」
「えっ……」
入れ替わるように強引に座らされて、私が使っていた毛巾を奪い取ると頭の上にバサリとかけて拭き始めた。
「……お前は、今を窮屈そうに生きているな」
「……」
「生きることが苦痛か?」
無言のまま、彼の言葉にどう答えるべきか悩んでいると曹丕は毛巾を頭にかけたまま、私の顔を上に持ち上げた。突然のことに驚き、目を見開いたまま、上から見下ろす彼の瞳を捉える。
するりと、布越しに首元に滑る左手。冷たい印象を残す彼の割には暖かくて、体温を感じたまま互いに見つめ合っていた。
「勿体無い女だ……」
右手が私の唇を撫でる。訳が分からず戸惑っていると、曹丕はふっと笑って手を離した。
「……っ……」
「……」
「何の、つもりですか?」
机に置かれた私の毛巾を自分の頭に被せながら濡れた衣服を持って居室から出る。
「あのっ……」
呼び止めると、振り返って口を開く。
「お前はいい女だ。もっと自分を大切にしろ。闇に飲まれるな」
それだけ言って去っていく彼に、私は訳が分からず棒立ちになる。曹丕子桓という人間に疑問が残る時間だった。しかし……何故か、私はこの人が不快には感じなかった。
むしろ、温かい気持ちにさせられたのだ……。
◆
――お前はいい女だ。もっと自分を大切にしろ。闇に飲まれるな
初対面に近い男。きちんと話したのはあの雨の日の短いひと時だけだった。それでも、私は彼を信頼に値する人物だと思ってしまった。
その事実が、私をより苦しませる結末になる予感がする。そう思わずにいられない……。
「けほ、けほっ!」
昨日の雨のせいか弱っていた私は風邪を引いて寝込んでいた。熱が下がり昨晩と比べ落ち着いたとはいえ、まだまだ予断を許さない状態らしい。
「……変な夢を見た……」
曹丕が私触れて言った言葉に引っかかっている。夢の中での彼は私を抱きしめ、頭を撫でた。なぜそんな夢を見たのか、ぼーっとする頭で考えてもわからない。
「……もしかして、私が欲しかった言葉だったのかな……」
いらない駒として、送られた自分には昨日の彼の言葉に揺れ動いていたのは事実だ。だって私は蜀にも、ここにも居場所なんて……。
「おはようございます」
「おはよう……」
起き上がろうとする私に慌てて食事を机において介助しようとする女官に、私は礼を言った。微笑んで返事をする彼女に、私のそばには誰もいないわけではないのかとぼんやり思う。
「戻してしまっても構いません。どうぞ食べてください」
暫く食事を受け付けなかったせいか、私は粥を食べる事もできなかった。持っきたそれは重湯だろう。彼女の気持ちを受けて私はそれを口にした。吐き気をもよおすが、我慢していに流し込む。食べねば。そう思ったからだ……。
「あっ!」
嬉しそうに声をあげる女官は涙を流す。初めて食に目を向けそして食べる事をした私に安心しからだろう。
少しずつ少しずつ私はそれを口に入れる。時々嘔吐くが我慢して口に運んだ。
その度に隣で励まされては気恥ずかしくなった。
「ようございます。わたくし、嬉しくてたまりません」
「ありがとう……私も嬉しい」
私の言葉に彼女はこくこくと首を縦に振った。綺麗な顔立ちをしている彼女は、それなりに地位のある人間なのだろう。鮮やかな青を身にまとう彼女は美しくて、私にないものを持っている。それが羨ましくもあるが、こんな人に世話をされている自分を誇るべきだろう。
私は、久しぶりに食事を取ったことで気持ちが少し落ち着いたのか自らのやせ細った手を見て口を開く。
「不思議ね……。あれだけ鍛えていた筈の身体が、骨と皮になって……」
「……」
「私、ここに来る前は蜀の将だったのよ。剣を片手に、戦ばかりしてた。」
それが壊れたのは何が原因だったのか、戦いが全てだった自分の価値を奪い取られたのはいつだったか……。
「ねぇ、今更だけど貴女の名前を教えて。」
「わ、わたくしでございますか?」
「えぇ、ここに来たばかりの時は自分の事ばかりで貴女の事知ろうともしなかったし……今なら……」
「添花と申します。わたくしは貴女様付きの女官です。なんなりと、お申し付けくださいませ。」
「うん。いつもありがとう。本当に感謝してるのよ。何もない私と一緒にいても面白くはないでしょう?それなのに、文句一つこぼさず一緒にいてくれる貴女に……」
信じてはいけない反面、信じたい気持ちがあった。彼女はこの国のどの人とも違う優しさがあった。
例え彼女に裏切られるならば、それでもいいと思ってしまいたくなるほどに……。
「食事……美味しかったありがとう。これからも宜しくね」
どこかで拭えない願いを込めた。死ぬこともかなわないならいっそ誰かのために生きてみよう。
自分を慕ってくれる誰かの為に……。
◆
――ひと月が過ぎた。
あれから私は、ゆっくり自らの体調を整えていった。食事を少しずつとっていき、痩せ細った身体には少しばかり肉がついた。
「添花……稽古用のものでもいいから、私に剣を振らせてもらえないかな?」
近頃調子がいいこともあって、私は彼女に我侭を言ってみる。
「まぁ、剣……でございますか?それに関しては司馬懿様に伺ってみないことにはなんとも言えませんわね……」
彼女は司馬懿直下の女官だそうだ。曹丕の所有する別宅に世話になっているが、司馬懿の勧めもあって直々に指名をされたらしい。
それ故にすぐに了解が取れると思っていなかった。即座に了承が来ることでも、今回ばかり勝手が違う。それは提案した私が一番良くわかっている。
人質である私が刃先の丸まった剣を手にすれば、切ることはできなくても打撃を与えることはできる。その懸念もあるのだろう……。
彼女は、司馬懿に伺ってくると、丁寧に断ってから部屋を出て行った。
「何?」
書簡に視線を通していた司馬懿は添花の言葉に目線を向けた。
「稽古用のものでも、打撃を与えることくらいは出来る。それを分かっていてあの女はそれを口にしたのか?」
「はい。それを分かった上での発言かと思われますが……。ですが、あの方は司馬懿様が考えられている方ではないとは思います」
「ふん……些か情が湧いたか添花……。貴様は有能な女官だが、今一歩説得力に欠ける。お前を人質にとり、逃げようと企むやもしれぬ」
「ですが、あの方はここに来てふた月経ちますが、そのような素振りは一度も……」
事実そうであった。彼女が魏にきてふた月経つが彼女は一度も逃げようとはしなかった。むしろ、最初にこちらに来た頃より顔色が良くなったくらいである。
「私の憶測ですが、あの方は蜀にとって――」
「貴様の憶測は恐らく正しいだろうな。だが、しかしだからこそ警戒しなくてはならぬのだ」
「……どうしてでごさいますか?」
「精神的に痛めつけられたからこそ出来ることもあると言うことだ。捨て駒以下であろうとな……」
それは、恐らく自分も同じ立場ならば諸葛亮と同じ事をするだろうと同意の意見であった。
「あの方は捨て駒なんかじゃ……っ!とても優しく気遣いのできるっ……」
口を噤む。これ以上雲の上の方に意見はいってはいけないと……。
「く……ふは、ふはははは!傑作だそ添花!よもや貴様ともあろう者がそれ程まで入れ込むとはなっ!」
突然笑い出す上官に添花は呆気にとられる。
「いいだろう。訓練はさせてやる」
「あ、ありがとうございます!」
「但し、訓練の間は誰がしら付けさせる。それで異論があるならば、今の話は無しだ」
「は、はい!ありがとうございます!あの方も喜びます!」
一礼をしてそそくさ去っていく。完全に扉が閉まると司馬懿は呟いた。
「諸葛亮よ。貴様の思惑通り行くと思うな」
その顔は真剣なものだった。彼女を起点に何をしようとしているのか……。司馬懿にとって、心理戦であった。従順と聞いた彼女という女を敵国に送り込む。その上で好敵手であるやつの企みを暴く。それが司馬懿にとって国を守るためでもあり、奴に勝つ事でもあるからだ。
ビチチと窓の外から鳥の鳴き声がする。
その声が、嘲りになるのか悔し泣きになるのか……。司馬懿は口元を綻ばせた。
◆
「お前の鍛練は、俺が受け持つことになった。」
曹操の右腕と言われる夏侯惇が、今朝方どかどか入ってくるなりそう言った。その顔はどこか不機嫌に見えるが妙にそわそわしているように感じる。
「あ、ありがとうございます。どうも」
先日鍛練をすることを了承してもらったのはいいものの、監視を付けると言われて誰かと思えば彼である。私は少し自分の立場を実感するも、冷や汗をかいた。曹操の右腕である夏侯惇がまさか自分の監視として現れるとは思っていなかったからだ。
「あの、私別にここから逃げたり誰かを人質にとったりなんてしませんよ?」
「俺では不服と言うことか?」
「あ、いえ…そういうことではなく……」
慌てて否定して荷物を持って鍛練場に向かう彼の後を追った。後ろ姿を見つめながら、小走りで付いて行く。
正直、彼ほどの忙しく腕の立つ人が私の監視役をするというのは少し気が引ける。将だった自分は数か月前ほどの筋力など持ち合わせてはいないし、すぐに疲れてしまうことだろう。夏侯惇の手を煩わせてしまうことに、罪悪感が拭えない。
「私みたいな女の監視なんて、していただくほどの事でもないと思っただけです」
逃げる気もないし、蜀に帰るつもりもない。今でも自分の存在理由に疑問を持ち、もがいている自分の為に、この人が監視などする必要もないと思っただけなのだ。
「ふん……お前のようなひ弱な女でも、俺の軍を数度苦戦に追い込んだ奴だからな。」
「は……?」
「覚えていないのか?俺はお前と数度戦で遭遇している。数刻で落ちるはずの城攻めもお前のおかげで三ヶ月に長引いて撤退を余儀なくされたこともあるんだぞ」
「あ……あぁ……」
思い返す様に当時心当たりのある戦を頭に浮かべる。
「蜀に身を寄せて初めて太守を任されたの時ですね多分……」
苦笑いをして、私はそう言った。とたんに立ち止まって目を丸くする彼は、私の腕を掴んだ。
「お前……蜀にいた以前はどこにいた?」
「え……あ、馬騰様の元に……」
「すると、馬超と共にずっと過ごしていたということか……?」
――馬超……?
「……っ!」
途端にふらつく足。断片的に記憶が巻き戻されるように蘇る。彼の笑顔と、馬岱の嬉しそうな顔、そして戦で戦った風景。
――私じゃない女との口づけ……。
「やめ……ごめんなさい……お願いですから、彼の……話は……しないで……」
ガタっと、通路沿いの壁に身体を預ける。顔を手で覆って、首を振る。
――思い出したくない、思い出したくない。思い出したくない思い出したくない思い出したくない思い出したくない思い出したくないっ!!
「ど、どういうことだ……?」
心臓が高鳴る。脳裏にかすめる馬岱の男の顔。舌先。唇の感触。いやだ、あれは現実じゃない。そんな事があってたまるかっ!
『……君がなぜこの作戦に選ばれたのか分からない?』
馬岱の声が木霊する。分からない。分からない。分かるわけがない。私は、幸せになりたかっただけだと……。
「っ!!やめて……ください!彼の話をしないでっ!名前も出さないで!思い出させないでください!!!」
「お、おいどうしたんだっ!」
そう言って過呼吸を起こす私はただただ奇特な人間に見えただろう。それでも、馬超の話だけは…あの時の事は受け入れることも思いだすこともしたくなかったのだ。
「やめて……やめて……ヒュ……、ぁ……ください。ごめ…………なさ、い……。思い……ひっ……出させないで……」
「すまない。悪かった!だから、落ち着け!おい、俺を見ろ!!」
両手を頬に添えられて、夏侯惇と強引に目を合わせられる。涙目になりながら、するどく強い目をした彼は黙ったまま私を見つめた。
「ゆっくり深呼吸をしろ。そうだ。吸って、吐け。焦るな。ゆっくりだ。そう、いい子だ。……何があったかは、聞かん。奴の名前を口に出すことが禁句だったのなら謝る。だから落ち着け」
「……っ……」
思いがけず、彼の優しさに触れ私は気を緩める。が、すぐに表情を変えた。
取り乱してはいけないのに、あの人の名前1つで心を乱してしまう自分が情けない。
「ご……ごめんなさい。もう大丈夫です。ありがとうございます」
トンと、廊下の壁に背を預ける。夏侯惇の手に解放された私は短く息を吐いた。ずり落ちる身体。彼は、私を見下ろしながら頭をかくそぶりをする。
「礼を言われることはしていない。俺の方が配慮が足りなかった。すまんな。」
「いえ……」
立ち上がって頭を振る。自分は鍛練を願い出て許された立場だ。これ以上この人の手をわずらわすことをしてはいけないと思った。
「歩けるか……?」
「はい、大丈夫です。」
ぶっきらぼうではあるが、確実に優しい行為に私はこの人は信頼に値する人だと思った。
◆
「ふっ!はぁ!!」
「まだだ!もっと打ちこんでこい!」
鍛練場で、夏侯惇と打ち合いをして数刻。将であった自分の時とは若干筋力も衰えたので調子は良くないものの長年の勘は鈍っていないようで、私は鍛練相手を勤めてくれている彼に思い切り打ちこんだ。
「踏み込みが甘い!ふん!!」
「っ!!!あっ!!」
一瞬の隙を突いて、勢いよくふっ飛ばされる。私は咄嗟に衝撃に耐えようと身体を丸めた。
「がはっ!……けほ…けほ……」
スタミナのなさに惨めに思う。以前の自分なら、この程度の攻撃など身をひるがえして衝撃など受けることもなかったはずだ。咳き込む自分。涙目になりながら、目の前の男を上目遣いに見上げた。
「どうした……。お前の実力はその程度か。」
「くっ……、まだまだ!!」
売り言葉に買い言葉。このやりとりを一体先程から何度繰り返していることか……。
軽く私をあしらう夏侯惇は息切れ一つしていないのに、自分はすでに息が上がってしまってどうしようもない。けれど、鍛練を願い出たのは自分なのだ。失礼なことをしてはいけないと思った。
「ほう、中々……腕が立つな。どうだ、夏侯惇よ……。その娘……お前相手に筋がよさそうだが?」
「曹丕か……お前が鍛練場に来るとは……どういう風の吹き回しだ?」
ガキンガキンとなおも打ち合う私達。けれど夏侯惇は私の剣筋を軽くあしらいながら打ち返す。
「あぁ……父上から、この娘の監視と鍛練相手を命じられたと聞いてな」
「ほう……珍しいこともあるものだな。お前が興味を持つとは……明日は槍でも降るか……?」
ニヤリと笑ってそういい返す。曹丕もその言葉に目を瞑って馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
――ガギイィィィィン!!
「……とっ……」
勢いよく踏み込んで剣を叩きつけると、夏侯惇は私に視線を戻すなり口角を上げた。
「鍛練中に、よそ見をするべきではないと思います」
「ほう……」
言うなり、ぐん!と剣の衝撃が重くなる。私は重くなった衝撃を何とか身体を支えるだけで、自分の攻撃につながらず悔しげに唇を噛んで応戦した。
「くっ!!っう!」
「病み上がりのお前では、本気の俺にはまだかなわんだろう。そう、焦るな」
手が徐々にビリビリしてくるのを堪えながら、私は彼の攻撃を懸命に耐えた。
少し前まで、会話もしていたくらいまだ余裕のあった私にはそんな暇すらなく、ただ振り下ろされる剣の重さに耐えるばかりだった。
――ガギィィ……。
ガツッと柄を剣で叩かれて私は顔をゆがませる。
「ぅ、あっ!!……はっ……はぁ……はぁ……っ」
「まだまだだ」
膝をついて息切れをすれば、2人に鼻で笑われてしまう。私はそれが悔しくて、自分の手をぎゅっと握りしめた。
「病み上がりの割には、些か威勢がいいな……」
転がった剣を手に取ってそういうと、曹丕は私に手渡した。その顔はあの日の見た顔ではなかった。眉間に皺を寄せて、どこか余裕そうに見える。先日の私達のやり取りなどどうでもいいような……。
「だから言っただろう。この女は蜀ではかなり腕の立つ女だと……」
「どうだかな……敵国に人質として送られてくるほどだ。大したことはないと切り捨てられた可能性もある」
「……っ」
唇を噛みしめて俯いた。こんなこと、自分を目の前にして言わなくてもいいことなのに淡々と分析して言う曹丕の態度に酷く傷ついた。
「お前、いい加減にしないかっ」
突然腕を掴まれて強引に立たされた。見れば夏侯惇が私の肩を抱いていた。
「なにっ……」
「行くぞ。今日はもう十分すぎるほど動いたはずだ。」
「あ……っ」
躓きながら彼と一緒に歩く。がっしりと掴まれた体のまま強引に歩かされて私は戸惑いの声を上げた。不意に後ろから感じる視線が、どこか差すような……。
◆
「彼女は体力を取り戻しつつあるようですね。ならば、次の段階に参りましょうか」
暗がりの部屋で、諸葛亮は届いた書簡に目を通すと複雑そうな顔をする。
「彼女は彼を連れてこれますかね?」
「さて、どうでしょう。我々が残した爪跡がどれほどのものかによるところはありますね」
彼女が、馬超を愛していた事は知っていた。蜀内でも、それは有名な話だった。相思相愛と言われればおそらくその言葉通り。しかし、手放した存在を再び手に入れる為には彼女が必要だったのだ。
強く、前向きにやるべき事を実直にこなしどこか男達の目を引くその姿は決して女の色香を使っているわけでもなく彼女自身の魅力だった。
故に、我々の元から去った徐庶という存在を彼女から放たれるそれで連れてくる事は可能なのではないかと……。
徐庶は、自らに自信がない。優秀で才能に溢れている存在であるのに自分を過小評価するきらいがある。なら、彼女ならば……。
「でも、悪いですけど彼女を彼に渡すような事はしないでくださいよ」
「えぇ、この作戦を実行できたことはひとえにあなたの協力なくしてなし得なかった事ですから……」
「彼女は、俺が貰いますから。彼女が俺を嫌っていても、受け入れなくても約束だけは守ってもらいますからね。諸葛亮殿」
「貴方の彼女に対する愛は……歪みそのものですね……馬岱殿……」
ゆらゆらと揺れる蝋燭の炎。影が2つ。
怪しくほくそ笑むその表情はいつだったか、彼女に向けた情欲にまみれた男の顔それだった……。
◆
「ふぅ……」
バシャッと、水場で顔を洗う。本日の鍛錬が終了した。ここに来てから暫く経つが、ようやく動けるようになってきた。食事も固形のものを食べられるようになったし、何より剣を使って身体を動かせるようになった事が何より嬉しかった。
夏侯惇のおかげか、記憶が呼び起こされて混乱するという現象も減ってきていた。この国は居心地がいい。皆親切で好きになりかけていた。
「……」
だからこそ心に引っかかるのだ。私はこんなにいい人達を裏切る事になる。私自身の復讐の為に、やらなければいけない。やらなければ……。
――でも、それを終えたとして私は蜀で生きていけるのだろうか……?
冷静に考えたら分かる事だ。丞相の策に乗せられてしまった。実行して終えたあとの結末を。
恐らく私は徐庶という男を国につれて帰っても何も変えられないまま殺されるだろう。そして帰る場所も逃げる場所もないまま、すぐに捕まって……。
『もし、魏でうまくいかなくて逃げ出したいと思ったらいつでも助けに行く。それだけは覚えておいて』
…………一瞬浮かぶ顔。私は忘れるように頭を振った。何故、馬岱が出てくるのだろう。何を期待しているのだろう。奴だって私にとっては憎い相手なのに……。
「……」
男を憎んでいるはずなのに、男に縋ろうとする自分があまりの無様すぎて笑いがこみ上げてくる。
絶対にあんな奴に、助けなんて求めない。求めないから……。
「あっ!こちらにいらしたのですね!」
背後から声がして私はそちらに振り返る。そこには添花が息を切らせていた。
「どうしたの?」
髪紐で1つに結い上げると、私は彼女のもとへ駆け寄った。
「お客様がお見えになっております」
「客?珍しいな……。誰かが私の所に来るなんて……」
監視目的の夏侯惇や、屋敷の主である曹丕ならいざ知らずこの国に大して何も利益の生まない私の元に来る人間がいることに驚いた。
「なんて人?」
「徐庶……元直様です」
「……あぁ、来ちゃったか……」
ぽつりと呟いて、私は彼女と私室へ向かう。出迎える為にはそれなりに身なりを整えなくては……。
「ええと、初めまして徐元直です」
客間で待っていたその男は少しばかり自身がなさそうな顔をして、私を迎えた。話には聞いていたが、彼はいつも何を考えているのか分からない諸葛亮とは違ったまた別の空気を身にまとっていた。
「初めまして。宜しく」
名前を告げて短く挨拶をすると、徐庶は気まずそうな顔をして口を開く。
「その、突然押しかけてすまない。実は、本日付で夏侯惇殿と役目を変わる事になった」
「本日?ついさっきまで、私は夏侯惇殿と鍛錬に励んでいたけれど?」
疑問顔のまま、私は彼に聞きかえす。
「いや、決まったのはつい数時間前なんだ。夏侯惇殿が、短期の討伐に行くことになって急遽決まって……」
「そう……。それは残念だな……。彼とはようやく打ち解けてきたのに……」
正直な所、大人の魅力なのか年上だからこその余裕というのか私は夏侯惇といるのは居心地が良かった。だから急遽、この話が持ち上がった事に少しばかり落胆した。私は一先ず立ち話ではなんだと思い、彼を椅子に促した。テキパキと女官に指示を出すその様子を眺めながら彼は口を開く。
「その、随分元気になったんだね。ここに来た時は酷く疲弊していたのに……」
ピクっと一瞬固まる。静かに空気が凍りつく部屋は数秒前の和やかなものから殺気を放たれるそれに変わる。
「添花、悪いけど彼と二人きりにしてくれる?それと、この部屋にはしばらく誰も近づかせないで」
「しかし、女人が未婚の男性と二人きりというのは……」
「大丈夫。何も起こらないから……」
にっこり微笑む私に、渋々彼女は部屋を出ていく。間違いが起こるわけがない。私はこの男のためにここにいるのだ。平気そうな顔してのほほんと生きている男に、一言文句を言わねば気が収まらない。人の気配が完全に消えたことを確認すると、私は徐庶の襟を掴んで部屋の壁に押し付けた。
「……ねぇ、何しに来たの?」
私の殺気は垂れ流したまま、自分より背の高い男に詰め寄る。見下ろす彼は目を見開いて、戸惑っている。
「その、命令があって、挨拶っ……ぐっ!」
私が酷くやつれてこの国に入った事は、緘口令が布かれていると少し前に夏侯惇から聞いた。曹操に挨拶をした際もそのような素振りがないよう怪我をしたという名目で療養ということにしていたほどだ。しかし、彼はそれを知っていた。直前に私の状態を知っていたら、随分と良くなったなんて言葉は使わないはずだ。だったら最初からこちらの状態を以前から知っていた事になる。
「あんた、諸葛亮と繋がってるわね?」
ピクっと反応するそれはおよそ軍師とは程遠い反応だ。図星を疲れて顔に出すなど、それこそ素質がないと言われてもおかしくない。
何故、諸葛亮は彼をそこまで欲するのだ?この男を?意味がわからない。
「すまない。確かに孔明から君の話は聞いていた。君が俺の為にここに来たこと、半年の間にこの国の状況を把握して、時間稼ぎをしてほしいと言うことは……」
「は?」
時間稼ぎ?それは、最悪な事態を想定して考えなければ行けない事案かもしれない。情報を整理して精査を起こして来たるべき時に事を起こすということはつまり……。
「戦を起こすつもり?」
徐庶一人を手に入れる為に、大勢を犠牲にするというのか?私を、何より多くの兵の命を犠牲にして……。
「明確に示唆はされていないが、おそらくそういうことだと思うよ」
「頭狂ってる。あんた一人の為に、こんな……」
男の衿元をぎゅうっと握りしめて私は下を向く。それ程手元に置きたい存在である事は今の件でわかった。でも、そのためのここまでの準備を行う諸葛亮に私は逆に身震いする。
「あんたは、蜀に戻るつもりはあるの?」
私は聞かねばならないことを口にする。
「ええと……できるなら……けれど母と共にここを出られれば……」
モゴモゴとはっきりしない物言いに苛立ちを覚える。
「どっち?」
私は語気を強めて言った。
「……そりゃあ帰りたいさ。孔明や、劉備殿の役に立ちたいと思う事はおかしな事かい?」
「別に。私はあいつ等が嫌いなのこのままくたばれとは思うけど、それを押し付けるつもりはないよ」
「……どうして、そこまで孔明達を嫌うんだい?」
率直な疑問を投げかけられて、私は笑みを作る。男はドキっとした顔をするが私は再び壁に彼を押し付けて言った。
「私は本来なら今頃愛する人のそばにいるはずだった。それを壊し、傷つけ、衰弱させて陥れたのはあいつらだ。あんた一人の為にっ!」
「えっ……」
驚く顔をするが、私は顔をさらに近づける。
「あんたにはわからないでしょ?愛する人との婚儀の直前に捉えられ、その男が別の誰かと婚儀をしている姿を見せつけられた人間の気持ちなんて」
分かるわけが無いことを、私はせきを切ったように責め立てる。
「ようやく会えた男に拒絶され、拒否をすることもできずここに連れてこられた。食事も受け付けず、やせ細るばかりだった私をあいつらは見ていたのになんの反応も示さなかった。その辛さがわかる?!」
完全な八つ当たりだ。彼に罪はない。罪はないが、それでも今私がここにいることを作ったきっかけの男。許せない。許したくなかった。だから知れと思った。その上で蜀に戻って、お前の今は私の犠牲の元存在するのだと…………。
「……泣かないで」
「……っ……」
何を言っているのだろう。泣く?そんなわけない。
「君の犠牲の上で今回の策が練られたのなら、俺はその策に乗るべきじゃない」
「……何……言って……」
彼が、私をすっと抱きしめると耳元で囁くように言った。
「……すまない。ありがとう。辛かったね……」
「……っ……くっ!」
誰にも言えなかった気持ち。誰かに言ってもどうにもならない感情。目標となる彼に心を通わされるとは思わず私は声を上げて泣く。
頭を撫で壁にズルズルと二人でへたり込んで泣く。
「我慢していたんだね?沢山泣いていいよ。君の気持ちはちゃんと受け止めるから……」
首に手を回し声を上げる。すがるようなそれは余りにも子供のようで……。
(……)
初めて会った彼女を腕に抱き、徐庶は異様に冷めた目をしてじっと部屋を見つめている。愛しい人を守りたい。そんな歪みが、垣間見えていた。
◆
――私のあずかり知らぬところで、彼女が他の男と会っている。何故かそれが不愉快でたまらない。
「やあ、今日も鍛錬に付き合うよ」
毎日飽きもせず、徐庶はこの屋敷に来ている。あの日盛大に泣き腫らした後から妙に気安い空気を出してきている彼に戸惑いを覚える。
不可抗力にも泣いたせいか責任を感じているようだ。そんな事思わなくても、蜀へ帰りたければ身内を連れて帰ればいいのだ。私に必要以上に関わってやめる必要はないのだ。
「あの……仕事はいいの?あなた……」
ジト目でそう言うと、急いで終わらせて来たと即答されて苦笑い。夏侯惇とは違い、出会ってそれほど経っていないのに好意的なのがムズムズする。
「結構優秀だから、仕事沢山あるんじゃないの?」
「急ぎの案件はここに回すように言ってあるから平気だよ」
「はぁ?」
「ええと、まずかったかな?」
「いや、別に構わないけど……。ここに来る人間は限られてるし……」
そうかと嬉しそうな顔をする徐庶を無下にもできなくて、どう接するのが正解か迷ってしまう。
あまりきつい言葉を言えば彼が不快に思うだろうし、かと言って同じように気安く接するのも違う気がするからだ。
「さて、今日もやろうか」
鍛錬用の剣を出して構える彼似、私も同じように構える。
(剣の腕は確かなんだよなぁ……)
独特な型で繰り出されるそれは明らかに私が今まで戦っていたそれではない。しかし、彼の戦い方はとても学びがいがあるようにみえる。
金属音が木霊する中高速で走るその剣に、私は感と動体視力で追っていく。しかし身体がそれに追いつけない為に自らの攻撃には繋がらなかった。
手合わせしている間の徐庶は楽しげで好意で付き合っくれているのは分かるが複雑だ。
「そろそろ休憩にしよう」
暫くの打ち合いで、汗だくになった顔を腕で拭う。比較的動きやすい格好で事に及んでいるのに汗が止まらない反面この男はなんとも涼しげだ。体力が想像していたよりあるようだ。
「はい」
女官の持ってきた水を手渡すと、私は日陰の椅子に座ってそれを口にする。男もそれに習って隣においてある椅子に腰掛けてそれを飲んだ。
「……」
会話らしい会話がないから無言の時間が続く。こんな時間は、最初の鍛錬の時からだ。何か話しかけたいのに話せないという空気を出す徐庶の気持ちに気づかないフリをする。私は彼と共同戦線を張るつもりはない。親しくしたところで、どうせあと2.3ヶ月で袂を分かつ存在だからだ。
「すまない」
突然謝られて私はそちらに視線を向ける。
「何が?」
「その、俺がここにいると君が嫌なのかなって……色々あったし……」
「貴方のせいじゃないでしょ?……まあ、原因は貴方かもしれないけど、そもそもこれは諸葛亮が元凶だし」
「いや、俺がもっと早く動いていれば良かったんだ」
「……」
動いた所で年老いた母親と、二人で逃げる事は無謀に近い。彼の言うそれは愚策だ。分かっていたから今まで行動に移さなかった。それが正解だろう。だから、この件は徐庶本人のせいでは決してない。諦めきれなかった丞相の問題でもあるのだ。
「ねぇ……貴方そのうじうじしてるの疲れない?」
「……えっ」
ズバっと言って反応を見る。目を見開いて驚くその顔に私は思わず吹き出した。
「……ぷっ!何その顔っ!」
うだつの上がらない態度を常にしていた徐庶の呆気に取られた顔が、思いの外おかしくて声を上げて笑うが本人は何に笑われているのか分かっていない様子。それでも何故か嬉しそうにこちらを見つめていた。
「……良かった。笑えるようになったんだね」
「笑っちゃいけないの?」
「いいや、君は笑ってる方が可愛いと思うから……」
「はっ?」
突然の言葉に私が顔を赤くすると、今度は彼が嬉しそうに静かに笑った。
「そういう反応をする君はもっと可愛いよ……」
「……うぅ、負けた気がする」
「ははっ!」
声を上げて笑うと、徐庶は一瞬にして顔を強張らせる。
「どうしたの?」
視線の先へ顔を向けると、随分不機嫌そうな顔をして立っている屋敷の主がいた。
◆
「随分楽しそうだな」
慌てて二人で膝を折ると、ピリっとした殺気が漂う。
「お久しぶりです。曹丕殿」
「……」
言葉を無視されるが、彼は私の前に来て立ち止まる。不思議に思い顔を上げると曹丕は視線を私と同じにすると顎をぐいっと上げた。私は先程の鍛錬場での一見を思い出して赤面する。
「久しく来ていなかったが、大分健康体に近づいたようだな」
「は、はい……。おかげさまで、快適に過ごさせて頂いています」
「ふん、何やら私がここに来ていなかった間その男と随分と親睦を深めていたそうだが?」
「夏侯惇殿が不在の際に変わりに私を監視する為に……」
ぐっと再び喋るなと言いたげに顔を上げられて、唇を親指で撫でられる。
私はその動作がいやらしく感じて顔を赤らめた。
「……っ、あの、おやめください。曹丕殿……」
「……随分と、感情が出るようになったな。私が知らぬ間に何があった……?」
「何も……」
即答で返すと、曹丕は眉間の皺を深くしてその指を私の口に挿入する。
「……んっ!……ぁ、……」
「お前は蜀からの献上品だ。人質という立場は関わる男を色香で惑わすことが仕事ではない」
私は顔を横に振ったが、曹丕にしゃぶれと命じられて彼の指に舌を絡ませる。器用に口内を犯され、私はくぐもった声を出しながらそれをしゃぶる。にもかかわらず、変わらず不満げな顔をして話を続ける。
「この男は以前蜀にいた。その男と深い仲になれば勘ぐる者はいる。ましてや、お前は蜀から痛めつけられてこちらに来たのだからな」
ぴちゅっと卑猥な音が木霊する中、曹丕は鋭い視線を徐庶に向けた。
「おかしな真似をするのならば、それなりの制裁に合う事は肝に銘じておけ」
――ジャリ……。
曹丕とは違う別の殺気に私は戸惑いを見せる。
「徐庶よ、貴様の歪な殺気を鎮めよ。それは、お前が持っていい感情ではない」
「……っ!」
暫くの後放たれたそれは落ち着いたが、曹丕は続けた。
「この女は私の庇護下に居るのだ。次同じような事があれば……分かっているであろうな?」
「は、はい……」
挿し入れられた指を抜き取ると、曹丕は私を立たせ強引に手を引いた。私は後ろを振り向き声をかけようとするが……。
「不要だ。ゆくぞ」
鍛錬場から出るのだった。
徐庶は、連れ去られて行く彼女を見つめながらも前を歩く曹丕を静かに睨みつける。振り向きこちらを見ている彼女。あの日初めて話したとき以来彼女に触れることも出来なかったのに、曹丕は当たり前のように触れている。羨ましいと思う反面、あまりにも理不尽に思った。欲しいもの全て手に入る筈なのに、自分にようやくできた『情欲の対象』を彼は奪おうとしている。それが許せないし悔しかった。
「あぁ、やっぱり……この国は嫌いだな……」
呟く徐庶は先程彼女と話していた印象とは違い、妬みと荒んだ感情に支配されていた。
◆
「……貴方はいつも突然来ますね」
私室に入ると、曹丕は女官を下がらせ人払いをした。
「生憎と、私は他の者達と比べて忙しい。時間を作って足を運ぶだけ有り難いと思うがいい」
ふんっと言って椅子に座ってから、曹丕は部屋の入り口に棒立ちになる私をじっと見つめる。
「……なんですか?」
「……いや、初めて言葉を交わした日のことを思い出してな……。今にも死にそうな顔をして雨に打たれていた。その姿から今を比べていた」
ここに来て、初めて彼に肯定された日。互いの髪を拭き取り深い会話などせず離れていった。彼は私をどう思っているのだろう。煩わしい、邪魔と思っているのだろうか……。
「あの……貴方は私の事どう思っているんですか?」
「ふ……お前はこの曹子桓の庇護下に居る。どう思うかどうかは関係なかろう」
「……初めて言葉を交わした日は優しかったけれど、その後は凄く冷たくて……さっきだって……」
「……私が恐ろしいか?」
「いや、恐ろしいとかは……」
少なくとも彼のお陰で食べ物を胃に入れることができた。あの時さり気なく自分を肯定してくれたからこそ、私は今ここに立っている。感謝はしているし恐ろしいと感じることはない。けど、誰かがそばにいる時とそうでない時の落差がありすぎるのだ。
「どうしたものか……私はお前が誰かと共に居るのを見るのが面白くないらしい。たまたま父から押し付けられた任だというのに、自分でもよくわからぬ」
ぽつと口にすると、曹丕は私のそばに来た。囲うように私の耳元に唇を寄せると低い声で続ける。
「一つ忠告をする。あの徐庶という男には気をつけよ。あれは縋る対象が近くにいればいるほど巻き付いて離れぬぞ。油断すれば絡めとられる」
「……っ」
顔を上げる。自分を見つめるそれは何処か、優しい印象で……。
――ぱたぱた……。
「時間切れか……」
「失礼いたします!」
「どうした」
部屋の外から女官の声が聞こえる。それを曹丕はいつもの堂々とした声音で返した。
「夏侯惇様が戻られました。これから至急軍議との事。至急戻られよとの伝令の方が……」
「すぐに向かうと伝えろ」
ピシリとそう言うと、曹丕は部屋の扉を開けた。
「状況次第だが、暫くは鍛錬に励め。落ち着けばお前の扱いも正式に決まろう……。無理はせぬようにな……」
「あ、あの……」
立ち止まってこちらに視線を向けると、私は口を開く。
「いつも、ありがとう。その、待っています」
そう返すと、軽く口角を上げて屋敷の出口へ向かった。
◆
「近く、戦が起こる」
軍議の際、討伐に赴いていた夏侯惇からの情報によると、蜀との国境沿いに多くの兵達が常駐し始めていると情報を受けていた。暫くは静観しつつ、魏国としても遅れを取らぬよう準備を進めておくというのとになった。
「献上品としてこちらに来た娘から何か聞いているか?子桓よ」
「今の所は……。しかし、彼女のあの姿を見る限りは何かしら策があったのではないだろうか?」
「策?」
「現時点で憶測の域を出ませぬが……」
「良い、話せ」
「こちらに来た当時の彼女は随分とやつれていた。食事も喉を通らず戻していた時期が長かったのです。しかし、最近は笑顔を見せるようになった。むしろ笑い声を上げるほど。元々、待遇よく過ごしていた娘がその様な状態でこちらへ来る事も珍しい。総合的に見て諸葛亮含めて、彼女に何かしら策を講じていた可能性はある」
曹丕は淡々とそう言うと、曹操がくしゃりと顎髭に触れる。彼女の待遇に関しては不可解な部分が多かった。戦の華と言われていた武将が名を上げて活躍していたにもかかわらず、国境での兵の数はあまりにも少なく高待遇を受けているとは言い難かったと報告があがっていたからだ。
彼女自身がそれを拒否していた可能性もあるが、あの姿ではそれは無いだろう。だったら残る選択肢は蜀内で手酷い扱いを受けた上に厄介払いとして送られて来たか、彼女でなければなしえない何かを期待して心を折ったかだろう……。
どちらにしても、どっちの選択肢もコチラにとっては不愉快な内容である。
「司馬懿、お前はどう思う?子桓の憶測に補足はあるか?」
「諸葛亮の策というのは私も同じ考えですが、あの女以外に何かしら裏がある可能性があると私は踏んでいます。その策が何に対しての作用であるのか、それがまだ情報が少なく私も把握できてはいないのです」
「ふぅーむ、不安要素があるのならばここに留めておくことは難しいか……」
「そこで父よ、……彼女は我軍に引き入れ此度の戦へ赴くのは如何か?」
「自分の身を守れるほどなのか?」
「屋敷での報告では、随分体力も戻って来ているようです。心配なら私のそばに置いても構いませぬが?」
「お主はどう思う?」
曹操は遠征前の際に彼女の監視役を努めていた夏侯惇へ声をかける。
「元々、戦闘においての感性は光る所があった。俺が模擬戦で状態を見て採用すればいいと思うが?」
「……では、近い内にそうするとしよう。力不足と判断すればそのまま待遇継続と言うことにする。良いな子桓」
「分かりました」
軍議を終えて部屋を出ると、曹丕は夏侯惇に呼び止められた。
「曹丕、あいつの調子はどうだ」
「随分柔らかく笑うようになった。身体も動かせて楽しそうにはしているな」
「そうか、鍛錬を始める初日の際に随分と取り乱していたから心配していたんだ。元気になって良かった」
安堵する夏侯惇に、曹丕は疑問になる。
「……お前の後釜を命じたのは誰だ?」
「あぁ、それは俺だ。元々蜀にいたと聞いていたからな。そのほうが話しやすいと思って徐庶に命じたが?」
「……」
不思議な顔をしてこちらを見る夏侯惇に、曹丕は気難しい顔をして考える。もしかしたら、あの男と何かしら関係があるのではないかと……。
「どうした……?」
「……いや。何も……。……ないわけではないが……」
「なんだ、気持ちが悪いなはっきり言え」
「あの男は諸葛亮とは知己では無かったか?」
「あぁ、以前話していたが身内の事もあってこちらに来たと聞いたぞ?」
「しかし、今に不満を持っているとしたらどうだ?」
「……まさか……徐庶がそこまで落ちた人間とは思えないが?」
落ちたとは、言わない。元々こちらに忠義を捧げるような男には見えなかった。鍛錬場での行動を見てもそうだ。暗い印象をもつ男だったが彼女に対しては異常な執着を見せていた。偶然とはいえ、何かあるのではないか……。
「彼女の鍛錬の確認の際は私も同行するとしよう」
曹丕は夏侯惇にそう告げると長い廊下を歩いていく。夏侯惇の目から見て、曹丕のその様子からも彼女に対する執着に近い何かを感じていた。
◆
外が暗く、部屋の灯りがぼんやりと揺れる中私は寝台の上でぼんやりと外を眺めていた。
ここに来て4ヶ月程になる。多少無理しているとはいえ気持ち的には随分平和に過ごせていると思う。
計画通り徐庶と接点を持ちながら友好関係を築けてはいるが、時々彼から感じる射抜くような視線に気づかないほど私は鈍くはない。彼が男として私を見ているのか、または別の形の何かであるのかはわからないがあまり親密になりすぎるのも問題だと思ってはいるのだ。
しかし、突き放せば私の胸にくすぶる憎しみが消えるわけではない。あの国に戻るつもりは無いが、何か別の形で痛い目にあわせてやるのが一番ではないか……。ここのところはいつもそんなことを思っていた。
「面倒な性格だ私は……」
上に取り入れば、この憎しみを使ってうまく溜飲を下げられる方法がある。それは分かっている。しかしどうしても、細い糸のように繋がっていたいと思う面倒な自分がいるのだ。あれほどの事をされたのにだ。本当に困る。本当に呆れてしまう。私は……。
不意に浮かぶ馬岱の顔がチラつく。私が選ばれた理由……そんなのわかるわけがない……。分かるわけが……。
――ガダッ!
「……っ!」
部屋の外から物音がして、私は寝台のそばに置かれていた剣を手に取るとあたりを警戒した。
「ここを開けろ。私だ」
「えっ」
先程数刻前に屋敷を出たのに、戻ってくるとは思わなかった。私は慌てて部屋の扉を開ける。
「寝ていたか……?」
「い、いいえ、外を見ていただけです」
「そうか……。急ぎ確認したい事があってな……」
談話ができる椅子に案内すると、私は寝台の奥にあった茶器を持ってきて奥に控えている添花にお湯を持ってくるようお願いした。
「曹丕様がこちらへ来ているの。肌寒いから何か羽織るものも持ってきて。夜も遅いから、お泊りになるのかわからないから私室の準備もしておいてくれる?」
「分かりました」
一通り指示を出して戻ると、曹丕は私が先程持っていた剣を手にしてじっくりと眺めていた。
「あの、遅くなりました」
「あぁ……」
短く言葉を返されて、私は苦笑いする。こんな夜更けにこの屋敷に来る事なんてなかったのにどうしたのだろうか……。
「確認したいことがあってな……」
「確認したいこと、ですか?なんでしょうか?」
暫くの沈黙。どう切り出すべきなのか迷っているようで曹丕は沈黙を続けている。
不意に女官がお湯を持ってきてくれて私は一言断ってからそばに置いていた茶器にそれを注ぐ。温かいお湯は湯気を立てながら上って消えてゆく。それを少しばかり眺めてから器に茶を注いだ。
「飲んでください。今日は冷えます。温まりますよ」
差し出した茶を、曹丕は受け取るとゆっくりと口につける。添花が持ってきた毛毯を少し広げてそれを曹丕に掛けた。
「悪い事をした。こんな時間に……」
少し落ち着いたの彼がそう言うと、私は首を振った。
「いいえ、貴方の屋敷に住まわせてもらっている身なので気にしないで下さい」
向かいの椅子に座ると、彼は茶器を置いて暫くして口を開いた。
「単刀直入に聞くが……」
「はい」
「お前は、蜀でどういう扱いを受けてここに来た?」
「……」
聞かれたくないことを聞かれている。答えたくないという選択肢はないのだろう。恐らく、この為だけに彼は忙しい合間にここにきた。だったら――。
「長くなってもいいですか?」
「構わぬ」
即答で来た返事に私は口元を綻ばせる。
「……知っての通り、私は蜀で武将として飛び回っていました。時には戦場で走り抜け、時には城砦で太守を任ぜられたり」
昔話をするように話す。楽しかった思い出、辛かったこと。痛かった記憶、沢山のことを話した。
「4ヶ月前……私、本当はある方と婚儀をする予定でした。皆に祝福されて、二人でこれからも一緒に生きていくんだって舞い上がってた……」
「……」
「でも、それは叶わなかった……。彼は私以外の女性と婚儀を行った。私は……選ばれなかった……」
共に遠乗りに行って笑いあって愛を囁かれた。共に歩んでほしいと唇を重ねて、褥を共にした。それを無かったことにされた。
震えを起こさないようにぎゅっと両手を握る。そしてニコッと笑って続ける。
「でも、私は選ばれたんだそうです。魏国へ向かうための献上品として……。だから、大好きだった孟起、とは……婚儀が出来なかった。命じられた事……それを誇らしいと思ったことなんて無い。憎いと思っている。でも、事をなさないであの場にとどまったとして、私には死しか待っていなかった。……だから……」
そこまで言いかけて、彼の指で涙を拭かれる。
「ごめんなさい……」
「謝る事ではない。私が聞きたいと言ったのだ」
「いいえ、いずれは聞かれる事ですから……。憎しみだけを持ってここにきました。生きる気力もなかった。それを変えてくれたのは貴方を含めてこの国の人達です。本当に有り難いと思っています」
「……これから先どうするつもりだ?蜀に帰るつもりか?」
「…………これを言ったら、私はズルい女でしょうか?」
何がだ?と聞き返す彼に、私は息を長く吐いてから口を開く。
「帰りたくはないです。でも、奴らの為に利用されるのは嫌。私は以前の様に皆と天下のために、剣を振るいたいですでも……」
それは私の本心。将として存在していた私の素直な気持ちだ。奴らのために利用されること。それ自体に屈辱があった。だから――。
「もう少しだけ、ここにいさせてくれませんか?役目を終えたら出て行きますので……」
「ここに居たらいいだろう」
「……いつ裏切るかもわからない……ましてや『女』なんて信用しちゃだめですよ」
私は力なく笑う。カタッと立ち上がると、曹丕は私の目の前に来て見下ろしている。毛毯が音もなくその場に落ちる。
「……あの……?」
「私がそばにいろ。というのだ」
「……分からないです。貴方には別に居るでしょう?添い遂げる人が……」
私だって馬鹿じゃない。彼に妻がいる事は知っている。その人を無視して私に手を付けようとするならばここにはいられないと思った。
「黙れ」
立ち上がって逃げようとする私に、曹丕は私を簡単に捕まえる。暴れる私に彼は再び黙れと言って口付けた。
抱きかかえられながら奥にある寝台に降ろされると、曹丕は初めて見るギラついた目をした。
「やめて下さい」
「……」
「私のそばから離れぬと誓え」
「そんな……」
「誓わぬのなら……」
――このままお前を抱いて離れられなくしてやるだけだ。
「何言ってるんですか、私は蜀からここに来た……」
「献上品だろう?贈られたものをどうするかはこちらの自由であろう」
冷たい目をしてこちらを見る。何故、そんな目をして私を手に入れようとするのだ?私は、どこかで間違っただろうか……?この国で誰かの女になる為に私はここに来たわけではないのにっ!
私は咄嗟に護身用のナイフを枕下から取り出すと、自らの首に当てる。
「ならば、贈られたものが勝手に壊れても問題はありせんね」
「……っ!」
「さようなら」
目をつむって一気に自分の首をかききるように勢いよく腕を引く。数秒後、両手を押さえて押し倒される形になった私に目の前で焦ったような顔をした彼が息切れをして見下ろしていた。
「何故……こうもお前は思い通りにならない」
「……」
「私が欲しいといえば、女など何も言わず縋ってきた。手に入れられた。それなのになぜお前はこうも……思い通りに……」
悔しそうな顔をして、見下ろす曹丕に私は薄く笑みを作って言った。
「そんな貴方に、縋ったとして貴方は私をずっと愛してくれる保証なんてどこにもないでしょう?」
過去の行いからどこか人を信頼できていない。トラウマを抱える私は、きっとそばにいろといった彼の言葉を信用できずいつでも確認をしてしまうだろう。だから、そばにはいられない。ずっと愛される確証などないからだ。
「もし叶うなら、残り少ない時間を別の形でそばに居させて下さい」
男女の関係になることが必ずしも正解とは限らない。だから。残りの2ヶ月を、この国のために尽くして……。居なくなる……。
「ならば、私の副将として努めよ」
「はい」
残り2ヶ月を思い出の残る時間に……。
◆
「お前の体力や技量を見て今後の所属場所を決める事にする」
翌日に訪れた夏侯惇に、私はそう言われて鍛錬場で力を見せろと宣言された。
どうやら前日の軍議で、私の扱いの件で議論があったらしく魏軍に従軍しろということだった。
私としては願ってもない事だ。昨晩曹丕から受けた言葉と共に素直に受け取った。
「俺が相手でもいいですが……」
いつも通りの様に鍛錬場に来ていた徐庶はこの状況に戸惑いつつも自分が相手をすると申し入れてきたが曹丕が口を出す。
「手加減されてはかなわん。夏侯惇、任せたぞ」
「あぁ」
そう言うと、私達は剣を構える。互いに見つめながらも相手の隙を伺う私に夏侯惇はニヤリと笑うと踏み込んできた。
「……っ!」
――ガギギ!!
重い攻撃を直に受けて私は顔を歪める。体格差がある私にとって、真正面から受けるのは愚策だ。なら、本来の私のやり方でやらせてもらうしかない。
「……っ!」
剣を滑らせていなす。滑らせていなす。相手が焦れて隙を見せた瞬間に切り込む。これは、力に劣る私の戦い方だ。振り下ろす剣をスレスレでカキンと重ねて滑らせて瞬間的に相手の首目掛けて一閃する。夏侯惇は即座に後退すると、嬉しそうに笑う。
「そう、お前のそれが俺は見たかったんだ」
「……」
ぴゅんと音を立てて構える私に、続けざまに繰り出す鍔迫りの応酬。いなしては、剣の柄をうまく使いながら応戦する。
「ほう、随分身軽になったな……」
「……」
関心する曹丕の横で、徐庶は彼女の動きに驚きがあった。自らが鍛錬相手をしていたからわかる事だが、彼女が自分の動きを取り入れた戦闘攻撃をおこなっていたからだ。
「……」
嬉しいと思う反面複雑だった。そこに、目の前に居るはずだった自分を想像して……。
「……フンッ!」
風圧で投げ飛ばされて、私は受け身を取ったが生憎と自分より使い古した剣の方が先に折れた。
「あぁ……」
「もう終わりか?足らんな」
「鍛錬用の剣が折れたので無理ですね」
「奥に何本かまだあるだろう持ってこい」
「嫌です。さっきふっ飛ばされて身体痛いし」
拒否をすると、夏侯惇は可笑しそうに笑って頭をくしゃくしゃと撫でた。
「いやぁ!本調子ではないとはいえなかなか良かったぞ!」
「なら、良かったです。徐庶殿が毎日欠かさず通ってくれたお陰ですね」
「えっ、俺?」
突然名前を出されて狼狽える彼に、私はその場でニコリと微笑む。顔を少し伏せて頬を赤らめるその姿に複雑な気持ちになる。
「それで?どうだ?夏侯惇よ」
「お前達も見た通り合格だ。そのまま曹丕、お前の所属になるのが良いだろう」
「ふ……愚問だ。もとよりそのつもりだった」
「宜しくお願いします。曹丕殿」
昨晩の件もあってか、私はあまり彼と目を合わせずにいた。彼の気持ちを知ってしまったこと。それと、いずれはここから居なくなると伝えてしまったから……。だから今後私達がどうにかなることも無い。
恐らく一時的に互いに熱が上がっているだけだ。だから適度な距離で……。
「私は夏侯惇と共に父へ報告に行く。今日の鍛錬はそこそこにして休め。吹き飛ばされた際の衝撃は後になってくるぞ」
「はい、分かりました」
二人が鍛錬から出ると、私はフゥーっと息を吐いた。
「君は、ここに残るつもりなのかい?」
「……蜀には戻るつもりは無いよ」
「蜀には?」
「あれだけの事をされておいて、素直に戻ると思う?そんなのは馬鹿のすることよ」
徐庶の言葉にそう返すと、私は鍛錬場の入り口に待機していた添花へ声を掛けた。
「悪いけど、傷を手当する一式を持ってきてくれる?」
「手当てなら、わたくしが行います。こちらへ」
案内されて行こうとすると、徐庶は私の腕を掴んだ。
「……何?」
「話がまだ終わってない」
きょとんとする私に真剣な目をしてこちらに訴えてくる。仕方ないとばかりに道具一式を持ってくるように命じた。
鍛錬にある椅子に座って手当をしようとすると、彼が手当をかってでてくれた。
「俺がするよ」
吹き飛ばされた時に、ふくらはぎと膝そしてに肘から血が出ていた。
「軽装でやっちゃ駄目だった……」
以前だったら、もっとうまく受け身を取れていたはずだがそれが出来なかったのは痛い。まあ、傷は大きくはないし、数日すれば治るだろう。私は肘を清潔な布で拭き取った。彼は私の膝とふくらはぎの傷をきれいに拭き取ってくれる。
「君は凄いな……どんどん強くなって」
「そんなことない。私は弱くなったよ」
「……」
蜀にいた頃はこの程度の手合わせは難なくこなせていた。身体が限界まで弱まった事で得られたものはあったが、同時に衰えは感じたのだ。
「……もっと、怖いもの知らずだった。でも今はそれはできないかな」
「……それは、蜀での事で?」
「うん……どうなんだろう……。少なくとも向こう見ずに動くことはできなくなっちゃった」
あの時はきっと守るものも、守りたい人もいたから。守ってくれる人もいて、切磋琢磨して歩んでいたはずだ。それが出来なくなった。守るものは何もない。空っぽの私には、【命が惜しい】と何処か生きる欲望のような物だけが残っているだけだ。それを彼に伝えた所でどうなるのだろう。何も変わらない……。
そう考えていると徐庶は私の手を取った。
「俺が君の事守るよ。君が何者にも恐れない戦い方が出来るように……。俺が常にそばにいる」
「……」
見透かされたような台詞に私は目を丸くする。私がここに居るのは彼のせいと言っても過言ではない。その彼を頼りに生きてしまったら、私はまたあの国に戻らなければいけなくなる。それだけは……。
「貴方は、劉備殿を始めあの国に戻る事が目的でしょう?」
「君が戻らないというなら俺は戻らない。勿論、ついてきてくれたら嬉しいけれど……」
「……っ……私は、あそこに帰る理由がない」
「分かってる。無理強いはしないよ。でも、俺を選んで欲しい。君が望むことはなんだってしたい。なんだってする。孔明を殺せというなら俺は殺せるよ」
「……」
サラッとそう言い切った徐庶に、私は悪寒がした。いつから彼は私にこれほどまで執着していたのだろう。何もなかった筈だ。初めて会ったあの日、泣き叫んで罵倒した。それ以外は何もなかった。常にそばにいたが、そのから進展することもなかったはずだ。
――それなのに……。
「……少し考えさせて……私は、貴方の気持ちにすぐに応えられるほどの余裕はないから……」
「……大丈夫だ、すまない。俺の気持ちを押し付けてしまった……」
「いや……あの……気持ちはすごく伝わったから……」
そう笑みを返すと、私は自分の胸に手を当てた。私が本当に欲しいものは何だろうか……。
自分を庇護下に置く曹丕……。
自分に過剰なほどの執着をする徐庶……。
それとも……、かつての仲間である――。
◆
立ち込める砂嵐。視線の奥から連なる馬の大群。人の雄叫び。その光景はいつも見ていたはずのそれだった。
ただ違うのが、私の隣にいるのが馬超でも馬岱でもなくて敵だったはずの人。倒すべき筈だった人。
「緊張しているか?」
「……少し」
馬に跨り、動き回る砂嵐に私は手綱をぎゅっと握る。
「そう急くな……。我らの出番はもう少し先だ」
その声に不安げな顔のまま彼を見る。相変わらず不機嫌そうに眉間にシワを寄せているが、いつもとは違った優しい声音だった。
「私は……貴方の庇護下に入った事を幸運に思います」
素直な感想だ。あんな事があったが彼に出会えた事は良かったと心の底から思う。
この戦いが終わったら彼の元から去る自分を許してくれる。分かっていて側においてくれる懐の深さに私は感謝しかない。
「……そう思われる事に悪い気はせぬな」
一言そう言って、戦況を見つめる。あの日誓った日から2ヶ月。徐庶との誘いを断って私はここにいる。どう考えても、戻るという選択が私の中で浮かばなかった。戻らなくても共に行くと言った言葉に嘘はないだろう。けれど、彼には家族がいる。それを無視してまで手を取ることはできなかった。
「余計な事は考えるな。お前は目の前の事だけに集中せよ」
「はい」
◆
「夜襲作戦ですか?」
「事態が好転せぬ事で父も焦れている」
「あちら側にうまく誘導されている戦況ですものね」
開戦してから数日。なかなか戦況が好転せず、両軍にらみ合いとなっていた。
「こちらも動かねば、事態はどうにもならぬ。今回は副将として兵を連れて出てもらうぞ」
「はい、わかりました。貴方は守りを固めてください」
正直このままでは兵糧を食い潰すだけだ。短期決戦の為に少ない部隊で奇襲作戦を決行することになった。曹丕は少しばかり渋い顔をするが、私は笑顔で返す。何か嫌な予感がする。直感的にそう思った。
――作戦立案者が徐庶だからだ。
寝返りの機会を得ようとしているのがわかる。しかし、私が彼の行動を邪魔するわけにはいかないのだ。私は彼を蜀に帰す。そう密命を受けていたからだ。あんな命令に黙って従わなくてもいいとは思うが、徐庶には自分の望む場所で活躍してもらいたい。そう願わずにはいられない……。
「……全く、都合のいい女だな私は……」
独りごちる。各部隊から選出された中で今夜の夜襲を開始される。曹丕の軍からは私を含めてそれなりの人数が任じられた。
勿論、他の部隊の中に徐庶も……。
「……いない?」
野営地で知った顔を探したが見当たらなかった。彼がここにいない。別の手段で古巣に戻るのであればそれはそれでいいと思う。今は……。
「ここから反対側の敵軍野営地へ今夜夜襲を仕掛ける」
自軍の野営地から直線の場所は地形的に平坦な為難しい。対してこちらから見て右翼の地形は戦場の手前が小さな森に囲まれている。火計を用いて蜀軍の野営地を襲撃できれば、戦況もこちらに傾く可能性がある。故に少数精鋭。各隊の隊長の指示のもと、命令を実行する事になった。
――筈だった……。
「伝令!目標野営地に敵軍の姿がありませんっ!」
野営地から少し離れた位置で、私は味方からの伝令の声を聞く。瞬間その奥から声が上がる。蜀の兵たちが間違えてていた事を知って唇を噛んだ。
「……っ!やっぱり……」
此度の蜀側の軍師は諸葛亮だ。嫌な予感はしていた。陽動に嵌められたと取ったほうが正しい。私は急いでその場で大声を上げた。
「撤退!作戦は失敗した!各自散開して本陣へ帰還せよ!!」
そう声を上げると、自分の部下達を先に行かせる。
「私は逃げ遅れた兵達の救出へ向かう。貴方達は混乱している兵達をうまく誘導して逃げて」
そう言うと、私は剣を持って走っていく。どの道こちらはどこで死んでもいい身だ。一人でも魏軍にとって戦力になるなら彼らを優先して救う事が一番いい。私がここで撤退しても、ここで捕まっても殺されても。何も変わらないから……。
「撤退!急いで!」
迫るかつての同胞。こちらの姿をみて困惑の色を見せるそれに罪悪感が走る。何故なら、半年前まで彼等に指揮をしていたのは自分だったからだ。
「死ねぇ!!」
すぐ目の前で死にそうになっている魏軍の兵を守るように、私は短剣を引き抜いて襲い掛かるそれに投げ付けた。
「ぐあっ!」
「行って!」
倒れた兵が持つ槍を奥にいる兵に向かって投げ込む。勢い良く腹部に突き刺さるそれを確認すると、私は逃げ遅れた兵を抱えて野営地を出た。
予想以上に配備されていた兵の数が多い。誰かが囮にならなければ、散開した兵隊が追いつかれる事になる。
「さて、久々にやろか……」
それはかつての相棒と共に掛け合った言葉。
今は一人だ。
けど、この状況を打破するには時間を稼ぐしかない私は剣を構えて目の前に迫りくるかつての同胞たちに刃を向けた。
◆
その知らせが届いたのは彼女が本陣を出てから数刻経ってからだった。
夜襲が失敗したことで、帰還した兵隊の知らせを受けて曹丕は軍議中であるにも関わらず席を立った。
「待て、今出てもこの暗がりだ。彼女がどこに居るのかわからん!もう少し待て!」
夏侯惇は、慌てて軍議の天幕を出る曹丕を止めようと共に出てくる。
「待つ時間が惜しい。こんな事をしている間にも彼女が捉えられ死んでしまっているかもしれぬ」
縁起でもない事を口にするが実際状況がわからない今、急いで救援に向かわなければ間に合わない。闇に乗じての奇襲作戦に失敗したならば生きている可能性すら怪しい望みを持てない可能性すらある。
「分かった、俺も軍を連れていく。お前一人で先走るな。冷静を欠くな。落ち着け」
常に静かに思案する彼には似つかわしくない慌てぶりに夏侯惇は驚きながら言った。こんな彼を見ることは本当に稀だ。その行動に、ユアという女にどれほど入れこんでいるのか分かってしまった。
「ならば、貴様も兵を整えろ。私は先に行く」
馬に跨り、駆けていく。曹丕は焦りの為か護衛も付けず先にいってしまった。
「……何を考えているんだあいつは……」
舌打ちをして早急に随行する兵を集め出撃する。今の曹丕はかつてないほどの危うさがある。その原因はおそらく彼女だ……。だからこそ……。
「ええい!我々もゆくぞ!」
号令をだすと、部下たちの雄叫び。夏侯惇の心境は穏やかではなかった。
◆
「は、はぁ……はぁ……」
どの位の時間が経っただろうか……。目標地点からだいぶ離れた森の奥で、私は木の影に隠れて息切れをしていた。
蜀軍の迎撃部隊は時間をかけて少しずつ数が減っていた。こちらが編成した数は多くない為、それを見越して早々に大部分を撤退させていったのだろうか……。
汗だくの中、私は敵が未だにうろつく森の中で冷や汗をかく。
「ホント、やらしい作戦思いつく……」
何人かの魏軍の兵が横たわるのを見て、複雑な気持ちになる。徐庶が立案した作戦を実行しなければこうはならなかったかもしれない。それを今更後悔する。
「悔いたってどうにもならない」
立ち上がって剣を握る。様子を伺いながら彷徨く兵が一人。ひとまず、本陣へ戻る際に少しでも減らして行かなければ。作戦を実行した意味がない。
私はそのまま、目の前の兵士目掛けて走っていった。
――ガギ、ン!ギィー……ガギ、ン!ギィー……!
いなして相手の隙を突く。予想より大柄な男の力に私は顔を歪ませる。振り下ろされるそれは、今日食らったどの攻撃よりも重かった。
「くっ!」
――ギィ……。
剣を交差させて暗がりの中見つめる。初めて見る兵士の顔はこちらが女と知って薄ら笑いを浮かべる。
「女の癖にやるな」
「……」
――ギリギリ……。
男の力がさらに増してぐっと押し付けられた瞬間、私は瞬間的に1歩後ろに後退した。
「……っ、は、……はぁ……はぁ……」
酸欠に近いそれに、自らの衰えが明確だ。自分より体格の大きな人間にここまで苦戦することはなかった。
「死ねっ!」
ブンと振り下ろされるそれに一瞬反応が遅れた。
「……っ!!」
目をつむって斬撃を待つが、幾度待ってもその衝撃は来なかった。
「……えっ……何?」
目を開けてみると、対峙していた男は弓に射抜かれてそのまま地面に横たわっていた。
「言ったでしょ?いつでも助けに行くって」
風でざわつくなか、森の木々の影から差し込む月の光。暗いその道をゆっくり歩いてくるそれは……。
「馬岱……?」
名を呼びこちらをニコリと見つめる。二刀の双鉞を携えたその姿は、かつての仲間の笑みそのものだった……。
◆
彼女を初めて見たのは、蜀との何度めかの交戦の最中だった。夏侯惇が数刻で落ちると言われていた戦。その攻城戦で太守を努めていた彼女の話を聞きつけ、参加した戦の度に目で追うようになった。華奢な身体の割に自分より体格の大きな男をいなして斬る姿に目を引きつけられたのはきっと自分だけではなかった。
だから、あの日献上品という名目で我々の元へ来た彼女の姿を見て驚愕した。弱々しい、やつれたその姿に私の中で怒りが湧き上がっていたのだ。
父に私の庇護下にと進言したのも、仲達の執拗な監視もできる限り最小限に留めていた。それはひとえに、あの勇ましい彼女を再びこの目に映したい。共に戦いたいと思ったからだ。
策略にハメられ苦しむ彼女。やつれて何も食べる事ができない彼女に、どうしたらいいのか考えたが女に甘い言葉を軽く言える性分ではない自分はろくなことしか口にできなかった。
しかし意外な事に、その不器用な言葉を汲み取って彼女は元気になる。安堵もあったが、要らぬ虫も増える。当たり前だ。彼女は私をも引きつける。不思議な魅力を持っている。他の男が好意的にならないはずはないのだ。だからこそ早く欲しいと思った。私に警戒心を抱かなくなった今……。
『貴方に、縋ったとして貴方は私をずっと愛してくれる保証なんてどこにもないでしょう?』
ズンと刺さる言葉。すでに妻がいる身。しかしそれでも彼女が欲しいと思った。裏切られて捨てられてやつれてボロボロになった彼女を私が幸せにしたいと思うことはいけないことだろうか……?
しかしこのまま一生屋敷に閉じ込めて、私の帰りを待つだけの時間。そんな時間を与えても、彼女は嫌がるだろう。だから……。
「私は選んだのだ。手に入らないなら時間の許す限りで手助けし、そばにいると……」
強引に唇を奪って、迫った彼女はどこか空虚だった。守るものもない。縋れるものもない。放っておけば死んでしまうかもしれない。
「……っ」
彼女が自分を選ばなかった事は残念だ。しかし、短い時間をそばにいると言った言葉が嬉しかった。だからこそ、時間の許す限り屋敷に通っていた。
その彼女を脅かすものが今迫ろうとしているのならば……。
「無事でいろ」
それは、寡黙な曹丕の本心だった。
◆
「……ようやく見つけたよぉ!元気だった?」
馬岱は、ニコニコしながらこちらに近寄ってくる。私は警戒心をそのままに立ち上がって後ずさりした。
「なんで……」
「なんで……?あぁ、この作戦に君が参加しているのは織り込み済みだったんだ。奇襲作戦に関しても、兵力をそこそこに撤退させたのは、どういうことか……分かるよね?」
つまりは、徐庶は混乱に乗じてあちらに向かったと言うことだ。良かったと思う半面、一番厄介な男に後処理を頼むのは勘弁して欲しい。
「なぜここが?」
「何故?何故かぁ……。君の戦闘の癖はそれなりに覚えててね。足音の癖、攻撃の際の癖なんか何回、何十、何百、何千何万回打ち合ったと思ってる?迫り合いの音だけでどこに居るのかすぐわかったよ……」
「そんな、の……」
わかる事自体がおかしい。たしかに昔から彼らと共に戦場をかけていた。鍛錬だってこなしてきた。その時間を、使ってこんな……。
「お勤めご苦労さま。君は彼を俺達の元へ連れてきた。俺は諸葛亮殿から協力の代わりに君を手に入れる約束になってたんだ……」
ジリジリとゆっくり歩いてくるその姿にかつての温かい懐かしさはない。むしろ、恐怖を感じる。
こんな事をした果てに私を欲しがる理由が……。
「逃げないで」
私を抱き寄せて逃げ場のない木を背に迫るかつての仲間……。スルリと、頬に大きな手を当てられて張り付いた笑みのまま低い声で囁くように言う。
「君はこれで名実ともに俺のものだから……」
「……っ!!」
反射的に大きな彼の体の隙をついてそこから逃れる。剣を片手に、私は再び距離を取ると苦しくなって咳き込んだ。
「あーあ、駄目だよ。君はまだ全盛期ほどの体力残ってないでしょー?」
彼の武器である双鉞がグルンと回る。あれに叩き込まれたら私はひとたまりもない。重量と、リーチの長さで近づく事も出来なくなる。
「なん、なの?何がしたいの?」
「なーにいってるの!何がしたいって俺のものを迎えに来たんだよ。一緒に帰ろう。大丈夫!若とは結婚できないけど、蜀で君は俺と結婚して幸せに暮らせるんだよ。子供も沢山作って、毎日俺の帰りを待つんだ。屋敷からは一歩も出さないけど……」
歪んだそれが私の心を締め付ける。
「私がそうした?」
「何が?」
いつもの軽い口調で返される。
「私が何も気づかないから、貴方をそこまで追い詰めた?」
「……」
沈黙が続く。笑顔を貼り付けたまま再び双鉞をぐるりと1回転した。そして言うのだ。
「そう。でも、口に出さなかったのは俺だから」
「……」
彼はかつて私が全幅の信頼を寄せていた人だろうか……。重い感情が心臓を鷲掴みする。かつての私達はこんなにも歪んだ関係じゃなかった。もっと明るい、未来に向かって……。笑顔で……。
「私がおかしくしたんだね。あなたをここまでにしてしまった」
「違う」
「違くない。ねぇ馬岱。貴方への気持ちは私を魏に送り込んだ時点で終わってるんだよ」
――ゴッ!
双鉞が勢い良く私めがけて襲ってくる。すでに走って逃げる力もない私はそこで目を瞑る。
――トッ!
「……っ!」
馬岱と私の間めがけて、弓矢が1本そこに突き刺さった。
「あぁ、本当に邪魔者ばかり」
「曹丕殿っ!」
声をかけると、馬岱はの元へ走って腕を掴む。私はくるしくて咳をしながら抵抗した。
「撤退するよ、君は戻ってきた。俺といっしょに帰るんだ」
「嫌だっ!離してよ……ぐっ!ゲホゲホっ!」
「往生際が悪いよ、さぁっ!」
「嫌だってばっ!!」
必死に抵抗して、時間を稼ぐ。曹丕がここに来てくれたなら私は彼の元へ戻るんだ。迎えに来てくれた。こんな私を心配して迎えに来てくれたからっ!
「貴様の情欲は醜いな」
双刃剣が彼を襲う。私を庇いながら、馬岱は攻撃を受けて片手のみで曹丕の攻撃を捌き始める。
「君には分からないさ。そうならざる負えなかった俺の気持ちなんかねっ!」
――ガギィ!
「……っ!」
重い攻撃に、曹丕は顔が歪む。このままではジリ貧だ。馬岱から離れなくては。私がここにいたら、曹丕が撤退できない。
「ならっ!」
呼吸を整えて、深呼吸をする。剣を握って私は走り出した。
「なッ!」
驚いた顔をして、私の攻撃を空いたもう一本の手で応戦した。
「どうしてわかってくれない!俺が君を守るって、そばにいるって……ずっと……」
「そんなこと望んでない!」
「……ならっ、君の光を断ち切るだけだ」
瞬間、その視線が曹丕に向いた。重い双鉞が同時に彼に振り下ろされる。
「ダメッ!」
叫び声を上げて私は咄嗟に動いた。曹丕の前で一閃を浴びてそのまま……。
「ぁっ!」
「っ!!」
――ドゴ!!
剣を握る手が落ちる。曹丕を庇うようにして私はその場で血を流して倒れた。
◆
大きな傷を負って横たわる私を何かを叫びながら抱きかかえられる感覚。抱かれた際に感じた匂いが、あぁ彼だと思った……。
同時に彼が無事であった事にとても安堵した。
「……ぁ……」
ぱちりと目が覚めた。見慣れた調度品が置かれたその部屋は魏に来てから毎日目にしていたものだ。
わけが分からず起き上がると肩から腹部へかけて引き攣った痛みが走った。
「……っ!」
寝間着のまま、自分の体を見てみると包帯が上半身を覆っていた。
「……あぁ……生き残ったんだ」
ゆっくり身体を倒すと、私はそのまま息を長く吐いた。あの時の一撃で死んだとおもった。それ程馬岱の憎悪はひどく曹丕に向けられていたからだ。
咄嗟に飛び出した事で馬岱は武器の軌道を曲げたのだろう。でなければ私が生きているはずがない。あの状況で死ななかっただけマシだと思う。彼の腕に感謝したい。
「あっ!」
部屋の入り口から目を覚ましていた私に声をかける。身体を起こすと傷が痛いので私はそのまま右手を上げた。
「曹丕様っ!!」
慌てて大声を上げてその場から走り去る女官に、私は苦笑いをする。そんな大袈裟に走り回らなくてもと……。
「……目が覚めたのか?!」
部屋に戻ってきたのは曹丕だった。珍しく焦った顔をしてこちらに来たことに私は思わず笑ってしまう。見たところ大きな怪我もしていないようで私は安堵する。
「無事だったんですね……良かった」
柔らかくニコリとわらうと、曹丕はそのまま私を抱き締めた。
「……あっ」
「お前は……こんな時に私の心配など……」
「……この国にとってあなたは私の命よりも重い人ですから」
「……馬鹿者がっ……」
懐かしい彼の匂いに包まれて私はゆっくりと微笑む。腕に力の入ったそれに安心感を抱いた。
「それにしても、戦はどうなったんです?」
「あれから、奴等はおかしな事に撤退をした。また何か仕掛けてくる可能性があるから暫くは警戒はしているが……お前は怪我をしていたからな。先にこちらに連れてきたのだ」
徐庶が蜀軍へ戻った時点で、戦をする意味がないと退却したということだろうか……。それにしてもあっさりしすぎている。
「先にこちらに移動なんて大げさすぎではないですか?」
「何を言う、お前はあれからひと月近く怪我のせいで意識がなく眠ったままだったのだ。軽く考えすぎだ」
「そんなに寝てたんですね」
怪我のせいで意識不明だった自覚はないので他人事のように感じる。曹丕には悪いが、私の中であの一件はつい先程のように感じられているのだ。不思議な感覚である。
「本当に、最後まであなたに迷惑をかけてばかり……すみません……」
「もとよりそういう話だった……。お前が気にすることではない」
私達は静かに会話すると、そのまま黙ってしまった。諸葛亮から命じられた役目は終わった。ここにいる必要はない。でも、いざここから出ていくとなったら寂しい気もするのだ。
ここ半年、彼とはこの屋敷でずっと世話になっていた。寡黙で多くは語らない人だが、私にはそれが居心地が良かった。
「怪我が治ったら、約束通りここを出なければいけませんね」
ここまで迷惑をかける部下などいらないだろう。そばにいても彼の生きる道を阻む可能性がある。だから、怪我が治るまで……。それまでは……。
複雑な心境で外を眺めると、曹丕は私の手を握る。
「やはり私は、お前を手放せない」
真剣な声に顔をそちらに向ける。
「何を?」
突然の言葉に同様を隠せなくて、私は彼の手を振り払う。
「お前があの日、私を庇ったのは本当に私自身を慮っての事か?かつての仲間の攻撃に身を挺して飛び出す事は当たり前にできることでは無い。ましてや我々は出会って半年程の関係だ……。先のセリフに偽りはないのか?」
「……」
見透かしたような瞳に私の心は揺れる。そばにいろといった彼の気持ちにいい加減な気持ちで誤魔化すような言葉を発したわけじゃない。誰かを好きになる事は素晴らしいことだ。しかし、かつての自分のように純粋に人が見られない。それがあまりにも恐ろしいのだ。
曹丕には妻がいて、最愛の人で……。私はそれを奪われてここに来た。たとえ他の女性をそばに置く事を周りが許したとして、私が許せないと思った。
――だって私はその愛する人1人にすら裏切られて来たのだから……。
「私が、貴方を好きだと言えば満足でしょうか?」
「……」
無言の空気に私はたじろぐ。曹丕は動揺することもせずこちらを見ている。
「……私、は……」
一人を愛して裏切られた。誰かを愛して何も残らなかった。だかこそ、それがあまりにも残酷で胸に爪痕が残ったままつかえている。本当は私も彼を愛したいけれど、私は欲張りだから……。
「私は……私しか愛さない貴方が欲しいんです……」
私以外見ないで。私以外を愛さないで。私だけに感じて私だけを抱きしめてくれればいい。
でもそれができる人ではない。彼が私を欲しいと願えばそばにいれば、きっと彼は私を愛してくれるだろう。
でも、じゃあ、残された者の気持ちは?
解決なんか何もない結末。誰かが結局は悲しい思いをする。それは仕方ない。この人はこの国にとって大切な人だから……。
「言い訳はもういい……」
「……えっ」
「私が欲しい為に並べるお前の言葉は聞き飽きた。ただ愛していると言え。お前が私に言えることはそれだけだ」
握りしめた手の力に勇気づけられるように、私は彼にぽそりと呟いた。
「貴方が好きなんです。だから私だけのものにし……んっ!」
吸い込まれた言葉を受け取るように曹丕は唇を重ねる。優しく、丁寧に、深く。
ゆっくりと傷が痛まないよう、私を寝台に横にして曹丕はそのままタガが外れたように唇を貪った。
「あ、そんな……は、っんっ!そ、……ひ、殿」
「子桓……と、そう呼ぶといい……」
満足気に唇を剥がすと、二人の重なった唾液が彼の口元に付いた。それを拭う仕草がいやらしくて私は赤面した。
「あ、ざな……」
「そう、子桓。呼んでみろ」
「し、子桓……」
「あぁ……」
この上なく優しい声で返事をする。彼は私の衣服をはだけさせると、胸元に証を散りばめ始めた。
「……」
包帯で巻かれた傷に、不快そうな顔をする。
「今後は決して、私の前に出る事は許さぬ」
「でも、私は……」
「でもではない。お前はこの曹子桓のモノ。自分を卑下するな」
こくりと頷くと、傷を労るように身体に大きな手を滑らせていく。唇を重ねながら、熱を帯びたそこへ手を少しずつ下ろして行くと、私は久しぶりの感覚に太腿を擦り合わせる。
「期待しているのか?存外やらしいな……」
「ぁ……」
そのまま脚を開かせて内腿から敏感のそこに触れるか触れないかで往復をする大きな手に私は翻弄されていく。温かい手。安心していたはずの彼の手は今や私の反応を楽しむように意地悪に自分の身体を滑らせる。
「……ほう、すでに濡れているではないか」
下着越しに、太い彼の指が熱を帯びたそこに触れた。
「あ、や……」
脚を閉じようとしても、それを許されなくて、私子桓の服を掴んで顔を隠した。
「いじらしい姿……お前はどこまで私を狂わせる」
ぷちゅっと指が1本侵入してきて、私は短く声を上げる。再び唇を重ねて、続けざまに2本目を挿入するとナカでバラバラに動いた。
「あ、あ……やぁ……」
「……っ」
ぴくっと何度か跳ねると、子桓はそこを重点的に攻め始める。
「ここか……」
「あ、ぅ!」
中を擦られるたびに身体が跳ねる。愛おしそうに見つめる子桓。私はしあわせな気持ちにあふれていた。限界が近づいてきているのか、私の体は震え始めて嬌声が部屋に響く。
子桓は楽しそうな顔のまま耳元で囁くように言った。
「イけ」
「んあっ!」
声と同時にびしょ濡れになった指を二の腕から舌先でゆっくり舐めとると一言言った。
「本当に可愛いやつだお前は……」
「あ……、ぅ……」
体力の無い私に、これでおしまいとばかり曹丕は私の寝台で横になる。
「あ、の……」
「なんだ?」
「……その先……しないんですか?」
おずおずと聞く私に曹丕は軽く笑う。
「怪我人に無理させるわけにもいくまい。時間はたっぷりある。快癒した後は、覚悟しておけ」
「あ……、は、はい……」
その日は、彼の腕で抱きしめられながら眠りについた。
◆
それから数カ月後
「ん、あっ!あっ、あっ!あぁ!」
執務を行う机の上で服を淫らにはだけさせながら、後ろから突かれている。その光景はいつもの事で、男の情欲は女に注がれていく。
「今日の演習では随分と、夏侯惇と仲良く話していたな」
ギリギリまで引き抜いて、男の男根を最奥に穿つと私は一層大きな声を上げた。
「お前が将として私に仕えたいというから甘んじて受け入れていると言うのに、よりにもよって他の男に触れさせるなど……お前は昔から異性の男に対して気安いのではないか?」
「そ、んな事っ!んんっ!」
ぐりぐりと奥を揺らされて、私は言葉を紡ぐ事ができない。この関係になって数カ月が経っている。曹丕の私に対する執着は増すばかりだ。後ろから被さるように、耳元で曹丕は言葉を続ける。
「そういえば、あの徐庶とか言う男もすぐにお前の虜となっていたな……。全く、魔性の女だ。私でさえ、お前に夢中だというのにっ!」
ズン!と奥を突く。チカチカして、私は言葉にならない声を上げる。机の下は私の愛液でびっしょりになっていて、それを気に求めず子桓は私を抱く。何度も確認するように、何度も言い聞かせるように……。
「私はお前だけを愛して、お前だけを抱いてお前だけに愛を囁いているというのに、くっ!お前は……私の言う事など……ぁっ……全く言うことを聞かぬ……」
「ご、ごめんなさ……いい子にするっ!何でもするからっ……あっあっあっ!んんっ!お願い嫌わないでっ」
懇願するような声をあげると、子桓は私の背中に証を散らす。
「ん、くっ!」
ぱちゅぱちゅと音が木霊する。片足を上げて更に奥を突く。
「あぁ、そろそろ……」
余裕のない声を出すと、曹丕は腰の速度を上げた。
「中でたっぷり出してやる」
机に突っ伏して快楽を散らそうとする私に、曹丕はニヤつきながら腰を前後に揺らす。
「っ……だめだ、出っ……くっ!」
奥に解き放たれる子種は私の中を満たす。同時に果てる私の中でゆっくりゆっくりと中を擦りながら最後の一滴すら出し尽くすと、そのまま私の背中に倒れ込んだ。
「んんっ……ぁ……」
「本当に、お前は何度抱いても飽きないな……すぐに腹が空く」
くちゅっとナカのモノが動くと私は声を上げた。
「意地悪くあれほど抱いてやったと言うのに、お前も随分と好きものだ……私はそんなに良かったか?」
振り向いて口づけを迫る私に応えてくれる子桓に私は無意識に腰を揺らした。
「なるほど、やはりまだ足りないと見える」
「えっ」
「今夜は声が枯れるまで抱いてやろう」
そうして、今夜も夜が更けていく。
愛した人を失った私に、光を与えてくれたひと。愛した人を失った私に愛を再び信じさせてくれた人。
この人のそばならは、私は私らしく生きられる。そう信じている。
★★
次ページから先はおまけです。
最終的に馬岱も、徐庶も捉えられたバージョン。各キャラのルートではなく曹丕と共謀して、または蜀の戦力そのものをそいでやろうというヒロインの策略が含まれます。
基本的に登場人物はヒロインに狂っているので生暖かい目で見守ってください。 アダルト要素有。基本的に主人公が攻めですが、途中で形勢逆転有。