ウィキッドという人物 作:ーーー
小学校の頃、私の両親は俗に言う〈毒親〉だった。
両親とは言っても、父親の方は血が繋がっていない、義父でさえない母親の恋人だった。本当の父親は子供のころに強盗傷害を起こして逮捕されていたというのが真相だったが、それを知るのはもっと大きくなってからだった。
母親が新しい男を連れてくるのと同じくらいの時期、実父の代わりに母が私を殴るようになった。タチが悪いのは、その男と酒を飲んでいた時はゲラゲラと笑い、私のことを酷く殴りつけるのだ。
男が帰り酒が抜けると「ごめんなさい」なんて申し訳なさそうに謝り、コンビニで買ったお菓子やファストフードなんかを与えて機嫌を治させようとした。
そのギャップのせいで、母が心底嫌いだった。実父は目に付けば殴ってくるだけだったからわかり易かった。母はそんなことがなかったせいで、殴られるのか甘やかされるのかが子どもの目には判断出来なくて、怖かった。
今思えば、それは私に優しくしたくても暴力を振るってしまうなどという訳ではなく、私を都合の良い人形として扱っていたのだと理解してしまう。
簡単な話、酒は人の本性を見せるというから。
そして、母は失踪した。
最後に私に吐き捨てた言葉は、残酷なものだった。
『なんなの、その目…! やめて! そんな目で見ないでよ!』
ヒステリックで半狂乱なまま、何も持たず逃げ去るようにマンションの一室を抜け出し、二度と戻ってこなかった。
私には、母しかいなかったのに。
母親が残した貯金などたかが知れていた。それでも現金がそのまま封筒の中に置いてあったということは、良識のある大人が目にすれば、真っ当な仕事などしていなかった事が容易に窺い知れただろう。
幸いにして、私は金の使い方を分かっていたし、当分は困ることがない額だった。
問題は、水道代やガス、電気料金などの存在を知らなかったことだ。当然ひと月も経たないうちに家は全て打ち止められ、夜は月明かりを頼りに心細く啜り泣いたものだ。
そうやって生きていてはいつか限界が訪れる。
とどのつまり、金が無くなったのだ。
おなかすいた。
お腹が空いてるせいで目の前がぐらぐら揺れてる。そんなこと言っても、お金はない。ご飯は買えないし、家には何もない。
お母さんはまだ帰ってこない。床で寝てても、ご飯は出てこない。帰ってきたら叩かれるけど、ご飯はもらえた。お腹が空いて苦しい思いはしなくていいのに。
誰か助けてよ。
そんな言葉も、きっと誰も聞いてくれない。
そう思ってた。
どうしようも無くなると目の前が真っ暗になるというのは本当なのだと知った。瞼が重々しく意識を押し潰そうとした。ひもじい思いに耐え続けたのは、あの時確かに、母親の事をどこかで信じていた節があったからだろう。
尤も、そこに来たのは母ではなかった。
「──おやおや、酷い」
大人の人の声。誰だろう。最初に頭の中を支配したのは、そんな普遍的な思考だ。
当然、その声に聞き覚えはなかった。
子供の頃の私にとって、世界というのは私が住んでいた部屋と、両親が寝た部屋、食事を取る部屋、お風呂、トイレ。それだけだった。その場に両親と、母親の連れてきた男以外は存在しなかったのだ。
「子どもを放置するとは、君のご両親は随分と惨いことをするんだね」
「だ…れ………」
掠れて声も出ない中、どうにかその質問を捻り出した。誰でもいい、私を救い出してくれるなら。その一心で目を向けた。
「僕は……誰だろうね。こういうのもなんだけど、君の事を救けてあげようと思うんだ」
いつの間にか玄関の扉が開いていた。まだ朝方だったのだろうか、太陽の灯りがその男の背中を眩く照らし、受け止めきれなかった光が漏れ出た其の姿は、後光の差す聖人君子のようにさえ見えた。
ヒーローという存在は知っていた。テレビでは
それはその人達が
こんなに苦しいのに、こんなに死にそうなのに、誰も救けてくれなかった。誰も来てくれなかった。
だから、このまま死ぬんだ。そう思っていた。
狭い世界しか知らない私にとっては、唯一の。
私を救けてくれるヒーローだったんだ。
それから三日ほどあとに、水色の髪をした男の子が来た。年齢は私よりも一つか二つ上だろう。
私は、私を救け出してくれた人の名前も知らない。それはその男の子も変わらなかった。
でも、その男の子は特別だった。
「君は君自身にもコントロール出来ないほどの破壊衝動を抱えている。そいつが溢れて身体に知らせているんだ、痒みとしてね」
それは男の子に向けた言葉だった。部屋に連れ込まれた私たちを、二人の大人が見ていた。一人は私と、恐らく隣の男の子を救け出したのだろうあの人。もう1人は背丈が小さくて、テレビアニメで見たような悪のマッドサイエンティストみたいな格好の人。
「我慢なんかしなくていい。
まるで実の子どもを甘やかすように、その言葉には優しさがあって、そして意図があった。ただ優しい言葉を投げかけるのでなく、何か目的の為に誘導するように。
「君も、もっと自分を解放するんだ。きっと
縛り付けられた自分なんて分からない。子どもにそんなに事を意識させることなんて不可能だろう。だけど、命の恩人のその言葉だけは、成長してもずっと耳に残っていた。
それから、私は孤児院に入れられることになった。そこから小学校に通えるようになることも聞いて、私は胸が高鳴った。
小学生になれば友達ができる。友達ができればもう一人じゃなくていい。
でも、理想は遠かった。
孤児院の大人は酷く厳格だった。私が箸の持ち方を間違えれば殴り、礼儀作法が間違っていれば殴り、言葉遣いを誤れば殴った。
今思えば、孤児院の先生もまた私の両親のような人間だったのだろうが、相手が大人だから正しい、そう刷り込まれていた私には疑うことはできなかった。週に一度来る、私の命の恩人からの電話だけが、私の心の拠り所だった。
「今日から3年A組に転入してきた、<水口
小学校の先生からの紹介で、私は礼をして自己紹介した。孤児院の先生に刻みつけられた、一連の動作。学校の先生はそれを褒めちぎっていた。
「水口 茉莉絵です。よろしくお願いします」
それでクラスはきゃあきゃあと盛り上がった。当たり前だろう。自分で言うのもなんだが顔は整っていたし、礼儀作法は正しいものを叩き込まれたし、体裁を良く見せるために綺麗な洋服だけは買い与えられていた。
だから、クラスの男子からは可愛い女の子が来た、女子からは仲良くなれそうな子が来た、と思えたのだろう。
でも、それはすぐに崩れ去った。
「え〜、マリエってゲームやんねーの?」
「好きなヒーローいないのかよ。聞いてソンした」
「茉莉絵ちゃんって遊ばないの?」
それは、惰性でテレビを見ることぐらいの事もさせて貰えなかった私には残酷な話だった。孤児院は、子どもを引き取って育て上げると唄いながら実際は監獄のようなものだったし、娯楽は皆無に等しかった。
だから話についていけなかった。
「ゲームってなに?」
「ヒーローってなに?」
「遊ぶって、どうやって遊ぶの?」
知らない事だらけだったから聞き返していただけ。
それだけだったのに<なぜなにどうしてなんで>そればっかりの私の事が、子どもの目には酷く不気味に映った。のだろう。すぐに私は学級の中で孤立し、友達なんて作る事も出来なくなったと悟った。
何もすることがなくなって、机に突っ伏すだけのお昼休みの中、クラスの仲良しグループの一人が私に話しかけてきた。
「やめとけって!」
「まあまあいいじゃん。な、な、マリエ。お前ってどんな“個性”なんだよ」
その言葉が、決定的だった。
「個性って、なに?」
知らないことを聞いただけ。
私は知りたかっただけだったのに。
それがきっかけで、私への無視は明確に“虐め”へと変貌した。無個性の子ども、確かに個性を持つ少年たちにとっては自分が見た事もない人種。
世界はなんと残酷な事に、個性を持つ人種と、そうでない人種の二種類で成り立っており、個性を持たない人間に対して世間は驚くほど冷たく、排他的だった。
大人たちがそんなだから、子どもにまでそれが伝播する。私は、彼らにとって無視する相手から虐める相手になっていた。
だから私は、また救けを求めた。
いつの間にか頻度が週に一度から月に一度に落ちていた命の恩人からの電話で、救いを求める声を上げた。
「せんせぇ…個性が無いと虐められるの?」
『…ふふ、そうかそうか。うん、そうだね。個性を持たない人間は虐められるんだ。そんなのは嫌だろう?』
「…! や、やだ…。個性があれば虐められなくて済む?」
『あぁ、済むとも。…欲しいのかい?』
「欲しい! …あ、ご、ごめんなさい…」
はしたなく声を出せば殴られる。そう教育されたから、謝った。でも先生はそんな私を優しく宥めてくれた。
だから、やっぱり。
後日、指定された場所まで一人で向かっていた。先生曰く試練だという。そこまで一人で辿りつければ個性をあげるのに充分な素質があると言っていた。
「ごめんなさい」
「ん? おや、どうかしたかいお嬢さん?」
「ここって、どう行ったらいいですか?」
警官に尋ねたり、街の人に道を聞いたり。そうやって私の短くも険しい旅路は確実に終着点へと向かっていた。この試練を乗り越えれば私は個性を貰える、もう虐められなくて済む、そう思っていた。
「…だめじゃねえかよ、女の子が一人で路地に入っちゃあよォ」
「え……キャッ!? んむ、ムグ…!」
猿轡を噛まされ、何かの個性で手足を縛られる。
「良いじゃねえか、高く売れるぜこーいう育ちの良さそうなのは」
「だろ!? これで裏のサポートアイテムでも買って、一発でかい仕事で───」
大人の男が二人。勝ち目は無いし、抵抗して殴られるのはもっと嫌だった。ニュースを見ていたおかげで、これが誘拐なんだと理解して、私の人生の行く先を想像し、そして涙を零した。
死ぬんだ。そう思った。
「なんだ、ガキ? …てめぇ、こないだの奴じゃねえか」
雨が降り始め、雨風の冷たさを背中に受けながら、今まさに車に乗せられようとしていた時、私の二人目の救世主は現れた。
「あ…ア…?」
「ガ、ァ……ギッ」
ボトボトと、血肉の零れる音が鳴り、私の体は四肢を拘束していた個性の糸の消滅と共に投げ出された。
咄嗟に涙ぐんだ目を擦り、その顔を見ようとした。黒いインナーと、腕や顔にまとわりつく手の形を模したアクセサリ。特徴的なのはそのふたつだが、何よりその髪色には見覚えがあった。
「帰ろ」
「…え?」
先生に救けて貰った、私と同じ境遇の男の子は、私に手を差し出そうとし…そして何かを思い出して手を伸ばすのをやめ、今度は言葉だけでもう繰り返した。
「ほら、帰ろ。先生が待ってる」
「うん…」
立ち上がり、約束の事も忘れて男の子の後ろについて行った。私も男の子も、雨や泥水で服が汚れてしまったけれど、それ以上に仲間がいる事に得も言われぬ奇妙な安心感を覚えた。
男の子に連れられて入った家は、思い出した目的地と一致していた。私は一人ではなく仲間の手を借りてではあるが、到着はしたのだ。けれど、試練の内容を思い出す。一人で辿り着ければという条件は、達せられていない。
「やあ、顔を合わせるのは久々だね」
「…せんっ! ……先生…」
声を聞いて顔を見るが、すぐに目を背けてしまう。私は先生から個性を受け取る資格なんてないのだから。でも先生は手を叩いて喜色の声を上げる。
「おめでとう、転弧。おめでとう、茉莉絵」
恩人は、喜ばしいとばかりに拍手を送る。
私は困惑していた。てっきり少年…恩人が言うには転弧という名前らしい…に救けられてしまったから、試練は失敗したものとばかり思っていた。
「安心するといい。君がここに来ようとした時点で、僕は君にプレゼントをあげようと思っていた。もちろん転弧もね」
先生は私の頭に手を置く。
「きっとこの個性は君を導いてくれるよ」
それは私が私であることを辞める、最初のステップだった。