救急箱を開ける山本は、突然我に返った。新しく絆創膏を貼ろうとしているその指には、既に絆創膏が一枚巻かれていたのである。奇妙に思った山本は、その絆創膏を剥がしてみた。右から左に絆創膏を引いてゆくと、次第に指の腹が見えてきた。しかしそこにあるはずのものが完全に消え去っていたのである。それは、傷口だ。山本は自分の指を自分で触って何度も確かめた。しかしどう見ようと人差し指は無傷なのである。
また、更に奇怪な事が山本の眼前で起こった。既に巻いてあった絆創膏が、サラサラと空中に散り消えていくのである。山本が自身の目撃したことを現実だと呑み込んだのは、その絆創膏が尽く消え去ってから三秒後であった。
続け様に、家のインターホンが鳴った。その淡白な機械音は、そら恐ろしく家を響いた。おそるおそる見ると、インターホンのカメラに映っていたのは森田だった。
「山本!今助けに来た!早く車に乗ってくれ!」
「助けに来た」という言葉が、状況を理解しようとする山本の頭の中で何度も繰り返された。
「早くして!ここに長居すると危ない!」
山本はハッとして、必要最小限の物を鞄に詰めて駆け足で家を出た。玄関を開けた途端、森田に強く腕を引っ張られた。山本は戸惑いながらも、森田の焦燥する面持ちを見て、この世界で何か穏やかでないことが起きていることを悟った。急いで車に飛び乗った。シートベルトを締める間に、車はもう発進していた。
西から黄色い太陽の光が、まるでストーブの燈のように街に差している。
「森田、この世界に何が起きてるの?」
しかし森田が答えるまでもなく、じきにその答えは明らかになった。車が大きな幹線道路に出た時、そこには異様な光景があった。数百、数千のタクシーが道路を埋めつくしていたのである。
「山本、昨日"私"と会ったよね。"死んだ私"に。」
「覚えてるけど…どういうこと?」
「私はもう片割れの、"生きた森田"なんだ。」
森田はハンドルを強く握りしめた。
「私を信じて。説明する時間は無いんだ。とにかく、信じて。」
「信じるしかないよね」と山本は答えた。しかし、その声は多少の動揺を含んでいた。太陽はまだ西にあった。
「あのタクシーは、ただの車じゃない。外装はタクシーだけど、その中身は違う。本当の姿は…この世界を崩壊させようとする存在。"空虚"とでも言おうか」
森田は険しい顔でバックミラーをちらりと見た。後方から、同じようなタクシーが数台接近していた。
「空虚…?」
「昨日、死んだ私が言ってたでしょ。"心が死んだ"って。あれは比喩じゃない。私は心と脳、生と死に分離されたんだ。タクシーにはねられて。でもそのタクシーは元をたどれば…私が産んだものだったんだ。」
森田の声は冷静だったが、どこか切迫していた。その意味を完全に理解するには、山本には時間が足りなかった。しかし山本がただ一つ感じ取ったこと、それは、森田がこの世界をどうにかしたいと思っていることだった。