5:40、をやや過ぎた頃。
坂井家の庭で、悠二とシャナは向かい合っていた。
悠二は『トライゴン』、シャナは『贄殿遮那』、それぞれその長さに近い角材を手にしている。
朝日が昇ったばかりの、爽やかな晴天。鳥の囀る音だけが響いている。それ以外はまだ、街の喧騒といったものとは無縁の空間になっていた。
ヒュッ……
特に合図をすることもなく、シャナが悠二に向かって一撃を繰り出す。
悠二は、敢えて棒では受けずに、自身の右側に向かって身体ひとつ分ずらし、シャナの打ち下ろしを回避する。
シャナは、返す刀で、というかたちで、空を切った棒でそのまま斜めに斬り上げるように、悠二に一撃を入れようとする。
「と」
思わず声を出してしまいつつ、悠二は1撃目より少しだけ深くステップを踏んで、それを躱した。
その避けた先に、シャナは止めずにそのまま打ち込むと同時に、一度少し開いた間合いを詰めてくる。
悠二は、足元をしっかり踏みしめる間もないその1撃を、両手で握る棒で受け止めた。
カツン
乾いた音がした、そこから一瞬にも満たないような早業で、シャナは、悠二の懐に飛び込んだ位置からその胴に、薙ぎ払うように肘鉄を繰り出してきた。
「っ」
少し焦りつつも、悠二はそれをギリギリのところで躱しつつ、間合いを取り直す。
『おい』
アラストールが、咎めるような声を出した。
「あ…………」
悠二の髪の毛が “明るすぎる水色” に、瞳がそれを濃くしたような澄んだターコイズブルーに染まっていた。
「ごめん……」
悠二は、苦笑しながら、シャナに向かって謝罪の言葉を言う。そして、髪に少し茶色がかった、ネィティブジャパーニーズらしい、
フレイムヘイズとして力を振るう時、『零時迷子』の影響なのか、ヘカテーの “明るすぎる水色” が、髪と瞳に出てしまう。ただ、悠二は今まで他のフレイムヘイズを見たことがなかったから、シャナが同じ様になるのを見てそんなものだと思いこんでいたし、ヘカテーはヘカテーで、『悠二が抱えている “存在の力” が、零時迷子』によって常に飽和に近い状態になっているから、と、割と単純に考えていて、2人ともあまり疑問に思ったことがなかった。 ──── 閑話休題。
今は、純粋に体術の鍛錬を行っているところだった。なので、 “存在の力” による身体能力の強化がかかってしまっては意味がない。実際、シャナも “炎髪灼眼” になっていない。
「もっかい、頼めるかな」
悠二は、苦笑しつつも申し訳無さそうに言ったのだが、
「……今日は、ここまでで良い」
と、シャナはあからさまに不機嫌そうにそう言った。
「え?」
悠二は、キョトン、として、反射的にシャナに訊き返す。
「うるさい、良いったら良いの!」
シャナは、癇癪を起こしたように怒声を上げた。
「…………? わ、解ったよ」
悠二は、シャナが不機嫌だということは理解していたが、その理由が解らず、ただ困惑してしまう。釈然としないまま、シャナから棒を受け取り、自分のそれと合わせて、それらを片付けるために物置の方へと向かった。
「あら、2人とも、今日はもう終わり?」
「あ、母さん」
悠二は千草の方を振り返って、声をかけ返す。
深夜の自在法の修練とは異なり、特に周囲に損害が出ることもないということで、わざわざ封絶は張っていない。
それは悠二が1人でやっていた頃からで、千草に何度も見られているし、その時に使っていた、ステップの位置を測るための目印も、まだ撤去されずに残っている。千草は、人は好いが華奢な息子が身体も鍛える気になったかと、好意的に捉えていた。
シャナの件も、悠二は、シャナが小さい頃から鍛錬を積んでいる、この分野の先輩で、今は指導を仰いでいる、と説明していた。
多少ぼやかしてはいるが、別に嘘は言っていないし、この事そのものに関しては気に病むほどのものでもない、と、悠二は思っていた。
「ご飯できるまでもう少しかかるんだけど、シャナちゃん、どうする?」
僅かに困ったような顔になって、千草は、シャナに問いかける。
悠二とシャナが早朝の鍛錬を始めてから、その間に千草が朝食を準備し、鍛錬の後にシャナがシャワーで汗を流した後、3人で朝食を摂る。それが最近の日課になっていた。
だが、
「今日はいい」
と、シャナは、千草に対しては珍しく、視線も向けずに、どこかぶっきらぼうにそう言った。
「アラストールと、2人で話したいことがあるから」
シャナは続けて、そう説明した。
シャナは、千草を含めた周囲の何人かに、「“アラストール” なる
「アラストオルさんと……そう、残念だけど、それなら仕方ないわね」
千草はアラストールの名前を、日本人風に解釈していた。悠二はその事に気付いていたが、敢えて訂正していなかった。おそらく千草の中では、アラストールは壮年期の男性として捉えられているだろう。
「それじゃあ」
シャナはそう言って、家の中には上がらずに、坂井家を後にした。
「シャナちゃん、また明日ね」
去っていくシャナの背中に、千草はそう呼びかけた。
悠二はそれを、どこか呆気にとられたような様子で見ていたが、
「悠ちゃん」
と、千草が、半オクターブ低い声で、彼女にしては珍しく、いくらか険のある口調で言ってくる。
「女の子に意地悪するのは駄目よ」
「ちょ、ちょっと」
嗜めるように言う千草に、悠二は、人聞きが悪いような気になって、慌てて声を出した。
「別に意地悪してるつもりはなかったんだけど……」
悠二は、困惑した表情でため息交じりに言う。
すると、それを聞いた千草が、こちらは盛大に溜息を吐いた。
「本当に、肝心な時に鈍いのは、貫太郎さんによく似てるのねぇ……」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
千草のぼやきに、悠二は、千草がどういう考えをしているのか気が付き、それを制するように、慌てた声を出す。
「シャナとは確かに……少し、特殊な友達の関係ではあるし……」
悠二は、言葉を選びながら、弁明するように言う。
「お互い、生徒と先生みたいな間柄だけど、別に
以前、シャナと一美についてさんざん邪推された経験から、きっぱりとそう言うことにしていた。第一、親だろうが友人だろうが、今の悠二はそういう勘違いをされては困るのだ。
「言っただろ、同級生の平井さんと、今正式に付き合ってるって」
悠二は、気恥ずかしさで顔を赤らめてしまいながらも、誤解させないようにハッキリそう言った。
あまりこう言うことを親に報告する高校生も多くはないかもしれないが、出会って以来、どこかシャナを寵愛しているような千草には、そう釘を差しておかないと、何を言い出すか解ったものではない為、ハッキリそう明言してあった。
「それでもね」
千草は、悠二の言っている事は理解している。しているつもりだが……
「シャナちゃんぐらいの女の子が、男の子になにかしてあげるっていうのは、特別なことなのよ」
「そう……なのかなぁ……」
悠二が困惑気に言う。千草も、それが理解できないわけではない。例えシャナの方に特別な感情があったとしても、別に本命の女性と交際している悠二としては、困ってしまうだけだろう。
千草とゆかりは、まだ直接の面識はないが、悠二が千草にその事を打ち明けた際、スマートフォンの画像でその姿を見せられている。また、悠二が時折行っているゲームセンター、そこに設置されているセガ fiz、一時期のブームは去ったが、かつて「プリクラ」の俗称で大流行したそれで、ハート型のフレーム付きでツーショットを撮影したシールが、悠二のスマートフォンの背面に貼ってあるのを、たまたま悠二がリビングのテーブルに置いていたときに目撃している。それは快活そうな少女が満面の笑みで悠二に抱きつきながら目線をカメラの方に向けていて、悠二もまんざらではなさそうに彼女を抱き留めているという、いかにもな構図だった。
── 難しいわね……私もまだまだ経験不足ってことかしら……
千草は、
少し時刻は下って ────
「はぁ……」
御崎大橋から西岸に渡り、住宅街に少し入り込んだあたり。
マージョリーは、精気のない表情で、少しふらつきながら歩いていた。
それは一見すると、前夜の飲酒によって摂取されたアルコールの、分解時の副生成物がまだ体内から抜けきっていない状態、所謂二日酔い、という状態にも見えた。だが ────
『おいおい、昨日はこんなになる程の量は呑んでないだろ、我が底ぬけの酒樽、マージョリー・ドー?』
巨大な本から発される声が、困惑半分呆れ半分といった感じで、マージョリーに言う。
「うるさい……わね、朝からこんなのばかり、見ていたら、体調だって悪くなるわよ……」
マージョリーは、息を継ぐようにしながら、少し憤ったように、その声に言い返した。
『まぁ、無理はないわな……俺だってこんな光景に出くわすとは思っていなかったしな。
男の声も、どこか落ち着かないといった様子で、潜めるようにしながら言う。
市街地でもさんざん見かけたが、住宅街に来てみれば、マージョリーの心を激しくかき乱す、 “銀の火の粉” を飛び散らせるトーチが、常に視界に、それも複数入ってくるような状況だった。
マージョリーは、いちど休憩を取れば気分を落ち着かせられるとは思っていた。しかし、新興住宅地のど真ン中で、ちょっと腰を下ろして落ち着けるような場所が見当たらない。
そのまま、重くなった身体を引きずるようにしながら歩き続けていれば、通勤・通学の為に行き交う人々からの衆目を浴びることになってしまう。
そんな状況だから ────
「あ、あの……大丈夫、ですか?」
と、マージョリーを心配して声をかけてくる者がいても、不思議ではなかった。
ただ、マージョリーと、その相手にとって不幸なことがあった。
マージョリーが、屈みかけてしまっていた位置から、声の主の顔を見上げる。その視線の先にいた声の主は、黒い長髪に、左右にヘアゴムでアクセントを付けた、高校のものと思しき萌黄色の制服姿の少女。
だが、その胸元には ────
それを目前に突きつけられる形になって、マージョリーの表情が歪む。
「え、えと……あれ? 日本語通じない……のかな……」
少女は、マージョリーが不快そうにしているということには気がついて、困惑して、誰にともなく呟く様に言った。だが、それさえもマージョリーには気に入らなかった。
「ふざけるんじゃ……ないわよ……」
「え……?」
その少女の考えに反して、日本語を口にしたマージョリーに、少女は驚いたような声を出す。
だが、マージョリーのその言葉と表情は、友好的とは程遠い様子だった。
「えと……あの……」
「“徒” に喰われた残り滓が! わざわざ私の世話を焼こうなんて考えるんじゃないっ……わよ!!」
『お、おい、マージョリー……』
男の声は、マージョリーを制しようとするが、既に彼女は核心の部分を口にしてしまっていた。
「喰われた……残り滓……私……が……?」
少女は、何を言われたのか、まだ理解ができていない、という様子で、困惑気な様子で、目をパチパチとしている。
「そうよ。他に誰が……いや、ここには結構いたわね……」
マージョリーは、多少落ち着きを取り戻し、姿勢を正しながらも、なおも不機嫌そうに言う。
「あの……それって……どういう……」
「ふん」
マージョリーが軽く手をふると、その右手の先から、群青色の、陽炎のような霧のようなものが、マージョリーとその少女を取り囲むように旋回し、見えない筒のようなものを形成していく。
「今……何を?」
少女が戸惑った様子で、あたりを少しキョロキョロとしてしながら言う。
『簡単な人よけの結界、っつーかおまじないみたいなものだな。周囲の人間がこっちを意識しないようにしただけさ』
「え……?」
その男声の言葉をハッキリ聞いて、少女は更に驚いた様子を見せる。
『俺は “蹂躙の
「は、はぁ……あの……私は……」
少女は、相手が名乗ったのだから、と、自分も名乗り返そうとしたが、マージョリーはそれを制するように手を降った。
「ああ、いいわ。別に知ったところで意味なんかないから」
「意味がないって……」
先程見せた激情な様子から一転、酷薄にも見えるマージョリーの淡々とした言葉に、少女は更に困惑する。
「言ったでしょう? 今のアンタは残り滓。本当のアンタは “紅世の徒” に喰われて、とっくに死んじゃってるの」
「死んでるって……え? でも……私は、ここに……」
少女は、笑みにも見えるように表情を引きつらせながら、マージョリーに訊き返す。
「だから、残り滓、よ」
マージョリーが言う。
『“紅世の徒” ってぇのはな、まぁ普通の人間から見りゃ、つまるところ “人喰いの化け物” なんだが、お前さんがイメージしているように血肉を喰らうんじゃなくて、その
「けれど、そうすると、その人間がいなくなったことで発生する
マルコシアス、と呼ばれた声の主が説明し、それにマージョリーが続け、そして少女の胸元を不躾に指差した。
「…………」
少女は、愕然とした様子で、マージョリーの指差す自分の胸元に視線を向ける。
「それじゃ、私、は…………」
『そうだな。今日いっぱい
「そん……な…………」
マルコシアスの言葉に、少女は呆然と立ち尽くす。じわっ、と涙を滲ませる。
「私……悠二……君…………っ」
「誰かを想って泣くなんて、トーチにしては随分な元気の良さね。普通は、 “この世の本当の事” を知ったトーチは、自身の運命に絶望して、発狂するか、自害してしまうものなんだけど」
トーチの少女が立ち尽くして静かに泣く姿に、マージョリーは、多少は感心したような声を出しつつも、すぐに呆れたような態度になった。
「別にアンタがどうなろーが知ったこっちゃないけど、せいぜい私達 “フレイムヘイズ” の邪魔にならないようにね。そうでないと、保つはずの間も保たなくなることになるかもしれない。ああ、脅しじゃないわ。全て