武蔵御崎駅前商店街。
「ご……主人……様」
店舗と店舗の間にある細い路地に、フラフラと彷徨う様に歩く存在があった。
猫…………ではなく、猫の縫いぐるみ、を、更に
「ご……主……人………さ……ま……」
その状態になってしまうと、本当にただの猫の縫いぐるみにしか見えなかった。胸元に鈴のついた愛らしい姿だが、あちこち煤けたり擦れたりして傷んでいる様子が、憐憫を誘う様でもある。
「!」
それを、1人の “普通の人間” が見つけて
「わぁ、かわいい!」
制服であるスモックを着た、幼稚園生の少女が、それを見つけると、両手でその前脚の脇の下を掬うようにして、拾い上げる。
その時、少女の親は彼女から目を離していた。だから、少女が小さな
「美香、行くわよー」
「はーい」
母親に声をかけられる。少女は猫の縫いぐるみを大事そうに抱えて、母親の呼ぶ方へと小走りに向かって行った。
「!?」
エポのブレーキをかける。タイヤが軽くスキール音を立てて、急停止した。
恵華は、ギアを抜きながら、辺りをキョロキョロと見回した。
「気配が消えた……消失したのかな?」
『いや……消える時の感じじゃない。一時的に活動が停止したから、気配がほとんどなくなっただけだ』
恵華は呟いたが、ペンダントの声がそれを否定する。
「── っ」
『ま、待って』
恵華がアクセルから手を話して指を頭上にかざすが、ペンダントの声がそれを制する。
『今、探索の自在式はまずいよ』
「くっ」
恵華は、視線を水平に近い位置に戻すと、再度周囲を見回す。
すぐ傍の低層商業ビルを見つけると、エポで走ってその近くに寄り、サイドスタンドでエポを駐め、そのビルの非常階段を上る。
「んっく、んっ……んっ……」
シャナは、スーパーの袋にパッケージ売りのチーズデニッシュを大量に詰め込み、行儀悪くもそれを食べながら、商店街の外れ、御崎大橋に近い辺りを歩いていた。
その表情は険しく、あからさまに不機嫌そうな様子だった。
『何を苛立っているのだ、シャナ』
「別に、苛立ってなんかない」
アラストールが問いかけるが、シャナは少し乱暴にそう言って、食べかけのチーズデニッシュに再びかじりついた。
── フレイムヘイズにとって、炎を扱うことは基本中の基本……
『その、かなりの業物らしい刀の力を借りて、ようやく内なる炎を呼び出している程度とはね』
フリアグネの挑発の言葉が、シャナの脳裏で再生される。
『どうしてって……だって、まずはそれができないと、複雑な自在法で使うような “存在の力” を制御出来ないだろ』
つられてリフレインする悠二の言葉までもが、自分を嘲っているように感じられた。
── どうして、私にはできないの?
自在法を使った戦い方が自身のスタイルではないことは、自負はしている。シャナの基本戦術は、 “王” をも圧倒する高度な体術、刀術を用いたものである。
それでも。
フレイムヘイズにとって炎を操る事が基本であり、それを思うようにできないことが、シャナ自身にとって癪に障っていることは事実だった。
これまでも炎を巧みに操るフレイムヘイズは何人か見てはいる。だが、それができる者は、シャナよりフレイムヘイズとしての経歴が長い者しかいなかった。
曰く、今年の初春にフレイムヘイズになったばかりという少年が、ホイホイと炎を操るのを見て、ネガティブな感情が、シャナの胸の内で膨らんでいた。
チーズデニッシュを頬張るが、美味しくない。と言うより、味がしない。
尚更機嫌を悪くしながら歩いているシャナが、
── ご主人……様!?
シャナとすれ違った時、その母子連れの娘が抱いていた猫の縫いぐるみが、突然異様な気配を放ち始めた。
「!」
咄嗟にシャナは顔を上げ、あたりを見回す。
「アラストール、これっ……!」
『はぐれ燐子か』
アラストールの言葉も緊張する。
シャナの意識のスイッチが切り替わった。
「きゃああああ!!」
シャナ自身が歩いてきた、その背後の方向から聞こえてきた。
シャナが振り返ると、そこには、その姿は猫の縫いぐるみだが、四足歩行のその高さだけで、成人男性の2倍はあろうかという巨体に膨れ上がったそれが、シャナの方に視線を向けている。
「なんで……今頃になって活性化を……」
険しい顔で疑問を口にしつつも、黒衣『夜笠』を纏う。
「ご主人……様……」
そう声に出す燐子の視線が、シャナの、特に右手を注視していた。
その中指には、火除けの結界を張ることのできる指輪、宝具『アズュール』が嵌められている。
これは悠二の攻性防壁『
「これに反応しているの!?」
言いつつ、『贄殿遮那』を
「あーん、うあぁーん!!」
「何、何なの!?」
その声に気付く。燐子の背後にへたり込んで泣きじゃくる少女と、それを庇うようにしている母親の姿があった。
── 不味い、封絶が……間に合わない!
母子の場所が燐子に近すぎる。封絶を張るための一瞬の隙に、その母子に累が及び兼ねない位置関係だった。
「ご主人様の宝具……フレイムヘイズ……狩って、御主人様に褒めてもらう」
意識が朦朧としているかのような声で呟きつつ、縫いぐるみの様だった燐子は、凶暴な猫の化け物のような姿になった。
シャッ
前脚が振りかぶられ、模った肉食獣の鋭い爪がシャナを襲う。
タンッ
「── っ」
シャナは路面を蹴って、それを躱す。勢い余った燐子の前脚が、街路樹を薙ぎ倒した。
「不味い……」
シャナは、母子を庇う位置に着地し、『贄殿遮那』を、防御するように、横に向けて構える。
以前のシャナなら、被害に構わず封絶を張り、
だが、今のシャナの頭からは、そのやり方は完全に抜け落ちていた。
ちらり、と、母子に視線を向ける。
子供は泣きじゃくり、母親は混乱しきった様子で、縋るような視線をシャナに向けている。
── これで守り通せないようなら、私は……
シャナは、声に出さずに呟きつつ、正面の燐子に視線を向け直した。
「アンタのご主人様なら、とっくに討滅されたわ! 今更力を集めても意味がないのよ!」
姿勢を立て直し、シャナの方を見てくる燐子に対し、シャナはそう声を張り上げた。
「ご主人……様……」
燐子は、シャナの言葉に反応した様子はなく、シャナの右手を注視してくる。
『駄目だ。もともと低級の燐子の上、 “力” が尽きる寸前で、まともな思考能力がない』
アラストールが言った。
── 一撃で仕留めるしかないけど、もし外したら……
シャナは、逡巡したために一瞬出遅れた。
ヒュッ
燐子は、今度は跳ね上がるように全身で飛びかかってくる。
「っ!」
シャナが身構える ────
ゴォッ
“明るすぎる水色” の光が、シャナの視界を満たす。
「ぐぁあぁぁぁっ、ぎゃあぁぁぁぁぁっ!!」
前脚を炎の壁に
そのシャナと燐子のちょうど中間の位置から、 “明るすぎる水色” の光を放つ、アナログ時計のムーヴメントを思わせる円形模様が広がる。 ──── 封絶。周囲が世界の因果から切り離される。
「
上方、やや斜めの方向から、無数の光弾が迸り、のたうつ燐子を穿ち、砕いた。燐子は断末魔を上げながら、 “明るすぎる水色” の光に侵食される形で分解し、薄白い霧のようになり、そのまま文字通りに霧散した。
「ふぅ……危ない危ない」
シャナの視線の高さより少し上の位置、スニーカーから噴き出す炎のような2対4翅の羽根を生やした、制服姿の悠二が、空中に
右手に『トライゴン』を握ったまま、左手で汗を拭う仕種をし、息を吐く。
シャナは、唖然としたように、姿勢を固めて悠二を見上げている。
「なんとか間に合ったよ、シャナ、有難う」
悠二は、いつものように、傍目からは何処か頼りなさ気な苦笑で、他意はなくシャナに礼を言った。
「別に……私は何もしてないわよ」
シャナは、不機嫌そうに言って、そっぽを向くように悠二から視線を逸し、そそくさと『贄殿遮那』と『夜笠』を
「へ?」
悠二は、シャナの言葉と態度の意図が理解できず、キョトン、としてしまっていた。
『どうやら、出遅れたみたいだね』
「うん」
低層ビルの屋上。ペンダントの声が言うが、恵華は、何処か心あらずといった感じで、その方向を見て呆然としている。そのままの姿勢で、自らの武具、『
『あの炎の色、 “頂の座” じゃないか。どうしてこんなところで、しかもフレイムヘイズなんかに……』
ペンダントの声は言うが、恵華は、それが聞こえていないかのように、
『聞いてないね。まぁ、無理もないか。私も驚いているよ』
恵華の視線の先には、燐子に薙ぎ倒された街路樹の前で、腕組みをして何かを考え込んでいる少年とともに、服装以外、自分とほぼ
「あの姿 ──── そんな、まさか、だよね……────」
パタッ
QN401のフリップが倒れ、PM7:32を表示した。
AIWAの旧いダブルカセットデッキの第2側がテープを再生し、その上に載った、パナソニック製ボディにソニー製スピーカーを繋いだステレオコンポから、スローテンポではないが、穏やかな音楽が流れている。デッキの電光式レベルメーターが揺れている。
「はーぁ」
入浴と食事を終えて戻ってきた悠二だったが、学習机の椅子に腰掛けて、両腕で肘を突いて顔を支えるようにしながら、疲れたようにため息を
「平井さんには “この世の本当の事” を知られちゃうし、シャナの態度は変だし、はぐれ燐子は出るし、封絶間に合わなくて街路樹はああなっちゃうし、なんか今日はとことん厄日だなぁ」
誰にともなくぼやく。
『そう言う日もあります』
ヘカテーが、珍しく慰めるように、穏やかさを感じさせる口調でそう言った。
「あ! どうせだからまた『上海亭』に寄ってくればよかったかな」
悠二は、パチン、と右手で指を鳴らして、悪戯っぽい笑顔でそう言った。
『悠二、フレイムヘイズの性質をそのように使うのは感心しません……』
たまに親心を見せてやったらこれか、と、ヘカテーが呆れ返った声を出した。
「冗談だよ、冗談」
悠二は、笑いながらそう言った。だが、その後で顔から笑みが消え、またため息が出る。
「さてと、シャナが来るまで一休みしようかな」
悠二はそう言うと、椅子から立ち上がり、この部屋に置きっぱなしになっている布団を広げて、その上に寝転がった。
ベッドは、今はフリーだが、シャナがそこで寝起きしていると思うと、その中に入るのは、なんとなく躊躇われた。
音楽を流したまま、悠二は、精神の疲れが身体に回ってきたような気怠さを感じ、そのままうとうとと微睡み始めた。
パタッ……
「────……ん、あれ……?」
悠二は、覚醒しかけの状況で声を出すと、布団の上で上体を起こした。
「すっかり寝ちゃったな……」
悠二が、誰にともなく言いながら、ベッドの枕元に置いてあるQN401に視線を向けると、PM11:26を表示していた。
「え? あれ?」
悠二は、不思議そうな声を出しつつ、立ち上がる。
「ヘカテー、もしかして、シャナ、来てたの?」
悠二は、やってきたシャナが、自分が寝こけていたのを見て、怒って去って行ったのかと思い、少し慌ててヘカテーに問いかける。
『いえ、こちらには降りてきていません』
「え? どういう事?」
ヘカテーの言葉に、悠二は、一瞬気が抜けてしまったような顔をしてしまいつつ、再度問いかける。
『来てはいるのですが、こちらには顔も見せていません』
ヘカテーのその答えを聞いて、悠二が自身で気配を探ると、確かに部屋の天井越しに ──── 屋根の上にシャナが居るのが解った。
「どうしたんだろう?」
悠二は、多少訝しく思いつつ、掃き出しのサッシを開けてベランダに出ると、軽く跳躍、手すりを踏んで、そのひさしに手をかけ、再度跳躍して、屋根の上に乗った。
すると、以前のように、シャナがテレビアンテナの横で、屋根の頂点に腰掛けていた。不機嫌そうにむすっとした顔をし、悠二の存在に気付くと、ぷいっ、と、そっぽを向いてしまう。
「えっと……ひょっとして、僕が寝てたから怒った?」
「知らない」
悠二が申し訳無さそうに言うが、シャナは、悠二から視線を逸したまま、短くそう言った。
「ごめん、なんか疲れてたみたいでさ、一休みのつもりで横になってたら……」
「だから、知らないって言ってるでしょ!」
悠二がさらに言い訳しようとするが、シャナは、その言葉を遮って、癇癪を起こしたように、荒く声を張り上げた。
「え……うん……」
とりつく島もない様子のシャナに、悠二は曖昧な返事を口にする。
「それじゃあ、今日の修練は……」
「もういい」
悠二は、なんとか会話を続けようとして切り出すが、シャナはそれも遮って、低い声で短くそう言った。
「え…………?」
悠二は、一瞬、事態を把握しかねて、間の抜けた声を出してしまった。
「もういいって言ってるの!」
シャナは、念を押すかのように荒い口調でそう繰り返した。
「もともと、私はそう言う、細かい自在法とか嫌いなの!」
幼い子どものわがままのように、シャナは乱暴な口調で言い切った。
「好き嫌いの問題じゃないと思うけど……」
悠二がつい、思ったままを口に出したのを、シャナは、耳ざとく聞きつけると、
「う、うるさいうるさいうるさい!」
と、顔を紅潮させながら、荒い声で言う。
「わ……解った、とりあえず、今日はなしってことで……────」
「これからも、ずっとない!」
悠二は宥めるような口調で言ったが、シャナは、その言葉も遮って、俯いてうずくまってしまった。
「…………部屋の鍵は、開けとくから」
そう言って、悠二は、少し後ろ髪を引かれるようにしつつも、ベランダに降りた。
『悠二』
そこで、ヘカテーが言う。
『いつ、 “紅世” のものがアナタやこの街を狙ってくるか解りません。その時に備えておく必要はありますよ』
「解ってるよ、でも、しょうがないだろ、やりたくないって言ってるのを、無理にやらせてもしょうがないんだし」
ヘカテーに対して答えながら、悠二は、掃き出しの窓から部屋に入る。シャナに言ったとおり、サッシの鍵はかけない。
『それは……そうですが』
ヘカテーも、少し戸惑ったように言う。
「ああ、今日はなんだかわけの解らないことだらけで、本当に疲れたよ……今日は、僕も早めに休む……いいよね、ヘカテー」
悠二は、別にそんなことはないはずなのに、なんだか後ろ暗い気がして、わざわざヘカテーに同意を求めた。
『そうですね、いいと思います』
ヘカテーは、あっさりとそう言った。
QN401の表示は、まだPM11:54だった。