斎藤家の愚息   作:熊田ラナムカ27

27 / 57
27 誰が為の嘘か

 

 

 

 あの日の血の匂いが脳裏を過ぎる。

 

 冷たくなっていく手の感覚が蘇る。

 

 怒りと憎悪が溢れ出して全身を覆う。

 

 胸が苦しい。手の震えが止まらない。

 

 自分が自分でなくってしまいそうになる。

 

 それでも俺は正気をギリギリで保った。

 

 暴れ出す自らの感情をコントロールする。

 

「お前の取るべき選択はたった一つだ。俺が最も嫌悪する最低最悪の選択だ。お前は……自分に嘘をつけ

 

 あの日の夜に真はそう言った。

 

 その顔には一切の感情が宿っていなかった。

 

 まるで仮面を被ったかのようだった。

 

 本当に同じ人間か疑いそうになった。

  

「噓は何故あると思う?人は何故嘘をつくと思う?」

 

「………自分を守る為じゃないのか?」

 

「それも答えの一つだ。だが、俺は自分にとっての大切なものを守る為に、愛する為に、人は嘘をつくと思ってる。俺から見たアイは少なくともそうだった」

 

 そう語る真の顔には感情が戻っていた。

 

 もしかしたら手本のつもりだったのかもしれない。

 

 俺が()だった頃からアイは確かにそうだった。

 

 アイにとって嘘はとびきりの愛だった。

  

「俺はお前に生者であり続けろと言った。これはその言葉を裏切る選択。自分から亡霊になる選択だ

 

「………自分から亡霊になる。残酷な選択だな」

 

「ああ、そうだ。自らを見失い狂気そのものとなる事で狂気を完全に支配し、偶像に成り果て虜にした者を意のままにする。何もかもを騙し切ってやるんだよ

 

 俺は真の提示した選択に言葉を失した。

 

 真が演技をしない理由が分かった気がした。

 

 この選択は確かに誰も彼もを虜にする。

 

 その代わりに自分を別の何かに変えてしまう。

 

 元々あった生き方も人格も全て歪めてしまう。

 

 この選択はまるで甘い猛毒だ。

 

 飲んだ者を人とは呼べない何かに変えてしまう。

 

「怖いか?当然の反応だ。嘘の根幹にあるのは優しさだ。この選択はその優しさを歪める。何の為に生きているかも、誰の為に嘘をついたかも忘れさせて、嘘をつき過去の為に生きて、渇いた心を癒そうとする醜悪な存在に自分を作り変える。はっきり言って外法だ」

 

 その言葉には強い実感が籠っていた。

 

 まるで自らが経験したような言い方だった。

 

 後悔と無念がそこにはあった。

 

「……まぁ、お前は大丈夫だろうけどな。この選択を選んだとしてもお前は真の意味で亡霊にはならない」

 

「そうは思えないけどな。俺は強い人間じゃない」

 

「重要なのは強いか弱いかじゃない。自分にとっての大切なものを見失わないかどうかだ。それを見失わない限りお前は生者に戻れる。自分のままでいられる」

 

 真はそう断言すると俺の胸を強く叩いた。

 

 頭の奥でルビーや有馬、MEMちょ、ミヤコ、社長。

 

 そして最後にあかねの顔が思い出された。

 

 何があろうと絶対に失いたくないもの。

 

 何があろうと絶対に手を放したくないもの。

 

 そんな存在が確かに俺にはある。

 

 目の前にいる真もその一人だ。

 

 俺は一人で生きてる訳じゃない。

 

『待たせたな。気の済むまで演技を楽しもうぜ』

 

『いいぜ。乗ってやるよ。全部ぶつけてこい』

 

 役者同士は動きだけで語り合える。

 

 姫川は前にそう言っていた。

 

 言葉がなくてもお互いの言いたい事が分かる。

 

 姫川がブレイドの役を演じていて良かった。

 

 これで俺も抑え込む必要がなくなった。

 

 狂気そのものになる事が出来る。

 

 俺とブレイドは互いに雄叫びを上げた。

 

 冷たい氷の演技と熱い炎の演技がぶつかり合う。

 

 これまで存在した対比構造を壊し尽くす。

 

 どちらの演技が上か下かを証明しようとする。

 

 自らに渦巻く激情を容赦なくぶつける。

 

 幾度も鍔迫り合いをして火花を散らす。

 

 自分が自分じゃないみたいに演技が楽しい。

 

『それで良い訳ないだろ。もっと苦しめよ』

 

 俺の視界に黒く歪んだ姿をした何かが現れる。

 

 アイツは俺のことを厳しい目で睨んでいる。

 

『そこをどけ。悪いが演技の邪魔だ』

 

『有馬かなに光を見たか?黒川あかねと出会って理解者を得たと思ったか?真のお陰で変われたとでも?』

 

『五月蠅いんだよ。黙れ』

 

『このまま全て忘れて恋とか青春とか楽しい人生を送りたいと思ったか?許さねぇよそんなの』

 

 アイツはあの時のアイの姿を見せた。

 

 怒りと恨みの感情が更に溢れ出す。

 

 それでも演技を楽しむ事を止めない。

 

『忘れる訳ないだろ。忘れられる訳ないだろ。俺はアイを救う事が出来なかった。何も出来なかった』

 

『それを理解して何故演技が楽しめる?お前にそんな権利はねぇんだよ。幸せになる権利はねぇんだよ』

 

『お前?違うだろ。お前は俺だ。かつての僕だ。無力で何も出来なかった後悔に焼かれる俺自身だ』

 

 アイツの黒く歪んだ霧が消えていく。

 

 そこに居たのは幼い頃の俺だった。

 

 瞳の奥に黒い星を宿して俺を睨んでいる。

 

 あんな顔をしていたのかと思わず笑ってしまった。

 

『悔しいよな。悲しいよな。たった一度で良いからアイの声を聞きたかった。だが、アイは蘇らない』

 

『だから僕を見ないフリするの?自分に嘘をついて苦しくないフリをするの?罪悪感を無視するの?』

 

『それが正しいかは分からない。けど、本当は芝居が楽しいんだ。その気持ちを隠す事はもう出来ない』

 

『馬鹿だよ。その芝居の為に君が吐き出した感情は紛れもなく本物だ。目を逸らしたくなるくらい醜い。いくら嘘ついてもそれを受け止めてくれる人はいない』

 

 俺の演技が一瞬ブレイドに押された。

 

 生じた隙を狙わないほど姫川は甘くない。

 

 どうにか立て直すがそれでも巻き返せない。

 

『………わかってる。馬鹿な事をした。取り返しのつかない事をした。あかねは俺を……見捨てるかもな』

 

『いくら吐き出しても僕は消えない。君の怒りも恨みも消える事はない。本当に………馬鹿な奴だよ』

 

『ただ笑顔見たかったんだ。姫川に勝ってあかねに笑って欲しかったんだ。こんな選択を……するくらい』

 

 人間はつくづく合理的じゃない。

 

 何度だって都合の良い夢ばかりを見る。

 

 ご都合主義の奇跡が起こる事を願う。

 

「これで終わりだ!頭を冷やせ!!」

 

「まだ………まだだッ!俺は………ッ!!」

 

 その身に負った傷の痛みを忘れて刀を振る。

 

 しかし、僅かにブレイドの方が刀を振るのが早い。

 

 俺の刀は弾き飛ばされて宙を舞った。

 

「うあぁ、あぁあ………がああぁあぁッ!!」

 

「死に急いでんじゃねぇ!!このバカ野郎がぁ!!」

 

 獣のような唸り声を上げて俺は飛び掛かる。

 

 そんな俺をブレイドは自らの拳で殴り飛ばした。

 

 地面に叩きつけられて体が何度か跳ねる。

 

 立ち上がろうとするが腕も脚も動かない。

 

 どうしようもなく悔しくて涙が流れた。

 

「戦いは終わりだ!怪我人を医者に連れて行け!」

 

 ブレイドは必死な形相で強く叫んだ。

 

 鞘姫をどうにか助けたいと思ったのだろう。

 

 手遅れだと本人も分かっているはずなのに。

 

「遅いよ。失血が多すぎる。鞘姫は助からない」

 

「諦めてんじゃねぇ!何かないのか!?」

 

「………ある。助ける方法がたった一つだけ」

 

 つるぎは鞘姫の『剣』を見せた。

 

「この子の『剣』は傷移しの鞘。自分が負った傷を配下に移し替える事の出来る支配者の力。それをこの子は仲間の傷を自分に移し替える事に使っていた」

 

 両陣営の剣士達に動揺が走った。

 

 この力は使い方次第で敵を簡単に葬れる。

 

 やろうと思えば全ての傷を敵に移す事も出来た。

 

 それなのに鞘姫はそれを最後まで実行しなかった。

 

 敵も味方も生かす為に力を使ったのだと理解する。

 

「もしかして初めから自分の犠牲で戦いを………」

 

「戦いが終わって体のどこも痛くないのは初めて。敵にここまで情けを掛けられたのは初めてなのよ」

 

 つるぎはブレイドに鞘を差し出した。

 

 俺は願うような面持ちで鞘姫を見た。

 

 ブレイドは鞘姫の刀を手に取る。

 

「まったく………」

 

「この鞘の本来の使い方はこういう事だろ!!」

 

 鞘と刀が一つとなり光を放った。

 

 ブレイドとつるぎの体に鮮血が走った。

  

 その代わりに鞘姫の傷が治癒していく。

 

 2人が身代わりとなっている事は明白だ。

 

 永遠かのように思える時間が過ぎた。

 

 光が収まりブレイドとつるぎが膝をつく。

 

 俺は鞘姫の傍に駆け寄った。

 

 彼女の傷は痕すらなく消えている。

 

「ひ……め………?」

 

 俺の声は演技抜きに震えていた。

 

 あかねに嫌われたと確信していたからだ。

 

 彼女はゆっくりと目を開ける。

  

「とう……き………?」

 

 俺は彼女のことを抱きしめた。

 

 色んな感情で胸がぐしゃぐしゃだった。

 

 そんな俺を鞘姫(あかね)は抱きしめ返す。

 

「私はずっと………傍に居るよ」

  

 その言葉に思わず目を見開いた。

 

 俺にしか聞こえない本当に小さな声。

 

 それでも確かに聞こえた。

 

 何度だって都合の良い夢を見た。

 

 ご都合主義の奇跡が起こる事を願った。

 

 あの笑顔がまた見たいと心から思った。

 

 そんな叶うはずない夢が………ようやく叶った。

 

「うあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

 鞘姫(あかね)を抱きしめ号泣し泣き叫んだ。

 

 もはや演技とはとても言えない。

 

 役者としては失格もいいところだ。

 

 そうだとしてもこの手は絶対に放さない。

 

 舞台『東京ブレイド』はこうして幕を閉じた。

 

 拍手に包まれて役者達は楽屋の方に移動する。

 

 メイクを落として衣装を着替えて椅子に座る。

 

「お疲れさん。中々に悪くない演技だったぞ」 

  

 そんな俺のところに真は来た。

 

 楽屋には俺以外の人間はいない。

 

 あかねは俺を心配していたが一人になりたかった。

 

 色んな感情を一度整理したかった。

 

「お前と話したいことがある。大事な話だ」

 

「ああ、わかってる。俺も話をしたいと思っていた」

  

 そんな俺の言葉に真は応えた。

 

 しばらくして俺達はある飲み屋に来ていた。

 

 他の役者達からの誘いを断り切れなかったからだ。

 

 舞台人は飲み会好きというが本当らしい。

 

「だからね!役者も一人の作家であるべきなのよ!その場その場でミスしないように演じるんじゃなくて!作劇的な盛り上げに加担しなきゃいけないわけ!」

 

「誰だよ。あの馬鹿に酒飲ませた奴」 

  

「誰も飲ませてないよ。雰囲気で酔ってるだけ」

  

「アイツを酒飲みにしたら終わりだな」 

 

「こらぁ!私を除け者にする気か!?浮気者共め!」 

 

「うっせぇ黙れ。酔っぱらいは大人しく寝てろ」

 

 俺達は絡む有馬を部屋の隅に追いやった。

 

 ちなみに有馬が一番飲み会を嫌がっていた。

 

 そんでもって一番飲み会をエンジョイしてる。

 

 手のひら返しの速度が凄まじい。

 

 クズはこの醜態を写真に収めてやるな。

 

 あかねもそれに加担しようとするな。

 

 最近妙に仲良くなったと思えばこれだ。

 

 やっぱり仲良くなるのを止めるべきだった。

 

「星野。良い芝居だった。今回の舞台は一段と化ける奴が多い舞台だったが、お前の化けっぷりは特に目を見張るものがあった。このまま千秋楽まで気張れ」

 

「ありがとうございます」

 

 俺と金田一さんは席が隣だった。

 

 前の席には姫川さんもいる。

 

 真の仕込みを疑ったが偶然らしい。

 

 姫川さんは金田一さんに酒を注ぐ。

 

「お前の事は途中何回か外そうか迷ったんだけどな。倒れた後からのお前は人が変わったみたいに面白い演技をしてた。どんなカラクリであんなに変わった?」

 

「企業秘密です。こればっかりは」

 

「黒川が関係してるのは察するけどな。アイツの演技の変貌っぷりも相当だった。もしかしてあれか。お前と黒川は彼氏彼女だしそういうあれで………」

 

「違います。一つも合ってません」

 

 俺は思わず姫川さんを強く睨んだ。

 

 高校生相手にそんな事はしない。

 

 これでも前世は産婦人科医だ。

 

 そもそもキスすらしていない。

 

「お前のマネージャーの懸念は取り越し苦労だった訳だ。アイツもお前が舞台に立つことに否定的だったからな。お前のことを心配したからこそだろうが」

 

「………真が舞台に立つことに否定的だった?」

 

「今だから言える事だけどな。お前を外すことを提案したのはアイツだ。演技中に倒れる事を予期していたんだろう。稽古中のアイツは常に神経を張っていた」

 

「アイツがそんな事を………」

 

「お前の最後の演技は生きた感情が乗ってた。何か事情がある奴の演技だった。俺は養護施設出身でさ。金田一さんに何かと面倒見てもらってなかったら多分壊れてた。才能がある奴はその分だけ壊れやすい。そういう意味じゃ斎藤マネは良い兄ちゃんだ」

 

「………酒を飲んだせいで余計なことを言った。酔っぱらいの戯言だと思って忘れてくれ。お前等だけと話すのもあれだな。他の奴等のところを回ってくる」

 

 金田一さんは席を立って別の場所に行った。

 

 整理していた感情が自分の中で騒ぎ出す。

 

 真がするりと席を抜け出すのが見えた。

   

 アイコンタクトで付いて来いと言っている。

 

 適当な理由をつけて俺も席を抜け出す。

 

「アクアくん!その………なんていうか」

 

 あかねは俺の跡を追い駆けて来た。

 

 アイツと仲が良くなったのはそういう訳だ。

 

 これまであった疑念の全てに説明がつく。

 

「心配するな。少し話をするだけだ」

 

「真さんは………アクアくんのことを────」 

 

「言わなくていい。もう全部わかってる」

 

 あかねは何処か不安げな顔になった。

 

 つくづく心配を掛けてしまっていたようだ。

 

 そんな顔をさせるつもりはなかった。

 

「これだけは言っておく。俺はあかねが鞘姫で良かったと思ってる。あかねが彼女で良かったと思ってる。これは嘘なんかじゃない。紛れもない本心だ」 

 

 あかねはその言葉に頬を赤く染めた。

 

 やっぱりあかねは笑ってる姿が一番似合う。

 

 この笑顔をずっと見たいと思う。

 

「そっか。じゃあ私は………帰りを待ってるね」

 

「ああ、待っててくれ。直ぐに戻る」

 

 俺は振り返らずそのまま前に進んだ。

 

 店の外まで行くと真はベンチに座っていた。

 

 真は何処か遠くを見つめている。

 

「よっ。来たか。俺の嘘に気づいたらしいな」

 

「なら早速聞くがお前は何時から俺を騙してた?初めからずっとか?お前の言葉は全て嘘だったのか?」

 

「ああ、そうだ。初めからずっとだ。だが、全部が全部嘘ってわけじゃない。社長にはなりたいと思ってるし、犯人の事はそれなりに憎んでる。可能なら犯人の事は相応に苦しめてもやりたいとも思ってる。騙していて悪かったな。俺のことが憎いか?」 

 

「別に。お前のことはクズとしか思ってない」 

 

 俺は自分でも驚くほど極めて冷静だった

 

 騙されたはずなのに怒りの感情はなかった。

 

 本当は頭の何処かで気づいてたのかもしれない。

 

 騙される事で救われていたのかもしれない。

 

「お前の言いたいことはわかってる。復讐なんて何にもならない。アイが蘇ることは絶対にない。わかってるんだよ。それでも………俺は犯人を許せない」

 

「許す必要なんてないだろ。俺だって許したことは一度もない。口には出さないが母さんや父さん、ルビーだって同じだ。あんな外道は地獄に落ちるべきだ」

 

「大切な誰かが死ぬのが怖い。失う事が怖い。今度また同じ事が起きたら………俺はきっと耐えられない」 

 

「死なさねぇよ。誰一人だって死なせてたまるか」 

 

 ずっと隠していた心の内が露わになっていく。

 

 自分でも気づけなかった本音が漏れ出していく。

 

 逆巻く感情の渦を止めることが出来ない。

 

「お前はどうして此処に来た?わざわざ俺と話に来た?自分がどうしたいか本当は分かってるんだろ?」

 

「………そうかもな。でも、分からないんだ。俺の怒りや憎しみは消えていない。この先もずっと消えることはない。そんな俺が………それでいいのか」 

 

「お前は難しく考えすぎなんだよ。怒りや憎しみは誰の心にも存在する。元々あった感情を消せる訳がない。消す必要もない。その感情と正しく向き合えればそれでいい。誰にだって隠したいものくらいある」 

 

 その言葉は否定でも肯定でもない。

 

 ただ静かに選択を提示しただけだった。

 

 真の瞳は光を失い闇を映し出す。

 

 今はもう底なしの闇に恐怖は感じない。

 

「アクア、お前は犯人を許さなくていい。怒りや憎しみを消さなくていい。代わりに自分を許してやれ。過去を抱えながら今を生きて未来を掴め。お前にあるのは悲しみの選択肢じゃない。幸せの為の選択肢だ」

 

 その闇の奥底で俺は自分の気持ちに気付いた。

 

 大切な人達と笑って生きたいだけだとわかった。

 

 普通に生きて幸せになりたいと思った。

 

 子供のように泣きじゃくりそうになった。

 

 止まっていた時間が音を立てて動き出す。

 

「最後に教えろ。何でこんな事をした?お前は聖人でも何でもない。俺を止める義務はなかったはずだ」

 

 俺は涙を堪えてどうにか聞いた。

 

 これだけは聞いておく必要がある気がした。

 

 真は再び何処か遠くを見つめる。

 

「アイの奴と約束したんだよ。お前達の兄ちゃんでいてやるって。何の縛りもないただの口約束だ。それでも俺は約束した。兄ちゃんってのは弟や妹の幸せを願うもんだ。約束を破る訳には………いかないからな」

 

 それだけ言うと真は一人で中に戻った。

 

 今日の夜空はアイと見た夜空とそっくりだった。

 

 真の瞳の奥にあった闇の色とそっくりだった。

 

「………そうか。ずっと傍に居てくれていたのか。守ってくれていたのか。母さんも兄ちゃんもズルいな。ありがとうの一つも………言わせてくれないなんて」

 

 俺は結局何も果たすことが出来なかった。

 

 ただ騙されて時間を棒に振っただけだった。

 

 でも、それで良かったのかもしれない。

 

 そうでなかったらアイの思いに気づけなかった。

 

 自分の気持ちに蓋をしたままだった。

 

 俺にとって演じる事は………この為にあった。

 

 もう涙を堪える事は出来なかった。

 

 今まで溜め込んだ涙の分だけ俺は泣き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

♦♦♦

 

 

 

 

 

 

 

 

(俺の共犯者としての仕事はこれで終わりだ。これからどうなるかは見当もつかない。この先の選択はアクアが一人で選んでいくものだ。俺が出る幕はない)

 

 アクアと別れて俺は宴会場に戻ろうとしていた。

 

 その足取りは重くゆっくりだ。

 

 俺は自分の選択に不安しかなかった。

 

 これで本当に良かったのか分からなかった。

 

 この物語の元々の内容を俺は知らない

 

 俺というイレギュラーで物語は歪んだ。

 

 もしかしたら悪い結果に繋がるかもしれない。

 

 それでも俺はこの選択を選んだ。

 

 何があろうと約束を守ると誓った。

 

 この選択に後悔は欠片も存在しない。

 

(それなのにやっぱおっかねぇな………)

 

 俺は何処まで行っても臆病で弱い人間だ。

 

 どうしようもなく選択することが恐ろしい。

 

 俺は間違えてはいけない選択を間違えた。

 

 アイを生かす選択を選べなかった。

 

 もっと良い未来も選択もあるはずだった。

 

 それを奪い去ったのは紛れもなく俺だ。

 

 自分の選択が誤りだったときが恐ろしい。

 

(それでも………この姿は誰にも見せてやらない)

 

 つくづくとんでもない約束をしたものだ。

 

 兄ちゃんでいるってのは簡単じゃない。

 

 彼奴等が見るのは強い俺の姿だけでいい。

 

 彼奴等の選択の邪魔になるものはいらない。

 

 彼奴等の人生はもう二度と傷つけさせない。

 

 それが生まれて初めてした俺の選択だ。

 

 嘘とハッタリで死ぬまで全てを騙し切る。

 

 自分以外の何もかもを欺き続ける。

 

 罪を背負っていくのは、俺だけでいい。

 

「こらぁ!アクア共々何処行ってたのよ!黒川あかねにいくら聞いてもまともな返事が返ってこないし!」

 

「寝てろって言ったろ酔っぱらい。未成年のクセにジュースで酔いやがって。思い込みが激し過ぎるだろ」

 

 宴会場までの道の途中に有馬は居た。

 

 顔を真っ赤にして俺に絡んできた。

 

 酔っぱらいの中でも一番面倒なタイプだ。

 

 わざわざここまで歩いてきたらしい。

 

 黒川の様子がおかしい理由は見当も付かない。

 

 正確に言えば見当を付けたくない。

  

 どうせアクア絡みに決まっている。

 

「ああ、くっそ!私に演技で負けた癖に正妻顔か!そっちの戦いはあっちの勝ちってか!凄く腹立つ!」

 

「それに関しちゃ同情するが静かにしろ。他の客に迷惑だ。愚痴が言いたきゃ自分の家の壁にでも言え」

 

「それを聞くっていう発想はないのかクズ!何が虚しくて壁に向かって愚痴を言わなきゃいけないのよ!いつも役に立ってないんだからこれぐらい役に立て!」

 

「自分の仕事はキッチリやってる。自己中女に付き合うほど暇じゃねぇんだよ。自分で歩け酔っぱらい」

 

 俺は有馬を引きずってどうにか歩いた。

 

 こうでもしないと動かなかった。

 

 こんな姿が世間に見られたら終わりだ。

 

「アクアの最後の演技を引き出したのはあかねだった。あの時のあかねは異質だった。鞘姫の他に自分と誰かの思いを演技に乗せてた。私には真似出来ない」

 

「………寝てろって言ったろ。演技じゃお前が間違いなく勝ってた。最後のあれに関しては運が悪かった」

 

「それだけだったら良かったわよ!一番腹立つのはその後よ!アクアの演技を見て安心してたのよ!誰でもない私自身が!これでいいんだって思ったのよ!」

 

 有馬は次第に涙を流し始めた。

 

 こいつお得意の泣き演技じゃない。

 

 心から悔しくて悲しくて泣いている。

 

「アクアのあんな笑顔……初めて見た!黒川あかねになら譲っても良いって思った!私だってアクアが好きなのに……これでいいんだって思っちゃったのよ!」

 

 こいつの感情が直にこっちまで伝わってくる。

 

 悲しみと安堵の矛盾した感情が渦巻いている。

 

 そんな有馬に俺は何もしてやれない。

 

 ただ泣いているのを見ている事しか出来ない。

 

 これだから入れ込むのは駄目なんだ。

 

「………今回の仕事でお前の役者としての復権は確約された。契約も最低限果たし終えている。今直ぐとは言えない。………だが、辞めてもいいんだぞ?」

 

 どうしようもなく感情的になってしまう。

 

 これっぽちも合理的じゃない選択をしてしまう。

 

 とんでもない程のお人好しが移ってしまう。

 

 我ながら本当に馬鹿なことをしている。

 

「………ふざけんな。辞めないわよ。契約をしたのは私自身。どうするか決めるのも私自身。こうなったら続けてやるわよ。私の夢は………まだ叶ってない」

 

 そんな甘い選択を有馬は選ばなかった。

 

 苦しさも悲しさも抱えたまま立ち上がった。

 

 俺もつくづく………馬鹿な奴だ。

 

 こいつがそんな奴じゃない事は知っていた。

 

 それなのに一時の感情に振り回された。

 

 俺と有馬は全く違う人間だ。

 

 こいつは選択することを恐れない。

 

 虚勢を張っているだけの俺とは違う。

 

 何処までも明るく暗闇の中でも輝いている。

 

 まるで星のように煌めいてとても眩しい。

 

「黒川あかねなんかに惚れた事を後悔させてやるんだから。アンタも今に見てなさい。推し変させてやる」

 

「俺の推しはこの世でフリルとMEMちょとぴえヨンだけだ。お前みたいな泣き虫が座る推しの席はない」

 

「誰が泣き虫だ。アイドルの貴重な涙を見れて寧ろありがたいと思え。というか最推しが3人って多いな」

 

「最推しはいくら増えても問題はない。全員同じぐらい全力で推している。わざわざ比べる必要はない」

 

「浮気癖が単純に激しいだけだろ。馬鹿じゃないの。アンタみたいなクズに推される3人に深く同情する」

 

 俺と有馬は互いを強く睨んだ。

 

 こればっかりは譲るつもりはない。

 

 俺の推しに対する気持ちに一切の曇りはない。

 

 どんな推し方をしようと俺の勝手だ。

 

 推しは推せる時に推すに限る。

 

「アンタも恋の一つや二つすればいいのに。私はアクアを好きになって良かったって思うわよ。それがどんな結末でもね。未練はまだたっぷりとあるけど」

 

「未練あるのかよ。俺は一生独り身でいいって何度も言ってるだろ。それが一番気楽だ。とてもじゃないが誰かを愛するなんて俺には出来るとは思えない」

 

 有馬の言葉に俺は思わず渇いた笑いを浮べた。

 

 愛なんて曖昧で本当にあるかすらも怪しい。

 

 そんなものに縋れるほど俺は人が出来ていない。

 

 答えは前世からとっくに出ている。

 

 俺が黙っていると次第に静かになった。 

 

 有馬は遂に俺の腕にもたれかかって寝た。

 

 本気でそこら辺に捨てていくか真剣に迷った。

 

 数秒程迷った後に俺は有馬を抱き抱えて運んだ。

 

 その後宴会場の隣の空き部屋に放り込んだ。

 

 飲む会が終わる頃には勝手に起きているだろう。

 

 アイドルとしての自覚が全く足りない。

 

「これだから推すに推せないんだよ馬鹿が」

 

 こうして一先ず舞台の幕は下りた。

 

 しかし、大団円も日が過ぎれば日常。

 

 その後も繰り返し日々は巡っていく。

 

 昼の時間は終わり夜の時間はやって来る。

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。