頭領の息子 柏島歓喜
俺の親父は、裏社会の
本人からの説明が無くとも、物心がついた時から自分は薄々と事の重大さに勘付いている節があった。
その印象を特に強めたのが、県外への就職が決まって自立を控えたある日の出来事にあった。
「
女性的な調子で色気を伴う男性的な声音。所謂“オネェ”である親父は、トレーニングルームで軽く汗を流していたこちらへと神妙な面持ちを向けてくる。
「どうかしたの?」
「少し、
「話?」
まず、親父から姿を見せること自体が珍しかった。自分はトレーニングを切り上げて、タオルで汗を拭いながら向かい合う。
「心配ならしなくても大丈夫だよ。親父には昔から格闘術とかみっちり叩き込まれたし、何かしらの危ない目に遭っても物理的に対処できる自信はあるから」
「頼もしく成長したわね。さすがは私の自慢の息子、お父さん嬉しくなっちゃう」
「格闘術の特訓とかは、最初こそ親父に強制されて渋々だったけどね。特に荒事は好きじゃなかったし。でも、人間社会で色んな理不尽を経験していく中でさ、親父が掲げる理想の“いずれできる大切な人を護るための力”という意味を、歳を重ねる毎に体感で、スッと腑に落ちるように呑み込めるようになったんだ」
トレーニングルームの隅、部屋を見渡せる広々とした位置に置かれた棚へと視線を投げ掛ける。
そこに飾られた女性の写真に、熱く、そして切ない想いを馳せらせる。
……赤子だった自分には記憶の無い、若き時代の母親の姿。顔も声も覚えの無い彼女の腹から自分が生まれ、その事実のみを残して母親は突如、失踪した。
20年の時が経過した今でも、行方は依然として知れない。尤も、幼過ぎた故に母親の記憶が無い自分にとっては、身近な人物のような、赤の他人のような、なんとも曖昧な認識に留まってしまっていることを非常にもどかしく思うばかりである。
ただ、一言も知らされずに取り残された親父には、実子の自分にさえ計り知れない深い傷が刻まれたことを容易に推察することができた。
親父がオネェになったのも、『自分の息子には、父親からの愛情と、母親からの愛情、その両方の愛情を受けて豊かに育ってもらいたかったから』という想いが所以とのことらしいが……。
そういったことを瞬間的に脳裏へ巡らせていると、親父は涙ぐむように感極まる様子と、同時に申し訳無く思うような心苦しい様子の双方が混ざる複雑な表情を見せながら、次のような話を切り出してきたものだ。
「
明かすのが恐ろしい。躊躇いを伴う親父の畏怖する真剣なオーラに思わず気圧されながらも、自分は気概で耐え忍ぶように向かい合っていく。
「
「……? 俺の名前を、フルネームで?」
「えぇ、そうよ。貴方の名前を、フルネームで」
「え……。
「ありがとう。……20数年もの間、貴方はその名前と共に色んな喜びや悲しみを経験してきたことでしょう。でも、一緒に歩んできたその名前が、実は貴方の素性を隠すために私が名付けた“偽名”であることを知ったら……
「え…………?」
裏社会の
思わず声も出なくなってしまうほど、強い衝撃がこの身を襲った。愛情を重要視する父親と、失踪した母親の意思を継いだ上での『歓喜』という名前だったので尚更、裏切られた……というにはまた違うかもしれない一種の“手のひら返し”を食らったようで、消沈するようにその視線を下げてしまう。
想定通りの展開とも言うべきか。親父は心苦しそうに険しい表情をしながらこちらへと声を掛けてくる。
「歓喜、ごめんなさい。でも、お世辞にも褒められた活動ではない裏社会を率いる人間の身内として、貴方の身柄は常に危険と隣り合わせだった。特に、同じ界隈の連中には慈悲も躊躇も無い、非情で残忍な気質を持ち合わせた人間だって少なからず存在している。ましてや、貴方も……お母さんのように失うわけにはいかなったから……」
「理屈は分かるよ。俺に危険が及ばないように、偽名を使ってくれていたんだよね。親父の身内だとバレて狙われないように」
「理解してくれてありがとう、歓喜……。ただ、
「大丈夫だよ、親父。俺がどんな名前だろうと、俺は親父の息子だよ」
「歓喜……」
口元を押さえる親父は涙を堪えているように見えた。そんな彼へと自分は新たな疑問を投げ掛ける。
「でも、それじゃあ……親父の“
「えぇ、そうね。表の社会で活動する際に名乗る、所謂“コードネーム”みたいな感覚かしら」
「コードネームか。なんかカッコいいね、それ。俺もそう解釈しようかな」
「歓喜は昔から呑み込みが早いわね。その、胆力? って言うの? 理解力? はお父さん素直に羨ましく思っちゃうわ。さすがは私の自慢の息子!」
「どうも。……それで、じゃあ俺には本当の名前があることにもなるよね?」
「えぇ、でも……今はまだ貴方には教えられない」
「何か懸念でも?」
「真実を知っているが故に、引き寄せてしまう脅威もある。……時には正真の無知であることが、変に物事を把握している時よりも安全だったりするものよ」
「知らぬが仏、ってやつかな。これまで裏社会を率いてきた“
「ありがとう、歓喜。貴方の心遣いに感謝するわ」
シリアスな空気感から一転して、気付けば普段通りの穏やかで打ち解け合った会話に変化していたような気がする。内容は物騒だけど。
他愛もない日常。変哲もない平常。裏社会で生きる親を持ちながら、自分は性善説で成り立つ平和な世界を存分に堪能させてもらっていた。親父の意向で、我が愛しの息子を“その世界”から引き離したかったからというのもあるのかもしれない。
一人の一般人として、世間の人間社会で生きる一市民として、親父は“正常な世界”で、“真っ当な人生”を、息子に送ってもらいたかったのだろう。だからこそ、偽名を使ってまで息子が裏社会と接点を持たないよう計らってくれていたのだろうし、自身という”裏社会の
親父が注いだ愛情は……母親の意思と共に愛しの息子を立派に育て上げた。非常にイレギュラーな環境の中で己が使命を全うしてくれた親父に自分は感謝の念を抱き、そして親父が我が子に望む正常な世界の中を、自分は今まで通り、そしてこれから先も謳歌していくのだろう。
「親父」
「何かしら?」
「ありがとう」
「?」
「何でもないよ。ただ、そう言いたかっただけだから」
「そう」
「…………」
「…………歓喜」
「何?」
「頑張ってね」
「就職のこと?」
「そう! ……お父さん、応援してるから!」
「それは心強いや」
端的なやり取りに、思わず苦笑してしまう。これにつられて親父もフフッと妖艶に微笑したものだから、自分は言い知れない照れ臭さ、恥ずかしさ、その他諸々と込み上げてきた様々な思いを胸に引き続き親父と談笑を交わしていった。
印象的だった出来事から数日して、自分は県外へと飛び立った。そこでは至極真っ当な人間社会に揉まれて常に苦労は付き物だったが、なんだか清らかな世界を順当に生きているような実感もしていて、自分としては特に不自由の無い暮らしができていたと思う。
だからこそ、自立して2年が経過したある日に親父から“招集”を掛けられた際には、自分の中で何か、当然だと定着して形作られていた“当たり前の常識”が、まるでボロボロとひび割れてなだらかに崩れ落ちていくような感覚を覚えたものだ。
『もしもし。歓喜、お父さんです。仕事中だったらごめんなさい。留守電には用件だけ残しておきます。……こうして連絡を取ることも久しぶりかしら。お変わりなく、元気にお過ごしでしょうか? 大変なことばかりでうんざりしちゃう時もあると思うけれど、お父さんは歓喜のことをずっと応援しております』
『…………実は、歓喜にお話があって連絡をしました。今の歓喜の生活を変えたくない思いから、できるだけお父さんだけで何とかできるよう力を尽くしてきました。けれども、情けないながらも白状しますと、お父さんだけではどうにもできないところまで、事態は深刻になっています』
『…………せっかく“普通の生活”を手に入れたのに、本当にごめんなさい。歓喜……どうか貴方の、“大切な人を護るために培った力”を、私に貸してもらえないでしょうか――』