歓楽街に充満する下卑たネオンの照明はイルミネーションのように色鮮やかで美しく、欲望が入り混じるフェロモンに満ちた喧騒の人混みはパレードのように賑やかで微笑ましく映り出される。
酒気と性欲で満たされた娯楽の街。身内が興したアンダーグラウンドの世界を、自分は無意識にも心の何処かで蔑んでいたのかもしれない。だが、彼が築き上げたこの街で“彼女”と肩を並べながら歩き始めてからというものの、今も目に見えるこの景色は先程まで見えていた、下品に煌めく裏世界とは全く異なる印象を与えてきた。
――――希望で光り輝く極楽浄土。傍についてくれる存在ひとつで見える世界は反転し、胸には淡く燃え滾る命の
幽体離脱したかの如く身体や気持ちが軽くなり、目に見える輝きはあたかも自分を歓迎してくれているようだと錯覚する。そうしてパープルとライトブルーの光源が、余韻を残すようにあてもなく充満する空間を歩き進めていく内に、次第にも隣についていた美女が足早にこちらの手前へ移動しながら振り返ってきた。
彼女の背後には、深海のように深い青色と紫色のダイニングバー。落ち着きのある内装と大人の静けさを放つ慎ましやかな煌めきを背景にして、可憐でありながらも悟るように大人びた風貌のラミアが威風を放ちながら佇んでいく。猫耳が付いた黒色キャスケットと大きな黒色ポンチョをシルエットに、ヴァイオレットカラーのセミロングヘアーと同色の大きな瞳が一層もの深淵を演出しながら、彼女の童顔でありながらも淡泊で無機質なそれと自分は真っ直ぐ向かい合ったものだ――――
「到着しました。コチラの建物が、今後カンキさんに利用して頂く基本の拠点になります」
ラミアの言葉と共に自分は見上げるようにしてその全容を確認する。
店舗付き住宅にしては横幅が広い、2階建てで真新しい4角形のテナントビル。1階には2:8の割合で分割された事務所と店舗が入っており、それぞれ『荒巻探偵事務所』と『ダイニングバーLe goût du péché』と書かれた看板が取り付けられている。2階にはシャッターが下がった窓が4つ見受けられ、おそらくは4部屋分の住居があるのだろうと推測できる。
「ここが拠点?」
「そーです。カンキさんには2階のお部屋に住んで頂くコトになりますから、今の内に場所を覚えてもらいます。コチラはキャバレー『龍明』からは徒歩10分くらいの距離でして、アチラの道を真っ直ぐ進んでいくと次第に龍明が見えてきます。職場までは基本的に一本道ですから、余程の方向音痴でもなければ問題無く辿り着くかと思います」
こちら視点から見た右方向を指差していくラミア。その先に続く街道をチラッと見遣ってから、自分は1階の事業について訊ね掛けた。
「この、俺から見て右側にある、とても広くてお洒落なお店は……?」
「コチラはダイニングバー
「
「フランス語で『罪の味』と言うみたいですよ??」
「罪の味……」
ラミアはビルへと振り返りながら説明を続けてくる。
「読んで字の如く、“裏社会のニンゲンの巣窟”になっている曰く付きのお店です。主にラヴさんお抱えの諜報員達が集まるアジトとなっておりまして、且つウチらのよーなワケ有りホステス達の安全を確保する用途も兼ねたシノギのお店です。そんなコトはモチロン世間に公表していなくてですね、一般的にはランチでもディナーでも利用できるリーズナブルでオシャレなフランス料理店として親しまれております」
「なるほど……」
「カンキさんも他人事じゃありませんよ?? 2階のお部屋を利用する際は、コチラを出入りする必要がありますから。と言いますのもコチラのビル、防犯の関係で外階段が無いので、2階へ向かうにはコチラの
「つまり、このお店は玄関でもある?」
「そーいうコトです。その玄関のカギを務めるのが、我らが
「親父が言っていた顔認証って、そういうことだったのか……」
親父の街には、顔認証とかいう近未来的なハイテク機能が備わっているのか。なんて内心で思っていたものだったから、案外とアナログな方法を知らされた際は呆気に取られてしまった。その間にもラミアは
「続いて、
「探偵事務所かぁ……親父も裏社会のビッグに成り上がる前は、私立探偵としてそのキャリアを積んでいたって話を思い出すよ」
「あハイ、まさしくそのおとーさんが勤めていらっしゃった探偵事務所がコチラですよ??」
「え?」
思わずラミアを二度見した。彼女はそんなこちらの反応を気にする素振りも見せずに淡々と言葉を続けてくる。
「正確に言いますと、ビルの建築後にラヴさんがいらっしゃった探偵事務所がコチラに移転してきたんです。で、程なくして当時の所長さんが引退されたので、その従業員だった方がご自身の名でリニューアルした結果の、コチラの
「なんか色々と複雑な経緯があったんだね」
「カンキさんも他人事じゃありませんよ?? コチラの看板を掲げている所長の荒巻という人物は、アナタのおとーさんと長年バディを組み続けた10年来の元相棒さんでもありますから。同じ死線を共にくぐり抜けて、アナタのおとーさんを横で支え続けた戦友でもあります。ラヴさんご本人から伺ったハナシですけど、どーやらラヴさんの奥様とも面識があるよーで、なんでもお二方の出会いはカレによる引き合わせがキッカケだったとか……」
「……この人が居なかったら、俺も存在しなかったわけだ。こりゃあ頭が上がらないなぁ」
「で、コチラは余談ですけど、ハナシを聞く限りだとアナタのおとーさんと密接な関係にある荒巻探偵事務所ですが、実はラヴさんが事業に介入していない泉楽町きってのクリーンな企業でもあります。なので非常に紛らわしい問題ではありますけど、念のため、ラヴさんのシノギと混同されないよーにお願いします」
「わ、分かった」
短い時間で多くの情報を詰め込んだ。先ほどの戦闘も含めて、この短時間で既に濃密な経験が押し寄せてきている。果たして自分はこの波乱万丈な生活に適応できるのか。内心ちょっと不安になってきたのはここだけの話。
「まー、ざっとですけど説明はこんなトコですかねー。それじゃー、まずは顔認証の準備として
「了解。おかげさまで今日はぐっすり眠れそうだよ」
こちらの返事を待つことなくテクテク歩き出したラミア。淡泊な足取りとその小さな背中に自分は置いてけぼりを食らいながらも、深海のように慎ましやかな煌めきを放つその店へと歩を進めた。
――――ダイニングバー
扉が開かれると、カランコロンという鈴の音が心地良く響き渡った。
触れてはならない深淵の闇。それを深い海の底に例え、人類未踏の領域を思わせる暗闇を怪しい青色と紫色で味わい深く表現したデザインが印象的だ。内装は主に優雅な円形のテーブルとチェアで占められており、鱗のような模様の壁には所々と茨のような刺々しい線が入っている。客層はサラリーマンやOLをはじめとした社会人の身なりがほとんどに見受けられ、退勤後のプライベートな雰囲気から会食中のかしこまった雰囲気までそれぞれの様子が見て取れた。
店の奥にはバーカウンターがあり、そこでお酒や食事を嗜む紳士淑女も伺える。一貫して大人が利用する非常に成熟した空気が感じ取れて、精神的な年齢層が高くも感じられた。その空間に一歩踏み入れた自分が何だか恥ずかしくさえ思えてくる中で、ラミアが「コチラにどーぞ」と言いながらバーカウンターへと歩き始めたものだから、自分も彼女に縋るような面持ちで歩を進めた。
直にして、バーカウンターに到着する。その間にも数名のウェイターと目が合ったものだが、特に自分が驚かされたのは眼前のバーカウンターで背を向けながら業務を行う一人の男の存在感だった。
……とにかくデカい! 2mはあるだろう身長と、アメフト選手のように頑丈な体つきはさながら山の如く。腕を捲ったバーテンダーの衣装は今にもはち切れそうなほどぴっちぴちで、
オシャレなフランス料理店の中で、ひと際と異質を放つその人物。自分が圧倒されて言葉を呑み込んでいく最中にも、ラミアはその男へと言葉を投げ掛けた。
「マスター、新しい入居者を連れてきましたよー。ラミアちゃんのお墨付きなので心配要りません」
ラミアの言葉を聞き、業務の手を止めてもぞっと姿勢を直す。そのゆっくりとした動作はさも山の神が動き出したかのようにも感じられ、圧巻の一言に尽きる存在感はゴゴゴゴという目に見えない音を醸し出しながらこちらへと振り返ってきた。
……垂れ下がる縮れ毛の前髪が両目を隠しながら揺れ動く風貌。年季を感じさせる強面で大きな顔の輪郭がこちらと直面し、口元と顎の無精ひげが一層とプレッシャーを煽ってくる。服装は先にも述べたバーテンダーのそれであり、彼がひとたび腕を上げてば胸元のボタンが弾け飛ぶのではないかと予感させる程度にはパンッパンに膨れ上がった分厚い肉体が印象的だった。
垂れ下がった前髪越しからこちらを見据え、まるで見定めるかのように微動だにしない。この威圧感に心なしか自分も対抗しようと気持ちで対峙していると、次にもその男は地鳴りのように低い声音でそれを問い掛けてきたのだ。
「小僧」
「っ、はい……!」
「合言葉を教えてもらおうか」
「えっ」
なにそれ、知らないんだけど。
心臓にビキッとした痛みが走るくらいには動揺した。自分も威勢だけは維持しながらも思い当たる節の無い言葉を必死に記憶から探し始める。
ど、どれだ!? どこだ!? どこで聞いた言葉だ!? もはや死に物狂いとも言えた内心の探求に自分は嫌な汗をかいてしまう。その間も眼前の巨漢はタイムリミットを待ちかねるように無言を貫いてくる空間の中、不意にもラミアがため息をつきながら呆れるように言葉を口にしてきた。
「ナニ言ってるんですか。合言葉とか決めてないですよね?? あまりカレを
え?
自分は我ながら恐ろしく早い速度でラミアを見遣る。そんな彼女の言葉と共にして、次にもその巨漢は堪えていたものを解き放つようにぶわっと豪快に笑ってみせたのだ。
「うわっはっはっは!!!! いやな、弄り甲斐のある顔が来たもんだったからよ、ついハッタリをかましてみたくなってな!! 期待通りの反応をしてくれたもんだから尚更よ、なんか面白くなっちまって、次はどんな無茶ぶりを吹っ掛けようか本気で考えていたもんさ」
「少し関わってみたウチの所感ですけど、カレは極端な程に素直で純粋な方です。些細な嘘もカレは心から信用すると思いますので、カレを不用意に傷付けないためにもハッタリは遠慮してくださいよ??」
「なぁに、俺ぁ社会の怖さを教えてやっただけさ。悪い大人がわんさか蔓延るこの世界じゃ特にな」
「カレは用心棒として雇われた護衛です。諜報員じゃないんですから心理的な詮索などは専門外ですよ」
「ラミア、お前やけに肩を持つじゃねぇか。どうやら余程なまでにそいつを気に入ったらしい」
「ラヴさんのムスコさんですからねー。今までの殿方と違って、安全や信用が確約されてますから。下心とか無い分、ウチらは安心して身を預けるコトができるというモンです。腕も立つので余計に。――マスターこそ、カレを揶揄うのは程々にしておいた方がイイと思いますよ?? そーじゃないと、
「そいつぁ困ったな! ボスにぁ俺も頭上がらねぇからよ、そこ指摘されると弱ったもんだ」
マスターと呼ばれる人物は腕を組みながら愉快げに笑い飛ばす。それから彼は口角を上げた面持ちでこちらへと視線を投げ掛けつつ言葉を続けてくる。
「悪かったな小僧。こんなことしといておこがましいだろうが、こいつぁ一種の品定めとしてボス……お前の親父には黙っといてくれねぇか?」
「えっと……はい、分かりました」
「おぉ! マジで素直だな! こいつぁダメもとでも頼んでみるもんだ! ガハハ!!」
申し分程度にごめんねの右手を添えておきながらも、豪快に笑ってみせたマスター。彼の様子にラミアがジト目の視線を向けていくものだったから、マスターはそろそろ自重するように仕切り直しながら別の話題を切り出してきた。
「それでだ、部屋の準備ならとっくに済んでいるからよ、これからは遠慮せずに好きなように利用してくれ。外階段が無い云々はラミアから適当に聞いているだろ」
「そうですね……はい」
「おいおい、まだ俺の言葉を用心して聞いているのか? まぁ、冗談抜きでそのマインドはこれから本当に必要になってくるからな。疑いの心、かもしれない運転。要するに、何事も用心しておくに越したことはないってことだ。こと“この界隈”においては尚更な」
「勉強になります」
「本当に素直な奴だな。この店で働く従業員達に見習ってもらいてぇくらいだ。とにかく! 話を戻すと、2階の部屋に行くなら、お前から見て左手にある階段を使ってくれ」
マスターが右手の親指を立て、『見ろ』のジェスチャーを交えながら階段の場所を教えてくれる。店の入口から入り、正面のバーカウンターから向かって左側にある、店の奥で気配を消すようにひっそりと上へ続く階段を自分はこの目で確認した。
マスターの顔認証が済み、自分も晴れてこのビルの住人になった。用心棒としての第一歩がようやく踏み出せると、直ぐにもラミアはこちらの手を引き、直行するように階段へと歩き出しながらそう言葉を口にしてきた。
「マスターとの顔合わせも済みましたし、さっさと部屋に戻って休みましょー。アナタの部屋まで案内しますから、早くついてきてください」
「え? あ、あぁ!」
淡泊な足取りに引っ張られ、自分は若干戸惑い気味にマスターへと軽く会釈した。その時のマスターは揺れ動かす前髪越しに何処か見守るような眼差しを向けていたような気がして、微笑ましそうに上げた口角が柔らかくも弄り甲斐を確信するようなサインにも見えたものだから、自分は再び顔を合わせた時の気苦労を今の時点で察してしまえたものでもあった。