あの時、私が空手の都大会で優勝しなければ。
あの時、あの場所に行かなければ。
あの時、あの人たちに出会わなかったら、こんなことにはならなかった。
後悔と安堵。この思いは矛盾しているけれど、新一と一緒だから、私はこれで良かったんだ。
あの日。私は幼馴染の新一とトロピカルランドに来ていた。私が空手の都大会で優勝したお祝い。
それは楽しい一時だった。偶然乗車したジェットコースターで残虐な殺人事件が発生するまでは。
高校生探偵として有名だった新一がその事件を見事に解決した。卓越した推理力で犯人を追い詰めるその姿は格好良かった。
だけど、その事件の容疑者の中には、黒ずくめの男たちがいた。彼らが私と新一の運命を変える存在になるとは、あの時の私は思っていなかった。
夕暮れ時。私と新一は遊園地の出口に向かっていた。私は殺人事件のことが忘れられなくて、泣いていた。
「おいおい。もう泣くなよ」
私は殺人事件のことが忘れられなくて、泣いていた。そんな私のことを心配した新一が優しく声をかける。
「あんたはよく平気でいられるわね」
「俺は現場で見慣れているから。バラバラ死体とか」
その無神経な発言を聞き、私は涙を流す。
「最低!」
慌てた新一はフォローするように再度私に声をかける。
「早く忘れた方がいいよ。よくあることだから」
「ないわよ。こんなこと!」
フォローになっていないと思いながら私はいつまでも泣いていた。その間に、新一が別の人を見ていることに、私は気が付かなかった。
「ごめん。蘭。先に帰ってくれ」
突然新一が私に言葉を告げ、片手を挙げながら走り出す。その瞬間、私は新一と二度と会えないようなイヤな予感を抱いた。
だから私は、新一の後を追いかけたんだ。あんなことになるなんて知らずに。
路地裏のようになっていて、人気の少ない。普段は行かないような場所で、私は新一を探すために辺りを見渡す。どこに行ったんだろうと思い、探していると、物陰に隠れて何かを覗き込んでいる新一を見つける。だけど、次の瞬間、私は強い殺気を感じ、咄嗟に別の物陰に隠れた。
殺気を発していたのは、銀色の長髪の黒ずくめの大男。そういえば、新一はこの人のことを怪しんでいた。この人は私に気づいていないようで、私の前を素通りした。
一瞬ホッとした後で、私の心に得体の知れない恐怖が纏わりついた。
あの男が向かった先には、新一がいる。
また、イヤな予感が頭を過り、物陰から新一がいる方を覗き込む。
すると、黒ずくめの大男が気配を消し、背後から新一に近づいているのが見えた。新一はそれに気が付いていないみたい。
男の手には鉄パイプが握られている。その鉄パイプが大きく振り下ろされようとした直後、私は思わず叫び、物陰から前へと飛び出す。
「新一。逃げて!」
その行為が危険なことは分かっている。けれど、私は新一が殺される様子を、指をくわえてみることができなかった。
新一は私の声に驚き、背後を振り返る。だが、新一は身構える暇もなく、あっさりとその場に倒れた。
そして、銀髪の黒ずくめの男は、私の存在に気が付き、白い歯を見せ、鉄パイプを握りなおし、私の前に歩み寄った。
「まさか、仲間がいたとはな」
咄嗟に私は、黒ずくめの男を避け、新一に駆け寄り、思い切り体を揺さぶった。
「新一、しっかりして!」
頭から血が出てて、体が小刻みに震えてるけど、まだ息をしているみたい。安心したその時、空気が凍りついた気がした。
「お別れは済んだか?」
私の背後から聞こえたのは、黒ずくめの男の声。男は私に答える暇を与えず、返り血が付着した鉄パイプを振り下ろす。
頭に強い衝撃を受けた。全身に痛みが響く。
それに耐えられない私は、新一の右隣でうつ伏せに倒れた。
意識が朦朧とする私の耳に黒ずくめの男たちに声が届く。
「この女。警察を呼んでいるんじゃないですかい?」
「安心しろ。この女は警察を呼んでいない。警察を呼んでいたら、あんな危険なことはやらないだろう。だが、警察が来る可能性も否めないがな」
「じゃあ、さっさとこいつらを拳銃で殺しやすか?」
サングラスの男が拳銃を取り出し、銃口を新一の頭に近づける。しかし、銀髪の男はそれを静止した。
「まて。警察がうろついている。こいつを使おう。組織が開発した毒薬だ」
毒薬。
その言葉にゾクっとした瞬間、脇の下に手を入れられる。
真横に向いた視界に、新一の顔が飛び込んできた。
血が垂れる頬。虚ろな瞳。半開きの口。私の視界が徐々に霞んでいく。
仰向けに寝かせられてすぐに、誰かが私の前髪を後ろから掴み、顔を持ち上げた。
無理矢理起こされた上半身が後ろに倒れないように、両手が斜めに下され、手のひらが雑草に触れる。
前を向いた視線の先に、真っ直ぐ伸びた左足と曲げさせられた右膝が見えた。
そんな体勢になった私の顔を、黒ずくめの男は真横に向ける。
すると、同じ体勢の新一の横顔が見えてきた。
私と同じように背後から誰かに前髪を掴まれている。
多分、私と新一の間にサングラスの男がいる。あの男が私たちの前髪を掴み、無理矢理体を起こさせているんだ。
顔を前に向けている新一と長髪の黒ずくめの男の距離が近づく。
「死体からは毒が検出されないシロモノだ。まだ人間には試したことがない試作品らしいがな」
男は私たちに言い聞かせるように呟きながら、半開きになっている新一の口に何かを押し込む。
それから、男は筒を取り出すと、新一の唇に近づけた。
筒が傾けられるのと同時に、新一の喉が上下に動き始める。
間もなくして新一の口角から白い液体が溢れた。
その時、私は気が付いた。新一が液体を飲まされていることに。
何もできなかった。
体が動かない。
ただ、目の前で新一が毒薬を飲まされる様子を見せられている。
私は新一を助けたかった。
だから、あそこから飛び出したのに……
すごく悔しい。
手を伸ばせば届くくらい近くにいるのに、私は何もできない。
しばらくすると、新一の喉が大きく動き、黒ずくめの男が不気味に笑った。
そのあとで、私たちの後ろにいる男は、新一の顔を私の方に向けた。半開きの口から、白濁した液体が垂れ、苦しそうに咳を繰り返す。
虚な視線が重なった瞬間、雑草に触れていた私の右手の甲に何かが触れた。
ほのかに温かくて、安心できる感触。
新一は、すごく苦しいはずなのに、自分の左手を私の右手の上に重ねて、安心させようとしているんだ。
今度は私の番。顔が前に向けられ、新一の顔が見えなくなる。それと同時に、真横から視線を感じ取った。
新一は毒に苦しみながら、私が毒薬を飲まされるところを見せられているんだ。
目に映ったのは、紅白のカプセル。それを腰に跨った黒ずくめの男が摘み、半開きの口に近づけてくる。
唇を縦に押し広げ、男の大きな指が口の中に入っていく。喉の奥まで指を突っ込まれて、私は無意識に眉を顰めた。
舌の上にカプセルがある感覚がする。
毒薬なんて飲みたくない。今すぐ吐き出したいけど、体は思い通りに動いてくれない。
男の指が口の中から引っこ抜かれると、今度は筒が下唇に触れる。それが徐々に傾けられ、何かが口の中へと流し込まれた。
舌の上に広がるのは、無味無臭の液体。多分、新一が飲まされたのと同じ。
それが口の中に溢れるほど溜まっていき、カプセルが液体に浮いた。
無理矢理、薬を飲まされている。
分かっているのに、流れてくる液体を喉を鳴らして飲み込むことしかできなかった。
口角から頬を伝い、飲み込めなかった液体が垂れ流されていく。
喉が大きく動いて、黒ずくめの男の不気味な笑う声が聞こえてきた。
毒薬を飲み込んでしまったんだ。
重なっていた手が離され、体が真横に傾き、ふたり一緒に体をうつ伏せに寝かせられる。
また顔が雑草の中に埋まり、黒ずくめの男たちの足音が遠ざかっていく。
その直後、心臓が強く震え、大きく目を見開いた。
体が熱い。
骨が溶けているみたい。
全身の筋肉が無意識に収縮を繰り返す。
私は歯を食いしばり雑草を掴んだ。この苦しみに耐えるために。
押し寄せてくる高熱と激痛に苦しみながら、顔を真横に向けた。
右隣に倒れている新一は、私と同じように苦しそうな表情を浮かべている。
だけど、私たちは耐えられなかった。
徐々に息が苦しくなり、のたうち回る体。
心臓の鼓動が速くなって、全身から汗が溢れるように流れていく。
あの時、新一を追いかけなかったら、私は毒薬を飲まされなかった。こんなに苦しまなくても良かったけど、絶対に後悔していたと思う。
もしも私が新一を追いかけなかったら、新一だけが毒薬を飲まされて、苦しみながら死んでいく。そんなのイヤ。新一と一緒だから、これで良かったんだ。
でも、死ぬのは、すごく怖い。そんな時、どこかから声が聞こえた気がした。
「……らっ……ん……」
弱弱しく掠れたその声で新一は私を呼んでいる。
私は最期の力を振り絞った。
お互いに藻掻き苦しんだ所為で、少し離れてしまった距離を埋めるため、草むらの中を這う。
うつ伏せに倒れている新一へ近づき、焼けるような喉から声を震わせる。
「……だ……」
目の前で倒れている新一に向けて手を伸ばす。
だけど、私の声は届かない。息が苦しくて、最期に伝えたかった言葉が伝わらない。
大量の汗でびっしょり濡れた新一の手を掴んだ私は、静かに瞳を閉じた。
「おい。誰かが死んでいるぞ!」
真っ暗な中でそんな声を聞き、私は死を確信した。だけど、声の主が、私の背中を触っているような感触がある。
「イヤ。まだ息がある。救急車を呼べ!」
耳の届いた声を聞き、私は思った。あの薬は人間には効かなかったんだ。
もしかしたら、新一も……
懐中電灯で照らされ、眩しい光を浴びた私は、閉じていた瞳を少しずつ開いた。
同時に倒れていた体を起こし、その場に座り込む。
「立てるか? お嬢ちゃん? ボウヤ?」
警察官らしき男に声を掛けられた私は目をパチクリとさせた。
「お嬢ちゃん? 私は高校生です!」
「高校生って……お嬢ちゃんは小学生だろう? そうだ。お嬢ちゃんたち。こんなところで何をしていたんだい? 頭から血が出てるじゃないか?」
警察官の声を聞いた瞬間、急に頭が痛くなり、傷口を押さるため、右腕を挙げた。
だけど、頭の怪我は何かに防がれて、直に触れることができない。
よく見ると、ハーフコートの袖から手が出ていないことが分かった。それだけではなく、身に着けている衣服全てが大きくなっているような気もする。
その違和感は、得体のしれない恐怖と共に大きく膨らんでいく。
何かがおかしい。
目の前にいる男性の身長が異常に高く見える。
何かがおかしい。
声が幼くなっているような気がする。
不安に襲われた私の肩を誰かが叩く。
「えっ?」と驚き視線を右隣に向けると、ブカブカな新一の衣服を着ている小学生くらいの男の子がいた。
「新一なの? 良かった。私たち、生きているんだよ!」
なぜか隣にいる小学生の頃の新一にそっくりな男の子と顔を合わせると、なぜか安心感が生まれた。
その直後、ブカブカな新一の服を着ている男の子は、私の耳元に顔を寄せ、囁く。
「ああ、蘭、逃げよう」
警察官たちが私たちに背中を向けて、無線で連絡を取っている間に、私たちはその場から立ち去った。
あの時、私が空手の都大会で優勝しなければ。
あの時、あの場所に行かなければ。
あの時、あの人たちに出会わなかったら、こんなことにはならなかった。
後悔と安堵。この思いは矛盾しているけれど、新一と一緒だから、私はこれで良かったんだ。
突然体が子供に戻ったけれど、新一と一緒なら怖くない。
加筆修正しました。