奴隷迎合 - The Servant above Slaves   作:紙谷米英

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奴隷迎合【11-6】

 澱んだ人波に混じって会議室を出ると、廊下の突き当たりでブリジットが背中を壁に預けていた。胸の内のイチジクが、少しだけ瑞々しさを取り戻す。兵舎へ脚を引きずる仲間を尻目に、恋人へ駆け寄る。

「兵舎で待ってりゃいいのに」

「愛する旦那様が、しょんぼりしている気がしまして」

 口の減らない良妻だ。誰の注意も向けられていないのを確かめて、金糸の髪を撫でる。くすぐったげに目を細める新兵に、しなびた心が潤う。

 ブリジットがブリーフィングに参じなかったのには、幾つか理由がある。第一に、彼女は正真正銘に正規のSASではない。SASの選抜訓練を通過した志願者には、継続訓練なる課程が待ち受けている。その必須カリキュラムをブリジットは履行していない。かてて加えて、彼女に課せられた選抜訓練の期間は一箇月と余りに短く、夫の色眼鏡を以てしても不公平は明らかだ。特殊部隊はその存在が「極めて異質」なのであって、決して他と共生不可能な「アウトロー」ではない。部隊入りした後もブリジットが炊事諸々を負っているのは、その辺りの帳尻を合わせる作意がある。

 だが、これらは内向きの弁明でしかない。公式の手続きを受けていない、元より軍人ですらない彼女の禁秘は、連隊内部に封じるのが望ましい。まして身内にスパイの影がちらついているのだ。軍に奴隷が在籍していて、しかも国外で先鋒を務める禁忌が外部に知れたら?国際的な違憲行為を看過する以上、別組織と立ち会う危険に我がライフルメイドを侍らせるべきではない。それに、可愛い嫁さんは独り占めしたい。

「悪いな、仲間外れにしちまって」

 ブリジットは即座にかぶりを振る。

「主の陰に徹せず、使用人が務まりましょうか」

「その矜持に救われてるよ」

 一歩引いたプロの女中さんを伴って兵舎へ戻ると、山岳小隊と舟艇小隊の面々が旅支度に取り掛かっていた。数日中に、この兵舎から中隊の丸半分が姿を消す。元より不足していた人頭の半減に、鈍い頭痛を覚えた。荷造りに奔走する面々に楽観の色はなく、周囲を圧倒する覇気も失せている。新人らは突然の異動に当惑を隠せず、先任の下士官に後身の心をなだめるゆとりはなかった。

 他方、アラビア半島に残る機動小隊と我ら航空小隊も陰鬱の渦中にあった。現地部隊の教練任務は別部署へ引き継がれ、砂漠での遊撃作戦は中断を余儀なくされた。隊員は規定区画を越えた外出を禁じられ、兵舎の換気扇がフラストレーションで詰まる。戦闘員にあてがわれたネット回線も遮断され、本国からの手紙には執拗な検閲が介入した。各自が物資を自由に調達出来ず、ジェロームはポルノの枯渇で寝たきりに陥った。機密保守の観点から、ショーンは通信担当のシェスカにおいそれと会えなくなった。ヴェストのキノコ絵日記は、三日前を境に更新が途絶えた。要人の毒殺に好都合な猛毒キノコへは、心ない猜疑の目ーー無理もないがーーを向けられていた。彼らは持ち主は誰に言われるでもなく、その手で友人を荼毘に付した。好いた相手が特異な殺傷能力を持つばかりに、彼は自らその苗床たる株を焼却する辛苦に身を苛んだ。雑多なゴミで満ちたドラム缶の中、ドクツルタケの美麗な子実体が焼かれる。純白の花嫁衣装が灰と化し、猛毒の霧が中東の蒼天へ散るその最後まで、防毒マスクを着けたヴェストはドラム缶をかき混ぜた。その日、顔面を覆うマスクを兄貴が外す事はなかった。

 


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