奴隷迎合 - The Servant above Slaves 作:紙谷米英
【6】
貨物船〈マラク〉はダンマーム港の一角に停泊し、前日より少し痩せた月の下で静かに波に揺られていた。港湾の職員は事前に退避しており、船舶にコンテナを積み込む巨大なガントリークレーンに稼働しているものはなく、港全体が水を打った様に静まり返っていた。……いや、耳を澄ませば、上空を旋回するMQ-9〈リーパー〉無人偵察機の不気味な飛行音がかすかに聞こえた。
うら寂しい戸外と打って変わり、コンテナ積載所に駐車したレンジローバーの暗い車内は狭苦しく、清掃されていない空調も相まって、仲間の呼気で空気が籠もっていた。人気の失せた深夜一時とはいえ、秘匿性を保つために、スモークフィルムを貼ったウィンドウは下ろせない。物々しい戦闘装備の異邦人が衆目に晒されるのはまずいのだ。それに、この国の夜はひどく冷える。海際であれば、それもひとしおである。
そんな寒風が吹く埠頭に、生身を晒して監視任務に就いているショーンとマシューから定時報告の通信が寄越された。
〈シエラ・ワンより全部署へ。艦尾に動きはない〉
〈シエラ・ツー、艦首も同様だ〉
平静を装っているものの、スピーカー越しのマシューの声は少し震えていた。狙撃は交戦時であろうとなかろうと、時間との戦いだ。敵味方を瞬時に判別しつつ、その時点での味方にとって最大の脅威を見分け、即座に無力化する――それが出来るくらいで狙撃手になれるなら、軍はわざわざ専用の兵科を用意しない。狙撃手に真に必須な技能は、退屈で不快な環境で集中を長時間保つ忍耐力だ。無論、俺には真似できない。狙撃兵というのは、敬服すべき妖怪の類なのである。
監視チームの献身に急かされて、もう何度目になるやも知れない、膝の上に置いた銃に点検の手を入れる。〈マグプル〉の樹脂製の弾倉は、ちゃんと挿入されている。〈レディマグ〉に取り付けた、追加の弾倉も同様だ。軽く振っても、部品同士の衝突音は生じない。それでは、喉にまとわり付くこの不穏な感情は何か。こめかみを拳で押していると、すぐ左手からチョコレートバーの包みが差し出される。
「そろそろ、糖分が不足しているかと」
肩が触れるほどの距離で、フル装備のブリジットが微笑んでいた。そう、お前だよ不安材料!
さあて、どういった了見でこの小さな兵隊さんは我々、コールサイン"エコー"の攻撃車輌に同乗しておはしますのか。果たせるかな、やはりそこには彼女の姑たる、リチャード・クラプトンが一枚噛んでいた。
たかだか六百キロの空の旅は、ほんの一時間で終わりを告げた。瞬く間のフライトで夢を見る間もなくダニーに揺り起こされ、サウジアラビアが擁するキング・ファハド国際空港の滑走路へ降り立つ。水平線の向こうでは、死にかけの陽が最後の抵抗に踏ん張っていた。現地の陸軍士官の誘導で、使用されていない小ぶりな格納庫へと移動し、そこで作戦に使用する車輌を受け取った。防弾処理の施されたレンジローバー二輌と、就役から八十年余りの重機関銃を載せた、これまた世代を超えたオープントップのランドローバーが二輌。強力な武装を目の当たりにしても、心臓をずっと小突かれ続ける様な不快感が続いていた。
そこに、鈍く重い頭痛までもが加わった。空港を離れてダンマーム港へ移動し、我々に先んじて到着していた作戦本部を訪れると、スタッフに見慣れた不審人物が紛れていた。我々と同じ砂漠戦闘服を身にまとう、真新しいベルゲンを背負った小さな影は、俺を見つけるなりひとつ結びにした髪を揺らして駆け寄ってきた。
「道中、何もお変わりありませんでしたか?」
ああ、たった今お変わりだよ!
ただならぬ眩暈を覚え、携帯電話を取って親父を呼び出す。ワンコールが終わる前に繋がった通話に、語気荒く問いただした。
「どういうことだいこの野郎」
〈追加で派遣した見習い衛生兵だ。どう、嬉しい?〉
嬉しくねえよ、ばあか! くそ親父を怒気露わに問い詰めれば、ブリジット自身の強い希望に応じたとの弁だが、それならそれで引き止めていただきたかった。眉根を揉みながら見れば、当の嫁さんの上腕には、確かに赤十字の腕章があった。戦闘用の迷彩服に着けては、何の意味も為さないのに。それも、国際法違反の奴隷を兵士に仕立てて。身幅より大きな背嚢を負ぶった彼女は、邪気のない微笑を主人へ向けていた。これで怒る気が七割失せるのだから、つくづく救いようがない。残る三割は、戦闘ベストに忍ばせていたドライジンで揉み消した。クラプトンの男は美女に弱い。
で、そのまま港の倉庫内に設けた即席司令部に残っていてくれればいいものを、こいつは我々の作戦にまで追随してきたのだ。流石に少しは説教を垂れたが、本気になれないのが明け透けであり、何処まで本気なのか知れない彼女の意志を殺ぐには至らなかった。作戦行動には一切関与しないことを前提に、部下たちも何も言わなかった。どうなってるんだ、第一七航空小隊。
そういった経緯で、ブリジットはこの黒塗りレンジローバーに我々と同乗している。何が「一切関与しない」だ。弾薬を込めた銃を持参して渦中へ入っておきながら、よくもほざけたものだ。メンタルの脆弱な旦那の憔悴を知ってか知らずでか――魔性の女だから、分かってやっているのだが、彼女はサイズの合わないヘルメットの下で微笑んでいた。遊びじゃないんだけどなあ……。
愛妻を危険な環境に置く不甲斐なさに、ため息をひとつ漏らす。快適性を根こそぎ取り払った車中には、楽しい玩具が詰まっていた。ブリジット、もといベアトリス・カルヴァート衛生兵がその身分に偽りなく持参した医療品に、大量の発煙筒とボルトカッター、各種手榴弾。そして船舶への強行突入に使用される、多種多様の成形爆薬。潜入調査が順当に進むのであれば、こんな大荷物は要らない。大概の者が、この作戦を楽な仕事と軽んじていた。であるからこそ、なおさらに疑念が育まれる。何かが異様だ。最前線でもお気楽なブリジットが邪魔だとか、そういう問題だけではない。この任務自体に、神経を逆撫でする異物感が蔓延っていた。
中東に着いてからこっち、嫁さんに関しての心労は募るばかりだ。気を抜けば、肺で渦巻くストレスが顔中から漏れてしまう。緊張を殺しきれなかったのか、作戦中だというのに感傷に浸っていた。――なあ、マーク。どうしてこの場にいてくれないんだ。
マーク・ラッセル・ペイジは、我々クラプトン兄弟がSAS加入直後に派遣されたイラクで知り合った、米陸軍特殊部隊群《グリンベレー》である。俺より四つ年上のマークはネブラスカ出身で、口を開けば妻のことばかり話す|男であった。
この男の性質は温厚の一言で表され、逞しくも爽快で優れた容姿には、巻き毛の濃いブロンドがよく映えた。現在は三歳になったばかりの娘を溺愛しており、数ヶ月前にグリーンベレーを除隊したとの報せがあった。愛娘のために安全な職を求めたのかと考えたが、どうもそうではなく、英国人の妻の実家近くに越してくるらしい。しかも当人は軍籍を捨てる訳ではなく、何とそのままSASに編入される予定との言であった。SASにも所帯持ちは少なくないが、まさかやつ程の家庭教信者でも軍属を抜け出せないとは。この狂気の依存性こそが、特殊部隊から染み出る苦い蜜の甘味を物語っているのやもしれない。
マークは我々兄弟の属するD戦闘中隊に編入される運びであったのだが、神様は意地悪をなされる。彼が引っ越しやアメリカでの残務に奔走する間に、"アラブの春"が吹き荒れた。俺は二人目の兄の到着を待たずして、ベビーブームよろしく四方八方で爆発が起こるアラビア半島へと空輸された。嫁さんという、最愛のお荷物を抱えて。
車内のスモークガラスに、日焼けで肌を真っ赤にして呵々大笑するマークを思い描くと、脳味噌が急激に萎む錯覚に陥った。グリーンベレーを除隊する直前、やつはCIF中隊にいた。CIFは精鋭集団のグリーンベレーでもトップの精鋭を集めた、究極の戦闘集団だ。米陸軍の最高峰に足を掛けていた男であるからして、その実力は安易に言表できるものではない。英軍への移籍どころかSASへの編入が容易に済んだのは、ひとえにマーク自身の実績によるものである。その第二の兄貴分が、今ここにいない。心労から、目頭を揉まずにいられなかった。
埠頭に積み上げられた貨物コンテナの影に待機して、一時間が経過していた。尿気を招くために、不安を紛らわせる紅茶も飲めない。月明かりだけの夜間とはいえ、目標たる全長二五〇メートルの貨物船マラクから、距離にして三百メートルと離れていない。小便を理由にこちらの存在が露見するくらいなら、このまま車内で漏らしてやる。
何度目かの嘆息を口の中で殺し、煩わしい焦燥とつばぜり合いを続ける。〇一三〇時には、ボートで埠頭を発った潜入班が貨物船への乗り込みを開始する手筈となっていた。放射性物質で発光する腕時計を見ると、予定時刻まであと七分と二十三秒であった。洪水みたいな冷汗が下着を濡らし、密閉された股間で蒸気が上がる。天津のせいろから湯気が溢れる様に、自分のトラウザス(パンツとほぼ同義)から毒ガスが吹き出した。運転席と助手席に座るパーシーとデイヴは、削れ落ちた心労が発する臭いにむせ、無辜の同乗人であるダニーの放屁だと嘲った。不当な糾弾を受けているにもかかわらず、愛する舎弟は口をつぐんで堪え忍んだ。お前もお前で、どうして俺をそう慕ってくれるのか。
点眼液を両眼に注して、ぐうと眼球を押さえる。ヘッドセットの下の左耳に、波音が混じる音声が吐き出される。
〈オクトパスより全部署へ。右舷のケツに着いた。いつでも取り掛かれる〉
海上からの潜入を担当する"オクトパス"からの報告だ。続けて狙撃手を兼ねる偵察班からも、船上の安全確保が報された。
〈アルファより全部署へ。作戦を開始しろ〉
二十四時間前に砂漠で聞いたのと異なる、落ち着いた女声の命令が寄越される。この声の主だが、実はショーンの現恋人である。
〈オクトパス、乗船を開始する〉
いよいよだ。ここから見えずとも、潜入班ふたりの動きが目蓋の裏で鮮明に描けた。ワイヤー製の縄梯子を貨物船の縁に引っ掛け、足裏にワイヤーが食い込む痛みをこらえて梯子を登り、ゆうっくりと船上に這い上がる。舟艇小隊はいつだって、冷たい海で歯を打ち鳴らす羽目を喰う。河童めいたドライスーツで目標の船舶へひたひた侵入し、何らかの反社会的な物的証拠を押さえれば、潜入班の業務は終了である。狙撃班が高倍率の目を光らせる中、ちょっと忍び込んで、不穏当な写真を撮影するだけ。その最中に何者かの目についたとしても、彼らは対処法を熟知している。先方の攻撃が激しかったら、待機している我々車輌部隊と航空部隊が、大規模な火力を以て鎮圧する。子供のお使いめいた作業に、何を不穏に感じる必要があるのか。事を憂う物思いを、オクトパスからの通信が遮る。
〈乗船した。これより甲板を捜索する〉
自分がSASに入隊して、これで何度目の作戦だろうか。夜間に襲撃を仕掛けて、それが想定外の展開に運ばれた前例は、今まで幾つあったか。被害の大小はあれ、今までこうしてやって来られた。何も心配は要らない、そのはずだ。
〈オクトパスより全部署、調査対象のコンテナを発見した。解錠する〉
交信終了の間際に、太い金属が断ち切られる音が聞こえた。ボルトカッターによる強行立入は「解錠」ではないので、言葉は正しく使おう。
調達潜入班が貨物船に乗り込んだ理由は、殴り込みではなく、単なる所持品検査だ。穏便に済めば、誰も傷付かずに事が終わる。現に、潜入班は円滑に仕事を進めている。食品に偽装された武器弾薬、あるいは麻薬の類が見つかれば、それでほぼ終わり。証拠を握って、またひっそりと現場を後にする。我々も一旦撤収し、薄明と同時に貨物船を襲撃する。だが、その時の主役は現地軍と米軍の通常部隊で、我々は後方で彼らの活躍を偵察機のカメラ越しに観るだけだろう。
「この分なら、一時間もあれば帰れそうだな」
パーシーが額から剥ぎ取ったレスピレーター(ガスマスク)を膝へ放り、ハンドルに顎を預けた。最初のコンテナで不審物が発見されるだろうと、たいへん幸せな見通しを立てている。緊急事態に車を走らせるのはこいつなので、気を緩ませてくれるのは宜しくない。後方の司令部へ直帰する考えに異論はないが。
〈オクトパスより全部署へ。ひとつ目のコンテナはハズレだ〉
その言葉に、デイヴが大袈裟な落胆を示す。立場を替えて考えてみろ。誰の目にも触れる場所に、貴重品は置かないだろう。"当たり"があるとすれば、船倉の奥まった箇所に安置されているのは、想像に難くない。
《》〈アルファより、オクトパスへ。甲板の調査を切り上げて、船倉へ侵入せよ〉
〈まだひとつしか開けていないのにか?〉
〈……質疑は受け付けられない。即刻、船倉へ接近しろ〉
作戦司令部からの唐突な催促に、耳を疑った。オペレーターの口振りは、すぐ背後に別の指示役がいると思しく、僅かながらに躊躇いが窺えた。彼女――シェスカとは、SASに入ってからの短からぬ付き合いだ。任務中に、容易に動揺を声音に漏らす女ではない。
「どう思う?」
隣のブリジット越しにその奥のダニエルに尋ねと、太い眉根が寄るのが、暗闇でも分かった。
「お上が現場を急かすのは珍しくないとして、あまりに静か過ぎるのでは? 港湾職員をどかすのには現地の官憲を使ったらしいですし、情報漏洩が気に懸かるかと」
「ダニー坊やは心配しいだねえ」
運転席からパーシーがせせら笑ったが、俺は舎弟の意見に大きく傾いていた。決して、すぐ隣で強く頷きたそうにしているブリジットに影響を受けた訳ではない。中東に来てから数ヶ月、現地の治安回復に寄与してきた身からすれば、彼らが我々に全面協力するのは当然と思いたい。だが、ここは我々が間借りしている基地のお隣ですらないのだ。英国人とは人種、地理上の地域区分も違えば、宗教とそこへの敬虔さ……拘泥具合も大きく異なる。言ってしまえば、腹の底で何を考えているか知れぬ異星人に全幅を置いた上で、極めて不安定な秘匿作戦を手探りで行っているのが現状である。それも、司令部に全幅の信頼が置けない中で。
自分の部隊が砂上の楼閣にいる事実に一旦気付くと、こめかみをぬるい一滴が垂れた。ブリジットが早速タオルで拭ってくれるものの、既に反対側の頬でも脂汗が生じていた。
「どうしたのさボス。そんなに気になるなら、目標を直接見りゃいい」
パーシーがアクセルを軽く踏み、コンテナの影からレンジローバーの車体前部を露出させた。
「おい、車輌の位置を戻せ。目標から丸見えだ」
こちらの言葉など聞こえないとばかりに、パーシーは後部座席へ八倍率の双眼鏡を後部座席へ渡してくる。
「その目標を見たいんだろ? ほら、気が済むまで見なよ」
双眼鏡を受け取らずにそのまま返そうと押しのけている内に、オクトパスから辟易した口調の通信が入ってくる。
〈無線口に愚痴りたくはないがね、特別手当は出るんだろうな――〉
瞬間、我々が乗っているランドローバーが小さく横揺れし、パーシーの手から双眼鏡が取り落とされた。運転席からこちらへ半分振り向いた体勢のまま、上半身が隣のデイヴの方へずるりと崩れ落ちる。ほとんど同時に、無線通信と現実世界の双方で、夜のしじまを引き裂く破裂音が響き渡った。