奴隷迎合 - The Servant above Slaves   作:紙谷米英

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奴隷迎合【6-2】(改訂版)

 シエラ・ツーことマシュー・ギネス伍長は、貨物船〈マラク〉の南方二百メートルの地点にあるトランスファー・クレーン(港湾施設で海上コンテナの移動・積み上げを行う門形の荷役機械)に登り、夜の海際の寒風に身をやつしていた。地上二十メートルの鉄塊の頂上でくたびれたマットを敷いて腹這いになり、熱線映像装置越しに〈シュミット&ベンダー〉のスコープを通してマラクの甲板上を監視するのがマシューと、彼の位置から二百メートル離れた別のクレーン上にいる、ショーン・クラプトン少尉の任であった。二脚を展開したL115A3狙撃銃の銃身は一直線に貨物船を見下ろし、敵対勢力の出現に見敵必殺の一撃を喰らわせんと睨みを利かせていた。弾倉と薬室には、人体の何処に中《あた》っても致命傷を負わせるラプア・マグナム弾が収まっている。

 マシューは視線をスコープの接眼レンズから逸らさずに、下唇まで垂れた鼻をすすった。夜間の埠頭での監視任務にあたり、彼は万全の用意を整えたはずだった。C-130輸送機に乗る間際、すれ違った小隊長から「おい、スモックは持ったか?」と、冗談みたいな心配をされていた。二一世紀を迎えて十年近くを経たが、今日び裾のだぶついた古くさい戦闘スモックを実戦に着ていくSAS隊員など、ヒルバート・クラプトンをおいて他にいなかった。実年齢以上に老けた小隊長の古典思想を無碍にした自己を、マシューは悔いていた。

 灼熱の陽光がなりを潜めた後、中東の海はその波音を聴くあまねく存在から、その深部体温を奪った。吹き付ける海風に寂寥といった風情などなく、このSAS伍長を末梢神経から低体温症でじわじわと殺さんとしていた。マシューは上下揃いの防寒下着に防寒レイヤー、その上に戦闘装備を着込んでいたが、海風は動きやすい被服の間隙をついて身体を的確に冷やしていった。野暮ったいスモックひとつを戦闘ベストの下に着るだけで、この夜の快適性は様変わりしたはずである。

 狙撃に重要な指先の感覚を重視して、マシューはグローブの類をはめていなかったために、とうとうその指が手についている感覚さえも失っていた。これではたまらんと根負けし、脇腹に吊していたグローブに手を伸ばしていると、〈オクトパス〉が乗船を終えた報告が、かじかんだ耳に入る。ヘッドセットの耳当て部分は緩衝材にジェルを充填したパッドが装着されており、これも凍り付きそうなほど冷え切っていた。寒気に歯を打ち鳴らすのをこらえつつ、マシューは銃の床尾を動かし、十二倍に設定したスコープを右方へ巡らせた。マラクの艦尾付近で、船縁を越えたオクトパスらの白い熱源が、コンテナ群の合間を縫って進む姿が、あたかも間近にある様に観察できた。モノクロの映像でさえ不機嫌なのが分かるオクトパス二人の顔面を見届けると、マシューはすぐに自分が監視を受け持つ艦首付近へとスコープを向け直した。数秒前と変わらず、甲板には一切の人影もなく、貨物船は穏やかな波に揺られていた。昨晩のネフド砂漠での襲撃と打って変わり、動くものが何ひとつ見当たらない。低体温もたたってか、心の臓が悪寒を感じていた。何か見落としているのではないか。違和感の正体を掴もうとして、マシューはスコープの倍率を三倍にまで下げて、マラク全体を俯瞰した。果たせるかな、オクトパスの二人の他に白い影はなく、海と同じ黒い影がレンズを満たしていた。

 自らを落ち着かせようと、マシューは手遅れにも等しく冷え切った手を開いては握りしめ、血流を促そうとした。ぎこちない反復運動で指先が痛みを思い出したところで、作戦本部がオクトパスによる調査を急かし、すぐに船倉へ進ませるという内容の通信が入ってきた。マシューの頭蓋内で早鐘が打たれ、馬鹿な将校連中を蔑む言葉がこみ上げた。上層部の判断を妨げる材料こそないものの、このマラクは不用意に立ち入れる船ではないという考えが、マシューを寒気による衰弱から立ち直らせた。

 ――何処だ。

 現地部隊の手で人為的に作られた静寂の中に、マシューは不届き者の息遣いを見出そうと、マラクの甲板上をつぶさに観察した。船上で今にもオクトパスを照準に捉えようとしているやつの居所を求め、二脚を浮かせて銃を振り回した。だが、甲板上にマシューが思い描く兆候は見られなかった。

 マシューは、短からぬ軍役で磨いた己の勘を疑い始めていた。ひょっとすると、この焦燥や懸念は本当に単なる思い過ごしで、オクトパスが船倉に入って十分も経たぬ内に麻薬の類が見つかり、そのまま帰投命令が下されるのではないか。低体温症の症状に矛盾脱衣があるように、自分も事態を悲観する錯覚に囚われているのかもしれない。凍結した鼻腔から安堵の息を漏らし、マシューは再びスコープを覗き込んだ。

 そして見た。マラクの甲板上の手前、コンテナヤードに整然と積み並べられたコンテナ群――そのいくつかに、熱源を示す小さな白い点が浮かぶ。複数の熱源の発見に、マシューは偽りの安寧から叩き起こされて息を呑んだ。通信の送話スイッチに指を掛けたその時、熱源のひとつが自分へ向けて眩く閃いた。

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