奴隷迎合 - The Servant above Slaves   作:紙谷米英

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奴隷迎合【11】(改訂版)

【11】

 

 船倉内の方々でコンテナが崩落し、自分たちが殺した敵の死体が、船の揺れになぶられ跳ねていた。船倉へ下りる時に使った階段へ駆け戻ると、段板が踏ん張れないほどに傾いており、断崖を登攀するのと変わりなかった。

「荷物を捨てるぞ」

 まだ周囲に催涙ガスが残留していたが、視界を妨げるレスピレーターを顔から剥ぎ取る。バックパックを床へ放り、銃を背負って手摺りに飛びつく。両腕と、ほとんど段板に触れているだけの爪先に全体重が掛かり、筋繊維が悲鳴を上げる。反対側の手摺りを掴むダニーが、肉体の痛みとガスの責め苦に必死の形相で呻いた。今や船倉で海水に覆われていない床はなく、我々が追っていたコンテナは膝丈まで水に浸かっていた。

 段板の間から、船首側の階段を這い上がるジェロームとスタンが見えた。ボルダリング選手の如く鉄筋を巧みに掴み上がる、ちびのスタンが羨ましかった。必ず生きて帰り、痩せてやる。

 歯が折れるくらい食い縛って両腕を上へ伸ばし、重い尻を数センチずつ持ち上げ続けたことで、苦節の末に指先が居住区画の床を叩いた。最後の一歩で踏み外さない様、弾みをつけて腰を上階へ乗り上げさせ、すぐに背後を振り返る。溢血で顔に斑の浮いたダニーの腕を掴み、後ろへ投げ飛ばす勢いで引き上げた。男ふたりが床に仰臥して息を荒げ、脳にたまった血液の解放に目眩を覚えつつ、ほぼ床に変じた壁を頼りに立ち上がる。

「あの爆発、砲弾いっぱいのコンテナでも積まれていたんでしょうか」

 血の混じった鼻水を排出したダニーが、飲み水で目から催涙成分を洗い流そうとしていた。

「それ、俺にもやってくれ。……もし二重の船殻を破る爆発が船倉内部で起きたなら、俺たちの脳は衝撃波でスープになっているはずだ。ニーナの言う通り、爆発は船外で起きたんだろう」

「船が外から攻撃を受けたと?」

 ダニーは曲がり角の先を一瞬だけライトで照らして索敵し、十メートル先で下方へ滑り落ちまいと床に縋りついていた敵の側頭部を撃った。そいつの腕が脱力して、肥った身体が斜路を転げていった。

「……さあな。下手なことは言えん」

 こちらが答えあぐねているのを察して、ダニーは爆発についてそれ以上訊いてこなかった。俺には爆発より大きな懸念事項があった。ブリジットの安否は言及するまでもなく、口先では振り切ったものの、下に残したコンテナに後ろ髪を引かれていた。船の傾きが異様に早い点を考えるに、先の爆発は我々の抹殺ではなく、貨物船の沈没に主眼が置かれている。そこまでしなければならない理由が、こんな下らない世界くんだりにあるものだろうか。

〈シエラ・ワンが告げる。マラク乗船時に使った舷門には近づくな。そこから下船する敵を、味方が封じ込めている〉

 援軍の到着が報されていないことから、外の状況は好転していないらしい。舷門に関しては恐らく、直近の位置にいるヴェストと、倉庫のオスカーが睨みを利かせているのだろう。俺たちがマラクに乗り込んでからずっと戦闘を続けていたヴェストが、さらに別方向へ神経を張っていられるはずがない。垂直と並行の概念が失われた隘路をライトの光芒で探ると、乏しいアラビア語の語彙で、"上"と"階段"の単語が記された札が壁に掛かっているのを見つけた。

「ブラヴォー・ワンとツーは、艦尾から階段で上甲板に出る。付近の状況を報せてくれ」

〈シエラ・ワンよりブラヴォーへ。信じられんだろうが、ここから上甲板のほとんどを見渡せる。それだけエプロンへ傾いてるんだ。まだ戦意の残っている敵が散見されるが、十秒前にうちの弟と小人が出てきたんで、だいぶ痛めつけられている〉

 ジェロームとスタンは、俺たちふたりに先んじて甲板で暴れていた。悪くない報せだ。不随意に襲い来る大きな揺れに、身体を船体へぶつけつつ、人ひとりが通れるだけの幅の階段の手摺りを掴んで踏ん張った。こうなっては歪んだ梯子と何ら変わりないが、足掛かりになる構造物がある分、船倉を出る時よりずっと楽だった。

「ブラヴォー・ワンより、シエラ・ワンへ。間もなく上甲板へ出られる。コンテナが滑ってこないか見てくれ」

〈悪いが、俺はもう屋上にいない。建物内に籠もって、階段を見下ろしてる〉

 あと少しで手が届いていたはずの楽観が、触れる直前で霧散した。

〈あえて足首を狙撃したり、喉をぶち抜いてひどい死に様を演出したんだが、どうも連中の心には響かなかったらしい。逆に怒らせちまったよ〉

「……現地部隊は?」

 耳元で、自嘲めいて乾いた笑いが上がった。

〈俺ひとりでやるしかない。なあに、地の利はこっちにある〉

 ショーンひとりなら建物から逃げられただろうに、兄が甘ちゃんなせいで、死地に残る選択をさせてしまった。

「あと少しだけ持ちこたえてくれ。すぐにそっちへ行く」

〈現地の連中よっかは期待してるよ〉

 鋭い破裂音が耳元で響き、通信が途絶えた。ショーンが、建物へ侵入した敵への迎撃を始めたらしい。トイレに隠れているブリジットは通信機を持たされていないが、足下で発砲があれば、何が起きたかを理解するだろう。彼女がこの夜を無事に生き延びられたとして、今生ずっと引きずるであろう記憶が刻まれる。己が不出来な存在なのは承知だ。それでも曲がりなりに、たとえその手段が歪んでいたとしても、自分に出来ることであの娘の居場所を作ろうとしたつもりだった。たった今、その全てが瓦解した。

 階段を数段飛ばして跳び上がり、コンテナヤード直上で未だ輝く照明弾に呈された上甲板へ、身を乗り上げる。左手を見ると、上甲板と貨物港の間に海はなく、真下にエプロンのコンクリートが見えるまでに、マラクの船体は沈み傾いていた。ダニーに手を貸そうと振り向く寸前、音を聞きつけたのか、付近のコンテナの陰から男が自動小銃の銃口を突き出すのが見えた。

 醜悪に傾いた床を蹴り、敵との数メートルを一気に詰める。銃口がこちらを向くより先に、左拳を男の下顎目がけて振り抜いた。仰け反った男がやけくそに引き鉄を絞る前に、右肘で顔面を殴りつつ、銃身を掴んで射線を逸らす。クリンコフ――短銃身のAKがこめかみの真横で火を噴き、髪の焦げる臭いが鼻をつく。敵の右前腕を殴打しつつ股間を蹴り上げると、ようやく身を折ったので、低い位置にやってきた頭部に膝蹴りを叩き込む。脳を揺られて意識を失った男は銃を手放して崩れ落ち、急坂が作った重力に引かれて、上甲板に這い上がろうとするダニーの目の前を滑り落ちていった。

 船の傾きがさらに増し、疲労した金属の喘ぎが全周で生じた。踏ん張って足場になるものを探す間もなく視界が急転し、背中から甲板に叩きつけられる。

「ボス、そのまま動くな!」

 動こうとして、どうにかなるものではない。四肢と尻を突っ張ってその場に自身を保持しつつ、まだ階段下にいるダニーの叫びに首を向ける。先の爆発と同等の衝撃が、目の前の床から全身に走った。高性能爆薬の爆轟こそなかったが、顔からごく数センチの距離で甲板に落下した二十フィートコンテナの圧に、股間が縮み上がった。俺を押し潰し損ねたコンテナはそのまま左舷の手摺りを破壊して船縁を越え、直下のエプロンへと消えていった。間もなく、重量物がコンクリートを打ち砕く大音響が届く。認め難いものの、轟音に痛んだ鼓膜を、スピーカー越しの姉の声が癒やした。

〈マラク甲板から貨物港へ複数のコンテナが落下した。真下にいた複数名が潰された様に見える〉

〈ケベック・ワンが報告する。コンテナに潰されたのは、全て敵勢力だ〉

 ヴェストの通信で、味方の損害がないことが分かったが、こちらは喫緊の問題が残っていた。現時点で上甲板がどれほど傾いているかは測れないが、旬を過ぎたSAS隊員が直立できない事実を我が身が証明している。遂に踏ん張りが利かなくなると、俺の尻は先に滑落したコンテナに倣い、十数メートル下のエプロンへ向けて油まみれの甲板を滑り出した。八十キロを優に超える骨肉が一瞬で数メートルを滑落し、運動エネルギーの加わった衝撃すべてを両足が受け止めた。地面への転落で大腿まで砕け散ったと絶望したが、股間へ目を向けると、両脚はまだ健在で、俺の身はまだ船上にあった。怖々と足先の感触を確かめると、どうやら細い欄干を踏んでいるらしかった。痛みが和らぎつつある脚に、生ぬるい感触が伝わる。ああ、とうとう耐えられなかった。

 無様な転落死は免れたものの、この状況からどう脱するべきかと、心許ない足場から踏み外さぬ様に身じろぎ、周囲を見渡す。甲板へ出るのに使った階段を見上げると、ダニーは斜面で立ち上がる望みを放棄し、腹這いで階段から甲板に出ようと試みていた。下方へ目を向けると、甲板から落ちたコンテナ数基がエプロンに亀裂をこしらえているのが、コンクリートから生じた煙越しに見えた。地面までは、目測で十メートル以上ある。軍の内部でさえ誤解されているが、空挺隊員は他の部隊よりパラシュート降下や着地時の衝撃分散が特別上手いだけで、建物の屋上から落っこちてぴんぴんしていられる化物ではない。ジェロームならともかく、ヒトは高所から落ちれば死ぬ。

 「ぎぎぎ」と、コンテナか船体の軋む音が右方から生じた。この数分で幾度も聴いた音の出所へ目を向け、それが無機物の摩擦から生じたものではないと知った。俺が足を預けている欄干、その延長線上に引っ掛かってぎりぎり落ちずにいたコンテナに、片腕でしがみつく男がいた。もう片方の腕で、こちらにAKの狙いをつけて。

 男のAKが火を噴いた。足下で火花が散り、胸に衝撃が走る。反射的に被弾した箇所を庇ったが、出血はなかった。どうやら、戦闘ベストの腹に収めた弾倉を抉られたらしい。男は発砲の反動で大きく逸れた銃口を、再びこちらへ向け直そうとしていた。

「ヒルバートさん!」

 上方でダニーが叫ぶ。船の傾きで滑り落ちてきたコンテナが、ダニーと敵との間に不都合な遮蔽を作っていた。あいつの助けは得られない。

 自分のカービンを構えようと右手を巡らせるも、甲板を滑り落ちる際に銃本体が背中へ回り込み、尻の下敷きになっていた。カービンの使用を諦めて腰の拳銃のグリップを握り直したものの、相手が精確な狙いをつけるのに十分すぎる時間を与えた。

 高速の飛翔体で肉の弾ける、胸の悪くなる音が周囲に満ちる。敵の銃口が発する閃きは見えなかった。如何に不安定な足場で、どれほど下手な射手でも、二発目が確実に中《あた》る距離だった。着弾の衝撃は感じられず、相手の発砲音がひどくかすれて聞こえた。どうやら一撃で仕留めてくれなかったらしく、まだ自分の腕が動いた。せめてもの抵抗に急ぎ抜いた拳銃の照星越しに敵を見上げると、男の右腕から自動小銃――いや、それを握る前腕が甲板へ落ちる光景があった。AKを掴んだままの右腕は、そのまま傾斜に従って船外へと滑っていった。前腕をもぎ取られた男の右上腕から、怒濤の如く血液が零れる。攻撃を受けた当人は、自身に何が起こったかを認識できずにいた。俺が拳銃の引き鉄を絞った瞬間、男の鎖骨に醜い射入口が穿たれる。肩の射出孔から肉と骨の欠片が散るのが、スローモーションに見えた。拳銃弾の威力ではない。港湾の方角より飛来した大口径弾による創傷。ショーンのやつは、こんな兄貴の助力なしに窮地を切り抜けたらしい。あるいは、現地部隊の増援がやってきたか。何にしても、兄の立つ瀬は失われてしまった。

 ラプア・マグナムの激突が及ぼす六千ジュール超の熱量に絶命した男の肉体は、姿勢の制御を失って重力に屈した。頭を下に貨物船から転げ落ちゆく肉塊を目の当たりに、本能が命令をがなる。

 ――あれを使え。

 脳裏の声を理解するより先に、拳銃をホルスターに収め、両脚で不安定な足場を蹴っていた。重量からの解放に不安を感じつつ、首ちょんぱ寸前で空を舞う死体を両腕で掴み抱く。真下に、暗い色のコンテナの天板が迫る。戦闘服の布地越しでもまだぬくみのある亡骸の胸に身を寄せ、身を屈めて落下の衝撃に備えた。 

 一秒経ったかどうか、膝頭にえげつない痛みと反発を覚え、死体を掴んでいた感触が両腕から失われた。落下のエネルギーが失われるまで、幾度も転がって接地の衝撃を殺す間、何度か全身を固いものにぶつけた。ようやく横転が止まって背中に感じたのは、鋼板の冷たさではなく、ごつごつした石灰の凹凸であった。コンテナの上に落ちたつもりが、そのまま段違いのコンテナを転げ伝って、埠頭の地面に叩きつけられたらしい。打ちのめされた尻と肩が、苦痛にむせび泣いていた。

 目蓋を細く開いて仰ぎ見た空は、まだ深く暗い藍に染まっていた。俺を殺そうとしていた男は、俺が受けるはずのダメージを肩代わりした。接地の衝撃の大半をその身に受けた死体は、どこかのコンテナ上で潰れているだろう。

 散々に転げ落ちたせいで耳がおかしくなったのか、方々から発砲音が聞こえなくなっていた。おまけに、自分の現在位置まで分からない。不時着から立ち直れない脳に無理を強いて周囲を見渡したが、照明弾はもう空から消えていた。数分ぶりにNVGを覗くと――左眼のレンズが割れていた――三十メートル左方にエコー・スリーと思しき車体と、その傍らでこちらへ視線を投げる人影の熱源が確認された。希望的観測から、ヴェストであろうと願った。

 節々の痛みを押し殺しつつ、前腕を突っ張って上半身を起こす最中に、人影が左手を胸に当てた。

〈……ヒルか?〉

 肘から先の感覚が不確かな手で、こちらも送話スイッチに触れる。「ああ、兄弟。敵は?」

〈この辺りのは、落ちてきたコンテナに潰されて全滅した。キノコの神の御心だな。上のやつらも、ショーンが狙撃を再開して鎮められた〉

 どうも、俺の耳が駄目になった訳ではないらしい。コンテナを依り代に立ち上がりつつ、またいつ傾きが増すか知れないマラクを見上げる。「ダニー、無事か?」

 ややあって、かなり疲弊した声が返ってくる。

〈あんたが身投げするのが見えました。俺には真似できないので、別の方法を探します〉

 「小隊長は短絡的」との口振りに、真っ向から反論する声があった。

〈そんな時間はないぞ。俺たちみたいに甲板を這い上がって、そのまま海へ跳び込めばいい。これからスタンと港に上がるから、ベネリをなくした言い訳を考えておいてくれ〉

 艦首側で戦っていたふたりは、俺よりよほど人外じみた行いに走っていた。

 真面目にダニーの救出計画を思案していると、随分遠い後方から、複数のエンジン音が聞こえてくる。戦車ほどけたたましくはないが、人員を輸送するだけの汎用車輌ほど軽くはない。あれが、現地軍の増援とやらであろう。

「遅いよ……」

 最後の力を振り絞って、車輌群から身を隠せるコンテナに身を引きずり、一時の安全を確保した。今さらやってくるやつらだ。俺を敵と識別して、機銃弾をぶち込んでくるやもしれない。ここへ来るまでに、自家用車を何台も潰していたとしても、疑問は抱かない。くそ野郎どもが。てめえの領土の不祥事くらい、自分で解決したらどうなんだ。コンテナがまたひとつ、沈みゆくパナマックス級貨物船から滑り落ちた。

 

 結局、現地部隊が到着したのは、SASが敵勢力を撃滅した後であった。到着が遅れた理由が何であれ、やつらと口を利くつもりはないし、そもそも英語が通じるかも怪しい連中だった。連中が救助してくれる望みを早々に捨てたダニーは、船内で縄梯子を見つけようとしていた。

 装甲車の現着から間もなく、現地部隊の第二陣が徒歩でやってきて、埠頭のコンテナ全てへの検閲を開始した。だが、SASの死傷者を搬送する車輌は一向に寄越されず、業を煮やした中隊付准尉のティモシー・ベックが、自らトラックを運転して彼らを後方へ運んでいった。

 走り・撃ち・泳ぎ・跳ぶを一晩でやる、馬鹿の考えたトライアスロンで摩耗した身体を後方へと引きずっていると、ショーンから通信が入った。落下で精密機器がいかれたのか、音質が少し変わっていた。

〈ヒル、"井戸を開け"〉

「……分かった」

 引きかけていた汗が噴き出す。かねてより、プライベートな内容を話す際に決めておいた符号を聞き、部隊間の通信周波数を別のものに変えた。少なくともリアルタイムでは、作戦本部に俺たちの会話は聞かれない。ショーンが内密の話を俺とする判断を下したということは、ブリジットが関わっているに違いない。

〈受信しているか?〉

「あの子は無事か?」

 誰よりも神経を減らしたであろう弟を気遣う一言もなく、食い気味に詰問した自分に驚いた。

〈外傷はないが、急いでこっちへ来てくれ。他のやつが来る前に〉

 肩透かしなほどに淡泊な通信が切られる。ともあれ、わざわざ専用の回線を使うからして、尋常ならぬ事態が生じたらしい。思う様に動かない四肢を罵りながら、ブリジットの待つ建物へ駆け足に向かった。

 

 建物の入口ドアを開く際に、腕時計の針が午前二時を少し過ぎた辺りを指しているのが見えた。多くの味方の命が、杜撰に消費されただけの三十分間であった。少し前に下りた階段の最下段に、手榴弾で引き裂かれた敵の死体が三つ転がっていた。踏板や壁に、まだ乾ききらない血と組織がへばり付き、一段上る度に、ブーツの底から湿った音が響いた。途中の踏板や踊り場でも敵が死んでおり、頭蓋が小銃弾の直撃で裂け、撹拌された脳が階下へ滴っていた。

 手摺りを頼りに三階へ上がると、トイレの入口脇でショーンが待っていた。唇を一直線に引き結んでいるのに、アドレナリンの残渣は関わっていないだろう。その手にあるのはC8カービンで、俺を救ったラプア・マグナムを放った狙撃銃ではない。

 胸騒ぎがした。狙撃兵がカービンを携えていたとして、何ら不思議はないのに。

 トイレへ踏み入ろうとする俺の肩を、ショーンが掴んだ。「そっちじゃない」

 その目が、屋上に続くドアへ向けられる。立派に狙撃兵の職務を全うしたはずの弟は、澱んだ面持ちで俯いた。

「あの子はトイレに籠もっていたんじゃないのか」

「それを説明するから、彼女に会え」

 屋上への階段を幾つも飛ばして駆け上がり、ドアを開け放つ。月明かりの下、別れた時と全く変わらない戦闘服姿の小さな背中が、屋上の縁に立っていた。足下に、多量の空薬莢が散乱している。心の奥底で、疑惑が芽吹きつつあった。

 マラクを見つめていたブリジットが肩越しに振り向き、長い睫毛が揺れる。「ご無事で何よりです、ヒルバート様」

 こっちの台詞だ。

「怪我はないか? こんなところで何をしているんだ。まだ敵がいるかもしれないんだから、建物へ入りなさい」

 大股に近寄りつつ、疑念を払拭したい一心でまくし立てるが、どうしても声が上ずる。あってはならない妄想が、唐突に現実味を帯びてくる。彼女の足下にあるのは、空薬莢だけではない。当然ながら、二脚を展開したショーンの狙撃銃があった。銃口を、数分前まで俺がいた貨物船へ向けて。

「ブリジット、ここは危険だ。早く――」

「申し訳ございません。手間取ってしまって」

 力強い声音が、狼狽える主人の言葉を容易く上塗りする。身体ごとこちらへ振り向いたその胸は、砂にまみれていた。まるで、ついさっきまで腹這いになっていたみたいに。

「弁明はしません。あの男を一発で無力化できなかったのは、私の不徳です」

 目を覆いたくなる真実が、ブリジットとの幸福に彩られた記憶を塗り潰してゆく。引き裂かれた一縷の期待が、吐き気となってこみ上げた。

「でも、だからこそ……二発目は確たる覚悟を以て放てました。運などではなく、自力で主を救うのだと」

 彼女は軍人ですらない、二十歳を迎えて間もない、ただの女の子だ。偶然に俺と出逢い、物好きに俺を愛し受け入れてくれる、少し変わり種なだけの大事な恋人だ。

「そんな顔をなさらないで。不出来な使用人が、勝手を働いただけですから」

 何が誤りだったのか。前線にブリジットの介在を許した己が甘さか、さもなくば、お遊びで銃の扱いを教えた浅慮か。あるいは、彼女と俺とが相まみえた巡り合わせこそが過ちなのかもしれない。知ったところで、何もかも手遅れだ。

「無力だったこの手で、大切な旦那様をお守りできた。誇りこそすれ、後悔などございません」

 いつもと同じ、下がり眉で差し向けられた微笑みに、視界がかすみ歪む。清かった彼女の手は、主人のエゴのせいで穢された。俺はブリジットに、人殺しをさせてしまった。

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