「……というわけなんです………先生、ボクはこのまま、こんな気持ちで……薙刀を続けて良いんでしょうか?」
その日の稽古の前、ボクは早めに道場へ行き、佐々木先生に相談していた。
愛ちゃんが引っ越すかもしれないと分かってからの、自分でもどうにも整理できない感情をすべて打ち明けた。
恵子と美咲に「先生に話してみたら?」と勧められたのもある。
だけどそれ以上にボクのことも愛ちゃんのことも知っていて、薙刀の事で相談できる大人は佐々木先生しか思い浮かばなかったから。
ボクの話を聞き終わっても佐々木先生は何も言わない。
ただ神棚の前に正座で座ってボクの目をじっと見ていて、ボクも正座のまま同じように佐々木先生の目を見ていた。
薙刀を始めてから、正座は嫌いじゃなくなった。むしろなんだか身体にスッと軸が入る気がして好きだから。
でも今のボクはなんだか軸がズレている。それも身体じゃなくて心の。
「………藤野さん、あなたはどうしたいの?もう辞めたいの薙刀?」
先生の静かだけど力を入れた言葉に、伸びた背筋がさらに伸びる気がした。
けれどいくら姿勢はキレイになっても、反対にボクの心も答えも歯切れが悪い。
「…………わかりません……なんだか、全然自分のことがわからないんです…」
ボクの答えに先生が、ちょっとだけ表情を崩した。
「……私だってこの歳になっても、自分の事が分からない時があるわよ。『四十にして惑わず』なんて大嘘ね」
先生の長いまつ毛が、まばたきで何度か上下した。
多分この言葉はボクへの慰めじゃなくて、本音なんだと思った。
「……話を戻すと、それでここ最近はどうも今ひとつ稽古に身が入ってなかったのね。貴方は薙刀への取り組み方が、人一倍良かったのに」
そう言われて当然だと思った。自分でも確かに稽古に、全然身が入っていなかったと思う。
「ごめんなさい……」
ボクが謝ると先生も少し頭を下げる。
「いや、こちらこそごめんなさい。責めているわけでないのよ…始めた初日から、貴方の練習態度は本当に良かったから。急にどうしたのかと思っていたんだけれど……そうか、村田さんの事でね…」
今まではキツかったり、痛かったりしても上手くなりたいって気持ちや、強くなりたいって気持ちの方が上に来ていた。
でも……でも、違うんだ。愛ちゃんに言われてから。今までとは何かが確実に。
ボクの友達でライバル。薙刀で追いついて追い抜きたい目標。
その愛ちゃんがいなくなるかもしれない。そう考えると、前までみたいに動けない。
まるでボクっていう機械を動かしてた、大事な部品にヒビが入って、全体がおかしくなっちゃったような……。
「貴方と村田さんは、単純な友達……って関係じゃなさそうだものね」
ボクはその佐々木先生の指摘に、はいと小さく言って頷く。
「………辛いわよね。友達がいなくなるかもしれない…それも、自分たちではどうしようもない事で」
佐々木先生の優しさを含んだ言葉に、ボクは何度も頷いた。
「…けれどね、貴方の中で村田さんが、決して小さい存在でない事を分かった上で言います」
佐々木先生の真剣そのものの目が、そこに映るボクの無表情な顔を捉えている。
「藤野さん、この10か月間あなたは薙刀に真摯に、そして懸命に取り組んできた。言われた事をやるだけじゃなくて、上段の構えを試したり、他所の選手の良いところを取り入れたり……自発性もあった」
佐々木先生は目を細めて続ける。
「指導者として、その姿勢や努力を見ていて本当に嬉しかったわ。『ああ、こんなにも素直に真っ直ぐに、薙刀に向き合ってくれる子がいるんだな』って。それって、どんなにセンスのある子でもできない子はできないから」
小さく笑いながら言う先生の言葉が、ズシリと胸に響く。
そんな風に思ってくれていた。それだけでちょっと心が楽になる気がした。
「その支えになったのは、確かに村田さんの存在もあったでしょう──けど、貴方が頑張って来れたのは、決してそれだけではないはず。それを考えてみて」
「先生……」
「そして振り返ってみて欲しいの。1月の貴方と今の貴方。変わったもの、得た物、体験した事、これまで積み重ねてきた物を……」
ボクが1月から積み重ねてきたもの……。
「たった10か月と他人は言うかもしれません。だけど、私はそうは思わない。少なくとも薙刀において、貴方は濃密で、有意義な時間を過ごした事は心から保証できる」
ボクは先生の言葉にちょっとだけ涙ぐんだ。慌てて涙を拭う。
「そんな藤野さんだからこそ、村田さんも大事なクラブ内の好敵手──として見ていた……というのは私の想像だけどね」
『頑張れる人』前に愛ちゃんはボクの事をそう言ってくれた。
じゃあなんでボクは頑張って来れたんだろう?愛ちゃんより強くなるため?確かにそうだけど、でも先生が言う通りそれだけじゃない気がした。
だけど、それが何かを今答えられる気もしない。
「佐々木先生……先生が言いたいことはなんとなく分かります…だけど、ボクそれを具体的にこうだって言えません……ごめんなさい」
「……じっくり考えてみたら良いわ。今日と次の稽古は休みなさい。薙刀を辞めるとか続けるとか忘れてね。そしてまた来た時に、答えを聞かせて」
佐々木先生はにっこり微笑んでくれる。なんだかボクがクラブに、入りたいって言った時の『歓迎するわ』って言ってくれた時の顔と似ている気がした。
「…はい、ありがとうございます」
ボクは先生に座礼をした。少しだけ気持ちも、心も楽になれたのは先生のおかげだった。
だけど、本当の解決は自分でしないといけない。
当たり前だ。だって誰でもないボクの心のことだもん。
道場から出る時、入れ替わりに川井先輩や恵子の中央中メンバーがやってきた。
川井先輩と美咲が心配そうにボクを見て、恵子は真剣な顔をしている。
ボクは自分から声をかけた。
「川井先輩、恵子、美咲ごめん。今日と次の稽古休むから……でもその次は来るよ」
ボクは声が少し震えていたけど、何とか笑顔を作って伝える。
察しのいい恵子だから、多分ボクの顔と雰囲気を見れば大体わかっちゃうよね。
「……了解。なんか愛理に言っとくことあるね?」
ボクが休みって知ったら、愛ちゃんは気にするかもしれない。
「……愛ちゃんのせいじゃない。ボクの気持ちの問題だって言っておいて」
「了解………祐希、アンタ来るって言ったけんね。私そいば信じとるよ」
恵子の励ますような笑顔。いつまでも頼っちゃいけないんだけど、やっぱり保育園の頃からこの顔を見ると安心しちゃう。
ボクは恵子にもう一度笑い返して見せて、道場から離れようと歩き出す。
いつまでもいると愛ちゃんが来ちゃう。それになんだか、また泣いちゃいそうだったし。
すると帰ろうとしているボクの後ろから、川井先輩と美咲が声をかけてくれた。
「………祐希ちゃん!私ね、もう祐希ちゃんのおらん薙刀クラブは嫌やけんね!だって祐希ちゃんのおらんば面白くなかもん!」
「藤野さん、私だってそうよ。不甲斐ないキャプテンだけど、力になれる事があったらいつでも言って…ただし、辞める以外の相談でね!」
2人の言葉が、じんわりと胸に響いた。嬉しい気持ちと、申し訳ない気持ちがごちゃ混ぜになったまま、ボクは背中でその声を受け止めて、薙刀を握りしめたまま家に早歩きで帰る。
振り返らないように、泣きそうになる気持ちをかき消すように──ただ前だけを見て。
そして、ボクは───暇になった。
いや、稽古に行かなくても外を走ったり、家で筋トレしたり、薙刀の素振りをしても良いんだけど、なんとなくそんな気にはならなかった。
薙刀を始める前に戻っただけなのに、暇で暇でたまらない。動画を見てもゲームをしても、お父さんの漫画を借りても長続きしない。
そんなボクにお父さんもお母さんも心配そうにしていたけど、正直に『今ボク色々悩んどるとさ……でも自分の気持ちのことやけん、自分で考えさせて』って伝えた。
そうしたら2人とも複雑そうな顔で『祐希のどんどん大人になって行く…嬉しかけど寂しかねぇ…』とか『いっぱい考えて、いっぱい悩まんね。そいが中高生たい』とか言ってくれた。
ボクはそう言ってくれる2人が嬉しくて、また泣きそうになるのを堪えるのが大変だった。
そうして退屈と戦いながらもボクは佐々木先生に言われた、愛ちゃんより強くなる以外の『1月から頑張ってこれた理由』を考えていた。
そして一緒に今までしてきた事も一つ一つ思い出していく。
気温が下がって起きづらくなっていく朝に薙刀を始めた頃の筋肉痛、恵子たちと登校しながら夏の暑さにくさい防具、中央中のちょっとボロい体育館で授業のダンスを踊りながら、剥けた足の裏の皮とできたマメを。
給食のギョロッケをかじりながら順位戦で負けた悔しさと勝った時の嬉しさ、昼休みに図書室で借りた『カスミ、着る!』を読みながら、明日香と唯と仕掛け応じを練習して、生まれて初めて貰った四級の表彰状を。
女子トイレを掃除しながら家や学校で繰り返した自主練、クラス男子たちのくだらないけど笑える話を耳だけで聞きながら、身体についたたくさんのアザを。
──ボクはそれぞれ思い出していた。
そうして迎えた週末、土曜日の晩。お風呂に入りながら、ボクはまだ振り返りをしながら同時に考え続けてきた。
こないだのK市での試合、2回も勝って愛ちゃんとやれて、負けた自分が今できることは全部やった。
悔しかったけどあれは、引きずらない負け方だった。
うーん。こうやってスラスラ思い出せる事を考えたら、ボク今年の頭から家と学校以外はなんだか、薙刀ばっかりの生活だったんだな。
いや、こないだ愛ちゃんと遊んだみたいに、遊びに行ったり買い物したりもしているけど、思い出すのは薙刀関連の事ばっかり。
そういえば最初は部活より練習が少ないからって恵子に言われて、クラブに来たんだっけ。
なんだか今思うと嘘みたいだ。薙刀なら毎日稽古したって全然良い気がする。
ボク、変わったなあ。みんなからも言われるけど自分でも思う。
口数は絶対増えたし、誰かに話しかけるのも増えた。相変わらず『無表情ガール』だけど、前よりは表情が豊かになった気もする。
それもこれも薙刀を始めてからだ。とにかく陽気な愛ちゃんの影響もあるけど。
……あ、後実は自分がかなり負けず嫌いって事をたっぷりと自覚できたのもある。
本当前に恵子に言われたみたいに、ボクは好きになったらとことんタイプなんだな。
……………ん好き?何が?。
……………決まってるじゃないか。薙刀だ。
──きっかけは恵子に誘ってもらったからと練習が少ないからだけど、ボクは薙刀が好きなんだ。好きになったんだ。
だって楽しいから。もちろん、稽古は大変だし負けたら悔しくてたまんない。
でもそれ以上に楽しい。できなかったことができるようになる瞬間は、本当に達成感があるし、試合で勝った時はもう全身が震えそうなぐらい嬉しい。
──それは絶対嘘でも勘違いじゃない。ボクが身体と心で感じてきた本音だ。
ぽちゃん。
ボクの頭から落ちた水のしずくが浴槽のお湯に落ちた。
「ははっ…わかった…!ボク、わかりましたよ。佐々木先生!」
お風呂場は良く声が響く。ボクは1人で笑いながらそんな事を口にしていた。
週が明けた月曜日。ボクはまた早めに道場に行って佐々木先生と対面していた。
あの時と同じ構図だけど、今は気持ちが全然違う。
小さい傷がたくさんある道場の木の壁も、天井の黒っぽいシミも、神様を祀る神棚もちゃんといつも通りに見える。
愛ちゃんの涙を見てから、どこか風景全てが色あせた感じがしてたけれどもうそんな事はない。
「藤野さん、答えはわかったかしら?貴方が頑張ってこれた、村田さん以外の理由」
「はい!」
ボクはなるべく力強く答える。
「良い返事です……じゃあ聞かせてもらえるかな」
ボクは一度息を吸い込み、先生の目を見たまま答える。
緊張するけど、正直に感じたままのことを口にすればいいんだ。
「はい、それはボクが、薙刀が……薙刀という武道が好きだからです!」
単純なことを自信満々にボクは言った。
だけどそうなんだから仕方ない。愛ちゃんより強くなるという大切な目標。それも薙刀で強くなりたいからだ。
やってて楽しいから好き。好きだから上手くなりたい。上手くなって強くなりたい。
そうしたらもっと薙刀についてわかるかもしれないし、わかったらまた強くなれる。
それだけ。たったそれだけのことだけど、それ以上のものなんてないはず。
言い終わったボクは黙って佐々木先生を見つめる。先生も真剣な顔で黙っていたけど、やがて口を開いた。
「藤野さん、その答え………100点満点よ!」
先生が一気に顔を崩して笑った。
「それで良いのよ。好きだから、楽しいからやる、頑張れる。それができる人が一番…私はそう思うわ」
先生の一言一言がなんだか胸にしみる。
「…ありがとうございます!今日からまた稽古頑張ります!」
「はい、こちらこそ……うん、これでこそいつもの前向きで素直な藤野さんね」
ボクがそう言って座礼をした後、誰かが入ってくる音が聞こえた。
振り向くと見えたのは、西中のセーラー服。綺麗なボブカット。くりくりの目。愛ちゃんだった。
「……愛ちゃん」
「ユウちゃん!」
ボクは思わず立ち上がる。ユウちゃんは獲物を見つけたチーターのように、こっちに走ってきて、夏合宿明けの時に恵子にしたみたいにボクに抱きついた。
痛いぐらいにボクを締め付けてくる。愛ちゃんって、こんなに力があったんだ。
「……おっきい…ユウちゃんだ…!本当にユウちゃんだ………私、めちゃくちゃ心配したんだよ?私のせいで、ユウちゃんが薙刀辞めちゃったら……もう来なかったらどうしよう?って」
顔は見えないけど、愛ちゃんの声はところどころ震えている。
恵子に伝言はしたけど、やっぱり気にしちゃったみたい。
「……ごめん。でも愛ちゃんのせいじゃなかよ。ボクの問題やけん……もちろん薙刀をやめたりしないよ」
「本当?良かったぁ………だけど、元々は私のせいだよね。私があんな風に言ったから……」
ボク胸に顔を埋めて、首を振る愛ちゃんの背中は、とても小さく見える。
当たり前だけど、愛ちゃんはボクと同級生。同じように───ううん、ボクよりもっと選挙の事で辛さを抱えて悩んでいるんだ。
「………愛ちゃん、元気出してよ。愛ちゃんらしくなかよ」
「でも……」
「ボクさ、薙刀が好きとさね。みんなと──愛ちゃんとやる薙刀がさ。それに気がつけたんだからもう良かと。だから顔を上げてよボクのライバルさん?」
ボクが小さくライバルって言うと、愛ちゃんがハッとして、顔を上げて目が合う。
潤んだ大きい瞳が、ボクをまっすぐ見上げている。
「…………絶対それ、言い返すチャンスを狙ってたでしょユウちゃん?」
そう、今言ったのはいつか愛ちゃんに言われた言葉のお返しだ。
「…やっぱりバレた?」
「バレるよ。私たち、負けず嫌い同士だもん」
そう言ってボクたちは、顔を見合わせると2人して笑った。
ボクの制服の胸のところが、少しだけ湿っていたけど、それはどこか暖かった。