■マンフレート・マーガス
ドイツのサッカークラブ・ブレーメンのトップチームに所属する選手。ポジションはFW。
長身を活かした空中戦とヘディングが得意。ジュニアユース時代からシェスターとコンビを組んでいる。
シェスターの人気に隠れがちだが、シェスターと共にドイツ代表入り常連の選手でもある。
■フランツ・シェスター
マーガスと同じくブレーメンのトップチームに所属する選手。ポジションはMF。
チームの司令塔として活躍し、ジュニアユース時代からマーガスとコンビを組んでいる。
ルックスと華麗なテクニックから女性ファンが多く、試合中には女性ファンの黄色い声が常に飛んでいる。
■ラモン・ビクトリーノ
ウルグアイ出身のブレーメンのトップチームに所属する選手。ポジションはFW。
俊足を活かしたプレイスタイルが武器。マーガス、シェスターと違い生え抜きのブレーメンの選手ではないが、二人と共にトリオでのプレイも可能。
ビクトリーノの手に握られたメジャーが、するすると音を立てて巻き取られていく。俺を始めとしたチームメイトは、シャワールームから出た彼を取り囲むようにその場で座りこんでいた。
「サイズはここにメモした。それから、スカートはなるべく避けてほしいそうだ」
ビクトリーノからメモと伝言を受け取ったスタッフの一人が、がさがさと箱の中身をかき回す。普段は賑やかなロッカールームが不気味なくらい静まりかえっているなかで、スタッフの箱を探る音だけが響く。やがて箱の中から袋詰めされた衣類……うちのチームの女子サッカー用ユニフォームと不透明な袋がビクトリーノに渡された。
「それじゃあ、終わるまで誰も開けるなよ」
ビクトリーノが再びシャワールームのドアを開け、内側から鍵をかけた瞬間、ロッカールームに取り残されたチームメイトが一瞬にしてざわつきはじめる。
「マジで女になったんだな……」
「練習とかどうするんだろうな」
「というか、なんでビクトリーノが身体のサイズ測ってんの?」
「相棒が信用できなかったとか?」
そう言って、今度は俺の方に痛い視線が集まった。
話はだいたい一時間前までさかのぼる。
いつものようにミーティングルームに入ると、いつもシェスターが座っている席に知らない女の子が座っていた。女の子はどこか不安そうな顔で携帯をいじっていて、俺に意識がいっていないようだった。可能性は低いけど知らない間に迷いこんだのか、それとも厄介なファンが忍びこんだのか。どっちにしてもミーティングルームにいられると困るし、この場には俺しかいない。気は進まないけど部屋を出てもらうために声をかけようとしたそのとき、俺の頭に色んな疑問が浮かんだ。
女の子の服が、身体のサイズに全然合っていない。それに彼女が着ている大きめの服、というより男物の服にはどこか見覚えがある。そして何よりこの女の子は……シェスターによく似ている。きらきらでさらさらの金髪、透き通るように綺麗な青い瞳、それから嗅ぎ慣れた香水の匂い。一体どういうことだと考えていると、女の子が俺に気がついた。
「マーガス」
「え?」
呼ばれた名前に、全身が固まった。いやいやもしかしたらうちのチームのファンで俺の名前くらい知ってるのかもしれないし、俺が彼女を知らなくても彼女が俺を知ってるのはおかしいことじゃない。それよりも彼女をミーティングルームから出さなきゃと思ったところで、女の子がとんでもない言葉を投げかけた。
「俺だ。朝起きたら……女になっていた」
「ええっ⁉」
あまりにも衝撃的な言葉に腰を抜かしそうになるのと同時に、浮かんだ疑問が一気に解決してしまう。たしかにシェスターならこの部屋にいるのも当然だし、俺の知ってるシェスターによく似ているのも当たり前のことだ。それによくよく見ると、今着ている服だってシェスターの普段着だ。
でも、どうしてシェスターが女の子になったんだろうか。というか、普通に考えれば突然女の子になるなんてありえないじゃないか。ただ、目の前の女の子がシェスターなら納得できることが多すぎる。
「ここに来る前に監督やコーチと話をさせてもらった。とりあえずドクターの診察を受けて、チームメイトにひと通り状況を説明することになったんだ。一応今日の服はチームで用意してくれるらしい」
「そ、そっか……」
話しぶりは冷静だけど、シェスターの表情には不安や焦りが見える。そりゃあ当然だ。朝起きたら女の子になっていて、しかも原因も対処法もわからないんだから。いつ元の身体に戻れるのか、本当に元の身体に戻れるのかもわからないんだから。
どう声をかけていいのかもわからなくて気まずい時間を過ごしていると、ミーティングルームのドアが開く音が聞こえた。ドアの向こうには監督とコーチ、それからチームのドクターの姿が見える。
「診察に行ってくる。それからミーティングルームのどこかにメジャーがあるはずだから、ビクトリーノが来たら渡しておいてくれ」
「え?ああ……」
そう言い残すとシェスターは俺に背を向けて、監督達に連れられるように部屋を後にする。俺は言われた通りにメジャーを探して、他のチームメイトの到着を待った。
ミーティングルームに来たビクトリーノにメジャーを渡して、後から来たチームメイトとミーティングの時間を待つ。がちゃりと開けられたドアの向こうには、監督の姿しか見当たらなかった。
「今日のミーティングはロッカールームで行う。あと、ビクトリーノだけ先にロッカールームに向かうように」
「あ……はい」
俺からメジャーを渡されたとき同様頭に疑問符を浮かべながら、ビクトリーノは一人ロッカールームへと走っていく。何も状況を呑みこめていない一同に向かって監督が話を切りだした。
「突然のことで信じられないと思うが、うちのシェスターが女性の身体になってしまった」
言葉だけ聞けば冗談だと思ってしまいそうだけど監督の表情は真剣そのもので、誰もその言葉を疑うことはなかった。
「ドクターの診察が終わって、今は着替えのためにシャワールームにいる。ビクトリーノは向こうのスタッフが事情を説明して、身体のサイズを測る手伝いをしているはずだ。私達は着替えが終わるまでロッカールームで待機する」
「は、はいっ!」
有無を言わせない口調に勢いだけの返事をして、みんなで監督の後ろをぞろぞろとついていく。そして俺はロッカールームに向かいながらもひとつの疑問を浮かべていた。
(シェスター、なんでビクトリーノに手伝いを任せたんだ?)
そうして俺はみんなと一緒にロッカールームに入って、今に至る。
なんだかんだ言って、ブレーメンコンビとしてシェスターの相棒をやっている自負はあった。だけど、女の子になったシェスターが真っ先に頼ったのはビクトリーノだった。シェスターに鈍感だとしょっちゅう言われるけど、今回ばかりは俺に集まる視線を痛いほど感じる。みんなが考えることは俺と同じだと思うし、俺だって考えてることの答えがわからない。
だんだんと気分が落ちようとしていたそのとき、シャワールームの鍵が開いた。
「終わったぞ」
ビクトリーノがドアを開け、もう片方の手で手招きをする。シャワールームから出てきた女の子……シェスターの姿に、ロッカールームで待機していたメンバー全員が大きな溜め息を吐いた。
最初に見た時には驚きの方が大きくて意識しなかった“女の子としてのシェスター”が、俺達の前に現れる。すこし長めの、きらきらでさらさらの金髪。いつもよりすこし大きく見える、透き通るように綺麗な青い瞳。いつもより長いまつ毛に、ふっくらとしたピンク色の唇。ユニフォームのパンツから伸びる、眩しいくらい綺麗な脚。そして選手としての筋肉がついてもすらっとしていた身体は、その印象を残しながら女の子の身体の丸さと膨らみを持っている。
そう、普段あれだけハンサムでモテるシェスターが女の子になって、美少女にならない訳がなかったんだ。チームメイトの誰もがシェスターであるとわかっていながら、一瞬で見とれてしまうほどだった。俺も例外ではなく、目の前に現れたシェスターの姿に胸がどきどきしっぱなしだ。
そんな俺達を一瞥して、シェスターが苦笑いをする。そしてシェスターの着替えを見たはずなのに何ひとつ表情が変わらないビクトリーノに、シェスターは礼と一緒に言葉を繋げた。
「やっぱりビクトリーノに任せて正解だった。お前なら下心もなくさっさと測ってくれると思ったからな」
「まあいくら美少女でもシェスターだしな。あともっと情熱的で明るい子の方が好みだし」
(シェスターってわかってても美少女なんだよなあ……)
どうしてシェスターは俺じゃなくてビクトリーノを頼ったのか、俺だけでなくチーム全員が納得した。シェスターは万が一でも変な気を起こされる可能性を考えて、最も可能性が薄いだろうビクトリーノに任せることにしたのだ(実際、シェスターの読みは悲しくなるほど当たってしまった)。まだ収まらない胸のどきどきを抱えつつシェスターにすっかり見透かされて落ち込む俺を察してか、ビクトリーノが生暖かい目を向けながら俺の肩をぽんと叩いた。
こうして俺達ブレーメンの選手達はチームの司令塔に起こった事態を受け入れないといけなくなったわけだけど……シェスターが女の子になったことで、午前練習の終わりは普段と全く違う空気を醸しだしていた。
(今日が公開練習じゃなくて本当によかった)
ちらちらとこっちを見てくるチームメイト、綺麗な顔で眉間にしわを寄せるシェスター、そんな中でもいつも通りの調子を崩さないビクトリーノに囲まれて、俺は食堂の席でうなだれていた。
シェスターが最初にぶつかった課題はいつもと違う身体のコントロールだった。いつもの筋トレがこなせないことは誰もが想像できていたけれど、シュート練習に入ると予想もしていなかった光景が目の前に現れた。性別から変わってしまった身体というのは全然勝手が違うらしく、ゴールに向かって真正面に蹴りだしたボールは勢いもなくいつものシュートコースと大きくずれてゴールポストに当たったのだ。愕然とした顔で振り向くシェスターに歩み寄ると、俺の胸元で小さな呟きが落ちた。
「女になっただけで、こんなに違うのか」
クールな表情で打ちだされるシュートは、繊細すぎるテクニックとあの身体があって初めて決まるもの。それは見ている俺よりもシェスター本人の方が実感しているはずだ。いつもより背の低い相棒が身長以上に小さく見えて、それがあまりにもつらそうで、思わず手のひらが頭に乗ろうとした瞬間。ぎらりと輝いた瞳で俺のしょぼくれた視線を撃ち抜かれた。
「悔しくてたまらない、もう一度打ってくる」
それだけ言って、シェスターは再びグラウンドに戻っていく。そしてゴール前に置いたボールに向かって右足を大きく振りぬいた。
「さっきより良くなったな」
「……そうだな」
いつもと同じとはいかないけど、さっきよりも勢いの乗ったシュートがゴールネットを揺らす。その様子を俺の隣で見ていたビクトリーノが漏らした一言に、俺は大きくうなずいた。
大きな課題にぶつかり、それでも乗り越えようとするシェスターの熱はすさまじいものだった。スタミナの差はあれどいつもと同じ練習メニューを周りと同じようにこなし、今の身体の使い方を覚えて最高のパフォーマンスを引き出そうとしていた。最初は見当違いのところに飛んでいたシュートやパスもすこしずつ狙ったところに近づいていって、午前練習の最後に出されたセンタリングは俺の頭に向かってピンポイントで飛んできた。
「よし!」
「やったなシェスター!」
俺のヘディングで繋ぎきったゴールに、練習とは思えないほどの歓声が起こった。いつもと違うけれど、それでも俺のところに飛んできたセンタリングに心の底から嬉しさが湧いてくる。ああ早くこの喜びを分かちあいたい、そう思ってシェスターの方を向いた俺は……いや、チームメイトも一瞬にして静まりかえってしまった。
「やったぞマーガス!……マーガス?」
笑顔でサイドから駆け寄ってきたシェスターが、俺達の異変に気づいて困惑の表情を浮かべた。
シェスターが駆け寄ってきたとき、俺達は改めて思い知らされたのだ。いくら正体がチームの華麗なる司令塔だとしても、今のシェスターは男ばかりのチームに突如として現れた美少女だということを。汗ばんだ顔の輪郭に張り付いて濡れた金髪、走り続けて上気した頬。汗でユニフォームが張り付き、くっきりと見える身体のライン。すこし荒めの呼吸に合わせて上下する胸と肩、汗でちょっとだけつやっとしている脚。何よりも、そんな美少女から向けられる眩しくて素敵な笑顔。いきなりぶつけられた衝撃にビクトリーノを除いたチーム全員が息を呑み、俺はころりと落とされてしまった。そして午前練習の終わりを告げるホイッスルが鳴っても動かない俺達の視線に、シェスターの表情も一瞬で変わってしまった。
「そんな目で見るな!!」
チームメイトから向けられる下心に怒りの一声を飛ばして、シェスターが俺達に背を向けグラウンドから走り去っていく。俺達はシェスターの後をもたもたと追いかけて、必死に頭を下げたものの、結局シェスターの機嫌が直らないまま昼食の時間が始まった。
いつものようにシェスターの両隣に俺とビクトリーノが座って、一斉に昼食に口をつける。いつもと違うところがあるとすれば……いや、今日の昼食はいつもと違うところだらけだ。シェスターの食事量がいつもよりずっと少なくて、チームメイトが一口ごとに俺達、というよりシェスターを見てくる。シェスターの眉間にはしわが寄りっぱなしで、肩が余ったジャージのジッパーは首までしっかり上がっている。ビクトリーノに助けを求めようとしても、チームメイトに下心を持つやつが悪いとでも言いたげな顔でこっちを見返してくる。いや、実際下心を持つ方が悪いんだけど。
とっくに空になった食器を前にして、俺はがっくりと肩を落として溜め息を繰り返す。シェスターは女の子の身体になっても前向きに、誰よりも真剣に練習に取り組んでいた。それなのに仲間に“そういう目”で見られて、相棒の俺でさえずっと意識しっぱなしで、気分がいいわけがない。そう、あくまでいつも通りの態度を崩さずにいるべきだと頭ではわかっている。わかっているんだけど、やっぱり俺はどきどきしっぱなしだ。どきどきしっぱなしだからこそ、シェスターを怒らせたことにこんなに落ち込むんだ。
(どうしてこんなにどきどきするんだ。女の子でも、シェスターはシェスターなのに)
頭の中で同じ疑問をぐるぐると繰り返して、それでも答えは出ないまま昼休憩の時間が終わる。午後練習はどうかいつも通りにやれますように、そんなことをどこともわからない場所に祈りながら、俺は再びグラウンドへと向かった。
シェスターの肌の露出が減ったからか、それともチーム全員がこのままではまずいと思ったからか、午後練習は午前練習よりもずっとまともな空気になって、そしてあれだけ露骨に向けられていた視線はみるみるうちに減っていった。練習が続くにつれてシェスターのスタミナ切れはあったものの、足りないところをテクニックで補うことで練習試合では他のメンバーに遅れを取ることなく動いていた。無事に午後練習も終わってチーム全員が汗を流して着替えようとロッカールームに向かおうとすると、一人のスタッフがシェスターを呼び止める。スタッフとシェスターだけですこしばかり何かを話して、それからシェスターが俺の方へと駆け寄ってきた。
「先に上がった女子チームのロッカールームとシャワールームが使えるらしい。今日と明日の着替えも用意してあるから、俺だけそっちに行くことになった」
「そ、そっか……女子の方使うんだ……」
「変な想像はしない方がいいぞ。別に女子チームと一緒に着替えるわけでもないし、いるのはドクターと女性スタッフだけだ」
「へ、変な想像なんてしてないって!」
「ああそれと、ロッカールームの荷物はそのままだから後で持ってきてくれないか」
「あ、それはわかった」
「それじゃあ」
女子チームのロッカールームに向かって、シェスターは一人小走りで去っていく。当たり前だけど、いきなり女の子になってしまうのはこんなにも大変なんだと他人事として思うのがなんだかもどかしくて、でも自分に出来ることといえば荷物を持ってシェスターを迎えに行くぐらいしかなくて。とりあえず頼まれたことだけはちゃんとやろうと思いながら、俺はチームメイトからすこし出遅れる形でロッカールームのドアを開けた。
早く迎えに行きたい一心で誰とも喋ることなくシャワーで汗を流して、着替えもそこそこにシェスターの荷物をまとめようとしたそのとき、ビクトリーノが思い出したように俺に向かって言葉を投げた。
「そういえば」
「どうした?」
「シェスターが次の試合までに男に戻れなかったらどうなるんだろうな」
「……あ」
ビクトリーノが投げかけた疑問に、背中の方から変な汗が出る。シェスターが真面目に練習するものだから忘れてたけど、もし試合までに男に戻れなかったらシェスターは試合に出場することができない。それに、いつまでチームはシェスターが男に戻るのを待ってくれるのかも考えなくちゃいけないはずだ。あまり考えたくはないけど、もしこのままシェスターと一緒にグラウンドに立てなくなったら……俺は、どうなるんだろう。
「シェスターが戻らなかったら……」
「司令塔がいないまま、俺達だけで戦うしかないな」
「そうだよな……もし、シェスター抜きで」
これからも、と言いかけて俺はとっさに口をふさいだ。そんなことを言っても不安になるだけだし、何よりも本人が一番気にしているはずだ。今はそんなことを考えるな、とにかく荷物を届けに行かなくちゃいけない、そう思った俺は急いで自分の荷物をバッグに突っこんだ。
「まあ、そのときはそのときで考えようぜ!お疲れ!」
「マーガス」
何か言いたそうにしていたビクトリーノに気づかないふりをして、二人分の荷物を抱えてロッカールームを飛びだす。普段は行かない道を練習終わりの身体で駆け抜けていく。女子チームのロッカールームで急停止してノックをしようとしたところで、目の前のドアが開いた。
「マーガス?」
中から出てきた女の子……シェスターは、ぜえぜえと息をする俺を不思議そうに見ながら立ちつくす。深呼吸を繰り返してなんとか呼吸を整えて、シェスターの方に視線を向ける。朝に会ったときと違って、今のシェスターにぴったりと合ったサイズの白いシャツに黒のカーディガン。八分丈くらいの細めのパンツはきつくはなさそうだけど、太もものラインをしっかりと見せている。くるぶしまでのソックスに黒いスニーカーもシェスターのオーダーに合わせてスタッフが用意してくれたんだろう、片手に持ってる紙袋の中身は多分明日の着替えだと思う。
シンプルで洗練された服は、今のシェスターによく似合っている。本当はそんなことよりもっと気にすることがあるのにと、ためらいで痛みながらも高鳴る胸の鼓動を自覚しながら抱えてきた荷物を渡す。シェスターはバッグの中身をひと通り確認すると、ありがとうと一言言って俺の服の袖をそっと引いた。
「帰ろう」
「うん」
シェスターと並んで、出口まで無言で歩いていく。外に出るまで袖を引かれ続けていたことに、俺はやっぱりどきどきさせられていた。
いつものようにシェスターと肩を並べて帰っているのに、俺の目から見える景色はいつもとまるで違っていた。いつもシェスターは帽子を目深に被っていて、それでもファンに見つかってはちらちらと見られたりはしゃぐ声が聞こえたりしていた。それなのに、今は俺とシェスターの存在に誰も気づかない。シェスターが帽子も被らず、俺の隣を堂々と歩いているのにもかかわらずだ。
(まあ、シェスターが女の子になったなんて思いもしないだろうし)
俺すら気づかれないのはちょっと寂しいけど、何も気にせず帰れる感覚は久しぶりで悪くはない。誰の視線も気にせず、誰の声も届かず、ただ今日の練習内容や診察について(なるべく)いつもの調子で話しながら街を歩いていく。人通りの多い道を抜けてそろそろ分かれ道に差し掛かろうとしたそのとき、シェスターが俺の服の袖をまた引いた。
「……どうしたの」
シェスターに問いかけた声が、すこしだけうわずる。立ち止まって俺を見つめる瞳があまりにも綺麗で、胸の鼓動がどくんと高鳴るのを感じる。シェスターはすっと小さく息をして、すこし気まずそうに言いだした。
「監督と相談したんだが……俺が戻るまで、いや、すこしの間だけ、お前のところに泊まってもいいか」
「えっ⁉︎」
「チームとしても俺のことを公表するか迷っているらしい。ただ、どっちにしても俺の家に女が入るのを見られたら大問題になりそうだと」
「あー、たしかに……」
突然の頼みにびっくりしたものの、理由を聞けば納得できる。たしかに、“あの”フランツ・シェスターに女の子の影となったらチームを揺るがすスキャンダルになりかねない。そこで俺を頼るのもまあ、シェスターにとってもチームにとっても色々と都合がいいからだ。
「いいけど、部屋汚いぜ?」
「今更だろう」
「うっ」
ぴしゃりと言われる言葉にちょっとだけダメージを受けつつ、それでもどこかほっとした表情になるシェスターにこっちもほっとさせられる。今度は俺がシェスターのカーディガンの袖を引いて、俺の家まで一緒に歩いていった。
家に帰ってから二人で過ごす時間は、意外なくらい穏やかに過ぎていった。着替えや最低限の生活用品はチームが支給してくれたし、夕飯も適当に買ってきたもので済ませてしまって、あとはシャワーを浴びてサッカーの試合でも観ようかなんて話をする。シェスターが女の子になっても、俺の家に泊まりにきて二人でやることは何も、本当に何も変わってはいない。
(さすがにパジャマまでは支給してもらえなかったけど、まあ大丈夫だったな)
交代でシャワールームに向かうシェスターに俺のTシャツとタオルを貸して、髪をタオルで拭きながらシェスターの帰りと試合の始まりを待つ。下はさすがに合うサイズが見つからなかったけど、体格を考えたら上だけでも問題ないだろう。俺は冷蔵庫を開いて、中の缶ビールを一本開けながらぼんやりと考えた。
(シェスターが出たらもう一本持ってきてあげよう)
今日のシェスターはどれだけ大変な目にあっただろう。突然女の子の身体になって、練習がいつも通りにできなくて、チームメイトは……情けないけど俺も変な目で見ちゃって。一人だけ悪い意味で特別扱いされて、試合に出られないかもしれないなんて思って、何もわからないまま今までのサッカーができなくなる不安を突き付けられるのは、どれだけ辛くて寂しいことなんだろう。きっと俺の抱える不安や心配や困惑なんか、本人のものに比べればちっぽけなんだろう。想像もできないほどのものを抱えたシェスターに俺ができるのは、せめていつも通り労ってやることくらいだ。
(ちょっとだけ落ち着いてきたし、あとはこのままいつも通りに)
まだシェスターにどきどきすることはあるけどさすがに午前練習のときほどじゃなくなったし、このまま何事もなく一緒に試合を観られたらと淡い期待を抱く。シャワーの音と切り替わるようにバスルームのドアが開く音を聞いて、俺は冷蔵庫から缶ビールをもう二本持っていく。缶ビールをソファの前のテーブルに置いて、先に開けていたビールを飲み干したそのとき、座っていたソファが軽く沈んだ。
「ありがとうマーガス、Tシャツだけでなんとかなった」
「おう、それはよかっ、た」
視線を下ろして見えたものに、俺は慌ててシェスターから目をそらす。まずい、今視線を下げたら本当にまずい……そう身体中が警告するようにじわりと汗をかく。何度呼びかけても顔を合わせない俺に、シェスターも何があったか気がついたらしい。二人用のソファで俺達は精いっぱいの距離をとった。
「……すまない」
「……ごめん、シェスターのせいじゃないのに」
視線を下ろした先に見えたのは、風呂上がりのシェスターだった。それだけなら問題はなかったけれど、俺の背がシェスターよりずっと高いのが問題だった。俺の目からはシェスターの色んなものを見てしまう。例えばTシャツからきわどく伸びる脚とか、それからサイズの合わないTシャツの隙間から覗く胸とか……チームから支給されたであろう何の飾りもない下着とか。
あれだけどきどきしないとか、いつも通りとか思ってたくせに、いざそういう姿を見るとやっぱりどきどきして、こうして気まずくなってしまう。こんなつもりじゃなかったのに、やっぱりシェスターを、とびきり素敵な美少女を意識してしまう。
「……試合始まるしさ、とりあえずビール飲もう」
「……ああ」
視界の隅っこでシェスターが缶ビールに手を伸ばし、いやに行儀よく手元の缶を開ける。テレビ越しの会場とは対照的に静かな空気の中、試合開始のホイッスルが鳴った。
いつもなら二人でおおいに盛り上がって色々喋れるような試合が進んでいるのに、俺達の会話は全くと言っていいほどはずまなかった。ただただ気まずくて、でも試合からは目が離せなくて、妙に緊張する時間が流れていく。俺達が取った距離は、一ミリも縮まってはいない。
ふと、なるべく視線は下げないで、“女の子の身体”をできるだけ意識しないようにして試合を観るシェスターの横顔を見ようとした。試合を観るシェスターの顔はどこか懐かしいものを見ているようで、そして何より寂しそうだった。
「マーガス、俺は」
不意に名前を呼ばれたことに肩がびくつく。それでも続きの言葉を知りたくて、繋げたくて、聞いているということがわかるよう首だけ縦に振る。
「このまま、試合に出られなくなるのかな」
「そのうち、お前とサッカーすることもできなくなるのかな」
「同じグラウンドに、立てなくなるのかな」
なるべく淡々と、達観しようとしているようなその声が、ひどく寂しかった。気まずさよりも、遠くに行ってしまいそうな顔をする相棒の隣にいたくてたまらなくなった。精いっぱいの距離を取ったままのシェスターに、身体がすこしずつ近づいていく。伸ばした手のひらでシェスターの肩を抱き寄せると、穏やかな温もりが肌に伝わった。
「……俺は」
「俺は、シェスターとサッカーを続けるよ」
「シェスターが元に戻っても、もし……考えたくはないけど、もし同じグラウンドで試合ができなくなっても」
「そこが試合の場じゃなくなっても、ずっと一緒にサッカーしたいよ」
テレビの中の熱狂がどこか遠く聞こえて、俺達だけがじわりと温かくて、もう試合がどうなっているのかもわからない。そんな空気が流れる中、鈴の音のように澄んだ声が俺の耳を捉えた。
「マーガス」
俺を見つめるシェスターの目に、大粒の涙が溜まっていく。
「俺は、俺は」
震える言葉の代わりに、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちていく。綺麗で悲しくて切ない頬に、俺の涙が落ちて流れていく。こんなはずじゃなかったのに、いつも通り労って、安心させてあげたかったのに。どうしてこんなにも寂しくて、悲しくて、それから。
(こんなにも、シェスターがいとおしいんだろう)
かける言葉も見つからないまま、口が小さく開く。目の前で涙を流す女の子の、シェスターの頬を包んで、軽く顎を持ち上げる。どうしてこうしているのかも、どうして泣いているのかもわからないまま、俺は、俺達は。
「……」
周りの音が何もかも消えて、この世界には俺達しかいないような錯覚。永遠とも一瞬とも言える時間。唇から、触れる肌から伝わる、柔らかくて温かい感触。すこし苦しくて、それでも心地いい呼吸。そしてどくどくと響くような、胸の高鳴り。
俺が、俺達がしていたのは、幻みたいに溶けていくキスだった。