With you   作:タニシカレー

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With you・後編

 初めてのキスは、ビールと涙の味だった。

 夕飯で何を喋ったか、一緒に観た試合はどんなスコアでどっちのチームが勝ったのか、全く思い出せない。あの後に何か喋ったかもしれないけど、それも覚えていない。何時くらいに寝たかも、はっきりわからない。ただ、キスをしたときのことだけははっきり頭の中に残っている。寂しい言葉も、綺麗な涙も、触れた唇の感触も、身体が離れたときの名残惜しい指の動きだって。何もかもが溶けて何事もなかったかのように迎える朝でも、キスのことだけが頭から離れない。

(まだ一時間くらいは寝られるかな)

 携帯で時間を確認して、シェスターと一緒に包まっていたシーツの中にもう一度潜る。シーツの隙間から見えたシェスターの身体は、女の子のままだ。

「シェスター……」

 シーツを動かしても起きない相棒の寝顔を、真正面からまじまじと見つめる。あんなに涙を流した次の日の朝でも、無防備な寝顔はこんなにも穏やかで綺麗だ。俺はそんなシェスターの頬にそっと触ろうとして、あとすこしってところで手を引っこめた。寂しさを分かちあうようにキスをして、二人して狭いベッドに寄り添いながら眠って、おまけに綺麗だなんて思いながら寝顔に触ろうとするなんて、まるで恋人扱いじゃないか。

(そうだ。俺達は親友や相棒であって恋人じゃないんだ。恋人じゃない……)

 頭ではわかってるつもりだ。あのキスはただ寂しさと気まずさと勢いがごちゃごちゃになって、俺もシェスターもそういう雰囲気になっちゃっただけだ。でも、そうとわかっていても、どうして俺はシェスターにまだどきどきしちゃうんだろう。シェスターがとびきり素敵な女の子になったからか、それとも、とびきり素敵な女の子になってもシェスターはシェスターだからなのか。俺はどっちを意識して、どっちにどきどきしているんだろう。

(この気持ちは、一体なんて言えばいいんだろう)

 答えも言葉も何も出ないまま、朝の時間はゆっくりと過ぎていく。俺は眠りにつくかつかないかという意識のまま、シェスターの寝顔をぼんやりと眺め続けていた。

 

 昨日は突然のことでチームの空気が全然違っていたけど、今日はチームメイトもさすがに落ち着きを取り戻しているみたいだ。シャワールームでシェスターが着替えることもあまり気にしないで、それでも時々シェスターの方をちらっとは見るけれど、午前練習に入る頃にはみんないつもみたいにシェスターと戦術や練習内容について真面目に話をしている。

「マーガス、ちょっと来てくれ」

 ふと、ビクトリーノと何か話していたシェスターが俺を呼ぶ。どうやら俺達三人で最前線に駆けこむときの話をしているみたいだけど、ちらりと見たシェスターの表情に話の内容がぼんやりとしていく。

(唇……)

 ちゃんと話を聞かなきゃいけないのに、シェスターの唇のことばかり頭に入ってくる。唇が動く度に、昨日のキスのことが頭を駆けていく。ああ思い出したらどきどきするじゃないか、今はそんな気持ちになっちゃいけないのに。

「おい、大事な話だぞ」

 すこし上の空になっている俺の意識を引き戻すように、ビクトリーノが俺の背中を叩いた。びくりと肩を跳ねさせて真っ直ぐ立つ俺を見て、シェスターも察するところがあったらしい。俺にどこから話せばいいかきいて、話の合間に聞いているかの確認までしてくれた。

「午後練習で試すから意識しておいてくれ」

 そう言って、シェスターはベンチに座る監督のもとへと走っていく。遠ざかっていくシェスターの後ろ姿をぼんやり眺めていると、もう一度背中をばしっと叩かれた。

「あまり見惚れるなよ。プレイに支障が出るぞ」

「見惚れてなんか」

「バレバレだし、そんな顔までするのはお前だけだ」

 呆れ顔と溜め息混じりに言われた言葉に、背筋が妙に伸びる。ビクトリーノはあえてそうしているのか、俺の方は向かずに言葉を繋げた。

「お前、シェスターに下心以外の気があるな」

「……そう、だな。うん、そうだよ」

「プライベートのことだし、何があったかは聞かない。ただ、グラウンドに上がったらそれはどこかに置いておけよ。シェスターも自分のせいで浮つかれたくはないだろ」

「……うん、本当にその通りだ。俺もビクトリーノみたいに、いつもと同じようにできたら」

 俺の言葉にビクトリーノがまた溜め息を吐く。相変わらず俺の方は見ようともしないけど、表情は呆れ顔とは違う柔らかさを持っていた。

「俺が平気でいるのは、お前ほどシェスターと親しくないからだ」

「えっ」

「サッカー選手として敬意を払っても、お前ほど近くで過ごしてシェスターの色んなところを見てきたわけじゃない。俺にはいくら女になってもシェスターはシェスターだとしか思えない」

「そう、なのかな」

「ああ、お前にとってはシェスターがただただ特別だって話」

 特別、という言葉の響きがやけに身体の中でじんわりと回っていく。ああたしかに、俺にとってはシェスターは特別な存在だ。一緒にサッカーをする相棒として、プライベートでの親友として、他の人には絶対に代えられない。

 でも、それは俺がどきどきする理由になるんだろうか。俺にとっての、シェスターに感じる「特別」って、一体なんなんだ。

「特別、かあ」

「練習試合が始まる前に悩みまくっておけ。試合にまで引きずってきたら承知しないからな」

「あ、ああ、うん……」

 どこか浮ついたままの俺にもう一度釘を刺して、ビクトリーノもグラウンドの外へと駆けていく。一人取り残された俺も筋トレに行こうと、グラウンドの外へ歩きだした。

 午前練習が終わり、全員揃って待ちに待った昼休憩に入る。食堂は昨日と違っていつもの和やかな雰囲気を取り戻し、シェスターの機嫌も悪くはない。ただ、やっぱり女の子のシェスターは食事量が俺よりもずっと少ない。

「シェスター、その量で大丈夫なのか?」

「ああ、これくらいで十分だ」

 控えめに盛られた食事を淡々と運ぶ指先、すこしゆっくりと食事を噛み砕く口の動き、男ほどはっきりはしないけど飲みこむ度に動く喉元。食事ひとつ取っても綺麗な姿に、一口噛んで飲みこんでは視線を奪われる。そうして最後の一口を飲み下して水をあおったシェスターが、今度はこっちを見つめてくる。

「……何だよ」

「いや、食べるの綺麗だなって」

「いつもこうだし、お前はもうすこし綺麗に食べろ」

「俺そんなに食べ方汚い?」

 俺とシェスターのやりとりに、ビクトリーノがこらえきれない笑いを見せる。チームの中では比較的新顔で、遥か遠く南米の国からやってきたチームメイトにとって、俺達のいつものやりとりはなんだか面白く見えるらしい。昨日は過ごせなかった休憩中の穏やかな時間に内心ほっとしていると、シェスターが突然指を俺の口元に差し出した。

「ほら、まだ口元についてるぞ」

 細くてしなやかな人差し指が俺の唇を、顎をそっと掠める。散々やられたことがある、いつもなら気にもしない触れ合いなのに、俺の身体は一瞬で固まってしまった。

「あ、っ」

「あ……」

「あー……」

 俺の様子を見てシェスターは気まずそうな顔に、ビクトリーノはやってしまったなと言うような顔に変わっていく。俺が“シェスター”を意識すると俺もシェスターも変な雰囲気になって、周りの空気も変わってしまう。わかってるのに、変な空気になんてなりたくないのに、なんでこうなるのかな。

「……俺、先に練習行ってくるよ」

「マーガス」

 とっくに空になった食器をトレーに乗せて、二人を置き去りにしてさっさと片付けにいく。疑問と自己嫌悪を頭の中でぐるぐると繰り返しながら、俺は誰よりも早くグラウンドに足を踏み入れた。

 

 午後練習の最後のプログラム、練習試合を前に俺は大きな不安を抱えていた。今日の練習試合では午前練習で話した作戦を実践することになっている。だけど、俺はその作戦を成功させる自信が全くと言っていいほどなかった。シェスターからもらう作戦指示はそう難しいものじゃない、だけど俺が、俺自身が集中力を欠いていたら絶対に成功しない。

 今の俺に、シェスターの一挙一動に振り回される俺にやれるんだろうか。いや、やるしかない。できなきゃいけないんだ。練習試合とはいえグラウンドに立つプロに、自信がなかったなんて言い訳は許されない。

「いけるか」

「やる」

「それでいい」

 それだけの言葉を交わして、ビクトリーノとセンターサークルの中に立つ。誰にも悟られないようそっと深呼吸をして、試合開始のホイッスルを合図に俺は敵陣めがけて大きく走りだした。

 練習試合はシェスターが予想していた通り、お互いに点を取れない状況が続いていた。ボールを持ってる時間が長いのも攻める機会が多いのも俺達の方だけど、肝心のパスが俺にもビクトリーノにも届いていないのだ。

(こうなることを予想して作戦を立てたらしいけど……)

 どうにかしてマークを外せるか様子を伺ってはみるものの、俺の足が動けば目の前の相手選手がぴったりとついてくる。ビクトリーノも様子を伺っているみたいだけど、向こうもマークを振り切って前には行けないようポジションを取られているらしい。そして何より、さっきからボールを奪ってはドリブルで相手を抜き去ろうとするシェスターに激しいチャージが容赦なく当てられていた。

「く、っ」

 ひと際大柄な選手のチャージを避けきれず、シェスターが体勢を崩してボールを取られるのを見過ごさなければいけないのは中々につらい。相手になった選手達はいつもと同じかそれ以上にチャージを仕掛けてくる。だけど、それをかわすシェスターのスタミナはいつもより圧倒的に少ない。それでもシェスターはわずかなチャンスでパスを送ってくれるけど、俺達の頭上や足元に来る前にことごとくカットされてしまっていた。

(いつもの……いや、それは考えるな)

 もしシェスターの身体が男のままなら、と思わないわけがない。でも、今はそんなことを考えている場合じゃない。シェスターが今の身体で決めるための作戦を立てたのなら、俺はその気持ちに応えたい。悔しい思いをするほど燃えあがり、眩しく鋭い輝きを見せる相棒のプライドに、俺もついていかなくちゃいけないんだ。

 そうしてじりじりと気持ちだけが焦る前半の終了まであと数分、俺達が信じて待ちに待った瞬間がとうとうやってきた。シェスターがチャージをかわしマークを振り切って、最前線まで上がりこんできたのだ。

「よし、いけるぞシェスター!」

「早くボールを奪え!そいつらのマークは外すな!」

 フェイントで最初の一人を抜き去ったシェスターを追うように、相手チームの守備陣が下がってくる。そして相手が追いつく寸前、シェスターの身体がビクトリーノの方向へ向いたその瞬間、俺は一瞬だけぎらりと輝く瞳と視線がかち合った。

(今だ!)

 誰もがビクトリーノの足元へ向かうだろうと思っていたボールは、ほとんど前に飛ばずに上空へと舞う。俺は一瞬の隙を見て、ぴったりくっついていたマークを振り切ってシェスターめがけて走り出した。

(滅多にいない場所、滅多に狙わない角度、だけど)

 いつもと違うパスの軌道と俺の動きに気づいた相手が俺の後ろから迫ってくる。ビクトリーノのマークが一層厳しいものになって、キーパーはポストプレイからのシュートに備えている。俺は強く地面を蹴りだして、胸を張り頭を大きく後ろに下げて、俺の頭にピンポイントで送られたボールに全力のヘディングを叩きこんだ。

(これがシェスターの指示だ、絶対に決める!!)

 頭を振りぬいて着地をするまで、音という音が一気に遠くなるような感覚。両足がしっかりと芝生を踏みつけるのと同時に前を向いた瞬間、前半終了のホイッスルと共に弾けるような笑みを浮かべたシェスターが駆け寄ってきた。

「決まったぞ!」

「決まった……決めた!決めたぞシェスター!」

 勢いのまま、思わず強くシェスターの身体を抱きしめる。腕の中に収まる身体は泥だらけで、お互いの身体は汗でべとべとで、それでも感触は柔らかい。俺はそんな感触にどきどきすることなく、でもじわりとにじむようないとおしさを感じながら、視界の端っこにゴールポストぎりぎりに収まったボールを見つけた。

 前半終了直前に大事な一点を決めて迎えた練習試合の後半は、シェスターを抜きにしたメンバーで点を守ることになった。ケガはしていないものの体力をひどく消耗していたシェスターは、後半でのスタミナ不足とケガの可能性を考えてベンチに下がることになったのだ。

「……」

 ぐったりと頭を下げるシェスターにかける言葉を頭の中で探す。フルで出られないことを気にしてるかもしれない、身体の疲れが思った以上にあるのかもしれない。そう思いながら話しかけようとしたとき、下がっていた頭がゆっくりと俺の方を向いた。

「後は頼んだぞ」

 真っ直ぐ向けられた言葉と視線に、呼吸を忘れそうになる。悔しさも疲れも見せようとしない、抑えきれない闘志を見せながら後を託すその表情は、ありとあらゆる言葉を消し飛ばすほど綺麗だった。

「うん」

 残った言葉をなんとか絞りだすと、シェスターの表情がすこしだけ柔らかくなる。それでもまだ視線に撃ち抜かれて穴の開いたような身体を引っ張って、俺はベンチを後にする。一歩踏みだす度にすこしずつ塞がっていく穴と、じわじわと上がっていく熱。頭の中であの表情を思い出しては、重なりよみがえる一人の男の顔。

 あの表情には、男も女も関係なかった。俺は、シェスターの見せるあの表情が好きだ。

 司令塔のいないグラウンドに、ビクトリーノと肩を並べる。後半はシェスターのパスを受けることはできない、シェスターのテクニックに頼ることもできない。後ろを振り返る気は起きないまま、ホイッスルが後半の開始を告げた。

 

 試合終了のホイッスルが鳴った瞬間、ベンチに向かって全力疾走する。走っている間に、後半どんなプレイをしたかが頭からぼろぼろと落ちていく。とにかく必死だった。追加点も大事だけど何よりも大事な一点だけは必ず守りきる、その気持ちが俺を奮わせていた。その必死さだけ抱えて走ってきた俺を迎えたシェスターの表情は、穏やかで澄みきっていた。

「シェスター、守りきったぞ!」

「ああ、ちゃんと見てたぞ。いいプレイだった」

 シェスターが突き出した拳に、俺も拳を握ってこつんと当てる。いつもよりすこし後ろに押された小さな拳をほどいて、シェスターは頬杖をつくような姿勢で静かに告げた。

「それに……ベンチからお前を見るのも悪くなかったよ」

 ふにゃりと柔らかく笑う顔は美少女そのもので、なんだかむずむずするような告白を受けた気分になった。普段からよかったところはちゃんと褒めてくれたりはするけど、なんだかその顔と褒め方は憧れの人を見るような……いつもはシェスターが向けてもらうようなものじゃないかと思ったのだ。多分、俺の勘違いだとは思うけれども。

 ようやく試合中に女の子の身体を悪い方向に意識しなくなったのに、試合が終わった途端に心をかき乱される。心をかき乱すのは“女の子のシェスター”じゃなくて“女の子”と“シェスター”なんだと、笑顔ひとつで実感させられる。そうかな、の一言も言えないまま立ち尽くしていると、肩をぽんと叩かれる。シェスターと視線の先を合わせるように振り返ると、厳しさと野生味をすこし置いてきたような顔でビクトリーノが声をかけてきた。

「上手くいったな」

「ああ、ビクトリーノのおかげで集中していられた。ありがとな」

「俺の言葉があったとしても、最後までやり遂げたのはお前だろう。それに」

 俺の腕を引っ張って、ビクトリーノが耳打ちするようにささやいた。

「シェスターもきっと見惚れてたんじゃないか?」

「えっ、ええっ⁉」

 驚く俺をぱっと解放して、ビクトリーノがいたずらっぽく笑う。困惑する俺と俺の反応を面白がるビクトリーノにシェスターは不思議そうな目を向けて、俺達より一足先にロッカールームへと向かってしまった。

 ミーティングで今日の総括と明日の予定の確認を終えると、シェスターは荷物を持ってスタッフと一緒に女子チームのロッカールームへと向かう。ドアの向こうに消えていくシェスターを見送っていると、隣で着替えているビクトリーノに言葉を投げられた。

「寂しいか?」

「そういうわけじゃないけど、つい見ちゃうというか」

「ふうん」

 俺の方もシェスターが出ていった方も向かず、ビクトリーノは淡々と着替えを進める。昨日はシェスターの一挙手一投足に反応していたチームメイトも、シェスターを見送った様子はない。俺だけが、シェスターを目で追った。俺だけが、こんなにもシェスターを意識していた。

「とりあえず着替えたらどうだ。早くシェスターを迎えに行きたいんだろ」

「え、あの、ビクトリーノ。俺達はべつに」

「そんな関係だろ。どう見ても」

「ええ……」

 ほらほらと急かされながら、ユニフォームを脱ぎバッグの中からシャツを掴む。髪も整ってない状態で追い立てられるようにロッカールームを出ようとすると、俺に続いてロッカールームを出ようとしたビクトリーノがぼそりとつぶやいた。

「まぁ、頑張りな」

(……何を?)

 その言葉の意味はわからないけど、とりあえずシェスターを迎えに走る。息が切れそうになりながら目的地に着くと、そこにはすでに着替えを終えたシェスターが立っていた。ただ、シェスターの様子が何かおかしい。シェスターにしては、落ち着きがないというか。

「お待たせ!どうかしたの?」

「え、ああ、マーガス、これ……」

 そう言って下がる視線を追った瞬間、俺はシェスターの落ち着きのなさに納得がいった。そしてそれと同時に、意識が一瞬だけぐらりと揺れるような感覚がした。

 膝の真ん中くらいの長さのスカートから、白い脚がすらりと伸びている。履いているのはスニーカーだけど、紺色のシンプルなワンピースによく似合う。目をこすってもう一度シェスターを見ても着ているものは変わらない、シェスターが、スカートを……。

「そんなにじろじろ見るな」

「だって、だってさ、スカートは避けてってシェスターが」

「言ったし今日の着替えもあったけどさ、スタッフの人がせっかくだからって……断れなかったんだ」

 自分の着ている服に戸惑い恥ずかしがるシェスターに、俺は似合ってるという言葉をぐっと飲みこんだ。たしかに目の前の美少女の白い肌とすらっとした脚には、紺色のワンピースはとてもよく似合っている。でも、身体が女の子になったからといってシェスターの心まで女の子になったわけじゃないし、元々シェスターにはスカートを穿く習慣もない。きっと、俺が言おうとした言葉はそのままシェスターを傷つけることになるんだ。

「……とりあえずさ、帰ろう。帰って部屋着に着替えようぜ」

「ああ……」

 俺がシェスターの格好にどきどきしてることなんてバレてるんだろう。それに目の前の……文字通り可憐な女の子の姿をもうすこし見ていたいと思ってるのも否定できない。でも、それでもシェスターがスカートを脱ぎたがってるならそうさせてやりたい。俺はシェスターの手を引いて、なるべく人通りのない通路に向かって歩きだした。

 

 家までの道を早歩きで進む俺達に向けられた視線は、いつもの視線とも昨日のまばらな視線とも違ったものだった。

(歩きにくいな……)

 ちらちらとシェスターの方を向いて様子を伺う。俺の感じている気まずさというか歩きにくさを、シェスターも感じているんだとすぐにわかった。ワンピース姿の、スカートを穿いたシェスターは昨日とは打って変わって人の視線を集めていた。ただ、その視線は憧れの人に向けるようなものとは明らかに違う。

「あの子綺麗だね」

(わかるわかる、綺麗だよな!)

「隣にいるの彼氏か?」

(ただの親友だよ!)

「可愛いのにもったいないなあ」

(余計なお世話だよ!)

「美女と野獣感やべえ」

「バカ、聞こえるって」

(聞こえてるよ!)

 早歩きで通りすぎてても耳に入る言葉とシェスターに向けられる粘っこい視線に、家の方から迎えに来てくれとさえ感じる。シェスターが女の子になってスカートを穿いただけで、周りの視線が嫌で嫌でたまらなくなる。人通りが少ない道を選んではいたけど視線はまとわりついてきて、家のドアを開けたところでようやく視線から逃げきった実感を持てた。

「はぁ、はぁ……」

「あ、ごめん……早く歩きすぎたよな」

「いや、それはいい……気持ちはわかる」

 荷物を床に放り投げて、二人してソファに座りこむ。昨日は距離を取っていたのに、今はそんな気すら起きないほど疲れを感じていた。

「あんな気持ち悪い目で見られるなんて思わなかった」

 そう言って、シェスターの身体が俺の腕に寄りかかる。シェスターはまだ、部屋着に着替えようとはしない。

「それに……なんだか許せない気持ちになった」

「許せない?嫌な目で見られるのが?」

「いや、ただ歩いてるだけのマーガスがあんな風に言われたことが、俺がそう言わせたことが許せなかった」

 俺の隣に寄りかかる親友は美少女になっても、自分の方がよっぽど大変なことになってもなお、そう思ってくれるのか。そう思ってくれることが俺にとってはどれだけ嬉しいことか、嫌な気持ちがどれだけ和らいだか、不器用でも伝えることができたらいいのに。

「シェスターは気にする必要ないと思うぜ。俺ももう気にしないことにするから」

「だけど」

「俺は、お前がそう思ってくれたからいいんだ。シェスターのことはともかく、俺のことはもういいんだよ。腹が立たなかったわけじゃないけどさ」

「……そういうところをもっと見ろって、言ってやりたかった」

 寄り添うシェスターの髪で俺の腕を撫でられる感触が、すこしくすぐったい。視線の向こう側にすらりと揃って伸びた脚が、ひどく遠くて眩しい。シェスターに身を任されている、それが俺にとってどれだけどきどきすることで、そしてどれだけ温かいのか。俺はシェスターの肩に手を添えて、ゆっくりと抱き寄せていた。

「……勘違いするぞ」

「俺の方は勘違いじゃないし、たとえ勘違いでもこうしたいよ」

「勘違い、じゃないのか」

 女の子になっても綺麗な形をした手がそっと太ももに乗ってきて、俺はびくりと身体を跳ねさせる。シェスターが触れているところがどこも熱くて、でもその熱さが不思議なくらい心地いい。そんな心地よさに包まれていく俺を見つめる青い瞳は、やっぱり宝石のように綺麗だった。

「俺の気持ちも、勘違いじゃないのか」

「抱き寄せられることが、こんなに温かいのも」

「女になっても相棒でいてくれたことが、あんなに頼もしかったのも」

「俺への視線に怒りを滲ませてくれたのが、あんなに嬉しかったのも」

「あのキスの後から朝まで、ひどく浮ついていたのも」

「そしてお前とならずっとこうしていたいと、心の底から思っているのも」

「女の身体になったからそんな気分になったわけじゃないと、勘違いじゃないと、言ってもいいのか」

 シェスターの声で紡がれていく、真っ直ぐで切なくて、熱のある言葉。戸惑いながらも真剣に見つめる眼差し。そう、いつだってシェスターは言葉で、表情で、態度で、行動で、矢のように鋭く真っ直ぐに俺を撃ち抜いてきた。

 ……俺は、そんなシェスターがずっと好きだった。性別なんか関係なかった。これは、今に始まったことじゃなかったんだ。

「勘違いじゃないって言ってもいい、言ってほしい」

「俺は心の底から、明日シェスターが男に戻っても、変わらず言い続けるぞ」

「だからシェスターも言って、教えてよ」

 外で何かしらしてるだろうけど、そんな音も全然聞こえない。まるでこの世に俺達二人しかいないくらい周りも見えなくて、ぼんやりとした狭い世界で鈴の音のように澄んだ声が俺の耳を捉える。

「マーガス」

 俺を見つめるシェスターの目に涙は滲まない。

「俺は、俺は」

 次の言葉を詰まらせながらも、ほんのりと赤い顔はかすかに微笑んでいる。綺麗で温かくて穏やかな表情に、胸の高鳴りが抑えきれない。言葉を捨てて小さく口を開いて、シェスターの頬を包んで、軽く顎を持ち上げる。どうしてこうしているのかもう俺達はわかっていて、そして俺は、俺達は。

「……」

 この感覚が永遠に続いてしまえばいいと思った。唇から、触れる肌から全身に回っていくような、甘くて柔らかくて温かい感触。やっぱりすこし苦しいけど、それでも心地いい呼吸。それから響きあうような、胸の高鳴り。

 今にも溶けていきそうな、それでも確かなキスだった。昨日のものとも違う、これから繰り返すだろうキスだ。シェスターからのキスと、シェスターへのキス。シェスターが男に戻っても、女の子のままでも、多分この先この人としかキスしないだろうなと思った。

 名残惜しく唇が離れて、シェスターの綺麗な瞳がまた俺を捉える。俺は、と声にならない声を唇で繋いで、そしてごく小さな、俺だけに向けられた声で言葉の先が繋がった。

「マーガスが、好きだ」

 

 その後のことは、はっきりと覚えている。改めてお互いの気持ちを言葉で確かめたこと、二人して穏やかな夕飯の時間を過ごしたこと、テレビに映る若林のファインセーブに声をあげたこと、それから寝る前に、シェスターからある質問を投げかけられたこと。

「そういえば、俺が女の身体になってから何かしようと思わなかったのか?」

「うーん、全然」

「なんで」

「だってそういうのは段階踏んでやるものだと思ってるし、それに……元々そんな気がなかった」

「あんなに下心が見えてたのに」

「まあ、いや、それはそうなんだけどさ。やっぱり俺にとっては大事な親友で相棒だから」

「そうか」

 その一言と微笑みを持って目を閉じるシェスターにそっと寄り添い、俺も深い眠りについた。

 柔らかい朝の光に目を覚ますと、一緒に寝ていたはずのシェスターはシーツの中にいない。だけど、漂うコーヒーの香りに俺はほっとひと息を吐く。ああ、シェスターは俺のそばにいる。

 コーヒーの香りと共に、キッチンからシェスターが近づいてくる。俺よりも線は細いけどしなやかな筋肉がついた身体、女の子の丸さと膨らみを持たない身体、そしておはようと言う声の低さ。

「……戻れたのか!」

「俺も起きたら元に戻ってて驚いた。思ったよりもだいぶ早かったな」

「そうだな!よかったよ!」

 シェスターから受け取ったコーヒーに口をつけ、ベッドサイドのテーブルにマグカップを置く。ベッドの縁に並んで座るシェスターが、静かに俺に問いかける。

「サッカーの方はそうかからないうちに元に戻れると思うけど……俺達の関係は戻らなくてなくいいんだよな」

 すこし心配そうな表情がなんだかおかしくて、でもいとおしくて、俺は昨日と同じようにシェスターの身体を抱き寄せた。

「当たり前だよ、何度でも言い続けるぞ。俺はシェスターが大好きだよ」

「うん」

 お互い笑みを浮かべながら、軽いキスを乗せる。いつものシェスターと、恋人とする初めてのキスは、すこし苦くもミルクと砂糖で甘くなったコーヒーの味がした。

 

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