2月の半ば、東京レース場。今日のメインレースである第11R・共同通信杯に向けて、続々と観客が集まってきているらしいことが、雨混じりの雪が降る場外の様子からわかる。
「……」
オレは制服から橙色の体操服に着替えて、緑に白文字の10番ゼッケンを着けて控室で発走時刻を待つ。
「大丈夫か、ゾンネ?」
「うん、平気……」
再度、作戦を確認しておく。これまで通りの先行策で、自分のペースを保ってスタンド前で仕掛ける。それだけのことだ、ただ、それだけ……。
「……ゾンネ。俺は、君を信じてるから」
「……うん」
いつもなら互いに軽口を叩いたりしていただろうけど、オレにはそんな余裕がなくて。それを汲んだのかトレーナーも無理に言葉を交わそうとはしなかった。
〈さあ、本日の1番人気を紹介しましょう。10番インデアゾンネ〉
〈既にGⅠ勝利のある実績ウマ娘ですが、やや元気がないように見えます〉
どうやら実況・解説にも様子がおかしいことは伝わってしまっているようだ。これじゃいけないと思いつつも、何もできずにただ出走を待っていると。
「あ、インデアゾンネちゃ……顔色悪かけど、大丈夫です……?」
「え……ああ、うん……レース、よろしくね」
ある種このメンタル不調の原因とも言える相手が声を掛けてきた。だが当然、プルーヌスムーメにぶつけるのは筋違いの八つ当たりでしかない。何より彼女は、こちらの様子を見て普通に心配しているだけらしいので、オレはただ平静を装って挨拶を返す。そうして、まもなく発走ということで地下バ道を通りターフ上へ出る。
(……気合いを入れ直して、ちゃんと!)
そう、自分を奮い立たせる。くよくよしたままレースに挑むのは、他の相手に失礼だろう。まずは今日の目的を思い出さないと。このレースで、オークスに挑む前に府中に慣れること。そしてもちろん、レースをするからには勝つこと。
(……やれるね、インデアゾンネ)
自問自答して、一先ず走る気にはなった。ただ、勝てるかは別だが。
〈先ほどまでの
関東の重賞ファンファーレの中でゲートに入り、最後のウマ娘が収まって、そして。
〈さあ、今ゲートが開きました!まず飛び出していったのは8番ミスエギルディング、続いて3番のプルーヌスムーメ。この二人がペースを作るのでしょうか〉
ちょっと躓きそうになったが、なんとか立て直してスタート。2コーナー途中からバックストレッチへ向かって緩やかに下っていく。
『予想される作戦は、逃げがプルーヌスムーメを含む2人。先行はインデアゾンネを入れて3人で、差しが5人に追込が2人だ』
トレーナーがレースの前日の作戦会議で言っていたことを思い出す。それにしてもどうやって調べてきてるんだろうな、あれ。
〈ウマ娘たちが一斉に向こう正面へと入っていきました。中団の前方には本日の1番人気、10番インデアゾンネが位置取っています。その後ろから4番アカダラクシャ〉
季節はまだまだ冬でほんの1時間ほど前まで雪が降っており、体操服……しかもこのレースで唯一のブルマ姿では肌寒さを感じずにはいられない。そんな冷たさで悴んでしまいそうな風を切りながら、坂を上りターフを駆けていく。
『特に注意すべきは、まずはこの前併走したプルーヌスムーメだな。こちらについては今さら説明の必要はないだろう。後は最後方からの奇襲を得意とする──』
〈──コロニアルメモリー、ここにいました!2番人気を背負っているウマ娘、後ろからのレースになりました。直線での鋭い差し脚に期待したいところです、さあここからは3コーナー〉
カーブを曲がりつつ、左手に見えるのは東京レース場の名物である大ケヤキ。だがしかし、レース中だからしみじみと眺める暇などない。すぐに視線を前に戻して、勝負どころを窺う。
〈大ケヤキを越えて4コーナー、ミスエギルディングはここまででしょうか、かわしたのはプルーヌスムーメ!一足先に直線に入りました、どこまで粘れるでしょうか〉
府中の長い直線、仕掛けるのはまだ早いだろう。少しキツさを感じているのもあり、まだ控える。
〈2mの坂を登って残り400m、インデアゾンネはまだ抑えたままです!ここで上がってきたか、コロニアルメモリー!先団へ向かってグングン加速します!〉
ゴール前の坂を登りきって、ここから脚を伸ばす。そうして仕掛けようとしたが、思ったよりも伸びない。先頭にいる芦毛のウマ娘までは、遠くてなかなか距離が縮まない。
「くっ……!」
〈残り200mを切りました、先頭は変わらずプルーヌスムーメ!脚色は衰えません!さあインデアゾンネが迫ってくるが果たしてこれは届くかどうか。猛追するはコロニアルメモリー〉
なんとか力を振り絞って加速を続けるが、これは。
(間に合わない……!)
〈ゴール前ラストの攻防、プルーヌスムーメは譲りません!2番手争いはコロニアルメモリーとインデアゾンネ!そして今ゴールインしました、プルーヌスムーメ!〉
負けた。それだけは確かに分かる。トゥインクル・シリーズでこれまで4戦して最初の敗北だ。掲示板を見ると、やはりオレの10番ではなく彼女の3番が1着に表示されていた。
◇
ウイナーズ・サークルを素通りして、地下バ道を通って真っ先に控室に行く。そこには当然、トレーナーがいた。
「まずはお疲れ様、ゾンネ」
「わたし……負けた……」
3着。それが、この共同通信杯での自分の結果だ。1着から半バ身ほどの差まで迫ったとはいえ、負けには変わりない。
いつもオレを褒めすぎなくらい褒めるトレーナーも、さすがに負けたら褒めることはないだろうか。トレーナーに称えられるのはいつものことだから、それがないと不安に思うかもしれない。
「……ゾンネ、気負いすぎだ。ここはあくまで叩きでしかないんだ、別に勝てなくても問題ない」
「でも……わたし……」
共同通信杯で勝てなくて大丈夫だったとしても、じゃあ本番の桜花賞やオークスは?絶対に勝てる保証なんてないんだし、もしそこで負けてしまったら……。
「っ、トレーナー……!?」
そうして俯いていると、手を握られてびっくりする。トレーナーは思わず顔を上げたオレの目と目を合わせて言葉を紡ぐ。
「俺は、何があろうとゾンネを信じてる。それにもし何か悪い想像をしてるなら、そんなことにはならないと誓うよ」
「……うん」
まだ1年も過ごしていないのに、どうやらオレは随分とこいつの言葉を……そして、存在を頼りにしていたらしい。トレーナーの宣言に、存外嬉しく思う自分がいた。
「……さ、この後はライブがあるぞ。ちゃんとやれるな?」
「大丈夫、平気。行ってくるね」
『Make debut!』の、3着の振り付け。練習は真面目にこなしてきたから、ウイニングライブで踊るのは初めてだけど問題はないだろう。
◇
ライブを終えて制服に着替え、徒歩でトレセン学園へと戻り、トレーナー室へ。そこで改めて諸々のことを確認していく。
「さてと、まずは次のレースである桜花賞だが……既にゾンネは同じ舞台の阪神JFを勝ってるんだ、何も心配は要らない。いつも通りのパフォーマンスを発揮できれば勝ちは貰ったも同然だ」
「ふふ、あんたって相変わらず威勢がいいね。でも、今はその言葉がありがたいよ」
こいつがそうやって、褒めて、煽てて……敗北で負った心細さは完全に拭えてはいないし、そうやって自信を取り戻させてくれる言葉は、いつもなら呆れるところだが。
「まあ、桜花賞はそんなところだ。その次のオークスは……ゾンネ、今日の初府中で何か掴めたことはあるか?」
掴めたこと、か。府中の長い直線……先行はキツかった……スタミナ不足……控える……。
ああ、そうだ。
「オークスはさらに距離が伸びるでしょ?今日走ってみて、ペースが早かったってのもあるけどちょっと持久力が不安かもって思ったかな」
「確かに、そうかもな。ゾンネの適正だと2400mは割とギリギリになる」
やっぱりそうか。実は薄々、2400mは限界近くだとこれまでのトレーニングで思っていたところだ。
「だから、スタミナを温存するために……」
「先行じゃなくて差しを試したい、だろ?」
本当にこいつは、恐いくらいに思考を読んできやがるな。そのうち要らんことまで読み取って……いや、それは今もそうか。
「はあ、言われちゃったわ。そういうことだよ」
「俺としては試す価値はあると思うし、構わないよ」
そうしてトレーナーと今後について詰めて、寮へと戻る頃には辺りはすっかり暗くなっていた。でも、それだけの時間をかける意義はあったと思う。
──大丈夫だ。次こそはきっと勝利を、この手に。
……身も蓋もないこというと、プルームスムーメとはこの後しばらく戦わないんですけどね。まあ、路線が違うので。