冬の寒さは過ぎ去り、穏やかな春らしい陽気に包まれる。今の季節といえばそんな情景が思い浮かぶが、実際の阪神レース場は、というと。
「……雨、だね」
「ああ……残念だが」
様子を見に控室の外に出ると、ザーザーと音を立てて雨が降り続け、日も出ていないからか少々肌寒い。もちろん多少の降雨や降雪であればレースは予定どおり開催されるが、この悪天候はゾンネも未経験で、不安がないといえば嘘になるだろう。
「でもファンのみんなは、わたしの活躍するところを見たいって期待してるはず」
「そうだろうな」
彼女は初期から比べて、本当に成長したと感じる。少なくともデビューしたばかりの頃だったら、こうやって顔を上げて真っ直ぐと前を見据えることなんてできなかったはずだ。
「ゾンネなら、大丈夫だな」
「うん、わたしは大丈夫だよ」
今のゾンネなら、たとえ負けたとしてもへこたれることなく、すぐに次のレースに目を向けることだろう。もちろん、勝つことを信じているが。
「ゾンネ、トレーナーさん!」
「あ、父さん……!」
控室に戻ろうとしたところで、ゾンネの父がレース前の応援に来たようだった。ちょうどいいので3人で部屋に入る。どうやら奥さんの方はまた来れていないらしい。
「母さん、また調子悪いの?」
「いや、そうだな……手が離せない用事ができて」
それを聞いて、ふと改めて考えてみるとゾンネの家族は、こう何度も顔を会わせているのに意外と謎が多い気もする。確かなことは父は会社員で、母は重賞勝利経験のある元競争ウマ娘、そして恐らくは専業主婦だと思われるが……用事とはいったい何なのだろうか。
「まあ元気ならいいや、次は見に来てくれると嬉しい」
「多分行けると思うぞ、関東ならまだ家から近いしな」
その言葉を聞いて期待した眼差しで本当?と聞き返すゾンネ。時折不思議な様子を見せる彼女だが、まだまだ家族が恋しい年頃の少女らしい。
「あ、そろそろレースの準備でしょうか?またレース後に来ますので、トレーナーさん、どうぞ娘をよろしくお願いします!」
「はい、お気遣いありがとうございます」
退室するゾンネの父を見送ったら、作戦の最終確認
などを済ませて、地下バ道まで出る。
「いってらっしゃい、ゾンネ」
「うん、行ってくる」
担当と一旦分かれてパドックの方に向かう。観客席には屋根が掛かっているものの、パドックはその限りではないため、既にウマ娘たちの勝負服は雨に濡れていた。
〈──さあ、本日の2番人気です!トリプルティアラウマ娘は2番インデアゾンネ〉
〈調子はまずまずといったところでしょうか、1番人気への逆転勝利も狙えますよ〉
今回のレースは中距離王道路線ということもあり、クルーシャルテイクはもちろんのこと、他にもゾンネと交流のあるウマ娘たちが参戦している。例えば……。
〈3番人気は5番フラッフィトップ。2000mでの実績は十分です〉
〈前目につける先行策で、堅実に勝利をつかみたいところですね〉
写真集を撮った時に偶然居合わせた、金髪でふわふわした印象のフラッフィトップ。
〈そして1番人気はやはりこのウマ娘!10番プルーヌスムーメ〉
〈有馬記念を逃げ切り勝ちしたその持久力を、この雨の阪神でも活かしてくれることでしょう〉
ゾンネとレースで走るのは共同通信杯以来となる、プルーヌスムーメもいるが……気になるウマ娘がもう一人いた。
〈12番キラランラン、9番人気です〉
〈調子はかなり良さそうです。この娘が大波乱の主役になるかもしれませんよ〉
赤茶色の髪にいくつも着けた白いリボンが目立つ、陽気な雰囲気のウマ娘。ティアラ路線でゾンネと何度か走ったことはあるが、戦績的にはそこまで注目するところはなかった。しかし、今日の彼女はこれまでとは纏うオーラが違い、もしやと思わせる気迫がある。
そうして有力ウマ娘の紹介が終わり、本バ場入場へと移っていく。こちらもスタンドへ移動し、ターフへと出てくるウマ娘たちを観察する。当然、担当であるゾンネのことも。
〈雨垂れの下、バ場は重と発表されました。雨にも負けず春の仁川へと集った14人のウマ娘たちによる、王道中長距離第一弾、阪神芝2000m内回り・GⅠ大阪杯がまもなく発走です〉
〈さあ、1枠1番はここまで19戦4勝、耐え忍んで得た栄冠はさらなる勝利を欲す。昨年のエリザベス女王杯ウマ娘ユアアステリティです〉
〈9戦6勝うちGⅠはなんと4勝、圧倒的な戦績を引っ提げシニア級を迎えた初戦。降り頻る雨さえもはね除けて太陽は天に輝くのでしょうか。2番人気はトリプルティアラウマ娘、2番インデアゾンネ〉
実況に合わせて彼女の様子を見ると、いつもと変わらず軽いストレッチをしていた。
〈昨年の皐月賞ウマ娘は5番フラッフィトップ。8戦3勝、ここ3戦連続2着の悔しさをバネに、この大一番でトップを掴み取りたいところでしょう〉
〈ここまでの戦績は7戦3勝。作戦などない、何をしでかすか分からない、でも最後に笑うのはこのウマ娘だ。6番ズイホウフイ〉
〈25戦9勝、2年前の宝塚記念勝者は7番オートクラート。レースを支配した鋭い差し脚は、今も実力発揮の時をただ静かに待っています〉
クルーシャルテイクはというと、珍しくゾンネに話かけに行くことなく、集中してスタートの時を待っている様子だった。
〈さあそして8戦4勝、8番クルーシャルテイク。シニア級こそはライバルインデアゾンネに先んじたいとの想いで臨んでいます〉
〈6戦4勝、前走中山金杯では見事な先行抜け出しで1着を勝ち取りました。この歌姫のステージはまだ始まったばかりです、9番シャリュモーソング〉
〈続いては本日1番人気です、10番プルーヌスムーメ。7戦4勝うち2勝はなんとダービーと有馬記念、やはりその称号通りの華々しい逃げ切り勝利が期待されていることでしょう〉
スタートの時刻が近づくなか、ゾンネはただ前を見据えている。
〈10戦3勝、前走東京新聞杯では惜しくも3着でしたが、まだその輝きは失われていません。今日こそは勝って一際輝きたい、12番キラランラン〉
〈ここまで20戦8勝、シニア級3年目に入っても現役続行の古兵。先輩ダービーウマ娘としての威厳を見せたいところです、13番ミスエコリンスキー〉
全ウマ娘の本バ場入場を終え、雨足が少しだけ弱まってきたところで関西GⅠファンファーレが奏でられ、ゲート入りへ。最後の一人まで収まり、そして。
〈さあ、どのウマ娘が雨の中の女王となるのでしょうか、今スタートです!まず飛び出していったのは10番プルーヌスムーメと13番ミスエコリンスキー、ダービーウマ娘2人です!〉
ゾンネは普段通り、中団の先頭を位置取って逃げる2人を見守る。阪神2000mはスタート直後に坂があり、しかも今日は雨天で地面に足を取られやすい。まず好位置をキープして後に備えるのは、彼女らしい堅実な判断だ。
〈先頭から2バ身ほど開いて、本日の2番人気です、2番インデアゾンネ。差がなく1番ユアアステリティ、並んで5番フラッフィトップ〉
先頭集団は早くもスタンド前から1コーナーへと入っていく。坂を越えればしばらくは平坦な地形で、上手くロスせずに進めるかどうかが重要になってくるだろう。
〈1コーナー回って2コーナー、後方集団を見ていきましょう、7番オートクラート、その外から8番クルーシャルテイク。その内に12番キラランラン、1バ身開いて最後方に6番ズイホウフイ〉
バックストレッチへと入っていき、先頭2人が後方との差を開き始めた。どうやらミスエコリンスキーがハナを取ろうと加速して、それに対抗する形でプルーヌスムーメが追いすがっているようだ。
〈向こう正面、逃げる2人がどんどん加速します!少々掛かり気味ですね、スタミナは持つのでしょうか!?中団先頭、インデアゾンネは我関さずとペースを維持したまま、おっと外からシャリュモーソングが3番手に上がってきました〉
雨に濡れそぼった金髪を靡かせてターフを走る我が担当は、焦ることなくペースを保っている。
〈さあ1000m地点を通過して現在のタイムは59秒1、重バ場としては早めのペースです。そしてそろそろ内回りの3コーナー、ここからゆっくりとゴールへ向けて下っていきます。現在先頭はミスエコリンスキー、並んでプルーヌスムーメ〉
ゾンネはまだ脚を溜めた状態で、仕掛けどころを見極めているように見える。雨に打たれる桜を背景にして、コーナーを回っていく。阪神の芝は比較的排水性が高く、内々もあまり水浸しにはならないものの皆自然と避けているようだった。ただ、一人を除いては。
〈おっと、ここで内柵スレスレから仕掛けていったのはキラランラン!直線目前でまさかの強襲、先頭目掛けて抜け出します!さらにインデアゾンネが加速、ここから勝負を掛けるか!〉
赤茶色の髪を振り乱し、僅かな隙を攻めて先頭に並びかけるキラランラン。4コーナーからまもなく最終直線、先頭にいるのはプルーヌスムーメ、しかしそのすぐ後ろには2人のウマ娘。
〈スタンド前直線に入り、キラランランが代わってハナに立ちます!しかし、プルーヌスムーメも譲らないか、続いてインデアゾンネ!さらに後ろからクルーシャルテイクも迫ってきます!〉
担当ウマ娘は懸命に先頭に並ぼうとするが、水分を多く含んだ芝に慣れていないからか思うように伸びず。
〈さあ、残り200mを切って仁川の坂!依然として先頭はキラランラン、並んでプルーヌスムーメ!3番手はインデアゾンネ、まだ勝負は続いています!〉
差し切ることを願うが、やはり今日の雨天はゾンネにとってハンデとなっていたらしく。
〈キラランラン、先頭は譲りません!そのままゴール!1着です、キラランラン1着!僅差でプルーヌスムーメ、3番手争いはインデアゾンネとクルーシャルテイク!〉
勝つことは叶わなかった。が、ここはあくまで叩きでしかない。まずは慣れない状況でも、最後まで勝利を諦めなかった彼女を迎えに行かなくては。
◇
タオルを持って、地下バ道までゾンネを迎えに行く。煌びやかな勝負服をすっかりびしょ濡れにして、コツコツとシューズを鳴らして歩いてくる彼女を見つけ、タオルを手渡しつつ労う。
「お疲れ、ゾンネ。よく頑張ったよ」
「うん……ありがと。やっぱり悔しいね」
そう言いながら髪をタオルに巻き付け、水を吸い取らせている様子。長髪だからか、水分を含んでいると重いらしい。
「ああ、でも今日はシニア級初戦で本番ヴィクトリアマイルへの叩きだ。次に勝てばそれでいいし、ゾンネなら大丈夫だろ?」
「ふふ、そうだね。いつものあんたでわたしも安心したよ」
一旦控室へ戻ると、彼女の父が待っていた。まだ髪も服も乾ききっていないゾンネを見るなり熱心にタオルで拭いてあげる様子を見ると、普段は離れて暮らす娘を寂しく思っていることが伝わってくる。
「ジャパンカップも、今日も、せっかく見に来てくれたのに勝つとこ見せられなくてごめんね、父さん……」
「いいんだ、ゾンネが元気でいてくれるなら!もちろん、レースで活躍してくれるならこれ以上なく嬉しいけど、今だって充分すぎるくらい自慢の娘だよ!」
そうして身なりを整えたゾンネをライブステージへと送り出す。ジャパンカップではバックダンサーだったので、ライブでは初めて歌うことになる『Special Record!』だが……彼女がしっかり練習しているところを間近で見てきたから不安はない。実際ライブを見れば、しっかりと気持ちを込めて歌い踊ることができていた。
◇ ◇ ◇
大阪杯から数日後、桜花賞前の特集ということで昨年のティアラ路線で活躍したウマ娘を集めての記者会見。当然ゾンネも参加しているが、クルーシャルテイクにコレオプシスカラーと見知った相手もいた。なお、カルドロンディーニはドバイ遠征であちらにいるので来れなかったらしい。
「それでは、トリプルティアラウマ娘のインデアゾンネさん!今年も引き続きティアラ路線のレースへ出走する予定なのでしょうか?」
「はい、そうですね。春はヴィクトリアマイル、秋はエリザベス女王杯を大目標にしています」
「そしてその2レースで勝利し、前人未到のティアラ路線芝GⅠの全6レース制覇。それが目標としているところです」
こちらが継いだ言葉にちょっと、と何か言いたげにしたもののすぐに観念し、目指すところはそうなりますね、と控えめに答えるゾンネ。
「なるほど!もし達成できれば、間違いなく歴史に名を刻む偉業となりますね!」
「ふっふっふ、簡単に言ってくれちゃってるけど、もちろんただじゃ勝たせてあげないじゃんね?」
「そうなのです、今年こそ絶対ゾンネちゃんに勝つのです!」
そう身を乗り出すハチサの2人にフッと微笑んで、それからゾンネは堂々と宣言する。
「望むところです、全力で競り合った先の1着にこそ価値がありますから。わたしはわたしの勝利を待つ人のために、力を尽くすつもりです」
その姿は3つのティアラを戴いた女王として、何一つ恥じることのない立派なものだった。
今回の更新分はここまでとなります。次回は物語のクライマックスになりますから、なるべく早く出したいところです。