メイクデビューまであと1ヶ月と少しに迫った頃、ジムでウェイトトレーニングをしているとトレーナーが様子を見に来た。
「おっ、順調そうだな」
「ふっ……!お陰様で、ね」
どうせなんか企んでるんだろうな、とそのにやけ面を確かめるように覗くと、やはりと言うか次の言葉を切り出してきた。
「デビュー戦も近いし、より実戦的な経験を積むのに興味はないか?」
「別に、何でもいい……よっと……!」
他のウマ娘より負荷が気持ち強めのトレーニングらしいもののそこまで苦にはならず、受け答えをしながらでも続けられる。なのでそのままバーベルを持って話していると、トレーナーが下ろしていいと言うので従い、一旦立ち上がる。
「そうか、なら明々後日の模擬レースに出てみないか」
「模擬レース……?今更?」
トレーナーが決まった後も出るウマ娘はいるらしいが、基本的に模擬レースは未契約のウマ娘がトレーナー陣へアピールする場である。既に契約済みな上にメイクデビューの日程も決まっているオレが出る理由はあまりない。
「これまでクルーシャルテイクやたまたま予定の合ったウマ娘とレース形式の併走をしたことはあるが、複数人での本格的なレースでどれだけやれるかが見たい」
「はぁ...…慎重なことで。まあトレーナーの指示だし、わたしは従うだけだよ」
こいつ、トレーナーとしての腕は確かっぽいんだよなぁ。あくまで新人としては、だが。
◇ ◇ ◇
そうして数日後、模擬レースの当日。オレは青色の体操服とブルマに黒のニーソックス、白地に黒字で6の数字が書かれたゼッケンを着てスタート位置にいた。
前世は男なのだが、何故かオレは元が牝馬であることを意味している左耳飾り族だった。そのため、入学前に制服や体操服などの指定学用品を発注する時にハーフパンツにしようとしたら、担当者に本当にそれで良いのかと聞き直されたので慌ててブルマに変えたという経緯があったりする。
ただ、今はそんなことを思い出している場合じゃない。まずは目の前の模擬レースに集中しなくては。発走時刻までそわそわと待っていると、トレーナーが駆け寄ってきた。
「……そろそろ発走だよ」
「分かってる、これだけ言わせてくれ」
そうして一呼吸置いて、彼が絞り出した言葉は。
「インデアゾンネなら、だいじょうびゅだ!」
「……あははっ、噛んでるじゃん」
ここでミスるとかないわ。大のおとなが見せたあまりの失態に、強張っていた体も力が抜ける。流石のあいつも赤面してそのまま退散していったのを見送りゲートへと入って、気を引き締め直す。今度は適度な張り詰めで、スタートの時を冷静に待つ。──そして。
〈さあ、一斉にスタートを切りました!芝1600mの模擬レースです、前に出たのは8番オキハナビ。その次に続くのは2番クリミアンハート、6番インデアゾンネが追走します〉
『この模擬レースに出走を表明してるのは13人、インデアゾンネが出走すれば14人だな。それぞれの作戦、注意すべきウマ娘は──』
このレースに出るウマ娘の作戦は、逃げウマが1人に自分を含めて4人が先行。そして6人が差し、3人が追込。まあ標準的なレースと言えるだろうし、だからこそトレーナーはここを選んだらしいが。
〈先頭集団から1バ身離れて後方、前を見据えているのは10番ナスカピース。直線での末脚に期待したいですね〉
有力と見られているのは前で気持ちよく逃げているオキハナビ、中団後方で脚を溜めているナスカピースとのこと。──尤も。
『インデアゾンネがしっかり能力を発揮できれば、恐れる程の相手じゃない』
と、トレーナーはやけに自信ありげだった。むしろ、オレの方がそれでいいのだろうかと不安に思ったりもしたが。
〈さあ、コーナーから直線に入りラストスパートです!まだ先頭をキープしているオキハナビ、このまま譲らないか!?〉
仕掛けどころはここじゃない、もう少し先だ。早くも先を行くウマ娘たちを見送り、抑えたままでただその時を待つ。
〈先頭はここまでか、代わって伸びてきたのはナスカピース!負けじと追うウマ娘たち、不気味に息を潜めるインデアゾンネ、ここから仕掛けるか!?〉
──ここだ。
〈残り200mです、迫って、かわす!脚を伸ばしてきたのはインデアゾンネ、先頭に立って差を広げます!〉
少しずつ集団がターフを踏み鳴らす音が小さくなり、突き放していることが分かる。それでも脚を弛めず、一足先にゴール板まで。
〈今ゴールしました、インデアゾンネ!3バ身ほどの差を付けてナスカピース、3番手はクリミアンハート〉
まずは1着。メイクデビューに向けて確かな成果を挙げることができたわけだ。
「インデアゾンネ、ぜひあなたを担当させて!私と共にトゥインクル・シリーズで輝かしい功績を……!」
「インデアゾンネ、君のレース運びはとても素晴らしい!その判断力をさらに伸ばして、強力な武器に……!」
「すみません、もう契約済みなので……」
契約しようと寄ってきたトレーナーたちを軽くあしらって、一人の男の元へと歩いていく。
「お疲れ、インデアゾンネ」
「うん、トレーナー」
投げ渡されるスポーツドリンクを受け取って蓋を開けると、トレーナーは悪戯っぽくにやけて言葉を続ける。
「……モテモテだったみたいだな?」
「あんた他のトレーナーに言ってなかったの?契約済みって」
「大々的に発表したわけじゃないからな……」
そうだとしてもどっかから漏れて広まる気がするが……専属契約して2ヶ月になろうと言うのに、未だにそこそこの人数に未契約と思われていたらしいのは一体どういうことやら。
「まあ、とにかく。さっきの模擬レースは良いレース運びができていたし、メイクデビューに向けて自信を付けていいだろう」
「それはどうも」
そうは言っても、レースでの仕掛けはトレーナーの指示通りにやっただけなんだがな。スポドリで水分補給をしながら、オレがそんなことを考えていると駆け寄ってくる足音がする。
「ゾンネちゃんっ!」
「……あれ、テイク。見に来てたの?」
音と声に振り返ると、そこには半袖制服姿のテイクがいた。ただの模擬レースだし、と思って特に伝えたりはしていなかったので見に来ていたことに少し驚く。
「はいなのです、1着おめでとうございます!」
「うん、ありがとう」
その後はテイクに教えてくれても良かったのに、と拗ねられたりもしたものの。
「それにしても、やっぱりゾンネちゃんは強いのですね。3バ身差なんて」
「ああ、インデアゾンネは強いよ。メイクデビューもよほどのことがない限り快勝だろうな」
そう二人に称えられてむず痒い気持ちになりながらも、休息を取ったら筋トレメニューをこなすためにトレーナーとジムへと向かった。
◇ ◇ ◇
さらにトレーニングを重ねるうちに、メイクデビュー本番はもう半月後に迫っていた。ますます暑さを増していく季節の中で、オレはというと。
「うーん……平泳ぎ、もう一往復だ」
「はいはい」
プールトレーニングをやっているのだが、どうもトレーナーの表情は芳しくない様子だ。オレは怪訝に思いながらも指示通りに25mプールの往復、つまり50mを平泳ぎをする。
「はっ……!はあっ……!ふっ……!」
そういえば、学園指定のスク水ってセパレートタイプなんだよな。前世から思ってたことなんだが、オタクとしてはいわゆる旧スク水みたいなワンピースタイプじゃないのが少々残念に思ったりする。
ちなみにトレーナーの方はシンプルな黒のサーフパンツに白のラッシュガード、一応水の中に入れるスタイルではあるようだ。まあ基本は上から指示を出すだけなので、普通の格好でも良さそうだが。
「はあっ……!っと、終わりっ……!」
そんなどうでもいいことを考えながら往復を終えて、トレーナーのところまで戻ってくる。しかし相変わらず相手は何とも言えない微妙な表情をしていて、なんだと思っていたら意を決したように口を開いた。
「……インデアゾンネ」
「なに?言いたいことがあるなら、早く言えば」
一体何を躊躇うことがあるんだろうか、トレーナーなんだからこちらは言うことに従うだけなのだが。
「シンプルに泳ぎ方が汚い」
「……はあ?」
泳ぎ方が汚いってなんだ?自分を俯瞰して見るなんてそんな特殊能力は備わっていないし、泳ぎ方がどうこう言われても確認しようがない。
というか泳ぎ方に綺麗とか汚いとかあるのか?いや、あるにはあるだろうけど……泳ぐだけなのにそんな変わるものなのだろうか。
「その泳ぎ方だとキツくないか?」
「キツいには、キツいけど……泳ぐのって体力使うしそういうもんじゃないの?」
水泳なんてこれまで体育の授業でやっただけだし、今のところ特段の苦労はしてないが。
「そうだな……じゃあ今度は動画を撮るから、25mごとに平泳ぎ・クロール・背泳ぎ・バタフライの順で100m泳いでもらえるか」
「……?わかったけど……」
トレーナーが三脚を持ってきてデジカメを設置するのを眺めて、動画の撮影開始の合図と共に泳ぎ始める。
「はあっ、ラストぉっ……!」
最後のバタフライまで泳ぎきり、息を切らしながらプールから上がる。トレーナーはカメラを取り外したら、防水カバーを着けたタブレットと一緒に持ってきてオレに見せた。
「ほら、これが中学生の水泳大会の平泳ぎ100mだ」
カメラに映っているオレの泳ぐ姿と比べると、確かに水泳大会の中学生は動きが小ぶりというか、無駄がないという印象を受けた。
「言われてみれば、こっちは動きの無駄が少ないかも……?」
「ああ、インデアゾンネは手足の動きが大味なんだ。これだと余計に体力を消費してしまう。だからキツいんだろうな」
泳ぎが汚い、ということについては理解できたが、だからどうすればいいのか、ということはわからない。
「トレーナーの言ってることはわかったけど、だからどうしろってのさ」
「そうだな……じゃあ、俺も水に入る」
そう宣言したかと思ったら、本当にプールに入っていったので少々驚いた。そして手招きするのでなんだと思って見ていると。
「インデアゾンネも来てくれ。俺が正しい姿勢を一緒に教えるから」
それはつまり、こいつがオレの身体に触る……ということか?正直あまり気は進まないが、実際泳ぎ方をどうにかした方がいいのは事実なのだろう。
「……変なところ触ったら蹴飛ばすからね」
「大事な担当相手にそんなことはしないさ」
半信半疑で体を任せたが、実際トレーナーは触れる場所に細心の注意を払いつつも、丁寧に正しい泳ぎ方を指導したのだった。
(意外と誠実なのか、こいつ?)
初のレースを前にして、これまではトレーナーとしての手腕しか信用していなかったが、少しはこいつ自身を信用してやってもいいかと思うようになった。