―――運命が幕を開ける数ヶ月前。
その青年は、悪徳の海に沈んでいた。
「――――――ッ!!! ――――――ッッッ!!!」
日本、冬木の地に泰然と佇む間桐邸。
その薄暗い地下室の中。蟲倉と呼ばれるその場所で、青年―――間桐雁夜は無数の蟲達に陵辱されていた。
鼻腔を、耳穴を、口内を、食道を、気管支を、腸内を、尿道を、爪の間を、目の裏側を。
身体中、体内へと繋がるありとあらゆる場所から「蟲」が侵入し暴れ周り、肉を食み、精液を撒き散らし、卵を産みつけ、体組織そのものを作り変えていく。
その痛みは既に彼の許容量を越えており、声帯から轟く悲鳴は何の意味も成さない騒音となり、ただ喧しく間桐の蟲倉の中を木霊する。
―――裸体を醜悪な造形をした蟲の群れへと沈め、涙と体液を漏らしながらのた打ち回る青年の姿。
それは一種、官能的とも言える光景であり―――同時に、何処までも醜悪で唾棄すべき光景でもあった。
「――――――ッ!! ……―――ッ!!」
雁夜を襲うのは、脳髄が焼き切れ、そして溶け落ちるかと錯覚するような激痛。
口内と気管支とを蟲に塞がれ、加えてそれらの発する粘ついた体液により満足に呼吸もできない有様ではあったが、しかしそれでも彼は獣の如き悲鳴を上げ続けずには居られない。
そのあまりの苦痛に吐瀉物が喉元に競り上がってくるが―――それすらも蟲であり。ミミズに似た姿のそれは吐き出されまいと身を捩り、喉元を逆流し体内へと戻り余計に苦痛を雁夜へと塗りつけた。
―――肉体を犯され、精神は陵辱される。
絶え間なく襲い掛かる苦痛と恥辱。常人なら発狂は免れない地獄の蔵。
何故、彼はこの様な狂気へと身を沈めているのだろうか?
―――それは、たった一人の少女のため。
遠坂、否。間桐桜。
自らが「間桐」から逃げ出した事による皺寄せを受けた少女。
自らが愛したかった女性――葵の愛し子である彼女を。
―――今、自分が受けているこの地獄と同じ環境に置かれている彼女を、絶対に救い出す。
数ヵ月後、この冬木の地で行われる聖杯戦争。
命を賭けたサバイバルに勝ち抜き聖杯を手に入れ、桜の父親である時臣を殺し、彼女を間桐の呪縛から解放する―――その、たった一念。
もはや執念とも呼ぶべきその想いだけで、雁夜はこの想像を絶する苦痛を耐えることが出来ていた。
苦痛に耐え抜き、刻印虫を身体に馴染ませ、聖杯戦争を戦えるだけの最低限の力を得るために。
―――俺の身体はどうなったって良い。
―――呪われた物だろうが何だろうが、絶対に力を手に入れて桜を解放させる―――!!
……心が折れそうになる度に雁夜は自らをそう鼓舞し、理性の崩壊を無理矢理押し留め、執念を燃やす。
桜をこの地獄へ堕とした彼女の父親―――遠坂時臣への嫉妬もあった。自分が欲しかった物を捨て去った彼に対する憎悪もあった
むしろその割合の方が高かった、と言っても過言ではない。
しかし、「桜を助けたい」と願う気持ちに一片の嘘はなく。間桐雁夜は力を得るために、自らの身体を蟲に破壊させながらも陵辱に耐え続ける。
みっともなく泣き叫びながらも、無様に失禁しながらも、情けなく這い蹲りながらも。聖杯戦争に参加できるだけの力を得る為に。
……雁夜は【桜を解放する】という事だけを見つめ、聖杯戦争が開始されるその時まで蟲からの陵辱を受け続ける事を受け入れたのである。
そう、彼はそのような地獄に置かれながらも、驚くべき事に正気を失っては居なかったのだ。
勿論、無傷という訳ではない。
肉体はもちろんの事、彼の精神はこれ以上ないほどに疲弊し、擦り切れ、未だに「人」の定義を形作っている事が奇跡という状態だ。
「何故こんな事になったのか」「どうして自分がこんな目に逢わなければならない」……そのような後悔や憎しみも、何度その胸裏を過ぎったか数えきれない。
しかし、彼は完全には壊れなかった。
――――――そう、「完全」には。
……雁夜は、自らを未だ正気を失っては居ないと判断しているが―――それは彼の主観に過ぎない。
自らを犠牲にし他人を助けるために発狂一歩手前の陵辱を受け続けて……その行為を耐え続けている彼は果たして【正気】なのだろうか?
蟲に犯され続けている人間が、完全に正気を保ったままでいられるのだろうか?
―――答えは、否。
苦痛と、恥辱と、執念と、嫉妬と、憎悪。
どんなに堅牢な理性を持った者でも、それら負の感情と共に醜悪な蟲に陵辱される人間がまともな精神状態のままで居られるはずがない。
例え彼の願いが崇高で切実なものだったとしても……この状況に置いては、それは狂気以外の何物でもないのだ。
正気を失っていないと言う事と、狂気に犯されるという事は、必ずしも矛盾しない。
間桐雁夜は自分でも気づかない領域で、確実に【心を壊して】いたのだ。
―――【葵の為に桜を助ける】という、執念と化した【妄想】を軸として。
***********************
間桐臓硯。旧名、マキリ・ゾォルケン。
自らの肉体を無数の蟲に変え100年をも越える長い時を生き続ける魔術師であり、人外の身に堕ちた妖怪。
「根源」に至る事を目的とし、そのための聖杯戦争というシステムを作り上げた御三家の一。間桐家の現家長である老獪である。
その性格は酷く歪んでおり、他人の苦しみを愉悦とし、目的のためならば何の罪もない幼子ですら犠牲とするその在り方は正しく外道。
同じ御三家の一つである遠坂家から養子として預かった桜を、「胎盤」と称し陵辱した事からもそれは明らかだろう。
そのため彼の息子達からは全く持って慕われておらず、長男である鶴野からは恐怖の念を。そして次男の雁夜からは軽蔑の念を受けていた。
臓硯の方も肉親をただの駒としか見ず、魔術の才の乏しい二人の息子を見下しており、親子仲はこれ以上ないほどに冷え切っていた。
雁夜に関しては多少の魔術を扱えるだけの力があったため、それなりに目をかけていたのだが……それも雁夜が間桐の家より逃げ出した事により、それも負の感情へと代わった。
その結果彼の興味はその後10年の歳月の内に桜へと移り、彼女を最高の駒とするべく「教育」という名の陵辱を桜へと与える事になったのだ。
―――だから、雁夜には毛の先程も期待などしていなかった。
「桜を救うためと」のたまい11年ぶりに戻ってきた雁夜から出された約束を受け入れた事も。力を得るチャンスを与えた事も。
それら全ては、自分の下から逃げ出した雁夜に対する嫌がらせ。桜の「教育」が終わるまでの暇つぶし。
雁夜が蟲に犯される様や、桜の置かれた環境に心を痛める様を見てはそれを哂い。
後々にはガラクタとなった身体で聖杯戦争に参加し、無様に殺されるであろう雁夜の姿を見て愉しむ。
―――そして最後は、その無意味に足掻く馬鹿の姿を桜に見せつけ、「希望は無い」と彼女を完全に間桐の家に縛り付ける。
聖杯戦争以前に雁夜が死んだとしても、まぁそれはそれで良し。死体さえあれば桜の教育に使う事が可能なのだから。
今回の聖杯戦争は見送ろうと考えた矢先の雁夜の帰還―――臓硯はそれを有効に「消費」しようと考えていたのだ。
―――どうあがいても、雁夜に希望の道など無かった。
そうして雁夜を嬲る傍らで桜を教育する日々が続く中、臓硯はふと思い立つ。
―――今夜は、雁夜と桜を共に蟲倉へと放り込んでみよう。
何時もは別々に蟲倉へと呼び寄せている二人だが、偶には共に喰わせても面白いかもしれない。
救おうとする対象に自分が陵辱されている姿を見られれば、その時の雁夜の屈辱はどれ程の物になるだろうか?
もしかすると、想い人の前で強姦される生娘のような反応を返してくるかも分からない。
その光景を思い浮かべるだけで、無意識に皺枯れた笑い声が喉を震わせる。
―――四日目以降表立った反応を上げなくなった桜の方にも、何か変化があるやも知れん―――
……醜く罅割れたその心に、僅かばかりの興味が沸いた。
臓硯は座っていた椅子から腰を浮かせ、廊下へと繋がる扉へと歩いていく。
ふと過ぎった妙案に従い、未だ今日は平穏を教授している二人に蟲倉へ来るように促すために。
「……く、クカカ」
……臓硯は醜悪な笑みを浮かべ、暇つぶしへと赴く。
――――――それが、彼の最大にして最期の失策だったとも知らずに。
「……あ……?」
臓硯に呼び出され、碌に言う事を聞かなくなり始めた身体を引きずり蟲倉へとやってきた雁夜は、目の前に映るそれを理解する事ができなかった。
いや、本当は理解しているにも関わらず、脳がその情報を飲み込む事を拒否したのだ。
彼が目にした物は、何時か見た光景。
自分が地獄へ赴く事を決意した瞬間のリプレイ。
―――【彼女】の小さな口に群がり、唇を押し開けその内部に侵攻して行く無数の蟲。
―――【彼女】の白い肌の上を蹂躙し、体液を撒き散らし、ささやかな膨らみの頂にむしゃぶりつく、醜悪な蟲。
―――【彼女】が乙女を食い散らかされ、その大きな瞳に濁った闇を湛えたその姿――――――
雁夜が救いたいと願っている桜が、犯されている光景。
「何を呆けておる、お前は知っていたはずじゃろうに」
「―――ッ!!」
雁夜は、激昂した。
そして臓硯の浮かべる胸糞悪いニヤニヤ笑いを目にし、彼の目の前が真っ赤に染め上げられ。
碌に言う事を聞かない左手で衝動的に臓硯の胸倉を掴もうと手を伸ばすが、その手は杖を突いた老人とは思えないほどの身軽さでかわされ、宙を切った。
「―――臓、硯……!!」
……臓硯の言う通りこの事を雁夜は識っていたし、目撃してもいた。
彼女が―――桜が、自分とは時間をずらして蟲倉へと呼ばれていた事を。
そしてその場所で何が行われていたのかも。
だが、理解する事と納得する事は決して繋がりはしないのだ。
……雁夜は、蟲倉へと向かう桜を見る度に今すぐに彼女を救い出せない自分を呪った。情けなさに自傷行為もした。
何とか助けに成りたくて、少しでも気が紛れる様昼間に一緒に遊んだり、希望を含めた話題で雑談に興じるなど満足に動かない身体でできる事は精一杯行ってきた。
……行ってきたつもり、だった。
だが、その程度の事で気が紛れる筈など無い。それどころか自分の想いは無意味だったのかもしれない。
「くそっ! 糞がッ!!」
痛いはずだろう。
悲しいはずだろう。
悔しいはずだろう。
なのに桜は涙を流す事は無い。
彼女が浮かべる表情は、常に無表情の一種のみ。
桜が「教育」の最中に浮かべている表情と、自分と触れ合っている時の彼女の表情。
―――雁夜の目には、それらは全く同じ物にしか映らなかったのだから。
「―――ぁぁぁあああああああああッ!!」
怒りと、憤りと、憎悪と。常に胸の内に燻っている感情がうねり、一気に燃え上がる。
雁夜は自分の腕をかわしたまま、少し離れた場所に立っている臓硯に向かっておぼつかない足を無理矢理動かし走り出した。
前のめりにバランスを崩しながらも唯真っ直ぐ。
雁夜の頭の中は激情で埋まり、「臓硯を殴って桜への陵辱を止めさせる」という酷く短絡的な思考しかできない状態だ。
そして未だ笑顔の消えないその顔を殴り飛ばすべく、雁夜は力いっぱい振りかぶり―――
「―――ッガぁッぁああぁぁあッ!?」
身体の中に寄生する刻印虫が酷い痛みをもたらし、彼の身体はその勢いのまま崩れ落ち冷たい石畳の上に投げ出されてしまった。
しかし雁夜の身体は倒れこんだ痛みよりも遥かに鋭い激痛が蠢き、起き上がることも臓硯に向かうことも許されず。
出来る事はただ睨み付ける事だけだ。
「クカカカ……!」
憤怒と苦痛の表情に歪み、痛みにのた打ち回るその姿に妖怪は満足げな愉悦を浮かべ、雁夜に向かい手を向ける。
すると差し出した袖の中から幾千もの蟲が飛び立ち、彼の身体に張り付き喰らい付いた。
―――「嫌がらせ」の始まりだ。
(糞……! 畜生!!)
想像を絶する痛みと共に、徐々に視界を埋め尽くしていく無数の蟲達。
それらは衣服を着ている事も関係なく服の下に潜り込み、皮を食い千切り、穴に入り込み。その下にある肉と臓器を目指して進む。
……雁夜の意識は憤怒から苦痛へと塗り代わっていった。
(畜生! 畜生!! ―――ちくしょう……!!)
情けない、許せない。彼は力の無い自分を呪う。臓硯に一撃すら入れられない自分を、桜を助けてやれない自分を。
可能ならば陵辱されるしか選択肢の無い己を殺してやりたかった。
しかし、それも許されない。もしそれを行ってしまえば、それこそ全てを無為にしてしまう。
桜を解放する事も時臣を殺す事も、全ては水の泡と成ってしまう。
……結局は、この状況を受け入れるしかないのだ。
(―――ちく、しょう……)
そうして彼は、目の端を流れる一筋の悔しさと共に目を閉じて。
物理的に、精神的に。間桐雁夜は地獄を全て受け入れる―――
―――本来ならば、これで終わり。
いつもとは少しだけ違う始まりではあったが、辿り着く先は変わらない。
蟲倉の中で雁夜が犯され、獣のような叫びが木霊し、臓硯が飽きたところで終わる。
そしてそれの繰り返しが何週間も続き、寿命が寸前まで削られた所で刻印虫を身体に馴染ませる事に成功し、そうして、運命へと繋がる―――
―――その、筈だった。
(…………ふざけるな)
だが、その日にはとある一つの差異があった。
眼球の上を蠢く蟲の腹で埋まっていく視界の中で、彼の心に傷を刻み続けている存在があったのだ。
―――蟲に陵辱され続ける、桜の姿。自分が救いたいと一心に願っている、彼女の穢れた姿。
(ふざけるなよ)
その姿を目の前にして素直に現状を受け入れられるほど、彼は諦めが良くなかった。
桜が陵辱を受け続けるその横で、何時もと同じ地獄に現を抜かせるほど間桐雁夜の執念は薄くは無い。
(ふざけるな、ふざけるなふざけるな)
既に蟲に埋め尽くされた身体。自由を奪われた左腕を無理矢理動かし、力の限り桜へと伸ばした。
当然その指は彼女には届く事は無く、その代わりに蟲が張り付き蠢きまわる。
―――しかし雁夜は諦めず、唯只管に手を伸ばし続ける。
その姿は、臓硯だけではなく雁夜自身にさえも酷く滑稽に映った。
蟲に塗れ犯されている薄汚い男が、同じく蟲に塗れた幼子に向けて必死に手を伸ばし続けるその姿。
それは極めて醜悪で、それは極めて奇妙なもので。
……そして、極めて無意味なもの。
「……さ、さくら……ちゃん……!!」
しかし、雁夜は手を伸ばす―――指先は、届かない。
―――桜の姿が、歪む。
涎の落ちる口を動かし、桜の名を呼び、手を伸ばす―――何も掴めない。
―――桜の姿が、歪む。
焦点の合わない目で彼女の姿を捉えながら、必死に手を伸ばし続ける―――何も、掴めない。
―――そして桜の姿が背景に溶け込み、彼の頭では認識できなくなって。
桜が居たはずの場所には代わりに幾何学形の【何か】出現し、震える視界の中でその像を結んでいく―――
……しかし雁夜はそれに気づかない。
目には見えない、だが見えてはいる。手を延ばすその先に桜は存在しない、だが絶対に存在している。
矛盾した認識。
笑顔の桜が、無表情の桜が、桜の笑顔が、桜の無表情が。
幸せな桜が、犯される桜が、桜の幸せが、桜の、桜の、桜の、桜の、桜の。
雁夜の視線の先には二人の桜が存在し、そして存在しなかった。
確信/妄想/願い。
身体に激痛が走り、喉の奥から血と蟲が競り上がるが、それでもただひたすらに指を伸ばす―――届か、ない。
―――桜が居た場所に、一本の剣が出現した。
それはどこまでも黒く、それはどこまでも青く、それはどこまでも淡く。
幾つもの小さな三角形が組み合わさり、幾何学な模様を描き。
そして触れれば壊れてしまうような静謐さと、絶対に折れない堅牢さとを持ち合わせていて。
雁夜は、手を伸ばす。
何が面白いのか、陰気に哂う臓硯の声が先程から彼の鼓膜を揺らし、酷く不快。
雁夜は歯を食いしばり、怒りと共に桜へと。桜だった物へと手を伸ばし続ける。
桜は、自分が助けるのだ―――否、助けられたのだ。
そして彼女の家族の下に、葵と凛の下にへと連れて行き、以前の様に無邪気な笑顔を取り戻させてやるのだ―――否、もう笑っているじゃないか。
全ては、桜の為に――葵の為に。
雁夜の蟲に犯された左目に映る物は幸せそうに微笑む桜の姿。
だと言うのに、未だ健常の右目に映る物は蟲に陵辱される桜の姿。
(―――ふざけるな、っつってんだ)
……痛みと怒りが受け入れられず、雁夜の意識は朦朧とし、現実と妄想の範囲が曖昧と成る。
桜を救いたいという願いと、桜が犯されているという現実。
桜を救うはずの自分と、陵辱される自分。現実と妄想の差異。
ぎりぎりの所で耐えていた意識が―――桜を救う自分を【妄想】する事で保たれていた正気が、徐々に狂気に侵食されていく。
……邪魔だ。
邪魔なんだ。
蟲が。
蟲が。蟲が。
蟲が。蟲が。蟲が。
―――臓硯が。
力の無い俺が。
笑顔に蟲が、邪魔だ、邪魔だ。
蟲が。臓硯が。蟲が。臓硯が。蟲が。臓硯が。蟲が。臓硯が。俺が。俺が。蟲が。
―――【妄想】に則しない現実、現実が邪魔をする【妄想】。
……殺したい。
殺したい、殺したい。
殺したい。彼女を穢す存在の全てを。
殺したい。彼女を堕とす存在の尽くを。
殺したい、俺の邪魔をする現実を。俺の現実を犯している妄想を。
―――殺したい! 桜を解放する自分の邪魔をする輩、その全員を―――!
「―――フざ、ケるなよッ―――!!」
雁夜は、手を伸ばし―――――――――――――――指先が、剣に触れた。
*****************************
―――間桐桜にはその時に何が起きたのか、理解できなかった。
何時もと同じように蟲倉に呼ばれ、何時もと同じように蟲に「教育」される。
身体に受ける痛みも、何をされようが震えない心も何時もと同じ。何一つ変わらない日常。
強いて違う所を上げれば、何時もは彼女の前に呼び出されるはずの雁夜が蟲倉に居る所だろうか。
だがそれも、些細な違いに過ぎない。
彼が居たところで襲い来る痛みは減らないし、見られたところで何も思わない。
共に陵辱されたとしてもそれは同じだ、苦痛が二倍になる訳でも半分になる訳でもなし。
そして雁夜が臓硯に殴りかかった時も、「何であんな無駄な事をしているのだろう?」という疑問しか感じなかった。
お爺様は絶対だ。逆らった所で何もできない。何も得られない。
……それなのに、何故彼はあのような無駄な事をするのか?
昼間に夜までの時間つぶしに付き合ってくれている時もそうだ。
「絶対に家族の下へと返す」「帰ったら何をしたい?」……何を言っているのだろう? 自分がお爺様から離れられるはずがないのに。
例えどこに行こうとも、お爺様は何処からか自分の事を見ているに違いない。
母と一緒に居ても、姉と一緒に居ても、父と一緒に居ても。何処からか、ずっと。
そして時間になれば、彼は自分にしか聞こえない声でこう告げるのだ―――「桜よ、勉強の時間だ」と。
臓硯からは逃れる事はできない。希望も助けも来る事は無い。
蟲に塗れた雁夜が必死の形相で自分に手を伸ばしている姿を見ても、彼女は何も感じない。
自分に対する想いに心を打たれる事も無く、それどころかその意図を汲むことも出来なかったのだ。
桜は、雁夜を意識から外した。
自分が、この蟲達から解放される事は絶対にあり得ない。
雁夜の言葉は、全て嘘。
彼の行動は、その全てが理解できない無意味な物。
お爺様に抗ったところで、それは無駄な事。
全てはお爺様の手のひらの上、何をしても覆る事は無い。
彼女は心の底からそう思っていて―――
――――――だからこそ、全ての蟲が一斉に共食いを始めた時も、それは臓硯の意思による物だと思っていた。
「っぎ、ぃ―――!?」
……しかしふと見れば、絶対の存在であるはずの臓硯は醜い悲鳴を上げていて。
彼の身体を構成する無数の蟲が【間桐臓硯】のシルエットを維持する事を放棄して、互いに食い合い、磨り潰し合い。
間桐臓硯は、間桐臓硯だった物へとその姿を変えていく。
(…………?)
―――彼女は、理解できなかった。
何故お爺様が姿を消していくのか、何故お爺様は苦しそうに声を荒げているのか。
周りを見渡してみれば、蟲は互いにその身を押し付け合い、歯を立て、次々と自らその数を減らしている。
蟲がその数を一匹減らすたびに、緑色の体液と白い粘液とが周りにぶち撒けられていった。
いや、周りの蟲だけではない。彼女の身体の中に巣食う蟲すらもが共食いを繰り返していた。
身体に詰まっている蟲が……肺の中で、胃の中で、腸の中で、膣の中で精液と粘液とを撒き散らしていた蟲の尽くが息絶えていく事が感覚で察知できる。
産み付けられた卵すらも、それを産みつけた蟲自身が噛み砕き、咀嚼し。そしてその蟲もまた別の蟲に捕食されていくのだ。
―――彼女の身体から、蟲の痕跡が消えていく。
(……新しい、魔術の準備……?)
桜はそう疑問を抱くが―――答えを知るはずの臓硯は既に蟲の塊と化していて、答えてはくれなかった。
困った桜は、今まで意識すらしていなかった雁夜の方へと目を向けた。
答えをくれることを期待していたわけではない。
ただ彼も自分と同じように戸惑っているのだろうか、と少しだけ気になっただけだ。
そして、そう思った桜が目を向けた先―――
(―――)
それは黒く。
それは青く。
それは淡く……。
左手に何処までも青い剣を握り締めた彼の姿に、しばしの間目を奪われた。
「……っぐ……ゥうおぁ……っ」
彼は地に這い蹲っていた。
ボロボロの、もはや服とは呼べない状態になった布切れを身に纏い、蟲の粘液と精液に塗れていた。
限界まで見開かれたその目は焦点が合っておらず、下を向いた鼻と食いしばった口からは血液の混じった体液を滴らせている。
青い剣を握り締めた拳を石畳に押し当て、必死にもがき、苦しみ。
―――そうして、自分の下に近づいてくる、その姿。
……彼女は知らない。雁夜の持っている剣が、ディソードと呼ばれる物であると。
彼女は知らない。雁夜がギガロマニアックスと呼ばれる妄想を現実とする能力者へと覚醒したことを。
彼女は知らない。間桐臓硯が雁夜の妄想攻撃を受け発狂し、自傷行為へと走らされたことを。
彼女は知らない。彼女が絶対だと信じている間桐臓硯は、既にその本体が【間桐臓硯】自身に食われ、周りに蠢いている蟲はその残り粕でしかないことを。
彼女は何も知らない。何も分からない。何も理解できない。理解しようとしない。
―――だがそれを見た瞬間、彼女の心は僅かに震えたのだ。
恐怖? 喜び? 絶望? 不安? 安堵?
その震えが一体どのような感情だったのか―――それを桜が理解するのは暫く先の事となる。
今の彼女は自分の心が細波立ち、理解できない感情の揺れを感じていることに困惑するしか許されなかった。
―――雁夜はそんな彼女の様子に気づく余裕も無く、仰向けに寝転がる桜の隣へと辿り着く。
そして彼女の秘所から漏れ出る蟲の残滓―――蟲毒となった一匹と、食い散らかされた蟲の死骸。身体の中にこびり付いた粘液の一部を目にし、顔を歪めた。
「……くそ、っが。今、俺が……」
同じく喉の奥に張り付く粘液により言葉と共にゴポゴポと異音が響く。
しかし雁夜はそれすらも気にせず、無理矢理身体を引き起こし、左手に握った青い剣を―――ディソードを構えた。
この剣が何なのか、今何が起こっているのか。
彼は桜と同じく現状を全く理解しては居なかった。同時に、臓硯の状態すらも。
【何時の間にか良く分からない剣を手にしていて、邪魔だと思っていたら蟲が消えていた。】
その他委細も何も把握せず、雁夜はそれが当然だと認識する。
痛みと怒りにより意識が曖昧の状態。加えて妄想と現実の境界が溶け落ちた彼の目には、ただ邪魔な蟲が居なくなった。としか映っていなかったのだ。
臓硯の存在は、もはや彼の意識には無かった。
当然、剣に対する疑問に割く思考能力も無い。
邪魔だったのだから、消えるのは当たり前だ。
桜を穢すものは全て死ぬ。当たり前だ。
俺が桜を助ける。それは予定調和であり、当たり前。
だから、こんな蟲の汁で穢れた桜など、桜じゃない。
邪魔だ。邪魔なんだよ。こんな物―――
ちぐはぐな思考、矛盾した現実と妄想。
ぐるぐると回る視界の中で、彼はディソードを桜に突きつける。
未だ僅かに残った正気が頭の片隅で止めてくれと懇願しているが、今の雁夜にはそれは雑音にしか聞こえなかった。
―――これを突き込めば、全てが終わる
蟲の粘液と自らの体液で汚れた顔が、穏やかな笑みを形作る。
その笑顔は彼が救うべき彼女へと向けられ、彼女の心に再び細波を作り出して。
そうして伸ばした左手は、ゆっくりと桜へと迫り―――
――――――間桐雁夜の戦いは、運命に辿り着くことなく、ここに終息を迎えた。
■ ■ ■
「……ごめんなさい」
―――放課後。
穏やかな春風が吹き抜ける、とある学園の校舎裏。
暖かな日の光が遮られた木陰の中で、その少女は自分に想いを告げてくれた少年へそう断りを入れた。
少年が行った「好きです」というシンプルながら気持ちの篭った渾身の告白。その答えは正しく即答とも言うべき速度で跳ね返る。
人が人ならば、もう少し真面目に考えろとしつこく食い下がる場面ではあるが―――しかし対する少年は、予め振られる事を予想していたのか、「……そっか」と呟き肩を落すだけに留まった。
「はい……私には、もう心に決めた人がいますから」
……その少女は、美しかった。
絹のような滑らかな肌、糸の様に細く柔らかい髪。すっきりとした目鼻立ちにメリハリの付いたプロポーション。
おそらく彼女とすれ違う男性の9割がその美貌に目を奪われることだろう。
少女に告白した少年も、その内の一人。
まず少女の美しさに見蕩れ、後に彼女の淑やかな性格に触れ惹かれていったのだ。
そのため少年自身も自分とは吊り合わないと心のどこかで察しており、告白が成功する確率は低いと見ていたのだが……やはり落胆は隠せないようだ。
少年は震える目尻を見られないよう顔を背け、校舎の壁に背を預けて力なく笑いつつ、気まずい空気を誤魔化そうと少女に問いかけた。
―――君の好きな人って、どんな人なの?
……良く考えずに口から出た言葉。
少年は自ら心の傷を押し広げたことに気付き、さらに水分の抜けた笑い声を漏らした。
少女はそんな少年の様子に困った笑顔を浮かべながら、答える。
その人は、とても優しい人だと。
その人は、とても自己中心的な人だと。
その人は、とても強い人だと。
その人は、とても弱い人だと。
そしてその人は、どこまでも現実を見ていながら、どこまでも妄想の世界に生きる人だと。
……少年は、訳が分からなくなった。
少女ほどのハイスペックな女性の想い人ならば、もうちょっとこう……何というか。
絵に描いたような完璧超人然とした人物だと予想していたのだが、話を聞く限りそうでもないようだ。
というか彼女の語る人物像は矛盾しまくっていて、少年にはどのような人物なのかさっぱり察することが出来なかった。
にも拘らずその人物の事を語る少女がまた良い笑顔で、それがまた腹立たしい。妄想ってなんだよ、妄想て。
とにもかくにも少女がその人の事をどれだけ深く想っているのかは伝わった。
これ以上惚気話を聞いていると立ち直れ無さそうだったので、少年は少女の話を途中で切り上げて貰うよう嘆願する。
少女はまだまだ話足り無さそうでは合ったが、渋々それに従った。
ただ、最後に一つと前置きをして、
「―――実は私も、片思いなんですよ」
……ああ、そうですか。
そうなんですよ♪
引きつった笑顔を浮かべつつ、少年は思った。
この少女にこれだけ好かれている男は、どんな男なのだろうか。可能ならば、この手で「お前好かれてんだぞ」と叫びながら殴り飛ばしてやりたい物だ。
軽く頬を赤らめながら、少女は自らの想い人を想う。
自分が想いを伝える度、それはそれは死にそうな程に物凄~~~く困った苦笑を浮かべる彼の事を。
……そしてその会話を最後に、少年と少女は挨拶もそこそこにして校舎裏から立ち去っていく。
少年はしょぼくれた足取りで裏庭の方角へと。少女は凛とした足取りで校庭の方角へと。
別々の方角に歩む二人は、ほぼ同時に空を見上げた。
――――――見上げた空。流れる雲の欠片が食べ物の形に見えた少年は、今日を初恋が終わった記念日と称し自棄食いに勤めようと心に決め。
――――――見上げた空。流れる雲の欠片が淡い色合いを持った剣に見えた少女は、その人を想い始める切欠となった細波の感覚を思い出し、笑顔を浮かべた―――