オーバーロード17 支配の共鳴[上]異種族の恒久的平和の為の世界平定と忘れ去られた38人目の忘れ形見(最新16巻直後からルート分岐) 作:ぽきぷし
side:レエブン侯爵
侯爵家の家督を継いで三十余年、リ・エスティーゼ王国という名の沈みゆく泥舟の中で、私は常に「最適解」を選び続けてきた自負があった。若かりし頃は王座さえ狙い、事実それを成すだけの才を自覚していた。しかし王国の窮状を知り、支配者階級の危機感の無さを知り、王座に価値を見出せなくなるにつれ、目的は変わってしまった。無能な貴族たちを操り、王派と貴族派の均衡を保ち、時には泥を被り、時には冷徹に切り捨てる。すべては、この国を存続させ、我が愛する息子に輝かしい未来を継承させるため。だが、その自負はカッツェ平野の地獄で粉々に砕け散った。
魔導王アインズ・ウール・ゴウンという規格外の暴虐を前に、私が見出した虎の子の軍師は呆気なく散り、私が積み上げた政争の布石は何の意味もなさなくなった。残ったのは、魂を削るような原初的な恐怖と、愛する家族を救いたいという惨めな執着だけだ。そんな折、我が領地を訪れたのは、魔導国の視察団となり、背に人の身では決してあり得ない黒い羽を携えた元第三王女ラナーだった。
「お久しぶりですわ、レエブン侯。……あら、そんなに畏まらないで。今は私の方が、貴方の領地にお邪魔している身なのですから」
人払いをした執務室に現れたラナーは、かつて王国の花と謳われた頃と変わらぬ、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。だが、彼女が口にした言葉は、私の血を凍らせるに十分なものだった。リ・エスティーゼ王国において自分と隔絶した頭脳を持つ人物。幼少期において『王の実子の中で最も王位継承権が遠い王族』という閉鎖的な環境にありながら、隣国の情勢を正確に知り、そこから王国の破滅が既定路線であるかのように語っていた独り言の真意を理解したのは、ほんの数年前のことである。後に調べると、当時のラナーは第一、第二王子、王女と比べて数段程度の低い教師が初等教育を始めて数ヶ月であった。10歳に満たない少女が、どこからか帝国の皇帝が血の粛清による代替わりを予期し、将来的に毎年攻め込んでくることで王国が衰弱していくことを予測する。予知のタレントを持っていると言われた方がまだ理解できた。目の前の女が父王らと共に王国と心中するなど俄かには信じ難かったが、案の定、生き延びていたらしい。それも種族まで変えてだ。王族としての地位も人間という種族も、この化け物にとっては何の価値もない物だったのだろう。
「レエブン侯、お互いに無事で何よりですわ。……ああ、そういえばお伝えしていませんでしたね。実は私、ずいぶん前からナザリックと通じておりましたの。お父様やザナック兄様を謀る形になってしまいましたけれど、おかげで私とクライムは悪魔へと種族を変えて、こうして永遠の安寧を得ることができました。……ふふ、あんな国であれ、王家の血筋が続く目が残ったことは、貴族冥利に尽きるでしょう?」
悪びれもせず、まるでお茶の銘柄でも替えたかのように語るその内容に、私は眩暈を覚えた。この女は、最初から国を売っていたのだ。自身の欲望と、あの飼い犬との安寧のためだけに。その異常性に気づいていながら、御しきれると考えていた己の傲慢さが呪わしい。
「あの少年騎士も無事でしたか。ご自分の望まれる最良の結果を得られたのであればお祝い申し上げなければなりませんね。」
彼女の背後に控えていた二人に視線を向ける。魔導国からの使いとして人間の姿をした者が訪れるとは予想外であった。懐柔などといった無謀な真似をする気は起きないが、何者か気になる。通常であれば、人間であるなら帝国や聖王国の上澄みの人材であると考えるのが自然だが、王国の元王女である鬼才と行動を共にさせるほど評価される人材に心当たりがない。
「紹介しますわ。こちらはカルネ村近郊に在る、魔導王陛下が居城とされるナザリック地下大墳墓より参りました、ユリ・アルファ様. そして同じく、陛下に仕える文官であらせられる、ビクトリアス=Tゲバー=バランス様です。」
眼鏡をかけ、隙のないメイド服を身に纏う美女。その立ち居振る舞いには、人間離れした無機質な美しさと、直視を拒むような圧倒的な強者のオーラがあった。彼女が軽く頭を下げるだけで、私の背中を冷たい汗が伝う。王国では入手不可能であろう素材で作られていることが容易に窺えるメイド服。侯爵家のメイドと比しても熟達し、無駄がなく気品を感じさせながらも、訪問先の当主である自分に対しても全く敬意を感じさせない事務的な所作は、彼我の立場の差を明らかにさせるに十分である。
そして、年齢も性別も判別の難しい、おそらく自分より若く40歳前後だが前髪から全体を後ろに流し襟足を少し残した髪型、こちらも高級な仕立てがうかがえる見慣れない衣装をしたバランス様。柔和な笑みを浮かべているが、その瞳は初めて貴族に仕えた頃の若き文官のように爛々と輝いているように感じた。服装はやや奇抜だが、かつての王城で見かけたならば「昇進してやる気にあふれる初出仕の文官」と言われれば納得してしまうほど何の脅威も感じない。
魔導国ではなくカッツェ平野の大敗後も結局特定出来なかった拠点に所属するという魔導王陛下に仕える者たち。人間を遥かに超越した存在が、今は人の皮を被って私の前に立っている。それだけで、私の本能が警鐘を鳴らし続けていた。
「レエブン侯。貴方の優秀な頭脳であれば、既に答えは出ているはずです。あの日、魔導王陛下がカルネ村に降り立たずとも、カッツェ平野に強大な魔法が放たれずとも……リ・エスティーゼ王国の『死』という結末に、一分一厘の狂いもなかったことを。」
ラナーの声が、私の思考の深淵をかき回す。
「……否定はしません。王国は腐りすぎていた。しかし、これほどの犠牲を払う必要があったのか。九百万の民の血は……」
「あら、おかしいわ、レエブン侯」
ラナーが、ふふ、と愛らしく小首を傾げた。その瞳には、人間的な同情の色など微塵も存在しない。
「それを仰るなら、貴方こそ。九百万の同胞を見捨て、自分と家族、領地と僅かな身内だけを救い上げるという『最善の保身』を既に選ばれたのでしょう? 貴方が魔導国に降った瞬間、王国の滅亡は貴方の手によって追認されたも同然。いまさら犠牲の数に眉をひそめるのは……少し、滑稽ではありませんか?」
氷のような皮肉が突き刺さり、私の顔から血の気が引く。
「……それは……」
「いいのですよ. だって、それが『愛』でしょう? その他大勢の有象無象がどうなろうと、たった一人の大切な存在が健やかであれば、世界など燃え落ちても構わない。……ええ、本当に、本当に素晴らしい決断ですわ。私は、貴方のそういう『人間らしい醜さ』が大好きなんです。」
ラナーがうっとりと頬を染める。その目に映る私は、さぞかし醜悪で、しかし彼女にとっては愛でるべき滑稽な生き物なのだろう。
反論はできない。私は強かさを誇った大貴族などではない。ただの、保身に走った臆病な父親に過ぎないのだから。
「侯爵様。あの日、陛下がカルネ村に現れなかった場合に起こっていた『真実』を直視なさいませ」
沈黙を破ったのは、バランス様だった。彼は一歩前へ出ると、私の良心を粉砕するような「算術」を突きつけてきた。
「スレイン法国の実行部隊『陽光聖典』は、帝国兵に偽装してガゼフ・ストロノーフを確実に殺害する手はずでした。最強の剣を失い、さらにそれが帝国の仕業だと信じ込まされた王は、怒りに駆られて帝国への全面戦争を決断したでしょう。そうなれば、ジルクニフ皇帝は本腰を入れて侵略を開始し、我ら内通貴族の手引きで王国は瞬く間に併呑されたはず。それこそが、帝国を肥大化させ『人間種の盾』として使い潰そうとした法国の図面だったのです。」
バランス様の声が、冷酷な盤面を私の脳裏に展開させる。
「貴族も王族も、己の利権と体面のために国を破滅へ向かわせていた悪. その腐りきった王国において、唯一、民のために奔走していた正義はガゼフ・ストロノーフただ一人だった。……しかし、正義のみでは国は救えません。陛下が介入せねば、王国の千万の民はすべて、出口のない飢えと戦火の中で緩やかに死を待つだけの『死に体』として、確実な不幸に沈んでいたはずです」
彼は、私の目の奥を覗き込むように言葉を継ぐ。
「それを陛下は、壊死しかけた九百万の部位を切り捨てることで断ち切った。九百万の死という代償により、残された百万の民は今、魔導王という強大な後ろ盾を得て、かつての王国では望むべくもなかった幸福を享受している。そして、その後に続く何十倍もの子孫たちが、永遠の安寧を約束されているのです。……千万全員が泥沼で朽ち果てる未来を、九百万の犠牲で百万とその末代の救済へと塗り替えた。これ以上の慈悲がどこにあるというのですか?」
私は拳を血が滲むほど握りしめた。
私が描こうとした「王国存続」の未来など、大国たちの盤面上では最初から破綻していた。魔導王という絶対的な支配だけが、この詰んでいた盤面を暴力的に塗り替え、息子に「平穏」という名の生存権を与えたのだ。
「レエブン侯。貴方の息子さんが、ガゼフ様の勇敢さと魔導王陛下の慈悲を学び、その下で豊かに育つ未来。それこそが、ガゼフ様が命を賭して守りたかったものではありませんか? 過去を悔いて立ち止まることは、彼への、そして亡くなった九百万の民へのさらなる不忠です。」
ラナーが手渡してきた資料には、王国と帝国、スレイン法国の近年の活動の因果関係、スレイン法国の企みが詳細に記されていた。そして護国の英雄ガゼフ・ストロノーフの死を魔導王への忠誠へと繋げる、鮮やかな、そしておぞましいほどのプロパガンダが記されていた。
私は……これを広めねばならない。かつての友の名を汚してでも、魔導王という神に祈りを捧げ、息子を守り抜く。それが、清濁併せ呑み生き抜いて来た私の、最後の「強かさ」の使い道だ。
「……ラナー様。私は、己を恥じ入るばかりだ。陽光聖典の陰謀すら見抜けず、ただ盤面の上で踊らされていたのか。魔導王陛下という独裁者の下での平和が、民にとって唯一の救いであるというパラドックスを、私は認めねばならんのだな。」
私は椅子から滑り降り、かつて王都でその知略の片鱗に畏れていたはずの怪物に、臣下としての礼を取った。
膝をつき、額を床に寄せる。プライドなど、カッツェ平野の砂嵐に消えた。
「我がレエブン侯領は、全力でこの布告に応じましょう。ガゼフ殿の名誉を讃え、魔導王陛下の正義を民に刻み込む。それが、次代を生きる子供たちのための、私の最後の戦いだ。」
視界の端で、白手袋を嵌めたユリ様が、感情の消えた瞳で私とラナーの様子を記録しているのが見えた。彼女のようなナザリックの住人からすれば、私のこの葛藤も、屈服も、単なる「予定通りの事象」に過ぎないのだろう。
背中を這う恐怖は消えない。だが、それ以上に重い「次代への責任」を背負い、私は立ち上がった。不思議と九百万の民を犠牲にして生き延びた罪悪感は消えていた。王国を蝕んでいた愚かな貴族は領民ごと廃された。万年続く平和を享受できる魔導国という理想郷の礎として、私はこの手で旧王国の屍を片付けるのだ。それが彼らに比べ幾分マシな生存を許された我々の責務なのだろう。