「マーガレット・ミッチェルという作家を知っているね」
橙色に染まり始めた部室の中で先輩はそう切り出した。
「風と共に去りぬを描いた人ですよね。知っていますよ」
ボクはもうそんな時間かと思いながら本に落としていた目線を上げる。先輩『伊月詩織』はいつも小説の途中で話を始める。それは部活の終わりの合図であり、小説の打ち切りの合図なのだ。
「彼女がそれ以外の作品を描いていたことも知っているかね」
「知りませんでした」
「無理も無い。その本以外翻訳もされなかったからね」
先輩はそう言ってペンを置いた。
「時に書物には作者以上の力が宿るとこがある」
「そうでしょうか」
「そうだとも」
「書物だけじゃない。音楽や絵といったものもそうだ。一発屋と呼ばれる人間たちは自身が持つ力以上の作品を時に作る」
「それは彼らに才能があったからじゃないですか」
ボクは言った。
「違うね。むしろ才能がなかったからだよ」
ボクは黙っていた。先輩はそんなボクの表情を見て微笑んだ。
「彼らは自分の才能のなさを知っていたんだ。自分が素晴らしい作品を作れないことをね。そしてそれでも何かを作り続けようとする時、不思議な力が宿る」
「彼ら自身、どうしてその作品を創れたのかわからないだろう」
「そうしてその作品に縛られる」
「読者よりもずっとね」
「そんなものですかね」
「そんなものだよ」
先輩は立ち上がり言う。
「今日は帰ろうか」
昇降口で靴に履き替え校門をくぐり抜ける。もう日が暮れている。橙色に染まった街を見ながらボクは言う。
「今日はどんな作品を書いていたんですか」
「そうだな、高校生の男女が出会って成長していく、そんなありふれた話さ」
何かを考えるように目線を上げ、先輩はそう言った。
「面白そうですね。今度読ませて下さい」
「もちろん。完成したら読ませてあげよう」
ボクは一度も先輩の作品を見たことがない。
「期待して待っていますね」
先輩はふっと笑った。
「期待しててくれ」
「ボクも」
「ボクも小説を書いてみようと思います」
先輩は足を止めた。そしてボクの顔を見つめる。
「いいじゃないか」
「どんな作品を書くつもりだい」
「まだ何も。完成したら見せてあげますね」
「楽しみにしてるよ」
僕たちは再び歩き始めた。
分かれ道に着いた時、先輩は振り返りながら言う。
「君の先輩として一つだけアドバイスを送ろう」
「私があげた本棚は埋まったかい」
風でなびく彼女の髪がまるで行手を塞いでるように見えた。
ボクは彼女の身定めるように開かれた黒い瞳から逃れるように微苦笑を浮かべ「まだ半分ほど」そう言って頭を掻く。
彼女はニコリと笑い「本棚を埋めてから小説を書き始めることをお勧めするよ」
それから右手を上げ手を小さく振った。
「また明日」
そしてボクの返答を持つ間もなく前を向いて歩き始めた。ボクはポカンとしていたが、遠ざかる背中を見て急いで大きく手を上げ「また明日」と叫んだ。
橙色の人影が左右に揺れているのを見て満足したボクは振り返り歩き始める。
空に太陽によって隠されていた光が現れ始めた頃、勉強机の上に置かれたテーブルランプに照らされた部屋でボクは
ベットの中で考える。彼女は何かに縛られているのだろうか。彼女を縛るほどの作品があるのなら読んでみたい。
そんなことを考えながらボクはゆっくりと眠りに落ちていく。薄れゆく意識の中で本棚が見える。今日もまた、空っぽである。