「ここだ」
「趣のある喫茶店ね」
住宅街のなかにある一つの建物の前で足を止める。
彼女の言った通り、チェーン店のように美しいばかりの外装ではなく、随分と年季の入った印象を受ける古き良き純喫茶だ。古民家のような佇まいで、木製の扉を押し開くと木の香りが鼻腔をくすぐる。
マスターに二本指を立てると彼は頷いてカップを拭く手を止める。
好きな席に座れということだとアタリを付けて、窓際の奥の方に腰掛ける。湊も向かい側に座って不思議そうに店内を見渡している。
こうして向かい合うと自然と彼女の顔に目が行く。長いまつ毛、色白い肌、美しい瞳。
どれを取っても喫茶店にそぐわないはずなのに、不思議と絵になるのだから美人というのは見るだけでため息が漏れる。
「……あら、メニューが多いのね」
「純喫茶ってなぜかメニュー多いんだよな。作るの大変だろうに……」
飲食店の経営が大変という話はよく聞くが、その中でも仕込みによる拘束時間は長いと思う。
一人暮らしでもして毎日自分で料理をするようになれば分かるが、料理を作るというのはしんどい。
食材を買ってくるのも、調理をするのも、洗い物をするのもなにもかもが面倒くさい。
それなのに経営のためという義務感が発生するのだから、自分には出来ないだろう。
知っている人のためならば出来るかもしれないが、顔も知らない他人のために労力をかけるつもりはない。
「俺はカレーにでもするか。湊はどうする?」
「そうね……サンドイッチにしようかしら」
マスターに注文を済ませて、彼が置いていった水を飲んで外を眺める。
しばらくすると料理が運び込まれたカレーに舌鼓を打っている俺の様子を見て湊は不思議そうに首をかしげる。
「ねぇ」
「……どしたの?」
「美味しいの?」
「まぁ、それなりには」
林間学校などの宿泊学習でよくある料理だが、自宅で作るとなると面倒が勝つ料理だろう。だからこの喫茶店に来たときは純喫茶の定番ナポリタンなどには目もくれず、だいたいカレーを食べている。
サラリーマンが幕ノ内弁当を食べがちなのとよく似た理由だ。冒険するよりも美味しいと分かっているものに手を付ける。
「そうなのね……」
「食うか?」
米とルーをスプーンですくって彼女の前に持っていくと、とくに気にする様子もなく口に含む。
「美味いか?」
「ん……美味しいわね……サンドイッチも食べてみる?」
「ああ」
差し出されたサンドイッチをそのままかじる。ただのBLTサンドのはずだが、やけに美味しく感じる。食材が新鮮なのだろうか、と首をかしげてマスターの方を見てみると、なぜか不気味に笑っている。
「うーん……?」
首をかしげながらカレーを口に運ぶ。
湊の方を見てみても小動物のようにサンドイッチを口へ運んでいるだけで特に気になる様子もない。いったいなんなんだろうと考えているうちに完食してしまった。
別に友人同士なら食べ物をシェアするくらいすると思うからそれではないだろうし、よく分からんな。
「美味しかったわね……」
「まぁ年の功だろう。ここの料理はおいしい」
「誰がおっさんだ小僧。私はまだ50代だ」
「50でおっさんならいい評価だろ」
呆れた声とともにトレーに載せた紅茶をテーブルの上に置いてくれるのはこの喫茶店のマスター。長身痩躯でベストを着こなす老紳士はこういう歳の取り方をしたいと思わされる男であり、喫茶店をやっているだけあって世話好きな人間。
「あの……」
「これはサービス。はちみつティーは飲めるかな」
「ええ、飲めるけれど……どうして?」
「いつもそこの坊主が注文するからさ」
くつくつと笑って立ち去る老紳士にため息を吐く。なんであの人は余計なことを言うのだろうかと頭を抱えたくなるが、目の前に湊が居ることを思い出して静かに深呼吸をする。
「……まぁ、せっかくのサービスだし、いただこう」
「はちみつティーを頼んでいたというけれど、好きではないはずよね?」
それ掘り下げんの……!?
掘り下げてほしくない雰囲気を出したつもりなのに、この女と来たら無視するのかと驚愕して思い直す。湊友希那は自分の気になったことは失礼を承知で突っ込むタイプだった。
「ああ、それはね。ここで紅茶の練習をしていたからさ」
「おっさんが答えないでくれよ……」
「年頃の若いのなんて本音を言わないだろう。ちょいと老人が助けてやっただけさ」
「もう喋るな頼むから……!」
助けるなんて言いながら絶対面白がっているだけだろう。
ケラケラと他人事のように笑うマスターに呆れたため息を漏らすと、驚いたような視線が注がれていることに気が付く。
「……なんだよ」
「いえ、紅茶を淹れるのが趣味だと聞いていたから」
あー、そういえば紅茶を淹れるのが趣味だから練習させてくれって話で湊に紅茶を淹れ始めたんだったか。実際のところは彼女の好きな飲み物がはちみつティーだと知ってからマスターに頼んで教えてもらったのだが……わざわざ言うことでもないだろう。
「趣味だよ。……いや、趣味になったかな」
「まぁ、人のために淹れるなら趣味という理由付けは都合がいいだろう。私も妻に淹れるときはそう言い訳していた」
「……マスター」
「おぉ、こわいこわい。オッサンは退散するとしますかね」
手をひらひらさせて店の奥に引っ込んでいくマスターに恨みの視線を向ける。
あの人は隠しておきたい気持ちをあまり理解してくれない。本来であれば墓まで持っていくつもりの秘密だったので、バラされたことに愕然とする。
相手に喜んでもらうための苦労は人に見せたいとは思わないし、苦労アピールも好きではないから、ここまで本当のところを言われてしまうとどうしたらいいのか分からない。
「今のほんとう?」
「……ああ。湊に喜んでもらいたくて淹れ始めた」
「そうね……正直、最初はあまり好みではなかったのだけれど……」
はちみつティーをひと啜りして、少し表情をほころばせる。
ただ、その表情は今のことより以前のことを思い出しているようにも見える。
「……このはちみつティーも美味しいけれど、あなたの淹れたものの方が美味しいと思うわ」
「そりゃ、どうも……そう言ってもらえると素直にうれしい」
あの余計なひとこともこの言葉を引き出せたなら許してもいいかと思った。
カフェから外に出ると、もう既に昼過ぎ。一日の中でもっとも気温の高い時間に差し掛かっているはずなのに、上がりきっていない温度と乾いた風とが肌を撫でる。
鼻につくような秋の香り──いや、秋にそんな芳香などない──を風が運んでいく。
寒々とした空気を染める空色は吸い込まれてしまいそうなほど虚ろだ。
「寒いわね……」
「カーディガンいるか?」
「……準備がいいのね」
「デート慣れしてるみたいな言い方やめてくれ。寒さで体調崩したら俺が嫌ってだけだよ」
「そう……でも、遠慮しておくわ」
少し余計なお世話だっただろうか、と不安になってショルダーバッグの中に再び戻す。
個人的にはもう少し散歩をして街を練り歩きたい気分だとしても、同行者が寒そうにしているなら自分の気持ちを後に回して彼女を優先した方がいい。
個人的には着てくれれば風邪ひく可能性が薄まるから着てほしいのだが……ファッションを崩してしまったり、そもそも人の衣服を身に付けるのが嫌という可能性を考慮出来ていなかったことに反省してから彼女の手を引いて歩き出す。
「行くかー。どこ行きたいとかある?」
「……どこに行けばいいのかしら」
「言うと思った。なら近くのモールにでも行こう」
この歌姫ちゃんは近頃マシになってきたとはいえ、音楽以外に対する関心がないというか、人間赤ちゃんなのだろう。歳の割には周囲に関心がなく、自分を持てていることは眩しく見えるが、裏を返せばあらぬ誤解を生んでしまう可能性もある。
周りの人間が世話を焼かずにはいられない。それでいて、俺は彼女に救われているのだから不思議な話だ。
彼女の手を引いて改札を通り抜ける。人に合わせて歩くのは思っていたよりずっと疲れるが、悪い疲れでもなかった。
「電車移動になるから俺から離れるなよ。女性専用車両に俺が入ったら殺される」
「気にしすぎだと思うけど……」
「気にしすぎでいいから離れるな。お前ただでさえ綺麗なんだから大人しくしとけ」
悪い話が目立っているだけと言われればそれまでだが、出来ることなら不快な思いをしてほしくない。一部の人間のみということは分かっているのだが、周囲全部が敵に見えてしまって辟易する。湊は誰のものでもなく、彼女自身のものであって俺のガールフレンドというわけでもないのだからここまでする必要もないのだろう。
「……わかったわ。あなたから離れないように気を付けるわね」
聞き間違えかと思った。
あまりに自分にとって都合のいい言葉が聞こえて湊を見る。彼女からは信頼の視線とわずかな微笑みだけが返される。
これで嫌がられていると思うほど、俺も人の心に疎くない。
思わず手を離そうとすると、手が絡み取られて恋人つなぎのようになる。
「お願いの二つ目、いいかしら」
「……聞くだけなら」
「このデート中、手をつないでおいてちょうだい」
「それでいいのか?」
「充分よ。男の人に手を握られたのなんて初めてだもの」
すごいことを言われた気がするが、意識して思考から追い出す。
正面から直視してしまうと動揺してしまいそうになることを言わないでほしい。
強く弾み始めた心臓を服の上から抑えながら、心のなかで悪態をついて平常心を装う。
「……そうかい」
動揺した心でかろうじて言えたのは素気ない言葉だけだった。