序幕:狼と賢者
――イヴ・アーヴィングは狼人間である。
それは彼女の秘密であり、呪いであり、孤独の始まりだった。
暗い部屋の中で、イヴは膝を抱え、縮こまるようにして座っていた。厚手のカーテンに締め出された月明かりが恨めしげに窓枠をぼぅっと照らしている。
長く伸びたマズルに触れる指先。ごわついた体毛の感触。膝を抱えた体が「人間」としての境界線を超えていく感覚が、彼女の中に不快な現実を突きつける。
「お前はヒトではないのだ」と。
それでも幼い彼女にとって最も辛かったのは、この事実そのものではなかった。月に一度、家族と過ごせない孤独な夜が訪れること――それこそが最大の痛みだった。
「だいじょうぶ、イヴ。明日になればお母さんも、おじいさまも、『頑張ったね』って頭をなでてくれる」
彼女は"狼人間として"は幸せな境遇にある。五歳の頃、不幸な事件によってこの病を患ってからも、家族の愛情は変わらなかった。優しい母、厳しいが頼りがいのある祖父、そしてなによりアーヴィングという純血一族が持つ富と魔法の技術のおかげで、脱狼薬という非常に高価な薬を安定して手にすることが出来たのだから。
鋭敏な聴覚が、隣室からの声を拾った。
「よりにもよって今日来るなんて、ダンブルドア、あなたは何を考えているのですか?」
怒りを押し殺したような母の声が聞こえる。分厚い壁に何重もの防護魔法がかけられているが、音を遮る術式は意図的に施されていない。万が一、彼女が理性を失って暴れ出したとき、すぐに対処できるように。
狼人間ではない彼らには、この壁越しにイヴが会話を聞き取れるなど思いもよらないのだろう。
「ミセス・アーヴィング、儂が今日来た理由はただ一つ――彼女に入学許可証を届けるためじゃ」
しわがれた声だ。落ち着き払ったその響きには、知性と優しさが感じられる。
「アルバス、お前はいつもそうだ」
祖父の声が続く。詰るようでいて、どこか親密さを含んだ響きだ。
「お前が決めることにはいつも報告も連絡も相談もない。ホグワーツにいた頃からなにも変わっとらん」
少しの間があった。部屋の外では風が窓を叩き、遠くで夜鳥の声が響いている。そして、その静寂を破るように、再び彼の声が響いた。
「耳の痛い指摘じゃなエドワード。じゃが古い友人の孫娘の誕生日祝いに入学許可証を持ってくるのは特別なことではあるまいて」
彼の声はどこまでも落ち着いていて、彼がこのことを本当に何も特別と思っていないのだろうと思わされる。
満月の夜に狼人間のもとを訪問しているというのに。
イヴは膝を抱えたまま、壁越しに聞こえる会話に耳を澄ませた。"特別ではない"――それは彼女にとって奇妙な響きを持つ言葉だった。彼女が抱える呪いのすべてが、この言葉と矛盾するように思えた。
それはどうやら祖父も母も同じようで、彼の言葉に息を飲み何も言えなくなっている。
「失礼ながらミセス・アーヴィング、お嬢さんはあなたの調合した脱狼薬を服用しておるのじゃろう?」
「えぇ、その通りですダンブルドア」
「ならばなおのことじゃ」
戸惑いながらも凛とした声音で言い切る母に、ダンブルドアはどこか暖かな響きを含んだ声で応じた。
「お嬢さんに直接これをお渡ししたい」
「……あの子が戸を開けるのを了承しないときは、私が受け取ります。よろしいですね?」
「無論じゃミセス・アーヴィング」
ふたつの大きなため息と共に扉の開く音がする。
三人分の足音が近づいてきて彼女の部屋の前で止まる。
「イヴ・アーヴィングさん――入ってもよろしいかな?」
その声は、さっき隣室で聞こえたものだ。
どうやら声の主、ダンブルドアというらしいその老人は本気でこの部屋に入ろうとしているようだ。
イヴが――恐ろしい人狼がいるこの部屋に。
それを理解した彼女の頭の中は混乱でいっぱいだった。
「開けてもよろしいかな?」
「は、はい」
再度の問いに思わずそう応えてしまって、その声に狼の唸り声のような響きが混じっていて、涙が出そうになる。
やっぱりやめてと言いたかったが、再び自分のうなり声を聞くのも、アーヴィング家の者として一度吐いた言葉を撤回するのもはばかられて黙りこくるうちにゆっくりとドアが開いていく。
そこには一人の老人が立っていた。
月明かりを遮る暗い影の中でも、その目だけは穏やかで深い青をたたえて光っている。
「はじめまして、イヴ。儂はアルバス・ダンブルドア」
彼はにこやかに言い、少しだけ頭を下げた。その動作は親しみやすさを感じさせるものだったが、イヴは思わず後ずさった。
ダンブルドアはすぐに彼女の警戒心に気づいたのか、柔らかく微笑むだけでそれ以上近づいてこない。
彼の手には、厚紙でできた封筒が握られている。
「ホグワーツ魔法魔術学校の入学許可証じゃ。君はホグワーツで学ぶことが出来る」
僅かの迷いや恐怖の色も見えないどこまでも澄んだ青に見据えられて、イヴは困惑する。
満月の夜に、こんな目で見られたことは無かった。
「なんで……?」
イヴがようやく声を絞り出す。
その声は狼が低く唸るような響きを孕んでいて、彼女は耳を塞ぎたくなる。
「君が、魔法使いだからじゃよ」
そんな彼女の心情を知ってか知らずか、ダンブルドアは優しく微笑みながら語る。
「ホグワーツには君が健やかに学ぶための備えがあり……儂は君にこそホグワーツの門を叩いてもらいたいと思うておる。どうじゃろうか?」
答えられない。
易々と頷くには、彼女は自分のことをよく理解しすぎていた。
伺うようにダンブルドアの背後に控えて様子を見ていた祖父と母に視線を送る。
「アルバス、あまり追い詰めるな」
祖父が低い声でそう言って、彼女とダンブルドアの間に割って入る。
「追い詰めてなどおらんよ、エドワード。無理に今決めろとは言わん。だがいつかは決めねばならん事だ、彼女も、君たちも」
ダンブルドアの声には、厳しさと優しさが奇妙に同居していた。
その言葉に祖父はただでなくとも深い眉間のシワをさらに深くする。母はそんな二人の間をするりと抜けると、イヴの傍らに膝をついた。
「大丈夫?」
その問いかけにしばし沈黙したあと、イヴはこくりと頷くと、口を開く。
「……私がホグワーツに行ったら、きっとみんな怖がります。私がいると……」
声が小さくなり、最後の方は消え入りそうだった。
「イヴ」
祖父が声を低くして言った。その語調は厳しかったが、どこか暖かさを含んでいる。
「確かにお前は過去に失敗をしたことがある。だが、それでお前が何かを諦める理由にはならない」
母親が優しくイヴの手を握り、続ける。
「私たちはずっとあなたを守ってきた。でも、イヴ――あなたには守られるだけでなく、自分の人生を歩む時が必要なのよ。ホグワーツは、その場所かもしれないわ」
ダンブルドアは二人の言葉を聞き届けると穏やかに微笑んで、続ける。
「周囲を怖がらせるかどうか、それを決めるのは君ではない。君が決められるのは、自分がどうありたいか……それだけじゃ」
イヴは再び膝を抱え込み、小さく震える。家族の愛情も、ダンブルドアの言葉も、彼女には重すぎる気がした。
「……私は、何をすればいいですか?」
声はまだ震えていたが、目の中には希望の色がわずかに灯っている。
ダンブルドアは少しだけ微笑み、封筒を差し出す。
「まずはこれを受け取ることじゃ。どうするにせよ、まずはそれからじゃよ」
これを受け取ったら、自分はきっと手放すことは出来ないだろうと思いながら、しかしイヴは封筒にそっと手を伸ばした。
「ホグワーツに……いってみたい……です」
恐る恐る口にした言葉は怯えた狼の鳴き声のように甲高く響く。
母も、祖父もその言葉に驚きの表情と、その中に僅かな喜びの色が見える。
ダンブルドアだけが初めからわかっていたかのように穏やかな笑みを浮かべたままだった。
「君を歓迎しよう」
彼女は小さく頷き、初めて封筒を抱きしめた。
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