ホグワーツの夜が更ける中、イヴはスプラウト先生に連れられて城の一角へと歩いていた。月の光が差し込み、床に淡い輝きの模様を描き出す廊下は、彼女のうちに燻る不安と違ってどこか幻想的で美しい。
世界が静寂に包まれる中、イヴの心臓の鼓動だけがやけに大きく感じられた。
「イヴ、大丈夫かい?」
スプラウト先生が静かな声で尋ねる。その声には温かみがあり、けれどどこか慎重な響きも混じっている。
「……はい、大丈夫です。」
イヴは小さく頷いて答えたが、手の中でぎゅっと握りしめた瓶が震えているのを止められなかった。脱狼薬を服用しても、満月の日の夜を迎えることへの恐怖は消えない。
この薬は薬効を失ったり、誤った服用をしていても分からない。満月の光を浴びて変身していく我が身に引き起こる苦痛を感じながら、ようやっと理性が失われていかないことで安堵できるのだ。
スプラウト先生は不安げな彼女に向かって語りかける。
「イヴ、これから同じ廊下を三度歩く。あんたはその間ずっと『満月の間、安心して隠れられる部屋が必要だ』って考えるんだよ? いいね」
隔離部屋へ向かうところだというのに、なにか妙なことを言い出した先生に疑問を抱きながらも、彼女は首肯する。
そうして言われた通りに「満月の間、安心して隠れられる場所」について念じる。
トロールに何か教えようとしている「バカのバーナバス」の絵が掛かったその廊下を二回通り過ぎる。
そうして訪れた三度目、ついさっき通った時まで何もなかったはずの壁に、黒檀で拵えられた重厚な現れていて、イヴは思わず目を見張った。
その扉には見紛うはずもない翼のある狼と盾の紋章、アーヴィング家の家紋が刻まれていた。
「必要の部屋って言うんだ。この部屋は必要としているものの願いに応じて形を変える。入ってみなさい」
イヴは緊張で喉を鳴らしながら、一歩扉に近づく。
冷たい金属の取っ手を握り、ゆっくりと扉を押し開けて、部屋の中へ一歩足を踏み入れた。
その瞬間、柔らかな暖炉の炎が目に飛び込んできて、思わず息を呑んだ。部屋の中には温かな空気が満ち、優しい光が全体を包み込んでいた。
部屋の中には寮で使っているのと同じふかふかのキルトが掛かったベッド、その横には小さな読書灯付きのテーブル。椅子には見覚えのある柄のクッションが置かれ、床には厚い絨毯が敷かれている。
重厚な石の壁際に整然と並んだ棚やキャビネット、時計やランプなどなどに混じって、少し背伸びしたホルターネックのドレスや少しボーイッシュな印象の衣服をまとったトルソーなんかも置かれていて、それを見たスプラウト先生がくすりと楽しそうに笑ったのが分かった。
そして暖炉の上には、子供の頃――狼人間になるよりも前――母と一緒に撮った写真が置かれている。
「……あったかい……」
この部屋は、自分が心の奥底で望んでいた場所をそのまま形にしてくれたかのようだった。
誰にも見つからず、邪魔されることもない。安心して眠れる、自分の大好きなものだけを詰め込んだ空間。
スプラウト先生が微笑みながら口を開く。
「なかなかいい部屋になったじゃないか」
「……わたしは、こんな部屋を望んでいたんでしょうか?」
イヴが問いかけるように呟くと、スプラウト先生は優しく笑いながら肩をすくめた。
「正確に言うなら、あんたが心の底から必要としてたものが形になったんだよ。ホグワーツにはこんな魔法もある。さて、これも出しておかないとね」
そう言って彼女が杖を一振りすると小洒落た少し大ぶりの机と、からの食器類が現れる。
「グラスをスプーンで三回叩くと厨房から料理が送られてくる。好きな時にお食べ」
「ありがとうございます先生」
「あたしが用意したのは皿だけさね。……そうだ、この鈴を持っておいで。この部屋であんたの身になにかあったらあたしやダンブルドア校長に伝わるように魔法がかかってる」
そう言って先生は小さなガラスの鈴をイヴに手渡すと、最後に軽く彼女の肩に手を置いてそっと部屋を後にした。
イヴは先生が出ていったのを確認すると、部屋をゆっくりと歩き回った。
絨毯のやわらかさ、キルトの触り心地、暖かい暖炉の炎――それら一つひとつが彼女の心をじんわりと包み込む。
幼い頃に戻ったような感覚に胸が締め付けられると同時に、何故だか涙が溢れそうになる。
「わたしが
呟きは静かに部屋の中に消えたが、それと同時に、彼女の中に違和感が生まれる。
この温かい空間に包まれながらも、イヴは次第に落ち着かない感覚に襲われていた。
どれだけ部屋が完璧でも、自分がここで満月の夜を無事に過ごせる保証などどこにもない。
暖かさに満たされているこの空間には――彼女を「縛るもの」がなかった。
薬が効かなかったら――理性を失ったら、自分はどうなるのだろう?
その考えが胸の中に冷たい影を落とし、イヴは思わずベッドに近づいた。
キルトをそっと掴むと、何故だか心臓が早鐘を打った。
――あるかもしれない。
ここが「必要の部屋」だと言うのなら。
ここが――彼女が本当に必要としているもの全てを提供してくれるなら、きっとある。
そんな期待とも、恐れともつかない複雑な感情が渦巻く。
酷く緩慢な動作でキルトをまくった彼女が目にしたのは、その下に隠すように置かれていた手錠と鎖、鉄製の噛みつき防止マスクだった。
「……あったんだ」
その瞬間、イヴの中に湧き上がったのはほの暗い安堵だった。
祖父や母に頼んでも絶対用意して貰えなかった、そしてホグワーツの先生方も恐らく使用を許可してくれないだろうそれら。
手錠にそっと触れる指が震える。
自分で自分を縛り付け、誰のことも傷つけさせないための道具。
「必要の部屋、か……」
小さな声で呟く。
この部屋は、彼女が心の奥で求めていた「必要なもの」をどちらも与えてくれた。
その妙な安堵感にどっと体が重たくなるのを感じた彼女は、ゆるゆるとベッドに潜り込んでそっと目を閉じた。
柔らかなキルトに包まれながらも、胸の奥には重く沈む感情が残っている。
暖炉の炎が静かに揺れる中、彼女はもう戻ることは無い「ただの自分」が写った写真を眺めながら、眠りに落ちていった。
* *
部屋の中で目を覚ましたイヴは、薄暗い天井をぼんやりと見つめていた。
暖炉の火はまだ揺らめいているが、昨夜よりも弱々しくなっているように感じる。
時計を確認して脱狼薬を服用する。
相変わらずのこの世のものとは思えない味で、吐き戻さないようにするのだけでも体力を消耗させられた。
払暁の時間が過ぎたあと、保存魔法がかかっているのか昨夜から冷めた様子も傷んだ様子もない料理を軽く食べて、彼女は部屋の中を静かに歩き回った。
トルソーの服に着替えて鏡を眺めたり、クローゼットの服を引っ張り出してコーディネートを考えたりして時間を潰す。
普段なら絶対に着ないような若いマグルの女性が好むような少々派手な服も試してみたり、そんな少し背伸びした格好のまま過ごすのはちょっぴり楽しくも思えた。
それでも本来ならハンナやスーザンと談笑しながら過ごしたり、授業を受けているいるはずの時間が、静寂の中で過ぎていくのは、さみしい。
本を読んでいても、食事をしても、一人でチェスに興じてみても、やはり物足りなかった。
それはアーヴィング家にいた頃にはなかった感覚だった。
初めての“友達”と過ごすこのホグワーツでの日々は、ほんの一週間と少しの間で彼女から“独り”で居ることへの耐性をすっかりと奪い去ってしまったようだった。
「……あと何時間?」
彼女はため息をつきながら時計を見つめる。
部屋の中に籠もる孤独感と、夜が近づくにつれて増してくる不安感に苛まれていた。
時計は嫌にゆっくと、しかし確実に進んでいる。
ようやく薄暮の時間帯がやってきていることを確認したイヴは、今回最後の脱狼薬を飲み干した。
もうじきに夜闇が世界をどっぷりと包み込んで、月明かりが全てを照ら し出すだろう。
イヴは幽鬼のようにゆらりと立ち上がって、机の上に置かれた手錠と鉄のマスクに手を伸ばした。
「……準備しなきゃ」
その冷たい金属の感触には底冷えするような安心感があった。
暖炉の火は昨夜と変わらずに暖かく燃えているが、その温もりがどこか他人事のように思える。
二本の鎖をベッドの足に括り付けて、それぞれの先に着いた手錠を小刻みに震える左右の手首にはめる。そうして最後に鋼鉄製の口輪のついた噛み付き防止マスクを被った。
鏡に映った自分は酷く青ざめた顔をしていた。
やがて時計の針が進んでいくと痛みが体を走り始める。
きしきしと骨が軋む不快な音が頭の中に響き、全身が熱に包まれる。
強制的に骨格が作り替えられていく痛みと、毛むくじゃらの化け物に変わっていくやるせなさで涙があふれて止まらない。
そして同時に、そんな反応ができる自分に対して安堵する。その痛みも、やるせなさも、脱狼薬によって理性が保たれているからこそ感じられるのだから。
「大丈夫、イヴ。明日になったらみんなきっと褒めてくれる、大丈夫」
目を閉じ、荒い息の中で何とか痛みを紛らわせようときつく膝を抱いてそう呟く。
鉄のマスク越しに、彼女の呼吸が反響する音が部屋の中に響いていた。
やがて痛みがおさまると、本当の静寂がやってきた。
恐る恐る覗き込んだ鏡には狼でも、人間でもない自分の姿が写っている。口輪をはめて、両の手を鎖に繋がれ、纏っていたマグルの服はぴったりサイズだったことが災いして体型変化の影響で破けてしまっていた。
白の毛並みと青リンゴ色の瞳だけが、彼女と鏡の中の怪物の共通点として暖炉の火を照り返して輝いている。
「……ッ!」
己の鋭い爪で全身を掻きむしりたくなるような衝動を覚えて、彼女はそっと鏡を壁に向けた。
どれだけ身を引き裂いても、この醜悪な
「うぅ……っ」
やるせなさに唸る声は獣の響きだ。
長い夜がくる。
眠ることも出来ず、彼女はひたすら手慰みにじゃらじゃらと鎖を弄りながらベッドの横に腰を下ろしてその背を預けながら膝を抱く。
傍には誰もいない。
エディンバラの館のように、壁一枚隔てて祖父や母がいてくれるようなことはない。
今頃、ハンナもスーザンも、きっと談話室で笑いながら宿題を広げているのだろう。
自分だけが、ここでこんな風に――。その思いが胸の奥をじわじわと締め付ける。
部屋の中には鎖の音だけが響いていた。
――なんでダンブルドア先生はあの夜、会いに来たんだろう。
ふと抱いたそんな疑問について考える。
彼はあの夜、本当になんでもない事のようにやってきて、なんでもない事のように扉を開けてくれた。
そう、
彼がすべてを知る賢者だからそうしたのか、はたまた別の理由があったからかはわからない。
けれどあの夜、彼は確かにこの孤独の闇に小さな光をともしたのだ。
とても残酷な光。
光あればこそ影は濃くなり、影が濃くなるからこそ、一度灯されたその輝きに焦がれる思いは強くなって心を引き裂く。
「……わかんないよ」
小さな声が震えながら部屋の中に落ちた。
『周囲を怖がらせるかどうか、それを決めるのは君ではない。君が決められるのは、自分がどうありたいか……それだけじゃ』 そう語った彼の言葉が頭に響く。
どうすべきか、ならわかる。 狼としての自分を隠して、誰も傷つけないよう、ひたすらに己を律して生きていくべきなのだ。 それが「正しい」道であることは間違いない。でも、それが本当に自分が「ありたい」姿なのか――答えはまだ出せずにいた。
暖炉の炎が静かに揺れる部屋で、誰にも届かない静けさの中で、彼女は。
孤独は嫌いだ。でも、誰かを傷つけるのはもっとずっと怖かった。
そんな矛盾が胸の中をかき乱し、気がつけば、小さな鈴を握りしめる。
「……誰か……」
呟きは、誰にも届かず、温かな部屋の静寂に吸い込まれていった。
ちょっとこの必要の部屋湿気が強いですね
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