「あぁ、もう! どうしてジャンルごとのアルファベット順とかじゃないのよこの図書室!」
静かなホグワーツの図書室にひとつの憤りがこだました。
それは決して大きな声では無いのだが、司書であるマダム・ピンスの厳格な管理のもと常に静寂が保たれているこの場所で自習に励むイヴの耳に入るには十分なものだった。
彼女は開いていた分厚い本と学習用のノートを閉じると、その声の主であるふわふわとボリュームのある――グリフィンドールやスリザリンの男子に言わせればもじゃもじゃ――髪の少女に近づいて声をかけた。
「グレンジャーさん、どうかしたの?」
憤然とした表情で本棚を睨んでいた少女――ハーマイオニー・グレンジャーは声をかけられると思っていなかったのか、一瞬びくりと肩を震わせて振り返った。
「あ、アーヴィングさん? よかった、マダム・ピンスに聞かれたのかと思ったわ……」
彼女はホッと胸をなでおろして小さく笑みを浮かべるが、すぐにキッと眉間にしわを寄せる。
「ねぇ毎回思うんだけど、この本棚分かりづらくない? 棚ごとに発行年月日順で並べるなんて信じられないわ! しかも棚もジャンルや著者別じゃなくて大きさ別なのよ?!」
そんなことを捲し立てて「貴方もここをよく使ってるみたいだからわかるでしょ?」なんて同意を求めてくる。
その様子にイヴは「なるほど」と内心でぽんと手を打った。
十中八九、ハーマイオニー・グレンジャーはマグル生まれだ。
そうでないならホグワーツの図書室に対して「わかりづらい」なんて感想は出てこないだろう。
魔法界の蔵書室としては、ここはたいへん整理されている方なのだ。なにせ本のタイトルがわかれば目録からその有無とどの棚にあるかまではわかるのだから。
「グレンジャーさん、まず目録を確認するといいよ。君たちにはあまりなじみがないかもしれないけど」
「
彼女が何を言いたいのかを察して、イヴは内心で苦笑する。
要するに彼女は特定の本を探しているのではなく、漠然と宿題や自習で使う参考になりそうな本を探しているのだ。
この差は非常に大きい。
特にマグル生まれのような
魔法界には未だ“デューイの十進分類法”のような概念が存在せず、目録でさえタイトルのアルファベット順で記載されている始末だ。
従ってタイトルや著者名がわからない状態で、本を探すというのはほぼ不可能に近い。
せめてイヴのように純血家系の者であれば、覚えておくべき偉大な魔法使いたちや、彼らが何で名を残したのかは当然のように把握しているため、目録に記載された著者名から無理くりにとっかかりを見つけるということもできるのだが――マグル生まれの彼女にそれはなかなか求められないだろう。
「……何の本を探してるんだい? わたしでよければ手伝うよ」
「魔法薬学の参考になりそうな本を探してるの!」
「ならサチャリッサ・タグウッドの本をとっかかりにするのが良いかもしれないね。ちょうど読んでるところだけど一緒にどう? アクシオ」
イヴは自分が机の上に置いてきた本――先ほどノートと一緒に閉じたばかりの分厚い一冊――を、手元に呼び寄せながら言った。
表紙はすり減っていて、金の箔押しは擦り切れ、何世代もの学生に読まれ続けたであろう痕跡が残っている。それでも堂々とした背表紙には、『サチャリッサ・タグウッド著 魔法薬の基本調合法とその効能』と記されていた。
ハーマイオニーの顔にぱっと光が差したような笑みが浮かぶ。彼女は先ほどの不機嫌さが嘘のように一瞬で姿を消し、前のめりになってくる。
「蛙チョコのカードにもなってる人よね? 美容魔法薬の! そんな本も書いていたのね」
「近代魔法薬学の母だもん。
そう言うとハーマイオニーは「え、誰って?」と眉をひそめた。
「スリークイージー、直毛薬の発明者。たぶんハリー・ポッターのおじい様」
さらりと答えてイヴは、ページの間に挟んであった一冊のノートを取り出した。
魔法界ではまず見かけない滑らかな紙質としっかりした製本、四隅がきちんと処理された表紙。その佇まいには、羊皮紙では決して味わえない規則正しい美しさがある。
ハーマイオニーの驚きと興味が交じり合った視線が、そうして取り出されたノートをじっと注がれていることに気づいて、イヴは小さく肩をすくめて自然な口調で言った。
「……羊皮紙を一枚一枚束ねるよりずっと便利だよ。見てみる?」
それを使い始めたのは、四年前、家庭内での魔法教育が始まった折。
当時アメリカのイルヴァーモーニーでの教授職を辞したばかりだった母が便利だからと買い与えてくれたのが最初で、それ以来、その整然とした構造の便利さにすっかり馴染み、今や彼女の学びの象徴といっていい。
しかしそれでも一般的に、このマグル製のノートが「珍品」の類に分類されるであろうことは疑いようがなかった。
「……ありがとう。少し、中も見せてもらってもいいかしら?」
ハーマイオニーの声には、期待と好奇心が滲んでいる。
そんな彼女の言葉を聞いてイヴは、ようやく自分の早とちりに気づいた。
ハーマイオニーが興味を抱いていたのは、マグル製品そのものではなく、ノートの中身だったようだ。
それもそのはずだ。
マグル生まれのハーマイオニーにとってノートそのものは物珍しくもなんともないのは当たり前。イヴは無意識に己が「魔法族」としての物差しだけで思考していたことに気づいて、わずかに頬を赤くした。
「もちろんだよ」
イヴにとってこのノートは「効率」を突き詰めた努力の結晶だ。必要なことを必要な分だけ学ぶ。それ以上でもそれ以下でもない。
だからこそ彼女のノートはひたすらに情報は簡潔にまとめ、どの項目を読めば答えが得られるかの目印が細かく付けられている。
たとえ何を書いたか覚えていられなくても自分があとから見返してわかるように、誰が読んでもわかりやすく、参考にした文献についてもメモしてある。
「教科書みたいだわ……」
ハーマイオニーは感嘆の声を漏らしながらノートをめくる手を止められないといった様子だった。
目の前に広がるのは、情報が簡潔に整理され、必要なことが的確に記されたページの数々。
魔法薬学の重要なテーマごとに整理され、小見出しが鮮やかに引き立つように色付きのラインで区切られている。さらに、ページの端には参考文献のリストが丁寧に書き込まれ、見た目にも明確だった。
彼女は暫時、宝物でも見つけたかのように目を輝かせていたのだが、次第に眉間にしわが寄り始める。
感心と戸惑い――というより疑念だろうか?
そんな表情に見える。
「これ本当にすごいわ……でも、これだけではちょっと足りない気がするわ」
ハーマイオニーはそう言いながら顔を上げた。
「どうして?」
イヴは軽く眉を上げる。
「ここに書いてあるのは、魔法薬の基礎中の基礎。タグウッドが残したこの基礎研究や理論が現代のほとんどの魔法薬学の理論の礎になっているんだよ?」
グリフィンドールとの合同授業のたびにその卓越した能力を遺憾なく発揮しているハーマイオニー・グレンジャーという少女を決して侮っているわけではないのだが、まさか自らのノートを「足りない」などと言われるとは全く思っていなかったイヴは柄にもなくわずかに語気を強めた。
「そう、基礎なのよ!」
しかしそれに気圧されるどころかハーマイオニーは爛々と目を輝かせて彼女にぐぃっと顔を近づける。
逆に一歩下がってしまいそうになるのをなんとか堪えた彼女は、努めて冷静に、恐ろしいほどの輝きをで見上げてくる目を見つめ返した。
「基礎であることに問題が?」
良い土がなくては良い花が咲かないように、基礎こそが物事の本質であり最も重要だと信じてやまないイヴにとってはそれを軽んじているように聞こえるハーマイオニーの言い様は看過できないものだった。
しかしその憤りはその後すぐに続いた彼女の言葉によって感心へと塗り替えられることになる。
「ないわ。でも基礎だけじゃ物足りないのよ。
だって私は、それまでにどんな理論や時代背景があって彼女がこれを構築するに至ったのか、そしてこれどう発展して、どんなふうに他の研究者たちに影響を与えたのか……そこまで知りたいの!」
つまらないとか、花がないとか、そんな一顧だに値しない意見が飛び出てくるのを予想していただけに、彼女の言葉から溢れ出る学習意欲――それはもはや“学習”の域を飛び出して“研究”へと入り込んでいるそれに面食らう。
「でも、そこまでする必要があるの......?」
イヴは思わず問い返した。
彼女にとって抑えるべき基礎は“そうあるもの”であって、それがどのように生まれ、どのように発展してきたのかなどは“必要になった時に調べればいい”――そんな風に考えていたからだ。
ハーマイオニーは少し驚いたように目を見開いた。
しかし、その顔にはどこか自信と熱意が混じった幼さが残っている。
「だって……そういうのって面白いと思わない?」
その問いかけに、イヴは一瞬言葉を失った。
「面白い......?」
ハーマイオニーは小さく頷きながら続ける。
「ただ教科書を読んで覚えるだけじゃつまらないでしょ? どうしてこうなったのか、とか、この理論を思いついた人はどんな人だったのか.、とか.....そういうことを考えると、なんだか自分もすごい人になったみたいな気がするの」
彼女の言葉には子供らしい無邪気さと大人顔負けの純粋な探究心があった。
イヴはその熱意にすっかり圧倒されながら、彼女の中で最も引っ掛かっていたことを問いかける。
「でも、それじゃ時間が足りなくならない? わたしたち、授業と宿題で手一杯でしょう?」
その言葉にハーマイオニーは困ったように唇を尖らせた。
「確かにそうかもしれないけど......でも、そういうことを知るのはただの宿題以上に大事な気がするのよ。」
彼女の真剣な瞳を見て、イヴは少し考え込んだ。
自分の効率重視の勉強法とは全く異なるハーマイオニーの視点は、どこか新鮮で、そして少し羨ましいようにも感じた。
「......宿題の方が大事だと思うけど」
そう言いながら、イヴは手元のノートを閉じた。
その一瞬、ハーマイオニーがひどく寂しそうな目をしたのがわかってしまって――そしてイヴ自身、これで彼女との会話が終えてしまうことに一抹の
「でも……今日は私も少し付き合うよ。タグウッドの研究を遡るのを手伝ってあげる。君の宿題が終わったらね」
ハーマイオニーの顔に驚きと喜びが入り混じったような表情が浮かぶ。
「本当? ありがとう、アーヴィングさん! ……でも、実は宿題はもう終わってるの」
最後の部分を少し申し訳なさそうに小声で付け加えたハーマイオニーの様子に、イヴは一瞬驚いて目を丸くする。
「そうなの?」
「あぁ、ええと……」ハーマイオニーは目をそらし、わずかに頬を染めた。
「昨日の夜、寝る前に終わらせたの。だって、ここに来るのに宿題を持ち越すなんてありえないもの! 」
その日以来、図書室でイヴとハーマイオニーが顔を合わせることは、次第に自然なこととなった。
もっとも、それは決して親密な友人関係というわけではなく、勉強という共通の関心事を間に挟んだ、一定の距離を保ったままの交流だった。
そうして図書室で過ごす時間が増える中、当然、ハンナやスーザンたちと一緒に図書室で過ごすこともあった。
一緒に宿題を片付けたり、予習をしたり。殆どそういうときはイヴが教える側に回るのだが、魔法史に限ってはスーザンが先生役だ。
ハンナはいつも二人の“授業”を楽しげに聞いてくれて、小テストの成績がめきめき伸びて嬉しいと笑ってくれる。
そんな三人での勉強会が開かれたある日、与えられていた宿題がひと段落したところで、ふとハンナが顔を上げた。
「そういえばイヴ、最近よくここでグレンジャーさんといるよね? いつの間に仲良くなったの?」
にこやかに尋ねるハンナの言葉に、スーザンは興味深そうに横から首を傾げた。
「ハーマイオニー・グレンジャー? グリフィンドールの子よね? あの百科事典みたいな子」
イヴは少し戸惑いながら頷く。
彼女がグリフィンドールの子であることも、百科事典みたいな子であることも事実ではあった。
「仲良くなったっていうか……図書室でよく会うんだ。彼女、すごく勉強熱心で、なんていうか、すごく真面目な子だよ」
スーザンは彼女の言葉をうけて、少しだけ心配そうに目を細めた。
「グリフィンドールだとかなり珍しいタイプよね。レイブンクローっぽいというか……あまり他の子といるの見ないけど、上手く馴染めてるのかしら?」
その言葉に、イヴは少しだけ胸がキュッとするような感じを覚えた。
確かに、ハーマイオニーが図書室で誰かと一緒にいるのを見たことがなかったのだ。
彼女はいつも壁を作るように分厚い本を積み上げて、その真ん中で机に向かっていた。そしてイヴが傍に腰を下ろすと、少しだけ嬉しそうな表情を浮かべて、彼女との間にある本の壁をどけるのだ。
そのことに気づいてから数日。ようやっと一人で図書室を訪れる機会に恵まれた彼女は、なんとなくお腹の奥がもやもやする感覚を抱えたまま図書室へと向かった。
イヴが到着すると、彼女は顔を上げ、控えめに微笑んで、いつものように本の壁をどけた。
「こんにちは、アーヴィングさん。お久しぶりね」
ハーマイオニーの声は控えめながらも、どこか待ち望んでいたような響きがあった。
イヴは軽く肩をすくめて、彼女の隣に腰を下ろしながら自分のノートを開いた。ノートのページがさらりと音を立て、空気の静けさをわずかに揺らす。
「寮の友達と談話室で勉強会をしてたんだ。今日変身術の小テストだったから」
イヴは一息つき、ややぎこちなく続けた。
「……えっと、ハンナとスーザンってわかる? ハンナはホグワーツ特急でわたしと一緒に君と会ってて、スーザンは、えっと、魔法史で寝てない子」
ハーマイオニーは少し考えるように首を傾げた。その仕草は普段の彼女の鋭い知性を感じさせるものではなく、どこか戸惑いを含んでいるように見えた。数秒の間を置いて、静かに答える。
「顔はわかると思う。でも……その、話したことはないわね」
その声には微かな寂しさが滲んでいるように思えた。イヴは一瞬だけ眉をひそめたが、それを悟られないように柔らかい口調で言葉を返した。
「ハンナもスーザンも、すごく優しいよ。もし君が話したら、きっと喜ぶと思う」
そう言いながら、イヴは目の前のハーマイオニーを観察する。
彼女のもじゃもじゃの髪がランプの灯りをぼんやりと反射し、表情の影を柔らかく浮かび上がらせている。言葉の端々からは、普段の自信に満ちた彼女とは異なる、不安げな面がわずかに覗いていた。
そう言いながらも、イヴはハーマイオニーが簡単に打ち解けられるタイプではないことを理解していた。
それができていればグリフィンドールの中でここまで浮いてしまうことは無かっただろう。
「ありがとう。今度機会を見つけて話してみるわ」
「うん。どういたしまして」
上手く断られてしまったな、とイヴは内心で苦笑しながら視線をノートへ落とした。
ハーマイオニーの言葉に悪意がないことはわかる。それどころか、きっと彼女なりの誠実さなのだろう。
ペンのインクが乾いた跡がノートに光を反射している。ほんの小さな輝きだったが、妙に目を引く。図書室のランプが放つ柔らかな光に照らされたそのページは、彼女が日々書きためた努力の結晶だった。けれども、そのページをじっと見つめる自分が、どこか物足りなさを覚えているのに気づく。
ちらりと視線をやれば、彼女はまだ自分のノートを広げたまま、じっと考え込むようにページを見つめていた。
ふわふわの髪がランプの光を少し乱反射させ、柔らかな影を作っている。
イヴは手元のノートをぱたりと閉じる。
ハーマイオニーがその音に反応してわずかに肩を揺らすのが見えた。
何かを考え込んでいるのか、それともただ時間を測るように沈黙しているのか。
どちらにしても、彼女の雰囲気には普段と違う緊張感が漂っているように思えた。
「……ねぇ、アーヴィングさん。」
その声にはいつもとは違う緊張が宿っていた。
「どうしたの?」
「その……今度、いつか、図書室じゃなくて、談話室……は使えないケド、外とか……とにかくどこかで一緒に勉強しない?」
ハーマイオニーの声はやや早口で、それがかえって彼女の緊張を際立たせていた。
彼女からのお誘いを受けるのは初めてだった。まぁイヴのほうから誘ったこともなかったのでお互い様ではあるのだが。
「もちろんだよ」
イヴは微笑みながら頷いたが、その直後にハーマイオニーが口にした日付に、思わず言葉を飲み込むことになる。
「じゃあ、来週の金曜日とかどうかしら? 夕方から……私の寮の近くの空き教室とか、使えそうだし」
来週の金曜日は――満月だ。
イヴの胸に鈍い痛みが走る。彼女にとって満月の日だけは決して予定を入れられる日ではない。
「…………ごめん、その日はちょっと……予定があるんだ」
イヴは努めて平静を装った声で答えた。
「そう……そうよね……」
ハーマイオニーは一瞬だけがっかりしたように見えたが、すぐに笑顔を浮かべた。
「なら、また別の日にしましょう」
その笑顔がどこか無理をしているように見えたのは、イヴの思い過ごしではなかったのだろう。
その日から図書室で勉強をしているイヴの耳に、聞き慣れた声や足音が届くことはなかった。
ハーマイオニーが図書室に来なくなったのだ。
初めのうちは「授業や宿題で忙しいのかもしれない」とイヴは自分に言い聞かせた。しかし、日を追うごとにその思いは疑念へと変わっていった。
彼女は明らかに、自分を避けている。
「……どうして?」
ふと漏れた呟きに、答える者は誰もいない。
イヴの胸には、あの日、理由を曖昧にしたままに断ったことへの後悔がじわりと広がっていた。もちろん、自分が正しい選択をしたことはわかっている。彼女の秘密は守られなければならない。
それでも、せめてそれが“嘘”でもちゃんと理由を言っていれば。
図書室でノートを広げている間、静かな空間に響く時計の音が、ただひたすらに心に重く響いた。
長くなっちゃいました
二度目の満月もハロウィンの夜も近づいてきましたね
なんか時間軸考えると二話か三話に一回は満月が来てしまうので、今後満月のルーチンワークは省いていくかもしれません
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