――思えば遠くに来たものだ。
などと思いながらイヴ・アーヴィングはロンドンを代表する歴史深い駅――キングス・クロス駅のプラットフォームで息を吐いた。
彼女が生まれ育った、エディンバラにあるアーヴィング家の館からは物理的距離にして370マイル*1以上離れている。
もっとも、先日訪れたダイアゴン横丁もロンドンにあることを思えば、煙突飛行ネットワークや姿くらましという距離を事実上ゼロに等しくしてしまう手段をいくつも持っている魔法族にとってそんなものは毛ほどの意味もないのかもしれないが。
それでも彼女がそんな感慨を抱くに至ったのは、この蒸気立ち込める9と3/4番線に停まる真紅の列車の姿を目にしたからであった。
ホグワーツ特急。
その名前は聞いたことがあっても、実際に目の前にするとその存在感に圧倒される。
両手に荷物を持った魔法使いたちが忙しなく行き交い、笑い声や挨拶が飛び交う。
彼女は背筋を伸ばし、冷静を装っていたが、その内心では未知の世界に対する不安が渦巻いていた。
この列車に乗れば当面の間――具体的には三ヶ月後のクリスマス休暇までは――馴染み深いエディンバラへ帰ることも、家族の顔を見ることもできなくなるのだ。
そしてそれはすなわち、彼らの助けなしに少なくとも二度は満月の夜を乗り越えなければならないということだった。
「イヴ、大丈夫?」
母の声に彼女はハッとして振り向き、小さく頷く。
「うん、大丈夫」
しかし、どんなに巧妙に表情を取り繕っても母の目には娘の不安や緊張が見て取れるようで、アイシャは優しく微笑みながらイヴの肩を抱き寄せた。
「心配しないで。ホグワーツで過ごす日々はきっとあなたの宝物になるわ」
その言葉にイヴは少しだけ安心し、深呼吸をする。
彼女がホグワーツへの入学を決めてから、満月というかならず訪れる
どの寮に組み分けられたとしても使うことになる、彼らが考えてくれたその
「それじゃあ、行ってらっしゃい。ホグワーツでの生活を楽しんで」
母の手を名残惜しそうに離し、イヴは大きなトランクを引きずりながら列車に乗り込んでいく。
「……イヴ、必ず手紙を寄越せ。正直なところ……儂はさみしくて死にそうだ」
母の後ろに控えてずっと難しい表情で黙りこくっていた祖父が唐突にそんなことを言い出すものだから、思わずイヴは吹き出してしまった。
「ホグワーツについたらすぐに書く。大好きだよ、おじいさま」
恥ずかしそうに片頬だけに笑顔を浮かべた祖父とくすくすと笑う母が、汽笛とともにだんだん遠ざかっていく。
やがて二人の姿が完全に見えなくなると、イヴは大きく深呼吸して、ようやっとドアから離れる。
列車の中は既にほとんどのコンパートメントが埋まっており、イヴは空いている席を探して列車内を歩き回る羽目になった。
乗客と目が合うたびに、彼女はその整った顔に笑顔を貼り付け直してペコリと頭を下げてはコンパートメントを通り過ぎる。
そんなことを繰り返してようやく見つけた空きのあるコンパートメントには、金髪の少女が一人で座っていた。
列車の中で一人になるのは諦めてそのコンパートメントに足を踏み入れるか迷っていると、不意にその金髪の少女から明るい声で呼びかけられる。
「ねえ、一緒に座らない?」
イヴは少し躊躇いながらも、頷いてトランクを引き入れる。
「ありがとう。空きがなくて困っていたんだ」
そう言いながら形ばかりの笑顔を浮かべて頭を下げると、金髪の少女がにこやかに手を差し出してきた。
「私、ハンナ・アボット。あなたも新入生?」
「あぁ、よろしく。……イヴ・アーヴィング」
彼女が名前を告げると、ハンナは驚いたような顔をした。
「アーヴィングって、純血の?」
「そうだよ、エディンバラの」
その答えに、ハンナは興味津々の表情を見せる。
「すごいなあ、私の家なんて全然普通の魔法族だから! でも、貴方ってなんだか優しそう」
彼女が浮かべた表情からきっと本心から投げられたのだとわかるその言葉に、イヴは少しだけ、自分の中に緊張が解れていくのを感じる。
ハンナの無邪気さには不思議と安心感があった。
意外と人と関わるというのは難しいことではないのかもしれない。
そんな錯覚すら覚えてしまいそうだ。
「君こそ、とてもやさしそうだよ。……いや、実際やさしかったね。声をかけてくれてありがとう」
そんなふうに応えながら彼女の対面の座席に腰を下ろす。
「やだ、かっこいい顔しないでよ」
「えぇ……?」
ほのかに頬を赤らめながら唇を尖らせるハンナに困惑の声を漏らす。
揶揄や嘲りではなく、彼女が純粋に照れているらしいことは分かるのだが、何故そこで顔の話が出てくるのか。
しかしなんにせよ彼女が人好きのする少女であることは間違いなく、自然とイヴの口元には笑みが浮かんだ。
そこから少しの間、ハンナからいくつかエディンバラのことについて質問を受けて答えることになったが、イヴがなにか語る度に彼女はころころと表情を変えながらそれを聞いてくれた。
特に面白くもないイヴの好きなパン屋の話にさえ、彼女はパーッと顔を輝かせて「そのお店、旅行のときに行ったわ!」なんて嬉しそうにしていた。
時計の長針が半回転するころにはもうすっかりイヴは彼女のことが好きになってしまっていた。
「ねぇアーヴィングさん、イヴって呼んでもいい? あれ、でもイヴって――んん?」
もちろんと答えようとした矢先、不意に彼女が浮かべた訝しげな表情に心臓がドキリと高鳴る。
彼女は何に気づいたのだろう。
頭のてっぺんからつま先までを往復するハンナの視線に鼓動を急かされながら、イヴはなんでもないように口を開く。
「もちろんそう呼んでほしい。……それで、どうかしたの?」
「貴方ってもしかして――女の子?」
まるで重大事を確認するかのように放たれたその問いがあまりにも真剣な声色とミスマッチで、イヴはなにか聞き間違いをしたのでは無いかと不安になる。
しかしどう反芻して考えてみてもハンナが問いかけてきた言葉に聞き間違いの要素はなく、本気で質問されているらしいことだけが分かって余計に彼女は困惑する。
「えっと、うん、一応……そのはず……?」
しまいには「もしかしたら私は男の子だったのか?」なんて支離滅裂な思考に至りそうになりながら、彼女は何とかそう答える。
「やっぱり! ごめんなさい! 私てっきり……! ほら、あなたパンツルックじゃない? それに顔立ちもシュッとしてるから……! あぁ、もう! 名前でわかったはずなのに私ってなんてバカなのかしら?!」
わちゃわちゃと両手を顔の前で振り回しながら告げられたその言葉で、ようやっとイヴは自分がまだホグワーツの制服ではなく、着慣れたアーヴィング家の余所行き衣装に身を包んでいたことを思い出した。
緊張からの解放で下がった笑いの沸点が彼女の必死すぎる弁解に刺激されて、イヴはついに笑いを堪えられなくってしまう。
「大丈夫、気にしないで。ふふ、むしろわたしもあなたの事、ハンナって呼んでも?」
「もちろん!!」
そんなやり取りをしたあとは二人で隣同士に座り、イヴがトランクから引っ張り出したホグワーツの歴史という本を一緒に眺めながら学校生活についての期待を語り合った。
そうこうしているとガラガラとカートを押す音が聞こえてきて、コンパートメントの前を車内販売の女性が通り過ぎる。小腹の空いていた二人は彼女を呼び止めるがカートは既に空っぽになってしまっているらしかった。
聞けば隣のコンパートメントの子がカートの菓子類をまるっと全部買ってしまったのだという。
どうせ食べきれもしないのにどこの誰がそんな暴挙を働いたのかとイヴが頭を抱えていると、ハンナがあっけらかんとして「それじゃあそのお隣さんからお菓子を分けていただきましょう!」なんて言いながらガラリと扉を開いて出て行ってしまう。
そんな彼女の行動力にしばし呆然としていたイヴが、あわてて彼女のあとを追いかけて隣のコンパートメントを訪れたときにはすでに彼女はそこにいる二人の少年と笑顔で言葉を交わしていた。
時間にして一分弱。彼女の周囲だけ時間がとんでもなく早く進んでいるのかと疑いたくなるほどのコミュニケーション能力だ。
ハンナには人の懐にするりと入り込んでしまう才能があるに違いない。
「あ、来たわね! イヴ聞いて! あのハリー・ポッターよ!」
その名前に思わずピクりと身体が反応する。
同時に忘れかけていた緊張が戻ってきつつあることを自覚して、イヴは小さく息を吐く。
「やあ」
そんなイヴの様子を見てか、ハリーは親しげに、すこし照れくさそうに彼女に微笑みかけた。その自然な態度にイヴは少しだけ緊張を緩め、それでも礼儀正しくカーテシーをする。
「お会いできて光栄です、ミスター・ポッター」
「え、いや、そんな……!」
ハリーは目を丸くして、少し居心地悪そうに頭を掻く。
「父の仇を討っていただいたこと、感謝いたします」
その言葉に、場の空気が一瞬張り詰めた。
ハリーの隣に座る赤毛の少年が口を開きかけたが、ハリーが軽く手を挙げて制する。
「……ありがとう。でも、僕はそんな大層なことをしたわけじゃない。ただ生き残っただけだよ」
彼の言葉は謙虚というよりも、本当にそうとしか思っていないと思わせる全く飾らない色があった。
しかしイヴは深々と頭を下げる。
「それでも、私は感謝しています」
しばしの間コンパートメントに訪れたその静寂を破ったのはハンナだった。
彼女は手をパンと叩き、明るい声で場を和らげる。
「で、さっき、カートのお菓子全部買っちゃったのはあなたたちなのよね?」
「ああ、僕たちだ」
彼女が緩めた空気に乗っかるように、赤毛の少年がニヤリと笑いながら答える。
「全部とはいえないけど、食べきれないくらいは買ったね。……ハリーが」
ハンナから向けられる呆れを含んだ視線に耐えきれなくなったのか、少年はすぐにハリーを指さす。
「それじゃあ、ハリー、お菓子を少し分けてもらえないかしら? カートが空っぽで困っていたのよ」
「もちろん! 好きなのを持って行って!」
ハリーのその言葉に一応、イヴとハンナは伺うように赤毛の少年に視線を送る。
「ハリーがいいならいいに決まってるだろ? 僕の名前はロン。ロン・ウィーズリー。せっかくだし一緒に食べていきなよ」
「ありがとう、ロン」
ハンナの楽しげなお礼の言葉に合わせて、肩を竦めながら笑う彼に軽く頭を下げて微笑む。
先ほどまでの緊張がすっかり解けたわけではないが、ハンナとロンには張り詰めた空気をやわらげてくれるなにかがあるらしい。
イヴは先程までのガチガチに凝り固まっていた自分の態度を反省しつつ、ハリーが差し出してくれた蛙チョコレートを受け取った。
話題は好きなお菓子から蛙チョコレートのオマケの偉人カード、百味ビーンズの味、ホグワーツでしたいことにとどんどん尽きることなく湧いてくる。
やがて話題がハリーのつけているボロボロの眼鏡へと移り変わると、彼の表情が僅かに曇る。
「……よかったら直そうか?」
イヴがそう言うとハリーは「できるの?」と目を白黒させながら、恐る恐るというように眼鏡を外してイヴに手渡してくれる。
そして彼女が上着の内ポケットから杖を取りだした瞬間、コンパートメントの扉が勢いよく開いた。
「失礼します! あなた達、ここでヒキガエルを見なかった?」
茶色の髪をフサフサとさせた少女が息を切らせながら顔を覗かせる。
「ヒキガエル?」
ロンが首を傾げた。
「いや、見てないけど」
「そう……」
その少女は一瞬落胆した様子を見せたが、すぐにイヴが構えた杖を見て目を輝かせる。
「あら、呪文をかけるの? 見せてもらっていい?」
「え、ええ。どうぞ」
好奇心に爛々と輝く彼女の視線に圧倒されながらなんとか頷き返して咳払いする。
「レパロ 」
杖先が一瞬輝き、手のひらの上に置いた眼鏡のツルを補強していたテープがポンと姿を消す。
新品同様の輝きを放ちはじめた眼鏡に満足そうに頷いて、イヴはそれハリーへと手渡した。
「ありがとう」
「お見事ね」
「やるじゃん!」
「すごいわイヴ!」
口々の賞賛にイヴは少しだけ居心地悪そうにぎこちない笑みを返す。
それが嬉しくないわけではなかったが、どうにも家族以外から感謝されるとか褒められるという経験に乏しい彼女は喜びよりも「どう反応するべきなのだろう」という戸惑いが勝ってしまうようだった。
「あ! こんなことしてる場合じゃないわ! ネビルのヒキガエルを探さなくっちゃ! あぁ! それと皆そろそろ制服に着替えたほうがいいんじゃないかしら? それじゃあね!」
彼女はそう言って立ち上がると、扉の外に消えていった。
「すっごいマイペースな子だったな、名前も言わず行っちゃったよ」
呆れたように言うロンの言葉に三人は思わず苦笑いをうかべる。
完全に同意見、というやつだ。
「でも制服のことを教えてくれたのは助かったよね?、みんなしてホームで着替える羽目になるところだったもん!」
大真面目な顔でそんなことをいうハンナにロンが吹き出し、ハリーとイヴもつられて笑った。
「それじゃあ着替えに行こうか、ハンナ」
「そうね」
二人は立ち上がり、ハリーとロンに軽く挨拶をして元のコンパートメントに戻る。
イヴは制服の詰まったトランクを開けながら、これから始まるホグワーツでの生活に期待が高まっていくのを感じていた。
ハーマイオニーはやっぱりエマ・ワトソンのイメージがありますね。
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