ハンナやスーザンたちが心配そうにイヴを振り返りながら教室を出て行くと、教室にはイヴとスネイプだけが残された。静寂が重くのしかかる中、イヴは魔法薬学の道具を片付ける手を動かし続けていた。だがその手は次第に汗ばみ、少しずつ震えてきた。
「終わったか?」
スネイプの冷たく鋭い声が教室に響き渡る。イヴは道具の片付けを終え、硬直した体で振り返る。
「はい……先生」
スネイプは彼女を一瞥し、無言でローブの中から小瓶を取り出した。その中身が揺れる鈍い緑色の液体が何であるかを察して、イヴの呼吸が浅くなる。
「これが何かは言わずとも分かっているだろう?」
スネイプが教卓に小瓶を置く音がやけに大きく響いた。イヴはその瓶を見つめながら、無意識のうちに拳を強く握りしめていた。
「脱狼薬……です」
彼女がか細い声で答えると、スネイプは冷笑を浮かべた。
「正解だ。……君がホグワーツで平穏に過ごせるのは、この薬のおかげだということを肝に銘じておけ」
その言葉に、イヴは静かに頷く。
「ありがとうございます……先生。」
感謝の言葉を述べるイヴに、スネイプは冷ややかな視線を向けた。
「礼を言うくらいなら、その薬を一滴も漏らさず飲み、誰にも悟らせるな。……君の存在が学校に危険をもたらすなど、到底許される話ではない」
彼の冷酷な言葉は、しかして否定のしようがない真実であることを痛感しながら、無言で頷くほかにない。
なにせ万が一、薬の服用に関して不始末を起こせば取り返しのつかない事故を起こしかねないのだ。
さらに言うならば、反人狼法という酷く差別的な法律がまかり通っている現状、イヴという狼人間の存在がホグワーツの運営そのものに悪影響を及ぼす可能性さえある。
スネイプは少しの間、俯いて完全に動きを止めたイヴを見つめた後、教卓の上の瓶を指し示した。
「何をしている、持っていけ。そして肝に銘じておけ、今の君が守られているのはアーヴィングという家名と
その言葉にはまるで刃物のような冷たさがあったが、同時にただひたすらに真実だった。
彼女がホグワーツに入学できたのはあの夜、許可証を持ってきてくれたダンブルドアのおかげで――彼女が今人狼だと暴露されずに魔法界に存在できているのは母と祖父ひいてはエディンバラのアーヴィングという“純血一族”の力にほかならない。
微かに震える手で小瓶を掴むと、イヴはまだ怯えの色が滲んだ目で、それでも真っ直ぐにスネイプの目を見た。
「はい、先生、それが私の責任ですから」
スネイプは答えず、ふんと鼻を鳴らして、準備室へと歩き去っていく。
その背中を見送った彼女は、小瓶を抱きしめるようにして教室を後にした。
教室の外ではハンナとスーザンが廊下の端で気遣わしげに待ってくれていて、教室からでてきたイヴの顔を見て安心したように微笑む。
「大丈夫だった? スネイプ先生に何かひどいことを言われなかった?」
スーザンが心配そうに尋ねると、イヴはかすかに微笑んで首を横に振った。
「大丈夫。ちょっと、注意されたくらい」
少なくとも事実は
「ならよかったけど……」と訝しげに呟いたスーザンはイヴの手元に抱えられた小瓶に気づき、目を細める。
「それは? なんの薬? 先生が調合したもの?」
イヴは小瓶を手に握ったままだった己の迂闊さに気づいて膝から崩れ落ちそうなほどの後悔に襲われながら、何とか言い訳を絞り出す。
「……これを分析してレポートを書くのが追加の課題だって」
「うわ、出来がよくても課題が増えるんだ……」
ハンナがそう呟きながら百味ビーンズでとんでもない味を引き当てたみたいな顔をする。
二人からそれ以上の追及がないことに安堵しつつ、イヴは寮に戻る道すがら、窓の外に浮かぶ月を見上げる。
まだ月は半分ほどが夜闇の中に姿を隠していたが、たしかに、その時は迫っていた。
魔法薬学がその日最後の授業だった三人は、それから寮の談話室で他の寮生たちとの各教科の宿題、チェスなんかをして過ごした。
イヴは心の内に広がったくらい影を見事に仮面の裏に押し込めていたが、ハンナとスーザンは彼女がふとした瞬間に見せる色の抜け落ちた顔を目ざとく見つけては心配そうに二人で視線を交わしていた。
その翌日、イヴは寮監であるスプラウト先生に呼び出された。
スプラウトは恰幅のいい女性で、授業ではハキハキとしていながら穏やかさを感じさせる“ハッフルパフらしい”先生だった。
植物の世話を手伝う中で、彼女は穏やかな笑みを浮かべたまま気遣わしげな視線をイヴに向ける。
「アーヴィング。ホグワーツに少しは慣れてきたかい?」
スプラウト先生の温かい声が、彼女の心を少しほぐす。
イヴは微笑み返すと小さく頷いた。
「はい、少しですが。……ハンナとスーザンのおかげです」
スプラウト先生は満足そうに微笑むと、手にした植木鉢を丁寧に扱いながら続けた。
「時間が経つことはあんたにとって不安を伴うことでもあるだろう。けど、不安になりすぎることはないよ。なにかあったらなんでも相談しな。かわいい生徒を守るのがあたし達の仕事なんだから」
そう言って彼女は手袋を外し、なんの衒いもなくくしゃりと頭を撫でた。
彼女の手から伝わってくる少し高い体温に、心までじんわりと温かくなるのを感じて、イヴは感謝の気持ちを込めて「ありがとうございます」と小さく答える。
「……さて、満月を迎えるにあたっていくつか確認しなきゃいけないことがあるね」
穏やかな声でスプラウト先生が言う。
イヴはその言葉に肩をわずかに強張らせた。
これがスプラウト先生との会話の中で避けられない話題であることは分かっていた。だが、それでも自分が抱える秘密に触れられるたびに、胸の奥が冷たく締め付けられるような感覚に襲われる。
「はい、先生」とイヴは静かに答えた。
スプラウト先生は植木鉢の土をならしながら、柔らかな声で続ける。
「校内での理由付けについては、君のお母さんやおじいさんと相談して決めた通り、『アーヴィング家秘伝の錬金術の習得のため』ということにしてあるよ」
イヴは小さく頷いた。何度も確認してきた内容だが、スプラウト先生が丁寧に言葉を選んでくれるのがありがたかった。
「はい先生、承知しております。……みんなが内容に聞いてきたら『門外不出だし、私もまだ習っている最中だから答えられない』と言えば良いんですよね?」
イヴは頭の中で何度も繰り返してきたシミュレーションを思い出しながら確認する。
スプラウト先生はその確認に満足気に頷くと「そうだね、それ以上話す必要はないよ。もし食い下がられても『悪いけど言えない』で十分さ。下手に嘘つくよりずっといい」と言ってまた彼女の頭をくしゃりと撫でた。
「さて、具体的な話だけれど、前日の夜にあたしが迎えに行くから夕食をとったら談話室で待っているんだよ?」
イヴはその部屋で待つ時間の孤独を思うと、胸の奥がぎゅっと締め付けられるようだった。
スプラウト先生は小さく息を吐いて、そっとイヴの手を握る。
「かわいい生徒の為だもの。むしろ、こんなことしかしてあげられなくてすまないね」
イヴはその言葉に心が温かくなるのを感じた。
だが同時に、この“愛”に応えなければならないというプレッシャーも感じる。
「ありがとうございます。……絶対に失望させません」
スプラウト先生はその言葉にほんの一瞬だけ苦い顔をしたが、すぐにそれを引っ込めて笑顔を浮かると「いい子だね」と小さく言った。
「あたし達ホグワーツ教師が生徒に失望なんかするわけないだろ? あんたたち生徒は魔法界の希望なんだから」
「あり、がとう……ございます……」
あまりにも真っ直ぐな彼女の言い様に言葉を詰まらせながらなんとか礼を言って、イヴは少し俯く。
魔法界の希望。
その言葉は彼女にとってあまりにも重たく思われた。
――ハリー・ポッターもこんな気分なのかな……?
そんなことを考えてしまってから、彼女はただの狼人間である自分と名実ともに魔法界の大英雄である彼を比べた己の浅ましさにため息をついた。
スプラウト先生はそんな彼女の様子に困ったような笑顔を浮かべる。
「さあ、そろそろ戻ろう。他の子たちが君を待っている」
「はい、先生。ありがとうございました」とイヴは礼儀正しく一礼し、温室を後にした。
ホグワーツの廊下を歩きながら、イヴは胸の奥に芽生えた暖かさと、それを少しだけ冷ます罪悪感を抱えていた。
スプラウト先生の言葉は彼女にとって救いであり、重荷でもあった。自分を信じてくれる人たちの期待に応えることができるのか、いつも不安が付きまとっている。
そして事実彼女は三年前に一度失敗し、そのツケを愛する祖父に払わせているのだから。
すっかり表情の抜け落ちていた顔に、意識して“平静”という仮面を貼り付け直し、イヴはハッフルパフの談話室へと戻った。
扉を開けると、暖かな暖炉の光が揺らめき、木のぬくもりに包まれた部屋が彼女を迎えた。
そこには、生徒たちの穏やかなざわめきが広がり、ハッフルパフ特有の落ち着いた空気が満ちている。
そして部屋の隅では、いつものようにハンナとスーザンがイヴを待っていた。
「イヴ! 遅かったね」
ハンナがにっこりと微笑み、手を振る。
彼女の無邪気な笑顔は、どんな心の曇りでも晴らしてしまうような力を持っていように思えた。
その笑顔に引き込まれるように彼女に歩み寄って、イヴは椅子に腰を下ろした。
「スプラウト先生に呼び出されてたんでしょ? 何かあったの?」
ハンナの声には心配の色が滲んでいた。
彼女の大きな瞳がイヴを見つめる。
イヴは慣れた笑顔を作りながら、軽く首を振った。
「ううん、家の事で、ちょっとした確認だけ。それより、待たせちゃったみたいでごめんね」
「全然平気!」
ハンナは軽く手を振って答え、スーザンも微笑んでうなずいた。
だがスーザンはすぐに好奇心を抑えきれない様子で首を傾げる。
「でも、何の確認だったの? 気になるなあ」
イヴは少しだけ心の中で息を吐いた。
準備していた答えを、緊張を悟らせないように口にする。
「実は次の満月の日……正確には前日の夜から一度家に帰るんだ。ホグワーツ在学中にアーヴィング家の秘伝の錬金術を学ぶことになってて。満月ごとに家で行わなきゃならないんだ」
スーザンが興味深そうに眉を上げる。
「錬金術? なんだかカッコいいわね。そんなに厳格な儀式なの?」
「うん、詳しくは言えないんだけどね」
そう言いながら放っておくと気落ちしていきそうなのを自覚したイヴは、真剣な顔で水晶玉を撫で回す祖父の姿を想像して少しだけ笑顔を浮かべた。
ちょっとだけ申し訳なかったが「占い? そんなものに羊皮紙を使うくらいならケツを拭くのに使う」とか言い出しそうな祖父のそんな姿は、思い浮かべるだけでも、少し楽しい。
「でも、それってちょっと大変じゃない?」
ハンナが心配そうに尋ねる。
「毎月戻らなきゃいけないんでしょ?」
「それが務めだから」
イヴは柔らかく微笑みながら答えた。その笑顔は彼女の不安を見事に覆い隠している。
「そっか、じゃあ明々後日の夜にはイヴ、いないのね」
ハンナは少し残念そうに呟いた。
「談話室が静かになっちゃうわ」
スーザンも寂しそうな表情を浮かべる。
「そんなにうるさくしてるつもりはないんだけど」
イヴが軽く笑うと、ハンナとスーザンも声を合わせて笑った。
しかし、スーザンの表情がふと真剣なものに変わる。
「でも、家の事で何か困ったらちゃんと教えてね。力になるわ」
その一言に、イヴは一瞬言葉を失った。
彼女の胸の奥に、小さな暖かさが灯る。それは、スプラウト先生の言葉を聞いたときとはまた違った種類のぬくもりだった。
心からの感謝を込めて、イヴは静かに微笑みながら言葉を紡ぐ。
「ありがとう」
談話室の窓の外では、夜空を覆っていた雲がわずかに切れ、月がその姿を覗かせた。
その光は穏やかで美しくも、どこか不吉な予感を感じさせるものだった。
イヴは微かに胸の奥を締め付けるその感覚を振り払うように、再び二人に向かって微笑んだ。
満月は近い
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