ハリー・ポッターとアーヴィングの狼   作:揚げ芋

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第八話:狼と憧憬

脱狼薬の服用は、満月の三日前の朝から始まる。

日の出前と日が沈んだ後、世界が陽光と夜闇の狭間に落ちる僅かな時間――マグルたちがブルーアワーと呼ぶその瞬間に服用しなければならない。

その時間を過ぎてしまえば薬の効果は激減し、さらに苦痛を伴う変身や凶暴性の増加という最悪の結果を招きかねない。

 

イヴは()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()()の個室で、小さな瓶に入った液体を手にしていた。ティースプーン二杯分、それが服用の規定量だ。

 

「うっ……オェっ……!」

 

喉を焼くような苦味が胃の奥まで染みわたる感覚に、イヴは思わず口元を押さえる。

この薬は百味ビーンズの外れ味が極上の美味に思えるほどの強烈な味を持ちながら、砂糖やハチミツといった混ぜものを一切許さない。その上、ブルーアワーが終わるまでは口直しすら許されず、口の中に残る不快感はそのまま耐えるしかないのだ。

もしもこれを飲むのを失敗したら――もし効かなかったら――そんな恐怖が喉元に詰まり、薬の苦さと混じり合って込み上げてくる胃液を必死に飲み下した。

否応なく目には涙が浮かび、呼吸は乱れ、膝から力が抜けそうになる。

 

「あらあら、貴方って本当に可哀想でも可愛いのね、憎らしいわ」

 

透明でかすかに揺らめく姿が、個室の隅から現れた。

嘆きのマートル。

レイブンクローの制服に身を包んだ()()ニキビが目立つこの少女のゴーストこそが、多くの生徒がこの女子トイレを敬遠する理由だった。

 

「うッ……ごめんなさい、ミス・ワレン。こんなはしたないところを見せて……」

 

イヴは乱れた髪を直しながら、彼女に力なく笑みを向ける。

このマートル・エリザベス・ワレンという先輩を、イヴはミス・ワレンと呼んでいた。

それは罪悪感からくる敬意であった。

イヴは誰にも見つからず薬を飲むために、かつてこの場所で起こった悲劇で命を失ったゴーストを利用することにしたのだ。

死んだ瞬間から存在が停滞し続けているゴーストは、この薬が何なのかという疑問を抱かないし、推察しない。止まってしまった時間を過ごす彼女たちは、事実を事実として受け取るだけで、それによって思考や行動が変化することがないのだ。それが生者との最も大きな違いだった。

要するに彼女にとって嘆きのマートルは、仮に彼女の秘密を知ったとしても絶対に自らそれを吹聴することがない至極都合の良い人除けなのだ。

 

「いいえ、構わないわ。ちょっとスッキリしたもの。それより――」

 

マートルが興味深そうに、どことなく楽しげに問いかける。

 

「そんなの飲んでまでこんな場所(ホグワーツ)に居たいなんて、変な娘」

 

マートルはイヴの返事を待たずに続ける。

 

「私だったら、そんな苦労してまでここにしがみつかないわ。ホグワーツなんて、みーんな冷たくて、嘘つきばっかりで――」

 

彼女の声がかすかに震えるのを聞いて、イヴは言葉を飲み込んだ。

マートルが抱える孤独と憤りは、どこか自分の不安と重なるように感じられた。

 

「……優しい子もいるよ」

 

そう呟くと、イヴはもう一度瓶の蓋を確かめた。

思い浮かんだのはルームメイトの顔。

 

「それに私には――守らなきゃいけないものがあるから」

 

マートルは一瞬だけじっと彼女を見つめた。だが、次の瞬間にはすっと身を翻し、冷たい笑い声にも聞こえる嘆きの声を響かせながらトイレの壁に消えていってしまった。

その様子を見送って、イヴはポケットから取り出したシルクのハンカチで口元をそっと拭う。

廊下に出ると、もうほぼ満月と変わらない丸い月の明かりがが窓から差し込んでいた。

柔らかなその月光を避けるように窓から離れて歩く足音がやけに耳に響く。

 

「ふう……」

 

小さく息を吐きながら、落ち込んでいく思考を整理するようにネクタイの結び目をいじる。

食欲はないがまだ談話室に戻る時間でもない。夕食時に彼女が姿を表さなければ、きっと同室の二人だけでなく心優しいハッフルパフ生の多くに余計な心配をかけることになるだろう。

そう思い至って、彼女は少しの窮屈さと暖かさを感じながら少し急ぎ足で大広間へと向かった。

 

「待ってたよイヴ! こっちこっち!」

 

予想通り、多くの生徒が談笑しながら舌鼓を打つ大広間の長机で、遅れてやってきたイヴを見つけるたハンナが声をかけてくれた。その横ではスーザンがにこりと微笑んで小さく手を振っている。

二人は同じ新入生のアーニー・マクミラン――金色の髪と少し垂れた優しそうな青い目の少年――や、相変わらず新入生たちにあれこれと世話を焼いているセドリックたちと楽しげに話しながら、律儀にもイヴを待っていてくれたらしい。

彼女はありがたく二人が開けてくれた席について礼を言うと、懐から杖を取り出してひょいと一振して大皿からいくつかの料理を三人分取り分ける。

 

「ありがとうイヴ。でも貴方、甘いものばっかはよくないわよ?」

 

あからさまに焼き菓子などの類ばかりが盛り付けられたイヴの皿を覗いて、スーザンが苦言を呈する。

 

「……じゃあお肉も」

 

「野菜」

 

「うっ……はい」

 

仕方無しに追加でローストチキンを取ろうとした矢先にピシャリと言われ、イヴは仕方無しに自分用の小皿にサラダを取り分ける。

そんな様子を普段ならまっさきにけらけらと笑いそうなハンナは、しかし今日はセドリックが語ってくれる話に夢中のようで、その様子は目に入っていないらしかった。

 

「しかしマクゴナガル先生がこんなことをするとは意外だよ」

 

僅かに苦笑いを浮かべながら、本当に驚いたというような口調で語るセドリックの言葉が気になって、イヴは小首を傾げる。

背後のグリフィンドールの席や反対側のレイブンクローの席からも時折「マクゴナガル」とか「ハリー・ポッター」という言葉が聞こえてきた。

推察するに、どうやら皆一様に同じことについて話しているらしい。

あの“厳格”という言葉が変身しているみたいなマクゴナガル先生でもこんなふうに言われる事があるのかと、彼女はますます首を傾げた。

そんな彼女の様子に気づいたアーニーが目配せする。

 

「あっち見て」

 

彼が指さした先には、グリフィンドールのテーブルに座るハリー・ポッターがいた。

ハリーの前には長い細身の包みが置かれており、ロンやハーマイオニー、周囲の生徒たちが興味津々でそれを覗き込んでいる。

 

「……あれ箒?」

 

訝しげに呟くと「たぶんね」とアーニーが首肯する。

 

「でも、ファーストイヤーで箒を持つのは許されないはずだよね?」

 

「そこでマクゴナガル先生だよ。……ハリーをグリフィンドールのシーカーに抜擢したらしいんだ」

 

セドリックが言った言葉にイヴはおもわずぽかんと口を開けた。

ホグワーツの規則では新入生は自分の箒を持ち込むことはできない。

それに伴い自前の箒を必要とするクィディッチの選手になることもできないのだ。これは飛行訓練が十分ではない生徒の安全のためであると同時に、今後の未来を占う大事な一年生という時期に学業以外――少なくともイヴはカリキュラムに組み込まれていたとしても、飛行訓練を“必須科目”とは欠片も思っていない――に費やすことを防止するための措置であると認識していた。

にも関わらず、()()マクゴナガル先生が規則を曲げてまでハリー・ポッターをグリフィンドールのシーカー――すなわち寮のクィディッチ代表選手に選出したというのだろうか。

 

「わかるよイヴ、僕もそんな顔になった」

 

宇宙の広さを教えられた猫のような顔で頭上に「?」を浮かべるイヴに対して苦笑いを見せて、セドリックはぱくりとローストチキンを頬張った。

 

「でもイヴ、あの箒の正体を聞いたらもっとすごい顔になるよ」

 

そう言う彼とコクコク頷く仲間たちに促されて、彼女はハリーたちの会話を耳をそばだてて聞いた。

どうやらマクゴナガル先生が特例で購入した箒はニンバス2000――最新式の高性能スポーツモデルだということが分かった。

どうりでグリフィンドール生たちが大喜びしているわけだ。うん、わけがわからない。

 

「ポッターは特別ってコトみたい」とスーザンが少し呆れたように言う。

「そうだね」とイヴは頷きながらも、胸の奥で小さな違和感を覚えていた。

英雄として注目を浴び、あのマクゴナガル先生にすら特別扱いされるハリー・ポッター。正直、羨ましくないといえば嘘だ。気苦労はあるだろう、疎ましく思うこともあるだろう、それでもあれだけ周囲からポジティブな感情を向けられている彼がほんの少しだけ恨めしい。

同じ()()()()なのに。そこにはとても大きな溝があるように思えた。

 

そうして彼女たちがグリフィンドールのテーブルを横目にしながら食事を終えて大広間の扉を抜けたところで、偶然同様に食事を終えて談話室へ戻ろうとするハリーとロンに出くわした。

ロンは相変わらず興奮した様子で大声でハリーに何かを話しかけており三人に気付いていないようだった。

彼らは楽しげにじゃれ合っていたが――もっぱら仕掛けているのはロンのようだったが――勢い余って三人にぶつかりそうになってしまった。

 

「おっと、ごめん!」

 

寸前でなんとかこらえたロンが慌てて謝り、それが他寮の女生徒であることに気づいて恥ずかしそうに顔を赤らめる様子にはどこか憎めないものがあった。

 

「気にしないで」

 

イヴは微笑みながら答える。

その笑顔は相手を安心させるには十分なものだったが、彼女の内心にはわずかの緊張があった。

彼らとこうして廊下で顔を合わせるのは、ホグワーツ特急以来のことだったし、先ほどハリーに対して覚えてしまった劣等感に似た嫉妬の情が確かにくすぶっていたからだ。

 

「ハンナ、イヴ! 久しぶりだね!」

 

ハリーの声がその場を軽やかに満たす。

彼の明るい笑顔は、どんな緊張感も一瞬で溶かしてしまう力を持っているように思えた。

 

「ハリー、ロン! 話すのはホグワーツ特急以来じゃない?」

 

ハンナが少し弾んだ声で言うと、ロンが軽く肩をすくめた。

 

「ホグワーツじゃ、授業と宿題で手一杯だもんな。でも、どう? そっちの寮は楽しそうだよね」

 

ロンの言葉に、スーザンが微笑みながら答える。

 

「ハッフルパフは静かで落ち着いてるわよ。授業の予習もちゃんとできるし」

 

「それ、羨ましいかも。グリフィンドールには、ほら、フレッドとジョージがいるから」

 

ハリーが軽く笑う。

その笑みにはこのホグワーツでの日々への確かな充足感からくる気持ちの良いさわやかさがあるように思えた。

 

「ところで、ハリー。聞いたよ、シーカーになったんだって?」

 

少しだけ勇気を出して話題を振ると、ハリーは照れたように頬を掻いた。

 

「まだ実感がないんだけど……ありがとう。でもうまくやれるか心配だよ。まだルールだってわからないのに」

 

「おいおいハリー! シーカーは箒に乗ってスニッチを取るだけだぜ? 簡単簡単!」

 

心配そうにするハリーに向かってロンが冗談めかして言って笑う。

それに乗っかるようにハンナがにかっと笑いながら続けた。

 

「そうよ! それにサッカーよりは簡単だから! だってクィディッチにはオフサイドがないのよ!?」

 

そうして、サッカーってなに?なんて首を傾げているスーザンとロンを置いてけぼりにして、二人は楽しそうに笑う。

ハリーは「たしかにそれならルールは簡単かもね」なんて冗談を返していた。

 

「……でも正直あのマクゴナガル先生がそこまでされるなんてちょっと意外だった」

 

イヴは思わず少しばかり厭味ったらしい言い方をしてしまった事に気づいて、しまったと息を呑む。

しかしグリフィンドールの二人はそこに籠もった僅かなトゲになど気づかないようで、ロンに至っては誇らしげに胸を張って見せた。

 

「当然だよ! マクゴナガルはグリフィンドールの元エースだぜ? ハリーみたいな才能を見逃せるわけないじゃん!」

 

ロンの自信満々の口ぶりに、ハリーは少しだけ困ったように笑みを浮かべる。

 

「試合が始まったら、応援するわね!」

 

ほんの一瞬ちらりとイヴを見たあと、スーザンが優しく微笑みながら言う。

その声には、彼女らしい穏やかな気遣いが込められているように思えた。

 

「ありがとう。……じゃあ、イヴ、ハンナ、えっと……スーザン! またね!」

 

ハリーは軽く手を振ると、ロンと一緒に足早に廊下を進んでいく。

背中を小さく見送るイヴの目には、ほんの少しの羨望と後悔が宿っていた。

 

「らしくなかったわね、イヴ。どうかしたの?」

 

スーザンのその問いかけにイヴは慌てて笑顔を作る。

ハンナも彼女の様子が普段と違ったことには気づいていたのか、不思議そうにイヴの目を覗き込んでいた。

 

「何でもない。ただ……ちょっと、羨ましいなって思っただけ」

 

その言葉にスーザンは安心したように笑い返し、ハンナが「私も! 私もスプラウト先生から箒もらいたーい!」なんて同意する。

そうしてハリーたちの背中が廊下の向こうに消えると、スーザンがぽつりと言った。

 

「でも、ハリー・ポッター、かぁ。正直もっと近寄りがたい感じかと思ってたんだけど、けっこう気さくな子なのね」

 

「……うん、彼はいい人だよ」

 

イヴは微笑み返したものの、胸の奥に小さな棘が刺さったような痛みを覚えて、それ以上なにも言わないまま談話室への道を歩いた。

談話室では、スプラウト先生がイヴのことを待っていた。

優しい笑顔を浮かべながらも、その目には何かを思い巡らせるような深い色が宿っていた。

 

「帰省の準備はできているかい、イヴ?」

 

「……はい、先生」

 

イヴは一瞬だけ躊躇した後、小さく頷いた。




最近イヴがわりと勝手に動いてくれるんですが、ちょっとネガティブ気味です

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