"なまず"もなきます。
小さいころから地下鉄で変な声を聴いていた。ずうっと昔からそうだった。
物心ついたときにはすでにそうだったから、少女にとって当たり前にそこにあった。
しかしふと、これは誰の声なのだろうかと疑問に思ったとき、友達や祖父母、両親、妹までもがそんなものは聞こえないと答えたものだから、なんとなくこの"なまず"の声は自分にしか聞こえないものだと知った。
"なまず"の声というのは、これを少女の祖母に話した際、「私には聞こえないけどね。ほのかちゃんの聞いているそれは"なまず"の声なのよ」と答えが返ってきたものだから、少女はこれを便宜上"なまず"の声と呼んでいた。
駅のホームで待っているときも、地下鉄に揺られて駅を目指しているときも。
ときどき長い長いトンネルのどこか遠く、あるいは近く。けれど目には見えないどこかからか、声は聞こえてきた。それは老人のようなときがあれば、青年のようなときも、子供の声のときもある。
何を話しているかはわからず、強いて言うのなら「あーーーーーーっ。あぁーーーーーーーーーーーーーーー」と引き延ばされた音の印象が、少女に染みついていた。
今日は聞こえない。"なまず"は留守なのかもしれない。
高校の制服に身を包んだ少女は、肩掛けのカバンを重そうにかかえつつ、電車が来るのを待っている。
転落防止のホームドア設置の波はまだこの駅にまで届いていなかったから、長い列ができ、人が動き回りっている様子はおっかない。
少女は満員電車より、混雑した駅のホームのほうが好きではなかった。
出勤通学目的の人間が集まるこの時間帯は、いくら次の電車が二分三分で来るような東京といえど、一、二本の電車を見送らなければならないのは無駄な焦燥感と虚無感に煽られて、疲れてしまう。
まもなく次の電車が到着する。ホームのアナウンスが鳴って、トンネルの奥の方から線路を走る音が聞こえてくる。
「……あ」
同時に、"なまず"が叫び出した。
「あぁーーーーーーっああ、あああああーーーーーーーーーーーー!!」
それは今までに聞いたことがないくらい大きな声で響いていて、そしていくつも聞こえる。
いくつもいくつも。
老人のしわくちゃな声、
「ああああっ、あーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
男性の腹から響くような太く低い大声、
「あーーーーーーーーーっ。あーーーーーーーーーーーーーーっ!」
女性の高くも大人びた声、
「ああーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!ああ、あああああ!!!」
声変わり前の子供の声。
幼いころからずっと"なまず"の声を聞いていた少女も、これほどの大合唱を聞いたことは一度たりともなかった。
あまりの音量に思わず耳をふさいだ直後、地面が揺れ始める。
地震だ。
あちこちで悲鳴が聞こえ始める。
大きい。
転倒を防ぐため、多くの人間が一斉にしゃがみ始める。
もう駅に入ろうとしていた電車の、ブレーキの音が聞こえる。
……立っている。
駅の列の最前列付近にいた一人のスーツの男性が、まだしゃがみ込まず立っているのを、少女は目撃した。
彼の体はぐらぐらとゆれ、ふらつく。
そして当然のように、線路へと倒れこんだ。
乗車待機位置がホームの後方よりだったのが災いした。
もう少し前方によっていたなら、どうにかすんだかもしれない。あるいは後から思い返せば、これはどうしてもそうなるモノだったのかもしれない。
なんにせよ、電車はまだ止まり切れていなかった。
次の瞬間。
ドンッと音がして、高速で動くものが人体に追突した。あるいは線路に倒れ込んだ肉を車輪が踏んだのか。なんにせよ、その当然の結果が訪れた。
訪れたとき、少女はもうひとつ、新しい"なまず"の声を聞いた。
「あ゛ぁーーーーーーっ!!」
今までとは違う。甲高く、泣き声のような。そう、赤ん坊のような。
ふと少女は、いままで"なまず"の赤ちゃんの声を聞いたことはなかったと思い出した。
声は、泣き声はまだ聞こえている。赤ん坊の産声は、少女の耳に届いている。
眼前の地下鉄が泣いている。
おぎゃあおぎゃあと、停止した電車から聞こえてくる。
トンネルいっぱいに響く産声は、人の乗った鉄の塊から聞こえている。
まるで生き物かのように、少女にしか聞こえない声で、ずっと。
「……私、今まで何に乗ってたんだろ」
その日から少女は"なまず"と地下鉄が嫌いになった
地下鉄の入り口を、大口を開けた巣穴としか思えなくなってしまったのだ。