ビナー先生のキヴォトスでの優雅なティータイム 作:ひいろの鳥
というか俺は一体どれだけ終わってるホシノを書かなきゃいけないんだ、何故こんなホシノを二人並行して書いてるんだ、うごご...。
あと学校が始まったし模試とかいっぱいあるしでまた暫くは投稿頻度が落ちるかもしれません、というか週にこの分量に加えてもう一つ投稿するとか長期休暇でもない限り無理難題な気もするので、もう二週間に一本にペース落としてもいいんじゃないかなとすら思えてますよ、ええ。まあそのあたりは僕の気力次第ということで...来週は投稿難しいかも、ごめんね。
毎度のことながら、評価感想お気に入り登録は有難く頂戴しております。してくれると励みになります。マジで。
小鳥遊ホシノは今直ぐにでも目の前の大人――先生と呼ばれるその人にに銃口を突きつけたい衝動に駆られていた。
それを知ってか知らずか、ビナーと名乗る大人は静かに茶を啜るばかりであった。
その脇には、シロコが眠っている。一見死んだのかと思えてしまうぐらいに安らかに眠っているが、息はちゃんとある。だが、そのボロボロの身体と、先程までの状況から察するに、この大人に何かされたのだろう、ホシノはそう考えている。
彼女は、目の前の大人が心底嫌いだった。否、単なる嫌悪だけではない。そこには、不意に全てを奪われ壊されてしまいそうな、正体の掴めない恐れがある。実際そうなのだろう。それでも、この大人は何もしないのだが。
そしてまた、敵わないということも本能的に悟っていた。悟ってはいたが、矢張りこの大人を除かなければならないと確信していた。
だが――
同時に、この大人が何時しか言っていた言葉が、胸の内に深く突き刺さり、そうも出来ずにいた。
この大人が言うには、ホシノは向き合えていないという。それ以外にも度々言葉は交わしたが、その全てが妙なはぐらかしで終わってしまっている。セリカがあのような態度をとるのも、まあ納得してしまうものだ。
それでも、多分――この大人は何かを、否全てを知っている。ホシノはそう確信していた。だからこそ、向き合えないのかもしれない。
この話は、それなりの時間を遡ることになる。
出会いは、一か月ほど前のことになる。
その日も、ホシノは少し早く学校に着いていた。早朝のパトロールが日課になってしまっているせいで、いつも誰よりも早くに学校に来てしまっている。そのせいで今も若干寝不足の気があるし、着いてから寝てしまっているのだが。
今日もまだ誰もいないだろうと思い、校舎に入って部室に行こうとした時に――すぐ後ろから気配を感じた。
瞬時に振り替えると、そこには見慣れない大人が立っていた。そもそも人間の大人というだけで珍しい――少なくとも、ホシノは一人しか知らない、それほどの存在である上に、その大人は黒に金色の装飾が施された、奇怪な格好をしていた。場所によっては何らかのコスプレかと思えてしまえただろう。だが、この人間がそう安全な存在でないことは、雰囲気と――何よりホシノ自身の経験から悟っていた。だからこそ、一瞬銃口を突き付けようかとも思っていた。
「誰?」
端的に、最大限の敵愾心を剥き出しにしながら威圧的にホシノは尋ねた。
それにも関わらず、その大人は一切動じる様子も無く、
「私はビナーと云う。」
ただそれだけを答えた。
ビナー――その名前は、ホシノも知っていた。確か、連邦生徒会が設立したシャーレという組織に所属しながら、超法規的な権限を有する人間であり、日夜生徒のために動いているとか、そういうことはニュースで聞いていた。なるほど、アヤネがシャーレに物資の補給を頼んでいたから、その為にここに来たのかとホシノは一人で納得した。今まで一切動いてくれなかった連邦生徒会のことだから期待はしていなかっただけに、この展開は少し意外だった。
身元が分かったところで少し警戒心を解こうとしたその瞬間、ビナーはずいと顔を近づけてきた。
先程までは気に留めていなかった彼女の眼が、ホシノの視界に入ってきた。
黒く深い、漆黒と形容でき得るその瞳に、ややすると堕ちてしまいそうな感覚に瞬間囚われて――咄嗟に腕が出ていた。それを身体で受け止めながら、ビナーは静かに口を開いた。
「御前は、目の前のことにのみ眼を向けているようだね。」
それだけを言って、ビナーは顔を離した。その唐突さに、ホシノは暫し困惑した。そして、その言葉を呑み込み切る前に、ビナーは足早に部室に入っていった。そのまま着いていくことも出来ずに、ホシノはまごつく足取りで部室を通り過ぎて行った。
そうしてホシノが向かったのは、一つの空き教室だった。
ここに入ったのは、偶然では無かった。というのも、この場所には思い入れがある。その記憶が、誘蛾灯の様に彼女をこの場所に惹きつけていた。
古びた木と埃の臭いを嗅ぎながら、ホシノは席の一つに座り、窓の外を眺めた。この臭いすらも懐かしいと感じるのは、暫くは近寄ってすらいなかったからだろう。それはこの場所とここにこびり付いた思い出が厭になった訳ではなく、むしろその逆だった。過去の枷から少しは放たれていたということだろう。つまり、今ここにこうしていることこそが、再び囚われている事に他ならない。或いは、端から放たれていたと勘違いしていたか。どちらにせよ、先程のあの大人が、ホシノをこの場所に突き動かしていたことに変わりはなかった。
それは多分――あの日、大切だった人を理不尽に奪われた時のように、あの存在が全てを壊しかねない災厄の様な存在であると、直感的にそう思っていたからだ。目の前のこととは、そのことなのだろうか。
そうして絶えず自問を繰り返し、深く暗い過去の穴に落ちていく前に――ホシノはまた後ろからまた気配を感じた。
先程の恐怖もあっただろうか、咄嗟にその存在を、今度は無力化し制圧するように手首を捻じり、この平穏を害する存在を排しようと銃口を突き付けた。
だが、そこにいたのは、あの大人ではなくセリカだった。
「ちょっ、ホシノ先輩、急に何なのよ!?」
目の前にいる後輩は、手首を抑えながらそう叫んだ。その時にホシノの頭を占めていたのは後悔ばかりで、目の前が突然真っ暗になったような錯覚にさえ落ちていた。あれほど大切だったはずの後輩を、この手で傷つけてしまったのだから。
「...ごめんね、私、疲れてたみたいでさ。」
何とかその言葉を発しながら、ホシノは緩慢に立ち上がった。動揺のせいか、少しふらついている。
「ちょっと、本当に大丈夫なの!?」
「だ、大丈夫だよぉ~、さっきは寝ぼけてただけだって~!」
セリカの疑問にそう答えながら、何とかして笑顔を作って安心させようともしたが――それがぎこちないことも、ホシノは自覚していた。
「それで、どうしたの?もう会議の時間だっけ?」
誤魔化すように、ホシノはそう聞き返した。
セリカはその疑問に、少し詰まっているようだった。
「――もしかして、あの大人のこと?」
「それよ、それ!!というかもう知ってたの!?」
セリカの甲高い声を聴きながら、矢張りかと思った。あの大人は、矢張りこの場所を奪ってしまう存在なのだろうか。ならば、あの大人はこの手で――
否、そうしたところで、また振出しに戻るだけなのだろう。ここは耐えて、機を伺い、決定的な瞬間に終わらせなければならない。
「あの大人に、何かされたんでしょ!!」
そのまま教室を去ろうとすると、セリカはまた背中越しに声を投げかけてきた。
何かされているのは、むしろ君の方なのではないか。私はただ、影のように実体なく揺らめく恐怖を壊そうとしているだけだと――ホシノがそう口に出すことは無かった。
「――今は信じるしかないよ。」
その代わりに、それだけを言った。今動けば、何もかもが水の泡だ。それに、直接何かを壊した訳でもない。まだ予兆なのだ。そして、その影を消し去るのは――
「私が何とかするから、セリカちゃんは安心してよ。」
私で良い、私だけが全ての責任を背負えば良いと、ホシノは言外にそう言いながら、部室に向かっていった。砂は少ないのに、それらに足を取られて滑りそうになっていた。
部室に入ると、既に皆が来ていた。それらを一瞥しながら、普段の様な口調に戻しながらソファに倒れこんだ。そもそも初めは部室で適当に寝ようとしていたのだから、こうも眠いのも仕方がないことなのだとホシノは心中で言い訳をしていた。それでも、傍に悠然と佇む大人の存在が気になって、満足に休むことが出来る気はしなかったが。それでも何とか眠ろうとした瞬間に――銃弾の音で目が覚めた。どうやら、ヘルメット団が来てしまったようだ。
「とにかく、ホシノ先輩も一緒に行かないと!!」
「うへぇ、しょうがないか~...。」
本当はもう少し寝ていたかったが、仕方もなく机に置いてあった物資を引っ掴んで、外に躍り出た。
その戦闘は、意外にもすぐに終わった。物資があるから当たり前といえば当たり前なのだが、拍子抜けだった。
「よし、このままアジトも叩きに行っちゃおっか。大丈夫かな、先生?」
『御前達の為したいようになさい。』
試しにそう聞いてみたが、興味なさげな声でそう返ってきた。そこだけを切り取れば、頼りになる大人とすら思えなかっただろう。
幸いにもアジトもついでのように潰せたが、セリカは何かに怒っていた。ビナーが何もしていないことに起因しているようだが――むしろ、何もしないでくれとすら思ってしまえていたことを、ホシノは少し恥じながら校舎に帰っていった。
その後、セリカの怒りを横目に、目の前にいる大人を再びしっかり見た。
セリカの怒りを一心に受けながら、何事もないように平然と本を読んでいる。矢張り、興味がなさそうに見える。そして、セリカが苛立ちのまま教室を立ち去った後、それ以外のしようも無く、この大人に借金問題の説明を始めた。
「ん、先生、さっきは楽しそうだった。」
ただ、シロコのその言葉は余りにも唐突で予想外だったが。
それが本当だとしたら、あの様子を見て楽しんでいたことになる。それは最早理解の埒外のことだった。矢張り除かなければならないかと思ったが――ビナーはその言葉を否定も肯定もせずに、そのまままた黙ってしまった。そうして時も暮れてしまい、その日は解散となった。
次の日、その日はラーメンを食べに行くことになり、ビナーも誘ってみたが――掃除があるとか理由を付けられて、結局彼女は来なかった。掃除が何を意味するのかは引っかかったが、敢えて聞くこともないなと思いとどまり、四人でセリカを揶揄いに行った。
転機といえば、その日がまさにそうだったのだろう。
その日はパトロールから帰ってきて、装備を学校に置いておこうと戻り、部室の扉を開いた。
そこには、あの大人が座っていた。時間帯にも関わらず、眠っている訳でも、まして眠い素振りすらも見せていなかった。
ビナーはホシノのことを一瞥すると、すぐに立ち上がった。またあの日のようにマジマジと深淵を見せられるのかと警戒したが、そのまま何処かに立ち去ったかと思うと――カップを二つ持って再び帰ってきた。それらからは、茶の香りが香っている。それをビナーは、ホシノの近くにある席に置いた。座れということだろうか。それに従うのも厭だったが、他にどうすることもできず、またあの鈍い眼差しから勝手に感じ取った圧から――結局ホシノは席に着いた。
その数瞬は、沈黙に包まれていた。だが、本当に僅かだったにも関わらず、その時間は無限に引き延ばされているようにも思えた。
「...貴女は、何が目的なの?」
沈黙に耐え切れず、ついそう溢してしまった。
「私は唯見守り指差すのみであるよ。」
曖昧かつ単純に、ビナーはそれだけを言った。だが、それはホシノの求める答えではなかった。この人間の本質はそこではないと、何の根拠も無しにそう確信していた。
「お前は――」
その後に続く言葉は、実際のところは考えていなかった。否、多すぎて何から言えばいいのか分からなかったと形容したほうが良いのだろう。
だが、幸いというべきか、ビナーは遮るように言葉を発した。
「人は、暗闇に恐怖を見出し、其れに尚打ち克とうとした。だが、御前は――」
そう言いながら、彼女はホシノの顔――正確には瞳をちらりと見て続けた。
「御前は、暗闇をこそ御前の傍に坐すものとし、其処に御前自身を呑み込んだのだろう。」
その意味を、ホシノは正確に読み取れなかったが、何故か心のどこかを突かれているような気がした。
「それは、どういう――」
何かしら反論を試みようと、駆り立てられるように言葉を続けようとした瞬間に、携帯が鳴った。
その音に少し苛立ちながら取ると、開口一番に衝撃的な言葉が耳に飛び込んできた。
「セリカちゃんが――誘拐されたかもしれません!!」
その言葉に、一瞬頭が真っ白になった。
それは、ホシノの目指していた安寧を守り抜く夢が、他人の悪意を以て終わることを意味していた。それは彼女の最も忌み嫌う終わりであり、その実現は恐らく、彼女を呑み込んでしまうのだと、ホシノ自身自覚していた。
だが、対照的にビナーは平然と携帯を弄っていた。
その何事でもないような態度に、遂に頭の何かが切れた。
「何でそんなに冷静になれるんだ、何で何もないみたいに居られるんだ、先生はあの子が大切じゃ――」
堰を切ったようにそう言い立てると、ビナーは静かに、口の前に指を押し当てた。同時に、ビナーの携帯が鳴った。
ビナーがそれを取ると、電話越しに若い男の声が聞こえた。
『ビナー様、セリカさんの場所についてなんですが...。』
「見つかったのかい、シャオ。」
『ええ、今から座標を送りますね。』
「有難う。御前も暫く休みなさいな。」
まるでこうなることが分かってたように、何の感慨もなく平易に短くやり取りをしたかと思うと、電話は切れて、代わりに地図が送られてきていた。
「今のは誰?」
「私に伴う者だ。」
ビナーがそう答えたが早いか、焦った様子でシロコやアヤネ、ノノミが扉を開けて立っていた。
「先生、大変。セリカが――」
「拐されたのだね。」
シロコがそう聞いてくることすらも分かっていたかのように、ビナーはシロコの言葉にそう付け足した。
「ん...何で知ってるの?」
「識っている事しか識らぬよ。」
答えになっていないような答えを残したまま、ビナーは立ち上がり、部屋を出ようとしていた。
「せ、先生、どこに行くんですか!?」
「急いては逃すものも生じようが、また刻は無為に遣うものでも無いが故にな。
御前達も、あの子供を取り戻したいのだろう?」
その言葉は、ホシノに向けられているように感じた。何処となく急かすようなその言葉に、ホシノも立ち上がった。
「ん、先輩も...?」
「先生とその後輩ちゃん?がセリカちゃんの場所を出してくれたらしいから、早く行くよ。」
矢張り、今は手段を選んでいる場合ではない。早く助け出さないと、悪夢が終ぞ現実になってしまうだろう。ホシノの中には、その類いの焦りしか無かった。それ故に、この大人の手も借りなければならなかった。
大丈夫だと自分に言い聞かせながら、ホシノはビナーの後に着いて行った。
暫く着いていくと、ビナーがある地点で立ち止まった。
それと同時に、彼女は空に手を翳した。彼女の目線の先には、砂漠の中をゆっくりと走るトラックが一台あった。
「先生、何を――」
ノノミがそう聞いたのと同時に、重厚な、そして奇妙な音が響いた。
ビナーが向いている方向に目を遣ると、トラックが砂漠の中で立ち止まっていた。
そこにホシノは、この大人が自分の望む物を容易く壊し得ると思えた、その一端を垣間見た。
「ん、何したの。」
「急ぎなさいな。あの中で子供も睡っているだろうね。」
シロコの疑問がいとも容易く掻き消されている間に、ホシノは全速力でトラックに近寄った。早くあの子の無事な姿を見たいという一心に駆られていた。
シロコがトランクを抉じ開けると、中には少し泣き腫らしたセリカが座り込んでいた。
「ありがとう、先輩達。」
「ん、先生にも感謝すべき。先生が居なかったら間に合わなかったかも。」
そのやり取りを見ながら、横目でビナーの方を見遣った。彼女は、顔色すら変えることなく、ただトラックがあった場所を眺めていた。矢張り、どこまでも興味がなさそうに見える。セリカが誘拐されることを知っていた風に直ぐに見つけ出したことも重なって、不気味にすら思えてしまっていた。
それはシロコも同じだったのか、皆が帰ってから、彼女がビナーにあの力の正体を聞いているところを目撃した。ビナーはまともに取り合っていなかったが、それはホシノにとっては寧ろ幸いだった。あの力を深く探っていくことは、矢張り闇底に足を踏み入れるようで、恐ろしいことのように感じていた。
否、踏み入れまいとしても、既に手遅れなことは分かっていた。
あの大人に出会ってから、あの深淵を覗き込まされてから、あの破滅の一端を見せ付けられてから、ホシノはどういう訳か昔のことを思い出すようになっていた。泡沫の様に消え去った日々が恋しくなっていた。否、あの追憶の日々に立ち戻る事を望まなかった日など無かったのだろう。ただ、一時蓋をしていただけに過ぎない。それ故に──矢張り、あの大人の言葉が、ずっと胸に引っかかり続けていた。
その後も、ビナーはホシノの望みとは裏腹に、アビドスに居座り続けた。だが、特段何をするという訳でも無く、ただ見守るような仕草を続けるばかりであった。目の前でどんなことが起きようと、どうでも良いと言う風に、平然と受け流していた。その態度も、本当に生徒のことを考えているのかと疑問に思うぐらいなものではあったが――それでも、何もしていない訳では無いようだった。緩やかだが、快方に向かっているように感じ取れたから、その点では感謝するべきなのだろうが――ホシノにはそれが出来なかった。
「ホシノさん?」
不意に、声を掛けられた。
気が付くと、目の前には憎々しい、ビナーとはまた別の大人──黒服と名乗る男がいた。
ホシノは、またいつもの様にこの男に呼び出されて大きなビルの最上階にいた。この男がそうする時の要件は、いつも決まり切っている。
「それで、契約の件は──」
彼の言う契約とは、ホシノ身を売る代わりにアビドス借金を無くすというものだった。
それだけを聞けば、破格の条件だろう。そして、先日に出会ったカイザーPMCの存在もまた大きかったのだろう。
今までは、ホシノは自分が消えた後の皆の行き先に対する不安と──それ以上に 、今はいない人の夢見たアビドスの姿を、ホシノはその目で見ることを望んでいた。だが、このままでは立ち行かないことも知っている。
ふと、ビナーの顔が脳裏に過った。あの大人も、何処かに破滅的な物を忍ばせているのだろう。だが、それは本当に爆発するのだろうか。むしろ、自分こそが彼女を滅ぼそうとしている、そしてそれが招く結果は、容易に想像出来る。自分こそがアビドスを滅ぼしかねないのかもしれない。
「...知らない。」
その考えを振り払うように、そう答えた。それでも、この男は余裕を崩さないのだから気味が悪い。ともすれば、ビナーよりも嫌いかもしれない。
帰路に就く最中、矢張りあの契約のことがホシノの頭を占めていた。どうするべきかは、もう分かっているつもりだった。
だからこそ、ホシノは既に、その退部届に手を伸ばしていた。
星明りだけが差し込む薄暗い教室の中で、隅に空けられた空白に、己の名を書こうとしたときに――ふと、すぐ近くに気配を感じた。振り向くと、闇の中からぬっと、大きな影が入り込んできた。暗いせいか、顔はよく見えない。影は当惑するホシノを無視するように進み、向かいに座り込んだ。
「此処から去ぬのか。」
開口一番、影はそう聞いてきた。
関係ないという風に押し黙っていたが、影は尚も愉快そうに続けた。
「御前は囚われているな。喪失に固執し、その穴は未だ埋められていないようだね。」
矢張り、全てを知っているように話している。それに苛立ちながらも、心を突かれるような言葉に顔を上げられずにいた。
「その穴を覆い隠せども、其れは依然として開いた儘なのだよ。御前は其れを識らず―否、識りながらも再び穴を掘っているのだろうね。」
「違う、私は――」
これ以上、自分の所為でこの場所を滅ぼさないために。
あの時に空いた穴は、その実自ら掘ったものに違いないから。
ずっと、あの日の喪失で深く掘られた墓穴の中に埋まっている。
「だが、其の喪失と苦痛の焚く火鉢は、御前の心の寄る辺には成らない。」
懐かしむような声色で、影は続けた。
「そんなの、お前には関係ない。」
振り絞るように、ホシノは声を荒げた。だが、影はまた悠然と答えた。
「其れは其れで、此は此か。だが、其れは苦痛から目を背けているだけに過ぎないのだよ。」
「そんな訳がない。私はこの痛みをこの目で見て、味わって、一瞬すらも目を逸らそうとすらしなかった。」
ホシノのその言葉に、影は少し頷きながら続けた。
「星々は皆、複雑に絡み合い折り重なって、星空を象る。全ての苦痛を抱え込むことは、それ故に唯恐怖に向き合わずに身を投ずることと変わらないのだよ。」
影は、ホシノがその言葉を呑み込む前に、また懐かしむように続けた。
「私は、御前のように苦痛を愛した者を識っている。そして、その者が迎えた終わりもまた、な。」
「...でも、私はこうするしかないんだ。」
その言葉に、影は少し寂しそうに反応した。
「御前はそうではないことを識っている。だが、まだ視えないようだね。」
「お前には見えてるって?」
「私は星空を指すばかりであるから。如何に星を見出すかは、御前がそのやり方を一番識っている筈だ。」
「...出て行ってくれない?」
苛立ちと、これ以上見透かされる感覚を味わいたくないという子供染みた思いの籠ったその言葉に、影はゆっくりと立ち上がった。
最後まで顔は見えない。否、見ようとしていないだけなのだろう。
「私は御前達を遮らない。唯、川は流れ往く儘に進むものなのだよ。」
その言葉を残して、影は教室から去っていき、後に残ったのはホシノ一人だった。
教室に差し込む星明かりは、遠く弱々しい。
ただ、今はこの暗闇が、ひどく愛おしく、愛する人よりも優しいものだと思えて。
ホシノは結局、握っていた退部届を手放すことが出来なかった。
ご拝読ありがとうございました。
感想やお気に入り、評価などしてくれると作者がとても喜びます。
「この生徒との絡みを見たい」等のリクエストも募集しているので、良ければネタ出しにご協力ください。
ましまろ開けました。リクエスト等はこちらに投げて頂いて構いません。
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