意識が、そこにあった。
眠っているはずだという自覚だけがやけにくっきりしている。
目は覚めているが現実の手触りだけがごっそり抜け落ちているというか……。
「君が、緑谷出久……九代目だね?」
「っ⁉」
これは完全に不意打ちだった。
背後からの声に心臓が一拍遅れて跳ね上がり、緑谷出久は振り返る。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
長身。艶のある黒髪をなびかせて落ち着いた表情でこちらを見ている。
(誰だ!? ……いや、待てよ? 確か霊火さんのまとめた写真の中に……)
「……志村菜奈さん?」
自分でもよく思い出せたと。
女性は少し驚いたように目を瞬かせ、それからふっと笑った。
「正解だ。良く分かったね緑谷出久くん。君が俊典の選んだ九代目だね」
「は、はい……」
「君の戦いは見ていたよ。複雑な複数"個性"併用もすっかり使いこなせていて、良くやっている」
ここでようやく自分の身体に意識が向く。
全身が黒い靄に覆われていて、露出しているのは頭部と右腕、膝から下だけだ。
恐る恐る足を動かすと、前に出る。
何故か脚の感触は薄いが歩けている。
「……あ、声が出ます」
「出ているね。会話も出来るようだ」
「……ここ、夢ですよね?」
「ワン・フォー・オールの面影……とでも言うべき現象なんだろうね。少なくとも私はそう解釈している」
「……そんな事って……」
「いや、今はそれはいい。きっとあのお嬢さんが上手く解釈するだろう」
緑谷としては聞きたいことは山程あったが話をぶった切られた。
そして夢の中だというのに、志村菜奈はいやに物理的な感触を伴わせながら両手でこちらの肩を正面からがっしり掴んできた。
至近距離から目を覗き込まれた緑谷は仰け反るが、彼女の力は緩まらない。
目を白黒させる少年に、女性は極めて真剣な目付きでこう語りかけた。
「緑谷くん!!!」
「はいっ!?!?」
「真面目な話だよ。君には一つ聞かなければならない事がある」
低い声音に、背筋が伸びる。
ワン・フォー・オール。
その力を継ぐ者としての覚悟。
緑谷出久はずっと考えてきた。
自分に力を振るう資格があるのか。心が折れてはいないか。命を賭ける覚悟が本当にあるのか。
これまで幾度となく自問してきた問いが、今ここで“本人”から突きつけられたのだ。
緑谷は唾を飲み込み、両手を胸の前でぐっと握りしめた。
そして志村菜奈はこう聞いた。
「君は、あんな可愛らしい純粋なキスで、好意を示してくれた殻木霊火にどう向き合うつもりだい?」
緑谷出久は真っ赤になって噴き出した。
「は、はい!?!?!?!? なななななななな何を!?!?!?」
「え、キスされてただろう?」
少年が凍りついた。
志村菜奈は、大変申し訳なさそうに恐る恐るといった感じで切り出す。
そう、彼女にも決して触れてはいけないプライベートに踏み込んでいるという自覚はあるのだ。
「なんかこう……思い切り。言い訳しようがない感じで」
その瞬間に少年は思い出す。
そう、ほんの数時間前。
ずっと友達だと思っていた飛び切り可愛い女の子と、キスをしてしまった事を!!
―――――――――
フラれるだろうなあ、と。
そう思いながら、殻木霊火は夜道を歩いていた。
等間隔に並ぶ外灯のおかげでやけに明るい。
その下を、少女は俯いたままとぼとぼ進む。
「…………………………やらかした、かなあ」
呟きは夜に吸われて返事はない。
立ち止まり、両手で口元を覆う。
指先が、熱かった。
ファーストキスだった。
多分、彼にとっても。
胸の奥がじわりと痛む。
本当は、あんなことをするつもりじゃなかった。
弱っているところにつけ込むなんてしたくなかった。マッチポンプすぎる。
だけど衝動的にやってしまった。
それ以外に言いようがない。
だって見ていられなかったのだ。
エリちゃんを救えなかったことに縛られ、傷ついたままの彼を。
自分を許せないままどこかの誰かに許されようと足掻く、その痛ましい姿を。
「…………………………ッ!!」
少女は軽く咳をした。
ずきりと頭痛が走る。後頭部を殴られた時のような危険な吐き気もする。
なぜか腹の奥までじんわり痛い。
なんか生理痛っぽい痛みだ。それ自体は体験したことは無いが、内臓系の疾患特有の痛み。
もう一度、咳をする。
掌に残った感触が気になって目を落とすと、そこには血が付いていた。
「……思ったよりも保たないかもなあ」
少女は一瞬固まったあと、小さく息を吐いた。
その後に浮かべるのは微かな苦笑。『オーバーホール』戦で無理をしすぎた。
(あーあ、出久くんには悪い事したかな)
寿命が残り二年。
それは二年後のある日、電源が落ちるように死ぬ事を意味しない。
殻木霊火は病弱だ。
これから先の二年は坂道を転がり落ちるように、急速に身体が衰えていく時間となる。
疲れやすくなり回復は遅れ、できていたことが一つずつできなくなる。
季節の変わり目ごとに身体がついてこなくなるこの感覚の正体は、『老い』だ。
一応、これでも色々と対策はしているのだ。
それでも加速度的に進行する劣化に治療が追いつかないのが現状だ。
『巻き戻し』を手に入れたことで相当な延長を見込めるようにはなったが……。
つまり、結局手に入れた『巻き戻し』は、自分の寿命の延長という実につまらない欲望に利用することになる。
いよいよ『オーバーホール』の事を笑えなくなってきた。やっぱり悪の科学者に子育ては出来ない。
そこまでして。それでも。
多大なリスクを背負い、本当に限られた時間を使って、緑谷出久の傍に立つ理由はただ一つ。
「…………………………私が死んだ後も、覚えていてほしいな」
彼が『アマリリス』を知る前に、いまここにいる等身大の自分を知って欲しい。
それが極めて限られた時間であっても、彼の恋人になりたい。
そして彼がいつか新しい恋人を作っても、心の特等席は空けておいて欲しい。
自分のあまりの子供っぽさに呆れ果てて、赤い瞳の少女はクスクスと笑った。
そもそも、彼は霊火を選ばないだろう。
(………………失恋、かあ)
彼のことはよく分かっている。
緑谷出久はクソナードではあるがヘタレではない。
良くも悪くも誠実な彼は、自身に向けられた好意を無視することはしない。
そして保留して友達関係を続けるという器用さを持ち合わせない彼は、しっかりと断ってくる。
そして友人を踏み外し、それでいて恋人になりきれなかった男女の末路は古来から決まっているのだ。
失恋は怖くない。
気まずくて疎遠になるのが怖い。霊火が気にしていなくても、緑谷は気にする。
異性関係は不可逆性。
一度でも明確に異性としての好意を示した以上、誠実な彼は無かった事に出来ない。
霊火たちは、もう二度とあの心地よい友人関係には戻れないのだ。
フラれるだろうなあ、と。
そう思いながら、殻木霊火は夜道を歩く。
―――――――――
『OFA』の心象空間。
殻木霊火が聞いたら絶句しそうな謎空間でクソナードは顔を真っ赤にして叫んだ。
「み、見てたんですか!?!?!? さっきのアレを!?!?」
「し、仕方ないだろう!! プライベートな場面を覗いてしまったのは本当に申し訳ないと思っているが、君があまりにも動揺したせいで私も叩き起こされたんだ……!!」
「僕が動揺したら継承者の方々が起きる仕組みなんですか!?!?」
少年はその場に膝から崩れ落ちた。
これはダメだ。あの出来事については自分でも消化しきれていない。それを歴代継承者に見られていたとか苦しすぎる。
同情するような視線を向ける志村菜奈は複雑な表情を浮かべていた。
九代目がどうにか気持ちを立て直し、よろよろと立ち上がるのを待ってから改めて口を開く。
「……君は殻木霊火のことを疑っているようだが、彼女は明らかに君を好いている。同性の私から見てもあの子のアプローチに嘘は感じられない」
「…………僕は、今でも信じられません。まさか霊火さんほどの人が僕を好きになるなんて――」
「自己評価が低すぎないか九代目。ああ、それに『霊火さんは僕を元気づけるためにキスしてくれただけだ』などと考えるのもやめておきなさい」
見事に逃げ道を塞がれた。
どうやら心に浮かんだ思考がそのまま共有される代物らしい。プライバシーどころか内心の自由すら怪しくなってきた。
既婚者らしい落ち着きで、七代目は重々しく頷いてこう断言する。
「いいか九代目。落ち込んだ男の子を励ますため“だけ”にキスをする女の子など実在しない」
「うぐっ……」
「そこにいるのは、好きな男の子を元気づけるために勇気を振り絞った女の子だけだ」
いよいよ逃げ場を失った少年は、見る見るうちに小さくなった。
こうなってしまえば、答えを出すしかない。
「受け止めるしかないな、少年」
「…………………………なんで霊火さんは僕なんかを」
「それを私が解説するのは流石に野暮だな。気になるなら本人に聞いてみればいい」
それを聞けたら苦労はしない。
頭を抱える少年に、志村菜奈は改めて問いかける。
「で、君は殻木霊火とどう向き合うつもりだい?」
「……次に会ったとき、どう伝えるか、ということですね?」
「そうだ。何より君は、あの子と付き合うつもりはないのだろう?」
志村菜奈の言う通りだ。
これまでは考える必要もなかったが、こうなってしまうと緑谷出久の基本スタンスは一貫している。
「……『OFA』を持つ僕が、特別な人を作れば、その人に危害が及ぶ」
「………………否定はできないな」
「七代目の身に起きたことはグラントリノから聞いています。僕は、自分の使命のために霊火さんを危険に巻き込むわけにはいきません」
少年は、じっと自分の両手を見つめた。
「事情をきちんと話して、謝ります。それが『OFA』を継いだ僕の責務です」
「……今回は、まさにその話をしたいと思ってね」
長身の七代目は膝をつき、少年と視線の高さを合わせてから深く頷いた。
「君はあの子と距離を取るつもりなのだろう?」
「はい」
「これまで、歴代継承者の恋人や家族は常に深刻な危険に晒されてきた」
志村奈々は九代目の目をしっかりと見つめる。
「だが、君は私たちとは事情が違う。その選択は一度考え直してもいい」
「……どういう意味でしょうか?」
「まず、君とあの子の親しさはすでに世間に広く知られてしまっている。今さら距離を取ったところで、彼女が被る潜在的な危険は、さほど減らないかもしれない」
「うぐ……」
「そして何より、あの子が直面する脅威は『OFA』由来のものだけではないだろう?」
……確かに、その通りだ。
殻木霊火は、緑谷出久とは無関係にとても有名だ。
圧倒的なビジュアルに凶暴な言動。そして前代未聞の万能“個性”。
そもそも林間合宿やその後のギガントマキアの一件も、狙われていたのは緑谷出久より殻木霊火だ。
「……気づいたようだね、九代目」
「霊火さんは、僕が守らなければならない?」
「まあ結論としてはそうなるんだが……、今重要なのは、君が距離を取っても彼女に降りかかる火の粉の量は大して変わらないという事実だ」
「……だから僕が守るべきという話なんですよね?」
「過程が違うな。君だって分かっているはずだ。彼女はとても強い。自分一人を守るだけならどうとでもなるだろう」
また話が見えなくなってきた。
志村菜奈は、この対話を通してこちらに何を気づかせたいのだろうか。
緑谷出久は慎重に言葉を選ぶ。
「つまり……霊火さんは、僕と距離を置かれても危険な立場にあり続けるけれど、自衛はできるから問題ない、ということですか?」
「……君は気がついていないのか?」
「じゃあ、一体……」
「最大の問題は、あの子自身の加害性だ」
心臓を掴まれたような感覚に少年は息を詰めた。
そして志村菜奈は、自身の後継者に核心となる疑念を突きつける。
「あの子は……ヒーローと呼ぶには、かなり危うい」
「…………」
「極端な人間嫌いと病的な人間不信を併発した少女。言葉は強いがそれだけなら、思春期の女生徒にはたまにいる精神性だ。クラスに一人や二人いる程度にはな。だが、殻木霊火はそれに付随して天井知らずの殺傷力まで持ち合わせてしまっている」
「あー……」
「自分を害する可能性がある者を先制で排除して息の根を止めてから、安全を確保したことにようやく安堵する。あの子はそういうタイプだろう?」
困ったことにまったく否定できなかった。
霊火の自己防衛本能の強さは友人の緑谷から見ても異常だ。何度彼女の凶行を止めたかなんて数えきれない。
志村奈々は端的に言い切った。
「君があの子と距離を取ったらマズい」
「……確かに」
「君が守れ。殻木霊火から周りの人を」
「……そっか、そういう話になってくるのか」
問題の見え方がガラリと変わってくる話だった。
もちろん緑谷出久は彼女の安全を守りたい。だが冷静に考えると、霊火"から"周りの人を守るというのも非常に大切な話だ。
志村奈々は重々しく続ける。
「私の経験上、ああいう潔癖な手合いが道を踏み外すと悲惨だぞ。自家生産の”もしも”を増幅し続ける過剰防衛常習犯は、本人が思う「安全」を確保するまで決して止まらないからね」
「…………………………そのタイプだなあ霊火さん!!!」
緑谷出久は頭を抱えた。
前々から危うい女の子だとは思っていたが、第三者に説明されると改めて問題の大きさに圧倒される。
志村奈菜は、ここで再度緑谷の肩を掴む。
「いいか九代目。君が、彼女を安心させてあげるんだ」
「……はい!!」
「彼女は君を信じている。彼女は君に明らかに惹かれている。緑谷出久の為なら、あの子はヒーローとしての役割を遂行出来る」
そして結局こういう問題になるのだった。
「で、九代目はキスしてくれたあの子にどう応えるつもりだい?」
「……えっと」
「そもそも君は彼女の事が好きなのかい? 異性として」
「……」
「つまりは二回目のキスをしたり、それ以上の関係になりたいと思うのかを聞きたい。どうなんだ九代目?」
クソナード緑谷出久は顔を真っ赤にして俯いた。
既婚者志村菜奈は呆れ顔で腕を組む。
「……あの口づけは好意の表明ではあった。しかし私の意見としては、関係性を一段進めたいという意思表示には見えなかったな」
「…………」
「本人からしても相当衝動的な行動だったんだろう。まず間違いなく、彼女本人もやらかしたと思っている」
「…………」
「ここにチャンスがある。いいか九代目、実はこの場面においては”保留”と言う選択肢がある」
「…………」
「で、どうする九代目」
「…………えっと」
緑谷出久は初心だった。
凄く正直に言うと、霊火の事を異性として強く意識したことなど全く無かったのだ!!
志村奈菜は深々とため息をついてしゃがみ込んだ。
「……………………なんかこう、情が湧くとかないのか? あれほど献身的に尽くしているのに……?」
「……ごめんなさい」
「…………脈無しというわけでもないのか……? 庇護欲が先行し過ぎている……?」
―――――――――
感傷に浸りながら夜道を歩いていたら、何かに遭ってしまった。
幅の広い歩道がビル街の谷間をまっすぐに貫いた、人気のない場所。
夜とは言っても終電を逃すほどの深夜という訳でもなく、街灯は十分に明るい。本来は安全な場所のはずだ。
殻木霊火はうっすらと目を細め、サポートアイテムの『プリムローズ』を握りなおす。
進行方向、その正面。
歩道の中央に、複数人の影が立っていた。
街灯の光を背にしているせいで表情は判然としないが、人数は四人。
本当に面倒なことになった。
殻木霊火は小さく息を吐く。
折角ファーストキスをした夜だというのに、どうしてこういう余計なイベントが差し込まれるのだろうか。
その中でも明らかなリーダー格。
長身の男が一歩前に出る。
長い髪が夜風に揺れ、街灯の光を受けて鈍く反射した。
顔面の大半を覆う重厚で無機質なマスク。
肩幅が広く背は高い。立っているだけで、周囲の空気が押し下げられるような圧がある。
少女は『プリムローズ』を握ったまま、うんざりした目でその男を見上げた。
「貴方の名前は知っているよ」
「なんだ『フロイライン』」
「敵名『ナイン』。ヒーローの個性消失事件の主犯格」
空気が、ぴしりと張り詰めた。
背後の連中がわずかにざわつくのが、気配だけで分かる。
だが前に出た長身の男に動揺の気配は無い。仮にもリーダー格か。
数秒の沈黙の後、低くくぐもった声がマスクの奥から響く。
「ふむ、既にヒーローたちには嗅ぎ付けられているのか」
「で、何の用なの?」
「……”違う”な」
少女は首を傾げた。
『ナイン』は『ドクター』の実験体だ。
『AFO』を後天的に移植され、生来の“個性”は『気象操作』。
強大な力で世界を征服し、自分のための新世界を作る。
今どき珍しいほど直球な野望を掲げた敵である。
男の瞳が、黄色く輝いた。
「その『呪い火』、公表されているデータとは明らかに”違う”」
(……っ!?!? 『サーチ』みたいな”個性”でも奪っているのか!?)
霊火の”個性”は『死因』であり『呪い火』ではない。
偽装を一発で看破された。非常に危険な状態だ。
表情に出さぬよう細心の注意を払いながら、少女は頭の中で算段を付ける。
(……仕方ない。殺して安全を確保しようか)
ナインは、霊火をじっと見下ろしている。
その視線には好奇心と値踏み、そして露骨な欲が混じっていた。
「まあいい。その“個性”を奪う」
「貴方には扱いきれないと思うけれどな」
多くの言葉を交わすつもりはなかった。
『気象操作』。
夜のビル街に本物の落雷が雨あられのように降り注ぎ、暴風が吹き荒れる。
『死因』。
華奢な少女の掌から放たれた白い光は幾筋にも分かれ、ありとあらゆるものを焼き切った。
文化祭だ!!!!! やっと学生生活が出来る!!!!!
感想や評価ありがとうございます。大きな励みになっております