半分以上崩壊したビルの中層階だ。
打ちっぱなしのコンクリートの壁面には、長年の風雨の作り出した染みが滲んでいる。
長い間放棄されていたビルの一つで、ロケーションも良い。
日の当たらない薄暗い空間には黒いバッグから取り出された様々な機材が無造作に広げられていた。
銃器の部品、照準器。プロフェッショナルの道具だ。
「今回の標的は緑谷出久、ヒーロー名『デク』。雄英体育祭優勝者。あのデカブツとも互角に渡り合った大物だ」
「は、一体どこの誰がアイツを殺したいのかね。殻木関連か?」
「知るかよ。仲介人は同じってことは同一人物なんじゃねえのか?」
彼らは三人一組の『殺し屋』だ。
実質的なリーダーにして発砲後の”撤退”役でドローンオペレーターでもある男は呆れたように息をついた。
敵名『インシュアランス』は仲間の疑問に適当な返事を返すと、目標捕捉用の小型ドローンを何機も操りながらこう付け足す。
「……だが上等な仲介人だ。ああいうのを使うのは行政系の大物だぞ。……いいか、今度こそ失敗は許されないからな」
「マジか。……にしてもあの嬢ちゃんは何だったんだ。 発砲する前からこっちに気づいてたぞアイツ。あの反応は絶対にカタギじゃねえ……」
「反省は後にしろ。挽回の機会が回ってきたんだから今は目の前の事に集中だ。今度のターゲットはターゲットで油断ならんぞ」
そして『インシュアランス』と話しているサングラスの男は通称『バックパッカー』だ。
『掴んだものを3つまで異空間に閉じ込める、しかしヒトに対して使うには対象の同意が必要』という”個性”を持ち、本人も変装の専門家だ。
狙撃銃を使った暗殺の難点は、とにかくデカくて目立つ狙撃銃をどう目立たずに運搬するかだ。
普通は分解したパーツを現場で組み立てたりといった工夫が必要だが、この”個性”があればその辺りを一発でクリアできる。不意の職質で大ピンチに陥る事も無い。
仲間の2人と嵩張る重火器を身一つで運搬する”移動・隠蔽”役である男はやれやれと肩をすくめた。
「俺はさっさと国外に逃亡するべきだと思うがな」
「そうは言うがやはり失った信用は最低限補填しておきたい。そうだろ『ブラックマンバ』」
「…………」
最後の一人。寡黙にスコープを覗き込む蛇頭は、”狙撃”役の『ブラックマンバ』だ。
狙撃手の彼は『睨みつけた相手の思考を少しの間散らして集中出来なくする』”個性”を持つ。
ターゲットの気紛れな振りむき一つで全てが崩壊する極めて繊細な狙撃暗殺において、この能力がどれほど有用かは語るまでもないだろう。
……つまり殻木霊火は、音速の壁を破って飛んでくる弾丸を完全な無意識のうちに”個性”で撃ち落としたという事でもあるのだが。
ドローンの映像を見ていた『インシュアランス』が、言葉少なに言った。
「来たぞ」
「了解」
一気に場の空気が重くなる。
狙撃手は呼吸を整えてゆっくりと狙いを定めた。
微かな風の動き、湿度、気圧。計器に記された全ての要素を計算に入れながら狙撃手はタイミングを伺う。
指を引き金に軽く添える。
そして——
ドオン! と、重い発砲音が空気を震わせた。
『ブラックマンバ』が叫ぶ。
「……っ!! 悪い躱された!!」
「マジか雄英のガキどもどんだけ人外なんだ!?!?!?!? 『放心』が効いてそこまで反応するか!?!?」
狙撃手は二発、三発と続けて銃弾を叩き込むが、緑の少年はそれらを易々と回避する。
リーダーは鋭く指示を出した。
「撤退する!!! 早くこっちに!!!」
撤退役の『インシュアランス』の”個性”は『帰路』。
『自分自身や目を合わせた相手を45分前の座標に転送する』ワープ系能力だ。
これがある限り、彼らはカウンタースナイプに怯える必要はない。
狙撃が成功しようと失敗しようと、これで撤退すれば狙撃ポイントを囲まれることなく一先ずの安全は確保できる。
しかし男が“個性”を発動する寸前になって窓ガラスが砕け散り、緑谷出久が建物内に飛び込んできた。
「なっ!」
「嘘だろここ7階だぞ!?!?」
慌てて”個性”を発動しようとするリーダーだが、緑谷が一瞬早かった。
鈍い打撃音が複数回響き、男どもは纏めて床に叩き伏せられた。
――――――――
『死人に口なし』とはいい言葉だ。
どれだけ『死因』全開でプロヒーローとやりあっても、目撃者を全員消せば霊火は無罪のままでいられる。
大規模電波障害のおかげで霊火の悪行が、ネット上へ無制限に拡散されるという事もない訳だ。
まともな避難経路は初手で全封鎖していたため逃げ出した住民もいないだろう。
という訳で、だ。
霊火はぱちりと指を鳴らすと、1つの都市が閃光の中に消えた。
……待ち伏せ場所として設定していた湾岸倉庫に爆風が及ばないよう事前に計算してはいたのだが、それにしても物凄い衝撃だった。
「…………………………なに……をした……?」
「証拠隠滅。私の”個性”、オイルランプとかに”鬼火”を灯せば設置型の爆弾ライクな使い方が出来るんだけれど、貴方たちが来るまでに街中に配置したそれを一斉に起爆した。
「…………………………最悪だな」
湾岸のごちゃごちゃした倉庫の一室で、霊火はボロボロのホークスを前に肩をすくめた。
酷い容態だった。
脇腹の銃創からは相変わらずドクドクと血が流れだしていて、全身は打撲で青黒く変色して至る所に傷が刻まれている。
骨折は全身で7箇所。肋骨が2ヵ所、右腕、頭蓋骨、右脛、左大腿骨、左足首。
貧血以前に失血性ショックで死にそうな容態の癖に、彼の意識は意外とはっきりしていた。
人間なんて1Lも血を流せば勝手に死んでいく生き物だというのによく話が成り立つものだ。ヒーローの根性論は霊火の想定を易々と飛び越えていくから怖い。
少女はどこからともなく取り出した白いタオルで傷口を押さえながら、次から次へと包帯や錠剤、謎のマシンに吸入器などを揃えていく。
ホークスがそれらを焦点の合わない目で見ているため、霊火は強めに釘を刺した。
「『剛翼』で反撃なんて考えないでね。さっきので相性の悪さは身に染みたでしょ? 今度こそ本当に助けられなくなるよ」
「……な…ぜ俺を治そうと……」
「利用価値。放っておけば死に行く貴方をここで私が拾い上げれば、貴方は私に感謝するでしょ?」
「……そっちが負わせた傷で?」
「それを言うなら先に不義理を働いたのは貴方たち正義側なんだけれどね。マッチポンプが気に入らないならお望み通りぶっ殺してやろうか?」
強い言葉を使いながらもあまり気にした様子でもない霊火は、無造作に金属製の細い器具をホークスの脇腹の傷口に差し込んで雑な感じで弾丸を引っこ抜いてしまう。
ホークスの体が大きくびくんと跳ねる。凶悪な激痛にトップヒーローの顔が歪んだが、霊火はその辺容赦なしだ。
当然、栓が抜かれた人体からドバドバと鮮血が零れ出るが少女はすぐさま謎の機械を体内に挿し込む。
ガガガガンッ!! とおよそ人体に向けられるべきではない機械系の爆音が響き渡った。
ただでさえ無い血の気が更に引くホークスだったが、霊火は気軽な感じで銃創の処置をガンガン進めてしまう。
「お、おい…だ、大丈夫なのかこれ……!?!?」
「今ギガントマキアと隕石と電波障害と警察崩壊とその他諸々で通常の病院が殆ど止まってるから、今のがこの国で受けられる最高の治療だよ。まあ私はこれでも病院の娘だから……無免許なのは眼を瞑ってね」
「全然大丈夫じゃないけん……怖いばい……」
「一応言っとくと無免許なのは年齢と学歴的な都合で、並みの外科医より100倍腕は立つからな?」
ホークスが恐る恐るといった感じで銃創に指を伸ばすと、ホッチキスで綴じられたかのような感触があった。
いよいよ闇医者の処置が心配になってくるホークスだったが、霊火が鋭く警告を入れる。
「傷口に触らないで。感染症で死ぬから」
「……俺をたすけて、君に協力すると思ってるのか?」
「黙れよ鷹見啓悟。今回は『異能解放軍』に協力してショートカットしちゃったけれど、私は貴方たち『正義』の正当性を
そう言った霊火が追加でぼそりと『秘密』を吹き込むと、今度こそトップヒーローは動揺を隠しきれなかった。
……例えば『公安では明らかに社会に害となる凶悪な”個性”を持った赤子を秘密裏に暗殺したことがある』とか『司法を経由せず上層部の指示で不穏分子を直接殺害し続けていた公安直属トップヒーローがいた』とか。
「な、何故それを……!?!? お前は一体……」
「私の正体を知っていたら、貴方たち公安は絶対私にちょっかいをかけなかっただろうね。それか手段を問わずに私を殺しに来ていたか。いやあ、綺麗ごとで国は治められないねえ……」
「……『
「おっと」
霊火の指がホークスの脇腹を抉り、男は声にならない悲鳴を上げた。
赤い瞳に極めて危険な光を宿す少女は、酷薄に嗤ってヒーローを見下ろす。
「あまり詮索しすぎるなよ公安直属。暗部の情報屋相手に頭脳戦なんて挑むもんじゃないからな?」
「…………………………俺を生かしてどうするつもりだ」
「協力したいだけだよ。人脈というかいざというときの連携というか……。実をいうと、
今度はテキパキと全身の骨折に添え木を当てて固定し、『凍死』軸で冷却までこなしながら霊火は言った。
先ほどの威圧感はどこへやら、一気に年相応の甘さと隙の多さを演出する悪党は困ったように肩をすくめて曖昧に微笑む。
「そんなに警戒しなくてもいいよ。少なくとも私の『取り合えずで目先の快適な生活を望む』という所は嘘ついてないわけだし、そこさえ抑えてくれたら私も無理難題は言わない」
「……何万人も殺して国全体に大迷惑をかけて、そんな事が許されると思っているのか?」
「『私の価値はこんなちっさな島国よりもかなり高い』っていうのも本音。……ああもうそんなに怒った顔しないの」
くつくつと笑う霊火はこう続けた。
「それに分かっているはずだよ。貴方、”呑み込める側の人間”でしょう? 自分の正義を丸ごと信じている潔癖な勧善懲悪野郎というより、10を救うために1を切り捨てる覚悟が出来た仕事人タイプ。……『異能解放軍』が事実上のクーデターを成功させた今、味方勢力に引き込める人材は誰でも確保しなきゃいけないんじゃないの? ……あの人たち”懸賞金制度”とか言ってるけれどあれ本当に大丈夫なのかな? ぶっちゃけ私も不安が止まらないんだけれど……」
「…………………………」
「協力してくれるって受け取るよ。……いいね、前々から貴方とは気が合うと思ってた。あ~あ、私も大きな目的を放り出して自由に生きたいんだけれどなあ……」
「大きな目的……」
「そんな信じられない目で見られても困る。私もあなたと一緒で、これでも世のため人のため頑張っているつもりだし。誰にも評価されないけれどね」
霊火は鮮やかな赤色の錠剤を取り出すと直接怪我人の口に突っ込んだ。
目を白黒させるトップヒーローだが、パニックにならず無理やり嚥下した。
「造血剤。私はB型じゃないし、そもそも輸血なんて施設の揃った病院以外でするもんじゃないからね。まあ今から生理食塩水いれるけれど」
「……注射針なんてあるのか……? いや今の錠剤だって、そのホッチキスみたいな縫合機だってどこから出して……」
「自分の救命治療をしてくれる人の詮索なんて百害あって一利なしだよ? これを見越して用意してたで納得しとこ?」
最後にどこからか取り出した消毒液を傷口にダバダバ振りかけて怪我人から悲鳴をあげさせながら少女は笑う。
「ん、一応これで大丈夫なはず。それじゃあ私行っていい? 待たせてる人がいるんだけれど」
「……分かった」
「そ。それじゃあばいばいホークス。常闇によろしくね」
――――――――
朝が来た。
どれだけ多くの物を失っても、いつも通りの朝がきた。
緑谷出久はただ漫然と、バッテリーが切れかけの小さな液晶を流し見していた。
昨夜から続いていた電波障害は収まり、様々なニュースの見出しが躍っている。
「殻木霊火の全国指名手配、取り消し。池袋警察署消失は別人物が犯人か」
「殻木霊火、行方不明で捜索中。火災事件から連絡取れず」
「火災現場の遺体、身元確認に相当な時間を要する見込み」
「ギガントマキア被害、集計難航」
「中部地方湾岸都市、未曾有の被害か、原因不明の大爆発」
「隕石落下地点の神野区周辺、壊滅的被害。大物敵逮捕も詳細不明」
「警察庁襲撃事件発生、新たな敵組織によるものか。治安維持に全力と警視総監発表」
目が滑る。
手が震える。
体力も精神力もとうに尽きたのに、眠気だけが来ない。
「…………………………」
限界だった。
大被害に心を痛めた。市民からの理不尽な非難に摩耗した。巨人との戦いでは我が身を削った。
警察にも大人にも絶望した。火災現場では一度折れた。不眠不休の救助活動も慰めにはならなかった。
殺し屋にまで狙われた。警察に突き出しても意味が無いと思ったが、ちゃんと引き渡した。
昨日まで隣にいた少女は帰ってこなかった。最後まで、あの悪臭が漂うブルーシートの下は確認できなかった。
悲しみだとか後悔だとか怒りだとか、そんな当たり前の感情も出てこなかった。
胸の内に大きな穴が空いたようだった。何もないから、何も感じなかった。
壊れたビルの一階。
元は小児科かなにかの待合室だったのだろうか。
朝の光が割れた窓ガラスの破片に反射し、宝石のように煌いている。
壁には可愛らしい動物のイラストが描かれて、隅には子供向けの絵本が積まれている。
待合椅子が整然と並んでおり、受付カウンターの上には半分記入された問診票が置き去りにされている。
天井から吊るされた可愛らしいモビールが割れた窓から入る風に揺られて静かに揺れていた。
ひっきりなしに入ってくる連絡に、義務感だけでメッセージを返す。
着信も来ていたが、電話は出来そうになかった。
誰もが霊火を心配していたが、”分からない”としか言えなかった。
「あ」
力の抜けた指先から、端末が床に落ちる。
鈍い音を立てる端末をただ虚ろな目で見つめていた。
拾う気力すら出てこなかった。
指先を自身の銀の首輪に伸ばして、艶消しされた金属の表面をゆっくりと撫でる。
「……………………………………………………」
俯いて、じっとしていた。
何かを考えようとしても頭の中には霧がかかり、心は別の場所に置き忘れてきたみたいだった。
――――――――
かつん、という硬い足音が響いた。
「っ!?」
緑谷のぼやけた意識が、極限の緊張ですぐさま明瞭になっていく。
何しろ殺し屋に狙われてからまだ6時間も経っていないのだ。気を抜くことはそのまま死に直結する。
その人物は、割れたガラスをローファーで踏み砕きながら壊れた病院に踏み込んできた。
滅法小柄な人影を視界に入れた瞬間、緑谷は呻くように呟いていた。
「れ………い…か……さん?」
「やあっと見つけた。ん、お互いに大きな怪我はないようで何より。……私の方は、今回ばかりは死ぬかと思ったけれど」
高く澄んだ少女の声に、やや毒が滲む言葉遣い。
少し右脚を庇う歩き方に赤い瞳。恐ろしく整ったお人形系の顔立ちに華奢な体つき。
何があっても見間違うはずはない。誰かの変装なんて絶対にありえない。
そんな少女は緑谷を見て、不思議そうに首を傾げた。
「……何さ。幽霊でも見たような顔をして」
どうしてとかどうやってとか、そういう思考よりも先に大きな波があった。
血や粉塵で全身汚れた緑谷はよたよたと身を起こすと、そろそろと前に歩き出した。
「警察署にいたらいきなり襲撃されてね、
「ううえうあ、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
「何だどうした何があったの!?!? え、私どういう枠だったのこれ!?!? 死んだと思われてた!?!?」
いきなり抱き締められて霊火は最初驚き、それから罪悪感を隠すため目を閉じた。
逞しい両腕と胸板の間に強い力で閉じ込められて抜け出せない少女だが、大人しく右腕を少年の背中に回して体重を預けてしまう。
「……ごめんね。心配かけちゃったね。…………………………もう、その泣き虫は直さなきゃダメだよ?」
「良かった。良かった……!!! お別れも言えなかったのに、もう二度と会えないって……!!!」
細くて柔らかい体が壊れてしまいそうなほど強く、少年は腕に力を込めていく。
……嘘つきも嘘つき。緑谷出久狙いの暗殺の依頼者。つまり危険な狙撃手3人組を同じ仲介人を通して少年にぶつけて撃破した犯罪教唆犯は、困ったように身を縮めた。
震える少年の背中をポンポンと叩くが、その仕草はぎこちない。霊火もどう対応すれば分かっていないのだ。
緑谷は感情をせき止める栓が壊れてしまったかのように、次々と言葉を吐き出し続ける。
「なんだよ”個性”の反動って……!!! 寿命の話だって……!!! なんでそんな大切な事を教えてくれなかったんだ……!!!」
「ごめんって……まあ寿命の話に関しては『治癒』を使えない程生命力が弱いって時点で何となく察してたんじゃ」
「言ってくれないと分からないよ!!!!!!!!」
結構ちゃんと怒られてしまうが、口達者な霊火にしては珍しく言われるがままだった。
少女は抱き締められている状態から抜け出そうと若干の努力はしてみるが、腕力の絶望的な差を実感してすぐに断念。
大人しくじっとしていると、密着した身体と体温で、こちらの緊張も少しずつ溶けていく。
……これでいて霊火も結構気を張っていたらしい。
一気に精神状態が弛緩していく。
「”個性”だって!!! 何でこれまで言ってくれなかったの!?!? 教えていてくれれば僕だって……霊火さんにあんなこと……!!! 雄英に残って欲しいなんて自分勝手を……」
「……そう言われると思ったから、教えなかったの」
「でも……!!!」
「……だって、貴方の傍に居たかったから……正直こんなに心配されるとは思わな……あ、あれ?」
ついに少女の剥き出しの感情がこぼれて、言葉が不安定に揺れた。
霊火自身、頬を伝う温もりで初めて自分が情動を抑えられなくなっている事に気が付いて、ちょっとびっくりした顔をする。
慌てて涙を拭って気持ちを取り繕うとするが、その前に更に強く抱き締められてそれすら叶わなかった。
ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、物凄く焦った顔の少女は、ただ震えていた。
「や、やだな……なんで……おかしいな」
不器用な少女は、自分が何で泣いているのかも良くわかっていなかった。
ただ必死に感情を押し殺そうとするが、その拙い試みは無意味に終わった。
少女が急に泣き出されてかなり動揺した緑谷は、恐る恐るといった感じで腕の中に問いかける。
「ど、どうしたの……?」
「わ……わかんない……? なんで……? も、もしかして私、怖かったのかなあ……?」
多分。
生まれて初めてだったのだ。
自分の生存を喜んで、恥も感情を隠さずに泣いてくれる誰か。
極端に逸脱した異才は、幼いころから医者や教師にすらも気味悪がられて、見える物がまるで違う故に心を通じた友人にも恵まれなかった。
常に孤独の中を歩いてきた霊火は、何を成し遂げても誰にも評価されず、失敗は自分の脚で乗り越えるしかなかった。
そんな霊火にとって、自分を本心から心配してくれる存在というのはあまりにも希少だったのだ。
もう抑えきれなかった。
いくら平気な顔をしていても、左手を失って、ギガントマキアに追われて、自分の顔が分からなくなって、警察を敵に回して、『異能解放軍』と手を組んで、ホークスと戦って。
なんで霊火だけ、人生に一度でも十分すぎるほど怖い思いを、何度も経験させられるんだろう。こんなの不公平だ。
両親に見つけてもらった迷子の子どものように大泣きする霊火を、緑谷出久はぎこちなく受け止めた。
「……ごめんね霊火さん。もう大丈夫だから……ね?」
「もうやだよ……どうして私ばっかり……私だけこんな目に……!!!」
凶悪な天才や、世界を達観した怪物など最初からどこにもいなかった。
ただ世界の重さに圧し潰された、等身大の少女がいるだけだった。
「わ、私だって……!!!!!!!!」
殻木霊火はもう止められない。
どろどろの、醜く生々しい本音が溢れ出す。
「
「霊火さん……」
「一生懸命色んなことを考えて、具体的な手段を死ぬ思いで構築して!!! だけど皆は馬鹿過ぎて私の事何にも理解してくれなくて!!! 私が数字の計算で正しい答えを導き出しても認めてもらえるかは話が別で、最短の道と最速の方法を提示しても皆が眉をひそめて陰口を叩く……!! 『倫理的に許容できない』とか『道徳的に受け入れられない』とかピーピー喚いて!!」
本気の言葉だった。
これまでとにかく人に恵まれなかった少女の心の底が、生涯で初めて優しさに触れたことで、完全に抜けた。
本来ならばこれは、親や教師が担う役割だったのかもしれない。
「なーにが『倫理』だそんな話最初からしてない!! こう言う事をいう奴は揃いも揃って皆馬鹿!! 私なら10秒で証明できることに30年もかけて取り組んだ極限の馬鹿が、なんか成し遂げた顔して重役の椅子に座ってるの非効率の極み過ぎて本当に頭にくる……!! ぐずぐずぐずぐず地面を這いつくばって無意味に時間と資源リソースを食いつぶすことしか出来ないインテリ層が、いざ口を開けたら『社会的に云々』って言うだけ!?!? せめて数字で勝負してこいやぶっ殺すぞ!!」
「…………………………」
「なんで私がこんな思いをしなくちゃいけないの……!!
ありふれた感性にありふれた性格でありながら、人間の枠から外れた異形のギフテッドでもある少女は、その短い人生であまりにも多くの物を諦めてきた。
歪んで壊れて元に戻らなくなった少女のドロドロの怨嗟はとどまることを知らない。緑谷も、それをただ聞いていた。
「私だって……
それを言うのだけは、互いにあまりに残酷だったから。
最後の願いだけは心の中に抑え込んだ。
自分の胸に顔を埋めて黙り込んでしまう少女を抱き寄せて、少年は掌で背中をさする。
……緑谷出久は、殻木霊火がこういう普通の女の子だって言う事を知っていたはずだ。だがここまで分かりやすく弱音を曝け出す霊火は、これまで見たことが無かった。
話している内容自体には理解の及ばない事はあったが、きっと霊火は緑谷の想像もしないような出来事をたくさん経験してきたのだろう。それぐらいは分かる。
「……大丈夫だよ」
緑谷出久は無”個性”だった。
霊火のような”持ちすぎた者”の苦労とは縁遠い生活を送ってきたからこそ、分かることがある。
この世の中は平均値から外れたものに厳しい。多分”欠落”していても”過剰”であっても、感じる孤独感や不安は同じなのだ。
だからきっとこれは成長だ。
あの人間不信を極めた少女が、その素顔を見せて泣いてくれた。
この信頼には、応えるべきだ。
だから。
「大丈夫だよ、霊火さん」
必死に嗚咽を堪えようとして失敗し続ける寂しがりやの少女を抱き締めて、緑谷出久は言う。
そして。
決して霊火の味方にはなれない少年は、ついに言ってしまった。
――――――――
「