浅い呼吸を繰り返す緑谷、固く目を閉じるジェントル、口元をハンカチで覆うラブラバ。
三者三様の拒絶反応を示す仲間たちを一瞥し、霊火は死体だらけの守衛室に躊躇なく踏み入った。
肺腑に絡みつくような甘い腐臭。それに眉一つ動かさず、霊火は硬直する三人に背を向けたまま、ひらひらと手を振って制止をかける。
「入ってこない。吸い込まない。そして何より見ないように!! ――壁の一点だけ見て呼吸浅く。いいね?」
少女は肩掛けバッグからフィルタマスクとニトリル手袋を取り出す。実を言うとデータセンター内が死体だらけという展開は想定済みだった。
ぱちん、と指先で手袋を鳴らし、”個性”で鬼火を点した。
不吉な光が、埃の帯と飛沫の痕跡だけを浮かび上がらせる。
まず、霊火は全景を把握する。
カウンターの内側は、三面を壁に囲まれた四角い部屋だ。
転がる死体は二十体以上。そのほとんどが、壁際かカウンターに「貼り付けられた」ように不自然な姿勢で倒れている。誰も武器を抜いておらずベルトのロックも閉じたままだ。
つまり、迎撃の暇すら与えられなかったということだ。
床の白いタイルはところどころ波打つようにうねり、継ぎ目の目地が割れている。割れ目は入口から壁面へ向けて扇形――圧力波、あるいは吹き戻し。方向がはっきりしている。足元に染みた液がぬるりと靴底に貼り付く。
壁パネルには斑点状のひび割れ。熱も煤もなく、火器の痕跡はない。
霊火は最も近い死体のそばに膝をつき、揺らめく”鬼火”をかざした。
皮膚は斑に緑変し、腹部は不自然に膨満していた。頬から耳にかけて大理石様の網目が浮かび、角膜は白く濁っている。口角に固着しているのは乾いた体液の筋。袖口の布には表皮剥離の兆候さえ見えた。
触れるまでもない。その肌がぬるりと『滑る』であろう感触が伝わり、少女は顔を顰めた。
死後硬直は消失済み。室温は外洋の夜で高湿、換気なし。天井には無数の蠅が鈍くぶつかり、幼虫の活性は低い。これは密閉環境ゆえだ。
「……四日? 幅を持たせても七十二~百二十時間。ここはおよそ『死後四日目』だね。ピースキーパー施行の直後……」
小さく呟くと、背後で三人が同時に喉を鳴らした。
霊火は慣れた様子で次の死体へ移動する。
衣服の繊維は一方向に寝ており、引きずられた痕跡。
背面ジャケットには格子状の押し痕――ガラス越しに叩きつけられたか、壁パネルを潰したか。
頭部には骨折線が浅く走るが、打撃器具の痕はない。代わりに額と頸部に広く点状の飛散――微細な液滴が霧のように付着している。入口側から壁側へ。面で叩いた衝撃。空気そのものが凶器となったようだ。
霊火は床に膝をつきタイルの継ぎ目を手袋越しの指でなぞった。
付着した黒ずみは完全に乾いており指で擦ると脆く崩れて粉になる。鉄錆特有の匂いはない。火薬臭やオゾン臭もごく僅かだ。
「銃じゃない。爆薬でもない。純粋な衝撃波? しかも一撃じゃない……三段階くらいの脈打つ圧か。これは”個性”だね」
視線で入口を示す。蝶番側の金属が外に反っている。内からではなく、外からの圧入。砕けたキーパネルとも符合する。
「……犯人は最低でも三人」
霊火はあっさりと断定した。
「一人は刃物系の”個性”。もう一人は、獣毛から見て増強系の異形。そして、この壁を穿った主犯格……厄介な衝撃波使い。手口はまず外から衝撃波でドアごと守衛を圧殺。生き残りが中に逃げ込んだところを、異形が仕留め、刃物使いがとどめを刺す。完璧な連携だね。相当慣れた手口だぞコイツら……」
そして机の陰には一体だけ異なる死体があった。
後頭部を腕で庇い、身を丸めた姿勢のまま。壁には叩きつけられていない。胸元は裂け、名札が外れている。
そして殴打痕に獣の爪痕。鳥の羽と獣毛――加害者側、異形系。どうやら殺人者側は自分の身元を隠す気はまるでないようだ。
「生かす意図はなしか……ここから先も生存者は見込めないね」
立ち上がり、霊火は手袋越しに指を鳴らした。乾いた音が響く。
死体見分に見せかけて『死因』の鬼火を回収した彼女は、腰に手を当てて呆れたように吐き捨てる。
「全体的に隠す気がゼロ。この犯人、警察やピスキユーザーの報復を恐れていない猛者って感じだ。そこらじゅうに指紋も髪の毛も残っているだろうな……」
ラブラバが震える声で絞り出した。
「監視カメラのデータ……残っているかしら……?」
ラブラバが震える声で絞り出した問いに、霊火は肩をすくめて答える。
「私には何とも。ローカルは死んでいても、サーバールームのSSDには残っているかもね。『ラブラバ』が気になるなら、後で好きに見るといい。――ああ、それと『ジェントル』」
霊火はちらりとジェントルに視線を送り、警告した。
「鼻で呼吸しないこと。甘い臭いが喉に張り付く」
少女は手袋を”個性”で消失させてパンパンと手を払う。
「ま、先にサーバールームを見に行こうか。監視カメラでもヒーローネット復旧でも目的地は一緒だからね」
そう言い残して霊火は親指で廊下の先を指した。
そして『検死官』は現場検証なんて茶番をしなくとも、既にこの惨劇の犯人の正体と目的をあっさりと特定している。
(『ナイン』……ねえ。結構な大物敵だけれど。最近見かけないと思ったら『ドクター』の所で強化実験を受けていたのか……)
割と厄介な事になっていた。
あの『ドクター』がまだあんな実験体を隠し持っていたとは。『AFO』の移植なんていう厄ネタを死柄木以外に抱えているなど夢にも思わなかった。彼は自分の実験体の面倒をもうちょっとしっかり見て欲しい。
『検死官』は何食わぬ顔で読み取れた情報を整理する。
殻木球大の死とラボの混乱に乗じて、ナインは逃げ出した。そして治安が崩壊した日本を好機と見て、自身の”個性”の欠陥を埋める治療系の”個性”を探し始めた。
そしてその狙いは、日本国民の”個性”情報が登録されたヒーローネットワーク。実に合理的だ。
(使うたびに細胞が壊死する『気象操作』ねえ。そのデメリットを踏み倒すなら……『細胞活性』あたりか……?)
つまり、ヒーローネットワークの停止は本来の目的ですらない。
日本国民の”個性”情報を抜き取った後、プロヒーローからの追跡を断つための、単なる「ついで」。
普通にクソ迷惑な話だった。
―――――――
データセンターの廊下は、停電によって完全な闇に沈んでいた。
非常灯の緑の光さえどこにもない。本来なら絶えず響いているはずの冷却ファンの重低音も止み、支配的な静寂の中で聞こえるのは自分たちの湿った靴音と、遠くで水滴が床を打つ神経質な反響音だけだった。
凶悪な腐敗臭が肌にまとわりつく。
霊火が点す鬼火が、ぼう、と不吉に浮かび上がる。
データセンターはそれほど大きな造りにはなっていなかった。ただし廊下はやけに広く、壁の中腹には配管とケーブルラックが走っている。
本来なら蛍光灯が等間隔に点っているはずだが、停電で一つ残らず死んでいた。
進むと、扉がいくつも並ぶ。
霊火がひょいと従業員向けの休憩室を覗くと、そこにあるのは白い合板のテーブルと安っぽいソファだった。壁掛けテレビは画面が砕け、ガラス片の中で従業員らしき遺体が三体も折り重なっていた。
湯沸かし器の給水タンクが横倒しになり、乾いたコーヒー粉が床に散っている。霊火でも不快になるレベルの残虐さだ。
「あ~……見ない方がいいね?」
霊火は顔色が悪い同行者三人に真顔で警告した。
さらに進むと、事務室だった。机に散らばる書類は血と埃で貼り付いている。
PCラックは全て電源が落ち、UPS用バッテリーのカバーが外れて転がっていた。
ここまで来ると銃を握ったまま絶命している者もいる。弾痕が複数内壁に残っているが、少なくとも加害者らしき死体は転がっていなかった。
奥へ行くほど抵抗の痕は濃くなる。配電室の扉は半ば吹き飛び、内部の機材は焦げていないのに外装だけがへしゃげている。
重たい鉛バッテリーの群れの間に、二体の作業員がもたれかかるように死んでいた。
分かりやすい血が流れていない。鼻や耳から黒ずんだ液が固まっている。
霊火は呆れ果てたように息を吐いた。
「襲撃者としてもかなり凶悪な部類だねこれ」
「こんな……こんな悲惨な……」
緑谷は神経質に首元のチョーカーに触れて、息を止めがちに歩く。
ジェントルは額の汗をハンカチで拭いながら「おお……」と乾いた声を漏らし、ラブラバは必死に視線を下げ、壁だけを見てついていった。
そして最奥、サーバールーム手前の通路。
死体が通路を塞ぐほどに積み上がっていた。床には血と冷却液が混じり、ケーブルを伝って滴り落ちている。
壁は金属パネル、床は制振タイル。普段なら絶えず風が流れ、ブロワーの低音が響いているはずの場所だが、今は湿り気を含んだ強い死臭が重く沈殿していた。
黒い液が床に広がり、ケーブルに染みてまだらに乾き、靴底にぬるりと貼りついた。
「……なあんだ、意外と破壊されてないね。良かった良かった、サーバーを物理的に大破壊されてたら復旧できない所だった」
「…………私に任せてジェントル。ネットワークは私が復旧してみせるわ」
ラブラバは極めて気分が悪そうだったが、それでも一歩前に踏み出した。
相方にそっと寄り添うジェントルを置いて、霊火と緑谷は先に進む。
鬼火の光に照らされるたび、死体の影が壁に踊る。『死因』の光源はあまり人の精神にいい物ではないため、余計に怖さが増している気がするのはご愛敬だ。
緑谷が小さく声を出す。
「……誰も、いなそうだね」
「まともな神経をしていればこの死体だらけのサーバールームで待ち伏せはしないでしょ。ここで寝泊まりなんかした日には死体由来の感染症で大変な事になりそうだし……」
少なくとも、施設内には霊火たち以外に生きた人間はいないらしい。
『ナイン』は、このデータセンターの従業員を虐殺してネットワークから日本国民の”個性”情報を抜いた後、すぐに撤退したようだ。
……ここまでデータセンターの人的被害を派手に広げる必要があったのかは霊火としても相当疑問だが、”鬼火”の情報によると『ナイン』は『ドクター』の想定よりもかなり早めに生命維持装置から出てしまったのが影響しているらしい。
つまり、『ナイン』は壮絶な体調不良らしい。だからこそ『細胞活性』を手に入れる事を相当焦っているそうだ。
襲撃に加減が効いていないのはその辺が原因と考えるのが自然だろう。
この調子だと、ヒーローネットワークが落ちているのはそれ自体が目的なのではなく、『ナイン』が逃亡する際にプロヒーローに追いかけられないようにするためについでにと言った具合なのだろう。
普通に迷惑な話だった。
「ま、犯人の正体は取り合えずいいや。取り合えずデータが復旧できると良いけれど……」
「『ジェントル』に『ラブラバ』、いい人たちだね?」
「あ~……善人ではあると思うよ?」
そんな間の抜けた会話をしていた時だった。
サーバーが収められた金属ラックの向こう側から、カチリと冷たい金属が嵌まるような、乾いた小音が響いた。
……思えば、霊火が想定していた可能性は二つあった。
一つは『殺人者が無事に目的を達成して別の場所に逃亡している』可能性。
一つは『殺人者が暗がりの中で潜伏している』可能性。
しかし、霊火はもう一つの基本的な可能性を想定するべきだったのだ。
『
異変に気が付いた緑谷が咄嗟に霊火を抱き締め、フロアに押し倒して身を伏せた。
「……ッ、マズ――!」
言葉が終わるより早く、サーバーラックが閃光に包まれた。
――――――――
鼓膜が破れるかと思った。
更に、何故か視界の右半分が真っ赤に弾ける。
サーバールームに仕掛けられた爆弾が炸裂し、咆哮のような爆発が部屋を飲み込む。
鋭い鉄片とガラスが四方へ叩きつけられ火と衝撃波が津波のように押し寄せる中、緑谷に押し倒される霊火は咄嗟に右手から氷の爆風を造り出して炎熱の相殺を狙う。
「霊火さん!!!!!!」
「ッ……!!」
少女は指を鳴らしてデータセンターの分厚い壁をぶち抜き、緑谷は即座に霊火を捕まえたまま建物外に脱出。
屋外に出た霊火はすぐ、今空けた壁の穴から爆発したサーバールーム内に複数の”鬼火”を投げ込んだ。
バキバキバキィ!!!! とガラスが割れるような音をたててサーバー群が凍結される。一応あれで従来の型の爆弾は爆発しないはずだが……。
「ゥ……!!!」
「霊火さん!!!!!! 大丈夫、僕がそばにいるからね!!!!!!」
鮮烈な痛覚が頭の奥を突き抜ける。
霊火の意識とは無関係に地面に伸びた両足が不自然に痙攣する。
数十秒かけて霊火は無理やり痛みから意識を引き離し、かすれた声で聞いた。
「私……どうなってる……?」
「どうって……これから、少しだけ傷口に触れるね?」
「…………………………」
霊火はそっと緑谷の方を見ようとした。
右側の世界が赤く、黒く滲んでいた。霊火は背中を這いずる悪寒を必死に無視しながら、恐る恐る聞いた。
「…………………………正直に、答えて。私はどうなってる……?」
「……っ!!!!!! 大丈夫、大丈夫だよ霊火さん!」
緑谷の声が明確に上ずった。
必死に冷静さを装おうとしているのが、逆に彼の動揺を伝えてきた。
「右目に、何かの破片が……でも浅い、きっと浅いから! 僕、救急セット持ってる。今すぐ消毒すれば……!」
早口にまくし立てる緑谷に、霊火は途切れがちな声で告げた。
「……頼むから、”首輪”の……アシストに……従って……ね?」
霊火の場合、自分の顔の傷は自分で分からない。
傷口の感覚として火傷はしていない気がする。爆発時に霊火のすぐ近くにいた緑谷にも火傷痕は無かった。
しかし緑谷の反応から察するに、おそらく右目の付近は相当酷い事になっているらしい。
「繋がった……!!! 繋がったわ二人とも!!! ネットワークは復旧した!!!」
「大丈夫か二人とも!!!!!! 酷い爆発があったが!?!?!?」
霊火の率直な感想としては、ヒーローネットワークが復活したのが一番の驚愕ポイントだった。
『ラブラバ』のハッキング能力は霊火の知る外にあるとしか言いようがないが……。
「痛……!!!!!!」
「ちょ、君!?!?!? 大丈夫かねその傷は……!?!?!? 早く病院に……」
「病院なんてどこも動いていないわジェントル!!!!!! ど、どうすれば……」
「大丈夫だよ霊火さん!!!!!! 必ず僕が助けるからね!!!!!!」
……実は”首輪”の指示に従えば大抵の外科手術は可能なのだが、それでも手術器具や手術環境を整えるのはそう簡単ではないだろう。
(……あんまり大きな傷が残らなければいいけれどなあ……。ヤダヤダ、女の子だって言うのに身体に消えない傷が付くばかりだ……。まあワンチャンこれで死にそうだけれどなあ……)
まあ緑谷が助けてくれるって言うのだから、きっと助かるのだろう。
傷口から命に近い何かが流れ出るのを感じながら、霊火は目を閉じた。
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