2016年十月
リアル世界では『こちかめ』が終わった頃
少年ジャックの編集長 佐々木尚(ささきひさし)にとって、新妻エイジは自分の代で見い出し育んだ誇りある作家だ。
雪を漕いで彼の実家に訪ねて行った時の事は忘れない。蒙古斑も消えやらぬような幼い顔と声で、「嫌いな連載をやめさせる権限」などと言い出した時は、厄介な子供だと思った。
年月を経てそれが、自分が連載を終わらせたい時の布石だと知った時、更に舌を巻いた。だが同時に少しの小気味良さも感じている。どうやら自分もいつからかこの天才に魅了されているようだ。
だからなのかつい、天才といえど生身の人間である事を失念していた。
新妻エイジの原稿が滞っている。
デビュー時からの気心知れた担当の雄二郎が途方に暮れているのだから、尋常では無い。とうとう佐々木自ら出張って行く事になった。
雄二郎とともにマンションの玄関を入って佐々木は息を呑んだ。
いつもは玩具箱をひっくり返したように雑然と、インクの匂い、音楽とペンの音と、エネルギー溢れる部屋だったのに、今はシンと静まり返って廃屋のようだ。
そして新妻エイジは机の前に居なかった。そんな事初めてだ。
「新妻先生、編集長がいらしたよ」
寝癖の赤毛は、客間の床に座り込んでいた。
「あぁ、編集長さま、こんにちはぁ……」
元々痩せ気味な背中がさらに骨張って、声もボソボソと抑揚がない。
「新妻先生、体調は如何ですか」
正面の展示台から見下ろすやたらと立派なCROWのフィギュアに戸惑いながら、佐々木はやっと声を出せた。編集部の若者から話に聞いていたが、確かに凄まじい迫力の人形だ。
しかしこれではまるでここが聖堂で、エイジが偶像にひざまずく信者に見えてしまう。
「に、新妻先生、原稿の進捗は……」
「あぁはい、原稿、原稿デスね……執筆いたさなきゃ……」
雄二郎の声に、エイジはユラユラと立ち上がった。
「新妻先生、本当に体調は大丈夫なんですか。何だったら一度きちんと検査を受けられては? 然るべき医療機関をこちらで手配します」
佐々木が言うと、エイジは顔を上げて彼をじっと見た。目に光が無い。あのギラギラしていた光が。
「ありがとうございます、でも大丈夫ですぅ……」
「大丈夫では無いだろう!」
思わずエイジの両肩を掴んだ佐々木に、横の雄二郎も驚いた。編集長たる者、作家とは一線引いて常に威風堂々としていなければならないのに。
「本当に大丈夫ですょ……」
エイジがもう一度言い、佐々木はハッと手を引いた。
『医療機関』は肉体を診るのみを指していない。作家にとって
いや、佐々木以外の過去の編集長たちもおそらく知っていた筈なのだ。理解(わか)ろうとするかどうかの違いで。
「佐々木編集長様まで出向かせてしまって申し訳ないですぅ。ちゃんと描きます、描けますから心配しないで下さいィ……」
机に座って原稿に向かったエイジは、それから静かに下描きを滑らせ始めた。
「新妻先生、待機させていたアシスタントに連絡は」
「夕方からお願いします」
「了解しました」
後はもう原稿に集中したエイジは無言になった。いつもの「ドギャ――ン」は無かった。
***
ジャック編集部でどういう動きがあったのか知らないが、服部の言っていた事が少し本当になった。連載陣に対して、月に一度程度の目安で、予め休載を差し込んでもいいシステムが導入されたのだ。
亜城木夢叶の元にも、編集部から通達が来た。
「ギリギリ切羽詰まって落とすよりは、余裕を持って早い目に原稿を上げて貰う方が編集部的にも助かるからね。勿論休みたくない作家は休まなくてもいいんだよ」
電話口の向こうで服部は言った。
スタートダッシュをかけなければならない新連載や単行本が遅い少頁作品などは、確かに休みたくないだろう。
「うちはどうする?」
通話を切って、通達の書面を読み返しながら高木は真城を伺った。
「シュージンは休みたいんだろ?」
「俺に押し付けるなよ。主にお前のオーバーワークを防ぐのが目的なんだから。むしろこの機をチャンスと思えよ」
「チャンスって……」
「アニメ化を狙える作品を始めたいんだろ? 『PCP』がコンプライアンス的に難しいから」
「うん……」
「エイジみたいな二本連載は俺らにはさせられないって服部さんに否定されたけれど、『PCP』が無い号があってもいいって理屈なら、話が違って来るんじゃないか?」
「えぇ・・その空いた号に新連載を捩じ込むの? 本末転倒だって怒られそう」
「どっちみち反対されるんだから、服部さんが目玉をひんむいて捨て置けなくなるような面白いネームをぶち上げてから進言しようぜ」
「あ、うん……」
「どうした、反応悪いな?」
「いや、今までより大変になるし、シュージンは余裕が欲しいと思っていたから」
「余裕は欲しいよ。でも未だにアニメ化作品が無いのは俺だって悔しい」
「うん」
「ぐすぐすしてたら後発の新人に追い抜かれちまう。春に始まった和風の鬼退治の奴なんか、俺、背筋が寒くなったもん」
「あの第一話で主人公がやたらと説教されてた奴?」
「ああいう台詞回しで殴り付けるのは俺の十八番だったの。後発は次々出て来るし、ダークヒーローも目新しくなくなりそうだし、本当にうかうかしてらんないぞ」
「じゃ、ちょっとこの原案、見てくれる? まだ構想途中なんだけれど」
「おお?」
「ダークヒーローの裏表、ダブル主人公」
「へえ!」
***
休載ローテーション(休んでもいいシステム)は、主に長期連載の安定している作家が利用する事になったようだ。亜城木夢叶は様子見。
ファンも意外と騒がなかった。SNS等で読者に横の繋がりが生まれ、漫画家だって特別な超人ではなく生身の人間だという意識が共有されたからだろう(服部の分析)。
『+NATURAL(プラスナチュラル)』は一回休んだだけで、後は毎週掲載されている。
しかし
「なんか精彩に欠いているな」というのが高木の感想。
誌面の向こうに苦しさに喘ぐ作家が見えてしまうような原稿だった。
「原作が同じパターンの繰り返しだからなぁ。これじゃ幾らエイジだって詰むよ」
『+NATURAL』の原作者は、彼らの中学の同級生 秋名愛子。高木とはちょっとした因縁がある。
「確かに最初の面白さはないよね」
「エイジだからまだジャックに載せられるレベルに仕上げられてんだろ。巻頭争いが当たり前だった師匠がずっと巻末をうろうろしているなんて、俺は見ていられない」
「厳しいな、シュージン」
「同じ原作者として反面教師にしなきゃと思ってるだけだよ。作画を生かせない話しか描けないんじゃ……」
――ガチャリ。
玄関廊下側の扉が開いた。
一瞬ギクリとした高木だが、入って来たのは買い物袋を下げた妻のカヤだった。
「玄関で声を掛けたんだけど」
「あ、気付かなかった、ごめん」
カヤは部屋に入らず、気まずそうにドアを押さえて突っ立っている。
「お客さんだよ」
「え?」
「下で会ったから案内して来た」
玄関の暗がりで横を向いて俯いている女性。
「あ、秋名・・!」