サイフォンの火は絶妙のタイミングで落とされ、見事に澄んだ琥珀色の液体が満ちる。
「天才に振り回される凡人はいつの世も苦労する物です」
髭の支配人は、アポも無しで訪ねて来たアフロ髪の編集者に嫌な顔一つせず、応接室に通してくれた。
「新妻エイジ君の動向は、こちらでは分かりかねますよ。雀々家の所を訪ねた時は、たまに彼女が話してくれますが」
言いながら、白地に青い鱗模様のカップソーサーをしょぼくれた若者の前に置いてくれる。
「心配じゃないんですか」
「心配とは」
「その、掌中の珠みたいに育てた雀々家厘子さんに、悪い虫が付いたりするのが」
「新妻君は悪い虫なのですか」
「いえ、けしてそんな事は……」
「私も、厘子が装甲車のような車を運転せねばならない羽目に遭わされた時は、さすがに頭に血が上りましたが」
「そ、その節は……」
「新妻君に関しては、厘子が灯りをともして招き入れた相手ですから。私が四の五の言う事ではないのです」
意外そうな顔の雄二郎に、比羽守は冷めないうちにどうぞ、と珈琲を促す。
「あの子はね、自分できちんと選べるんですよ」
「信用していらっしゃるんですね」
「まあそういう事です、色んな意味で信用しています」
「??」
「貴方も新妻君を信用してあげたらどうです」
雄二郎は珈琲カップに視線を落として、顔をくしゃりと歪めた。
「僕ごとき凡人が掌握しきれるような才能じゃないんですよ、新妻エイジは。何を考えているかさっぱり分からないし、いつもこちらの予想の外を行く」
「心中お察し致します」
予想外に親身な支配人の声に、雄二郎は顔を上げた。
「私も凡人ですから。大きな才能を前に自分の凡庸さを思い知らされるばかりで」
「まさか、こんなに大きな画廊の支配人さんが?」
「ただ世襲で跡を継いだだけですよ。才能を見極める力すら危ういと、いまだに行きつ戻りつ精進の日々です」
「そ、それを言うなら僕なんかどうすりゃいいんです。平凡な家庭に生まれて就職先がたまたま出版社だっただけのペラいサラリーマンだ」
「それでも、新妻君が育った土台の中に、貴方の要素が何パーセントかは含まれていると自負しているでしょう?」
「そ、それは……」
髭の支配人は雄二郎をじっと見る。温度のある、穏やかな眼差しだ。
「自負しています……自負したいですよ。これでも結構身を削って捧げて来たんだ」
では自らを誇る事をお忘れなきよう、と締め括って、支配人は若者を送り出してくれた。
エイジの情報は何も得られずオッサンに禅問答みたいなのを喰らっただけだったが、雄二郎の気持ちは少しだけ楽になった。
***
ネーム提出日、エイジはけろりと自宅マンションの机に居た。
「ちょっと実家へ行って参りましたぁ」
「じ、実家……青森の……?」
やっぱり斜め上、顎が外れる雄二郎。
玄関にはリンゴ箱が山と積まれ、エイジはどこ吹く風で、受け取った秋名の原作からネーム起こしを始めている。手付きは高速で迷いが無く、何だか憑き物の落ちたような顔だ?
「イチゴ農園のFさんちで過ごして、その後、ず――っと考えていたです」
「F……さん?」
福田から、ある程度の事は聞いている。緘黙(かんもく)症の子供と亡くなった奥方の話。
「Fさん見ていて、ボクんちを思い出したです。ボクは自覚が無かったけれど、家族に一杯心配を掛けていたんだろうナって」
「ふ――ん、そう」俺だって心配していたんだぞ。
「ボク、全然喋ンない時期があったらしいです」
「ええっ!?」うそだろ?
「覚えていないんデスよね。ボクにとっては些細な事だったようです。ひたすら絵だけ描いていれば幸せだったデスから。でも親はやっぱり心配しますよネ」
「うん……」
「なのに何の強要もせずに、お絵描き帳を与え続けてくれました。好きな幼児番組を、膝に乗せて唄いながら見てくれました。
そういうのを思い募っていたらもう居ても立ってもいられなくなって、ウニモグ号でぷあ――って走って行っちゃったです。雄二郎さんが付けてくれたナビゲーションが役に立ちました。感謝感激でっス」
設置しておいてやって良かったよ。でないと今頃どこで路頭に迷っていたやら……
しかしこの男は、印税が入る度に結構な額を実家に振り込んでいなかったか?
「玄関周りの雪かきをして、きれたままだった電球を取り替えて、神棚の掃除して、凍み餅(しみもち)干して」
「…………」
「ウニモグで、山の酸っぱい温泉に連れってあげたデス。映画に出て来るみたいな車だって面白がってくれました」
「うん」
「お金を渡していただけでは満たせない物があったです。世の中、まだまだボクには分かっていない事が一杯です」
「うん、そうか、そうだな」
『+NATURAL』の連載終了が本決まりになったが、雄二郎はもう以前のような焦りは感じていなかった。
比羽守支配人を習って、自分に自信を持って新妻エイジを信頼する事にしたのだ。
エイジは、客間のCROW人形は相変わらず大事にしていたけれど、前で座り込んでいるような事はなくなった。
「この人形に何か説教された?」と聞こうとして、流石に馬鹿馬鹿しくてやめた。