宝珠画廊のオーナー支配人 比羽守にとって、新妻エイジは『懐かしさの込み上げる郷愁』だった。
山奥のあの家には、踏み込めそうで入れないセキュリティが仕掛けてある。
初対面で縁側まで通されたエイジは異例中の異例。イチゴ園のあの子供ですら何回も通ってようよう解除して貰ったのだ。
新妻エイジが
だが厘子は彼を庭へ招き入れた。
ならば凡人は黙って見守ろう。亡き親友 雀々家葦伐(すずやよしきり)の直感を常に信じていたように。
***
「ほら、また来ている」
二十三区内では珍しい積雪の夜。
彼好みに苦目に落とした珈琲を満足そうに味わいながら、雀々家葦伐は片眼に掛かる前髪を揺らして、画廊の表ウインドウを視線で指した。ちょっとした動作がいちいち気障なヤサ男だが、国営放送の幼児向け人形劇で活躍中の人気人形作家だ。
比羽守がそちらを見ると、店内からの明かりに照らされて、小さい子供が腐れ雪の路地にしゃがんでいた。
「ああ、僕もたまに見掛ける」
「何処の子か知ってる?」
「知らない。歓楽街の裏アパートの子だろう、多分」
「それっぽいね」
華やかなネオンの裏には別の顔がある。例えば母親が
この街では珍しい事ではなく、五つ六つの子供が巣から落ちた雛鳥のようにその辺をウロウロしていたって、気に止める者はいない。
見るからに手を掛けられていない髪と服装の女の子。
世襲で継がされたばかりの画廊経営に苦労している比羽守だが、世の中の分布図では自分は恵まれた地点に居るのだろうと思った。
そんな事を考えていると、雀々家がフフっと鼻を鳴らした。
「何だ?」
「ウインドゥに飾ってある、一番端の鷺ノ宮(さぎのみや)の木彫」
「あぁ、君が目に掛けている?」
「あれな、奴の出世作になりそうだ」
「そうなのか?」
「あの子供がジッと見ている」
「は?」
「気付かなかったのか? あの子はいつも一つの作品しか見ていない。そしてその作品や作者は直後に必ず成功するんだ」
「はは、まさか」
「この何ヵ月かずっとそうだぞ。お前本当に気付かなかったのか」
「…………」
まさかただの偶然だろ?
しかし「彼の作った人形は夜中にスタジオで喋り出す」なんて噂される鬼才 雀々家葦伐がそう言うと、まことしやかに聞こえてしまう。
比羽守は、雀々家が居ない時も子供の動向を注視してみた。
子供は連日来る時もあれば長く空く事もあった。気まぐれな小鳥のようだった。相変わらず汚れた顔で目だけ輝かせて、確かに一つの作品だけをジッと見つめるのだ。
比羽守だって幼い頃から親に仕込まれて目利きには自信がある。だがそれは法則と論理に基づく物で、幼馴染みの雀々家のような鋭い感性は自分には望めないと、早くに諦観していた。
それでも画廊を継いでしまった以上、作家と作品に向き合う責任が生じる。画廊が傾いても自分の責任。凡庸な感性しか持ち合わせない自分の責任。
だから憧れる、天が与えた人智を越える才覚(ギフト)に。
子供の凝視する作品は、その後必ず賞を獲ったり大パトロンに気に入られたりした。
そういう作品がウィンドゥに無い時は、子供は素通りする事も分かった。
(間違いない……)
「最近、羽振りがいいんじゃない?」
雀々家が端正な顔に笑みを浮かべて、大きくリフォームされたウィンドウを見やった。一年前と同じく雪が積もり、今日は視界を塞ぐ程のボタン雪も降っている。
「お前のお陰だ」
「あの子供のお陰なんじゃないの?」
「…………」
「たまにはお菓子でもあげればいいのに」
「野生の小鳥に手出しをしたら来なくなってしまうかもと脅したのはお前だろ」
「言ったっけ」
「お前な」
「お、噂をすれば・・・・ぇ、えっ・・!!」
二人同時に立ち上がった。
ウインドゥの向こうに現れた子供の、頭の右半分の髪が皮膚ごと垂れ下がり赤黒く濡れた顔を覆っていた。
男達が外へ飛び出しても子供は声も出さないで、木彫のように突っ立ったままだった。
「何でもっと早く動いてやらなかったのか」
病院の長椅子で比羽守は頭を抱えた。
いつかこうなる事は予測出来た筈なのに。
薬で錯乱した母親に煮え湯を浴びせられるのが、あの子供にとっての現実。
現実(それ)を見ないでふわふわと幻想だけを抱いていたのが自分。
雀々家は横で口を結んで、何もない空間をジッと睨んでいた。
「俺、結婚するから」
雀々家が軽く言ったのは、入院している子供の容態が安定した頃だった。
「え、はあ、それはおめでとう……」
「籍を入れるだけだから。そんであの子の親権取るから、入院費とか全部俺持ちな」
「ぇ? え! ええっ!!」
いやいや待って、あの子の母親と結婚って事?
「こ、公判中だろ?」
「公判中でも籍は入れられるみたいだぞ。家族になっちまった方が面会やら何やら便利だし」
「い、いつ情が湧いたんだ、あんな女」
「湧く訳ねぇだろ。正式にあの子の父親になれたら服役中に離婚するわ」
「…………」
口をパクパクさせる比羽守に、雀々家は朗々と喋り続ける。
「養子縁組みとか考えたんだけどな、俺もお前も花の独り身だし、同居歴も血縁も無い幼女相手だとほぼ審査通らねぇらしい。まぁ当たり前か。
じゃあ嫁さんでも貰うか~って考えて、だったらいっそこっちの方が手っ取り早くネ? って閃いたの。俺って天才?
あ、弁護士立ち会いでまっとうに手続きしたから、ダークな事はやってねぇぞ。朱鷺津(ときづ)さんトコの超有能弁護士紹介して貰ったんで、会った時にお礼言っといてな」
「とき・・!」
朱鷺津家は宝珠画廊の大パトロンだ。旧家で財閥でこの国の裏の大物。軽々しくそんな所へ頼みに行かないで欲しいっ。
真っ青になる比羽守に、雀々家は全然悪びれない様子でゴメンと言った。
「今後一切あの子供に接近しないようにって、離婚の財産分配名目でそれなりの手切れ金を提示してやったらあの女、ヘラリと笑いやがった。弁護士居なかったらパイプ椅子でぶん殴ったかもしれん」
「いやそれは絶対にやめてくれ。しかしいつの間にそんな……言ってくれれば協力したのに……」
「言ったらお前、籍を汚すのは自分がやるってしゃしゃり出るだろ。身内に薬物犯罪者を作るなんて国営放送の仕事が出来なくなるだろとか、要らん心配して」
「…………」
まさにその通りなのだが。
「やだよ、これであの子は俺だけのモンだ」
やっている事と台詞の表面だけ聞くととんでもない奴だが、長年の付き合いの比羽守には分かる。
彼は、自分が余計な事を言ったせいで、比羽守が子供に手出ししなかった事を悔いているのだ。そうでなければ比羽守の性格なら、美術品を眺める子供に声を掛け、菓子の一つも与えただろう。会話をして、子供の状況が思うより酷い物だと早くに気付けた筈だった……と。
・・そうですね、1990年代のいつか・・ぐらいの回想です